木鶏という本当の強さ

人は目で見え結果として現れているものを信じようとすると漠然とした不安に苛まれるものです。その反対に心で観える経過が顕われてくるものを信じようとすると安心してくるものです。

だからといって心で観える世界だけかといえば現実がありますから、本来はその優先順位がどうなっているのかという確認が必用であろうと私は思います。

例えば、日々の仕事でもそうですが何を自分が優先しているのかというのは内省することにより自明してきます。日々の業務に追われていれば、目の前の業務を終わらせることが優先され本来の仕事は何だったのか、本業は何をすることであったのかということはおざなりになるのです。

そういう時には、何のために自分はこれを行うのかということを少し立ち止まり心で確認し、そこから業務に入ることで終わらせようとする気持ちよりも本質的に行おうと思うようになり、次第に丹誠を籠めて丁寧にプロセスを味わおうという仕事を楽しめるようになるのです。

忙しいというものは、自分の心の不安から本来観えていたものが観えなくなっている状態のことを言います。結果ばかりを追い求めては、遠くに探しにいくばかりで脚下の実践を大切にしなくなってしまうのです。

私は「あなたの探し物は一体何ですか?」という問いを投げかけることがあります。よくメガネをはずせば世の中がよく観えるとか、思い切って目を閉じて耳を澄ませば観えてくるとか、そういう感覚なのでしょうが本来、自分が何を優先して生きるのかというのは理念や信念によるものなのです。そういうものを忘れるくらい盲目になってしまっていては、探し物は探さなくても其処にあるのにいつまでも探し続けるのが仕事などという愚をおかしてしまうかもしれません。

心で観える世界というものは、心で観ようと思わなければ観えない世界のように思います。いくら目でそれを追ってみても何も感じず、何も分からないからです。もし理解して分かった気になったとしても本当にそれが分かったとはならないのはすぐに現場に出て観れば分かります。

心の信念がどれくらいの強さで行っているのか、心の理念がどれくらい本気であるのかは必ず相手が鏡のように自分を写してくださるからです。

子どものためにという「思い」にしても、その子どものための思いの質量はその人の「思いの強さ」によって決まるからです。どれだけの思いの日々を集積しているのか、どれだけ日々にその思いを育て醸成したかというのは、単なる業務を積み重ねる日々ではなく、本質的な志事を実践することによって行われるものです。

そしてその志事は、自分にとって困難である方、苦難である方、厳しいものである方が錬磨研鑽することができるのです。自分の方に軸足を置いて日々に働いた気になっていたとしても、それは目で追ったものを単にやり過ごしているだけになるのかもしれません。

そうではなく、常に軸足は信念、理念、もしくはお客様や子どもというように本来の志業に置くのであれば自ずから一体の境地で心身を高めていくことができるように思います。そしてそれは須らく「決心」というもので始まり「覚悟」というもので終わります。

今の世の中は、目に見えるものばかりが価値があるかのような錯覚を与える刷り込みと誘惑の世界です。そういう中でももっていかれない「本当の強さ」を持てるようになることが「木鶏」なのかもしれません。

そしてそれは出来事や事件といった体験といったご縁の一つ一つを大切に実感し学習し、改めて善いものへと見直すことによって改心されていくものです。

本当の強さを持てるようになるためにも、常に理念から実践し思いを醸成し精進していこうと思います。

本物の個性

よく勘違いされるものに個性と習慣というものがあります。

自分はこういう人間だからと最初から決めつけ向いているとか向いていないとか自分で判断してしまうことを個性だという人もいます。しかしよく考えてみると分かりますが、それらの個性というものは産まれてから何らかの努力した習慣によって手に入れたものが多いのです。

例えば、自分は営業向きではないとか、自分は学者向きとか、最初から先入観を持ってしまい挑戦しようとしない人がいるとします。私も昔は、自分では営業は向いていないとか経理はできないとか、経営者タイプではないとか自分なりに思い込んでいたものです。

しかしそれはそれまでの自分の習慣がそれまでの自分の個性のようなものを固定していただけで新しい行動と習慣がつけばそれまでの自分とはまったく異なる新しい自分を発見することができたのです。

人間は結局は自分自身の先入観に打ち克てるかどうかということで自分を創りあげていくのかもしれません。自分の限界というものを決めているのも自分自身ということなのでしょう。

論語に、「子曰く、性は相近きなり、習いは相遠きなり」という言葉があります。

つまりは、人は生まれたときはほとんど変わらないけれど、その後の習慣でまったく違う人物の差にになってしまうという意味で用いられます。ほとんど人間には実は違いがなく、どのような教育を受けてきたか、そしてどのような習慣を身に着けてきたかでその人生はまったく別物になってしまうということでしょう。

よくこれを個性だと決めつけるのは、学校で教え込まれた間違った個性です。学校というものは、その人がよく言うことを聞き、学校の思い描く社会に適応する人物を育てようとします。しかし実際の社会に出て観ればそれでは実学ではなく実用にならないのだから、当然、社会に出たらその社会での習慣が必要になります。

如何に学校で身に着けた習慣が十何年あったにせよ、それを個性だと決めつけずに新しい自分、その社会で生き残るために新しい習慣を身に着けていく必要があるのです。

学校から社会人になるときに、何を捨てさせるのかといえばそれまでの習慣のことを言うのです。それまでも習慣を捨てるには、今までの習慣を凌駕するようなまったく異なる中らな習慣を育てていく必要があります。

私が現在行っている朝練も同じく、これは今までの生き方、それまで自分が判断してきた基準を超える経験、つまりはその心身の習慣を身に着けるために実施しているのです。何度も何度も新たな習慣を身に着けるには場数が必用で、その期間は苦労するものですが新たな習慣が立てば新しい個性もまた身に着きます。

これらの基になるこの「性」というものは、天性のことです。天性とは人間そのものは等しく天地自然の顕現としての存在という意味でしょう、つまりは元の人間は神人合一、天人合一という意味です。習いとは、その後の学問のことで実学の人か妄学の人かということです。

意識改革というものは、これらの習慣にメスを入れることをいいます。自分では気づいていもない習慣をそのままにしておけば一生涯それを個性だと勘違いしてそのままになってしまうのも、その人のご縁や運によるものと思います。誰にも指摘されないまま自分の個性だと勘違いして努力を見誤れば裸の王様のようになってしまうかもしれません。これは本当に恐ろしいことです。

だからこそ素直に生きていくということは、自分の気づいてもいないような思考の癖や習慣を指摘してもらう自分でいることのように思います。そのために正直に伝えてくださる指導者が身近にいたり、同志、師友の存在は本当に有難いことのように思います。そしてそれもまた自分の決めた生き方、真摯に成長を選んでいるか、真剣に伸びようとしているか、求める自分があってこそのものでしょう。

心を開き新しい自分に出会うことで個性はより本物の個性になっていきます。

悪しき習慣を転じて善き習慣とするように、新たな習慣を身に着けるために温故知新、御指導いただくままに今年は様々な習慣を具体的に変えていきます。

プロセスの手入れ

今年のテーマである途中を大事にということを考えているとプロセスの価値を再認識します。

そもそも物質や物体だけではなく、時の流れも宇宙の運行もすべてはプロセスが集積して循環を続けているものです。

例えば、水が流れて川になり、それが池になり、海になり、雲になり雨になり空気になる。これらもすべて変化というプロセスになっただけということです。そしてこれは出来事でも同じです。毎日に様々な出来事が発生し、その都度新しい変化に出会っていますがこれもまたプロセスが発生しているだけともいえます。

つい現代社会では目標や目的というゴールに達成することだけを目指しますが、そのゴールは本当にゴールなのかといえばそうではありません。なぜならそのゴールの先にはまた次のゴールが待っているからです。つまりゴールは終わらない、ゴールなどないということなのです。

ゴールがないのならばあるのは当然プロセスということになります。それが生き方や生きざまと呼ぶものですが、言い換えればどのようなプロセスを活きているかということです。

間という考え方は、つながりであり結びであり中庸であり本質でもあります。

この中間を捉えるというのはプロセスを玩味しているということに他なりません。如何に一つ一つの出来事の意味を大切に学び、そのものその経過を粗末にしないということ。それは結果さえよければいいという発想ではなく経過にどれだけ丹誠を籠めているかということになるのです。

本来、結果というものはプロセスや経過で籠めた真心が顕現してでてきただけのものです。それは育児でも然り、仕事でも然り、思想でも然りです。それらの顕現してくるものは、どれだけ結果だけを追わずに丁寧に手を入れていくかということだろうと思うのです。

それは言い換えれば四六時中であったり、心を離さないことであったり、継続して実践するということでもあろうと思います。

実践がなぜ大切なのかというのは、これらの結果を追うのではなくプロセスそのものに意義があるという意識を自分が持てるようになるために必要なのです。思っても行動できなくなるのは、結果から考えるという学校教育で刷り込まれた一問一答的な発想の刷り込みが抜けないということなのでしょう。

知識がちょっと多いことが凄いことだと勘違いして本来、考えないといけない当たり前のことを考えることを拒絶し、知っている世界だけがすべてだと思い込まされることによってこれらの自然であったこと、自然とはプロセスであることすら分からなくなってしまうのでしょう。

丁寧に生きるというのは、活かされている幸せを実感するときに得られるように思います。
忙しさという言い訳に負けないように心を強く魂を磨き修身していこうと思います。

人間都合の罠

人は物事を判断するときのモノサシとして自分にとって有益か有害かというものを見ます。

例えば、先日からの植物を例にすれば現在名前がつけられている植物だけで35万種あるといいます。まだ名前がつけられていないものも沢山あるのですが、その中で勝手な話ですが人間にとって有益だとしているのが大体3千種だと言われています。

おかしな話ですが、西洋から渡来した農業方針では34万7千種の植物は有害、もしくは無益とされ、農薬をはじめ除草剤、もしくは抹殺の対象となっています。そのためには、強烈な除草剤の開発を続け、それらの草を抑制するために様々な道具が日夜開発されています。

植物でこうなのですから虫や鳥などとなると、ほとんどが有害か無益と考えられ人間に都合がよい野菜以外はすべて排除するという考え方です。アメリカの大規模農園の映像をテレビで拝見しましたが、セスナで農薬を散布し、自分の育てている野菜以外はすべて排除の対象である姿を見て背筋が凍る思いをしたことを覚えています。

それでは人間に有益と呼ばれる種は今どうなっているかといえば単に過保護にされるだけではなく過干渉に種を操作し、F1と呼ばれ遺伝子をいじられたり余計に交配させられ、より沢山、より便利に収穫できるように改造されていきます。現在ではその有益とも呼んでいる種も固定種のものはほとんどがなくなり、ビニールハウスの中で24時間光をあてられ、肥料や栄養をどんどん詰め込まれ、より速くより大きくなるように仕込み収穫され、種もなくあったとしても種も改造され自らで子孫を残せないような種にさせられ販売している始末です。

よく考えなくてもどれだけ今、不自然でおかしなことが起きているのかが誰でも分かるようなことを見過ごされては身近な社会の極端な報道ばかりで全体が目くらましをあっているというのが私達とも言えるのです。

本来、人間都合というものはこの考え方に共通します。人間は自分の都合で世の中をみるのだから、見たくないものはみないというのもまたこの考えに添っています。直視するということができるのは人間都合、自分都合のメガネを取り払うときにできるからです。

もしこれら植物で起きていることが人間で行われていたらと考えれば現在の社会の構図が観えてくるともいえます。将来、この人間都合の考え方は倫理の壁もいよいよ超えて植物で起きていることを人間そのもので行われる可能性も決してないとはいえません。

それではどうすればいいのかということなのです。

自然農を実践していく中で、本来の人間都合というものがどれだけ危険な思想なのかというのを考えると同時に、如何に自分たちが実践していくことで自らが自然の謙虚さを学ぶのかといううことが肝要なのではないかと私は思います。

そういう私も都会に住み、現在の社会の中にいるのですから今の文明そのものを否定するのではなく、生き方として優先するものを何にするか、、都合という我慢や我欲をよく見つめ、自然界から生き活かし合う姿を学び、それらの自然を優先しつつその中でもって今を創意工夫していきながら本来の人間というものの在り方を一緒に学び続けていこうという先人たちの智慧の再発見を行うことだと思います。

祖先は皆、今の私達よりも多くの体験をしてそれを受け継いできました。私たちの100年ほどの価値観など、祖先の数千年、いや数億年の篩にかけられたものには決して敵いません。だからこそ祖神の声をよく聴いて、よく観て、よく真似ていくことが子々孫々の繁栄にかかせないように思えます。消えかけていますが探せばまだ沢山の智慧がこの国にも世界にも伝承されています。

最後に人類にとっての本当の危険とは、この人間都合の罠のことなのです。

本能が減退している現代だからこそ、本質を掴みとるために実践し、精進を続け、もう一度ゼロベースで自然から学び直していきたいと思います。

 

野に降る

自然を考えている中で、この今の自然が如何に人間の都合によって塗り替えられているのかを気づけます。

そもそも人間にとって都合のよい植物と都合の悪い植物で扱い方が天と地との差があります。野菜は人間が食べるものだから大切に育てますが、それ以外は雑草という呼び名でいつも嫌われています。

うちの畑でも最初に最も嫌悪されたのが雑草で、雑草の種が飛んでくるから草をすぐに刈ってほしいと遠巻きに言われたりもしました。草を敵にしない農法といくら説明しても、それが理解されるわけでもなく色々な農業事情のこともあり見た目のところが悪くならない程度に草を刈るようにはしています。

しかし、春から夏になれば雑草を中心に群がった虫たちの大合唱が楽しくて野菜も雑草も分け隔てなく食べている虫たちが元気な姿に畑の楽しさを実感して草もなかなか刈れなくなります。

都会で生活していると、虫がいません。ごくたまにベランダの花壇に飛来してくる蜂や蜘蛛、トンボなどを見ると本当に嬉しい気持ちになります。身近に虫がいないということがない田舎育ちのせいか、植物もない虫もない鳥の声もしないという中にいることは本当に淋しく感じます。

昨晩も帰路につく最中、道端の雑草をみながら都会にも逞しくいのちをつなぐ姿に都会暮らしの中で自然を追及する自分の姿を映していました。なぜわざわざ自分は新宿のど真ん中で自然を観直に自然を学ぶのかと考えると、雑草のように生きようとしている自分が此処に居ることに自明するのです。

この雑草とは何かといえば、かつてエマーソンがこう定義しています。

「雑草とは何か?それはその美点がまだ発見されていない植物である。」と。

それをファン・デグォン氏は雑草ではなく、私は野草と呼ぶと定義しました。私もまったく同感で、野菜と雑草ではなく、野草であり野菜なのだというように考えています。道端の小さな虫たちも鳥たちも植物たちもみんな自然の一部。

その一部としての自然をどのように価値を見出すかはその人次第です。

だからこそ、自分の生き方を改め、本来価値があるものをもう一度再発見しなければならないように思うのです。今の世の中は、すぐに人間都合の歪んだ価値観でそのものの価値を定めようとします。しかし本当にそれが価値なのかと言えば、それは誰かによって意図的に生み出された人工的な価値であることには間違いありません。

この世でもっとも価値があるのは、すべて自然や天や神様が生み出したと私たちが謙虚であるときに観ているものではないかと思います。御蔭様然り、勿体ない然り、有難い然り、すべては私たちの想像を超えた美しさを永遠に放ちつづける自然の中にこそあるのです。

もう一度、野に下っていくところから人間は学び直した方がいいのかもしれません。今のような文明の過渡期に、価値の大転換をどのようにやってのけるのか、それは自然が味方になってくださるのだから自然の観方から転じていくことなのではないかと私は思います。

子どもたちには自然の価値は自然のままに観えています。だからこそ、子どもたちと共に自然から学び、自然に学び直す実践を続けていきたいと思います。その実践がいつの日か必ず人工的な価値観よりも優先されるようになり、最期には地上のバランスを人間が保てるように調和することにつながると信じます。

この世にはもっとも当たり前だと思っているものが何よりも当たり前ではない尊さと輝きを持っていることを決して忘れてはいけません。自然の価値に抱かれて活かされる幸せを謳歌していきたいと思います。

越冬

朝の霜が降りるような大変寒い季節に入り、虫をめっきり見かけなくなったと思っていたら昨日、畑の草刈りをしていてバッタやてんとう虫を見かけました。

虫は変温動物のため、冬の間はあまり動けません。それに餌もなく、それぞれに寒さを凌ぐ智慧を持って越冬します。

例えば、成虫のままの虫では落ち葉の下に隠れたり、腐った木の中にもぐったり、土の中に入り空洞をつくり篭ったり、ありとあらゆるところに隠れては寒さを凌ぎます。

その他には、卵になって殻に守られた中で隠れたり、マイナス20度の中でも、凍らない体液で蛹のままに越冬する虫もいますから冬で死んでしまったわけではなく隠れているのです。

そして春になり、草花や虫たちが活動しだす頃に越冬した虫たちが外界で活躍を再開しだすのです。

その他、冬の草を食べている虫たちもいますし動物たちもいます。畑では、葉っぱには虫食いの痕がたくさん残っていますし、大根などは野ウサギに食べられ、土の中の幼虫はイノシシが食べています。

思い込みで虫や動物を見かけなくなりますが、いなくなったのではなく寒さを凌ぐために隠れて越冬しているのです。

そう考えてみると、冬の間じっとこらえて耐えて忍び春を待つ姿に自然の中にある当たり前の姿を体験します。私達人間は、冬でも春でも夏でも空調設備が整い、食べ物も豊富にある中で暮らしていますからあの虫たちのように必死に越冬する姿はありません。

しかし本来は、冬というものは寒さを凌ぎ耐え忍び春を待つことが自然なのです。厳しい寒い冬があり、暖かな春がある、厳しい暑さの夏があり、穏やかな秋がある。こういう四季の廻りを虫たちや動植物たちがどのように過ごしているかでその智慧を見直せるのです。

敢えて自然に逆らわずに、仮死状態になったりして冬を超える自然順応の姿には学び直せるものがたくさんあります。まだまだ冬の動植物から学べることがたくさんありそうです。

昨日は、てんとう虫やバッタが一生懸命に越冬している姿に頑張って乗り越えてほしいと心から応援したい気持ちが湧いてきました。すべての生きものが一緒に冬を越していきたいと感じたのは、冬の寒さと美しさが引きたててくれるのかもしれません。

木々や土、光も水も、生き物を遺すためにみんな協力しているようにも感じます。いないと思っていたものがいること、ないと思っていたものがあることほど豊かなことはありません。有難うございます。

2014のテーマ

昨年も沢山の方々の御蔭様の中で、無事に自分を活かしていただくことができました。年々歳月、自分の与えられたいのちの時間は減り続けていますが同時に豊かさの時間はずっと増え続けています。

この地球上で人生を謳歌できるということは、自然のあるがままにいるということであり、得難い一期一会を戴いていることを心で実感します。

また新たな出会いの中で仲間や家族が増えていくことほど、人生の無二の愛を実感することはありません。人は人との間に愛があり、愛を感じることで絆も深くなっていきます。たとえ外界の自然界と人間の距離が離れてしまっても、御互いを思いやり必要とし合う関係の中で新たな「つながり」を産み出していくのが私達、いのちあるものの徳恵であるようにも思います。

都会と田舎を行き来していく中で、都会では強く人との愛を感じ、田舎にいけば自然の中で慈しみを感じます。生きているということは、偉大な慈愛の中で活かされているのだということを思わない日はありません。

今年も、独立自尊の道中において師とのテーマを共有することができました。
毎年、ふり返りの中で道の課題と正対し学び続けることができることに幸せを感じております。

今年は「途中を大切にする」ということになりました。

保育のお散歩で例え話をいただきましたが、子どもたちのお散歩もよく目的地まで行くことが目的になっていて目的に達するとさっさと戻って来るということがあるそうです。学校の教育実習などもそうですが、目的地だけが目的になってしまっていることがよくあるように思います。

そうではなく、目的地までの道中を楽しむ、プロセスを味わうというように、実際は目的地に行くことが目的ではなく、目的地までの道のりそのものが目的であるのだという意味です。

どうしても人は焦りや不安があったり、目先の出来事だけに囚われてしまうとどうしても心の眼で捉えていた本質から次第に離れていくものです。しかし、たとえ暗闇の中にいるようでも灯を消して観れば自然の明かりがぱぁっと啓けて顕われてくるように思います。

色々と社会現象や、子どもの今を垣間見たとき焦りそうになることがありますが、夜明けのない朝がないように必ず世の中は清々しい夜明けを迎えることができるように思います。

だからこそ途中を忘れないための実践をすることを優先し、結果や目標が目的ではなくその過程をどれだけ大切に生き切っているか、その大義や意味を深めて堅忍果決、精進しつつ丹誠を玩味するのかはその人の決めた生き方そのものによるように思うのです。

これは心の余裕ともいうものかもしれませんが、常に心のままに観立てていける力を育てつつ真摯に学んでいく一念にしていきたいと思います。

今年も、また学問道楽の日々を送れることに心から感謝いたします。

今年もよろしくお願いします。

今甦生

大晦日になり、改めてこの一年を振り返るとあっという間だったように思う中でも貴重な出会いやご縁をいただいた充実した一年になったように思います。

節目というものは、その時々の心境で何度でも感じるものですがその機会が一年ごとに繰り返されるということはとても豊かなことであろうと思います。

人生の中で、節目というのは私にとってはいつもはじまりとおわりを示します。一つの生が終え、一つの死を迎え、そして甦生する。この甦生こそ節目であろうと思います。そうやって何度でも節目に甦生しながらも変化と生長を已まないというのが循環の中にいる今というものに生き切る覚悟なのかもしれません。

以前、私は「メメント・モリ」という言葉に出会いました。「死を想へ」というようなラテン語の意味だったように思います。具体的には、人はいつか死ぬのだから死を忘れてはならないという意味だったように思いますがその言葉をより詩的に田坂広志氏が書いたものを、手帳に書きだし20代の駆け出しの頃は何度も省みて観直していたのを思い出しました。

そこにはこう書いています。

「この地上に束の間の生を受け、駆け抜けるように去っていく無数の人々のなかで、
我々が、その短い生涯において「縁」を得るのは、わずか一握りの人々に過ぎない。」

死を忘れるなということを毎日のように思い返し、自分の今の一瞬一瞬が掛け替えのないご縁の日々を送っていることを当たり前とは思わないようにと自戒をしていました。今になってみると、その御蔭で素晴らしい日々に出会い、素晴らしいご縁をいただき、有難い邂逅と勿体ない御蔭様に恵まれ学び続ける日々を歩ませていただいています。

この生を遣り切った先に、充実した死ががあり、その先にまた新しい生死がある。

この生死の縁とも呼べる今というものの連続の中にある、生死がいのちの甦生を続けていくのかもしれません。万物一切は永遠の今を持ち、この宇宙と共に生き続けるということが今というものの中に存在しているのかもしれません。

私たちは思い出というものを忘れてしまいますが、思い出があるということは永遠の今があったということを思い出したということかもしれません。

今を生き切るというのは、何度でも生まれ変わるということです。

何度も何度も気づいて発見したならばもうそれは昔のことです。それにご縁を大切に、新しい自分と出会ったならばもう昔の自分はいないのです。新しいことを学ぶということは、それだけ古い自分との邂逅になります。つまりは生も死も同等に今の中にあるということでしょう。

姿かたちは同じであろうが亡くなろうが、信じたものは永遠です。

来年も信じて行じていく日々を積み重ねて、自らの実践により子どもたちのいのちの今を切り開いていきたいと思います。御縁に感謝しつつ、今甦生している日々を味わって豊かに生き切って参りたいと思います。

有難うございました。

 

道草日記~あるがままに~

先日、「ファン・デグォンのLfe is peace with 辻信一」のDVDを拝見する機会がありました。以前、自然農の川口由一さんのDVDと同じシリーズだったので、自然をテーマに本質的なお話が拝聴でき、新たなインスピレーションをいただくことができました。

このファン・デグォン(黄大権)氏は、米国留学後、帰国した際にスパイと間違われ激しい拷問とそのまま13年と2ケ月という月日を独房で牢生活を送っています。その中で、様々なことを生き直し野草という身近な存在に気づいてそこから自然というものに入り込み「野草手紙」という獄中から妹に宛てた手紙が出版されると100万部を超えるミリオンセラーになったとのことです。

この物語だけを聴いても、吉田松陰のことを思い出します。吉田松陰も妹がいて、獄中から様々なことを妹に手紙を送っています。それに獄中で囚人たちと共に学びその講話を記述した「講孟箚記」は100年を超え今でも読み継がれるミリオンブックです。

その人が艱難辛苦を耐え忍び、その志を堅古にし内省により掴んだ智慧はいつの時代も人種の違いもなく真理として心に深く響くものがあるように思います。

この話の中で特に印象に残るのがカササギの観察の話です。私も動植物の観察はライフワークなので巣をつくるところと自分の居場所を組み合わせで直観した話はとても参考になりました。

これはカササギが、巣をつくるために何回も何回も試行錯誤し最初の枝が木の隙間にストンと入るまで諦めずに新し枝を探し求めて旅を続けるというところです。そして「平和や幸せというものは、それと同じく自分のいるべき場所にいることだ」と言い切ります。

「そこには一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは人智を超えた神の精妙なるデザインである」と続きます。ここにも自然の仕組みをこの方が発見していることを悟ります。

私達人間というものは、自然から離れ人工的な欲を満たす世界の中で謙虚さというものを忘れてしまっていくものです。本来は、自分の思い通りになどいかず、その方が思い通り以上の素晴らしいことが起きていることも分からなくなっていくものです。

そうしてみては不平や不満を言い、自分の居場所ではない所の方を羨ましがり本来感謝していたはずの存在そのものの有難さよりも、自分にとって都合のよいことのみを嬉しがるといった道から外れた幸せを追ってしまうものです。

しかし本来、自分の与えられた天分というものは自分が決めたものではなく生まれ落ちたところから今にいたるまで全ては全体の中の一部として存在させていただいているものです。自分がそうさせていただいているという実感は、自分があるのは様々な御蔭様の上に成り立っているという謙虚な気持ちを持っているということであろうと思うのです。

本来ならば、自分が地球上でこれだけの自由にさせてもらいながらそこへの感謝を忘れては地球や宇宙への貢献ということも何の事だか歪んで解釈されていくのかもしれません。私たちが活かされているということも自然の動植物は当然に自覚しているからこそ、先ほどのカササギの枝のようなものまであるがままに観えるのでしょう。

あるがままの心で生きるというのは、素直に活かされていることを実感するということだと私は思います。そして今、居るこの場所を深く厚く掘り下げていくことだと思います。生きている以上は活かされているはずです、それは空気も水も光も風もみんな自分を活かしてくださっています。

だからこそ自然の有難い御恩にどれだけの感謝を盡すか、共に天命に活きようという声掛けなのかもしれません。道ということは、目で追わなくなり心が定まった時に顕現するものかもしれません。暗闇の中に一筋の光が差し込むようなものなのかもしれません、私も絶望の度にいつも助けて下さる方々に出会い人生がさらに歩みだしていきます。

ファン・デグォン氏は野草でしたが、私の場合は道草なのかもしれません。このかんながらの道のブログも私という草を活きる「道草日記」のようなものだからです。これからも自然に活かされる有難さを感じつつどんな機縁も勿体ない心で、自然と共に強く優しくあるがままに歩んでいきたいと思います。

盡心

人は何かに打ち込む時に、盡力を尽くすという言い方をします。

この盡力というものは、盡心から出てくるものですがこれは力を出すという意味ではなく持てるだけのすべてのありったけの力を尽くしますという意味です。これも簡単には文字にはできますが、これを実行するというのは本当に難しいことなのです。

孟子にこういう言葉があります。

「その心を盡すものはその性を知る。その性を知れば則ち天を知る。その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。妖寿たがわず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」

孟子にとっての盡すというものは、その天命を盡すことであり、そのために存心のままに修養し、全身全霊のいのちを懸けて修身することであると述べているように私には思えます。

日々というのも時事というものも、どれも過ぎ去っていくものです。その中でどれだけ、自らを盡して生き切るかというのは、自然である姿としてのいのちそのもののように生き切っていかなければなりません。

あの鳥や虫たち、植物たちと同じように春夏秋冬様々な四季の中でそのものの天命を遣り切っていくのです。そこには、心だけが活きているのです。

私たちは心を遣うということよりも、頭を使うことを優先してから大切なことを忘れているのかもしれません。その大切な事とはあまりも当たり前すぎて見向きもされなくなった「心」のことです。

心というものは、その全ての根源であり、私たちは心を通じ合って存在し合っているものです。その心をおざなりにして心を高めていくことをやめたなら、本来の人生そのものの価値を見失ってしまうのかもしれません。

心があるからこそ、その心に応じて観える世界は顕現していきます。もしも心が亡くなれば、それに応じて無機質な世界が顕現するのです。

身を修めるというのは、理性で感情をコントロールすることを言うのではありません。身を修めるというのは、その心を高めるということです。心を高めていけば身は次第に修まっていくものです。

修身というのは、つまりはその真心を盡すことの大切さを実践と学問により高めていくということであろうと私は思います。そして真心盡すとかいて、「盡心」です。

大義に活きるのなら、日々の全てに手を抜かず丹誠を籠めて取り組んでいかなければなりません。あの自然界に倣って本来のあるべき姿を学び直していきたいと思います。