出会いの哲学~物語~

今の時代、ありとあらゆるモノで溢れかえっています。一見、モノが溢れて豊かなようになっている気がしますが実際はモノが溢れて貧しくなっているようにも感じているものです。

全てのモノにはいのちがあると言います。

昔の日本人は、それを八百万の神々と呼び、この世の全てのモノには神性が宿っているという見方をすることができました。それを別の言霊にしてモッタイナイという言い方もしたのです。

ではその神性とは何かということです。

これはモノにはカタリがあるということです。漢字で書けば「物語」のことです。物が生きているからこそ語ってくるということです。これはモノが単なるいのちのないモノという定義ではなく、いのちが宿るモノだからこそモノが語るのです。

そのカタリとは、今までどのように辿ってきて出会ったかという奇跡の話です。そのモノが出来上がって自分の身の廻りにまでたどり着くまでどれだけの物事が発生してきたか、そしてどのような経過を経て今の目の前にまでやってきたのか、そういう一つ一つのご縁を感じるとき、そこには単なるモノではない神性が宿っていることに気づくのです。

足元に転がる石ころ一つでさえ、その石ころが目の前に現れるまで長い長い偉大な旅をして私たちの前にやってくるのです。あるいは、その辺に生えている草花でさえ悠久の年月のいのちの繰り返しを耐え抜いて進化し自分の目の前で咲くのです。

その辿りついた奇跡はまさに出会いのしあわせです。

出会いのしあわせを感じるとき、人はモノにいのちを観ます。

そのいのちの物語をどれだけしっかりと味わえるか、モノが溢れているから気づけないではなくモノが溢れていようがモノノアワレに気付いているということが大切なのです。

これだけ忙しい時代、そしてお金で物を簡単に売り買いし、大量生産大量消費で急速に工場生産をする昨今であってさえ、そのものがどのようにしてあなたの前にたどり着いたか、そこに確かないのちの物語が存在するように思います。

出会いというものは、廻り合いであり、その辿りついた奇跡を味わうチカラが不思議さの妙を味わう子ども心、「センスオブワンダー」でしょう。

常に物語を感じられるような一期一会のかんながらの道の生き方を、その出会いの哲学を日々に磨いていきたいと思います。

 

一緒に磨く

人間はいつの時代もあらゆる方法を用いてその人間の本性を磨いていくものです。あらゆる環境の中で、それぞれが懸命に生きてはお互いに切磋琢磨し、その精神や魂、心を磨いて往くものです。

磨くということは、人間そのものの本質に近づいていくことのようにも思うのです。

この磨くということにおいて、松下幸之助さんが54歳の時にPHPで語った話が遺っています。私はこの語りがとても気に入っていて、「一緒に磨く」ことの本質が入っているように思っています。

「人間には、自然からかぎりない繁栄、平和、幸福が与えられている。
それをたとえていうならばダイヤモンドみたいなものである。
ただの石をただ磨いてもダイヤモンドにはならない。
しかしそのダイヤモンドの原石でも磨かなければその美しい本質は現れてこない。
それと同じことで人間の優れた本質も磨くことなしには発揮されないわけである。
・・・
人間にはその本質として、繁栄、平和、幸福というものが原則的に与えられている。
その本質がだんだん出てくるだろう。
そうすると、みだりな闘争とか破壊とかそういうことが少なくなってくるだろう。
少なくなってくるだけ、一方で繁栄とか平和とか幸福とかが反比例して生まれてくると思う。

だから磨き上げてしまったら楽土ができる。
もっと磨き上げるまでに数千年、数万年、あるいはそれ以上かかるであろう。
しかしそういうことを信じてやることが大切だと思う。

それではだれが磨くのかというと、それはみんなで磨こう。
これは一人や二人で磨いてもなかなかうまくいかない。
みんなで寄って磨いていこうじゃないかというわけである。
そうすれば磨き方も、ある人はその磨き方よりこの磨き方のほうが早く磨けるという人もでてくるだろう。
つまり万人の智慧というか、いわゆる衆知を集めて磨こうではないかというのが行き方考え方なのである。」(松下幸之助発想の軌跡著者: PHP総合研究所より)

人間はダイヤモンドの原石であるといい、その原石も磨かなければ光らないといいます。その通りで、常に原石を磨き続けなければ悠久の歴史の中での地球上での自分たちの真の役割に気づけなくなるように私は思います。

人間はダイヤモンドの原石だからこそ、磨き続ける必要があるのです。そしてそれを誰かがやればいいのではなく、一緒に磨こうとするのが本来の人間に備わっている徳なのであろうと思うのです。

その徳が備わっているのが人間であるからこそ、その徳を磨いていくことで徳が光ってくるのです。

私たち日本人をはじめ、全ての人間の心の中には和があります。そしてその和の精神は、一緒に何かをする中で衆知を集めて顕現していくものです。左右東西前後の異なりを超越し、円満に一円観にありとあらゆるものを融合してさらに善いものへと転じていくのです。

それをどう耕し織りなし掘り起こすのかは、その人の「磨き」にかかっています。

自分が原石であることを忘れないように、常に磨き続けていきたいと思います。与えられているものに感謝して、素直に謙虚にありたいと思います。

 

遊び心~童心に帰る~

遊び心というものがあります。英語ではユーモアやユニークという言い方をしていますが、この遊び心というのは物事の全てにおいて重要なことであろうと思います。遊んでいるのか学んでいるのか、遊んでいるのか真剣なのかというように、まるで事物一体になっている人の集中力の中には遊びが必ず入ってきます。

その遊び心は何かということを少し深めてみようと思います。

遊び心は辞書でひくと、「遊びたいと思う気持ち。また、遊び半分の気持ち。」「 ゆとりやしゃれけのある心。」「音楽をたしなむ心」などと書かれています。

ゆとりを持っている人というのは、どこか真剣な中にも遊び心がありそのものを心から面白がって取り組んでいます。子どもの頃は、何をやっていても面白く、どれをしていても愉しく、大人になってみると何が面白かったのだろうかと思いますが今でもその感覚は覚えています。

好奇心と呼んでもいいのかもしれませんが、何に対しても興味が湧き、どんなものでもやってみたいと思うのです。ワクワクドキドキのままに、集中して愉しみ時を忘れて気が付くと日々がいつも充実しているのです。

人はそのワクワクドキドキを真面目過ぎることで見失っていくものです。面白くもないことを真面目にやるより、真面目なことも面白くする方がなんでも楽しくなってきます。結局は、自分の中にあるワクワクドキドキの蝋燭の火を灯し続けているかどうかがその遊び心を満足させるコツのように思うのです。

遊び心がなくなれば仕事も人生もつまらないものになってしまいます。

畢竟、私にとっての遊び心とは子ども心、つまり童心です。

言い換えればこれは理想を求めて已まない心のことです。

人は理想を失うとき、子ども心を失います。

どれだけ真剣であるか本気であるか、覚悟が決まっているかは、その人の遊び心を観ればわかります。よくニコニコ顔で命懸けという言葉を使ったりもしますが、大変でも愉しい、苦しいけれど仕合せ、ピンチだけれどチャンス、禍転じて福になる、そういう心境というのはワクワクドキドキし続けている証拠なのです。

子ども心は、大人から押し付けられた刷り込みによって真面目であることを強要されて失っていくものです。優等生に仕立て上げられる中で、本来の遊びは次第に消失していきます。

人生は一度きり、どれだけ面白いことに出会うかが人生の豊かさであり仕合せのように思います。日々に出会う奇跡にどれだけ心がワクワクするか、そしてリスクを取りどれだけドキドキするか、まるでそれは遊びそのものです。

子ども心が亡くなった人に遊ぶことはできません。

私たちの会社の理念である子ども第一主義は、その理想を諦めさせないことで子ども心を見守りたいと祈る実践でもあります。子どもの周囲の大人が、童心をなくしてしまうことを私は一番危惧するからです。

童心というものは、純粋に素直に、謙虚に正直に、そして何よりも自然を愛し野生を尊ぶ心の中に棲んでいます。ワイルドに飛び跳ねるように世界を廻り、ナチュラルに仲良く元気に、ピュアに明るく健やかにセンスオブワンダーの原点、その童心に帰る日々にしていきたいと思います。

 

生活人の智慧~郷中教育~

鹿児島には風土の教育文化として「郷中教育」というものがありました。この郷中教育とは藩内に「郷中」と言う数十戸で構成された自治組織を設けこの組織内における異年齢の子ども同士の間で学び合う仕組みです。

具体的には、六歳か、十歳までを小稚児と呼び、十一歳から十五歳の長稚児が生活万般のモデルを示す。さらにこの長稚児を指導するのは、十五歳以上の二才(にせ)と呼ばれる青年が担います。二才のリーダー格を二才頭(にせがしら)と言い、西郷隆盛はこの二才頭を務めていました。

所謂、「子どもの自治」を行うことで子どもたちをたくましくさせる仕組みがあったのです。今では大人が教え込まなければ子どもは育たないなどと刷り込まれ、知識や規範を厳しく躾けるようなことがいいように思われますが、かつて歴史で立派な人たちを沢山輩出した郷中教育では子ども同士の学び合いを何よりも重視しました。

そこには規則はありましたが、基本的には先輩がモデルを示し後輩を思いやり、己に克つための生き方を導いたリーダーが存在しただけです。非常に理に叶った方法で、異年齢による養育を行っていました。

その仕組みは、私たちの行う一円対話とよく似ています。磯田道史さんのニュースの紹介記事から抜粋していますがここにはこう書かれています。

「薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。」

子ども同士で気づき合うのがもっとも偉大な先生という発想です。異年齢で教え合うことで仲間の発達や気づきから、自分自身を鏡のように内省し、自らの改善点を自らで発見しそれを克服していく。

人間が育つということは、己を修めるということです。その己の修め方は先生が机上で教えるのではなく、仲間の挑戦から学ぶという方法です。決まりは、負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめはするなと明瞭です。その他、自らに打ち克つためのことが書かれるくらいです。

教育といっても今のように知識偏重型だけのものではなく、人本育成について真剣に考えて編み出した仕組みがこの郷中教育であったということです。

西洋のメソッドばかりを見ては、学者が言う事をさもそれが最先端だと思い込みますが日本の風土に遺っている歴史の篩をかけられても真実の記録が残っているものこそ、最先端のような気がしてなりません。

温故知新とは、かつての本質を今の時代に甦生させるものです。

私が今、提案して実践をしている一円対話はその郷中教育の仕組みを随所に取り入れています。人は教えなくても育つ、できるようになるには異年齢による見守りが必要であるというのは古今東西の発達の真理なのでしょう。

さらに磯部さん郷中教育の仕組みをついてこう語っています。

「判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。」

生きる力とは何か、子どもたちが立派に自分の使命を果たし仕合せに役割を全うするための社會人、生活人にしていくための仕組みを考えた先人には頭が下がります。そしてこの郷中教育の基本は文字で教えず、全て実地実行、実践によってのみ行ったということです。

今年はこの郷中教育も少しずつ深めていきたいと思います。

 

父祖の徳

今の時代を生きる私たちは、今の自分の世代の事しか見えなくなるものです。子どもの仕事をしていると、今の子どもがあるというのはその前の姿があるということを実感します。

私たちは当たり前のことに気づかなくなるのは、今の目に見える世界が当たり前だと勘違いするからです。しかし実際は当たり前のことなど存在せず、私たちは様々な徳恵によって今の自分が存在していることに気づきます。

例えば、仕事であっても今の仕事があるのはその前の人たちが努力精進の上に徳を積み重ねてその仕合せによってご縁をいただき、その一部分のお役目をいただくことができるのです。

家が代々継承されていくというのは、その徳が継承されていくことであろうと私は思います。先祖代々、自分の代を一生懸命に全身全霊に尽力していくことで子子孫孫へ徳が受け継がれていきます。

先日、ある言葉に出会いました。

「父祖の徳、汝に及びて今日の幸」

あなたの今日のしあわせは、父祖の徳が今の自分に及んでいますよという意味です。私たちの祖神は日本開闢の時から存在します。その祖神の後に代々続いたその姿が私たちです。

私たちが先祖を思い偲ぶとき、同じ長さで子どもたちのことを思います。譲っていただいた徳を大切に守りまた譲っていく生き方か、その徳を全部自分の代で使いきってしまう生き方か、そこには父祖の徳を感じる力があるかどうかにあるような気がします。

どんな時も、御蔭様であることを忘れていないからこそ感謝でき、「当たり前ではないもの=徳」が観えているからこそその徳を守り伸ばそうとするのでしょう。目には見えないものを可視化する意味とは、その徳を明らかにすることです。そんなことは誰でも知っていると当たり前に思っている人がもっとも本来の当たり前から遠くなっているのです。

何を受け継ぐのか、何を継承するのかを今の代の役割を担うものたちがその父祖の徳を自覚することで責任感は育っていきます。私はそれを「初心」ともいい、「夢」とも呼びます。

目先の損得ばかりが騒がれる昨今、真心を盡し徳の実践につとめていきたいと思います。

本物の継承~原点回帰~

人間はその人を判断するとき、その人の職業や性別、年齢、見た目、経歴など様々な情報をもとに分類していきます。例えば、医者、職人、芸人、営業マン、お坊さん、経営者など、その人の立場を見ては分類分けしていきます。分類分けしてわかるのは表面上のやっている業務全般を知ることはできますが、その理念は何かとまでは確認しているわけではありません。

言い換えれば、人間か猿かライオン、オスかメスかという分類はしていてもそのものが本当は何を目指しているのかや本当は何がしたいのかということまでは知らないままに役割を勝手に決めつけてしまうものです。

そもそも自分の役割というものは、理念があってはっきりしてきます。その集団が目指しているものは何か、その社會が目指すものは何か、全体の集団の中で自分の役割を知るのはその全体の集団が何を目指しているのかによるのです。

例えば、全体の集団が人類の幸せを目指し見守ることを優先しようと理念を持つなら、それは見守る社會を創造する社會ですから、そこでの人たちは見守る医者、見守るお坊さん、見守るコンサルタントのように、その人の肩書きの前に何をする人か、つまり理念がはっきりしているように思うのです。

その共通する理念の中で、自分の役割を考えることで役割を押し付けるのではなく自分の得意分野で役割を活かしあうことができるように思います。それはまるで森の中の木々たちのように、百花繚乱の花々のように、また発酵場にあるような土壌の中の菌類や生き物たちのように、皆で互いのいのちを見守り合います。

どんな社會にしていきたいか、どんな世界にしていきたいか、そういうものがまず先にあって職業はそのあとであるのが本質なのです。しかし今の時代は、原点には触れず職業だけで自分の立場や役割を決めつけてはその範囲を勤めることが仕事だと刷り込まれています。

自分が何のために産まれてきたのか、自分の本当の役割とは何かとは、使命感のようなものです。突き詰めて深めていけば、志や思いやりに人は生きるように思います。この時代の中での自分の役割は何か、この自分の人生での全体の役割は何か、いつも周りの世界に心や眼を開いて何のために在るのかを自覚することが役割に目覚めることかもしれません。

理念とは、本質そのものであり本来の原点です。

不易と流行、温故知新、刷り込まれず素直に正直に理念を観て、本物を継承していきたいと思います。

善好奇心心~三つ子の魂~

知識というものは便利なもので、世の中のことをある程度予測することができるものです。統計や集計を通して過去のパターンを分析することで、ある程度の予測は可能になります。人間はどこまでいっても自分を守るために危機感を持ちますからそれを発展させていくことで知識を膨大に広げていくようにも思います。

しかしその知識は常識というものに縛られるものです。言い換えれば前例主義や自分の想像の範疇を越えることはありません。新しい発見というものは前例の中から出てくるものではなく、その常識を超えた気づきによって出てくるものです。

例えばいくら過去の災害を想定したとしても、自分たちの想定を超える出来事が起きるのが自然災害です。同じように自分たちがいくら想定をしていても、偉大な廻りの循環の中で私たちが知りもしないようなつながりを通して私たちは活かされ生きています。

そういうものを理解するのはほとんどが直感であり、暗黙知です。形式知の粋を集めてみても、その全体までは知ることはできません。感覚というものは、知識ではないのです。それを言霊では「思い」や「祈り」、「ご縁」とも言い換えてもいいかもしれません。

言葉というものも、言葉がなかった時代は人間は自然のように直感そのものの存在でした。天文に精通し、地理に精通し、文化そのものでした。そこから言語知識が形成され、一つが二つになり、分かれて今では無限に分かれ続けています。

知識を持つことが優秀だと思っていますが、広がり続ける言葉や知識を知っているのはただの物知りであって本質や本物に気づきにくくなっているだけとも言えます。しかし現代では、その直感を形式知で語れなければ人に伝えることも難しくなっています。本来の自然を伝えるだけでも難儀なもので、それをいちいち分かるようにわかるところで伝えなければなりません。

ある意味、人間の進化ではなく文明の進化というのが今の進化の定義なのでしょう。人工知能やコンピューターや仮想空間などの発展というものは、文明がいよいよ新しい局面に入るということです。

歴史は人間の教科書であり常識です。

その常識を超えるには、今の時代を生きる人たちが希望を捨てずに新しい道を切り開き新しい発見を実践していくことのように思います。温故知新ですが、言い換えれば魂の磨きであり心の成熟と真実の技術の発達かもしれません。心と技術を如何に高めるか、今は魂の試練の時代のように思います。

子ども達には、どちらかという二者択一の生き方ではなくその間にある目覚めに生き続けてほしいと思います。それは善好奇心心といってもいいかもしれませんが、常に三つ子の魂を持ち続けて、なぜどうしてという問いを持ち続けてほしいと思います。

人間の可能性を信じているからこそ、諦められず已められないのです。

日々に納得するまで問いを発していきたいと思います。

口伝と体得~初心伝承~

一昨日から紹介している鵤工舎の小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)には共感するものばかりです。王陽明はかつて「道統を継ぎ、絶学を紡ぐ」と言いましたが、師の教えを忠実に守り伝統を継承する志に子々孫々への思いやりや真心を感じます。

そういう理念を持つ組織だからこそ、その教え方も本質的であり実践的、体得体認することを重んじています。口伝の重みでも実感したことですが、口伝できるというのはその志を受け継ぐ心があってのことです。血肉に伝わっていくような関係の中にこそ、大切な原点や初心、その志や伝統は伝承できるのではないかと今でははっきりと思います。

今年は伝統文化や老舗から日本の職人文化を学び直そうと思っていましたが、その最初に鵤工舎のことを学べて有難く思います。

文章の中で修業について書かれているところが沢山あります。修養も修行も、その心構えのことでしょうが具体的な実践事例で「研ぐ」ということの意味が書かれているので紹介します。

「刃物というのは、なかなか研げないものや。砥石にぴったりし刃を当ててゆっくり擦ればいいだけだが、それができんのや。人間の身体というのは思いの通りには動かないんだな。・・・中略・・・言葉は常に後や。自分の身体が考えの通りには動かないことにまず気がつかなならん。だから修業するのや。言葉や考えが役に立たないことにも気がつかなならん。無心で研げるようになって初めて刃物が研げるようになる。じゃあ無心ってどういうもんかと考えるかもしらんが、刃物が研げたときや。答えは刃物や。」

西岡棟梁から学んだ刃物研ぎの本質が記されています。無心とは研げた時だといい、答えは刃物だといいます。これは仕事でも同じように思います、無心でできるときは自他一体になっているということでその答えは仕事そのものだということです。そしてこう続きます。

「苦労して、悩みながら研いでいるうちにある日、「おっ」と思うことがある。そうやって階段を上がっていくんだな。精神修業のようだが、そうじゃない。大工は体を作ることだ。頭や考えも体から生まれてくるんや。俺はそう思う。だから刃物を研がせる。」

体をつくることと言います。以前、メンターから「からだ」という字は肉体だけではなくそこには心や精神も入っていると聞いたことがあります。「からだ」で覚えるというのは実践で染み込み自分のものにするということでしょう。

「よく研げるようになれば、道具を使ってみたくなる。木を削ってみたくなる。穴を穿ってみたくなる。それが大工として最初や。切れない刃物で木を削らせたところで、辛いだけでうれしいことも気持ちがいいこともない。そんな心で仕事をしていてもいいものはできない。だから刃物を研げないやつには道具を持たせない方がいいんだ。手道具は体そのものだ。体の一部として、考え通り、感じたとおりに使えなくては意味がない。その最初が研ぎや。」

”手道具こそ体そのもの”とあります。仕事では何が手道具であるかということです、それが商品であり自分そのものでもあります。

最後にこうあります。

「嘘を教えれば嘘を覚える。研ぎは全くそうや。ほんとうを覚えるには時間がかかる。時間がかかるが一旦身に着いたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる。・・・中略・・・上手になれば過去の自分の未熟さがわかる。それも上手になって初めてわかること。つまり、判断は常にその時の自分を超えないということや。刃物は自分の力量を表す鏡や。一心不乱に研ぐことによって、大工としての感覚と研ぎ澄まされた精神も養われるんやな」

”判断は常にその時の自分を超えない”とあります。今の自分の刷り込みを取り除くには、”からだ”で身につけろということです。言い換えれば一心不乱であるし、私の言葉だと全身全霊です。それだけの実践をどれだけ積んでいるかで本物や本質が磨かれるように思います。ここでの刃物とは人格に似ているように思います。何を研ぐのか、手道具とは何か、もう一度そのものの在り方から見直してみないといけません。

そして「技と人」の伝承とは、つまりは「口伝と体得」ではないかと改めて実感します。今の時代の人と技の教え方、学び方に対して刷り込みを見つめているととても大きな危機感を覚えます。子ども達には自学自悟、自分らしく自らを磨き上げていってほしいと思います。まだまだ職人文化や初心伝承を高めていきたいと思います。

歴史の産道~今此処の一歩~

山野の中には人が歩いている道や獣道があります。長い時間、何度も同じところを歩いていくことでそこに道ができます。已まずに歩かれ続けるとその道は踏み固められ、誰も歩かないとそのうちその道が消えていきます。

道といえば代表的な古い道に熊野古道があります。だいぶ前に熊野古道を歩いたことがありますがその道を歩きながら歴史や文化、そして風土や理念などを感じたことを思い出します。

道というものはただそこに道があるのではなくその道をどのような人たちが何の目的でどのような心で歩いたのかという「太古から流れる一筋の思い」を鑑みることができるのです。

今まで続いてきた道というのは、過去にその道を歩んで今の自分にまでつないでくださった方々があるということです。その消えそうになっている道を、自分が後でまた歩むことでその踏み固めた一歩はまた次の人たちへの礎になっていくのです。

誰も見ていないからや誰も通らないからではなく、自分が通る道だからこそ責任をもって歩まねばならないと思うのです。みんなが通ったから安心ではなく、自分が通らなければならぬ志があるのです。

ひとたび歩めば、そこはもう鬱蒼とした密林の中で道なき道をかき分けていくものかもしれません。しかしだからこそ自分が進まねばならぬ、だからこそ自分がもう一度かき分けて入っていかなければならぬという道を開くという使命感です。

私が好きな三つの言葉があります。一つは二宮尊徳、「古道に積る木の葉を掘分けて天照す神の足跡を見む」。そしてもう一つは種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」、最後は源重之の「つくば山 葉山蕃山 しげけれど 思い入るには あわらざりけり」です。

そのどれも自分の境遇に左右されず、自らの道を切り開く真心を感じます。

幼いころ、生前の祖父が山登りをするのに連れられて道なき道を登り山の中を歩き回ったことがあります。今思い返せば、きっと山芋を探していたのかもしれませんが子ども心に迷子になるのではないか、二度と戻れないのではないか、何か獣と遭遇するのではないかと不安を感じつつ背中を見つめては歩んだ記憶が残っています。どこに出てくるのかも、どこに向かうのかもわからず、山の中に何時間もただ分け入って往くのです。しかし思い返せばその体験が山に入る霊妙さと道を歩む崇高さを覚えたのかもしれません。

道は時であり、時は人であり、人は旅です。

そしてその道は歩む中に由って顕れます。

きっと私たちは歴史の産道を歩んでいる最中なのかもしれません。その歴史の産道の意義を決して忘れず、自分の足で今此処の一歩を大切に歩んでいきたいと思います。

 

長い目~地球観~

先日、養鶏場で鳥インフルエンザが蔓延し約10万羽の鶏が処分されました。他の鶏に感染するからと全部の鶏を処分するのですが果たしてこれが人間ならどうだろうかと思ってしまいます。

もともと鳥インフルエンザは昔からある病気で今にはじまったものではありません。鶏自体に免疫があれば感染せず、かかってもそんなに広がらなかった病気です。自然界に棲んで自然界の生活をしていれば、自ずから病気もまた天敵と同じように自浄作用の中で働いているものの一つです。

しかし、人間の都合で鶏を飼育され抗生物質を大量に投与されている合成人工餌を食べている養鶏場の鶏では病気に対する抗体がなくほとんどが死んでしまいます。その卵を食べたり、その肉を食べる私たちもまたその弱体化したものを取り入れて弱くなっていきます。

自然農に取り組み、自然の畑の中に入り感じるものは厳しい環境の中でいのちを育んでいく自然の姿です。寒さに負けず、暑さに負けず、虫にも負けず、病気にも負けずに逞しく育っていきます。苦労という苦労をまともにしながらも、その生はゆるぎなく元気そのものです。

時折、運命に負けそうな出来事が起こっても再び這い上がってきます。天候の変化や人間の余計な手出しがあったにせよ、強く逞しく自ずから主体的にいのちを発揮します。

農薬も同じく、一部の虫が問題だからとほとんどの生き物たちを処分してしまいます。そして除草剤も同じく、ほとんどの草を処分します。それで一時的に処分したとしてもすぐにまた同じ出来事が起こります。根本的に解決しない方法を繰り返しとったとしても、その時は乗り切ってもあとにもっと大変なことになります。

長い目で物事を観ることを已めてしまうということは、それだけで悠久の歴史の中の智慧を失ってしまうことになります。生き残るという意味が、どれだけ長いスパンで考えているかはその人の生き方に由るものです。

ある程度の数を制限し、広い空間の中で、自然の雑草や穀物、昆虫を譲られた分を自然に食べるようにすれば全体とのバランスの中で病気にもかからなくなっていきます。これは鶏だけの話ではなく、すべての動物に言えることです。

もっとも悍ましいことは、人間が今動植物に行っていることが人間にも行われていくということです。戦争も同じく、自然に天敵があるように、人間にも天敵があります。それが決して外界にあるものではなく人間の精神や心の中にあることに気づいている人は多いはずです。

何千年も前から悠久の歴史には人間は自分に打ち克つことを戒めてきた言葉ばかりが刻まれます。今の時代、スピードを上げるばかりで内省する時間もないようですが根本に立ち返り、本質に立ち止まる勇気と、流れを断ち切る信念が必要なのかもしれません。

なぜ自然養鶏なのか、なぜ自然農なのか、なぜ自然の生き方なのか、自分の中にある自然の力を外側から抑え込んでもそこには限界があることを自然はいつも教えてくれます。

私たちは46億年の地球の一部ですから、地球観を持ち、長い目で静かに物事を判断していく力を身に着けていきたいと思います。