自由の心構え

昨日は、埼玉にある自由の森学園の学園祭に参加する機会がありました。子ども達がそれぞれに日頃の部活動の成果を発表したり、自分を表現する場があるのですが大変ユニークでそれぞれに自分らしさを発揮して愉しんでいる様子に好きなことをやっていくことの豊かさを再確認しました。

昔から「好きこそものの上手なれ」という諺があります。好きなことは自ら熱中しますから上達も早いのです。自分からやりたいと思ったことに主体的に専念できる人は、ぐんぐん実力も伸びて次第にそのものと一体になっていきます。嫌々ながらやっていては決して何事も上達しないという故事です。

自由というものを満喫するというのは、自らの中に精神的自由があってこそ本質的な自由を得られるのかもしれません。

昨日は学校内を見学する中で、子どもが書いている標語のようなものが掲げてあるのを発見しました。 そこには「心構え2か条」とし、こう書かれていました。一つ目は「一生懸命に」、そして二つ目は「自分の選択に責任を持つ」と。子ども達が自分の自由を獲得するために、大切な要素を書き出したものでしょうが自由を学ぶ校風があることを子どもたちの実践する姿によって実感できます。

そもそも精神的自由は、やらされているという受け身の態度では得られることはありません。何でもそうですが自分でやっている人だけが同じ体験をしてもそこから大切なことに気づき、その人生を味わい自らを磨き、その魂を高めていくことができます。

しかし怠惰に流されてしまえば、本来の人生の目的も忘れ休憩しているうちにあっという間に人生の時は過ぎ去っていくかもしれません。

一度きりの今世の人生をどれだけ本気だったかは、その人の主体性や自由の精神に左右されていくものです。自分が初心を欠かさずに実践すると決めて、自分の初心に取り組むものたちはみんな自由を持ちます。そこに「真摯さ」というものがありますが、自分に正直に取り組むからこそその人が光り輝いていくのでしょう。

自由の場が自然の姿そのものであり、それは本来の生き物の「いのち輝き成長する」キッカケを引き出していきます。

日々は選択の連続ですが、過去の自分の選択が今の世界になっていきます。そういう意味では、選択をする自由とはとても厳しいものですがそれが自らの足で歩んでいく実感そのものでもあります。

自分で決めた人生を歩めるよう、子ども達をどう見守り、どう信じるかは周りの大人たちの生き方が決めます。表面に出ているものの奥にある、あり方を子どもの自由に取り組む姿から学び直してみたいと思います。

理念と試練

人は誰しも新しいことに挑戦をすると決めれば同時に試練というものが訪れるものです。この試練とは何かといえば、成長するということです。今のままではなく、理想に近づこうとするならば当然そこには試練が待ち受けています。その試練に立ち向かい、それを乗り越えるときその人は成長したと言えると思います。

しかしその試練を避けては、試練からいつも逃げていたら成長が止まってしまいます。本来、目指している理想や理念があるのならそれに向かって片時も休まずに足を前に出して歩んで往く必要があります。自分の与えられた場所で人はそれぞれに試練がありますから、その試練を乗り越えて新たな自分に出会い続けていくのが人生の醍醐味のようにも思います。

理念というものは、その人が守りたい理想、または本質、言い換えれば志魂の声とも言えます。それを発してそれを信じるという実践は、常に物事が発生したときに判断基準や優先順位を理念に合わせて自分が守ると決めることになります。それを決めると決心したときからすでに試練ははじまっており、様々な出来事が発生したとしてもその時こそ「自分が試されている」とし、今まで安易に避けてきたものと向き合い、そこに自らで立ち向かい乗り越える勇気が必要になります。

この勇気は、信じるチカラのことであり試練を成長の善き機会機縁と捉えてピンチをチャンスにして福にしていく燃料になります。

気持ちがネガティブの時は、問題が起きるのを嫌がるものです。しかし気持ちがポジティブに転じていれば、問題が起きていることは自然治癒がはじまっているのかもしれないとし、いよいよ成長に転じているのだと信じて試練にじっと耐え忍び実践を積み重ねていけば時が次第に解決してその分、自分自身の信念もまた鍛えられていくように思います。

かのインド独立の父である、マハトマ・ガンジーにこういう言葉が遺っています。

「不幸は私たちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう。」

理念を発信するということは、それだけ世の中や自分の心に対して正直で居続けるということです。外側で様々な現象が発生したとしても、内側では不動の如く理念を守り続けるという強い意志と心の精進の継続が必要です。しかしそれは決して不幸なことではなく、有難い試練をいただいているとし、「きっと善いことになる兆しだ」と「天命を信じ人事を盡す」と転じていければ視野も広がり感謝の心で歩ませていただけるのかもしれません。

そんな試練の時、人間は寄り添って見守ってくれる存在があることで私たちはその燃料とも言える「勇気」を与えられます。見守るを学び直し実践するというのは、須らくこの理念と試練の中にこそあるのかもしれません。

見守り見守られる間に在る美しい魂の邂逅を味わっていきたいと思います。

清富の働き方

今の時代は豊かさの中で心が貧しくなってきていると感じることが多いと言います。それは暮らしの中にも観えてきます。住まいにおいても単に寝れればいいとし、食べ物においてもお腹が満たせればいい、その他、服装も同じ制服であればいいというようにそのものを愉しむよりもビジネスや消費に不必要なものはいらないような生活スタイルが広がっています。

その中で人は次第に幸福感というものが薄れているように思います。お金は膨大にあっても貧しい人もいれば、お金がそんなになくても豊かな人がいます。これは生き方や心の持ち方、その人の人格や徳なども関係し、昔なら清貧といって慎ましく暮らしていた人が美しいとされていますが今の時代は清富といって物があっても豊かである人が清々しいように感じます。

イエローハットの鍵山秀三郎さんは、掃除道で有名ですがその発言の節々には非常な謙虚さを感じます。この清富の考え方について参考になるところがあり紹介します。

「トルストイの「戦争と平和」の一節に「いっさいの不幸せは不足から生ずるものではない。あり余るところから生ずるのだ」とあります。これはまさしく日本人の現状ではないでしょうか。だからといって、豊かさを捨てて貧乏になるということは、現実には不可能です。ですから豊かさを保ったままで謙虚になる道を探っていかなければなりません。

そのためには、自分の体や手足を使って実践を重ねることが、いちばんだと思います。自分の体を使った実践によって、私たちは人の労働を正しく評価できるようになります。実践していない人には、他人の労働は自然現象のように見えるらしく、正しい評価ができません。

たとえば、社員たちが職場をゴミだらけにして退社した後、深夜に清掃会社の人たちが来て掃除をします。翌朝、社員が出社したときには塵ひとつ落ちていないきれいな職場に戻っています。社員たちには、それがあたりまえの天然現象のように見えてしまうのです。そうした環境のもとで、人間はいとも簡単に傲慢になります。」(幸福への原点回帰)文屋

今の時代は、自分の手足や労働の汗をかかずに働くことばかりが働くことだと勘違いしています。頭でっかちにやっているばかりで、心も体も用いた労働ができないから感覚がおかしくなってきます。

本来、身のまわりに在るものすべては誰かの御蔭様で存在しているものです。それを感じるチカラというのは、自分も同じように取り組んで働いてみて実感するものです。それを私は「実践」といいます。心も体も用いて誰かの御役に立つために働いていこうとする生き方と働き方が一致した具体的行動こそ「実践」です。

その実践を怠り、頭と心を分けたり、仕事とプライベートを分けたりしていたら 実践することができなります。そして人が実践を怠るとき、傲慢になっていくように思います。実践はとても謙虚なもので、「させていただく」ものが実践です。自分が誰かの御役にたっている実感もまた実践をすることで感じるものです。

そしてこの実践をする人のことを「実践人」とし、この実践人こそが「清」つまりは清らかで清々しい本物の志事(仕事)に通じているように私には思います。だからこそ清掃もまた人が清らか=幸福になっていくということのように思います。

原点回帰というのは、本来の姿はどうだったかを思い出すということです。カグヤは実践が多い会社ですが、実践が多いというのはそれだけ清浄にしていくということでもあります。日々に清浄であることは、日々に正しく労働の価値を再認識していくということです。

世の中の流れに流されないように理念や初心に助けていただいていることを忘れず子どもたちのモデルになる様に、感謝のままに実践をさせていただきたいと思います。

王道~美しい魂~

「王道」という言葉があります。これは孟子が「徳を以て仁を行う者は王たらん」すなわち仁義の徳が善政となって流露するのが王道であると説いたことが有名です。言い換えれば、この王道とは原理原則のことであり、人としての道、大義のことです。

色々なリーダーはいますが、本物のリーダーとは時代、場所、国家、様々な違いや異なりなどもすべては関係がなくこの原理原則を実践するものこそがリーダーの本質とも言えます。

色々なリーダー論があり考え方も無数にありますが、その大本にある真の根本はこの王道のことです。この王道が実践できてはじめてリーダーはリーダーと呼べるものです。刷り込まれ本質もわからず、枝葉末節の派手な理論や仕組みにいくら長けて世の中の流行にのったとしても、この原理原則や王道を知らないし、やらないのではそんなリーダーは本来の意味でのリーダーではないと私は思います。能力がある人ばかりがもしもリーダーになってしまったらこの世から王道が薄れていくばかりです。

しかし古今、世の中には様々なことをいう人がいますが粛々と大義を実践している人は本当にごくわずかですが存在します。そういう大義の本質を学び直して、克己復礼し、仁に帰す人があるからこそこの世に王道が消えることはありません。

そういう日本のリーダーの一人に稲盛和夫さんがいます。生き方や働き方をはじめ、本来の人生の歩み方を様々な著書で紹介しています。今の時代は、粛々と実践して長い時間をかけて積み重ねて磨き上げて道を歩もうとするよりも簡単便利にエスカレーターやエレベーターに乗り込もうとする人たちばかりになっています。そういう時に、改めて自分の足で歩くことの大切さを後ろ姿で見せてくれる人がいることは本当に有難いことのように思います。そういう人物をどれだけ発掘して見直し、この世に輩出していくか、それがこの国の未来の姿であり教育の要であろうと思います。

稲盛和夫さんは西郷隆盛の座右「敬天愛人」を京セラの社是にしており、常に社員は原理原則に沿って王道を往くことを何よりも重んじる経営をしておられました。稲盛和夫さんの著書「人生の王道」(日経BP社)中に王道とは何かについて書かれている文章にとても共感するので紹介します。

『一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。それは、「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の先祖がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも、自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。

私は、心のあり方、考え方が、人生においていかに大切かということを、社員によく理解してもらいたいがために、次のような「人生の方程式」というものを考えました。(人生・仕事の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力)

そして、何よりも大切なのが考え方です。考え方とは人が生きる姿勢であり、哲学、思想、信念、あるいは人間の志、心がけといってもよいでしょう。』

ここで何より大事なのは「心がけ」だと言います。考え方こそが生きる姿勢であるから、その考え方が原理原則、つまり王道に則っているかというのが自然体の人生において中心であるということを言います。考え方が間違い心がけを忘れると、どんなに熱意と能力があってもそれは成就しないということです。

なぜならそもそもの「考え方」が、邪道や覇道になり徳というものの姿を見失うならば人の道から外れますから自然の摂理や王道そのものから離れてしまいます。それは大きな目で観て地球が常に回転し廻るように、そして土や火、水がとけ合い循環する様に、御縁や出会いの繋がりによって自然が生成するように、本来の原理原則は悠久の時を永遠の調和のままに道を歩み続けている存在です。そこの中にあって生き活かされる私たち人間だからこそ本来の姿から目を離さず、王道の実践をもって歩みを已まない生き方と働き方を一致させていくことが「本来の人の道」、つまりリーダーのリーダーたる由縁なのでしょう。

そして文章ではこう締めくくられます。

『人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、美しい魂をつくることにあり、人生とはそのように魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所なのだと私は思うのです』

・・・自らを磨き美しい魂をつくること。

美しい魂とは、生き方から出てくる王道の中にある原理原則の鑑です。

子ども達にどんな背中をみせていきたいか、それはこの美しい魂の中に存在します。王道を思う時、私たちの祖神、天照大神の八咫鏡のことを思い出しました。引き続き王道を志し、日々に精進していきたいと思います。

生き方を換える

人はそれぞれに生き方といった自分の習慣を持っています。今までどんな生き方をしてきたかがその人の生き様ですが、その生き様が働き方や生活の仕方、思考、行動のあらゆるものを決めているとも言えます。

自分がどのように行動するか、いわばそれは日々の行動パターンや思考パターンなどが習慣になりそれが生き方になっているということです。その習慣が身に付いてしまうと、自分の習慣に従って人生もつくられていくものです。

人生には、前進か後退しかなく中間はないという言葉があります。地球が廻るように日々は循環していますから止まれば下がり、歩めば進むだけですから確かにじっとしていることは後退になります。自分の生き方も同じで、そのままにしていたらそのうち時代に合わなくなったり周りの環境に順応しなくなっていくものです。

また場合によってはいつも悪循環になる人と、好循環になる人がいますがこれも生き方の癖、習慣が決めているとも言えます。例えば、何でも先延ばしにしたり、言い訳をしたり、迷ってばかりいたり、周りの目を気にしたり、比較や正解探し、自分の都合ばかりを優先したり我儘だったりする生き方は悪循環になることが多く、そのことから不自然なことの揺り戻しで苦労することがあります。そういう自分の悪循環の流れを断ち切るには、今までの習慣、生活習慣を変えていくしかありません。自分の生活習慣が変われば意識が変わり、意識が変われば人生が変わっていくからです。

基本的生活習慣を変えるというのは、今まで早起きできない人が早起きして朝練をしたり、遅刻ばかりする人が時間を厳守できるようにしたり、食べ過ぎを腹八分目で止めるようにしたりと、ちょっとした変化ですがこの生活習慣が変わることでその人の人生の癖もまた変化し生き方が変わっていきます。

生き方が変われば自ずから働き方も変わりますし、逆に働き方から変えていくことで生き方を変えることができるものです。それを分けて考えて、生き方はそのままでも仕事だけはなんとかやり過ごそうと思ってもその人の習慣が変わっているわけではありませんからその癖によってまた仕事にも影響が出てしまうものです。

人生は生き方と働き方の両輪をどう実践によって一致させていくか、それは人生そのものを本来の目指す理想や本来の目的といっ初心に近づけるために必要なことです。理想や初心がないのなら、習慣を変えてまで自分を変えようとはしなくてもいいのですが、今までの生き方がその理想や初心に反する習慣を身に着けてしまっているのならばそれを新たな習慣で上書きしていくしかありません。

習慣は第二の天性とも言いますが、習慣が変わらないのに自分の生き方や働き方、考え方や行動の仕方が変わっていくことはありません。習慣を変えるというのは、自分の生き方を見つめる一つのバロメーターです。習慣を変えることを恐れる人は、今までの生き方を変えることを恐れる人です。

変わろうと決めることがあったなら、それを実践に換えて粛々と習慣になるまで継続したものだけが新しい人生を手に入れるのかもしれません。習慣と向き合うには、自分のパターンを分析しそのパターンを見つめそのパターンを変えてみると今までとは異なった感覚に出会います。その異なった感覚を持ち続けてそれが普通になるまで遣りきることができればその人は変わります。違和感があるうちは、まだ受け容れていない証拠ですから当たり前になるまで実践できるかどうかが生き方を変えるキーポイントなのでしょう。

周りが合わせてくれないと嘆く前に、自分が実践により生き方を変えたどうかを見つめることが自分を変えて世界を変えていく方法なのかもしれません。子ども達のためにも、悪循環を改善し好循環になるような新たな実践と習慣に取り組んでいきたいと思います。

実践の本質~生き方と働き方の一致~

一般的に生き方と働き方というものを一致していくということは難しいことです。人は生き方と働き方を分けては、同じように様々なものを分けてしまいます。それは比較の概念と同じです。自分はそこまではできないと先に諦めてしまって、何もしなくなると生き方と働き方はさらに分かれてしまうものです。

そうなると自分の都合のよい方しかやらないというように「選ぶ」方を選択してしまいます。本来、自分の与えられている今に全身全霊を懸けて一筋に歩んでいけば天命に従い自ずから活路が見出していけるのでしょうが選んでいる時点で今を受け止められず未来や過去にばかりに執着し中途半端になってしまうことが多いのです。

だからこそ生き方と働き方を一致させる「実践」が必要なのですが、分かれてしまっている人は実践の意味もすぐにわかった気になるため実践もやろうとはしなくなります。実践した気になるということがもっとも恐ろしいことであり、実践して分かるものを実践しなくても分かった気になるというのは真理から遠ざかるもっとも大きな分岐点かもしれません。

森信三先生はこのように言います。

「人間は他との比較をやめてひたすら自己の職務に専念すれば、おのずからそこに一小天地が開けてくるものです。」

「自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。」

「自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということはある意味では価値のある仕事以上に意義がある。」

私の思う「来たものを選ばない」というのは、生き方と働き方を分けないという意味です。選ぶというのは、今与えられている順縁を愉しめず、天命に従わないという自己中心的な価値観で自他を分けてしまう生き方だからです。

そしてそうならないために「実践」はあります。すぐにわかれてしまうからこそ、実践によって分かれないようにするのです。「真理は現実の真っただ中にあり」という言葉通り、現場実践を遣り続けることで真理は存在できた状態になっているということです。

しかし実際は実践を怠ることで、真理が分かれてしまい自分の価値観の世界の中にどっぷりとつかってしまうと初心や本質に戻ることはなかなかできなくなります。そうならないために徹底した実践が必要になります。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたらもうだめなんだ。」

「できないというのは本当にする気がないからです。」

「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。」

実践する覚悟があってはじめて人は自分自身になり、自分らしくいられるように思います。自分らしいということは、実践を徹底して続けている自分がいるということです。実践しないということは、初心を忘れた状態でただ生きながらえているに等しいと思います。

最後に、森信三先生の自銘の句で終わります。

「学者にあらず 宗教者にあらず
はたまた 教育者にもあらず
ただ宿縁に導かれて
国民教育者の友として
この世の「生」を終えむ  信三 」

不尽と名を改め、徹底した生き方を貫いた人の背中に如何に「実践」を遣り続け徹底することが大切であるのかを教えられます。本来の教えとは、対面で理解するのではなく同じ方向を観ているその背中から学ぶものです。いつまでもやらない人は対面から抜け出さず、同じ方向を向くこともありません。実践を常に優先し、まず自分自身のことをしっかりと立てて周りを立てられるよう精進していきたいと思います。

 

点

先日、新潟にある「点塾」にて理念研修をしていただく御縁をいただきました。この点塾は、清水代表によると共同創始者である藤坂さんという方と一緒に「輝く点になろう、点をつくろう」それを点塾の理念の原点に据えて開いたリーダー育成の塾です。

「点」という字には深いこだわりがあり、すべては点からはじまる、そして点があるから線もでき面にもなる、その点が何よりも大切だということを教えてくださいました。

真っ新な紙に、点が入る姿を創造しましたがとてもワクワクする塾の名前だと改めてその哲学と思想の深淵に触れて理念に感動しました。

ここでは「教えない教育」を柱に、様々なワークショップやアクティビティ、その他の研修が行われます。これは私たちの実践する、「見守る保育」と通じていて、和の心と繋がっているように感じ終始居心地のよい場の中で、沢山の新たな気づきや発見をいただきました。

特に印象に遺ったのは、「和のファシリテーション」です。私たちはファシリテーターを「聴福人」と定義していますが、ここでは和のファシリテーションとはどのようなものかを再実感することができました。

日本の伝統文化のエッセンスを盛り込まれたり、さらに自然を上手く活用し、あるものを活かしながらそれぞれの表現を通して顕れたその人らしさを存分に楽しめ味わえる仕組みになっていました。

点が光るということがどういうことか、全体のシナリオを通じて清水代表の持つ人生観や生き方も感じられ、一人ひとりが輝く経営、リーダーシップはどういうものかということを再確認できました。

同じ理念を持つ方々との合同研修は大変有難く、御互いに貴重な気づきを交換できて学びが深まるだけではなく学びが高まっていく実感がありました。巡り合わせの仕合わせを実感しつつ、同じ志、同じ義憤を持つからこそ、道の大義を盡していくぞと心を新たに覚悟が深まる有難いお時間になったように思います。

生きる力はそれぞれの点の中に具わっている。しかしそれを活かすかどうかは、その人の生活の仕方、つまりは生き方の中にあるともいえます。教えられ詰め込まれた教育の中で減退した自然の本能をどう呼び覚まし、これからの激動期を乗り越える力を引き出していくか、子どもの可能性を信じて次世代が次の世の中で如何にいのちを輝かせていきていくことができるか。これはかの吉田松陰の松下村塾でも同じ理念下で塾生を育成し挑戦してきたことです。

この世に教育があるのは、いのちを輝かせていくチカラ添えを与えるためです。子ども達が光り輝く点になり、あの星々のように夜空に瞬き煌き美しく流れていくように私たちも引き続き理念の実践を強く発揮していきたいと思いました。

ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

=個々をどう輝かせるか、それが点塾

不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

和訳~本質を伝承する真心~

慈雲尊者は、神仏儒の中から共通するものを見出しそれを真心を用い「和」に翻訳した人物とも言えます。その上で何が大切であるのかを説き、垣根を超えてその本質を伝承された方のように思います。

雲伝神道には、その和から産み出された考え方が入っているように思います。どのように物事を解釈するかはその人自身ですが、かんながらの道に置いては自然に沿ってどれだけ謙虚に素直に物事を直感し、深く入るかで物事の観え方もまた異なってくるように思います。

先達が遺してくださった真心に触れると、どこを目指していけばよいのかが分かり心が安住するものです。その慈雲尊者は、神道の本質についてはこう言います。

「神道は一箇の赤心、君臣の大義のみなり。此の一箇の赤心、家に在りて孝なり。夫婦に在りて和なり。隣里朋友に交りて欺くなし。」(「神儒偶談」)

意訳ですが、(かんながらの道は自然一体の真心のことであり、人の道を盡すことです。このひとつの偉大な真心は、家にあっては孝行することです。そして夫婦なら仲睦まじく和み、友人においては誠実であることです。)とあります。

本来、親祖がどのような生き方を志してきたか、その道は隠れてはいても私たちの心身に伝承されているものです。その初心を何にするかが、道の姿であり、それは全ての人間においては同根であるものです。

そういうものに辿りつき、何を最も優先するかにおいて真心であるというのは何よりも天地自然の道理にかなっているように思います。どうしても自分の心を自分の我や価値観、もしくは考えもせず社會の考え方に迎合し本質を見失う中で心は次第に狭くなり迷い惑いも増大してくるものです。

しかしそういうものに縛られ、執らわれないようにと十善をなせというのでしょう。慈雲尊者はいいます、「天地をもつてわが心とせば、いたるところ安楽あり」と。天地のそのものを自分の心とするならば、あらゆることは安楽になるということです。真心のままにいることがもっとも自分を真心に近づけるということなのでしょう。自我妄執を捨て去るには、君臣の大義といった人格を磨いていくしかありません。

また「一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。」といいます。意訳ですが一度の無礼な言葉、一度の傲慢はすべて身から出る錆の兆しだと気を付けよといます。さらに「朝夕にわがなすわざをおもいしれやすきをもとの心とはして」と言います。自分の心を問い直して常に内省し、謙虚に素直になっていくことで道から外れないように真心の傍にお仕えすることのように思います。

最後に、「十善これ菩薩の道場といえり。慈悲一切衆生身にひとしく福をあたへまことをつくす」といいます。自らが十善こそが実践道場、つまり人の道から外れないようなってしてはじめてすべてのことは福になっていくことができるといいます。

まだまだ行き来するばかりで、覚束ない足取りですが先人の教えの本質を学び直し子どもたちに伝承できるよう精進していきたいと思います。