人生の航海

人生の出来事や物事には、必ず意味が存在します。

人生には無駄がないというのも、その意味そのものに価値があるからのように思います。

例えば、何かの拍子に病気になったり、何かのキッカケで人間関係が乱れたり、災害に遭遇したりと何かの出来事が発生します。その時、心に余裕や遊びがあればそれが悪いことが起きているとは思えずに意味があるものだと実感できます。

しかし人は、そうは簡単には心は強くなくすぐに視野が狭くなって余裕を失っていくことで焦りや不安というものに流されてしまうものです。そういう時は、なかなか実践は難しいことですが敢えてそれを楽しもうや、勇気を出してそれを味わおうと決めてしまうことで少しずつその意味を感じることができるように思います。

ひとたび、目標というものを定めれば大変苦しい道のりが待っているのは間違いありません。それは心が現実の自分の甘さに打ち克たなければならないからです。しかし、そこまでしてまでというのが大切なことのように思うのです。

心というものは、目には見えないものを捉えそこに向かって成熟していくことのように思います。それは心の余裕というもの、つまりは心が常に安んじるところを求めて育っていくように思うからです。

なぜそれが必用かと言えば、それが人生の意味に直結している問いそのものであるからのように思うのです。人生を通して人は学び、そして人生を通して人は豊かに幸せになっていきます。

様々な道のりを経ていく中で、助け合い、信じ合い、繋がり合い、導き合い、許し合い、認め合い、譲り合い、応え合い、学び合い、育ち合い、見守り合うこと。

その一つ一つこそが、大切な自分の人生の航海そのものであろうと思うのです。
ご縁を大切にしていくことで、その実感を深くしていきたいと思います。

感謝。

天地自然の育成

昨日、永い間ずっとご縁をいただき共にお仕事をさせていただいているお客様とお話をする時間がありました。

共に永く続く関係はさびないとはよくいったもので、御互いに目には見えないものを観て、心を通じ合わせていくことで大切な目標に向かって確認を続けています。

御互いにできることとできないことを分かち合い、役割を味わうことは貢献ということの素晴らしさを自覚することに似ています。

貢献というのは、天地自然の道理にもっとも適うものでお役に立ちたいと願う気持ちが互いの個性や能力を引き出していくように思います。

不思議と共に生長をし合っていくということは、御役に立ちたい一心で取り組んでいくときにこそ芽生え成長していくように思います。

今の時代は、目標を探して迷い、選択肢が多い割には決めないというように彷徨うことが多いように思います。しかし、よく周りを確認してみたら不安を感じる事よりも一生懸命に自分を役立てていこうと願い行動し、結果は周囲に任せていこうとすることが自然のように思います。

自然は貢献することで実感できます。

自分本位で生きていると、自然が急に遠ざかってしまうことがあります。そういう時は、自然に沿った行き方を選んでいないときに急に視野が狭まり、本来の自然体の自分から遠ざかってしまうように思います。

貢献というのも、共生というものも、その根本は天地自然の育成によるものです。
自分を育ててくださる方々と共に、より一層の貢献を誓って行動していきたいと思います。

実践場数

今の教育の最大の刷り込みに、理屈で理解するというものがある。

学校で知識ばかりを優先させられ、それを積み上げていくことの努力しかしていないと次第に感情や体験から理解するということよりも頭の理屈で理解しようとしていしまうものです。

そもそも体験というものは、目標に対して長い時間をかけてコツを掴んでモノにしていくものでそこでは苦しい体験、悲しい体験、嬉しい体験、そのものを感情のままに理解するときにはじめて得るもののように思います。

理屈で理解している人はよく、「正論です」と言い返してきます。これは正論というものが、実践と同じ意味で刷り込まれた理屈側の人達の世界では通っているからです。

正論が分かっても役には立たず、正論かどうかよりも大切なものが現場の実践です。

実践とは、自分の脚で道を践むことをいい誰かの知識で乗り切ることではありません。今の学校は、先生も実践をせずに知識を教え、何も実習していないのに修めたとかいって自分でも修めていないものを平気で評価したりします。

制度の縛りや時間がないのは分かりますが、本来は学ぶというのは本人が時間をかけて体験からコツを学び、それがどういうことかと自ら理を修めることをいうように思います。それを大前提に理解していれば、理屈や理論は、単なる理想論であり現実からは程遠く、そんなものが役に立たないということを教え、本来の実践の中で培うことが指導だと教えることであるように思います。社会に出た学生がすぐに社会人として貢献できなくなるのも、この学校で得た刷り込みが取り除けないからのように思います。

いくら上手い泳ぎ方を黒板で書いて理解させてみても、実際に泳がないのでは上手くはならない。そしていくら美味しいカレーのレシピを伝えても、本当の美味しいカレーはできないのと同じです。

理屈で理解しないためには、理屈にならなくてもいいように即行動して感情のままに理解していく必要があります。それは頭で考えないともいい、体全体で現場実践の中で身に着けていくことをいいます。

現場で通用しない理屈を頼りにすればすぐに自信を失い、身動きできなくなっていきます。それを今まで受けてきた教育の刷り込みであると気づいたならば何を変えるかは明白です。

現場主義というのは、理屈で考えないことを言います。

それは常に現場でコツを掴むまで何度も何度も挑戦し、コツを掴んだ体得者を見習い、そこから学び掴み取るように自らを修めるといった学校とは異なった学び方を行うことです。子どもが大人の真似をしながら自分でやってみるように、様々なことは質の高い場数を通して体得していくことがいいように思います。

最後に、王陽明の言葉です。

「意思は行動の始めである。だから心に悪が生じれば、正さなければならない。まだ行動を起こしていないからと悪を正さないのは間違いだ。それは思うことは、行うことの始まりであるからである。心を正し、心の悪を退治しなければならない。 」

心即理、致良知、故に実践が何よりも正しいのです。

それに知行合一、つまりは知ることは行うことと一つであり分かれない。そしてそれは心の想いと行動とは同じであるから絶えず心身を正す、これが真の実践。

理屈抜きで実践していくことが現場主義なのです。もっともシンプルな方法は、常に現場での実践の場数によって得られるというのが私の人生の学び方です。

 

学問と自責

色々なことが身近に起きるたびに、そのことに強い意志で取り組むにはその起きる出来事に真正面から向き合って取り組んでいこうとする意欲が要ります。

そしてこの意欲は、全てを学びにしていこうとするような自助努力があってこそ実現するように思います。

例えば、何かの出来事が発生することを自責の人になるか、他責の人になるかで受身か主体かということも変わってきます。自分次第だと思っている人は、全ての出来事を自分の責任として丸ごと抱えて逃げずに取り組んでいくことができるからです。

しかしそれが相手次第であったり、何か次第、あれこれ次第であるならばいつまでも自分自身が問題から逃げてしまうことになってしまいます。本当は自分が学びたいと魂から感じたことを自分が最初に否定してしまうのならそれは迷いとなって苦しみのみになってしまいます。

本来は、自分がそうしたいからそうなった。だからこそ、自分から進んで困難や艱難を引き受けようと、そして少しでも世のため他人のために背負おうと決めてしまえば、後は道をどう楽しむかということに専念していくことのように思います。

どうしても人はあまりにも背負いすぎるともう背負ったものを手放したくなってしまいます。しかし、ふり返ってみると過去のたくさんの出逢いを無駄にしない、今まで教えて下さった方々のためにも御恩に報いて本懐を遂げたいとも同時に思うのです。

だからこそ、私たちは常に人生という道場で学びを深めていく必要があるように思います。

二宮尊徳にこうあります。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ。 学んで道を知らざれば、学ばざると同じ。 知って行うことを能はざれば、知らざると同じ。 故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず。 学をなすもの、必ず道を知らざるべからず。 道を知るもの、必ず行はざわるべからず。」

自分が真心から真理を学べば、それを実行に移して実践していくこと。

それが学問するということでしょう。
学びに換えれば、全ては楽しい日々に美化されていきます。

学問するのも自分次第、自責の人生を味わっていきたいと思います。

子どもになる~自然観~

子どもと共に遊んでいると子どもになっていきます。

子どもはどんなことにも興味を持ち、私たち大人が当たり前と思っていることにも大きな驚きと感動を示します。そして地球の中で自分たちが夢見る現在に生きています。子どもたちがあんなに楽しそうにしているのは、そこに自分の生きる現在を持つからです。

大人になれば、先々のことを心配したり、過去を悔いたり、心配事はいつもこの現在の中にはありません。そうしているうちに、この現在の中にある一瞬の驚きや感動に生きることを忘れてしまうのです。

昨日、死生観についてのブログを書きましたが生きるというものはそもそも現在そのものでいることであり、死もまた現在そのものでいることであろうと私は定義するのです。

一生懸命に現在を生きるというのは、子どもになるということでしょう。

私の子どもは、この現在の中に棲んでいます。

私は子ども第一主義というものの本質には、この子ども心を失わないでいるということであると思っているのです。子どもの中にある、すべての感動や感性を失わないままで私たち大人たちが現在に生きればこの世は一体どうなっていくのかを死ぬまで見届けたいのです。

子どもに学んでいくことは、忘れてしまうような当たり前のことに気づき直していくことです。

生涯かけて、子どもになることを学び続けていこうと想います。
これが私の自然観であり、子どもの姿です。

改然の妙理

時間をかけてじっくり育っていくものにより善くしていくというものがある。

これは発酵の原理と同じで、今よりも善くしていこうとすることが生きるということかもしれません。人間は歳とともに、発育生成していくものです。じっとしていても身体も心も次第に育っていくようにできています。だからこそ、自然というものは浩然の氣に満ちていて万物は徳の中に育成されているというように思います。

自然というものの中に身心を置く私たちは、常に改善していくことが自然であるということです。

しかし実際は、大事なことを忘れてただ生きながらえることや目先に自分の目先の欲望のために動いてしまうことで様々な悪循環を抱えてしまうとも思います。

物事は禍福一円、常に出来事には意味が存在しています。

その意味を一つずつ学び、さらに今をより善いものしていくことで自然の法理にスパンと入っていけるというのが本質であるように思います。

発酵を学んでいく中で、私が感じることは継続していく中の改善にこそ発酵の真理があるのではないかということです。糠床ひとつをとってみても、やはり創意工夫がなければ味もなにも分からなくなっていきます。

常に研究と開発、そして弛まない創意工夫というものが自然の力を引き出すものであり、その状態の時はじめて人は自然を覚知できるように思います。

自然農も自然養鶏も自然発酵も、どこにも実践していく中で共通するものを見出せます。
同じ理念を共有しながら、日々に改善を繰り返すことに安息も安泰も活きています。

今年は「家」がテーマで、本日は会社のクルーたちと皆で寺田本家の蔵見学に伺います。

より善いものを取り容れ、より善いものに換えて子どもたちへ貢献していきたいと思います。
改然の妙理を楽しみたいと思います。

幸福論

幸福論については古今東西、様々な人が様々に語られます。

人は誰しも幸福になりたいと思っています。しかしその幸福とは、物質的なものがあることやないことなどではなく、在り方そのものが関係しているように思います。

人が真に幸せを思う時、それは当たり前の中に実感します。
そして福を思う時、全てのご縁に結ばれていることの中に実感します。

そう考えてみると、ないものの中にあり、あるものの中にもあるのがこの幸福というものかもしれません。ただそれを感じることができるかできないかで左右されるのかもしれません。幸福の反対は不幸ではなく絶望だと聴いたこともあります。

この絶望とは、希望のことで、人は真に絶望を感じる時に希望を見出すというからです。そうであればやはりこれも福であり、幸せの種になっているように思います。自分の見方次第で如何様にも幸福になれるというのが真意なのかもしれません。

先日、義務や責任を引き受けるという話を考えているととても共感できる文章に出会いました。これは星の王子様のサン・テグジュペリの思想ですが、それをイエローハットの鍵山秀三郎さんが紹介しています。

「ほんとうの幸福というのは、決して自由気ままに生きることではありません。そこは幸せはないと思います。義務を甘んじて引き受ける、さらには自ら進んで引き受ける中にこそ、真の幸せがあるのです。」「幸福への原点回帰」(文屋)

つまり、自分の自由が幸せではなく大いなる義務を自らが甘んじて引き受けることこそ幸せがあると言います。これは自分勝手に生きれるから幸せではなく、不自由と思えても自分以上の偉大な使命のために自分を使役できることが幸せなのだと言います。

さらにこう続きます。

「逆に、ふだんから誠心誠意を尽くす勤勉な人に対しては、周囲から干渉されたり、監視されることがなくなり、自由に幅が広がっていきます。真の自由を手に入れるのは、自分の役割や任務、使命を自覚して、自らを律しながら、日々、地道に努め続ける人だと思います。自分のすべきことを満足に果たすことなく、自由ばかり求める人は、自分で自分を縛りつけてしまうのではないでしょうか。」「幸福への原点回帰」(文屋)

一見、何かの役割が多い人を人は不自由に思います。今の時代は特にそうです。私にも師と仰ぐ人がいますがその人は、時間を惜しむように理念や使命に生き、自分を滅して他人様のために尽くして生きています。それは野心ではなく、真心でいるからできるように思います。自分のためと生きる人と、他人のためにと生きる人。本来は、他人のためにと生きていることが自分のためになり、それが不自由にいるようでもっとも自由なのかもしれません。

人はいのちはつながりの中に存在するものです。それを自分らしいといいながら自分勝手にすることを自由とはき違えて我儘をすれば孤独になることは必然です。だからこそ、大きな使命のために自分を役立てていこうとすることが幸福そのものなのかもしれません。

他人が不幸と思うから不幸なのではなく、幸福と感じられないから不幸であること。そして真の幸福は、至誠や真心を貫いたところにいつも見守っているものだと実感します。これからも折あるごとに幸福論について考えてみたいと思います。

原点回帰

よく読書や他人から聴いた話を理解した気になることがあります。

世の中には、様々な道理や真理がありそれを聴けば一応に頭は理解していくことはできます。しかし実際は、自分のものになるのはそのずっと後のことであるほうが多いように思います。

例えば、師から私淑した道理についても諭されたからとそこではまったく理解できず長い年月の真摯で直向な実行と実践の中ではじめてその意味を掴んでいくことができるからです。私の場合も、いつも教えられたことをノートに記し何度も実践してはまた読み返していく中でこういうことだろうかと自問自答してある時、また確かめ、また私淑し自分の心身へ透過していくように学んでいます。

しかし焦りや不安があれば、それをすぐに頭で理解したところでやろうとしますがそれでは一向に道理を学んでものにしたわけではありません。人は、まず実践していくことを優先し、長い年月の中で一つ一つをカタチにしていくことこそが本来の学びの姿勢であると思えるからです。

森信三先生の言葉に、下記があります。

「実践しなくてもわかる程度の道理は、大したものではありません。自ら苦労してやってみない限り、真理の門は開かれるものではありません。」

自らの苦労なしに、真理の門は開かれない。

まさに至言であろうと思います、いくら知ってもそれはやっていないのなら真理ではないということ。つまりは実践していくことこそではじめてその門は正しく開くということを仰っているのでしょう。誰でも知れば悟れるのなら、偉い人になってしまいます。

掃除一つでさえ、その人の掃除が人生を懸けたものであれば同じことをしていないのに分かるはずはありません。何となくいいものだろうでは、それは真理に対する姿勢が歪んでいるのです。善いものは心から覚悟し実践すると決め取り組んでいく中で、その人まではいかなくてもその人の言おうとすることが分かる気がするところが真理の門であるように思います。

すぐに保身から責任を引き受けることを恐れ、単に結果さえ出せばいいという現代風の価値観で物を語るのではなく、決めた原点回帰を継続していくために実地実行のプロセスを大事にしているかどうかが生き方の姿勢に顕われるように思います。形式的にだけやったり、便宜的にだけやったりしても、それは本気でやっているわけでないのだからいつまで経っても現状が変化することはないということです。

実践することで正せることも大事ですが、実践しないことで不正になってしまうことがあります。いつも誰かに与える側でいるのか、いつも誰かから奪う側でいるのかもその生き方が決めているように思います。与えられているからと言って、それに甘んじていたならばそれは自分の本来の自発力を使っているわけではないのだから悪循環の流れに乗っかってしまうのです。

門を自ら開けるのも自分、門外の塀で佇んでいるのも自分。

何をもって自分を律していると言えるのか、本来の正しいことを行うとは何か、もう一度、原点回帰し深め実行し直したいと思います。

暗闇と手探り

手探りで歩んでいくというのは面白いものです。

以前、善光寺の戒壇めぐりというのを体験したことがあります。漆黒の暗闇の中を歩いていき、無事に錠に触れて出れば仏様と結縁するという内容です。 本来は大変有難いご戒壇ですからその全容はとても尊いもので書けませんが、今回はその暗闇だけに特化して書いています。

まず突然、真昼の明るさから突然の漆黒の暗闇の中に入れば大変な恐怖が訪れます。一切何も見えないのだから、どれくらい続くのか、迷子になっていないか、怪我をするのではないかなど様々な不安も襲ってくるのです。

そうやって不安で恐いと思っていたら手探りで少しずつ歩んでいこうとしていくものです。壁に手を当てて両手でその先を模索しながらちょっとずつ進んでいくのです。雑念や妄念が湧いてきては、何が不安なのかわからないほどに齷齪してしまいます。

こういうことから不安というものの本質も観えてきます。見えないということ、観えないということ、はっきりしない中でいこうとすると不安はつきものです。しかし同時に、はっきりするものなどないのもまた人生であろうと思います。そう考えて観たら、最初からずっと手探りで歩んでいるとも言えるように思います。

だから人は不安を消し去ろうとはしますが、実際は多少の不安があるからこそ慎重に前に進むことができるようにも思うのです。なので、不安は消すのではなく心配しながら手探りでいくことが善いように思います。そうしていくことが、周りを安心させるようにも思えるからです。

暗闇の一番深い時は、手探りで歩んでいけばそのうち光が差し込んできて道が観えるようにも思います。突然、パッとライトが消えた時は穏やかに目を閉じ、恐れながらも手探りで歩み、多少壁に当たり痛い思いをしたとしてもそこから学び前へ進む。

それも道を往く醍醐味ではないかと思います。

一つ一つの出来事や感情をその都度に深く噛み締め受け容れ味わっていくことで、より一層、道が明瞭になっていくように思います。心身の道草もまた味わっていきたいと思います。

 

福の有難さ

子どもの仕事をしていると、様々なことに向き合うことが多くなります。

訪れてきた出来事にひとつひとつ向き合い自分の脚で歩んでいく中で、自分で決めて歩んだのだからといっても時折、理不尽な出来事に遭遇し運命に悲嘆にくれることもたくさんあります。しかし、同時にご縁の有難さを実感し心から尊敬し感謝していく歓びに出会うこともたくさんあります。

実際の人生道場の現場では、様々な課題があり理想や理念があるからこそ大変な悩みを一人抱えて苦しんでいる人たちにもたくさん出会います。そんな時は、自分が何かこの方の御役に立てないだろうか、この人の苦しみにもっと寄り添うことができないだろうかと思います。

そうしてみてみると、どこの場面でもどこの時にも、心が素直であるかどうかは試されてきます。人は無意識に私心や私欲が入れば、急激に視野が狭まり本来の出来事の実相が観えなくなってしまいます。そうしているうちに出せるものも出せなくなってとても苦しみが深くなります。そうしていることで不幸なことが起きているのではないかと不安になってしまいます。

しかし、素直さというものはそういう時こそ自分に矢印を向けていくことで正しく向き合うことができ、深い味わいを噛み締めその起きた出来事の真の深さの気づきを得るように思うのです。

松下幸之助にこういう素直な言葉があります。

「よく考えてみると、幸、不幸の両面があるということが、結局は幸福なのもしれません。不幸な姿を一瞬でも味わうことによって、初めて幸福 のありがたさを知ることができるからです。」

人はずっと幸せでいることが果たして幸せなのでしょうか、そしてずっと不幸であることが不幸なのでしょうか。素直になって向き合ってみると、そういうものを噛み締めて味わっていくことではじめてその福の有難さに気づけるのかもしれません。全てのことをいつも感謝に換えていく、いつも御蔭様に換えていく、いつも有難うと手を合わせていく、そういうことで居られ続け、実践できる福のままでいることが本当の素直というものかもしれません。

自分の人生を歩んでいく中でその時々にありのままを受け容れ、素直に向き合い、生き方を見つめ、その一つ一つを尊い体験をさせていただいたと感謝していくことが真っ直ぐに生きたということかもしれません。

子どもたちにどのような姿を見せていくのか、先を往く私たちは考えていきたいと思います。