人事考課の罠

先日、人事考課について考える機会がありました。そもそも人事考課というのは、公平に平等に評価するために取り入れるという人が多いのですが、実際はそうはなっていないことがほとんどです。

その理由に、実際はそれぞれの特性や持ち味を活かそうといった観点からはほど遠く、如何に一人ひとりを均一にしようかというシステムで動いているものがほとんどだからです。実際に一人で生きていくのならば、短所も補ってあげなければ生きてはいけない、長所だけでは難しいと考えるのかもしれませんが、そこにチームや共働という考え方があれば無理に平均の力が必要なのかと私は思うのです。

実際の社會に出て観れば、組織の中でどう自分の個性や役割を果たすかということが求められていきます。そこには、自分の持ち味や長所をどう周りを活かしあい、そしてその周りを信頼し短所を補ってもらうかという力が必要になります。

そうでなければ、全体に効果のある大きな仕事はできませんし、また仕事というのは人々との協力で自分の役割を果たすことで仕合せを感じますからその実感もあまり得られなくなっていきます。

本来、みんなを同じにしようという考え方というのは平均にしようという考え方です。金太郎あめのようにどこを切り取っても同じにしようという発想は、一斉画一に同じものをつくろうとするときの手法です。

人事考課をやるといっても、その元になる考え方が平均や画一を求めているものであればその結果はその考え方に従ったものになると私は思います。

人間は一人一人の顔つきがみんな違います。誰一人として同じものはありません、これは指紋でも同じです、わざと人間は異なる部分を創り産まれてきます。これは本能ですがここから読み取れる真理は、人間は同じことをするのではなくお互いに異なる特性を活かしみんなのお役に立ちたいと願う生き物だと分かります。

それは自らの長所をどう周囲に役立てていくか、そして短所は如何に迷惑をかけないように周りの力を借りるかということを運命づけられているかのようです。だからこそ、苦手なところを克服するのに一生を費やすのではなく、得意なところを伸ばすことに専念し、自分の苦手は得意な人の力をお借りして”お互い様と御蔭様”にしていくことが本来の”生きる力を育てる”ことだと私は思います。

一人で生きていく力は決して平均の人にすることではありません。

一人で生きていく力というものは、自分を信頼するという力です。言い換えれば”自信”のことです。時代が何千年変わろうが教育の本質は太古の昔から決して変わりませんし、普遍的な真理はどんなことがあっても錆びつくこともありません。

人事考課をする際に一番考えないといけないのは、みんな違ってみんないいと口では言いながら実際はみんなはやっぱり同じがいいという愚を犯すことです。

本当は何かと何かを誰かが言ったからすぐにやろうとするのではなく、刷り込みに気付くのが先です。そして単に制度だからと人事考課をするのではなく、人類や人々が如何に安心して生きがいや遣り甲斐を感じられるかを深めていくことが人財を教育するのだから何よりも優先して考えることです。

私たちも子ども第一義のモデルになるような働き方生き方を突き詰めていきたいと思います。

いのちのむすび~生命の畏敬~

先日、アルベルト・シュバイツァーのことを深める機会がありました。「世界人類は皆兄弟である」という思想を持ち、平和活動だけではなくアフリカのランバレネで医療活動を通して自分の生き方を貫かれた人物です。

生き物を深く愛し、「生命の畏敬」という言葉を遺しています。

私のかんながらの道でも最も重要なテーマがこの「いのちのむすび」です。そもそも私たちは自然界が産んだ一つであるのだから、元来繋がって丸ごと一つになっているものです。ふと田畑に出ては、様々な虫たちや植物たち、動物たちの声を聴いていたらその田畑の中にある自分に気づくことがあります。

そんな時、生きている自分ではなく活かされている自分に気づくのです。その安心と安楽はとても言葉では表現できず、自分も皆と一つになっている仕合せを味わえる瞬間です。

その時、いのちは自他一体に結ばれています。それぞれにどれも必要であり、要らないものは一つもないということは自然を観れば明白です。しかし人間が価値を定め、その価値基準によって上下軽重など仕分けて権力を握っている世界ではどうしてもその考え方から離れてしまうのかもしれません。八百万の神々とあるように私たち日本人は大和という考え方が基本にあります。その基本があるから、いのちを尊び、いのちの有難さ、いのちの御蔭様に見守られている感覚を失わないのです。

そのことをシュバイツァーは「わたしたちは、生きようとする生命に囲まれた、生きようとする生命である。」という言葉で語り掛けます。つまり同じく一緒、私たちはいのちそのものなのだという言葉に強い信念を感じます。

そして私が何よりも感銘を受けたシュバイツァーの詩があります。

「自分にどんな価値があるのかが問題ではない。
生命そのものが神聖なのである。

虫が灯りに集まり、羽を焦がして落ちるのを見るよりは
むしろ窓をしめきって我慢する。
雨上がりの地面にはうミミズを見れば、
太陽が照り輝く前に、湿地にもどればいいと気づかってやる。

これを人は、感傷と呼ぶかもしれない。
しかし、私は恐れない。

認められるまでは、嘲笑される。
これは真理の常である。

私が「生命」というものの真の意味を見つけた土地、ランバレネ。
人は誰でも自分のランバレネを持つことができる。」

窓の外をみれば青空と光り輝く朝露の中で、鳥が歌い、花が咲きます。その一つ一つのいのちと同じように、今の私も愉しくしわあせに生きています。自然に身を置くというのは、いのちを大切にするということ、思いやりを何よりも優先しようとすること、それは役割を与えてくださっていることに自然に感謝できるからかもしれません。

最後に、自分探しや自分を見つけようと焦っている人をみますがその心配はないことをシュバイツァーの言葉で伝えます。

「人の本当の価値というのはその人自身から見出す事はできない。それは周囲の人々の表情や雰囲気の中にありありと浮かびあがってくるものだ。」

どう生きたらいいか。

この魂の自問自答は、謙虚さの中で育まれ、自然の答えに生きることでつながるのかもしれません。偉大な先人に習い、修養を続けてさせていただきたいと思います。

 

 

人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

個性~人格形成~

人はそれぞれ生き方があり、個性も異なりますから、その顕し方も人それぞれです。しかしその個性は比較する中で出てくるものではなく、その個性は人格が磨かれてくる中で顕れてくるものです。なぜなら本当の個性というものは、そのものが何よりもそのものとして在るときにはじめて出るからです。

よく誰かと比較して個性があるやないとかいいますが、実際は組織や集団に入る中でその人の個性は引き出されてくるものです。一人では個性とは言わないように、集団の中で個性は出ます。その時の個性は、集団の中でのその人の役割のようなものです。しかし本来の個性は、その人が思いやりや真心で全体のために自分を活かした時こそはじめて発揮されているように思います。

そしてそのためには人格を磨き人物となっていなければ個性を修めることができないのです。周りに合わせるのではなく、自分を修めるという発想が個性を存分に発揮するには必要のように思えるからです。

論語に十五にして学を志、三十にして立つ、四十にして惑わずとありますが、少年期は志を立て、青年期には自分を試しあらゆる挑戦をし、中年期には自力を発揮するようにそれぞれがそれぞれの年輪で自らを磨き修めることが世の中で自分を発揮していく道だと述べているかのように思います。

今の自分がみんなのためにできることを発展させてそれを広げ膨らませていくことで本当の自分自身に出会うということでしょう。そして同時にそれは自らの人格を育てて自分をつくり上げていくということです。

東井義雄さんに『自分は自分の主人公』という詩があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして 自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

自分は自分の主人公、世界でただ一人の自分を創っていく責任者という言葉は、個性とは自らで磨き上げていくものであるということを伝えてきます。自分に打ち克つというのは、誰かに打ち勝つよりも難しいことです。常に自分との調和融合を実現し、平常心を身に着けることで人は自分らしく自然体でいれるようになるのかもしれません。

畢竟、個性を大切にするというのは、人格を尊重するということです。自他一体に人格形成を優先して大事にしていきたいと思います。

心の在り処

人生はゆっくりでいいと言いつつも、この世の中のスピードは目まぐるしく変化していきます。周りを見ては比較をし、遠くをみては不満ばかりを募らせ焦ることも多々あります。

人間は自分の思い通りでなければ不安を感じるものですし、執着がありますから様々なストレスがかかってくるものです。しかし論語の「速やかならんを欲するなかれ、 小利を見るなかれ。 速やかならんを欲すればすなわち達せず、 小利を見ればすなわち大事成らず。」にあるように、なんでも急ぎ、自らの我欲を満たそうとすればそもそもの初心や原点を忘れてしまうものです。

如何にそうならないようにするには、一つ一つの実践を踏み締めていくことでしょうがもう一つ別の心境もあるように思います。

先日、ある場所で下記のような詩に出会いました。作者はちょっと難しい名前で○石と書かれていましたがこの○のところの漢字がどうしても読めませんでした。その詩に、今を生きることの大切さ、焦ることの愚かさ、現実の只中で生きていくことの真価を学んだような気がしましたので紹介します。

「足元ばかり見てたら 行く先がわからなくなった。
遠くの夢ばかり見ていたら 足元の石ころにつまずく。
だから休みながら のんびりのんびり
遠くを見たり 近くを見たり
ゆっくりゆっくり 今を楽しみながら。
あしたもきっと しあわせないちにち。」

焦る気持ちが今との直視を避けるものです。心が着いてきていない日々はまるで迷いと不安で心落ち着かない状態になっていることになります。そんなときは、一度立ち止まり何度も内省し、大事なことを思い出し、今の有難さや御蔭様に気づくことのように感じます。

人間、畢竟、天を敬い足るを知ることで心の本来の在り処に気づけるのかもしれません。まだまだ物来順応の境地には程遠いですが、見守りに逆らわずに子ども第一義の道草を味わい尽くしていきたいと思います。

 

ゼロベース~体内時計~

今の世の中のことを知ろうとするとき一つは知識を増やすことによって得られ、もう一つは知覚を澄ますことで得られるように思います。そのどちらも自分という刷り込みを破るためです。今の私たちは自然の叡智に触れて自然の叡智を可視化して自分たちのものにするために知識を得ましたが、同時に自然の叡智の切り取った一部しか視なくなったとも言えます。

様々な叡智を可視化し分けてしまうことで分かれてしまったのは叡智そのものの自然から離れた人間の方かもしれません。そもそも分けてしまっているのですから、一度全ての知識を御破算にして無分別智のところ、つまりゼロベースにしてみないとこの世の基本ともいえる自然を丸ごと理解することはできないように思います。

このゼロベースというのは、例えれば動物の体内時計で自然を理解するのに似ているように思います。ニワトリや猫、犬、その他すべての動物たちは自分たちの体内に時間を持っています。朝になれば朝を知り、春になれば春を知る、新しい仲間も、古い仲間も、生死のめぐりでさえ、体内時計に従います。その彼らの時間は、まるで宇宙のように悠久と矛盾が絶妙に調和して無のようです。

よくよく観察していると、彼らには時間もなく今があるだけです。この今という時間の中には、妄想もなくそのままの宇宙があるように思います。そういう流れて流れない時間の中で、永遠を感じることができるからこそ、その魂をいつも全うすることができるように思います。

魂への刷り込みは、この世の美しさも奪い、この世の真心も穢すように思います。私たちは新しいものばかりを詰め込みますが、本来の古代からの古いものも同時に詰め込めばいいものを古いものは価値のないもののように切り捨てていきます。ここに人間文明の深い問題があるような気がしてなりません。

魂は温故知新することで、あの宇宙の星々のようにいつまでも光り輝くように思います。

英国の詩人、ウィリアムブレイクの「無知の告知」の冒頭に有名な詩があります。

「To see a World in a Grain of Sand  一粒の砂に世界を見、
And a Heaven in a wild Flower  一輪の野の花に天国を見る
Hold Infinity in the palm of your hand  手のひらに無限をつかみ、
And Eternity in an hour  一瞬のうちに永遠をとらえる 」

私の意訳ですが、一粒の砂は土の姿であり、一輪の野生の花は自然のいのちです。その手には悠久が顕れ、時を遡り時は超越されるという意味なのかもしれません。

ゼロベースで感じるご縁とつながりの中で、魂は存在するのかもしれません。詩には不思議な力がありますが、その詩を学ぶとき、詩の中で伝えようとする真実が観えてきます。

詩こそ体内時計のゼロベースで詠う自然の声色なのかもしれません。あの動物たちや植物たち、虫や魚、あらゆる自然界の歌声に詩を感じます。詩を学び、自らゼロベースでいることから自然を取り戻していきたいと思います。

 

結び~真心の共感~

人の心に共感する仕事というのは、人の心に寄り添う仕事です。数々の現場でいつも感じるのは自分の真心がどこまで相手と一体になっているか、自分のことに思えているかという自問自答でした。欧米ではカウンセリングという言葉もありますが、それでは何か足りないとずっと感じていました。

なぜかといえば、相手と自分が分かれているなかでいくら相手に近づいてでもそれ以上は近づけないという場所があります。それは自分が相手と同じにはなっていない、どこか分けてしまう場所があるからです。相手の心に寄り添うというのは、ありとあらゆる感情に一緒に向き合うのですから単に知識や頭でできることではなくまさに全感覚を研ぎ澄ませていくものです。

それに自分がどんな状況でも望みを捨てず信じているからこそ、相手はその自分によって哀しみや苦しみが癒されていくのです。不安や心配の中で真摯に耐え忍び乗り越えようと人がするとき、そこに希望を探します。その希望を見出し守るのが本来の共感ではないかと私は思います。自分がどれだけ相手の絶望に寄り添いながらも自分が希望を捨てないか、それがどれだけ厳しいことかといつも感じるからです。

聴福人、一円観を実践する中に、傾聴、受容、共感、感謝があります。その中のすべてはある一点に向かいます。それは日本文化の真髄でもあるし、かんながらの道の達する境地でもある「結び」の一点です。

心がよそにいかず、心をうしなわず、いつも心がそばにいるという境地は、「分けない」ことではじめて可能です。どんなに忙しくてもどんなに状況が変化があっても、心はいつも結ばれたままであるという安心を与えることです。そしてその結びのご縁というものも、「この人と私は強い結び合いがある」と互いに信じることで希望の糸は織られ紡がれていくからです。

この結びという真心は、目には観えませんが私たちの精神の支柱になっているのではないかと私は思います。かつて、私の祖母や私が尊敬する方々は皆、この結びによる真心の共感を私にも発揮してくださいました。

そのことで矛盾する様々な感情を全て丸ごと受容でき、御蔭様の実態を見出し、全て感謝に昇華していきました。この考え方は、これからの世界を変える可能性を秘めた私たちが尊ぶ「和の心」と密接につながります。

一円観の境地は、数々の実践現場でのみ磨かれるものですから心を離さず、心を寄り添い、心を分かち合い、心を結び合い、心と心の共感によって得られます。

単なる思想ではなく、如何に現場で技術として活かせるかが何よりも大事です。現実を変えなければ世の中も変わっていかないからです。聴福人を育て、子どもたちの未来を一緒に創造していきたいと思います。

後の先~正直に向き合う~

先日、ある食事会で向き合い方についての議論がありました。それは向き合う姿勢そのものについて向き合うという話です。人は向き合うことで自分を知りますが、同時にどのように向き合うかでそれまでの自分ではなくはじめて本当の自分に出会うとも言えます。

人生は自分の身に起きる出来事に対して、自分自身が都合で歪めずどれだけ素直に選ばずに現実を受け止めていくかというのが人生の修業のように思えます。自分の実力を知り、自分を育てていくのも、素直さがなければ難しいように思います。

例えば人生に起きる出来事は全て必然だと受け止めることができるなら、その後に「選ばない」という覚悟が生じるからです。そして選ばないと決めるなら、自分には合っているとか合っていないとか迷うのではなくそのままそれはもっとも今の自分に相応しいと正直に受け容れられるのです。そうしたとき、はじめて今の自分の本当の役割や天から与えられている使命に気づくことができるようにも私は思います。

横綱白鵬の話に「後の先」という話があります。これは相撲では相手より一瞬あとに立ちながらあたり合ったあとには先をとっている相撲の立ち合い方です。これは言い換えれば全て受け止めて打ち克つという戦法のことです。

その横綱の白鵬の日経新聞のインタビュー「基本はぶつかり稽古」と題する中でこう書かれていました。『全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」』とあります。

今でも白鵬はこのもっとも苦しい基本のぶつかり稽古を欠かすことはないと言います。

後の先の本質とは、この基本の向き合うという素直な姿勢をどこまで徹底するかが重要なのではないかと私には感じます。現場というのは相撲の土俵のようなもので、常に真剣勝負です。その人生においての現場の場数をどれだけ逃げずに真摯に素直に謙虚に向き合うかというのは、自分の心がけを見つめれば向き合うことができます。

どの状況であっても真心を籠めることも、命懸けでやりきることも、それは常に人生の稽古である信じているからです。年齢は関係ないといくらいってもまだ若干29歳の白鵬の土俵での立ち合い方から私たちは日本人としての大切な心「正直さ」を学び直すことができます。

どんな相手であったとしても、どんな場面であったとしても、どんな機会であったとしても、自分自身が素直に謙虚に向き合って真摯に正直に実践し自らを磨くことが理想を追求するという姿勢と心がけなのかもしれません。

やっていることは異なっていても、目指すその姿から勇気をいただけることが沢山あります。同じ時代でそれぞれの分野で生き方のモデルがいることは、道を歩む仲間がたくさんいる有難さです。未熟さを痛感することばかりですが、修行できる有難さに感謝し、日々の土俵に対して選ばずに基本を崩さずに精進していきたいと思います。

 

人生の物語~個性~

人は物事を考えるときに、無理やりに二つに分けて理解しようとするものです。これは善か悪か、正しいか間違いか、できるかできないかなども極端に考えてしまうものもあります。

私が好きな心理学者に河合隼雄さんがいます。発達障がいの勉強をする際に、その著書や対談テープを随分参考にしましたが実際は人生というものとどう向き合っていけばいいかという指南書のようなものがほとんどでした。

その中で分けるということについて書かれている文章があるので紹介します。これは、小川洋子さんとの対談の中からの抜粋です。

「河合:分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川:数学を使うと非常によくわかりますね。
河合:お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。」『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)

人間は、分類の中でしか人間は認識しないものです。私たちの会社も分類分けの中には入っておらず、無理やり分類分けされていますがわからない人には変な会社と呼ばれています。

結局は分類の中で人は物事を自分の都合で分けては認識していますが、実際の世の中は分類分けできない複雑で矛盾なものであるのです。中庸や中心などというものもそうですが、そのままに観得る状態であってはじめてその意味を感得できるように思います。

物事にはわからない部分があるからこそそこに物語があるように思います。わかりきった人生を生きるのではなく、分からない部分を愉しむ心の余裕やゆとりがあるからこそ目には見えない部分が実感できるようにも思います。

頭ばかりよくなり現実を自分の思い通りにしようと我を強くしていけば、次第に思い通りではない愉しいことも感じる力がなくなってくるように思います。分けないというのは、頭でわからないところを直感するということです。

物事を直感するとき、そこに偉大な物語があることに気づきます。二分法ではなく、直感法で理解するには体験による気づきと内省、振り返りを優先する生き方に換えていくことかもしれません。

最後に、河合隼雄さんの言葉です。

『物語の「主人公」は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。』
・・・

『「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。』
・・・

『僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。』

たった一つのたった一人の自分の物語が人生です。その人生の物語を面白く愉快にしていくのも自分自身です。マジメに考えることも大事ですが、マジメの中に遊びがなければ物語に気づけなくなります。

今のような時代だからこそ、敢えてふざけて生きてみたいと思います。子ども達にも遊びの中でその人らしい物語を生きれるように、自分自身がチャレンジしていきたいと思います。

 

 

 

 

魂磨き~人類の夢~

昨年に貝磨きの体験をしてから、貝をとても身近に感じるようになりました。貝というのは、古代人の夢であったように今では感じています。古代の人たちが貝を首飾りにし、土器の模様にしたのは、きっと貝が人間社會そのものを顕していたのではないかと私には思えます。

人生はまるで貝磨きのようなもので、人間は一つの社會を集団になって形成し、その社会の中で自らの本性をお互いに磨き合いつつ豊かで平和幸福に暮らしていきます。まるで一人一人がそれぞれにいのちの塊、その魂の原石であり、その魂を出会いによって互いに輝かせては大切な思い出という物語を宇宙の記憶の中に保存していくかのようです。

一人ひとりが自らで魂を磨いてきたからこそ、私たちは発展と繁栄を繰り返してきたように思います。その中で私たちは何度も何度も繰り返し繰り返し、まるで海の押しては引く波と同じように魂を磨き続けてきました。

貝の中に観る神性とは、「めぐりとひかり、いのち」の3つではないかと感じます。

磨き方は人ぞれぞれですが、みんなで一緒に磨こうとしたことは時を超越して今でも変わらず受け継がれています。

機会をいただけること、ご縁をいただけることが何よりも有難く、人生で一緒に出会えることに感謝の心に包まれました。

最期に、「人類の夢」という詩を紹介します。

「人は誰しもが何かしらの魂の原石です。
  だからこそ磨けばだれでもその人らしく光っていく。
 一人で磨くのではなくみんなで磨いていけば
必ずの世の中は澄んできて美しい世界になる。
 だからこそ一緒に磨こう、魂を磨いていくことは、
    子どもから私たちが学び直していくこと。
 子どもを人類の先生にして、私たちが学んでいくことこそ魂磨き。
     一緒に磨く仕合せ
を感じていこう。」(藍杜静海)

何が人類の初心であるか、それを出会い御縁をいただけた方々の道しるべになれるよう精進していきたいと思います。