正心正意

日々に様々な出来事が起きる中で分からないことばかりが続きます。

そうして分かろうとするということと、どのような意味があるのかを同時に取り組む中で学問は深くなりまた楽しくなるものであろうと思います。しかし分からないということは、その分からない状態を解消しようと人は悩み迷い探すように思います。

何かのなくした欠片を探すように、人はそのあるはずだと思っているものを探す生きもののように思います。人生とはひょっとすると、そういう自らの欠片を探し求めていくものかもしれません。

何かの意味があると思う心には、どこか自分を超えた存在があってそこに導かれているという感覚や教えが入っているという心の世界があります。

目に見えるものと目には見えないものがあり、両面を照らして中間に合わせて観た時に、ああ、こういう意味があったのかと感じるのが中庸ではないかと思うのです。それにはバランスが必用で、どちらかに偏らないようにと精進しないといけません。

しかし今の時代は情報化社会で、すぐに手を伸ばせば様々な書籍はすぐに購入でき、インターネットを使えば瞬時に誰かの過去の出来事や情報が入手できるようになりました。しかしそれで知識が先に入っても、それを真心で実践していなければやはり意味づけしていくことはできないように思います。

だからこそ妄想に流されないように一つ一つの出来事に心を籠めて本質的に取り組むという丁寧な日々を送ることのように思います。自らの人生を充実させていくというのは、その両輪を自らで助け自らで廻して愚直に歩み道を往くことかもしれません。

そしてそれは真心を尽くしていく、そして感情を澄ませていくことなのかもしれません。
此処に来て、感情というものを素通りできないことを学び直しています。

最後に中庸にこうあります。

「唯天下の至誠のみ、能く其の性を盡くすことを為す。」

自らの正心正意、つまり心と感情の素直な実践、その誠心誠意こそが中庸であると。

この意味をもう一度、求め直していこうと思います。

自分に矢印

日々の出来事の中で、その問題が何のせいかということを想うことがあります。

そもそも自他のせいと何かを責めるという考え方そのものは素直とは言わないように思います。言い訳をするところから人は反省をしなくなるからのように思うのです。自分に矢印といっても、相手か自分かという意味での矢印ではなく、常に自分を素直に変化させていき続けるかという意味での矢印は自分というのが本質であろうと思います。

どこか何かのせいにするというのは、大切なことに気づけなくなるというものです。正直というものは、常に自らを正すため直すという意味になるように思います。

しかしではなぜそれが分かっていてもできないのかは、そこに競争社会での刷り込みや他人と比べて自分がどうかと理解してほしいとかいった自我のプライドがあるからのようにも思います。特に人間関係の中で、互いが認め合わずにいがみ合い、自分を先にと主張すればそこに謙虚な姿勢や態度が働かずちっぽけな発想の中で囚われてしまいます。これぐらいやったらいいだろうや、ここまでやっているのだからなどという発想は自分自身が他と比べて自分を善くみせたいがためであることが多いように思います。

本来の自分を世の中へ役立てていくために己に克つための修行などもそうですが、何が修行かといえば自分の善くないと思われる思想や行動を修正し、それを実践することで直していくことで本来の夢を実現していくのが理性と感情を併せ持つ人間の業のように思います。

自分が好きなことや楽しみながら誠実に遣り切ることに真摯に取り組めば、自然に他人は認めてくれるし助けてくれるものです。そうしてまた教えてくださっているや、また自分の善くないところを指摘してくださっていると謙虚な心で感謝まで高まれば、自分次第で現実の運命をどうにでも転換していくことができるように思います。

つい、自分のできることを行わずに誰かにすがったりしてしまえば相手次第になって自信も失ってしまいますし自分で自分が立てることもできなくなっていきます。

物事は、自分でできることに人事を尽くし、後は天にお任せしていけばすべては自分次第になるように思います。当てにし言い訳をするのではなく、言い訳をやめて反省をすれば人はみんなどうにでも変化していけるように思うからです。

反省はしようとしてできるものではなく、やはり痛い目にあって怖い目にあって辛い目にあって感情と渾然一体になった中で深く気づき変わろうと決意するように思います。また同時に、素直は有難いと感謝し、素晴らしいと感動し、もったいないと感激する中でその感情と一体になったときに同じく高く気づき変わろうとする決心をするように思います。

何でも試行錯誤していくことを尊いと念じ、人事を尽くしていくことで不安もまた解消され後はお任せとお気楽なところに入るように思います。不安な時こそ、まだ人事を尽くせるのではないかと自分を省み実践を追及していきたいと思います。

子どもたちの夢

先日、子どもたちの夢について学校での話を聴く機会がありました。

自学という時間に、自分の夢を書きなさいというものです。書かないと帰れないというのでみんなそのプリントの例から選択したり、周りをみながら必死に自分の夢を選び書くそうです。そういえば、昔、小学校の時、同じように将来の夢について書いてくる宿題があった気がします。

その時は、みんな野球選手とかサッカー選手、飛行機のパイロットや、学校の先生などと書いていて、周りを見ながら自分なりになりたい職種職業を書いたものです。

しかし、これはよく考えていると今の社会問題ともつながっている気がします。

もともと夢とは何かといえば、職種や職業になることではなくそれを通して自分が何をしたいか、どうありたいかというものが本来の夢であるからです。就職面接も自分をしっかり持たないで来る人が多いのは自分の夢を漠然を職種職業の中のものだと思っているからのような気がします。

例えば、最初は大工さんという職種でもいいのですが実際に大工になってどうしたいのかと掘り下げて聴いてあげると、「人が元気になる家を創りたいとか、家族がずっと幸せでいられる家を建てたいとか、永遠に壊れないような記憶に残るものを設計したい」とか、そこに本来の夢の置き場があるのです。

それを単に職業=夢にしてしまえば、就職したら違かったと転職を繰り返すようになるのも無理はなくそれは夢ではなく刷り込みであろうと思うからです。よく就職したばかりの新人が、入ってみたけれど違かったとすぐに退職したり転職するのは、その前に自分の初心を自ら確かめ信じていないからのように思います。

もしも自分がなぜそれをしたいのか、どんな目標や夢があるのかを自覚していれば本当に遣りたいことの実現のためのプロセスとして今の人生と運命を受け容れ、未来の夢に向かって希望を持って精進していくことができるように思います。

子どもに職業が夢だを教え込むのは、何か大きな勘違いがあるように思います。何もしならない子どもにそういう教え方をすると間違ってしまうこともあるように思います。もっと大人たちが夢を語る事が大切であるように思います。それは初心を何度も語り合うことではないかと思います、一度だけではなく折あるごとに何度でも語り合うのです。

私も、遣りたいことを遣っていますから夢が叶い続けている真っ最中でどんどんその夢は膨らんできています。そして目標も自分だけのものから周囲の人たち、また世界中の人達、人類を巻き込んで膨らみ続けています。

「未来の子どもたちが幸せに暮らしていけるような世の中を創りたい。そのために子どもの幸せが世界を変えることを信じたい。そしてそれを自分の生きている世代を正しい実践を積み上げて自らの責任を果たしたい。」

それが当下の目標なのかもしれません。後はそれに期限を設けることですが、実践を徹底すれば自分次第で期限は顕われてくるのでしょう。覚悟への入り口は、夢の入り口だからかもしれません。

夢は妄想ではなく、本質的であり理想のことだからです。

常に矢印は自分へ向けて自分がどんな夢を持っているか、子ども心に抱いた夢が大人になって豊かになり膨らんで幸せになるような実践を続けて楽しい日々を過ごしていきたいと思います。

 

正直と自立

人間には感情というものと理性というものがあると言われます。そしてそのバランスが調和していくことで穏やかで豊かな一つの人格が形成されていくように思います。

しかし実際は頭で考えているようにはいかないもので、喜怒哀楽というものもその時々の自分の感情の波によって大きく左右されていくものです。時として、それが親子であったり、兄弟、その他、身近な関係であればあるほどに感情が起伏してしまい衝突してしまうものです。

例えば、親子であれば子どもは親に嫌われたくないと潜在意識の中で思っています。これは子どもは親に嫌われれば生きてはいけず、無意識にも親に気に入られたいと思っている感情のフィルターが通っているからです。そして親の方はどうかというと、子どもは自分を好きでいて当たり前だと潜在意識の中で思っています。これも、生存本能であり自分の子孫を残していくための感情のフィルターが通っているともいえます。

こうやって親子間というものは、互いの感情のフィルターがあるのだから気にしていないつもりであっても意識の深層にはその感情のフィルターが通ってしまいギクシャクしたりもするものです。感情のフィルターは、あの心理学で有名な「ヤマアラシのジレンマ」の針のようなもので細な衝突を繰り返しながら適度な距離感を維持していくのもであろうと思います。

しかし、生長が進み思春期や反抗期になって共に親子に自立という時機を迎えます。

この時機に、そのフィルターを超えて自分らしく生きていこう、また互いに人格を持った社会の一員として認め合おうという機会が生まれます。そうやって、親子間だけではなく社会間での関係性を結び直すことで互いに信頼や尊敬といったさらなる改善が生まれそれを自立というのではないかと私は思います。

この互いへの自立というものには、感情の外に理性が必要になるように思います。

それを私は自律というのではないかと思うのです。

感情のフィルターがあったにせよ、それがあることは生存本能ですから取り除くことはできません。取り除いてしまえば逆に大変冷酷な関係になりつながりも失ってしまうからです。感情だけではだめだし、感情を抜いてしまうこともだめでそこに理性とのバランスが必要になると思うのです。

理性とは、自律のことで自分が自分で厳しく自分を正しい方へと向ける力であろうと思います。

私は、感情だけでぶつかる人たちの関係を修羅場と呼びます。そしてちゃんと理性を交えて正しい方へと互いに対話していくことを正念場と呼びます。この正念場というものは、仏陀の八正道でも言われますが、正見、正 思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の8つの正しいを実践するということです。

人間は、ややもするとこの感情がゆえに悲惨なことを体験したり、愛憎から互いを深く傷つけあったりしていくものだと思います。他人を愛すがゆえに、情深きゆえに、人間関係では常に苦楽を通して学びを続けていくように思います。それもまた人間が生活するということの根本だからです。

だからこそそうやってひとつひとつ自律して人格を形成していくことで、真の自立にもまた到達していくようにも思うのです。今のようなつながりが希薄な時代は、より一層、正直に生きていく必要があるように思います。

それは感情を含め理性も容れるといった日々の体験への正対と実践を行うことです。

人生は常に正念場。

正念場だと思って、正直で在りたいと思う自分のままに新たなスタートを切りたいと思います。

半生

本日、37歳の誕生日を迎えました。

先日、中年宣言をし人生の折り返し地点であることを自覚しました。今までの半生を振り返ってみると、色々な場面で様々な方々とご縁が結ばれ本当に沢山の大切なことを教えていただいて育てていただいたことに気づきます。

今の自分があるのは、皆様の御蔭であると感謝を思い心に沁みます。

そして人生とは選択であったと実感します。

自分が日々、その都度にどのような選択をしてきたのか。
その人生の選択こそが今までの半生であったと自覚するのです。

そう考えて観たら、これからの人生はどう生きるのか、どのような選択をして生きるのか、その選択の根本を自らが決心することで残りの半生をどのようにするのか運命を決めるのです。

そして半生が感謝そのものであることを自覚するからこそ、その御恩返しをしていくのが残りの半生であることにも静かに気づくことができるのです。

誕生日とは生まれ変わる日ではないかと思います。

人間は何度も何度も今をどのように選択し決心して覚悟をしたかで、その瞬間から生まれ変わるように思います。そうして自分の人生を体験し、それを誰かのために御役に立てていくことで互いに生死の意味の中で学び合っていくことで真の幸せを実感するように思います。

心身共に幸せであるとは、いつも笑顔が絶えない日々を送るということです。

そしてそれはどんな苦しみや歓びの中でも正直に生きていくことかもしれません。
その幸せが福を呼び込み、真の平和への目覚めを呼び起こすかもしれません。

これから世界はますます一つになっていきます。
それはもう違いを越えてお互いが人類であることを自覚する時代になるということです。

すると国境を超えて、互いに地球の中で偉大な一家を形成していくように思います。

家という思想は、何よりもこれからの時代に必要になるようにインスピレーションします。

残りの半生、御恩返しとしたらこの人類、地球の家のために尽くすことかもしれません。お借りしてきたものをすべてお返しする日が来るその日まで、自分の天命を捧げていけるよう生き方を決めました。

ご縁の方々、未熟な私を導いてくださって本当に有難うございます。
私はいつも偉大な奇跡という贈り物を神様に戴いています。

いのちを懸けて心から御恩に報いていきたいと思います。

感謝三拝

 

意味づけの本質

物事というのはそこに必ず何かの意味が存在します。

その意味はその人の人生にとって必ず何らかの価値があるからです。なぜなら人生とは、自分で意味を紡いでいくものであり、他と比較してたとえそれがどんなに些細なことだったとしてもそれは当人にとってはとても重要なことであるからです。

例えば、目の前の出来事を素通りするようなことがあったとします。本人にとっては、特に影響がないような他人のことでもそれが目に入るということは何か自分に関係していることが起きているということになるのです。

この世の中の全てはつながっているところに存在しているという考え方を基点にすれば、関係しあうのだから関係ないということにはならないのです。そもそも関係しあって学びあい発達するのが人間ですから、意味がないということは存在しない中に私は居るのです。

そして関係があるからこそ、関心を持つということが意味を実感することだと思います。

昨日であれば、あの出来事は一体何につながっているののか、なぜ自分はあれを観たのか、なぜこれを行っているのか、あの言葉は何か、あの気づきの本質は何か、そうやってひとつひとつを慎独しつつ内省していけば次第にその意味が時間の経過とともに理解されていくのです。

関心の反対は、無関心といいますがこれは関係しあっていないと思っている考え方のことです。これでは、関係し合おうとしないのだから日々に流されているうちにあっという間に人生の時間が過ぎ去ってしまうものです。

人の出逢いもそして別れも、そこにはすべて関係しあっている深いご縁が存在します。一度心で結ばれたのなら、それはまた将来に新しいご縁を紡ぎ学び合う準備に入ったとも言えるのではないかと私には思えるのです。

特にご縁に感謝していけば、必ず何らかの成長のために互いに関係していることに気づけるからです。与えられた場所で人事を尽くしていくしかないのですが、それがまた天の恩恵であり、有難い邂逅ではないかとも私は思います。

つまりこの意味づけしていく日々というのは、関係しあっている日々であるということ、そして本質は常に自らの心のあるがままに根本に関わり続けていくということに他なりません。

今日、また起きる出来事が一体何とつながっているのかと日々に事件が起きることに関心を持つのは、私が意味づけする人生に価値を置いているからかもしれません。

ひとつひとつのご縁を噛み締めながらそして意味づけながら、感謝に換えて唯一無二の日々を大切に過ごしていきたいと思います。

有難うございます。

 

心と感情の調和~大学の道~

四書の大学の冒頭にはこうあります。「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り。」この至善とは、一に止まるという意味であると言われます。

この一とは、何のためにやるのかという初心のままでいることを言うように思います。

しかしこれは本当に難しいことだと痛感します。人間には、感情がありどうしても感情が邪魔をして本来の心というものがなかなか表面まで出てきません。本来の心にはいつも誠があるのですが、それがどうしても相手と感情がぶつかり、また自分の感情に先に呑みこまれて本来の心のままで感情と調和していくことができません。

日々に何のためにやるのかといくら考えていても、そこに感情があるからどうしてもどうするのかになってしまい流されそうになるものです。先日も、todoではなくtobeだと、どうするのかではなくどうあるかだといくら認識してみても、よく自重し自反自省してみると日々は一進一退を繰り返しているだけでいつまでも悩みや苦しみは続きます。

この感情との調和は、常に日々に真心を籠める修行をすることではじめて成り立つように思います。悔しい思いをしながらも、苦しい気持ちを維持しながらも、それでも自分の心を大切にしようと、思いやりに生きようと決めたなら、御役に立てるように精進するしかないようにも思います。

人生は一度きりですから、色々な事件は学びになりますから当然あった方がいいと思います。しかしそうはいっても、感情が日々に波打てば眠れない日々は続きますし、調子がどこか悪いと思っている日々もまた続きます。

感情というものは、そうやって現実の世界と心の理想の世界とのバランスを維持する大切なお役目を持っているとも感じるのです。自然体になるには、まだまだ日頃からの実践を積み上げていくしかなく、道に終わりはありません。

大学の道は、自分の心の中にある素直な心を明らかにし、自分から周りに親身親切に真心を尽くし、そして初心を常に忘れない実践する自分でいるということで続く道ということかもしれません。

道に居る有難さに感謝しつつ、また今日も心と感情を澄ませて皆さんの幸せのために自分を取り組んでいきたいと思います。

修行の要

人は様々なことを経験することで色々なことを感得していくことができます。だから経験するということが気づくことであり、学ぶことは体験するということに他なりません。

しかしよく周りを見渡して話を聴いてみると、経験もしたことをないことをさもわかった気になって話をしていることばかりで徒手空論ばかりを繰り返しているように思います。今のように物質的に大変恵まれた世の中に生きているということで、情報もすぐに手に入りますし、その他のものもまるで自由気ままに手に入るのだと勘違いしているかのようです。

本来の自由というのは、そういう物質的に溢れた生活に浸って生きることではなく、どんな境遇であっても己の精神や自律した厳しい日々の修行によってあらゆるものから執らわれなくなることが真の自由であろうと思います。

現代人の自由の浅はかさというのは、自分にとって怠慢であればあるほどに自由だと勘違いされています。自由には自分自身の生き方の責任が伴うということを知らないままに、物質的なものばかり与えられた中で過ごしているから次第に思い違いをしてしまったのかもしれません。

本来、精神や心というものはどんな状況であっても自由であるということができるものです。

それは真の自由は物質的なことではないからであり、自分の在り方や生き方は何ものにも執らわれないことが可能であるからです。日々に修養するのも、修行をするのも皆その自由の境地に到達したいがためであろうとも思います。

そのためには、何かのメソッドで事足りようと目先のことばかりを追うのではなく、じっくりと腰を据えて正しく実践をし、経験という修行を積むことで学び修養していくことしかないように思います。

たくさんの経験をしようと思うことこそが、素直に愚直に成長意欲を持つことなのかもしれません。物が溢れかえった時代に生きる私たちはよくよく考え直さないといけないのがこの修行という意味なのでしょう。

しっかりと経験を昇華し、精進していこうと思います。

少しだけ手伝う~自然~

昨年は、自然を学び直しつつさらに深く自然農に取り組みました。その中で自家採取した原種の種を、またこれからの新たな季節に蒔いていのちのめぐりのお手伝いの準備をします。

そもそも自然の恵みの中で、様々な木々や植物は育ちます。それは自然の働きでそれぞれが生かされているからです。人間も等しく、心臓が止まらないのも呼吸をやめないのも、知らずしらずに髪の毛や爪などが伸びるのもすべては自然の働きを享受しているからです。

農夫や私たちが何かをして育てたと思っているものは、その実、そのものが自然に育ったのであって正確には私たちが育てたのではありません。私たちはその自然に育つのを少しだけ手伝っただけにすぎないということです。

これは大前提が自然というものの一部として私たちが存在するということであって、今の時代のように自然に逆らい切り離して考えていないことではじめて覚醒する境地です。

私たちの今の時代は、自然に合わせないことで人間の都合の善いようにと発展させてきました。夜の電気も、暗いと都合が悪いので世界中に明々とネオンの光に満ちています。世間の消費で発生するゴミというものも、人間にとって要るか要らないかで取捨選択されます。

自然では、夜は夜に必要なことがあるから夜であり、全てのものには一切の無駄がなく循環しているものです。そういうものを手伝う側として自然と共生するか、自然に逆らい孤立するかはそれぞれの生き方が決めることであろうと思います。

そうはいっても、私たちは太陽の光を浴びなければ生きてはいけません。それに水の潤い、風の揺らぎ、季節のめぐり、土の香り、それらのすべてを実感するとき、とても清々しい気持ちになり私たちがこの世に生きることの素晴らしさを味わっているはずなのです。

どんなに都市化された便利な世の中にいても、人間は自然の美しさに癒されているのです。

本来の科学技術とは、自然を少しだけ手伝うものであろうと私は思います。人間の叡智は、自然を深く理解し、それを現在の生活に反映させることで発展を約束してきたもののように思います。経済原理を推し進め、人間の浅はかな自然を悪用するような技術でお金が増えてもそれは世界や人類の永続的な発展を約束するものではないように私は思います。

本来の自然から学び直し、本来の宇宙の持つ自然発展のサイクルに入っていくこと。

これらの永続していくエネルギーを利用することこそが、私たちの生き方のお手本であろうと思います。また春になり、新たなめぐりの中に身を置いて次の季節も自然に感謝して実践を楽しんでいきたいと思います。

自他全体の四季

ベランダガーデニングをしていると、様々な花の姿に驚くことばかりです。

冬から春にかけ、春から夏にかけ植物たちは様々なめぐりを行います。そのめぐりには、花を咲かせるもの、枯れるもの、種になるものとめぐりは自分の生きる季節に合わせます。

そう考えてみたら、それぞれの生きものには、それぞれに持って生まれた自分の季節がありその季節と自然の季節に寄り添いながら自らの生を全うしているともいえます。

これは大なり小なりすべてが等しく、例えば同じ人間であってもその人固有の季節があるといったようにその人の成長や人生に四季があるのです。春だからといって、春爛漫に咲き誇るような花もあれば、冬にこそ冬爛漫に咲き誇る花もまたあるからです。

自分の季節を感じることは、自分も自然にあわせて自分らしく変化していくことに迷わないようになることかもしれません。人生の四季があることが、私たちを安心させるとしたらその四季を味わっていきていくことで自分が全うしたいと思えるものに出逢い感得するものかもしれません。

毎年、毎年、一年をふり返ってみると自分にとってどのような季節なのかを実感できます。そして周囲を観ていると、自分とは異なる季節の人達が共に道を歩んでいく姿もまた拝見していくことができます。

季節の恵みに私たちは見守られ、成長をしていくのでしょう。

その人の生涯も、死んでから活きるものもあることを想えば決して寿命だけが四季ではなくその存在に四季があるということに不思議な安堵を憶えます。

存在の四季を実感しながら、自他全体の四季を味わっていきたいと思います。