自然治癒の学び

病を得て、治癒を待ち、回復するのには長い時間がかかるものとそうではないものがあります。しかしほとんどがその病そのものの質によるものですか、相応の時間を要するものです。

どこかで何かが無理をすると、バランスが崩れて外部から病が入り込んできます。そうなると感染症に罹ったりすることで、様々な炎症が体内で発生して心身共に苦労することになります。

先月からの体調の不調も落ち着いてきましたが、するとすぐにまたいつものように求道して寝不足になりまたハードに働き向き合いはじめるところを鑑みると自分は元気な証拠だと懲りないことに驚くばかりです。ふり返れば少し体調が悪い時の方が、坦々と安全運転のようでいいのかもしれません。

今回の長い病の体験の中でまた得るものがあったのですが、治癒というのは常に内部から訪れてくるものです。それをじっと待つというのは大変なことです。例えば、外側では様々な出来事が次々に発生してきます。特に自分を捧げていこうとするならば、求められ応じるままに日々は忙しくなっていくものだからです。

しかしその出来事に心が着いてこなかったり、身体が着いてこなかったり、感情が伴わなかったりすると、そこから中心が乱れ治癒が働き難くなってきます。それを薬ですぐに治療だとしても、一時的にその身体や気持ちを整いますが副作用があるもので全体の治癒にはやはり掛かる時間は必ず掛かるのです。

長い時間をかけて治癒をしていると、ちょっとずつですが隅々まで回復していくのが自明で伝わってきます。動的と静的ではないですが、自然と同じく急な災害で何かが崩れても、それを時間をかけて回復していくかのように常に私達の姿も自然と同じように働き治癒も等しくできているものです。

しかし自然治癒をするのは待つだけのように思われますが大変な勇気と決断が必要です。病になればすぐに治さなければという常識を持つ私たち現代人は、すぐに治せる方法ばかりを試しているうちに自然治癒の邪魔をしてしまうことがあるように思います。治ったとか治らないとかあまり考えていると、感情の起伏にまいってしまいます。

そうして急いで修理をしてしまうと、後後で面倒なことにもなります。例えば私の地元の神社が、水害で水路が崩れましたがそれを工事でダムを設けコンクリートで固めてからは水質が汚れ、生き物がいなくなり、暑くなると嫌な匂いが漂っています。そもそもの神社とともに守ってきた自然の水の流れ、浄化という本質から離れて人間の都合が優先してしまうと修理の意味をなさないように思います。

自然を敬い、自然に見習うということは、自分の中にある自然と対話をすることに似ています。自然は常に内部から訪れるものだと私には感じるからです。内部から来る自然によく耳を傾け、勇気を出してじっくりと待つことが本来の自然であろうと思います。

せっかちなのはまだまだ常識に囚われている自分への警鐘であろうと実感しました。自然治癒に感謝し、その自然の自信を今日の実践に換えてまた使命を探求し、捧げ切る日々を楽しみたいと思います。

 

覚醒2

昨日は、瑞厳和尚の話を書きましたが日々の中で常にどれだけ誠実であったかということは全ての教えの本筋に中るように思います。

昔、論語の大学に「小人閑居にして不善を為す」とありましたがあの意味を暇になってしまうとつまらない人はすぐに良からぬことをするという意味かと思っていました。しかしよく実践を省みているとそうではないことに気づくのです。

あれは、暇になると全身全霊で真心を尽くすのを怠り、誠実であることをしなくなるという意味ではないかと自明したのです。つまりは、人は頭が良くなるとつい計算してこうだろうとかああだろうとか脳で考えるだけで、心、体、意を一体になるほど命を懸けて何かに取り組もうとはしなくなるものです。

常になるべく動かなくても善い方法、大変ではない方法ばかりを選択しはじめ、自分にとって不利にならないようにとか、自分の都合のことばかりを考えだし、自力を出し切らないのです。言う換えれば真心であることよりも、こんなものでいいだろうといった打算や妥協が入ってくるのです。

つまりやることがないことが続く時、もっとできるのに遣らないときにこそ人は不善になりやすいということなのです。大学にはそれをこう書かれています。

「所謂其の意の誠なるとは、自らを欺くこと無きなり。」

意訳ですがつまり感情が全身全霊であるというのは、自分を欺かないほどに実践しているということなのです。常に真心を尽くそうと、閑になって頭でっかちに計算したりしないよう、自分の心と感情と身体を一体にして考動を尽くしていけば次第に誠実になっていくものです。

誠実であれば、天道や人道の本筋に触れるので次第に善転をはじめて万事ことは運ばれていくものと思います。私の造語ですが「人事を尽くして天事を待つ」というのは、どれだけ今の自分があるがままの一体であったか、つまりは誠実で真心を使ったかということだと私は思うのです。

自分を優先せずに、常に相手のことを自分のことのように思いやる中ではじめて全身全霊は出てくるものです。それを出し切る実践を積み上げることによってのみ、はじめて己事究明も為されるように思います。

やはりどれだけ相手のために使ったかというのは誤魔化せません。常に戒めて、心配する人たちのためにも、自分が大切にしたいものを大切にするためにも、全力を出し切っていきたいと思います。

最後に大学にはこの言葉の後に二回同じ文章でこう続きます。

「故に君子は必ず其の獨を慎むなり。」

一人のときも、二人のときも、何人でいるときであろうとも、自我一にあろうと、素直で誠実であろうと努力するということだと思います。暇になるのは、暇をもてあそぶのは全力であることを忘れてしまうからです。

遣り切る先にこそ真の自我一の覚醒はあると信じます。すぐに人は自発でなければ流されるものですから主体を遣い切れるよう日々全身全霊であるかの自問自答を内省により大事にしていこうと思います。

覚醒

毎日を生きている中で、本来の自分のままで素直に全てを発揮しているときと周りに合わせて自分のようなものでいると勘違いするときがあります。

例えば、ぼやっとした中で自分が何となく生きているときと、本気で生きていると実感するというものがあります。今というものに流されてしまうのは、常に目覚めた自分を維持するのは自らが主体で発揮し続ける必要があるからです。

風に吹かれて飛んでいる鳥も、風任せではなく風に乗り風と共に一体になって目的を達しています。これと同じように、人も日々に吹いている風とどれだけ一体になって自らを主人公として一体となったか、つまり自己を発揮したかということによるものだと思います。

簡単に分かるようなものはこの世には存在せず、常に自問自答、己事究明していくのが今に生きるということでしょう。

その今をどれだけ追及するか、何の意味があるのか、それが何を繋がっているのか、自分はどう言っているのか、自分が何をしたいのか、自分の使命とはと、常に主体が自分であって相手や周りにあってはならないのです。

相手がどうであれ、自分が何を探究し究明したのかというのは常に本番である今に問われます。その人が単に知識として得たものを振りかざすことが意味があるのではなく、主人公であったかということに本来の絶対的な意味があるのです。

禅の無門関に瑞巌和尚の問答が紹介されています。
ここに目覚めること、自発的であること、主人公とは何かを自明しています。

「瑞巌ずいがん和尚、毎日自ら主人公と喚よび、復また自ら応諾おうだくす。及ち云く「惺惺着せいせいじゃくや、喏だく。他時異日、人の瞞まんを受くること莫れ、喏喏だくだく」(『無門関』第十二則)

日々に自分に問いかける。「オイ、目覚めているか主人公、オウ、醒めているよ。そしてどんな時も自他を騙すんではないぞ」と。

これは何よりも大切なことです。

人は刷り込まれて本来の自己を見失いますが、まさか自分が刷り込んでしまっているとは思いもしないものです。しかし実際は、自分の安易な知識の流用やモノにしていない理解のせいで周りを惑わしてしまうことがあるからです。

全ては主体を誰かに預けたり、他発的な行為を繰り返す中で、本来の自分は刷り込まれ出て来れなくなるのです。毎日、掃除をするかのように目的を確認したり、目覚めているか、醒めているかと確認することは、その意味を確かなものにするのに似ています。

常に惑いから覚めるような、決断や決心のところに帰ることこそが修行の本質かもしれません。日々に覚醒しているかどうかをチェックしていきたいと思います。

 

自分の仕合~コーチング1~

人は自分の持っている力を引き出していくことで自分を発揮し活かしていくことができます。自分を自分で存分に発揮さえしていけば、自分のベストで挑んだとも言えるからです。

しかし一般的には自分では自分のことが分からず、自分の持ち味に気づかないものが多いとも言えます。それは自分というものを外からみて自分はこうなんだという刷り込みや先入観、固定概念があるから本来の自分というものが分からなくなっているのです。

自分がこんなタイプだろうといつまでも誤解したままでいると、自分には合っていないことを追い続け無理して合わせようとしたりします。本来の自分の凄さというものを発掘していくのは、自分を自分で変化させていく面白さを感じたり、新たな自分を引き出してくれるコーチがいることで自分というものを知る楽しさを得るように思います。

スポーツなどでもそうですが、自分というものを発揮していくのに、「自分の試合をする」という言葉があります。これは相手の試合でもなく、誰かの試合でもなく、何かに合わせるのではなく、「自分の試合」だったかどうかを常に持つということです。

いつも何かに合わせていたら、本来の自分を発揮していくことはできません。例えば試合になれば相手に呑まれたり、自分のコンディションが悪かったり、環境やメンタル、その全てが本番では求められます。

そういう時こそ、主人は自分、自分を発揮しようと、自分の最良のものを出し切っていくという姿勢が大切になります。自分が主人であるには、目的が必用です。つまりは何のために遣るのか、そして自分は何を伝えようとしたのかという自問自答が一本立った状態とも言えます。

自分の最善のもの、自分の最良のものというのは、自分の持ち味全てを出して勝負するといいうことです。相手に合わせて誰かに合わせて何かをするのではなく、自分の試合をしたかどうか、主人公は自分のままで最期まで遣り切ったかどうかが問われるのです。

コーチの役目というのは、この自分らしさや自分の試合をさせてあげることに他なりません。その人の最も価値のあるものを引き出すのです。

そうやってどんな時でも、その人が自分の持てる全力を出し切れたなら勝敗を超えた清々しさが其処に顕現されるのです。それを積み重ねることによってその人は、その人らしく本物に成長していきます。

またそういう人たちの最善の仕合がお互いの持ち味が活かされることで互いに成長し、また尊敬しあっていくことができるのです。善い仕合というのは、単に勝ち負けが決まるものをいうのではなく、互いに持てるものを全部出し切ったと思える時に実感するように思います。

日ごろの努力も、日頃の練習も、本番で「自分の仕合」をするためとも言えます。日頃が本番だという意味は、日頃から出し切ろうとしていないのでは本番でも出し切れないからです。

力というものは何か自分が加減をするもののような刷り込みがありますが本来は静も動も強いも弱いも、全ての力を出し切ることではじめて力という存在を実感するものです。

自発的であったり主人公であったり、自分らしくであったりというものは、自分のベストを常に尽くすことを忘れないでいることのように思います。環境に合わせて力を出すのは自力ではないのです。

自力を出して勝負をすることは清々しいものです。

スポーツマンシップの本質は、自力を出したかに尽きるように思います。
さらにコーチングを深めていこうと思います。

自然の整備

自然の中では、気候の変化に対して大地の自然も順応します。

例えば、雨が降ればその雨にあわせて土が流され川も形を変えていきます。天候に対して、自然は素直に自分たちの方を変化させていくものです。

しかし、人間は気候が変わっても自分たちの都合の悪い形にならないようにと頑強な整備をして変化に対抗しようとしていくものです。

もちろん、人道として何事も人事を尽くすことは大切ですがそれはただ同じままでいるために自分を頑なに変えないというものではなく、自然の流れが変われば自分の方を変えて自然に合わせていくという意味が本質です。天道として、自然が色々なものを破壊し創造していく中で、私たちもその自然にあわせて変化していくということが本来の整備になるのです。

自然農の畑に出れば、四季だけではなく雨や風、日照りなどもその時機や時流によって異なってきているのが分かります。

だからこそそういう自然の変化に合わせて、よく観察し、自然全体で何が起きているのかを察知して年々に準備していくことが自然の整備であろうと思うのです。

突然の変化に対応できるように自然に変化に合わせているのが、本来の自然の姿であろうと思います。不自然さというのは、そういう変化にも気づかず、変化にも抗い、いつまでも変化することよりも現状を維持していこうとすることの方が歪みを出していくように思います。

自然体というものは、常に変化に合わせて自分を変化させていくことです。

それはこれでなければならないから、変化を楽しむ、日々の新たな挑戦を自然に応じて任せて準じて備えていくことのように思います。

自らの整備を怠らず、自然をよく観る目を養っていこうと思います。

目的意識~夢を掴む~

自分が何のためにやるのかということを持つことを目的と言います。人は目的を持っていなければ、行う事柄の意味を日々に積み上げていくことはできません。単に同じことの繰り返しであっても、それが何のためかと培っていく人と、そうではない人では長い年月で大変な差がついてしまいます。

例えば、何かを行う際に、単に言われた通りに従って考えずに行う場合は目的を持っていないとも言えます。しかし何のためかを全てに考え抜き、確固たる信念にまで昇華した目的を持ちそれに取り組めば着実に目標に近づいていく実感もまた得られるのです。

この目標というのは将来、こうありたいという結果のことです。そして目的はそれを実現するために一体何をするのか、言い換えれば何のために今、これをやるのかを自分が持つということです。もっと平坦に私なりの言い方をすれば、目的は「何のため」、目標は「何であったか」ということです。

目標を持つというのは、将来の夢を持っているということです。こうなりたいとか、こうありたいとかもあるでしょう。しかし本来の目標というものは、今、最も身近な人の御役に立っているところの延長線上にあると思うのです。家族でも友人でもお客様でも、社会に何の役に立っているかを観ればいいのです。

なぜなら人は、無意識ですが自分の魂の声にしたがって自らの道を必ず歩んでいるからです。それがどんな職業であれ、誰かとの出会いであれ、そのすべては必然であるからです。

必然というと運命論者かと言われるかもしれませんが、そうではなく社会というのはひとりでにできたのではなく、周りの全ての中で自分が存在しているからです。

万物は循環し万命は流転するように全てはつながっている中で自分が生かされているものです。あのお花一輪も自分のみで生きているのではなく、そこからつながりを辿れば地面の土、周りの草花、昆虫、気候、山々、雲や風、太陽から月、銀河系や大宇宙、全体無法まですべてにつながって存在しているのです。

自分勝手に自分だけで夢を探しても本来はつながりのなかで今の自分の布置があるのだから今の自分をあるがままに受け容れる方が将来の目標が観えると思うのです。日々の生き方が死に方であり、夢とは死を想えば観えてくるはずだからです。自分の生きているうちと、死んだ時のことを考えれば目標は誰でも設定できるはずです。

そして目的とは、自分が生きるのは何のためにあるのかを常に心の芯から離さないで過ごすことのように思います。そうすることで意志が明確になっていくように思います。この意志とは自分の自我欲も感情も迷いも惑いも、善転させて芯の強さにしたことを意志と私は呼びます。

そういう意志の強さ、つまりは何のためにこれをやろうと自らをしっかりと持つことこそが本来の自分らしさであり自分を持つということになるのです。どんな時も自分を持つというのは、言い換えれば目的を常に忘れないでいる自分を維持するということです。

ちょっと周りの環境や相手の意志の強さに負けてその場に流されないように、「何のために」ということを常に今を深く探り、そして着実に今の学びを掴み取っていくことが目的意識というものです。

人生はどのような目的で生きるかでその目標も周囲に顕現していくものです。それはまるで何か偉大なものに導かれるようにシンクロニシティに包まれ自然に自らの道を照らしてくださるように実感するものです。

今、思い返しても「今」この瞬間瞬間の選択の連続で夢のような日々を過ごしています。

夢とは、今にどれだけ一期一会に遣り切るかというのが夢を実現することだと私は信じています。自分の都合ばかりを思い計算せず打算せず、どれだけ利他に自分を尽くし切ったか、目的を達成するためにいのちを懸けたか、今に出し切ったか、その場所にだけ存在しているものが夢の本質のように思います。

過ぎ去っている今を何回眺めても、道逝く人を想えば人の夢はとても儚いものに感じます。
だからこそ、目的意識というものを常に自分の中に確認した実践を行いたいと思います。

天才児

障害児という言葉があります。今では障害の害の字が合わないからと障碍児としています。

私は前から何を持って障害かということについては色々と自分で調べてきました。誰が言いだしたのか、そして本当にそういう意味かということをです。

かつては「障礙」とか「障碍」と書いていたものが戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったということや、また保育施設などに補助金を出すためには特別な子どものための費用とはできず、障害児だと出せるからという理由で省庁の担当者が名目をそうしたこと、ほとんど本質的ではない安易な理由でその言葉の定義が書き換えられたことに憤りを覚えたものです。

その後はヨーロッパへ視察し、保育現場で問答したときも日本で使われる障害という意味と世界で使われる障害という意味が異なることも知りました。大前提で使われる人間の尊厳や人権という言葉の意味も日本とヨーロッパでは使われ方が異なります。子どものためにという言葉も、大人主体で使うか子ども主体で使うかで異なります。

先日のドイツ視察でも、向こうでは障碍児のことを天才児であると定義していました。例えばIQが高い子どもも障碍児ですし、アスペルガーやLD児と呼ばれる子どもたちも障碍児、もしくは非常に何かに突出した能力を持つ子どもも障碍児ということで天才をつぶさないようにと丁寧に配慮します。

しかし海を渡って日本の現場を見ての認識は、普通のことができない子ども、何か病的なものを生まれながらに持つ子、気になる子というような何かネガティブな意識を持っている人が多いように思います。天才から問題に換わるのです。

だから配慮の仕方も、天才を扱うのだから天才に接するためにどうするかという配慮の考え方と、問題を扱うのだから問題に接するためにどうするかという配慮の考え方という配慮する側の考え方に相違があるのです。

そもそも動物と話ができるとか、直観的にイメージで理解するとか、透明なセンスを持っているとか、心の世界を映せるとかいったことは、その人の役割や天命から生まれながらに必要だと自分に持たせている能力です。それはその人の徳が、世の中の役に立てるようにと自らが選んで発達しようとしているものです。

それを阻害するのは何かといえば、周りの人たちの刷り込みではないかと私は思うのです。矢印を相手へではなく自分へと向けてみれば、平均的ではないものを普通ではないとし、それをネガティブに捉えるか、それをポジティブに捉えるかは、社会を形成していこうとする私達大人たちの生き方、あり方、工夫が常に問われているだけです。

思いやりのある社会を創ろうとしたら、そういう多様な能力を持った人たちがそのままでもいい環境を創りだそうとすることが本当の豊かさにつながっているはずです。

障害になっているのは、子どもの方ではなく、自分自身の先入観や固定概念が障害になっていないかと内省することこそが配慮の本質ではないかと私は思います。異なっている能力そのものを引き出し、認め、活かそうとすることに社会の真の価値があるように思います。

障碍児については全ての子どもが天才だと配慮していくことが、私たち大人の固定概念を取り払うことになるのでしょう。気になる子がたくさんいるということは、それだけ天才児がたくさんいるということです。そして天才が良い悪いではなく、普通が良い悪いではなく、ただその天が与えた才がある、そして人にはそれぞれお役目という差異があるのだと認め、大切にしていくのが自然の見守りと同じような視点の姿勢に立ち返ることです。

多様な自然がイキイキするように、それぞれの役目という持ち味を活かすためにこの障害という先入観と言葉の定義そのものを発達を通じてひっくり返していこうと思います。ミマモリングプラスの、差異分析も、天才児の意味もそこに籠められています。

本来の実践~初心を忘れない~

人間は大切なことを忘れてしまう生きものと言えます。

例えば、初心などもそうですが最初如何にそれが大切だと理解していても日々に流されていく中で次第に考えなくなりそもそもなぜこれをやるのかという理由すらも思い出さずにマンネリ化していくものです。

他人が言った言葉でもそれが自分のものになるまで一つのことをじっくりと時間をかけて自分で考え抜いたり、考え抜いたことを行動したりすることで自分の考えになったとなるまでやることではじめて本来の自発性が働き取り組んだといえます。

しかし誰かに言われたことをただ鵜呑みにして、それをやればいいのだろうと自分の頭でその意味や本質を考え抜かなければ次第にそれはその人の考えに単に従ってやっていることになり、自分自身が決めたことではなく誰かに依存して続けてしまっていることになるからです。それでは面白くなくなり、自分がやりたいことが分からなくなるのです。

何かを誠実に続けるには、自分が物事と常に正対し続けるという本質を伴います。

だからこそ自分が決めたことを自分がいつまでも決め続けるというのが初心を忘れないということです。一旦決めたからとそれでいいわけではなく、決めたらそれが最期まで決め続けたままにしなければならないのが本来の実践です。

しかし毎日の繰り返しの中で、慣れてきてしまうと何となくやることが先になり、そもそも何のために行うのか、なぜそれはやろうとしたのかということは後回しになっていくから忘れるのです。

日々に新しくならないのは、やり方を覚えてしまってそれに落ち着こうとするからです。脳が考えるのをやめたがるからです。だからこそ単にやることが続くことが良いわけではなく、正しく実践し続けることが善いのです。

その人の考えであっても自分の頭で考えてそれを自分のものにするというのが学問です。

例えば、何かの気づきがありやってみようと思ってはじめた日々に行うお祈り一つであってもただ単に手をあわせているだけでそこに心が入らなければ何のために祈るのかを忘れてしまうものです。だからこそ、大変でもそもそも何のために祈るのかと常に初心を毎回思いだし、自分で考えを深めて今此処に心頭身一体に定めて行動しなければ最初の定義した意味から次第に外れてしまうのです。

本質というものは、毎回何かを取り組む前に自分の頭で考え抜き、心で定めたところを思い出し常に初心を忘れないようにしなければ辿りつきません。

言われてからやるとか、頭で分かったところでやるとか、それは考えないことでラクにはなりますが、そのラクこそが遣り甲斐や生き甲斐などを見失い、受け身になり楽しくなくなる原因になっているのです。

考えずに流されてしまう毎日ではなく、自分から考え抜いてでも流れに乗って味わっていこうとするのでは同じ旅路であってもそこに一日の充実があるかどうかが決まってしまいます。同じ積み上げるのならば、無機質に積み上げるのではなく、大切に積み上げていきたいと願うのが自分の人生です。

それに周りにあわせて他と比較して生きるのはラクですが、本来の本懐のままで自分を遣り切ることこそが人生の醍醐味であろうと思います。今に生き切るというのは、なぜこれをやるのかを常に自問自答し自分の頭で考え抜き続けるという実践を行うことでしょう。

「あなたは最初なぜ昔に自分がこの今の姿を決めたかの理由を忘れていませんか?」
「あなたはそもそも初心がどのようであったのかを忘れていませんか?」

常に自問自答は、自分に問いかけ自分が応えることでふり返りが正しくなります。

本当の問題は、何のためであったのかを流されて忘れてしまっていいることかもしれません。 いちいち忙しいとか疲れたとか、時間がないとか場所がないとか、ないないないないという根本がない言い訳にかまけて、自分で常に考えるのを怠らないように日々新たな実践に心を籠めていきたいと思います。

日々を澄ませていくためにも、内省を怠らずに本質に帰りたいと思います。

修身とオープン

オープンになるということは大切なことです。このオープンとは、心と感情の開放のことを言います。そうすることで、自分自身というものの心を澄ませて感情も澄ませていくことができるからです。その両方を磨くということが即ち、オープン=素直になるということです。

論語の大学に修身についてこう書かれています。

「其(そ)の身を修(おさ)めんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の心を正しうす。其(そ)の心を正しうせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の意(こころばせ)を誠にす。其(そ)の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。
物格(ただ)して后(のち)知至る。知至りて后(のち)意(こころばせ)誠なり。意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。心正して后(のち)身修まる。」

修身の一部の抜粋からの意訳ですが、身を修めるには心を素直にしていくこと。そしてそれはまず自分の感情を澄ませて正直にしていくこと、正直にするには知を本物にしていくこと。知を本物にするのは、自らを誠心誠意、本心本意のままで在るようにしていくこと。そうして自分が素直に自然体でいるならば知は本物となり、そうなれば感情も正直になる。感情が正直になれば心も素直になる。そうなってはじめてその身が修まるのであると書かれているように思います。

これは簡単なようですが大変難しく、人はどこか他人にあわせて自分を決めているものです。つまりは自然体であろうとするよりも、無理をしてどこか正直ではない自分を演じるものです。良く見せようと思ったり、価値を下げないようにと我慢しているものです。

これが悪いとはいわないのですが、そうなることでオープンではなくなれば余計に身が修まらなくなるのです。オープンでいるというのは、感情をそのままに表現することを大切にしていくということ。つまりは、嬉しい時、悲しい時、辛い時、その自分をそのままに周囲を信頼して開放してもいいと安心している自分があるということ。

そして心がいつも穏やかで澄んでいるならば、その感情も決して周りを傷つけるようなものにはならず、穏やかに弱い人たちを助けていくような勇気になるはずです。

オープンでいるということは、何でも話してもいいという姿勢を自分がいつも周りに示していることです。自然体になることが私にとっての修身ですが、それは仲間にいつも心を開いて自分の感情も含めてオープンでいることのように思います。

素直になれば正直になれば、無茶な事や無理なことを誰かに押し付けるようなことはしなくなるものです。修身とは、本来の明徳や玄徳といったその人がそのままに備えている本来の人格、もっと平坦にいえばその人の魂の個性というようなものを如何に発現させていくかをいうのです。

自分らしさというものは、どこか外に探しにいくものではなく、本来は本物の自分を発掘してそれを周囲へ及ぼしたときに出ているものです。

素直で正直でいるというのは、自らが安心しオープンでいる実践のことでしょう。今の時代の修身とはオープンであることが本質の維持です。常に矢印は自分へ向けて、自らが閉塞状況をつくらないように注意して身を修めていこうと思います。

文明の今

約5000年前くらいまで遡れば、世界では様々な文明が発展していました。エジプト文明やメソポタミヤ文明、黄河文明、インダス文明など四大文明をはじめ、その他でも大小の文明が発展していました。

文明とは何かと言えば、「人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす」(goo辞書)とあります。

日本では縄文文明とも言えるものが、青森の三内丸山遺跡の発見により見直されています。気候の変化にあわせて、人間は大移動をしてきました。それは食べ物を求めての旅で、その気候と風土に恵まれた場所で長い時間を生活できたのです。

もともと少しでも今よりも善い環境を求めては、新天地を開拓しながら歩んできた歴史があります。その最適な場所も、1000年単位で時間が経てば住みにくくなりまた新しい場所へと移動するという具合です。

現代の私たちは、様々な科学の発展により電気から石油、ガスなどの資源を用い、環境に左右されずに生活できるような便利なものを開発してきました。そのことで多少の環境の変化があっても、工夫してその場所で生活できるからこそ人口が増加しているともいえます。

ムラやクニという単位をどこまで広げていくのか、そしてその関係をどう他の国々というまとまりと交流し交易し維持していくのかは、かつての人達から学ぶものも多いように思います。

しかし今は圧倒的に人口が増えて、食糧が確保できているから成り立つものもあり、もしも食糧がなくなれば場所を移動しだすようにも思うのです。この縄文文明も、その終焉は気候の変動であったと推測されています。

次第に寒くなってきて、栗や果実の実がとれなくなり次第に暖かい場所へと求めて移動したともいうのです。かつてが、どのような気候であったのかはわかりませんが地球は生きているのですからこの先も環境の変化は已まないのでしょう。

気候が常に変化していくように、時代や時流も常に変化しています。この先の未来がどのように変化するのかは、この今をよく注視し、歴史や文明の辿った経過をよく観て確かめ、順応していくことがいいように思います。

貧しい時の集団の助け合いと、豊かな時の集団の助け合いの持つその意義をみつめ、本来の人間が何を規範として長い年月を暮らしてこれたのか、まだまだ調査していきたいと思います。