不易と流行

昨日、神崎にある藤崎農園で稲刈りの実践を拝見しお手伝いをさせていただく機会をいただきました。自然耕といって自然に沿ったお米作りを実践しつつ、今の時代のニーズや制度、市場に合わせて最高品質のお米を提供しています。

今まで自然農法と時代のニーズを如何にマッチングするか、以前、致知出版社の「致知」で虎屋の記事を読んだことを思い出しました。そこでは美味しいお菓子という経営理念とともにお客様に喜んでもらえるようにするということを書いてあったと思います。

この藤崎農園も、本物のおいしいお米と、如何にお客様に喜んでもらえるかということをテーマに改良改善を繰り返し、見事に温故知新と調和した御仕事をしているのを拝見し大変感動しました。

美味しいお米というのは、感動するお米だそうで如何に感動するお米にするかを改善を今なお追求するのを貫徹されております。同時に、どのようにしてお客様を喜ばせることができるかに全く一切の手抜きもなく、あくなき探究をし続けておられます。

それは訪問時のホスピタリティの質の高さ、また暖かいおもてなしにいつも実感しています。不易と流行というものを実感させていただくことができる素晴らしい一日になりました。私たちのミマモリングも、ここから学びしっかりと吸収していきたいと真摯に気を引き締めたいと思いました。

私たちは世の中を変革しようとしていますが、その世の中に活かされているのも事実です。世の中は敵味方ではなく、世の中の中に一緒に暮らす仲間なのだからどれだけ自分が好循環を生み出せるかというのが社會貢献でもあります。共生するから貢献するのですが、貢献してはじめて共生しているともいえるのです。

共生も貢献も、悪循環と好循環があるものです。

如何に自分が社會に好循環を生み出せるかに、未来の人たちへの推譲があるように思います。時代に合わせながらも本質を守り、自己変革と創意工夫という両輪が正しく回転していくことが大切だということを学び直した気持ちです。

今、現実に生きているのですから自分の生をどう使うかはとても大事なテーマです。その時代と一体になるというのは、時代の変化に対して順応しつつも、時代の変化の中でも本物本質を追求し続けているということです。

あの不易と流行を説いたのは松尾芭蕉ですが、その時代に為したことと生き方が今の時代の私たちの時代と生き方を創っています。時間をかけて時代は練り上がってくるものですが、その時代を真摯に改善し改良した人たちの御蔭様で私たちは本物を知ることができています。

本物を守り抜くこととと人間を仕合せにすることは常に一円融合し調和しなければならないということです。

特に私たちの御米は祖神、神話の天照大御神が与えてくださった大切な主食です。守りたいもの守り抜くもの、その守の御蔭様にある真心を澄ませ続けて継承継続できる世の中を育て守りたいと思います。

 

円仁観~真心の循環~

今朝から稲刈りの準備をしていますが、人生に秋が深まっていくのを実感します。

丹精と自然に実る御米に御法の本質を心が直感します。

二宮尊徳に下記の道歌があります。

「一円仁 御法正き 月夜かな
田畑乃 実法今宵の 月夜哉
仁心に 民のこころの つく世哉
仁心に 民の心の 月夜哉」

これは自然に実るということがどういうことかを二宮尊徳が月夜の観察によって得られた心境を詩に詠んだものです。

この「一円仁」の世界というのは、偉大な慈しみに満ちた世界です。

月夜というのは、慈愛を示すように思います。夜の闇を、太陽の光を受けて反射して光り、穏やかにすべての生き物たちを包み込み見守り癒していきます。きっと活動の側面としての静寂の中に、万物を活かす「真心の循環」の世界が存在することを自覚した詩なのでしょう。

私にとっての一円仁とは、真心が丸ごと一体に結ばれ繋がっている世界に居るということです。人は思いやりをもって生きれば、すべてを好循環させていくことができます。

この好循環というものは、思いやりを根幹にして物事を自然にしていくという意味です。そしてそれが今の時代に紛争が止まず、欲望の果ての祖神の智慧、その大祓の方法として月夜の恩力と恩恵をいただく必要な時代だと私は確信しています。

月夜というのは、陰徳の世界です。

陰徳は月夜の観察によって得られるものですが私たちカグヤのシンボルマークの月もまたこの一円仁の世界の意味を示す月世のことを照らすために創造されているものです。

自然というものは、私たちにすべてを教えてくれます。太陽と月と地球がありますがこれらの三位一体のうちのもっとも一円にするものは月であると思います。

昨日も新しくはじまった結の実践に、御蔭様の手応えを感じました。

子どもたちと一緒に自分の直感を信じて、円仁観に近づいていきたいと思います。

対話と平和

人間には偏見というものがあります。たとえば、大人だからとか上司だからとか、男だからとか、先輩だからとかいろいろと一般論で決めつけられ思い込まれていることがあります。

他にも職業でデザイナーだからとか、経営者だからとか、職人だからとか、こういうものだろうと分類分けしてはその人の中で仕分けしてしまって本質まで確認されることがなかったりします。

人は先に教え込まれた知識や、こういうものだろうと経験もしていないのに脳で処理して理解してしまえば勝手に思い込んでいることがほとんどです。そしてその思い込みのほとんどが疑心暗鬼によるものです。

自分に都合の悪い現実を受け止められなかったり、自分が忙しいときに余裕がなかったりすると心が閉じていきます。心が閉じることで話を聴かなくなります。話を聴かないときは対話を避けるようになります。対話を避けるから決めつけてしまうのです。

人は「信じる」という心をオープンにすることができていれば自分から対話をして心を開いていきます。しかし心を閉じているうちは対話ができず、どうしても不信から疑い決めつけるのです。

人間にとって対話というのは何よりも重要で、お互いのことを理解するためには必要不可欠のものです。昔は、私も対話を避けて通ろうとしては数々の失敗を繰り返してきました。

相手に確認もせずにきっとこうだろうと思い込み、相手に自分の都合を強要しては相手の反応をみてはまた決めつけるということを繰り返していました。そのことから誰も信じられなくなり、より対話を避けて一層孤独になっていくという経験をしたこともあります。

本当は一緒に楽しくやっていきたいのに、実際はそれぞれが対話をせずに能力のみを使って個々でバラバラにやっていく方が楽だという方を選んだ時期です。楽なのは信じなくてもいいからです、最初から疑っているから能力だけで仕事をすれば何も言われないしそれで済むから目に見てわかりやすかったからです。そういう仕事は結局は作業のようになるから面白くなくなってきます。そうなる自他もみんな無機質な関係で一緒にいる意味も感じなくなっていくのです。

そういう体験から、対話の大切さを実感しました。

対話とは信じることであり、信じることは聴くことです。この聴くというのは、聞くというのとは違い、耳に徳の字が合わさっている字です。恥という字もありますがこれは耳に心が合わさっているのです。

つまりは聴くというのは、自分が許されて聴く、許して聴くということであり、一言でいえば「認める」ということです。畢竟、対話というのはお互いを認めることであり、お互いを認めることができてはじめて信じるとなるのです。

心を閉ざしている人は、なかなか自分以外の人を認めません。もしくは自分のことすらも認めていないのかもしれません。認めるというのは、あるがままを丸ごとを認めることですが耳を澄ましていかなければそれもできません。

私たちが一円対話を行うのは、心で聴く、心に聴くといった心を使い信じる実践を大切にしていこうとすることで世の中を真に平和にしていこうとする願いを籠めて行っているのです。

みんな心があるのだから、相手の心を感じることで相手と一体の世界に生きることができるのがいのちの証拠です。いのちは粗末にしないといったのは先祖ですが、それはお互いに心を通じ合わせることが大切だと教えてくれていたのです。

物が増えたって、忙しくなったって大切なことはいつまでも大切なことです。大切なことを忘れないような実践が、子どもの未来に仕合せを推譲することだと信じています。

またいつまでも人が争うのは対話をしなくなるからです。

世界は今、もっとも対話が必要な時期に入っています。世界はそれだけ悲しい紛争がなくならず、悲惨な戦争が続いているからです。子どもたちには対話の大切さを大人たちの後ろ姿をみせることでいつまでも忘れないでほしいと思っています。

私たちが対話にこだわるのは、「人類皆兄弟」である証としての対話こそ人が人を信じられる世界を創造する先祖代々から続けているもっとも調和する方法だと確信しているのです。誰も孤独にならない世界、一緒につながりの中で楽しく豊かに信じ合っている世界、日本の神話にあるような世界を今に取り戻したいと思います。

 

環境の発見

社會人になりたての頃、自然環境の仕事がしたいと環境にやさしい仕事を探していたことがあります。エコという言葉が出てくる前から、どうやったら環境を汚さないですむかということを考えて石油系の合成洗剤を川に流さないで済む方法などをヨーロッパをはじめ世界の国々の先進的な取り組みを調べたりしました。

その後は、合成洗剤を使わない自然の洗剤や水をアルカリ化するものなどをつかい自然や人体に悪い影響が少ないものを会社に提案し取り扱ってもらったりしました。そこで学んだことや知識を使って出会う人たちに如何に環境を考えることが大切かを説いていました。

しかしそのうち、かたや環境を破壊していく商品が流通し、かたや環境にやさしいといった商品が流通している矛盾を感じたことと人間そのものがそれを創りだしていることを目の当たりにし受け止められず動けなくなってしまいました。

そんな時、なぜこの世の中はこうなっていくのか、誰がこうしているのかを見つめていたら幼いころの環境がとても大きな影響を与えているのを知ったのです。もし産まれた環境があまりにも自然から離れていたら、人間は自然がないことが当たり前になります。また逆に産まれた環境が自然であれば自然があって当たり前になります。

これは産まれた時の刷り込みであり、最初に与える環境がとても大きいことを知ったのです。ある保育園で、40年ぶりに訪ねてきた人がかつての園児で園長がその人の癖や嗜好などを全部言い当てていました。人は何十年経っても、幼児期に体験したことを忘れないということを肌で感じたのです。

それから環境に対する考え方が一変しました。

そもそも環境とは自然環境の方ではなく、人間環境の方であったということにです。環境を産み出しているのが人間ならば、人間の環境を変えな変えれば半永久的に環境を改善することができないと自覚したのです。

結局、自然は自然ですから環境はそのままに自然です。しかし不自然な環境を産み出しているのが人間ですから環境は人間が創造しているのです。その環境を創造する人間の環境を誰かがちゃんと向き合って受け止め、どのような環境が人間に必要なのかを正しくしていく必要があるのです。

それが教育の本質でもあり、幼児教育の場合はあらゆる自然社會科学を発達という真理に照らして周囲の人間たちが環境を示す必要があるのです。その環境とは生き方のことです。

人間は移動していく生き物だし、人間は道具を用い、知識を使いますから余計に自分たちの生き方を決めなければなりません。そういう生き方を決めることこそ環境を用意することであり、生き方を決めた人たちが示す道に見守られ子どもたちは自分たちの環境を選んでいくのです。

人間が変わらなければ環境は変わらないということは自明の理であり、天は正直であることをずっと尊びました。これは正直であるというのは、嘘がないということであり畢竟、人間が誰かのせいや何かのせいにするのをやめなければなにもはじまらないことに気付いたのです。

エコという名のエゴだったり、エゴを通してのエコも、どれもこれも自分を変えなくても済む方法で正直ではありません。正直に生きるというのは、自分の生き方を見直し、その生き方を実践していくことに尽きるのです。

求めてきたことと出会いの御蔭様で、本当の環境に気付くことができました。今では環境の羅針盤である発達という自然の手ほどきも受けることができています。愛し愛される仲間にも巡り合い、自然の生成力の素晴らしさに感動する日々です。

自分という一人の存在が環境の一部であるということが環境への影響力です。

引き続き、体験を整理してみたいと思います。

一円対話の意味

カグヤには、一円対話という実践があります。これはみんなで一つの輪になって座り、一人ひとりの話を、傾聴、共感、受容をして存在を認め見守り合う実践のことです。このことで私たちが忘れていた運命共同体の存在を思い出すことができます。

そもそも私たちは目に見えている世界、耳に聞こえている世界だけがすべてではありません。現象をみて反応しているだけの存在でもありません。それは私たちには「心」があるからです。

心とは目には見えないものを観ることができ、耳には聞こえないことを聴くことができるのです。これは誰しも実感したことがあると思いますが、人は丸ごとを受け容れ信じることができるとき、自分の存在が偉大な周囲の御蔭様によって活かされているという安心の感覚を持つと思います。

この安心というのは、不安や安心という相対にあるものではなく絶対安心といって存在そのものを感じる安心です。身の回りでは空気や水があります。私たちは空気に包まれていないと生きていけません、宇宙空間に出てしまえば宇宙服の中に空気があるから生きているのです。他にも太陽の光、地球の水、あまりにも存在が大きすぎて実感することができませんが心で感応すればそれを実感することができるはずです。

この世界というのは、一つも欠けては成り立たないという中で私たちも生きています。その一つも欠けては成り立たないのに私たちが安心して生きているというのは、当たり前に存在していることを許されている「信」の世界にいることを自覚していることに他なりません。

そしてこの信でいるとき、人はお互いの存在を認め合う相互扶助の関係に気付くのです。お互いのことを「思いやり」、見守り合うことができるのです。それを忘れてしまうのは、自分の強すぎる自我や我欲によって自分を自然の循環から切り離してしまうからです。

自然界では循環に生きていますからそんなに「自分」という意識はありません。みんなの中でつながりの中で存在していることが当たり前になっているのです。個々がバラバラに個々で自我を通せば、つながりは次第に薄れていきます。なぜつながりが薄れるのを嫌うのか、それは人間は絶対的に社會に属すからです。

この社會とは、人間に限らず私たちは宇宙全体のつながりの一つでしかない、一部であるとうことを表します。その中にいる私たちですから、それを忘れるとき仕合せを感じられなくなるのです。

人間だけがこの世に存在しているわけでもないし、自分だけが生きているわけではないのです。最近は大勢の中にいるのに特に孤独を感じて一人寂しく過ごしている人たちが増えたといわれます、都市化が悪いとはいいませんが心を亡くして忙しくしている日々にもっとも人間としての仕合せが何かを忘れるのは悲しいことです。

心を通わすことは、人間としての仕合せに気づくことです。

カグヤではそういうことを忘れないように一円対話を実践します。この実践はその忘れていた大切なことを思い出すのです。どんなに現象に流されそうでも、それでも心を入れなおすのです、常に信を容れ直すのです。

人に信が入るなら必ず人はその安心に気づきます。そしてその気づきがあるから自他の存在を許すことができるのです、その先に人類の幸福もまたあるのです。自分の信が周囲を仕合せにするのです。

人間はどの時代も何度もこれを忘れては思い出し、それを忘れないようにと出来事を発生させその信の記憶を強く厚くしているように私には感じます。また同じように歴史は繰り返していますが、またこの時代にも信じることを記憶に刻む大きな出来事との邂逅がきっとあるのでしょう。

私たちが行う世直し行は、畢竟、自分自身の中に信を容れ直すということです。日々が真剣勝負ですから信を遣わせていただきたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

特別ではない存在

人間は自分だけが特別な存在であると錯覚する生き物です。これは自分だけが特別だと思い込んでいるともいえます、言い換えれば全知全能の神、もしくは万物の霊長などと言っているのと同じです。

自然界から見たら、別に人間だけが特別なわけではありません。道具を使う生き物は他にもいますし、ほとんどの生き物はそれぞれに言葉を使い分けます。五感も第六感も持っています。文字ではなくても文字のような印をつけて理解しあう生き物もいます。

人間だけが特別なわけではないということです。

しかし人間は自分を特別だと思いますから、他の動物たちとは異なりなんとかなると思っていますがそんなことはありません。自然界というのは大変複雑な生命のつながりのなかで調和を保っています。

ある生き物が絶滅すればそれによって他の生き物は大きな影響を受けます。人間には関係ないと思うかもしれませんが、そのことである動物に病気が蔓延したり、そのことから病原菌が広り伝染病が発生したりと、多様な生物たちが無駄なく補完し合っているから自然全体でお互いを生かすために善い影響が出てくるのです。

先日もマラリアの予防で遺伝子操作で蚊を絶滅させることができる研究をしているというニュースが報道されましたがまったく気がおかしくなったのではないかと思ったほどです。人間に都合が良いものは保護し、人間に都合が悪いものは滅しようとする。

なくなっていい生き物となくなっては困る生き物がいる。この時点で如何に人間が自分だけは例外で特別であると勘違いしていることに気付かなくてはならないのです。

今は第6期の大量絶滅時代だといわれます。その速度は凄まじく、現在の絶滅は、過去のどの大絶滅よりも急激で大規模になってきているといわれます。生態系の破壊による根こそぎの種の絶滅のため約 2000万種の生物のうち、毎年5万~15万種(毎日 100~300種)の生物が今も日々絶滅し続けてるそうです。

過去にここまでのスピードで絶滅したことはなかったのです。いくら人間が全知全能と思い込んでいても、自然界のゆったりとした中で生き物たちが進化成長し順応する速度を大幅に超えて循環を壊せば修復はもう不能なのです。

つながっている循環の糸をあちこちで断裂し滅してしまえば、そのつながっている糸は他の生き物たちの糸をも破壊していくのです。そろそろこの辺で人間が特別だという意識を転換して、自然の一部として謙虚に自分の分度を定めようとする社會を政治を考えなおさなければ本当に取り返しのつかないことになってしまうかもしれません。

子どもたちや子孫、未来に何を譲っていくか、それはこの多様な自然の姿以外に何があるでしょうか。自然から離れて都会に住んでその中でだけで世界は動いているではないのだから、お金で偽った経済の本を本来の自然の経済に回帰していくことだと思います。

自分の身の回りの生き物や友達が次第に消えていくことは本当に寂しいことです。人類は一人一人の生き方の気づき、そしていのちの目覚めの時代に入っています。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

眠りの本質~自然生活リズム~

昨日、GTサミットで眠りと発達についての講演を拝聴する機会がありました。

そもそも人間が眠るということにはたくさんの意味があります。日常の活動の休息というものだけではなく、様々な情報の整理整頓、また細胞の修復や治癒、他にも沢山のことを睡眠によって行っています。

今回の研修の中で、大変興味深かったのは睡眠の総時間が必要なのではなく睡眠のリズムが重要だというお話です。

人間には生活リズムというものがあります。言い換えれば生活習慣というものです。どのような生活習慣を持っているのか、その生活習慣こそその人のリズムです。

このリズムというものは、自然界にも存在するように思います。自然界の生き物たちは人間のように時計の時間に合わせて動くのではなく、自然のリズムによって自分たちの生活を持ちます。

たとえば、動物たちや昆虫、植物たちもそれぞれに一生のリズムがあり、一年のリズムがあり、一日のリズムを持っています。それは本能によって時間は刻まれ、自然全体の季節や気候、つまり自然の変化に順応しながらその時間を調整しているのです。

春になれば自ずから様々な生き物たちが目が覚めて活動に入っていくのもまたすべての生命は自然のリズムを実感しているということです。

この自然のリズムとは生活リズムのことですが、この生活リズムを崩すような原因になっているのが眠りであるということです。私は持論で眠る、食べる、働くの三要素が狂ってしまうと自然の時間が狂ってしまうと思っています。如何に自らの直感がハタラクかはこれらの生活を本来の姿に戻していくことで健全で健康な状態に近づけるように思います。

そのためには、自分の都合や社會の押し付けに負けないように自分の中に自然のリズムをつかんでいくことのように思います。

その具体的な方法は早起きにあるように思います。早起きをすれば自然に早寝になっています。早起きの習慣を持つ人は、朝に様々な活動を行います。朝の活動はもっとも集中力が高まり、様々なことが捗ります。睡眠の後の活動ですからメラトニンも豊富に出ています。一日の始まりが楽しくなっていき脳のシナプスも大量に出てくるからです。

昔の日本人はどの家庭でも鶏が鳴いてから目が覚め、暗いうちから活動しお互いが「お早うございますね」と挨拶を交わしていました。時間の感覚の今の時代のように人間都合のシステマティックではなく自然の営みに合わせるようなダイナミックだったのでしょう。

祖神たちは、自然に近く謙虚で素直ですから人間のみの力と自分のみを力を頼りに何かをやろうとするのではなく、自然に頼り自然の力をお借りしつつやる方が善いことは当たり前だったのでしょう。

本来の子どもの眠りとは何か、子どもにとっての眠りとは何か、見直す機会になりました。ありがとうございます。

 

かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。