相互主体

先日、師のインスピレーションの赤ちゃん同士の関わりのお話から相互主体についてずっと考えてきてハッとすることがありました。

人が育つということを一生懸命に見守り、寄り添い、信じる実践をしていると、その人が努力をし本番で活躍したり、その人の人生が光輝き変化する体験をするのを実感したりします。

私の場合は、子どもの朝練でも新しい仕事でファシリテーションするクルーの姿に感動し、本人が自信を持って遣り切る様子に安堵し感激します。その時、同時にいつも感謝の念が込み上げ自信を持たせてもらったのは私の方だと嬉しく幸せな気持ちになるのです。

こちらがやっていると思っているときは、文字通り必死になって自分も学び、自分も真摯に取り組み、どうやったらいいのだろうかと試行錯誤しつつ繰り返し繰り返し実践を積み上げていきます。

努力をしているうちにあるとき、感動するような出来事に出逢います。その人ができるようになったり、強くなったり、信じられるようになったり、新しいその人の発見に出会うのです。すると、同時に新しい自分自身を発見します。つまり、いつも同時に相手の歓びが自分のものになり、自分の歓びもまた相手のものになるのです。

相互に一生懸命に努力したことで、努力した成果を共に味わうという貴重な体験をさせていただくことができるのです。

そしてそういうときに、自他一体の境地を味わうように思えます。自分が主体だったものが、相手の主体によって引き出されていく感覚。まるで自分が相手の得たものを同時に自分も得たのだという有難い感覚、そういうものを体験するのです。

相手がいる御蔭で自分があり、自分があるから相手がありますが、自分が相手と同じくらい努力をしたり、真摯に向き合ったり、実践することが、相手と同時に成長していくことかもしれません。

錆びない関係や、御互いに成長するというのは、「一緒に」という強い絆があるからかもしれません。そしてそれはどちらかだけが引っ張るのではなく、相互主体、相互扶助の関係ができてこそなのでしょう。

御互いに諦めないで努力する価値というのは、御互いが自分の丸ごとで真摯に努力することなのでしょう。

そこに絆も出会いもご縁もあるとしたら、懸命に生きることが懸命に生きる人の幸せになるということなのでしょう。相互主体であるからこそ、自分がいつも手を抜かずに精進していくことで新しい相手と出会っていく歓びを感じていきたいと思います。

自信を戴いているのはいつも私の方です。

努力してくださって本当に有難うございます。

成長とは何か~真の智慧~

先日、ある園の理念の確認の中で強く逞しくあるということについて教えていただきました。

強く逞しくという意味を教えて下さった方は、戦中戦後の厳しい環境の中で、実に多くの苦労をなさって今に至ります。そしてこの強く逞しくというのは自立を顕していますが同時に苦労というものの本質を示しています。

そもそもこの苦労というのは、肉体的にも精神的にも何かと苦しい思いをして懸命に何かを為し遂げたという意味や、それだけ沢山の方々のお世話になり厄介になって助けていただいたという意味で使われます。御苦労人という言葉があるように、過去に様々な悲しく辛いことを体験し苦労をすることで人生の機微や他人様の有難さを知り人情に通じている人のことをいったりするのもこの「苦労」という意味です。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言があります。これは若い時に苦労をしたことは後のちとても役に立ちますよという意味です。

今の時代は物に溢れ、何もかもが豊かに満たされ苦労することはなくなってきてすべてにおいて甘やかされた環境の中で生きているともいえます。若い人が苦労をする場所がどれだけあるかといえばほとんどなく、苦労を体験できるところも減っているように思います。

一昔前までは、ないものづくしのなかで便利ではない社会の中で、思い通りにはいかないことで沢山の苦労をする環境がありました。しかし今は、そういう苦労はさせたくないという人たちとそういう苦労はしたくないという人たちの思いばかりで自ら進んで苦労をしようとする気持ちなど持たなくなっているように思います。

この苦労というものは人を強く逞しくし、苦労がないと人は弱く貧しくなり元気を失っていくように思います。人は成長するというのは、この苦労をするということであり、苦労をしないで成長するということはないのです。

苦労がある人の持つ人生の背景というものはとても奥深いものがあります。表には出さないけれど、その人の人格や風格、人間性や言霊、生きざまにはその背景というものがのるのです。その人生背景に苦労がある人は、人間的に豊かであり洗練され含蓄があるものです。しかしそういうものを持たないで知識だけもってもやはり何か薄っぺらなものを感じてしまうのです。

そう考えてみたら、この苦労するというのは今のような時代「買ってでもせよ」ということが大切なのではないかと私は思います。この買ってでもというのは「自分から体験を克って出よ」ということではないかと思います。

つまりは自ら大変だと分かっていても、志や使命に根差すものを持つのなら主体的に行動し失敗を恐れずに挑戦せよという意味であろうと思うのです。もちろん、挑戦すればするほどに失敗もあり辛い体験、他人様からの評価批判などに晒されてしまいます。

しかしそこを耐え忍び、辛く苦しい中でも労を厭わずに信念をもって努力精進していく中ではじめて貴重で豊かな尊い人生体験をすることができるのです。

成長というものは痛みを伴うのは有難いことであり、体験し苦労をせよという意味なのでしょう。また逆に成長を止めるということは苦労することを避けてしまい痛みを怖がって何も挑戦しないことを言うのでしょう。自立というのは、強く逞しく生きていくことなのかもしれません。

だからこそ成長というものは、そこに「強く逞しく生きよ」という独立自尊する人生の強いメッセージを実感します。このメッセージとは、「どのような環境下であってもその気持ちを忘れてはならぬ、齢を経て、人生を振り返ったときに最も大切だったのは『苦労する』であった」と教えて下さる方の言葉こそが真の智慧ではないかを自明するのです。

齢を経るというのは、成長の証が残るということ。そこに真心を持って苦労を伝えて下さる方々がいることに心からの感謝と共に、自らも成長していきたい、苦労していきたいと心が激励されるのです。

一期一会の出会いの御蔭様で苦労という人生の豊かさが真の豊かさであること、真の智慧とは苦労の中にあることを学べ気づかせていただきました。

強く逞しく、挫けずへこたれない大和魂を次世代のために奮起し実践していこうと思います。

有難うございます。

 

仲間との邂逅~尊い学び~

先日、社内木鶏会を行う中でクルーの一人の生き方からとても大切なことを教わりました。

それは「自分の行動が誰かの勇気になる」という言葉です。

これはかつて自分を鼓舞するとき、努力すれば必ず夢は叶うと信じて努力を優先するときにいつも自分に投掛けていた言葉のひとつでした。それを改めてそのクルーが努力と挑戦をする中で同じ言葉を用いていることに新ためて教えられたのです。

久しぶりにこの言葉に出会ったとき、「そうか、あれはそうだったのか」と新たに学び直しができたのです。

それは私が若い時、営業先のある方に「天知る、地知る、我知る、人知る」ということを教えていただきそれを紙に書いて机に貼っていたものと対語になっているようにも思えたのです。そのある方は御取引先の方でかなりの高齢の方でしたが、ご縁を戴く中で「誰も観ていなくても天は観ている、神様は御見通しなのだから一人の時でも慎み努力精進をし続けなさい、あなたは一生懸命だからきっと大丈夫だ」と鼓舞された思い出があります。

今になってみると、蔭ながら本気で努力をすることの大切さ、常に裏表なく陰ひなたなく誠実に自分の人生を遣り切っていくことの原点が此処に在る気がして懐古し再び感動しました。

人は同じ体験をしてくれている人を観ると、まるで自分のことのように思えます。その中で、かつて自分が出会った素晴らしい言葉にその人が出会うことに何よりも感動し、自他一体に甦るのです。また生まれ変わるのです。

この「同体験の学び」ということの素晴らしさというのは、同じ体験をしてみたいという憧れから来るものかもしれませんが机上で空論を振りかざすのではなく子ども心に無垢に素直に純粋に憧れ実践するということの歓び、その今の自分の体験の有難さに感謝できているときにそれを実感するのだと思います。

「誰が見ていなくても天が観ている」、だからこそ自分の行動が誰かの勇気になっていくのだと自分を信じて、誰が認めてくれようがくれまいが自分が信じたのだから必ず善くなると、信念を心に抱き挑戦し続けるという姿勢に、「天の見守り、御蔭様への感謝、そして有難いご縁への報恩」の新しい自分の境地を発見し続けて人生の道楽に回り逢い続けるように思います。

この世の楽園というものがあるとするならば、自分の生き方が誰かのためになっていることの素晴らしさに気づき、だからこそと自分の生を怠らず精進しようと努力するときに顕現するのではないかと私は思います。体験できる、尊い学びをいただけるとき、つながりの中で自分として生まれた価値を味わっているのです。

今の時代はすぐに近道を探したり、効果があることばかりを優先したり、結果が出そうなことばかりを選んだりしがちですが、本来は何のために人生を遣わせていただけるのかをよく内省し、健やかに実践することで目覚め、飽かずに地道に丹誠を籠めて一歩ずつ努力していこうとする姿勢に本物の自分との邂逅があるのでしょう。

いつも仲間の努力している姿に清らかな学びを得て、自分の人生の意味を再認識します。仲間の存在とは、何よりも有難いことで師友があるということは其処に尊い学びがあるということなのです。

「自分の体験は必ず誰かの御役に立つ」そして「自分の真摯な真心は必ず天に通じている」と日々の過ごし方を愛おしむように努力させていただけることに感謝していこうと思います。

尊い学びをいつもいただけるのは私の方です、有難うございます。
体験させていただける天に地に我に人に、誠を尽くしていきたいと思います。

学び方を学ぶ~発見の日々を生きる~

日々に学んでいると、新しい発見に満ちています。そういう日々を過ごしていくことが好奇心を育んでいくのかもしれません。

例えば、新しい自分というものに出会います。そのキッカケは誰かから認められたり褒められたり、もしくは指摘されたり、指導されたりしたときに気づくものです。

何も誰からも言われず、自分だけで理解するのは限界があり自分の都合が入ってしまって盲目になってしまうものです。そういう時に、素直に言っていただける人がいること、正直に伝えてくださっている存在があることが何よりも尊いと感じます。

自分というものはどのように仕上げていくのかも自分次第です。自分の人生も自分のドラマも自分の生き方もすべては自分次第で如何様にも変化させていくことは万人に与えられている自由です。

人間はどのような環境下でも私心が出過ぎると、周囲との関係に軋轢が発生したり、偏り過ぎたりしてバランスを崩してしまうものです。その私心をどのように修正するのか、どのように調整するのか、そこには人の意見を素直に聴ける力に左右されています。

そしてそこを一番邪魔するのは、知識といった先入観ではないかと私は思うのです。

それを刷り込みとも言いますが、刷り込みがあることで素直にならず、刷り込まれたことで正直が分からなくなる、本来は子どものときに学んだ学び方を、どこかですり替えて別の学び方を学んでしまったということなのでしょう。

自然の学び方と人工的な学び方、その両輪を合わせていくには自然の学び方を優先し、その後に人工的な学び方というように本来の学び方を続けていくことなのでしょう。

畏れを抱きつつ、慎み学ぶというのは古来道を歩んだ先人たちが指導した学び方の極意です。

そうやってまず学ぶ前に、その学び方を学ぶところからはじめるというのは自分自身の無意識下にある刷り込みをまず疑い、自分の刷り込みを取り除くところからはじめるという意味なのでしょう。

私も、師に出逢い師から本質を学び、本質に気づくことで自らにある刷り込みに気づくことができました。その刷り込みをひとつひとつ取り除くうちに、本来の自然、赤ちゃんの頃の学び方を思い出すのです。人間として学ぶのは、万物全てにおいて丸ごと学ぼうとする力、発見していく歓びと発明していく幸せ、つまりは新しい自分に出会い続ける価値があることを自覚するのです。

刷り込みというのは、当たり前のところにありすぎてそれが観える人になるか観える人から指摘されるかもご縁のように思います。真理にあって真理に気づくのもまた人間のご縁ですから縁尋は本当に奇妙なのものです。

だからこそご縁をいただけるように願うように、自分から自分の価値を日々に再発見し再発掘していくことは刷り込みを取り除くことと同様に何よりも大切な学び方のポイントであろうと思います。

日々、新しいものに気づく感性を、流されずに楽しむ好奇心を甦らせて新生し続けようと思います。忙しい時こそ、仕事の量が多い時こそ、学ぶ機会が沢山来ていることに感謝し、どんなことも見逃さず遣り切っていきたいと思います。

志道の心得

吉田松陰に「士規七則」というものがある。

これは従弟の玉木彦介が元服したときに作り送ったものを歿後に子弟たちが復刻しそれぞれが持って自らの規範としたものです。

そこには道を歩むものとしての心得が書かれています。先日もまた新たに松陰先生とのご縁があり実践の大切さとその心構えについて学び直すことができました。

まずこの士規七則の冒頭にはこういう言葉ではじまります。

『冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。 顧ふに人読まず。即し読むとも行はず。 苟に読みてこれを行はば、則ち千万世と雖も得て尽すべからず。 噫、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざる人の至情なり。 古人これを古に言ひ、今我れこれを今に言ふ。 亦なんぞ傷まん、士規七則を作る。』

私の意訳ですが、(本を読めばどれも善いことが書かれていてそれを学ぶことができる。しかし考えてみたら、それは読んだとは言わないのではないか。それは読んだことを実践しないからだ。正しく読みもしも実践するならばその書かれたものを永遠に実践してもし尽くせるはずもないほどのものだ。それなのにここにまた私は書こうとし言おうとするのは知っていることをどうしても伝えたいという人の情から興ってくるのです。先人たちはこれを昔から言っていますが、私も今ここにこれを言うことにする。心配しても仕方がない、ここに士規七則を創ります。)

つまりは、ともかく「実践」することが全てにおいて何よりも重要だということを述べているように思います。論語読みの論語知らずではないですが、実践してこそ価値のあるものを読むだけで分かった気になるような人物にはなるなと諭しています。

真理ひとつ、先人の人生で掴んだ叡智ひとつ、すべては実践することで永遠に学ぶ価値があるままだとしています。

今回はその中の一つの言葉と出会ったので自分なりに刻んでみます。

「士の道は義より大なるはなし、義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。 」

これも意訳ですが(志の道は、大義を超えるようなものはない。大義は勇気によってはじめて実践され、勇気は大義によって伸びていくのです。)と書かれます。

孟子の「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」(自分で素直に内省し、そこに正義があると思うのならば、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも私は全うする)という意味でしょう。

吉田松陰は文字通りの人生を歩んでいます。孟子の講義をしながら、学問とは実践することであると何よりも背中で示したのが松下村塾だったように思います。

本ばかりを読み漁り、実践をしないような生き方をするのは勇が減退しているからかもしれません。もしくは義が弱体しているのかもしれません。天地人の中で、老子や孔子があってもそのどちらにも偏れば実践よりも盲目な批評や評論ばかりに陥るのかもしれません。

自らの決心やその真心にどれだけ純粋にいられるかは、日々の心掛け次第、自分次第なのでしょう。

克己復礼、胆力を磨き、実践を高めていく努力に邁進していこうと思います。
吉田松陰先生には鏡としていつも生き方を正していただけます、有難うございます。

理念の実践

人は自分の状況を判断し、バランスを見直すときどこから見るかというものがあります。

よくバランスを崩すというのは、どこが中心であったかを思い出せないことに似ています。そしてそれは何か特別なところや特異なところばかりを探しては、これのせいだとか、あれのせいだとか最もらしく聞こえますが実際は当たり前過ぎて気づかないところがほとんどであるのです。

それは例えば呼吸や心拍、体温、また日頃の食事や睡眠、口癖のように潜在意識が全自動でやっているところが乱れることにあるのです。

プロ野球監督の落合博満さんがこういうことを言っています。

「精神的なスランプからは、なかなか抜け出すことができない。根本的な原因は、食事や睡眠のような基本的なことにあるのに、それ以外のところから原因を探してしまうからだ。」

これは同感で、非常に微細な所の生活習慣が日頃から次第にズレているのに気付かないことに根本があったりするのです。

精神的スランプの場合などは、ほとんどが自炊や食事内容、また睡眠の質から日々の夜の過ごし方などが影響があるのです。

何かのトラブルが発生するとき、そのトラブル自体に翻弄される人とそれを客観的に冷静に対応し日頃から平常心を失わい人がいます。この前者と後者の違いとは、ほとんどが生活習慣の乱れから来るといったらきっと驚くだろうと思います。

しかし実際は、平常心を失う理由は「正しくない」ことを続けていることから発生しているのです。正しいこととは何かといえば、本来の自然の姿が観えているということです。これらの自然を見失わない技術、本来の状態が観え続けて動じなくなる胆力が基本ということなのでしょう。

例えば、玄米を主食に、早寝早起きをし、先延ばしをせずに今に丹誠を籠めてお勤めをする。

こういうこと一つができる人は、ズレるということはありません。日々の環境は変化していくし、ややもすると流されることがあるのが人間でしょう。流されないというのは、基本的生活習慣を正すということから直すのが根本ということです。

潜在意識を変えるというのは、潜在しているところを変えるという意味です。顕在化してくるところは、すべてその基は潜在するところが握っているのです。基本から練習するということ、基礎練習を続けるというのは、その基となるところを鍛え直すということなのです。

今の時代は様々な誘惑によってそこに引きずられてしまうように思います。油断すると気が付くと自分の都合の良い方へと正当化されてしまい流されることもほとんどです。

だからこそ、正しいことをすることにこだわるのが基本の元、つまり実践ということなのでしょう。

生活習慣を直すということは難儀なことですが、それが正しく身に着くことでまた自分自身の自由が増えていきます。理念があるからこそ潜在するところを見つめることができますし、理念があるからこそ本質を見極めていくことができるのです。

理念の実践を積み重ねて、自重慎独していきたいと思います。

自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

丹念を積む

人間は目的を見失ってしまうと本質から外れてしまうものです。

これは、全体と部分の物の見方にあるようにも思います。全体のことを最初に考えてから部分に入れば、全体としてどうしたいのかというものは確認することができます。しかし部分に入ってしまえば、途端に全体が見えなくなってしまい問題がすり替わってしまうというものがあります。

以前、大工の棟梁の話の中で、棟梁は常に全体を観るから作業をしないということを聴いたことがありました。職人というものは、入り込んでしまうのでどこまでやるのかということを見失い没頭してしまうので常に全体を視通す役割を棟梁がしているということです。

これに似ていて全体にとっての問題の解決と、部分にとっての問題の解決に視野の隔たりがあるように思います。常に全体や部分を行き来しながら問題を解決していくというのは、御互いが役割分担をしつつ大きな目的のために心ひとつに取り組もうということです。

そして本質や目的から外れないというのは、常に全体も部分も「つながっている」「無駄は一切ない」と信じ観えるようになっていること、言い換えれば私心が入り込んでおらず真心で取り組んでいるということを忘れないということであろうと思うのです。

真心で行うことは、そこには自分の都合や自分さえよければや自分の私心といったものが入り込む余地はありません。人間はどうしても自分の計算を入れていくからそこに自分寄りに物事を運ぼうとしたくなるものなのです。

先ほどの棟梁のお話ですが、飛鳥時代の大工はみんな棟梁たちのような仕事をしていたともありました。先人たちは、丹念や丹誠を籠めてひとつひとつのいのちを大切にして過ごしていたのかもしれません。目的を忘れずに取り組むプロセスそのものを何よりも重んじたということは、そこに道や信念があったということを覚っていたからのように思います。

先人たちに見習い、どのような御仕事も本来は何のために行うのか、そもそも目的は崇高な理念や大切な志のためではないのかと、自らのいのちのある時間に真心を尽くして手間暇を惜しまず手入れをしていこうとするのが本質から外れないことのように思えます。

本質というものは、自分のいのちの遣い方なのです。

意味のないものはなく必用なことを行うのだから、増えるとか減ったとか、遅いとか早いとか作業のような観念に縛られるのではなく、そのどれも勿体ない尊いお仕事をさせていただくのだと有難く一つ一つを丹誠を籠めて丹念に取り組んでいくことが目的や本質そのものと一体になっていることなのでしょう。

師走に入って何だか気分から忙しなくなってきている気がしますが、どのお仕事にも丹誠と丹念でと戒めていきたいと思います。毎日に流されず作業にしないで、その一つ一つの意味を丁寧に見極め意味づけし自分のいのちの時間をじっくりとかけること。

増えることや手間暇かけられることに、真心をさせていただく機会が増えたのだと感謝し、気持ちを鎮め、お腹の丹田から熟慮して時事を判断していきたいと思います。

仲間と一緒に集まり取り組む尊い機会が初心の確認となっています。
有難うございます。

力の本質~変化を味わう~

よくあの人は営業力があるなどと言われるような場合があると思います。他にも学力が高いとか、能力とか〇力とつくものを語る時、その人がよほど何か自分と異なる才能があるからと分別していることが多いように思います。

しかし実際はどうなのかということを深めていることは少ないように思うのでここで書いてみます。

そもそも何でも力というものは、最初からあるわけではありません。よく「力が具わってきた」とか言われるように力というは次第についてくるものです。最初はないものが次第に身に着いてくるというのが力の本質です。

それでは何によって備わって来るのかといえば、当然のことながら「努力」であることは自明の理です。人は最初はできなかったことが、次第に何かを行うことによってできるようになってくる。

その何かとは、それだけの努力の賜物によって得られるということなのです。

よく努力してますがと思い込んでいる人もいますが、ほとんどは今もっている才能だけで乗り切ろうとしているだけで新しいことを真摯に勉学しようとまでの努力はしていないように思います。今までのやり方で通用しなくなっているからこそ、新しいことを常に学び直し、学び続けていくことで新しい力を具えていくように思うのです。

なので力の本質とは努のことです。この努の語源を辿ってみると その「努」は「奴」と「力」でできています。つまり「奴」は「女」に「又」を加えた文字。「又」は手を表す形です。つまり「奴」は「女」を「手」で捕まえて奴隷にすることからその意味に「めしつかい」「しもべ」「やっこ」となっています。また「奴」に「力」(鋤)を加えて、農奴が農耕に努めることを意味する漢字が「努」となりそこから「つとめる」「はげむ」意味ではないかと言われているようです。

これらの努力というのは、それだけ地道に仕えるということを連想させ、つまりは自分に自分を従わせていく力をつけていくことかもしれません。目標管理というものも、これは自分が自分を変え従わせるために必要になるのではないかと思っています。

長くなりましたが、営業力とは営業努力であること、学力とは学努力であること、他にも〇〇力という言葉もすべてその間には「努」が入るのだということなのでしょう。

努力なしに目標も産まれず、目標なきものに成功もまたないように思います。以前、顧問の方から教えていただいた言葉がようやくここでつながりました。その方の尊敬していたリクルート創業者江副社長の言葉だと紹介してくれました。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。」

これは営業に限らず全ての努力に通じる言葉だと思います。それだけ大量に最大に動いたか、どれだけ本気で沢山のことを遣り切っているか、その機会を産み出した分だけのものをはじめて掴み、そうした努力の上に他人に分け与えることができる、そしてその成果としてのみ変化があるということ。

まずは自分からチャンスを産み出す努力をすることのように思います。それらを本人自らできるようになるまでがコーチの真の役割かもしれません。

最後に、努力の人というと思い浮かべる方に王貞治さんがいてその人の言葉に勇気をいただきます。

「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」(王 貞治)

自分の都合でやる努力ではなく、自分を従わせるほどの高い目標に向かって真の努力を積み上げていくことのみが努力と呼んでいいのでしょう。ただ努力に悲壮感がでてくれは人生が勿体なくなる気がします。一期一会のご縁は天からの贈り物ですからその天に応援されるほどの報われる努力の先に出会ったことのない奇跡が待っていることを楽しみに、日々にワクワクドキドキと好奇心の情熱の炎に薪をくべ、その時々の変化を味わい新たな心で挑戦していきたいと思います。

家訓の価値

家訓というものをご縁があり深めていると色々なものがあることに気づきます。

有名なのは、上杉謙信、徳川家康、伊達正宗、保科正之など一家を為した人たちが子孫のために訓戒を遺したように思います。一家において、一家を維持継続していくために子孫は何を守るかということを説いているように思うのです。

「創業は易く守成は難し」といいますが、新しく事業を興すことよりもその事業を受け継いで守り続けることにほうが難しいという意味で用いられるものです。

何代も先のことも慮り、どのように生きていくべきかということを自分の代を真摯に生き切る中で得られた叡智を語り継ごうとした姿がそこに観えます。伝える方も必死だったあの時代、生き死にの中で大切なことを伝えようとした重みを感じるものが家訓のように思います。

また江戸時代の藩体制の基礎をつくった藤堂高虎家訓200箇条はとても興味深いものがあります。ご縁のあることから調べていると、正確には204箇条からなる手引きが書かれています。

「第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意」 (寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。)

というように死生観、生き方の心得からはじまります。

「第204条 物事聞とも根間すへからす」(物事を聞く時に、根本のことを聞いてはいけない。)

で終わっています。この文章を最後に持ってくるもの、また味があるように思います。細かく具体的にこうするべきであるとしたのは、それだけ大切なことなのだとそれぞれの意味を深めて書き記したものが残っています。

この家訓を読んでみると、その人柄が伝わってくるものもありお会いしていなくてもその思想や願いが伝わってくるからとても不思議な感覚を覚えます。

また何かある時にすぐに思い浮かべるものに柳生家の家訓があります。これは有名なものなので知っている人も多いと思います。

「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」

すべてのご縁は活かすものです—とこれはシンプルですが、そのチャンスを活かすということの価値をこの一文で全て語り尽くしています。タイミングを逃さないというものは、君子時中すとあるようにご縁に活きる、活かされているという智慧そのもののことなのかもしれません。

家訓には、大切な現場の智慧が入っていますし伝えようとする側の真心が籠っています。伝承していくことが役割だとしたときに、そこをもう少し奥へと親しんでいきたいと思います。