自然の直観力~観察の智慧~

自然を深め、自然と向き合っていると、自分たちの気づいていないことがまだ沢山あることに気づけるものです。例えば、身近な虫たちのことを観察してみても驚くことが多く、そこから不思議な能力を駆使して自然界を生き残ってきた智慧を学べるものです。

私は幼い頃から虫が大好きでしたから、虫を発見しては観察を愉しんでいました。諺の「一寸の虫にも五分の魂」の意味も、虫たちと直に接していたら自明します。その智慧のすごさと創意工夫と多様性の創造力には感動することばかりです。

虫のことを考えるとき有名な人物に「ファーブル昆虫記」を書いた「ジャン・アンリ・ファーブル」がいます。虫と直に接するということが、如何に人智を超えた智慧を学べるかということに於いて観察の重要性を生き方の実践で示された方でした。

その言葉には「観ることは知ることである」というものであったり、「現実は常に公式からはみ出すものだ」ということであったり、実際に「観察」することが如何に大切であるかということを仰っています。

人はすぐに自分自身の目や手、耳や鼻、五感を使おうとせずに物事を知識を使って分かった気になってしまうものです。しかし真実を知るということは、自分自身を使って観るということです。自分自身で観ることもせずに簡単に分かろうとすること自体が本来の姿を見失わせます。自然本来の学問の在り方にも警鐘を鳴らしているように私は思います。膨大な時間をかけることや、大変で面倒なことや、労苦を惜しまないでからだを動かして観察することこそが何よりも大切であるということを教えてくださいます。

ファーブルはまたこうも言います。

「学者というのは文句を言いたがるものなんだよ。私はこの目で昆虫を観ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られるだろう。」

これは昆虫に限られたものではなく、実践して道を深めてきた人の発言であることはすぐに分かります。文句を言う前に一緒に実践してみれば、同じ結果が観えるということなのでしょう。

虫の世界を知るということは、直接虫に触れて観察することで得られます。そしてそれは虫だけではなく、自然というものはすべて触れて観察し直感するものです。それが本来の自然の道、かんながらの道だからです。

自然を観察し直感する力こそが、虫や草花、動物たちの意識と視野であり自然のちからです。道を知るための自然の学び直しは続いていますが、観察力を磨き、自分の刷り込みを取り払い、自分の意識を変えて子どもたちの未来のためにも、確かなものを伝承していきたいと思います。

 

持ち味を活かす~一心同体感~

人はチームを考える際に、信不信というものがあるように思います。

そもそも信じている人の組み合わせと、そもそも疑っている人の組み合わせはそのでき上がった関係もまた異なっているのです。これは縁起でもそうですが、常に善因を結んでいく人は善果が得られ、悪因を結んでいくものは悪因を得ます。好循環も悪循環も、その根本にあるのは自らの心ということです。

この自らの心が信であるならば、一つのご縁でもその人の善いところを発見しその人のもっともすばらしいところを尊敬してご縁を結べます。しかし心が不信であるのなら、その人を疑い、その人のマイナスな一面を見て警戒したりしては縁を結べません。如何に自分が先に信じているかは、その後の関係に影響するのです。

先ほどのチームでいえば、不信というものを大前提に心に抱いていると能力だけを補う組織を目指すものです。つまり能力を使い合うためにいるわけだから、能力が足りないところだけを補い合うことでチームをつくるのです。しかし、信を大前提に心に抱いているチームになると、助け合うために一緒にいるのだから御互いの持ち味を活かしあう関係で仲間をつくるのです。

仕合わせな組み合わせというものは、相乗効果があるものです。それは能力の足し算ではなく、一緒にいる掛け算のようなものです。仕事だからと、それぞれが能力だけ合わせて済まそうとするのではなく、家族や仲間が大変だからとその時々で持ち味を活かし合おうとするのです。

この「持ち味が活かせる」という環境というのは、御互いに信が結べ大きな見守りの安心の中で助け合うことを優先するから居心地がよくなっていきます。心が安心した中で何かができるというのは、それだけ自分のもっているちからをすべて出し切ることができお役に立つことができます。逆に心が不安の中でいると、それだけ自分を出し切ることもできずまたお役に立ちにくくなってしまいます。

自分の心の置き所をどうするか、チームの一員として自分が何を優先するかが問われるのです。善いチームになるには、まず信じることが必要です。その信じるというのは、自分の持ち味を活かしてもらえるという安心感、そして自分も周りの持ち味を活かそうとする一体感が要ります。

一体感が持てるのなら、もうそれは役に立つ関係が築けているということです。自分の中にある心はどれだけ一緒一体感を持っているか、その内省と実践による学び、つまり素直と謙虚こそが自分を全体のために役に立て、働く仕合せを実感するための最大のコツだと私は思います。

人は誰かと一緒にやっているとき、その心は一つになります。

その一心同体感であることが本来の和の精神であり、祖親から譲り受けた唯一無二の徳宝です。この徳宝をどう引き出していくか、そして持ち味を活かすか、子ども達の未来のためにもまだまだ実践を積み深めていきたいと思います。

世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。

感謝の性根

人は歩むを進めていく中で、遠くを視たり近くを視たりしながら前へと進んでいくものです。しかし実際は、遠くを視ることもなく足元も視ないで歩みちゃんと歩こうとはしていないように思います。

なぜ理念や初心が必要なのか、そこはちゃんと遠くを視てはブレずに歩んでいかなければ方向を見失ってしまうからです。そしてなぜ内省と実践が必要なのか、そこは足元にあるものを視て全て自分にとって大切な意味があると着実に歩んでいかなければ体験を喪失してしまうからです。

まるで遠くの星を見つめながら足元の花を愛でることや、夢のような景観を楽しみながら手の中にあるコップの水を溢さないようなことは、「歩む」という本質において何よりも欠かせないことのように思います。

目先か将来かではなく、「今、此処」をどれだけ真摯に受け止めているかで目先も将来も大切にできるように思います。それは単に視方だけではなく、組織の在り方にとっても同じことがいえるように思うのです。理念か協力かではなく、理念も協力も大切だと実践するときにだけ、今、此処が生きているからです。

結局は、どれだけ全ての物事を「自分に必要なことだ」と感じるかどうか。一つ一つのことを自分の価値観や偏見で裁いてはあれもこれもと目で追ってばかりで、目ばかりを疲労させるのではなく、目の前の足元にあるものをどれだけ大切なことだと味わっていけるか、そこに将来に対する姿勢や今に対する覚悟、過去に対する感謝が育ってくるように思うのです。

今、起きている全てのことは自分に必要なことであり必然だった。

そう感じるからこそ、全ての出来事を慈しむように味わっていく。その心が内省であり、その有難いご縁や機会を大切に遣わせていただきますというのがいのちの在り方であり、感謝の根がはっているいることのようにも思います。

如何に感謝の根を性根に入れるかは、その人の物の視方の鍛錬に由るもののように思います。全てのことに手を抜かないとは何でも真面目に頑張ればいいのではなく、どのことも全て感謝で有難くさせていただけることにもったいないことだと尽力していくことに似ています。つまり手を抜かないとは手伝うということです。

それを忘れ自分のやりたいことができないからと、目ばかりを疲れて目頭を押さえて眉をしかめていても笑顔もなくなり健康を損ない、楽しくもなくなってきます。手伝える仕合せを自覚することや、今、目の前にきた全てのことに感謝して選ばずに全身全霊でそのことを味わっていける方がよほどの将来のことや周りの人々のことを大切にしているようにも思います。

感謝の性根を伸ばし、今、此処の養分を素直に吸収して生長のご縁を味わっていきたいと思います。

美化~善いところ探し~

人は物事の捉え方で物事の観え方を変える生き物です。

自分がどのように観るかで対象となるものの見え方が変わってくるからです。私たちは物事を観るとき、足りない方を見るか、足りている方を見るかでその見方が異なります。以前、「コップの水の話」を聴いたことがりますがこれはコップに半分水が入っているとして半分しかないと思うか、半分もあると思うか、もしくは水があって有難いと思うかという物の捉え方の話に似ています。

同じ物を視るのなら「美化」した方がいいと思うのですが、実際には減点法で足りていない方ばかりに目を向けては自分のことも美化できずに苦しんでしまうのです。「美化」を辞書でひくと、「美しくすること、美しく変えること」とあります。自分自身を美化するというのは、自分の善いところを探し、自分の善いところを認めるという努力のことです。

以前、「美化」という言葉を知るとき斎藤ひとりさんが「幸せのデコレーション」というたとえ話をしていたのを聴いたことがあります。これはケーキのデコレーションのように、そのケーキをどう飾ってあげるかで幸せが何倍にもなるという話です。とても素晴らしいたとえ話だと感動したことを覚えています。

そもそも美化するというのは、「善いところを観る」という実践です。そのものの持っている持ち味を見つけたり、そのものを尊敬して徳性を発見したりするものです。

人のいいところを探して褒める人は、それだけで人を美化してその人の優れたところを引き出していきます。よく褒めて育てると言いますが、言い換えればその人を美化して育てているということです。善いところを見つけられるのは、自分の善いところを認めているからです。自分の悪いところばかりみてしまうのは、自分に対しても人に対しても減点法で足りないところばかりを探してしまうからです。

「成功する人くさる人(寺田本家23代目当主寺田啓佐)KKロングセラーズ」の中で美化に関してこういう一文が紹介されています。

「美化って、やっているうちに楽しくなって、意識しなくても、自然と美化できるようになるんだね。ただ、今まで美化をしてこなかった人だと、やりはじめの頃は『自分は、まだ相手の欠点ばかり探しちゃうんだ』とか、『自分はまだ人を冷静に判断して、正しいことしかいえないのか』とか、思ってしまうことがあるの。そんなときは、『美化してこなかった自分が美化を心がけようとしている。成長したじゃないか』とか、自分で自分を美化してね。自分を美化することも大事だよ。できない自分で美化すれば、人一人救ったことになる。なおかつ、たいがいのことは美化できるようになるからね」

最初はなかなか美化できず、悪いところばかりを探してしまうけれどそのうちに人の善いところを観ようとしているうちに自分が変わっていくものです。その間も、自分は善いところを探そう、自分はもっと人を認めていこうと努力しているのだから、以前の自分よりも成長しているじゃないかと自分を褒めていくことが美化そのものになっているということです。

競争社会の中で、様々な人から足りないところばかりを指摘され、標準で平均、常に誰かの評価が入って点数をつけられてきたトラウマはそう簡単には拭いされません。しかし善いところを探そう、美化していこうとすることで自他は認められ自他のいのちはより一層光り輝いていくように思います。

素直になりたい、謙虚になりたいと思っても、その初段になるのも一生かかるものです。子ども達のためにも、足るを知り、善いところを認めるところから精進を続けていきたいと思います。

 

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

類は友を呼ぶ~循環に在る縁者~

昨日、田んぼの草刈りをしていて不思議なことを考える機会がありました。現在の田んぼは、稲が分けつをはじめ青々と葉を広げていく時機に入っています。不耕起で自然農で取り組んでいますから、周りの草を刈りつつ、見守りそのものの持つ力を信じて共に育ちあっていくのを援助していきます。

その際、草刈りをしていると稲に似た近縁の雑草があることに気づきます。言い換えればかなり稲にそっくりな似た草草が周りに生えてくるのです。一見するとほとんど見分けがつかないほどのものが、すぐ周囲に生えますから間違って刈ってしまいそうなくらいです。

これは稲だけに限らず、野菜など栽培するものの周りにはよく似た雑草が次第に集まってきます。これは生態系の不思議で、「類は友を呼ぶ」ということが実際にいつも起きているように思うのです。これは全ての生き物に共通する真理であり、御互いに共通するものは互いに引き合っていく性質があるように思うのです。

改めて気づいたのですが生き物たちは、生きていくために一人では生きようとはせずに仲間を求めるように思うのです。この仲間=類というものは、長い間で探し当てた同じ心を持つもの同士とも言えます。互いに助け合っていけば生き残れると感じて、一緒に生きるものを長い時間をかけて得た関係です。それは循環の中に在るご縁で結ばれているかのようにです。

先ほどの稲と雑草稲は、互いに共にあることで他の虫から食べられるのを互いに補完しあうことで全部食べられるのを防ぎ、同時に他の草に空間を占有されないように互いに周囲を抑えて助け合っているとも言えます。

片方の稲は人間の都合で栽培され食べられる実をつけますが、もう片方の雑草稲はあまり食べるものに適しません。しかし人間都合で栽培されてきた稲の方にも本来の野生の中で生きる智慧を自ずから見出し、類を呼び周りと共生しようとしています。

つまり仲間=類とは、共に協力し支え合うために集まってきた縁者なのです。この仲間というものは人間でいう家族や親戚、友人、同志などの縁者であり、似た者同士、同類相求めるのように同じ性質を持つから近寄るのです。蓑の傍に傘が寄るのことわざのように、気が合う者は互いに親しみ集まる、同類のものは自然に集まるのです。

これらの「引き合う惹かれ合う関係」において、自然界はとても絶妙に仕上がっているように思います。周りがどうなっているかを知るとき、自分がどうなっているのかが分かるものです。自分で自分のことはわかりませんが、自分の周りを見て観たら自分のことをはじめて知ることができます。縁者は常に互いに補完しあったり、互いに妨げあったりしますが悠久の長い目でよくよく洞察してみたら、この縁者の関係がお互いにこの地球の厳しい循環の中で末永く生き残るために慈しみ助け合っている縁者なのです。

自然界の絶妙な類友を集める仕組みに、改めて自然の法理を学び直すことができました。縁者はすべて善であるという智慧の気づきも、また田んぼの中から得ることができました。

実際は、収穫をあげ栽培していますから刈り取るのですがその中で他の雑草たちとの共生がはじまり実をつける栽培に適した環境に仕上がってきます。植物たちの集まってくる変化を楽しみながら、如何に共生関係を創っていくか、観察しつつご縁を味わっていきたいと思います。

地球人財5~地球人としての生き方と働き方~

インドネシアに「未来のリーダーを育てる奇跡の学校」と呼ばれているグリーンスクールというものがあります。特徴はインドネシア・バリ島のジャングルの中に存在し、建物の全てが竹で作られ、電力は太陽光発電で賄われているというこだわりでできています。

さらにそこに入学するための選考は如何に自然環境に対する自分の想いだけでなく、どれだけたくさんの人たちに影響を与えることができるかをテーマに行われます。つまりは自分の生き方と働きかけが何よりも重要であるとし、それを未来型リーダーの原点に据えているところです。

地球人としてどう生きていくか、それをどのようにグローバルに発信していくかをこの学校生活を通じて仲間と刺激し合い自然に解けこみ学び合うという感じです。

なぜ未来型教育である必要があるか、それは持続不可能な生活を続ける私たち地球人の在り方が問われる時代に入っているからです。このままでは持続しないということはもうほとんど全ての人類がそれを知っていても自我欲に負けてしまい何もできないでいることです。

誰かが何とかしてくれるのを待っているのではなく、自分が地球人として何ができるかを考えようとする取り組みこそ未来型教育であると私は定義します。持続不可能な生活に待ったをかけ、如何にしたら持続可能な世の中にしていけるかをそれぞれの生き方や働き方で世界に示していくことが必要なのです。

私が自然農を取り組み、対話や協力、そして思いやりや真心の実践を会社を使って開発したり発明したりするのもすべては持続可能な循環社會を地球人財の一員としてどう世界に発信するかということを悩んでいるからです。それは地球人としての責任であり、子ども第一義を思えば思うほどに未来のことに責任を感じます。

未来がどうなっていくのかは当然今の私たちの暮らし方に懸っています。グローバル人財とは何か、地球人財とは何か、それは自分の生き方や働き方に責任を持つ自分自身のリーダーになれる人物のことでしょう。

このグリーンスクールの理念にはこうあります。

「私たちはまだ種をまいたに過ぎない。本当に重要なことは、世界の人たちが私たちを真似て、さらに改良を加えて行動すること。常にその瞬間の自分の行為が孫世代にどう影響するのかを考えるようになれば、自ずと未来は変わっていくだろう。第二のグリーンスクールをどんどん作ってほしい。私たちは協力を惜しまない。」

地球人財とは自分自身が主体的に自分自身のリーダーになり、世界の常識を覆していけるような本質的な人物であることです。周りがどういう生き方をしていようが、自分自身が決めた生き方を貫ける勇気と信念、愛と平和に生きる徳才の人物です。

自分がグローバル人財でなしにグローバル人財を育てられるわけがありません、自分が地球人財でなしに地球人財も育ちません。だからこそまずは自らが地球人のリーダーとなるべく実践を積み重ねて人類の未来に発信していくことだと思います。

今日からまた日常の実践に回帰しますが、何のために生きるのか、常に地球規模の意識でリーダーシップを発揮できるようカグヤを通して生き方と働き方を磨いていきたいと思います。