真の発酵人~地球が喜ぶか~

人間の腸内には今わかっている範囲で100種類以上、100兆以上の膨大な微生物が生息しています。その微生物群の状況は、人間の指紋と同じく一人ひとり同じものはまったくないといいます。つまり、その人の体の状態に合わせてバランスよく微生物が配置されているということです。

この微生物たちが人間を活かしているのは、この微生物が食事をしたものを消化して発酵することで人間のエネルギーに転換されるからです。これは植物の根粒菌と同じく、土の栄養も根っ子の微生物がいなければエネルギーに転換されないように人間の根も同じく腸の微生物が栄養を転換しているのです。その根粒菌が死滅すれば植物が死滅するように、人間の腸内細菌が死滅すれば同じく死滅するのです。

その腸内細菌は、常にバランスを維持しています。健康も不健康も、その人の腸内の微生物の環境によって左右されていきます。よく生活の立て直しは、食の立て直しからといわれる所以もまたその腸内のバランスを立て直すことをいうのです。

先日、ナショナルジオグラフィックのニュース(「Nature」誌オンライン版に9月17日)で興味深い記事がありました。

「「ただより高いものはない」という言葉があるが、最新の研究によると、“カロリーゼロ”食品に使われる人工甘味料にも当てはまるようだ。イスラエルの研究チームは17日、サッカリンなどの人工甘味料は腸内細菌を変化させて血糖値レベルを引き上げる可能性があると発表した。砂糖の代用品である人工甘味料が、避けるべき状況を逆に招いていることになる。」

これは砂糖も人口甘味料も同じく、腸内細菌のバランスが炎症に傾き血糖値を変化させてしまっているということです。結局は添加物というものが腸内に与えている影響がとても大きいということを結論付けます。

今の時代は、日常は意識していませんが今の日本では年間平均4キロの合成添加物を摂取していることになっています。これを10年続ければ当然40キロ、20年では80キロというように自分の体重を超えるほどのものを摂取し続けているのです。

ひとたび合成添加物が入ってくると乳酸菌よりも、その添加物を分解吸収しようと日頃は日和見でいる菌や敢えて炎症を起こすような悪玉菌が活動してエネルギー転換しようとします。そうすると腸内のバランスもまた崩れ、それが人体に影響を及ぼし調子を悪くしてしまうのです。

昔から日本人が大事にしてきた「菌食」というのは、乳酸菌発酵食のことです。菌食をやめれば心身のバランスが崩れると言われるのもその理由からです。昔から大事にしていた味噌汁などの麹、漬物などの乳酸酵母菌、玄米などが持つ玄米発酵などをやめて安易にお菓子やコンビニで買えるようなもので代用するから心身の調和が保てなくなってきているのです。

体というのは心と密接で、病気になれば体だけではなく心にもダメージを受けますから心を健康にするのは体が健康でなければなりません。心身を健康に保つというのは、食生活を改善するということです。そして食生活というのは、言い換えれば生き方ですから生き方を改善するということになります。

眼には見えないところで、私たちは微生物たちのハタラキによってこの体を動かしていくことができます。微生物たちがエネルギーを細胞へと送り届けて体を動かすことができます。細胞の中のミトコンドリアも核がありますから元は微生物だったのではないかと私は思います。

つまりここから導き出される推察では私たちの体はまるで微生物そのものということになります。人間の便1グラムに100~1000億の微生物ですから毎日排泄するということは日々に膨大な微生物が役割を終えて一緒に排泄され続けているのです。そう考えてみても微生物を殺すような抗生物質も、洗剤も薬品も、それがまわりまわって自分たちの体を痛めつけていることを忘れはいけません。

なぜ人工添加物がよくないのか、なぜ抗菌農薬がよくないのか、これは自分たちの体が何でできているのかを自覚すれば自ずから自明すると思います。

微生物たちが喜ぶものを日頃から摂取していくというのは、いつも微生物の御蔭て活かされているという感謝の気持ちを忘れない実践になります。日頃目には見えないけれど、確かな存在に活かされいる、見守られているという謙虚な心があることでまた微生物もお役に立ちたいと真の発酵をしてくださるはずです。

眼には見えないものへの感謝を忘れるとき、人は発酵しなくなるときなのでしょう。腸内の微生物を並べたら地球2周半ほどの長さになるそうです。私たちの中に膨大ないのちを活かしているということは、地球が私たちを活かしているのと似ています。地球が喜ぶ生き方かどうか、これは真の発酵人につながる思想ですが私もそれを体得していきたいと思います。

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

実践か

先日から実践と考えるということを深めていると、その意味がまったく異なっていることが整理できてきました。それを少し書いてみます。

実践といえば、森信三先生に下記の言葉が残っています。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたら、もうだめなんだ。」

ここの「考えたらもうだめなんだ」という言葉に共感するものがあります。

人は考えてしまっているときは、実践しようとしていない時です。なぜなら、考えるというのは頭で考えていることであり、心まで到達する前にそれを止めてしまうことだからです。

属にマニュアルを用いて人を管理するような手法もありますが、このマニュアルというものは考える人たちには有効です。しかし本来の物事は、心で感じるところで動かすものです。それを決心ともいい、それを初心を忘れていないとも言います。

そして組織には理念というものがありますが、これは何のために集まって長期的に何を目指して何処に到達するのかといった方向性を示すものです。自分が今、何処にいるのかがわからなくならないように、また迷子になって一緒にいる皆に迷惑をかけないように常に初心を確認して方向性を感じながらはじめて通る道を歩んでいくのです。

人間は感じたままに実践しているときと、いちいち考えてからやっているのとでは実践と考えるという違いがあります。前者は心で決めた覚悟のままに実践を積み上げているのであり、後者は頭で考えて実践風に形式だけをなぞっているということになります。

考えるというのは、信が不足しているともいうように思います。信じさせてもらえるからやるというのは自分の信を自らが使おうとはせずに誰かによって指示命令されて動かされるから信じるという行為で責任も発生せずに楽なのです。

しかしもしも自分が信じるのならば、考える必要はなく信じたままに行動すればいいのです。この時、はじめて責任を実感することができ自分の役割に誇りが持てるようになります。

畢竟、人はやらされるときは無責任で自分でやっているときだけ責任を果たしているということです。自分から信じる人になるには、考えさせてもあまり効果がなく、それよりも感じてもらった方が効果があります。

自ら気付くことができる人になるということです。

自ら気付くには、自分から考えるのをやめてもらわなければなりません。考えるばかりで実践しないのは、自分から信じて動いていこうという行動が少ないからです。行動が少ないと実践もまた積み上がりませんから信も積んでいくことができません。

初心を感じたままに行動するということは、理念を確認しながら実践するということと同義です。何のためにの初心の確認は、自らが羅針盤で方向性確認することと同義です。

考える前にやってみろ、まずやってみろという言葉の中には、信じなさいという応援が入っているのです。信じているから人は信によって信用されはじめてご縁は有難く結ばれていきます。信じるということはとても偉大な行為ですから、考えてもそこには達しないのです。

私がマニュアルを嫌い、文化にこだわるのも、考えるのを嫌い、実践にこだわるのも、真実や本質がいつも現実にあるからです。現実の中に生きている自分たちだからこそ現実逃避しないようにしていきたいと思います。それが人生二度ないという意味につながるのでしょう。

心気を引き締めて、粛々と実践をしていこうと思います。

対話と平和

人間には偏見というものがあります。たとえば、大人だからとか上司だからとか、男だからとか、先輩だからとかいろいろと一般論で決めつけられ思い込まれていることがあります。

他にも職業でデザイナーだからとか、経営者だからとか、職人だからとか、こういうものだろうと分類分けしてはその人の中で仕分けしてしまって本質まで確認されることがなかったりします。

人は先に教え込まれた知識や、こういうものだろうと経験もしていないのに脳で処理して理解してしまえば勝手に思い込んでいることがほとんどです。そしてその思い込みのほとんどが疑心暗鬼によるものです。

自分に都合の悪い現実を受け止められなかったり、自分が忙しいときに余裕がなかったりすると心が閉じていきます。心が閉じることで話を聴かなくなります。話を聴かないときは対話を避けるようになります。対話を避けるから決めつけてしまうのです。

人は「信じる」という心をオープンにすることができていれば自分から対話をして心を開いていきます。しかし心を閉じているうちは対話ができず、どうしても不信から疑い決めつけるのです。

人間にとって対話というのは何よりも重要で、お互いのことを理解するためには必要不可欠のものです。昔は、私も対話を避けて通ろうとしては数々の失敗を繰り返してきました。

相手に確認もせずにきっとこうだろうと思い込み、相手に自分の都合を強要しては相手の反応をみてはまた決めつけるということを繰り返していました。そのことから誰も信じられなくなり、より対話を避けて一層孤独になっていくという経験をしたこともあります。

本当は一緒に楽しくやっていきたいのに、実際はそれぞれが対話をせずに能力のみを使って個々でバラバラにやっていく方が楽だという方を選んだ時期です。楽なのは信じなくてもいいからです、最初から疑っているから能力だけで仕事をすれば何も言われないしそれで済むから目に見てわかりやすかったからです。そういう仕事は結局は作業のようになるから面白くなくなってきます。そうなる自他もみんな無機質な関係で一緒にいる意味も感じなくなっていくのです。

そういう体験から、対話の大切さを実感しました。

対話とは信じることであり、信じることは聴くことです。この聴くというのは、聞くというのとは違い、耳に徳の字が合わさっている字です。恥という字もありますがこれは耳に心が合わさっているのです。

つまりは聴くというのは、自分が許されて聴く、許して聴くということであり、一言でいえば「認める」ということです。畢竟、対話というのはお互いを認めることであり、お互いを認めることができてはじめて信じるとなるのです。

心を閉ざしている人は、なかなか自分以外の人を認めません。もしくは自分のことすらも認めていないのかもしれません。認めるというのは、あるがままを丸ごとを認めることですが耳を澄ましていかなければそれもできません。

私たちが一円対話を行うのは、心で聴く、心に聴くといった心を使い信じる実践を大切にしていこうとすることで世の中を真に平和にしていこうとする願いを籠めて行っているのです。

みんな心があるのだから、相手の心を感じることで相手と一体の世界に生きることができるのがいのちの証拠です。いのちは粗末にしないといったのは先祖ですが、それはお互いに心を通じ合わせることが大切だと教えてくれていたのです。

物が増えたって、忙しくなったって大切なことはいつまでも大切なことです。大切なことを忘れないような実践が、子どもの未来に仕合せを推譲することだと信じています。

またいつまでも人が争うのは対話をしなくなるからです。

世界は今、もっとも対話が必要な時期に入っています。世界はそれだけ悲しい紛争がなくならず、悲惨な戦争が続いているからです。子どもたちには対話の大切さを大人たちの後ろ姿をみせることでいつまでも忘れないでほしいと思っています。

私たちが対話にこだわるのは、「人類皆兄弟」である証としての対話こそ人が人を信じられる世界を創造する先祖代々から続けているもっとも調和する方法だと確信しているのです。誰も孤独にならない世界、一緒につながりの中で楽しく豊かに信じ合っている世界、日本の神話にあるような世界を今に取り戻したいと思います。

 

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。

 

運の善さ~早起きは三文の徳~

人は運の善さというものがあるように思います。

いつも運が善い人と運が悪いと言っている人がいますが、これはその人の生き方のことを言っているように思います。運が善い人というものは、信仰心が高い人とも言えます。自分が何か偉大な存在に見守られ歩ませていただけていることに感謝の心を持っているということです。

自分のことが信じられるというのは、見守られていると実感することです。そしてそれは見守ってくださっているから安心して前進するということでもあります。

昔から早起きは三文の徳ということわざがあります。

これは早起きをすると何かしら善いことがあるという意味ですが、これは信仰心がそうさせるのではないかと今では確信します。早く起きるのは、御蔭様に気づくからです。そしてそういう見守りの存在に気づいているから早く目覚めその感謝の心のままに動いてみようと思うのです。

感覚的ですが人は結果が視えていれば動くというタイプと、結果が視えていなくても信じているから動くというタイプがあります。前者は運が悪いと言っている人が多く、後者はいつも運が善いと言っている人が多いように思います。

これも運が善いというのは、「きっと善いことがある、きっと善いことになる」と信じているからいつも運が味方するのでしょう。そうやって善いことがあり善いことになると信じているから朝早起きして動くことができるのです。

畢竟、運の善さというのは信仰心、運に包まれている仕合せを信じて歩んで往こうとする生き方が習慣になっているのです。つまり運とは、「活かされている」という存在に目覚めているということです。活かされている存在の自覚こそ信仰心であり運の善さということです。

私にとっては南無阿弥陀仏もアーメンも、同意義として「おはようございます、おかげさまです、ありがとうございます」のあいさつの中にすべて入っています。そしてまずその最初の実践は、「お早うございます」に他なりません。

早起きとは信の実践そのものであり、運を信じていますという合図なのです。

夏期実践休暇にての報告をまとめていますが、今年も偉大な存在の導きと、そして偉大な存在の見守りの中で自己の気づきと目覚めをいただきました。心を澄ませて、心新たにまた挑戦させていただく有難い日々を精進していきたいと思います。

 

 

主体性~丸ごと信じる~

人は主体性が出てくると信じることができるようになります。

それは信じるという行為は、誰かにやらされているのではなく自分自身の体験で真底から納得することで醸成されていくことだからです。そしてこの納得というのは、何度も体験し味わい尽くしたあとに自分自身が「丸ごと善い」と実感することに似ています。

例えば、人生というのは無駄が一切ありません。かつての経験が今に活きていますし、今があるのはすべて過去の体験の集積によって存在しています。自分の生き方というものは、今までどのように生きてきたか、そしてかつてどのような体験があり、それを乗り越えて味わってきたかでできあがっているともいえます。

つまりは人生というのは、自分自身の主体的な体験によって彩られているとも言えるのです。時には自分自身がやりたいと思っていなかったことでも、きっとこれは何か大切な意味があるのだろうと主体的に楽しく自分から取り組んでそれを味わい学び掴んでいたことが、将来のやりたいことを支援する大切な力になっていたりするのです。

人生とは奥深く、寄り道したことも大切な寄り道であり、その寄り道があとで絶対不可欠になる能力を育ててくれたり、その道草が後になって絶対に必要なご縁を導いて下さることが多いのです。

だからこそ何でも嫌々ながらやるのではなく、自分から主体的に楽しんで行うことでそのことの本意があとになって活きてくると思うのです。今に集中して今に真剣に生きている人は幸せな人とも言えるように思います。

その人は主体的であることを実感し、主体的であるからこそ今を生き切るのです。今を生き切るからこそ誰のせいにもせず、言い訳もしない、今を満足していくことができるのです。不平不満というものは須らく、将来のことを心配したり、過去のことにくよくよしたりと今から離れるときに起きるものです。

それは体験をしていないという意味にもなります。どんな体験であれ、必ず今の体験は後で生きてくるのだから無駄にしない、勿体なく味わい尽くしていこうとするところに人生の妙味があるように思います。

主体性というものは、主人公ということで自分自身の人生を遣り切っているということです。どんな人生があったにせよ、主体としての性、つまり自分自身のことを信じるということや、相手や周囲のことを丸ごと信じる、そして人生を丸ごと信じる、世の中のことを丸ごと信じる、自分の今を丸ごと信じるということです。

信じようとしないのでは主体性は発揮されることはありません。

人生は客人としてきたのではないのですからあくまで主人として生きるということでしょう。そしてそれが丸ごと信じ切るということなのです。やらされることになっていることすべては客人のままということです、自分からやりたくてやっていてはじめて主人となしえるのです。主人であることが信であるということです。

見守るの道を弘める以上、信の実践は何よりも欠かせない大切な徳目であり訓戒の一つです。しっかりと精進していきたいと思います。