まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。

自然の道~御恩に報いる~

天地の間には自然の道というものがあるように思います。

これは地球の中にいて地球の一部として生き活かされる存在だからこそ、そこには確かな法理(ルール)があります。それが自然の道というものです。

例えば、自然はそのままにしていればそれぞれに生き物たちが移動して自由勝手にその場に生息していきます。そこにもし人が入り、全部を排除して好き勝手したらその環境が崩れてしまいます。そこには自然の中で自分を活かそうとすることで周りに貢献するという法理(ルール)が働いていることに気づきます。

全ての生き物という生き物は、一生懸命に自分を生き切っていますが自然の道から外れることはありません。地球の中で天から与えてもらったあるがままの自分の持って産まれた持ち味を最大限活かしつつ生き抜いていくからです。その時点で、不自然なことはなく自然の中で自分を出し切っていますからそれが地球の自然循環に叶うのです。

太古の人は、自らでその自然の中でどこまでが許容されるのかを観察し適切に自然の法理(ルール)から離れないように自分たちのやりたいことを実現していました。周りを壊し過ぎず、分度を保ち、自分たちがどのくらいまでやっていいのかを自覚していました。まるで近江商人の実践していた「三方よし」のように、常に「みんなにとって善いか」ということを最大限優先して生きてきました。

自然界というものは、自分(小さな自我の価値観)を優先したらどうなるのかをルールによって自覚できるようにできています。そこには生成するものは全て滅する理によって自滅することを自覚するからです。如何に自分だけがよくならないように、全体(みんな)にとってどう自分を使っていくといいのかを優先しているのです。それが嬉しく楽しくありがたく仕合せであることを自然の本能が知っているたからです。

今の人たちは自然と対峙した刷り込みから、自分、自分、自分と自分のことで頭をいっぱいにし、自分自身の存在を勘違いしています。本来は天道は、御蔭様の心でもったいなく謙虚に自分の使命をさせていだたけることに感謝で実践し、人道はお互い様の心でありがたく素直に自分を周りに役立てていく報恩を実践していくことです。そしてこの「謙虚と素直」が自然の道、私の言葉では「かんながらの道」になります。祖親からずっと今までみんなが譲って遺してくださった努力と苦労の上に今の生命が存在させてもらい、今の私たちが人生を謳歌していることを決して忘れてはならないのです。

それが自然の道を思い出させる初心なのです。

四六時中、自分自分と自分のことを考えて孤独に悩む前に、活かされてつながっている存在に気づき、その自分は自然の道に外れていないか、自然の道から遠ざかっていないか、それを省みて自らの生き方を自然に学び、生き方を直していくことのように思います。自分がどうかよりも、みんなの役に立ちたいと願う生き方、周りの御恩に報いていこうとする生き方、子どもたちがこの後、私たちの生死の後に続いていくのだからこそ本来の生き方から見つめていきたいと思います。

子ども第一義の本質は、この自然の道の実践により叶います。

常に自我のやりたいことよりも、無我のさせていただけるの御恩に報いていきたいと思います。

準備の本質~未来との向き合い~

物事を成功させるのに「準備」という実践があります。如何に平素から抜かりなく準備を怠らないかというのは危機感のことで、常に危機感を持って日頃から準備をしているかという心の持ち方のことです。

準備といえば色々な諺があります。

例えば、「転ばぬ先の杖」というものであったり、「備えあれば患いなし」、「遠き慮りなければ必ず近き憂えあり」、「後悔先に立たず」などもそうです。これは準備というものが如何に先々の未来に大きな影響を与えているかということの格言です。

あのイチロー選手も「準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく」といって日頃の準備を一切怠らずに鍛錬していると言います。その証拠に「ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです」とも言います。未来に先延ばしたくなる怠惰な怠け癖を自ら断ち切って、この先に起こり得る全てのことを本番同様の危機意識でシュミレーションして日頃の準備に臨むのです。

準備というものは、その人の持ち味を活かすための最大最高の実践です。事前にあらゆる未来を正面から逃げずに向き合い、もしもの最悪の事態の時にどうするかを考え抜く覚悟、または最高のチャンスにどのようにするかを考え切る覚悟、その上で何を用意しておくかを日頃から取り組むのが準備ができている人の実践です。実際の仕事でもほとんどが準備に費やすだけで本番で使うのは1割から2割の配分で準備したほとんどが使わないままになっていると思うと、本番とは常に平素であることを再実感するのです。

準備は実力の発揮と密接につながり、準備をしていればその時々で準備しているものを出せばいいのだから存分に自分の実力の全てを出し切れます。逆に準備が足りていない人は出せないからさらに言い訳はどんどん増えていくばかりで現実に苛立つばかりで停滞してしまうものです。

老子が「無為自然」の境地の中で、何もしないのが無為自然なのではないことを思想で語ります。無為自然の本質は、未来が来る前に全て準備済みで先に予測して未来を先取りしているからこそ現実が来た時に余計なことをしないという境地で実践するから結果的に何もしていないように観得るだけです。

これは自然農などと同じ仕組みで、未来は予測できると自覚しているからこそ予測できない全てに準備しておこうとする日頃から危機感を持つことではじめて全てを先取りし余計なことをせずにその作物が育つことができるのです。来たものを選ばらない生き方というのは、先取りの準備、その心構えと実践ができているということです。

そのために未来は分からないからどうしようもないではなく、未来は分からないからこそ準備しようと未来を正面から向き合う心の強さを鍛えるために準備の実践を積み重ねる必要があるのです。言い訳がでるときこそ、それは未来に向き合っていなかったということに向き合う必要があります。そしてそれは信じる力を育てるのと怠ったと戒めてまた信を鍛錬していくしかありません。信があれば人は未来と向き合えますが不安や不信は未来から逃げようとする言い訳になります。

自然界にいる彼ら野生の生き物たちのように常日頃からいのちを輝かせて危機感を育て、健全な自然の危機感と一体になり、大切ないのちを守り、自分を全体貢献に発揮できるように準備を怠らない実践を積み重ねていきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい

心の実践~誤魔化さない~

自分自身であるというのは、自分を誤魔化さないということでもあります。周りに合わせて自分をつくり自分の評価が下がらないようにいつも誤魔化していたらそのうち本当の自分のことも分からなくなってしまうものです。

例えば、最初から今の自分のようになったわけではありません。今の自分のようになったのは何かの体験や経験から今のようになっています。本来、幼児期の子ども達は自然の姿に近いものでそれぞれが自分のままあるがままが出ています。しかしそのうちに何らかの教育を施され、気が付いたら何かに合わせている自分になっているものです。

何に合わせているのかはその人の先入観と思い込みですから、合わせているものが取り払わられない限りいつまでも刷り込まれたものは残るように思います。もしもそれに気づいたならば如何に自分を自分で誤魔化さないかということが大事であろうと思います。

誤魔化すという字の語源は、二通りの説があると言います。ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。これは弘法大師空海の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからであり、もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説で「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによるそうです。

どちらにしても、正直ではないという意味です。自分の都合やとはいえを持ち出しては、心のままであることを我慢する。心が思ったことに正直であるよりも、世間の評価や周りの目を気にしては自分を出さないということです。

こうやっていつまでも誤魔化していると、そのうち誤魔化した方が自分になり、本来の自分が何だったのかすら忘れてしまうことになります。だからこそ、自分が心で思ったことを自らが実践していくということ。誤魔化さず、正直に自分の信じたように信じて行じていくということが本来の自分を取り戻す方法のようにも思います。

自分が心で思ったことを如何に行動に移したか。それはやってみたいと思ったことを周りに伝えて、思い切ってやってみた質量に比例するのかもしれません。周りに合わせて我慢してきた分だけ、自分自身を出せなくて苦しそうな人たちをたくさん見かけます。

刷り込みや先入観、常識に囚われて希望を持てなくなってしまう人もいます。子ども達、あの幼児期にはそんな子どもはほとんどいませんから後天的に沁みついていくのでしょう。その心の沁みつきに負けないように、自分の心の赴くままに行動してもいいと見守る安心できる環境があることでその人もまた救われるかもしれません。最初からあった自由をどう取り戻すのか、周囲の大人たちの目覚めに懸っているようにも思います。

心で思うことをカタチにしていくことは自分の心を解放していくことなのかもしれません。子どもたちのように心を解放し自分を開放していくことが、思いやりにつながり、絆を深め、みんなを安心させ、みんなのお手本になっていくのかもしれません。

日々の心の実践を優先していきたいと思います。

自立の発露

先日、カムイロケットの植松努さんの講演を拝聴する機会がありました。北海道に訪問してからもう4年の歳月が流れ、あの頃と変わらずに直向きに子どもたちのために「どうせ無理」という言葉をなくそうと行動している様子に勇気を頂きました。

私たちの会社も「とはいえ」をなくそうと、大人の都合をどれだけ外せるかと様々な実践を積み上げていっていますがその道は険しくまた遠大です。しかし、子どもや未来を信じるのは今の自分の実践次第ですから怠らず努めていくしかありません。

世の中の閉塞感、いじめも虐待、そして自殺の問題も本来は一人一人が自分らしく他を邪魔しなくなれば自ずからそれらは次第に消失していくものだと私は思います。数々の刷り込みがこの世の中には蔓延りますから自らで考えて日々に入ってくる刷り込みを自らの実践でかき消していくしかないようにも思います。

人間には自我がありますから、気が付けば自我にとってかわられていることにも気づかないものです。素直な心で物事を省察しては、全てから学ぶ謙虚な心で感謝のままに生きるという自然な生き方ができるには数々の問題を一つ一つ片づけていくしかないようにも思います。

自分のやりたいことをやるといっても、そのやりたいに翻弄して迷っている人もいますが本来は初心です。初心に対して迷わないというのは、楽をせずに苦しくても愉しい方を選んでいく小さな勇気なのかもしれません。

印象深かった言葉は、「夢は大好きなこと、仕事は社會の役に立つこと」という言葉です。大好きなことをやっていると次第に経験や仲間が増えてきて、それが仕事になるかもしれないとありました。思い返せば、どちらが先かは思い出しもしませんが世の中を憂いつつ自分の持ち味と得意分野を伸ばしていたら今の自分に出会っていました。

誰かの評価を求めずに、ただ自分が信じたものを遣り続けるから今に出会っています。数々の貴重な経験は楽しいだけではなくほとんどが辛酸をなめるような苦しいものもありました。仲間にも同志にも出会い、自分がもっとも理想としていた仕事もさせていただけるようになりました。それまでの道のりはただ必死なだけでしたが、今思い返せば大好きなことを社會の役に立つようにしただけです。

言い換えれば、自分にしかできないことで誰かの役に立とうとしたということです。自分らしさというものは、その心の発露から始まるのかもしれません。小さな自己満足で仕事をしては一生を終えるような雇われるための生き方ではなく、自分の一生を如何に何のために創造するかという生き方、つまりは自分の初心や信念を貫く生き方を選択するかどうかということを常に試練にして自らを磨こうとする人生を歩もうということです。

人は初心や信念があるから自分を磨いていくことができます。自分の目指した生き方に沿って行こうとする分、日々はその姿勢を試してきます。本当に出し切ったのか、本当に遣りきったのかと、常に当たり前ではない日々は語り掛けてきます。その時、本気であること決心があること、覚悟をしているかが自問されます。

夢を得るには楽はなく、楽をしないから夢は逃げない。

苦中楽有の心境とは、夢の中という意味でしょう。すると、苦こそが夢であり、その苦に挑む好奇心が愉しんでいるということかもしれません。

ものわかりのいい人間になりロボットにされてしまっては、安定や成功ばかりと求めては失敗や罰を恐れてか弱い心ばかりが育ってしまうかもしれません。逞しい自然の姿、強くて優しい心はやったことがないことに挑戦していくことで育っていくように思います。

世界は今、やったことがないことを遣りたがる人、最後まで諦めない人、創意工夫ができる人がどの国でも求められています。それが希望を与えてくれる人だからです。夢を持つというのは、そういう自分らしく持ち味を発揮して存分に自分を遣りきっていく人になるということです。

子ども達が自分自身であることが肯定され、自分らしくいきていくことが如何に将来の愉しさや倖せにつながっているのかを実践の背中で見守ることができるなら未来は開けていくように思います。刷り込みの毒など気にしないくらいに、自分自身を発掘し、発明し、発達し、発展し、そして発揮していきたいと思います。

自然の姿~自分らしさ~

人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。

自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。

自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。

本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。

自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。

自分らしさというものは、自然の姿です。

その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。

教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。

自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。

動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。

しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。

それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。

これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。

あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。

成長の本質~自然に伸びる素直な心~

松下幸之助さんの遺した言葉の中に、『成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になろうとしなさい』があります。価値のある人間になるというのは、その人らしい人になるということです。そしてその人の価値を高めるために「仕事」はあります。仕事は人生のリハビリであるということを言っていた人もいましたが、確かに仕事がその人の役割を育ててくれますから自分の生き方を素直にしていくリハビリになるように思います。

その「仕事」に対して松下幸之助さんはこう言います。

『仕事をするに当たって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。』

これは自分の考え方を、その心のスタンスを決めるということであろうと思います。仕事に対してどのような意識を持っているか、自分の持つ仕事に対しての信念といってもいいのかもしれません。つまりものの考え方を決めなさいと言います。その著書「道をひらく」(PHP)の中でこう解釈されています。

『どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているものでなければ、その仕事は成り立つものではない。人々が手軽に街で靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないだろう。だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。』

そしてこう締めくくります。

『大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。お互いに自分の仕事の意義を忘れたくないものである。』

この「仕事」のスタンスが、心を磨き、ものを成長させた考え方ということなのでしょう。つまり世の中(周りの方々)からやらせてもらっているという意識に変わっているというのです。

自分の仕事の意義というものは、意識していようがしていまいがその仕事に出てくるものです。その人がどのような仕事をするのかを観ては周りの人はその人を判断していきます、その仕事に懸けるその人の意識は確実に仕事ににじみ出て顕れます。だからこそ、謙虚に誠実に常に周りの求めに自分らしく精いっぱいこたえることがお互いに一緒に仕事をしていく価値であり意義になると私は思います。

人は考え方が成長することが自分が変わることであり、そうやって自分の生き方のスタンスの質が高まるからこそ自ずから結果もまたついてくるように思います。

自分でやりたいことを決める前に、与えられた仕事を真摯に真剣に取り組ませていただき、周りから信頼されるような価値のある人間になることが自然に自分を伸ばしていくことになるように思います。

自然に伸ばすとは素直な心です。素直ではない心の時、人は必ず行き詰ります。できないことを求めてはできることをやらないのでは、結局はその人の価値観を周りに強要するだけで周りにとって価値のある自分には近づかないように思います。

こうでなければならないという成功者のイメージを持つよりももっと価値のある人間になろうとする素直な心を持つ方が仕事も自分も「自然に伸ばしていく」ということなのでしょう。素直な心を持ったなら、誰のせいにもせずに言い訳もせずに自分に矢印を向けて自分の価値を自分で決めず周りにとっての価値に変えていけるように思います。自分自身にそういう素直な心が土台に入っているか、常に確認していくことが成長(伸びる)を確かめることにもなると思います。

子どもたちがだれもが自分らしい自分で、周りの役に立つ価値のある人間であると実感できるように常に求められたことにこたえられる自然に伸びる素直な心で変化し続け、精進していきたいと思います。

 

相乗効果(シナジー)の価値

相乗効果(シナジー)というものがあります。これは二つ以上の要因が同時に働いて、個々の要因がもたらす以上の結果を生じることを言います。

全ての出来事を振り返ると、効果というのは常に一つ以上の要因が重なり合って発揮されているように思います。人々がもしも大きな目的に挑戦するとき、誰にも頼らずに自分だけできるものなど存在しないと諦めることができるなら、同時に自分が相乗効果のためにベストを盡せばいいと覚悟を決められますが刷り込みが深く個別の成果は意識していても、相乗効果に対しては意識がいかないものです。

「7つの習慣」の著書、スティーブン・R・コヴィー氏は、相乗効果についてこう語ります。

「相乗効果は人生において最も崇高な活動である。残りの習慣すべてが身についているかどうかのテストであり、またその目的である」

つまり自分の習慣は、自分自身の実践がどれだけ全体の効果を発揮させたかをみることだと言います。自分だけは自分らしい実践を怠っても問題ないだろうという意識というのは、相乗効果の真価に気づいていないのかもしれません。

例えば、何かの仕事は一人でやった方が早いと思っている人がいます。もちろんそういう仕事もありますが、実際は自分の思い通りに進められない、他人と進めるのは面倒だといっては協力したくないから自分だけで全部処理していこうとします。しかしその時、肝心な視点が外れていることに気づきます。

それが相乗効果(シナジー)の価値です。

一人では相乗効果(シナジー)は生まれず、二人以上でそれぞれの個性を発揮して目的に対して助け合い協力し一緒に何かを行う時、自分の想像を超えるような効果を目のあたりにするものです。

自分だけではできなかったことが、誰かの協力によってできるという実感。それは例えば、離れていても心を寄せてくれる信頼できる人の見守りを感じているときや、仲間が勇気を出して諦めずに挑戦する背中を感じた時、そういう無形のものでさえ自分のモチベーションを高めてくれたり、信じる力を集めてくれたりと様々な相乗効果(シナジー)を発揮してくれるのです。協力の楽しみや協力の有難さ、協力の真価を知れば如何に相乗効果が素晴らしいかに気づけます。

そしてそれは常に「一緒」であること、助け合おうとする心、それぞれが自分の決めた実践(習慣)をそれぞれが確実に守ることで役割を果たす時に相乗効果(シナジー)は高潮するように思うのです。

仲間がいるということや、チームで取り組むということは、一見、みんなで同じことをしていることのように勘違いしている人がいます。しかし本来は、一人ひとりみんながそれぞれの個性を存分に発揮してそれぞれが全体のためにできることを全身全霊で実践するのを怠らない時にこそ期待以上の成果を全体に及ぼしているのです。

常に視点は自分だけのことを考えるのではなく、自分の実践がどれだけみんなの力になっているか、自分の習慣がどれだけみんなの効果につながっているのかの自覚を大切にして、皆の守りたい理念や優先したい目的に協力していこうとすることが自分の全体の中での役割を知る近道なのかもしれません。

同じことをするのは一緒ではなく、バラバラでも一緒であることはあるのです。それぞれが自分らしく協力する実践を一緒にしていればそれはバラバラでも一心同体です。一心同体になったとき、相乗効果(シナジー)は奇跡を呼び込み、一人ひとりの役割を明確にし、人と人の絆、そして人間であることの幸せを感じられます。

子ども達の未来のためにも、一人の力云々よりも、相乗効果(シナジー)の一員であることに誇りが持てるような社會を実践人になって創造していきたいと思います。