地球人財4~本質的であるか~

時代は過渡期に入り、国境を超えて人種を超えて多様化はますます進んでいきます。そしてグローバル化していく経済や社會の中では一つの正解を頼りにしてはいけず、あらゆる無数の正解を受け容れていく柔軟性が必要になってきます。

そもそもグローバル人材に求められる力として、コミュニケーション力や相手を理解する力、プレゼンテーション力とか色々と言われていますがそれは手段であろうと私は思います。

ではグローバル人財にもっとも必要な力とは何かということです。

私はそれは「本質的であること」であろうと思います。

なぜなら多くの正解の中で物事を進めていくというのは、本質的かどうかということに由ると私は思うのです。人間にはそれぞれに価値観もありますし、その人の視野の広さが事物を決めてしまっているものです。実際に目の前に見える世界だけを世界だと信じている人と、地球規模で物事を観ている人ではその目に観えているものは異なっているからです。

特にグローバルリーダーともなれば、どれだけの視野で物事を捉えているかは何よりも目的を完遂する上で重要です。そうなると、常に本質的かどうかを確かめなければならなくなるのです。

本質的であるというのは、中庸であり続けるということに似ています。全ての情報の中から右に偏らず左に偏らずそのものの中心を見抜く力、本来のあるべき姿から物事を洞察する力のことです。

本質というのは、世の中の常識に囚われず型破りであるともいえるのです。本当のことが合っているのなら、それ以外のことは別にどうでもいいという柔軟性があるということです。私の言葉で言い換えれば初心や理念がはっきりしているのならば、後は流れに任せて応じて合わせる柔軟性を持っているという感じです。

これらの本質を維持する力というのは、常に自分自身が本質的かどうかを振り返り、常にそこから心を離さずに心を入れて物事に打ち込んでいかなければなりません。信念ともいってもいいかもしれませんが、本質を維持するには常に「何のために」という自問自答を続けて根気強く本質的であることを意識していなければならないからです。

これは心の力とも呼んでもよく、心が育っていなければ本質の維持は難しいのです。それだけ人は世の中の都合の悪くなった現実の帳尻合わせのためのルールや法則に惑い翻弄されているともいえるのです。自然から学ぶ力もまた本質の性質を伸ばすためにあります。教育の在り方を思う時、まず何が自然かがわからないような人物が果たしてグローバル人財と呼べるのだろうかと私には疑問に思います。

グローバルリーダーは、混沌の中でも常に本質を見抜き、本物を確かめ、自然であることに精通している中心人物です。人間の浅はかな多数派の意見や、何かしらの偏った正論などには目もくれず粛々と自分の”生き方と働き方”を変えて世の中に貢献していくのでしょう。

これからは無数の正解があっていいと言われる世の中になると言われます。それは言い換えれば、本質的な世の中に入ってくるという意味でしょう。だからこそいよいよ対話が求められる世の中になっていくでしょう。

子どもたちの道しるべになるように、日々に本質を磨き、自然一円観を伸ばして世界のお役にたっていきたいと思います。

地球人財2~徳才の責任者(リーダー)~

今回の視察の中で特に印象深かったのはカンボジアの通訳の人物です。この方は、日本に来たことはないのですが日本語は流暢に使いこなし、日本の人たちがどのような気持ちを持つのか、何に共感するのか、自分自身の持ち味を存分に活かし周りを楽しませ、周りを笑顔にし、一回のご縁で私たちの心に深く遺るような仕事をしてくださいました。

この人は言語ができるだけではなく、人間力がありました。そしてその上で役立つものはなんでも誰かのために使える人物でした。人財と人材と書いていいかもしれませんが、人は財であり、そしてはじめて人は材になる。才能だけを集めて天才集団をつくっても、その材が活かせるかどうかは人財にかかっています。

実際は道具であっても道と具によってはじめて互いに活かしあうことができます。常に目的が善であってはじめて手段は適切になるものです。手段をいくら磨いてもそれがグローバルとは言わないと私は思います。その目的の高さに応じて手段もまた磨かれ活躍の場が世界の現場に拡がっていくのです。しかしその最初はいつも自分の身近な身の周りの実践の積み重ねからはじまります。

そもそも地球人財というものについて考えるとき、一つのある問いを思います。それは如何に自分を世界に役立てることができるかという問いです。役立てるというのは、本人からすれば役に立ちたいという人間本来のお役に立てる仕合せの実現です。

よく考えてみると、私たち地球上に生きる生き物は一つとして無駄なものがありません。どの生き物もそれぞれに大切でそれぞれに天から唯一無二のお役目を与えていただき、共に有機的に繋がり合って一緒に生きていきます。それは偉大な循環の中で、決して切れることがないご縁の世界のように互いに役割を全うしています。その多くを丸ごと活かす存在こそ徳の高い人であろうと思うのです。

これらの徳が高い人(存在)は、地球上のどんな場所であれ、どんな多様な生物のなかであれ、どんな条件下であったとしても地球全体を喜ばすことができるように思うのです。つまり自分の存在を自分が喜ばせ、同時に周りに役立てる地球が喜ぶ人財なのです。まさに孔子の言う「己達せんと欲して人を達せしむ」の境地です。孔子もまたグローバル人財だったからこそ今も多くの人たちの役に立っています。

この徳というものを磨くことなしにグローバルに活躍する真の人材は存在しないのではないかと私は思います。技能は手段ですからその方法を活かすのは徳のちからに由るからです。

地球人財は常に自分の徳才を世界の中で活かすための責任者(リーダー)であり、その道を誰よりも極めたプロフェッショナルです。一人ひとりの徳の宝をどう発見し発掘し発明していくか、それが原点となり人類の発達と発展の未来の可能性を広げていきます。

引き続き、今回の学びを綴ってみたいと思います。

 

地球人財1~グローバルとは何か~

昨日は、シンガポールにあるIB教育(International Baccalaureate)「国際バカロレア」を導入している学校を中心に視察を行いました。シンガポールはグローバル人材を育成することを念頭に、「Teach Less ,Lean More」という基本指針で世界で活躍するために様々な教育を導入しています。

インターナショナルスクールから大学まで、新しい学校を中心に視察しましたが多種多様な人種の中で共通の言語を話すだけでなく、如何に御互いの違いを認めつつ、技能や才能を開花させるかということおいては、今までの暗記詰め込みのような形だけではなくファシリテーターといって教師自らが生徒たちに寄り添い生徒たちが自ら主体的に問題を解決していく手伝いをするという方式が取られていました。

そもそも何のために学ぶのかと考えるとき、子ども達が如何に自ら学ぶ力を発揮するかと考えれば自ずからどんな教育方法がいいのかは古今から変わらない在り方があります。身近な大人たちの生き方や働き方が教え方になりますから、何よりもまず先に時代の変化に対して柔軟に自分自身を変化させ続けていくことがよい実践のモデルになるように思います。

シンガポールは、もともとが海港都市であり世界のHUBになることで国家の持ち味を活かそうと努力しているように感じます。資源がないこの国の資源は人財であるとし教育予算は国防の次にかけて投資しています。実際に現地に降りたってみると、その環境と地の利があることを感じ、アジアの発展と共に如何にアジアでシンガポールの人たちが活躍できるかで国家の未来を決めるというは分かる気がしました。それだけ「グローバル」というものはこの地では大切なキーワードなのです。

シンガポールに新しく開校した「イェール・NUSカレッジ」を訪問して国際会議のシュミレーションを行うサークル活動「模擬国連」のリーダーとして活躍するある学生から話を聴く機会がありました。その際に、彼が私たちに「私たちが日本人に求めているのはアジアのリーダーを排出してほしい」とありました。それだけアジアの発展ということに対して責任を持っているのを実感し、日本という国の人財が若い人たちからも期待されていることを改めて感じました。

本来時代というものは、常にその時分に社會貢献し発展に役に立つ人たちを求めてきました。時代の変化の中で境界線がなくなり益々多様化していくグローバル社會の中で、どんな環境下であっても役に立つ人財をどう育成するかは世界の共通課題になっているということです。

今回の視察では教育の見直しをしていましたがそれと同時にそもそもグローバル人材とは何かについて考え直すよい機会になりました。明日から何回かにわけてこのグローバル人材について整理しますがすでに日本でもある一定の定義は定まっているようでここにはこう書かれています。

「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省)

世界というのはどこか別の世界の話ではありません。現実の中で生き方や働き方の中に世界はあります。なぜなら世界とは自分自身のことだからです。どんな自分になっていくか、どのように世界に役立てていくか、そのために必要な人財の要素とは何か、そこを紐解くと一つの明確な人物像が観えてきます。

子ども達のためにどのような大人の生き方と働き方を伝えていくか、地球人財の本質を学び直していこうと思います。

 

発酵途上

昨日からタイを経由してカンボジアのプノンペンに来ています。空港に到着し外に出ればすぐに高湿度の蒸し暑さと、外には東南アジアの人々の暮らしの熱気に包まれます。言葉で表現できませんが、会話の雰囲気やバイクのクラクション、路上で集まり交流する姿、ゴミが散乱しその上を高級車が走りと、混沌とした都市部の風土そのものが舞い降りたようなこの雑多に蒸している東南アジアの雰囲気を味わっています。

昔、20年前中国に留学し仕事をしていた頃に似た急発展途上の国家の様相に似ていて懐かしくもあり、この先この国がどのようになるのかも想像し楽しむことができます。今のここの人たちは未来がどうなるか予想できるのでしょうか、もしもこちら側だったらどう見えるのだろうかとまた空想を広げて観るとワクワクするものです。人は常にその心境によって常に自らの新鮮さを保てるのかもしれません。

まだまだ一部を感じるだけですが、国の姿にはその発達と発展が今、どのくらいのところにいるのかを観察することができます。これはライフサイクルとも言いますが、起業期から導入期、成長期、そして成熟期、衰退期、そしてまた起業期というようにまるで種から花が咲き実をつけて枯れるように生物はそのサイクルを免れません。

その生物のサイクルは国家も同じく、そしてそこに暮らす人たちにもまた同じようにその道理に従い自然の一部として生きているのです。そう考えてみると、私たちは生物ですから人間の一生というものや国家、世界の一生というものは如何に発酵するかということにかかっているように思うのです。

この発酵とは何か、辞書には「微生物が自己の酵素で種々の有機物を分解あるいは変化させ,それぞれ特有の最終産物をつくりだす現象をいう。」とあります。

つまり私たちは微生物と何ら変わりがないのですから、如何に発酵していくかで周りの発酵を促す存在になっているのです。そして発酵途上だと今の状態を定義してみればどのような最終産物を発酵サイクルで作り出すかが洞察できるようにも思います。

微生物ならその中でどのような発酵をしているか、乳酸発酵なのか、アルコール発酵なのか、もしくは腐敗なのか、その発酵をどのように司るかで人間もまた国家も変化を已みません。

発展途上の雰囲気は発酵途上に似ています。

発展も発酵も同じく、その風土の中で生きる生物たちの生き方や初心が決めますからどんな風に人々が常に微生物のように栄養を分解しイノベーションしているのか、改めて風土と一緒に観察してみたいと思います。

そして教育はその栄養分、酵母そのものです。

学びというのはご縁であり、どんな化学反応を起こすかはその人の一瞬一瞬の味わう発酵度合いに由るのかもしれません。今回の不思議なご縁もまた、どんな組み合わせで何が起きるのか、偉大な見守りと御蔭様の中です。意味を繋ぎ意味を綴れることに、改めて人のご縁の有難さと不思議さに感謝が湧きます。

今回の視察でもまた、自分の価値観を揺さぶり刷り込みを取り払い、新たな視点でこれからの教育の在り方そのものから見直してみたいと思います。

 

 

未来型とは何か

子ども達の将来に必要な力とは何か、学力についてこれから少し深めてみようと思います。

以前、米デューク大学の研究者であるキャシー・デビッドソン氏が2011年8月、ニューヨークタイムズ紙のインタビューで「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」と言いました。

つまり約15年か16年後には、65%の仕事が新しいものに入れ替わっているというのです。それくらい変化は著しく、常に今までやったことがない仕事が日々に発生し、そして淘汰されていくということです。

そこにはまったく今では想像できもしないような仕事があるはずです。

よく考えてみると、自分が小学生1年生の頃、将来の仕事でどんなことがあるかを思い出すとインターネットもまだ普及していなかったし、携帯電話もありませんでした。他にも今の社会で存在しているような職業もほとんどありませんでした。あの頃、将来どんな仕事につきたいかという夢を画用紙に書かされた記憶がありましたがあれなどは愚問だったと今なら思います。

子どもたちの可能性は、新しい未来に向かって開いています。

だからこそ、未来の教育とはそういう新しいものを認めてあげること、子どもたちがやりたいことを信じてあげること、つまりは子どもを信じ、丸ごと認め、そして子どもがやろうとしていることを見守るといったかかわりが必要なのではないかと私は思うのです。

今、幼児教育では藤森平司先生が「見守る保育」を実践しています。

まさにこの見守る保育そのものが、未来型教育の原型であろうと私は感じるのは子どもを見守るということにおいて何よりも子どもを尊重する教育方法であるからです。

子どもの未来を信じるということは、子どもを見守っていくということです。その見守り方の中には、周りにいる大人たちの生き方が問われます。そして子ども一人ひとりの主体性を如何に発揮させていくかといった、子どもを丸ごと信じて環境を設定するといった智慧が必要です。

年齢は関係なく、これは企業教育でも同じことが言えると私は思います。

未来は、創造と破壊を常に続け変化を已みません。自己改革や自己変革、つまりイノベーションという発達と発展をどう自分との対話、そして周囲との対話によってブラッシュアップしていくか、気づきの連鎖が未来の扉を開く鍵であろうと私は思います。

どう気づき、どう伸ばすか、子ども達には自由に未来を信じられるように見守りを深めていきたいと思います。

生きる力~多様性と柔軟性~

生き物がこの地球で生きるには多様性と柔軟性は欠かせない要素です。自然界を見て観ると、それぞれが異なる特性を活かしながら共に生きています。その上で、環境の変化に応じて自分の方を変化させながら周りの生き物たちと一緒に助け合っています。この当たり前の自然であることをできなくするのが、画一性と真面目ではないかと私は思います。

この2つの要素について今回は少し深めてみたいと思います。

画一性については、そもそも自分は周りと同じであるという勘違いをしてしまうことから発生してくるように思います。例えば、鳥であったとしても地上を走りまわる鳥と、遠くから渡ってくる渡り鳥は同じではありません。そんなことは誰でも知っています。地上を走りまわる鳥に、渡り鳥と同じことをさせても同じことはできません。逆もまた然りです。しかし実際に人間は、画一性で同じものを目指し同じだと信じ込まされているとタイプが異なるにも関わらず同じことをできなければいけないと思い込んでしまいます。これはとても不幸なことで、そもそも飛べない鳥が、遠くまで飛べる鳥だと勘違いしたら自分自身に絶望してしまうかもしれません。

これは鳥で例えていますが、魚に地上をチーターのように走り回れということがおかしいとも思わなくなっているのが画一性の落とし穴です。自分というものを必死に画一にしてきたことで、自分自身の特性が迷走すれば本来の多様性に気づけないかもしれません。チームで何かを取り組むには、自分の得意や持ち味を活かし合わなければなりません。そのためにはまず自分の中にある画一性の刷り込みを取り払うことが第一になるように私は思います。もっとも多様性を知るものこそが、もっとも多様な能力を互いに発見し合い、見出し、それを活かしあうことができるからです。自分らしく生きていてそれが最大限みんなの役に立つことほど仕合せなことはありません。これが自然体です。

もう一つ、真面目についてです。これは本来の真面目の意味である真剣さという意味とは違います。教育や刷り込みによって、頑固に強硬になり、視野が狭くなり融通がきかなくなっているということです。例えば、生き物たちは遊び心があります。こうでなければならないという姿よりも、あるものを活かそうとします。例えば、鳥でいえば托卵といって自分の卵を他の鳥に温めてもらって育てたりします。本来、自分で子育てするものを他の鳥に託して育ててもらうのです。自分の特性が子育てに向いていないと気付いて、それでは得意な鳥に任せようとする発想です。これを人間ならズルいとして間違っていると否定する人もいるでしょうが、これはもともとその種が生き残るために選んだ本能と智慧から来ているものです。

そもそも柔軟性というものは、自分のこうでなければならないといった融通のきかない姿から発生することはありません。自然界では、意固地に自分を持ち続けて変化をしなければ滅びてしまいます。実際の自然界では生き残るために必死で真剣ですから、頑固なプライドなど持っていても仕方ありませんから周りの変化に対して自分をしなやかに変化させていく力があるのです。つまり「自分が自分我」というものをあまり先にしない、それが柔軟性です。

自分が真面目にやっていれば正しいと思い込み、自分さえ真面目であれば問題ないと勘違いして結局は滅んでしまったでは意味がありません。生き残るために真剣であればふざけてもいい、生き残るために真剣であれば遊んでもいいくらいであることが本来の柔軟性を呼び込んでいくように思います。そこは大切なものを守るためなら手段を選ばずに”柳に風”のように”しなやか”でいようとするのが自然の中で生きる智慧のように私は思います。

つまり柔軟性というものは、真剣さの中にある自然のしなやかさといったものです。大切なものが守れるのなら、自分の方法には固執しないということです。結果は天にお任せして最善を盡せとも言ってもいいかもしれません。

これらの2つ、多様性と柔軟性はなぜ必要かといえば厳しい自然社會の中で「生き残る」ためです。生き残る力というのが、私の思う生きる力です。人間自身も国際社会やこれからの未来に向かって生き残り生き延びる「生きる力」をどう育てるか、教育の本義はそこに尽きるように思います。

本来の学力をどう育てていくか、明日から1週間かけてカンボジアとシンガポールへ訪問しますが今一度、未来型教育の原型と見守る保育の本質を自分で整理してみたいと思います。

思いやりの心~内省実践の真価~

心を亡くすと書いて忙しいと書きます。この忙しいというものの本質は何か、それは心を見失うことのように思います。そもそも心とは何か、それを見失うということが何なのか、それを少し深めてみようと思います。

心というのは、頭で理屈で理解できるものとは異なるものです。例えば、感謝というものであれ頭で考えて感謝する人と、心から感謝する人がいます。同じ感謝であっても「心から」ではないのだから頭で行う感謝は心が入っていないものです。感謝が心から出ない時、人はその心にないものねだりや不平不満を抱いています。現実は一切に嘘がなく、その心と考えが一致していないのだから心の方が現実の世界のギャップに本人自身が苦しむものです。心は正直そのものですから、心からかどうかは自分自身が一番よく分かっているはずです。だからこそ自分自身「思い」をどう育てていくか、心をどう高めていくかは、「心から」の「心がけ」に由るように思います。

孔子が論語の中で「巧言令色鮮し仁」という言葉があります。これは本当に考えていること、心から思っていることを顔に出さない人は道徳心が少ない人だという内容です。思いやりと思いやり風の道徳心の違いは本心かどうかのことを言うのでしょう。

この本心というものは、本当の心のことで「心からそう思っているか」という自分の心と静かに向き合い心で感じていることをそのままに伝える真心の事です。よく裏表がある人や、自分の心よりも頭で考えた方を優先する人は、心がそこに入りませんから頭で考えたこととのギャップに苦しむことになります。「心から」である人は、心の赴くままにあるがままに自然体で思いやることができますから、自ずから人間関係をはじめ全ての物事を素直に感受していくこともできるように思います。

今は特にスピード社会で時間を気にしたり、比較社会で評価を気にしたりして自分の保身ばかりを考えていたら、頭で考えることが増えてしまいますからその心がどうなっているかまで気を付けることが少なくなっているのかもしれません。何かの行動を起こす時、すべて「心から」になっているか。そして自分でこれは「心から」そう思っているかと常に内省し素直さや正直さを取り戻す必要があるように思います。

そしてそのために必要な内省の工夫は、自分の心と静かに向き合い、自分が心から思っていることが何かを確認することです。それを「初心を忘れない」ともいい、「原点回帰」ともいいます。つまりは、「心を大切にする」ということです。

心が入らないことはすべて単なる作業です。心が入って初めて仕事になります。忙しいというものの本質は心からではなくなっているということでしょう。心からやったことは必ず相手の心に届きます。そしてその心は周りの人たちの心にも響きます。

「心無いことをして傷つけてしまった」とよくある後悔の念に縛られている人たちもたくさんいます。この「心無い」という意味を思い返すことで心からに気づけるかもしれません。本来人は誰しも最初はみんなとても善い人たちで思いやりがある優しい人たちです。その人たちが心を亡くし、心を見失ってしまうと、その大切な思いやりが次第に消失してしまいます。

本来、助け合い思いやりを交換し合うのが人間社會であり、共生や貢献が自然の道理ですから如何に思いやりを忘れないかを一人ひとりが生き方やあり方の芯に据えられるかが日々の実践の本当の真価のように思います。

内省は克己の工夫の最大の智慧です。常に「心から」かは自分自身が逃げずに自分の心を向き合っていくしかありません。内省しやすい環境や、また風土、一人で心を見失った人たちが自分を取り戻しまた思いやりのある人たちに戻ってこれるように、自分自身の内省実践を高めていきたいと思います。

 

対話の意味

これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。

その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。

対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。

そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。

そして加藤清正の方にはこうあります。

「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正

これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。

自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。

対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。

 

ちょっとずつ~自然のハタラキ~

自然界というものは、「ちょっとずつ」みんなで分け与えながら存在しているものです。あまり大きくはせず、あまり無理もせず、あまり欲張らず、いつもちょっとずつのハタラキの中に存在しているように思います。

もしもこの世に時間という概念がなく、終わりも始まりもないとしたらそんなに急ぐこともないように思いますし、焦る必要もないように思います。その急ぐ焦るの気持ちはどこからくるのか、それは自分への執着によっておこるようにも思います。

自然の生き物たちは、まるで大樹の根が長い年月を経てゆっくりとじっくりと張り巡らすように、まるで雨だれが長い月日を経てポツリポツリと石を穿つように悠久の年月に「ちょっとずつ」取り組んでいきます。

自分が生きていると思っている存在と、周囲に活かされていると感じている存在。

一見しては同じように観えていても、その心は生長はまったく異なる次元で存在しているようにも思うのです。ちょっとずつ歩んで往く姿というものは、外から見れば平凡で何も変化のない愚鈍にも見えるかもしれません。しかし実際の自然の姿から観ていたらその志や信念足るや非凡そのもの、力強く芯が思いをカタチにしていることを実感します。

如何にちょっとずつ進むかは、その人の信念の強さ、また心がけの正直さによるのかもしれません。自然から学び何よりも感動したのがこの「ちょっとずつ」という真実です。

まだまだ我欲や執着、思い込みや固定概念が抜けずに煩悶とする日々ですがそれもまた自然を学び直す教材の一つと受け容れ、引き続き実践を発明していきたいと思います。

誠の道~自然物の心~

人は自然の中に入ることで、何が自然で何が不自然かということが自明してくるものです。教えられた知識や、どこかで刷り込まれた常識ではなく、そもそも自然がどのように働き、どのように存在するかに合わせればそこには偉大な恩恵の中にあることに気づきます。

昔の人は、それを天とも言い、その天の道である誠は己の中に具わると示しました。それは自分も自然の一部であり、この生きている姿そのものが自然であるからです。呼吸をし、水を巡らせ、体験のあらゆるものを感じ取る、まさに自然物です。

中江藤樹の学問にこのような言葉が遺っています。

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

自然物の学び方として、如何に天を師にし周りの自然物から学べばそれこそ真実を得るということでしょう。草を草とみたり虫を虫とみるではなく、そのもののその姿すべてから同じように学べば徳が自らにあることに気づけます。

なぜあのような姿かたちになっているのか、なぜあのように生きているのか、静かに自然を見つめていくと其処に具わった徳に気づけます。その徳をどう活かしていくかが、私たちが天に対して誠を実践していくことのように思います。

「はかなくも悟りいづこと求めけん。誠の道は 我に具はる」 

誠に道は、生きている自分にこそあるという境地です。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

そしてこの生きている自然物が大徳であり、その中で活かされて徳を盡すことで孝行ともなります。自然物は一切の無駄はなく、ありとあらゆるものが結ばれて存在していますから自分の徳を盡せば盡すほどに周囲に好循環を与えていくものです。

真摯に自分を生きる仕合せというものは、その心の誠に出会うことかもしれません。それを致良知といい、心を清め澄まし、汚れを取り払っていくことで正直になることだと言います。

正直さというのは天地の道ですが、その正直が分からなくなっていくのが心の汚れであろうと思います。それを学問をすることで如何に徳を磨いていくかが本義なのです。そして中江藤樹はこう言います。

「人生の目的は利得ではない。正直である、正義である」

「正直である」という言葉、正義であるという言葉。

ここが如何に自然物と一体になっているかということを感じます。自然物はみんな正直であり、そして正義です。その周りの自然物をみてみたら、如何に自分が歪んでいるか斜めに物事をみているかに気づくものです。

ありとあらゆるものが自然そのものになることが誠の道です。如何にそこから離れないように日々に意味を感じ、体験に気づき、そして改善するかは人生道場の修行のようにも思います。

誠の道を確かめつつ、自然物の心のままに歩んでいきたいと思います。