生きる力~多様性と柔軟性~

生き物がこの地球で生きるには多様性と柔軟性は欠かせない要素です。自然界を見て観ると、それぞれが異なる特性を活かしながら共に生きています。その上で、環境の変化に応じて自分の方を変化させながら周りの生き物たちと一緒に助け合っています。この当たり前の自然であることをできなくするのが、画一性と真面目ではないかと私は思います。

この2つの要素について今回は少し深めてみたいと思います。

画一性については、そもそも自分は周りと同じであるという勘違いをしてしまうことから発生してくるように思います。例えば、鳥であったとしても地上を走りまわる鳥と、遠くから渡ってくる渡り鳥は同じではありません。そんなことは誰でも知っています。地上を走りまわる鳥に、渡り鳥と同じことをさせても同じことはできません。逆もまた然りです。しかし実際に人間は、画一性で同じものを目指し同じだと信じ込まされているとタイプが異なるにも関わらず同じことをできなければいけないと思い込んでしまいます。これはとても不幸なことで、そもそも飛べない鳥が、遠くまで飛べる鳥だと勘違いしたら自分自身に絶望してしまうかもしれません。

これは鳥で例えていますが、魚に地上をチーターのように走り回れということがおかしいとも思わなくなっているのが画一性の落とし穴です。自分というものを必死に画一にしてきたことで、自分自身の特性が迷走すれば本来の多様性に気づけないかもしれません。チームで何かを取り組むには、自分の得意や持ち味を活かし合わなければなりません。そのためにはまず自分の中にある画一性の刷り込みを取り払うことが第一になるように私は思います。もっとも多様性を知るものこそが、もっとも多様な能力を互いに発見し合い、見出し、それを活かしあうことができるからです。自分らしく生きていてそれが最大限みんなの役に立つことほど仕合せなことはありません。これが自然体です。

もう一つ、真面目についてです。これは本来の真面目の意味である真剣さという意味とは違います。教育や刷り込みによって、頑固に強硬になり、視野が狭くなり融通がきかなくなっているということです。例えば、生き物たちは遊び心があります。こうでなければならないという姿よりも、あるものを活かそうとします。例えば、鳥でいえば托卵といって自分の卵を他の鳥に温めてもらって育てたりします。本来、自分で子育てするものを他の鳥に託して育ててもらうのです。自分の特性が子育てに向いていないと気付いて、それでは得意な鳥に任せようとする発想です。これを人間ならズルいとして間違っていると否定する人もいるでしょうが、これはもともとその種が生き残るために選んだ本能と智慧から来ているものです。

そもそも柔軟性というものは、自分のこうでなければならないといった融通のきかない姿から発生することはありません。自然界では、意固地に自分を持ち続けて変化をしなければ滅びてしまいます。実際の自然界では生き残るために必死で真剣ですから、頑固なプライドなど持っていても仕方ありませんから周りの変化に対して自分をしなやかに変化させていく力があるのです。つまり「自分が自分我」というものをあまり先にしない、それが柔軟性です。

自分が真面目にやっていれば正しいと思い込み、自分さえ真面目であれば問題ないと勘違いして結局は滅んでしまったでは意味がありません。生き残るために真剣であればふざけてもいい、生き残るために真剣であれば遊んでもいいくらいであることが本来の柔軟性を呼び込んでいくように思います。そこは大切なものを守るためなら手段を選ばずに”柳に風”のように”しなやか”でいようとするのが自然の中で生きる智慧のように私は思います。

つまり柔軟性というものは、真剣さの中にある自然のしなやかさといったものです。大切なものが守れるのなら、自分の方法には固執しないということです。結果は天にお任せして最善を盡せとも言ってもいいかもしれません。

これらの2つ、多様性と柔軟性はなぜ必要かといえば厳しい自然社會の中で「生き残る」ためです。生き残る力というのが、私の思う生きる力です。人間自身も国際社会やこれからの未来に向かって生き残り生き延びる「生きる力」をどう育てるか、教育の本義はそこに尽きるように思います。

本来の学力をどう育てていくか、明日から1週間かけてカンボジアとシンガポールへ訪問しますが今一度、未来型教育の原型と見守る保育の本質を自分で整理してみたいと思います。

ちょっとずつ~自然のハタラキ~

自然界というものは、「ちょっとずつ」みんなで分け与えながら存在しているものです。あまり大きくはせず、あまり無理もせず、あまり欲張らず、いつもちょっとずつのハタラキの中に存在しているように思います。

もしもこの世に時間という概念がなく、終わりも始まりもないとしたらそんなに急ぐこともないように思いますし、焦る必要もないように思います。その急ぐ焦るの気持ちはどこからくるのか、それは自分への執着によっておこるようにも思います。

自然の生き物たちは、まるで大樹の根が長い年月を経てゆっくりとじっくりと張り巡らすように、まるで雨だれが長い月日を経てポツリポツリと石を穿つように悠久の年月に「ちょっとずつ」取り組んでいきます。

自分が生きていると思っている存在と、周囲に活かされていると感じている存在。

一見しては同じように観えていても、その心は生長はまったく異なる次元で存在しているようにも思うのです。ちょっとずつ歩んで往く姿というものは、外から見れば平凡で何も変化のない愚鈍にも見えるかもしれません。しかし実際の自然の姿から観ていたらその志や信念足るや非凡そのもの、力強く芯が思いをカタチにしていることを実感します。

如何にちょっとずつ進むかは、その人の信念の強さ、また心がけの正直さによるのかもしれません。自然から学び何よりも感動したのがこの「ちょっとずつ」という真実です。

まだまだ我欲や執着、思い込みや固定概念が抜けずに煩悶とする日々ですがそれもまた自然を学び直す教材の一つと受け容れ、引き続き実践を発明していきたいと思います。

誠の道~自然物の心~

人は自然の中に入ることで、何が自然で何が不自然かということが自明してくるものです。教えられた知識や、どこかで刷り込まれた常識ではなく、そもそも自然がどのように働き、どのように存在するかに合わせればそこには偉大な恩恵の中にあることに気づきます。

昔の人は、それを天とも言い、その天の道である誠は己の中に具わると示しました。それは自分も自然の一部であり、この生きている姿そのものが自然であるからです。呼吸をし、水を巡らせ、体験のあらゆるものを感じ取る、まさに自然物です。

中江藤樹の学問にこのような言葉が遺っています。

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

自然物の学び方として、如何に天を師にし周りの自然物から学べばそれこそ真実を得るということでしょう。草を草とみたり虫を虫とみるではなく、そのもののその姿すべてから同じように学べば徳が自らにあることに気づけます。

なぜあのような姿かたちになっているのか、なぜあのように生きているのか、静かに自然を見つめていくと其処に具わった徳に気づけます。その徳をどう活かしていくかが、私たちが天に対して誠を実践していくことのように思います。

「はかなくも悟りいづこと求めけん。誠の道は 我に具はる」 

誠に道は、生きている自分にこそあるという境地です。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

そしてこの生きている自然物が大徳であり、その中で活かされて徳を盡すことで孝行ともなります。自然物は一切の無駄はなく、ありとあらゆるものが結ばれて存在していますから自分の徳を盡せば盡すほどに周囲に好循環を与えていくものです。

真摯に自分を生きる仕合せというものは、その心の誠に出会うことかもしれません。それを致良知といい、心を清め澄まし、汚れを取り払っていくことで正直になることだと言います。

正直さというのは天地の道ですが、その正直が分からなくなっていくのが心の汚れであろうと思います。それを学問をすることで如何に徳を磨いていくかが本義なのです。そして中江藤樹はこう言います。

「人生の目的は利得ではない。正直である、正義である」

「正直である」という言葉、正義であるという言葉。

ここが如何に自然物と一体になっているかということを感じます。自然物はみんな正直であり、そして正義です。その周りの自然物をみてみたら、如何に自分が歪んでいるか斜めに物事をみているかに気づくものです。

ありとあらゆるものが自然そのものになることが誠の道です。如何にそこから離れないように日々に意味を感じ、体験に気づき、そして改善するかは人生道場の修行のようにも思います。

誠の道を確かめつつ、自然物の心のままに歩んでいきたいと思います。

自然の道~御恩に報いる~

天地の間には自然の道というものがあるように思います。

これは地球の中にいて地球の一部として生き活かされる存在だからこそ、そこには確かな法理(ルール)があります。それが自然の道というものです。

例えば、自然はそのままにしていればそれぞれに生き物たちが移動して自由勝手にその場に生息していきます。そこにもし人が入り、全部を排除して好き勝手したらその環境が崩れてしまいます。そこには自然の中で自分を活かそうとすることで周りに貢献するという法理(ルール)が働いていることに気づきます。

全ての生き物という生き物は、一生懸命に自分を生き切っていますが自然の道から外れることはありません。地球の中で天から与えてもらったあるがままの自分の持って産まれた持ち味を最大限活かしつつ生き抜いていくからです。その時点で、不自然なことはなく自然の中で自分を出し切っていますからそれが地球の自然循環に叶うのです。

太古の人は、自らでその自然の中でどこまでが許容されるのかを観察し適切に自然の法理(ルール)から離れないように自分たちのやりたいことを実現していました。周りを壊し過ぎず、分度を保ち、自分たちがどのくらいまでやっていいのかを自覚していました。まるで近江商人の実践していた「三方よし」のように、常に「みんなにとって善いか」ということを最大限優先して生きてきました。

自然界というものは、自分(小さな自我の価値観)を優先したらどうなるのかをルールによって自覚できるようにできています。そこには生成するものは全て滅する理によって自滅することを自覚するからです。如何に自分だけがよくならないように、全体(みんな)にとってどう自分を使っていくといいのかを優先しているのです。それが嬉しく楽しくありがたく仕合せであることを自然の本能が知っているたからです。

今の人たちは自然と対峙した刷り込みから、自分、自分、自分と自分のことで頭をいっぱいにし、自分自身の存在を勘違いしています。本来は天道は、御蔭様の心でもったいなく謙虚に自分の使命をさせていだたけることに感謝で実践し、人道はお互い様の心でありがたく素直に自分を周りに役立てていく報恩を実践していくことです。そしてこの「謙虚と素直」が自然の道、私の言葉では「かんながらの道」になります。祖親からずっと今までみんなが譲って遺してくださった努力と苦労の上に今の生命が存在させてもらい、今の私たちが人生を謳歌していることを決して忘れてはならないのです。

それが自然の道を思い出させる初心なのです。

四六時中、自分自分と自分のことを考えて孤独に悩む前に、活かされてつながっている存在に気づき、その自分は自然の道に外れていないか、自然の道から遠ざかっていないか、それを省みて自らの生き方を自然に学び、生き方を直していくことのように思います。自分がどうかよりも、みんなの役に立ちたいと願う生き方、周りの御恩に報いていこうとする生き方、子どもたちがこの後、私たちの生死の後に続いていくのだからこそ本来の生き方から見つめていきたいと思います。

子ども第一義の本質は、この自然の道の実践により叶います。

常に自我のやりたいことよりも、無我のさせていただけるの御恩に報いていきたいと思います。

準備の本質~未来との向き合い~

物事を成功させるのに「準備」という実践があります。如何に平素から抜かりなく準備を怠らないかというのは危機感のことで、常に危機感を持って日頃から準備をしているかという心の持ち方のことです。

準備といえば色々な諺があります。

例えば、「転ばぬ先の杖」というものであったり、「備えあれば患いなし」、「遠き慮りなければ必ず近き憂えあり」、「後悔先に立たず」などもそうです。これは準備というものが如何に先々の未来に大きな影響を与えているかということの格言です。

あのイチロー選手も「準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく」といって日頃の準備を一切怠らずに鍛錬していると言います。その証拠に「ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです」とも言います。未来に先延ばしたくなる怠惰な怠け癖を自ら断ち切って、この先に起こり得る全てのことを本番同様の危機意識でシュミレーションして日頃の準備に臨むのです。

準備というものは、その人の持ち味を活かすための最大最高の実践です。事前にあらゆる未来を正面から逃げずに向き合い、もしもの最悪の事態の時にどうするかを考え抜く覚悟、または最高のチャンスにどのようにするかを考え切る覚悟、その上で何を用意しておくかを日頃から取り組むのが準備ができている人の実践です。実際の仕事でもほとんどが準備に費やすだけで本番で使うのは1割から2割の配分で準備したほとんどが使わないままになっていると思うと、本番とは常に平素であることを再実感するのです。

準備は実力の発揮と密接につながり、準備をしていればその時々で準備しているものを出せばいいのだから存分に自分の実力の全てを出し切れます。逆に準備が足りていない人は出せないからさらに言い訳はどんどん増えていくばかりで現実に苛立つばかりで停滞してしまうものです。

老子が「無為自然」の境地の中で、何もしないのが無為自然なのではないことを思想で語ります。無為自然の本質は、未来が来る前に全て準備済みで先に予測して未来を先取りしているからこそ現実が来た時に余計なことをしないという境地で実践するから結果的に何もしていないように観得るだけです。

これは自然農などと同じ仕組みで、未来は予測できると自覚しているからこそ予測できない全てに準備しておこうとする日頃から危機感を持つことではじめて全てを先取りし余計なことをせずにその作物が育つことができるのです。来たものを選ばらない生き方というのは、先取りの準備、その心構えと実践ができているということです。

そのために未来は分からないからどうしようもないではなく、未来は分からないからこそ準備しようと未来を正面から向き合う心の強さを鍛えるために準備の実践を積み重ねる必要があるのです。言い訳がでるときこそ、それは未来に向き合っていなかったということに向き合う必要があります。そしてそれは信じる力を育てるのと怠ったと戒めてまた信を鍛錬していくしかありません。信があれば人は未来と向き合えますが不安や不信は未来から逃げようとする言い訳になります。

自然界にいる彼ら野生の生き物たちのように常日頃からいのちを輝かせて危機感を育て、健全な自然の危機感と一体になり、大切ないのちを守り、自分を全体貢献に発揮できるように準備を怠らない実践を積み重ねていきたいと思います。

死生観~心の赴くままに~

人は本当は誰もが心の赴くままに生きていきたいと願うものです。しかし実際は、数々の刷り込みの中で自分の心を見失い自分の心が一体何かが分からずに迷い惑い悩み、そしてまた心から離れてしまい苦みます。その心が何か、その正体を理解するには深く自分の心を静かに見つめてみないと分かりません。

しかし実際の人生では日々の喧騒に追われ、静かに自分と向き合う時間をなかなか持てないものです。それが病を得たり、死を迎えたりするとき、はじめて自分の心と向き合うことができるようにも思います。

死生観というものがあります。

これはどう生きるのか、どう死ぬのかという心の在り方を見つめる観点です。これは自分の人生をどう死のうかと考え抜けば貫くほどにどう生きようかになってくる、つまりはどのように生きてどのように死ぬかという問いの中に自分の心を見つめられるのです。

この死生観というものは、時間を何に遣うか、その志を何にするかという自分の心との自問自答です。これを持つ人は、その後の人生の遣い方、時間の遣い方が変わってくるように思うのです。時間とは自分の与えられた人生ですから、それをどれだけ真剣に真摯に生きるかはその死生観が基本になっているかが左右するように思います。

吉田松陰が弟子に与えた有名な詩があります。

「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ」

私はこの詩を讀むとき、どうしても心に繋る言葉があります。それが「君たちはどうかいたずらに時を過ごさないように」という言葉です。

これはきっと吉田松陰が自分自身に常に言い聞かせた言葉だったのではないかと感じます。人生は短い、忙しさを理由にして自分の人生を無駄にはしないでほしいという願いでもあったのでしょう。

吉田松陰の遺書には、「人生には誰にも四季が備わっている」と書かれました。ここにも死生観が観てとれますし、また「生死は度外視してやりたいことをやりなさい」とも言いました。

純粋さというものは、如何に自らの心を静かに向き合い、その心を透明にし心の赴くままに透徹に生きることではないかとも思います。素直さや謙虚さというものは、自分の心に近づくための大切な人生修行実践目録の要諦のようです。

忙しさを理由にせず、言い訳を当然にせず、自分の決心した「志」に生きることが人生の仕合せ、出会いやご縁、そして「思い」に死ぬことかもしれません。志を持ちなさいといった吉田松陰の言葉を胸に、真心のままにかんながらの道を精進していきたいと思います。

人為の本質~真心~

無肥料無農薬、自然農を実践しているとそもそもの自然には全て備わっていることに気づくことばかりです。何かを足した方がいいという刷り込みがありますが、何もしない方がいいという価値観になっていくのに気づきます。そもそも何もしないといっても、自然は偉大なことをしてくださっています。

例えば、太陽の光の恵み、地球の水の循環の恵み、風が吹き抜ける恵み、土が発酵する恵み、生物たちの活動の恵みなど、数え切ればきりがないほどに様々な恩恵を受けています。それに比べて人為的なものは、助長することばかりで自然の恵みにはとても敵いません。

そう考えてみると、人間ができることは余計なことをせずに少しだけ手伝うことだけです。幼い頃にどうしても負けそうな時にだけ手を貸してあげたり、弱った時に助けてあげること、後は信じて見守るだけです。

この「信じて見守るだけ」しかないという現実の中に身を置いてみたら、如何にいのちに寄り添うということが何よりも大切なことなのだということに気づきます。

それぞれは自分の主体性で生きています。何もしなくても生きているのは自明の理で、それは心臓が脈打つように、血液の流れが止むことがないように、意識しなくても生きています。自然も同じく、何も意識していなくても生きているのです。

この生きているのだからという絶対観、当たり前の場所で自然は常に変化を已みません。その変化の中で育つのがそれぞれのいのちですから、余計なことをするとかえっておかしくなってしまうかもしれません。それは病気でも同じことです、自然治癒を邪魔することでかえって重大な危篤を招いてしまうかもしれません。

自分の中で育っていないという勘違いや、自分の中でもっと足さなければならないという思い込み、自分の中でできないことは悪であるという刷り込み、そういうものを一つ一つ取り除いていくことで、余計な邪魔をしないで自分らしく自分の成長を味わっていくことができるように思います、そして同時に同じように他を見守っていけるように思います。

自然界の中で私たちは自然が造形した化け物とも言えます。すべてはこの地球から生まれ、植物たちと同じように分化し続けて湧いて出てきたとも言えます。だからこそ偉大な恩恵の中での人為は限りなく最小で限りなく最大なのです。

そしてここでいう人為とは一体何か、それは「心」です。その心を寄せて、心を寄り添わせていくことこそ、私たちができる唯一の人為=真心かもしれません。自然界は、すべてその人つなぎの「思いやり」によって成り立っています。

自然の中での真心を学び直していきたいと思います。

自然の村~生き物の棲む場所~

自然農の田んぼで今年の田植えを無事に終えることができました。苗作りも順調に進み、ここからが本田での見守りに入ります。水田をよくよく観察してみると、生態系が大変豊富で、沢蟹や蛙、ヤゴや川エビ、他にも小さな虫たちが水中で活動しています。また土の中や上には、沢山の種類のミミズや虫たちが生活しています。

耕さないことで、生態系の棲まいをなるべく壊さないで配慮していることで年々のめぐりの中で暮らしを充実させしっかりと繁殖することができるのかもしれません。土が豊かに発酵していくと、生き物たちの暮らしも発酵しているのを感じ、循環をちょっと手伝うだけで自然はいつも応えてくれます。多様な生き物たちの暮らす場所が増えれば増えるほどに循環もまた豊かです。

そう考えてみると、私たちにも家があり住まいがあるように彼ら生き物にもあちこちに棲む場所があります。それは雑木林であったり、池であったり、窪地であったりと、それぞれに自分の特徴に合わせたところに移動してはそこに私たち人間と同じように住まいを創り暮らしを定着させていくのです。

そして食べて食べられる関係がありますから、必ず天敵が近くにいて次第にまた次の天敵を集めては一つの生態系の群がつくりあげられていくのです。そして絶妙なバランスの中で、食べて食べられる関係が必要な分だけになったときその場所は生き物たちの楽園になっていくのかもしれません。

自然界というものは、そのあちこちに生き物たちの住まいがあり群(村)があります。その村の中で、何世代もずっと長く彼らはそこを故郷にして生活を続けていきます。そう考えると、そこに農薬や新種の外来種などが入ってくることで彼らの生活は脅かされるのかもしれません。

昔の日本人は、なるべく自然の姿を壊さないように、生き物たちがあまり死なないようにと配慮しながら農業を続けてきたと言います。そこは排除するのではなく、私たちもその生態系の群(村)の一員に加えてもらおうとするような感覚だったのでしょう。決して全部は貪らず、思いやりの心をもって必ずその生き物たちが棲む場所を失わないように配慮してきました。その一つが、神域とした神籬、磐座、つまり鎮守の杜であり、川、池、樹、岩、つまりは自然の結界でもあったように思います。

この心構えを省みると全部自分の思い通りに進めることが如何に危険で傲慢なことかをきっと先人たちは自然から学んでいたのでしょう。今の時代は、自然をまるで敵ともみなすような技術が蔓延り、拝金主義の都市化された人間中心の社会の中で人間の都合に合わないことが不自然であるかのような価値観が常識になっています。

しかし実際は、私たち暮らしている地球には多様な生き物たちもまた同時に棲んでいますから棲む場所を全て強奪してしまっていては最期には地球は人間だけしか住めない場所になってしまうかもしれません。

あの宇宙空間のどこかの星に人間だけが人工コロニーをつくってみても一時しのぎはできてもそこで悠久に生きていくことはできません。人間のみという生活はできず、地球から野菜から果物、動物や虫、菌類などを持ち込むことではじめて数年は暮らしていけるくらいです。私たちは本来、地球と一緒に暮らしているのだから、そこからいくらミツバチや蝶だけを都合よく連れていったとしても、今の地球のような環境をつくることは不可能ですし愚かなことです。

それに気づいたならば、豊かすぎる今の地球の環境に不満をこぼさず御蔭様と感謝の心で謙虚に大切に他と共生していく道を選んでいきたいものです。子ども達の未来には、どんな世界が遺っているか、人間だけしかいない世界よりも少しでも多くの自然を遺してあげたいと思います。

自然の実践を通して、自分の生き方から引き続き見直していきたいと思います。

犬の記憶~なるようになるさ~

先日、ある本の中でドリス・デイの言葉に出会いました。その本は、「犬が教えてくれたほんとうに大切なこと。」(シンシア・L・コープランド著)という本ですが、私も幼い頃から犬と一緒に暮らして犬から様々なことを教えて貰った記憶があったことを思い出しました。

幼少期から17年、その後は15年、今では6年、人生のほとんどを犬と暮らしています。その犬は単なるペットではなく、自分の人生のありとあらゆるシーンで時には親代わりになり、ある時は親友になり、ある時はメンターになり、またある時は家になるというように自分の心に如何なるときも寄り添ってくれました。悲しい別れもありましたが、それよりも一緒に暮らし散歩したときの当たり前の風景の中にあった倖せの感覚はいつまでも心の中に遺っています。

ドリス・デイの言葉ではこうあります。

「深く思い悩んだときには、ただ黙って献身的にそばにいてくれる犬こそが、他の何からも得ることのできないものを与えてくれる」

何もしてあげられないけれど心全部丸ごと惜しみなく寄せてくれることにどれだけ心は救われるか、犬は愛するもののために惜しみない愛情を与えてくれます。人間が与えているように錯覚していますが、実際に与えられ続けているのは私たちの方でそれに気づかなくなってくるだけとも言えます。感謝を常に受け容れる犬の姿には感動し、学び直すことばかりです。

またこのドリス・デイの歌う有名なものに「ケ・セラセラ」があります。これはスペイン語で「なるようになるさ」という意味です。激動の人生の中で愛を失わず全てを受け容れる、そしてなるようになるさと信じるということの価値を感じます。

歌詞を紹介したいと思います。

「幼い少女だった頃
私は将来何になるのってママに尋ねた
美しくなる? お金持ちになる?
そうしたらママはこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

成長して恋に落ちて
恋人に尋ねた
将来は何が待っているの?
日々虹に恵まれた生活を送るの?
そうしたら恋人はこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

今は子どもに恵まれて
子どもたちは自分は将来何になるのって私に尋ねるの
美男子になるの?お金持ちになるの?
だから私は優しく答えるの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

ケ・セラ・セラ」

思い悩んでみてもどうにもならないものはどうにもならないもの。人生は丸ごと運任せ、流れる川に浮かべた舟のようなものなのかもしれません。流れ着く先がどこなのか、そしてこの先どうなるのかは何も分からないものです。自分らしくいられずに常識に囚われ不安になれば誰しも未来が心配になったりするものです。

そういうときは、自然の成り行き次第だから「なんとかなるさ」の心で寄り添ってあげたいと思います。自然界は常になんとかなるさで心を寄り添い支え合う仲間たちばかりです。その仲間の一員である人間、自分の存在を間違わないようにしていきたいものです。

今日もなるようになるさと明るく楽しく朗らかに感謝を丸ごと味わう一日を過ごし、心を自然の成り行きに任せていきたいと思います。

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。