父母

父母いうことについて考えてみました。

私たちは何をもってお父さんとし何をもってお母さんと言っているかということをあまり深く考えることがありません。子どもができたら父母になるというように、父母の存在は子どもの誕生で自覚するものだと一般的には思うはずです。

しかしその父性や母性となると、お父さんはどのようなものでお母さんはどのようなものかという定義が観えてくるように思います。実際は、私たちが母に直観しているものは例えば母なる地球のような大きな存在として母を感じることもできます。父も同じように偉大な存在として感じることもできます。

子どもにとっての親というものは、単に育ててくれたのではなく、大切なものを育ててくださった掛け替えのない存在ともいえるのです。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海より深し」とありますが、これはその父性と母性を語った言葉であるようにも思います。

先日、あるご縁がありそれを明快に語っている文章に出会いました。それはあのインドのカルカッタで偉大な祈りの実践を示したマザー(母)と呼ばれるテレサが語った言葉です。ご紹介していた著書の中から抜粋します。

『「マザー・テレサ、お母さんって何ですか?」と聞きました。すると、「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもたらす存在、それがお母さんなのです」と。これがマザー・テレサの言う「母性」で、それこそが二十一世紀を築くのだと言われました。「では、お父さんとは何ですか」と、私は恐る恐る聞きました。「お父さんには経済的に家族を支える大事な仕事がありますが、もっと大事なのは正義を愛すること、正義のためにいのちをかける、それがお父さんです」とおっしゃいました。正義を生きるお父さんは権威が身につくと言われました。権力ではなく、権威です。お父さんが正義を生きることで家庭は一致できる。今、あの人は日本の代表的なお父さんだ、と言われるような人はまわりを見回してもいませんね。お父さんはやはり正義をいきなきゃいけないのです。現代はこのお父さん像が薄れているわけです。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

お母さんとお父さんとは、どのようなものであるのか。

私達の生き方そのものの中にお母さんとお父さんが住んでいるからこそ、平和で安心した家庭が築けるように思います。役割とは、表面的なもので行うのではなくその真心の中にこそ存在しているのでしょう。自分の中に父母の恩徳が恵まれていること、父母の役割をいただいていることに感謝の気持ちで一杯になります。

そして、さらにこういうメッセージが続きます。

『「そして二十一世紀を背負う子どもは、私の娘、私の息子というのではなく、神、仏からの授かりものなのです。マザー・テレサは「神の似姿として子どもは贈られてきた。私の子どもであると同時に神の似姿としての存在で、その子どもを上手に育てると、神や仏や聖人や菩薩になる。だからお父さん、お母さん、学校の先生、みんな神様に育てあげてください。」と。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

保育ということは、何よりも大切な使命です。

自分たちの心の中に父母が居て、その父母を求めて自らの実践により子孫へ推譲していくということ。自分がしてもらったことを人に与えていくということが、私たちが子どももでありそして親であるということのように思います。

親子が代々つなぎ託してきたのは、愛ということです。

こういうもの一つ一つを、日々の生活や仕事の中で生かしていくことこそが本来の働きであろうと思います。仕事は作業とは別に生き方という志事が存在しています。とはいえのない保育を広げていくためにも精進していきたいと思います。

玄の原理

昨日、玄米講習を行い伊賀焼の土鍋を使って玄米を炊きその原理を説明しました、

そもそも玄米というものは、食の主であり、私達日本人がもっとも長い間共に暮らしてきた大切な仲間です。玄米のお米は種のことであり、その種を持ちその種を活かし、その種の廻りと共に歩むのです。

もともと年齢と書く「齢」という字も、お米の字が入っているように私たちは一年をお米の廻りで時を刻むように暮らしてきたのです。その食の主、つまりは主食を玄米にすることは私たちの風土に合った食事に食い改めることで生き方もまた日本人の心に回帰していけるように思います。

そして種というものは一見、固まってじっとしているので芽が出た植物などと違って死んでいるかのように錯覚する人もいますが種はいのちがびっしり詰まっているものです。ここから造化の根源力を発揮して種の何十倍、何百倍も成長していくいのちの原点が入っています。

その原点を食べるということは、細胞一つ一つに至るまであらゆるいのちを活性化する効果があるように思います。もちろん科学的にも、フィチンが多いとかビタミンBが大量だとか、ギャバとか食物繊維がびっしりとか色々と数値化されますが、玄米には数値化されない価値が存在しているのです。

そもそも人間が数値化ということをしてから、本来のいのちや全体を捉える感性というものが衰えたともいえます。数値化できないものを読むのが空気であり、五感や六感という感覚であったり、人間本来が持つ本能の力なのです。

玄米信仰などと他人に言われるように思われても、実際に病気の時や日頃の不摂生の時に食べたら回復に効果があるのは一食瞭然ですから玄米の価値は数値や言葉にし難いのでしょう。それに玄米を食べると運が善くなると言われますが、御米の種を食す暮らしが日本人本来の天地自然農合一、つまり一物全体になることで無駄を一切発生させないということや、捨てるところがないというところにも循環に沿っているということと関係するのだと思います。

地球の循環を邪魔しない生き方というものは、自然の天理に従っていますから次第に運も循環ですからそれに則るのです。

しかしこの玄米が嫌いになってしまうという理由もあります。それは料理法です。一般的な電子調理器やガスを使っての鉄器の道具ではあまり美味しく感じないのです。それは例えば、焼き魚を焼く際に、電子レンジとガスと炭火で焼くのでは味が異なるのと同じで自然のものは自然の調理で行う方が私たちの細胞は美味しく感じるのです。

理由はいのちをいのちのままに食べることにつながっているのです。玄米の場合は、土鍋で炊くことでいのちを伸ばします。土鍋には、自然の原理である水の浸透や熱の伝導といった土が持つ自然の受容力が働きます。

この土の働きによって火と水で炊けば、地球の原理(土中のマグマや水中のいのち)を融合しますから玄米の種をそのままに優しく包むように調理することができるのです。

そうやって調理された玄米は、とても美味しく食べたものがそのまま人間の身体に負担をあまりかけずに吸収することができるのだと私は思います。

基本を何に据えるかというのはとても大切なことで、当たり前というものに気づいてそれを改善するかどうかが生き方につながっていると私は信じています。玄米というものを用いて様々なことを見直すのは、自然か不自然かを観る眼を育てていくと思います。

引き続き、自然が何か、本物が何かということを学び直していきたいと思います。

ワークライフバランス~常実践の法理~

ワークライフバランスという言葉があります。それは仕事と生活の調和というような意味があると表現されます。

それに対して生き方と働き方の一致というものがあります。生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐といったものですが本来はこの状態のときにはじめて私は調和していると思っています。

しかし実際はどうかといえば、生き方と働き方を「分けて」いる人があまりにも多いように思います。これは分けることで自分の生活のバランスを取るという刷り込みを持っているからだと思います。

例えば、一日は24時間しかありません。その中で、仕事の時間、趣味の時間、家庭の時間、勉強の時間、友達との時間など、すべてを分けて考えているとします。するその全ての役割を全うしようとしていたらとても時間が足りるわけがありません。それにそれも分けて考えようとするのは自分の都合ですが人生は分かれていないのだからどれも深く関連しているとも言えるのです。

これを自分の都合で分けるとき、そのしわ寄せというものは必ず他の何かに悔い込むことになるのです。本来のそれらは分かれていないものを自分の都合で分けたのであって、分けてはならないものを分けているから問題なのです。

自他を分けたモノサシではなく、自他一体のモノサシに転じれば、仕事も趣味、趣味も仕事、家庭も仕事、仕事も家庭、勉強も育児も友人との語り合いも全て生き甲斐であるという境地、つまりは分けないで取り組む時にのみワークライフバランスは実現するように思います。

これを仕事とプライベートというように分ければ、どちらかの時間のためにどちらかを犠牲にするという発想になったり、それでも無理をしようとすると本来の生き甲斐や働き甲斐といったものとかけ離れた生き方になってしまうかもしれません。

私達の子ども第一主義という生き方も同じで、子育てをしていれば子ども第一主義かというわけではなく、全てのことをもしも子どもだったならと子どものモデルになるような生き方を実践するとき分けていない働き方になっているのです。

これは「分けない」、すべては実は「つながり同じこと」なのだから全てにおいて生活を一つに結んでいくこと、言い換えれば常に「生き方の方を優先し、生きざまを重視すること」で調和に近づいていくように思います。

何事にも理念があるということは、その理念に沿った生き方というものがその後にあるのです。

それを理念と自分を分けたり、生活と仕事を分けたりしていたらいつまでたっても生き方や生きざまには辿りつかず、その先にある生き甲斐や働き甲斐とも出会えないかもしれません。それにそういうことをいつまでもしていたら「本心」が分からなくなってしまいます。人は自分の本心に確認し取り組むからこそ、迷いが消え去り覚悟が決まり真に成長していくことができるからです。

一度しかないのが自分らしさ、そして自分の人生なのだから、分けるのはとても勿体ないことをしているのです。生き方と働き方の一致、つまりはライフワークバランスとは「自分らしい生き方そのもの」を常に優先しているかということによるのでしょう。

この自分らしさを正しく実践することで未来の子どもたちへきっと健やかに逞しく育つ意味が背中を通して伝承できるように思います。自分の我や、社会の刷り込みにもっていかれないように自らの本気本心の常実践で伝えていきたいと思います。

勇気

人は何かに取り組む際に、自信があるとかないとかを基準にすることがあります。

しかし実際は、自信があったら何でもできるわけではなく、自信がないから決してできないというわけではありません。これは自信というものは、物事の見方や捉え方に関することであり前例があることは自信があり前例がないことは自信がないということがほとんどだからです。

では自信があるないに関わらず、何をもって取り組んでいけばいいかと言えば勇気を出すことのように思います。そして勇気とは覚悟を決めることなのです。覚悟とは勇気を引き出すために行われる自己との約束とも言えるものです。

勇気というものを辞書で調べると、「いさましい意気。困難や危険を恐れない心。」と表現されています。つまりは心の力のことであり、心が強いということです。よく私も気合で乗り切るようなことが多いのですが、これらの気合や真心が勇気を発動していくように思います。

この勇気というものは人生に多大な影響を与えるように思います。特に頭で考える人は自信があるないから入りますが、心の鍛錬を行う人たちは勇気を出すか出さないかという選択に変わっているように思います。

アメリカの作家で、アンブロウズ・レッドムーンにこういう言葉が紹介されています。「勇気とは恐れを知らないことではない。恐怖よりも大切なものがあるという。決断のことである。」

恐怖よりも大切なものがある、これは仕事で言えばお客様であり、家族でいえば子どもであったり、会社でいえば社員だったりと、守りたいもののために自分を盡そう、自分を捧げていこうといった、今の自分の固定概念が壊れる怖さよりも、それを崩してでも大切なものがあるのだからと念じて出てくるのが勇気だということです。

人は自分自身がまず一番大切なのでしょうが、もしも自分と同じくらい大切な存在に気づけば勇気も愛も自覚していくように思います。自暴自棄などというものも、大切なもののために勇気を出せなかったから自己嫌悪でそうなってしまうことが多いように思います。それが続くから自信がまたなくなってしまうのです。

またどれだけこの「勇気」というものが人生において大切かというのは偉大な先人たちがその生きざまや言霊で遺してくださっています。

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」(松下幸之助より)

「勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。」(本田宗一郎より)

畢竟、最初は誰だって怖いしできないと思うものですが勇気を出して取り組んでいればいつの日か揺るがない自信になっていくのでしょう。大切なもののために生きているからこそ、人はそれに相応しいほどの自分が次第に出来上がっていくというのが役割と責任の享受になるのでしょう。

自分を自分で育てるには、自分により大きな責任を課して大切なもののために実践するということを継続していくことのように思います。

この勇気とは、私たちが元々持っている本能であり、人間として自然の中で生きてきた素晴らしい徳恵であることを感じずにはおれません。勇気を出すのは誰が出すのかが問題ではありません、誰でも勇気ある決断をしたときから世界が変わっていくということなのでしょう。

最後にピータードラッガーの名言で気合を入れ直したいと思います。

「成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。」

自分自身の変化を恐れないのは自分自身から出る勇気です。大切なもののために自分の使命を果たそうとする風土を自らの実践により醸成していきたいと思います。

 

共生の間柄~一緒に暮らす仲間たち~

先日、種麹屋についてのことがテレビで放映されていて改めて再認識することがありました。

もともとあった野生の麹菌を品種改良して、毒のない麹菌を育てそれを種麹にして販売しているというというような内容だったと思います。そもそも麹というものも菌の一種で、野生のものには人間にとって有害な毒気もあったとのことです。それを何度も何度も人間が手入れをしている間にその毒気が次第になくなってくるとのことでした。

西洋では、人間が品種改良して管理するうちに人間にとって有益なものになったという言い方をしますが私は本来はそういうものではないように思います。

例えば、犬も昔は山犬、つまりは狼であったり、鶏も昔は山林の中に棲んでいたものでした。それを何年も共に一緒に暮らしているうちに次第に毒気がなくなってきて御互いに有益な関係になっていく。つまりは、これは品種改良を人間がして管理してきたのではなく、共に暮らして共に思いやって必要とし合って助け合ってきたということだと私は思うのです。

そもそも虫や動物、植物のことを管理するという思想は西洋から渡来したものです。本来は、これは友達であったり仲間であったり兄弟であったり家族であるように愛おしみつつ慈しみながら大切に育て合ってきた共生の間柄なのです。

だからこそ互いに思いやるうちに次第に心が溶け込んで御互いに友人以上の関係を築いていくことができたのです。これは動植物に限らず、物にだって心があるという概念であり八百万の神々、全てのものに魂が宿る、かんながらの思想の原点です。

私が活きているということは、周りも活きているということですから互いに思いやっていけば次第に仲良くなっていくはずです。これは植物同士の関係でも同じく、稲と周囲の野草と虫との関係、動物と植物と人間の関係、そこには確かな結びつきが在るのです。

こういうものを理解していけばいくほどに、如何に管理していくという発想が本来の共生関係を崩していくのかということを自明します。管理するのではなく、仲良くしていくということは共に相手を思いやりながら助け合っていくことをいうのです。

そこには有益か有害かという二者択一ではなく、一緒に生きようとする心の優先です。

よくよく考えてみると、お米も数千年一緒に歩んでいます。他にも大豆や、身近な蜘蛛やトンボ、燕や犬や猫、牛や馬、木や山々もすべて共に生き続けてきた大切な仲間たちです。

そういうものを大切にしようとする真心が、私たちの豊かな風土の由縁であり由来でしょう。

今年は「里」をテーマにしています。
里には共に暮らしてきた仲間たちとの関係が再発見できそうでワクワクしています。

祖神たちの生き方に見倣いつつ、引き続き仲間を大切に暮らしていきたいと思います。

いのちの仕組み

昨日、式年遷宮後の伊勢神宮を参拝するご縁がありました。

現在では、旧くなったお社の横に出来たばかりの新しいお社が建っています。その両方を同時に拝見できるというのは、有難いことのように思います。

そもそも神道には「常若」という思想があり、式年遷宮は「常に若々しく永遠に滅びない」という仕組みで甦生を繰り返します。

これは大切なものを大切なままにいつまでも永遠の真価を発揮し続けるという「いのち」の理を顕現させているように感じます。

いのちというものも等しく、その永遠の価値を持ちます。いくら生死が廻ったにせよ、その風土、その時空には目には観えなくても確かにいのちの廻りは永劫しています。それを実感するために神道では古びれても新しいままといった「旧くならない実践」を続けているように思います。それがかんながらの道の一つでもあります。

そもそも人間には直観的に知覚できる本能というものが備わっています。そこには、目では見ていないものを観ていますし、鼻や耳、舌などをつかって本能が天地の道理を嗅ぎ分け聴き分け、玩味するというように表面上の感受ではなく、真相の感受のような自然の直観力で全体を容受するのです。

これは代謝でも同じですが、考えなくても脈動や鼓動、循環、浸透、伝導などを続けるように本能は常に私たちの心身体を活かし続けます。ここにも神体としての私たちの本能が已まずに甦生を続けている証です。

この甦生という仕組みを通して、何を遺しているのか、何を復刻し続けているのかを実感するのが本能の容受です。これは自分たちの中にある初心をいつも忘れないことやかつての私たちの姿を伝承することなどが秘められている仕組みなのです。

例えば御蔭様という意味一つであっても、今の私たちが存在するのはどういう祖神の徳恵の中であるのかもまた式年遷宮を通して実感できるものです。目に見えるものは、次第に形を崩していきますが目には観えない大切なものはいつまでも変わらないということは、今生きている人たちの真の生き方の初心を省みることで直観するのです。

メッセージとして、神代から続いているものを私たちが新しくするのだという覚悟です。

私たちの「いのち」は神代から先祖伝来、子々孫々までそれを維持するのに肉体は何度も甦生を続けてはこの世に止まっています。そして私達は決して古びれても古びれない、いつまでも新しい時代を新しくしていくのは私たちの使命なのだという決意を覚えてはいのちの輝きを保ち続けたのでしょう。

そもそも永遠とはいのちなのです。

参拝をしていると、次第に夕暮れ、そして月や星が瞬いていました。

あの星々のように、宇宙の中で永遠の光を放つ私たちの「いのち」と同化していたいものです。いろいろと人間は自然から離れて、考えすぎて不完全燃焼になったのでしょうが常に「いのち」に立脚して完全燃焼を続けて甦りを続けていきたいと思います。

今年は甦生と関連が深く、そういうお仕事とのご縁をいただいています。伝承の大切さ、いのちを伸ばす仕組み、そういったものを現場のお仕事で実感しつつ直観し、常学常問を実践していきたいと思います。

式年遷宮とのご縁と邂逅の御蔭様で自分自身の感覚も温故知新できました。「いのち」余すところなく存分に発揮していきたいと思います。

リバース

昨日、リバース研修を社内で実施した中で改めて発見がありました。

初心というものは伝承することであるということをいつかブログで書いたと思いますが、そもそも初心というものはいつも何度でも見直す中で甦生して活き活きと新鮮さを維持していくものです。

新しくなるというのは、古くならないということであり、神道ではそれを「常若」という言い方をしますがこれを続けていくことで当初の思いや心、そして願いや信念などを大切に思い出し続けていきましょうという意味であろうと思います。

人間というものは、心のままであった神代と違って今はほとんどのことが知識が増え頭で計算することができるようになりました。この計算というものは、現実のものを計る「物差し」ではありますがそのために真心や誠実さというものよりもどうしても自分中心に考えてしまうようになったのかもしれません。

これは日々の業務でもそうですが、頭で計算しているうちに本来は何のためだったのかということも次第に意識から薄れていくのかもしれません。そうしていると心が入りにくくなりますからそうならないようにと何度も自分自身の心で決めたままでいようと精進していくことが初心を忘れないということをより強く意識していかなければならないように思います。

これらの初心というものは、何度も何度も繰り返すことで甦ってくるように思います。これは人類の進化や歴史でも垣間見れるように何度も人間は同じ過ちを繰り返しそのつどに大切なことに気づきます。そしてまた時間の経過とともに忘れます、それを忘れないように何度も何度も伝承を怠らないようにして思い出すことでそれがないようにと伝承していくのです。

これらの伝承というものは、心の伝承のことを言います。

心に刻んだことを忘れない、言い換えれば時の流れに流されないように時を刻んでいこうとする今までの御恩に報いる生き方のことであろうと思うのです。

変化というものは、人間が人間都合が生まれてから発生した言葉なのかもしれません。人間が自分の都合を優先するからこそ、本来の自然の流れ、本質から外れしまうのです。そういう環境の中で自然から離れて人間社会というものを形成したからこそ変化し続けなくてはならなくなったように思うのです。

変化を已まないということは、自分都合を極力排除していくことのことかもしれません。そうやって理念や信念を立てたらそれに沿って何度も何度も省みることではじめて自分らしい人生、本来の社會の役割を果たしていけるのように私は思います。

伝承していくというのは、自分の生き方や生き様が子孫へ残っていくということです。自分くらいはとか自分だけはということを言ってはその影響力の大きさを忘れてしまえばそれが最も変化から外れてしまうのかもしれません。

人生の全責任を持つということや、自分の世界や子孫へ与える影響力を知ることが変化になるということのようにも思います。本来の自分を取り戻すためにも、初心を伝承し続けられるよう精進していきたいと思います。

人間都合の罠

人は物事を判断するときのモノサシとして自分にとって有益か有害かというものを見ます。

例えば、先日からの植物を例にすれば現在名前がつけられている植物だけで35万種あるといいます。まだ名前がつけられていないものも沢山あるのですが、その中で勝手な話ですが人間にとって有益だとしているのが大体3千種だと言われています。

おかしな話ですが、西洋から渡来した農業方針では34万7千種の植物は有害、もしくは無益とされ、農薬をはじめ除草剤、もしくは抹殺の対象となっています。そのためには、強烈な除草剤の開発を続け、それらの草を抑制するために様々な道具が日夜開発されています。

植物でこうなのですから虫や鳥などとなると、ほとんどが有害か無益と考えられ人間に都合がよい野菜以外はすべて排除するという考え方です。アメリカの大規模農園の映像をテレビで拝見しましたが、セスナで農薬を散布し、自分の育てている野菜以外はすべて排除の対象である姿を見て背筋が凍る思いをしたことを覚えています。

それでは人間に有益と呼ばれる種は今どうなっているかといえば単に過保護にされるだけではなく過干渉に種を操作し、F1と呼ばれ遺伝子をいじられたり余計に交配させられ、より沢山、より便利に収穫できるように改造されていきます。現在ではその有益とも呼んでいる種も固定種のものはほとんどがなくなり、ビニールハウスの中で24時間光をあてられ、肥料や栄養をどんどん詰め込まれ、より速くより大きくなるように仕込み収穫され、種もなくあったとしても種も改造され自らで子孫を残せないような種にさせられ販売している始末です。

よく考えなくてもどれだけ今、不自然でおかしなことが起きているのかが誰でも分かるようなことを見過ごされては身近な社会の極端な報道ばかりで全体が目くらましをあっているというのが私達とも言えるのです。

本来、人間都合というものはこの考え方に共通します。人間は自分の都合で世の中をみるのだから、見たくないものはみないというのもまたこの考えに添っています。直視するということができるのは人間都合、自分都合のメガネを取り払うときにできるからです。

もしこれら植物で起きていることが人間で行われていたらと考えれば現在の社会の構図が観えてくるともいえます。将来、この人間都合の考え方は倫理の壁もいよいよ超えて植物で起きていることを人間そのもので行われる可能性も決してないとはいえません。

それではどうすればいいのかということなのです。

自然農を実践していく中で、本来の人間都合というものがどれだけ危険な思想なのかというのを考えると同時に、如何に自分たちが実践していくことで自らが自然の謙虚さを学ぶのかといううことが肝要なのではないかと私は思います。

そういう私も都会に住み、現在の社会の中にいるのですから今の文明そのものを否定するのではなく、生き方として優先するものを何にするか、、都合という我慢や我欲をよく見つめ、自然界から生き活かし合う姿を学び、それらの自然を優先しつつその中でもって今を創意工夫していきながら本来の人間というものの在り方を一緒に学び続けていこうという先人たちの智慧の再発見を行うことだと思います。

祖先は皆、今の私達よりも多くの体験をしてそれを受け継いできました。私たちの100年ほどの価値観など、祖先の数千年、いや数億年の篩にかけられたものには決して敵いません。だからこそ祖神の声をよく聴いて、よく観て、よく真似ていくことが子々孫々の繁栄にかかせないように思えます。消えかけていますが探せばまだ沢山の智慧がこの国にも世界にも伝承されています。

最後に人類にとっての本当の危険とは、この人間都合の罠のことなのです。

本能が減退している現代だからこそ、本質を掴みとるために実践し、精進を続け、もう一度ゼロベースで自然から学び直していきたいと思います。

 

野に降る

自然を考えている中で、この今の自然が如何に人間の都合によって塗り替えられているのかを気づけます。

そもそも人間にとって都合のよい植物と都合の悪い植物で扱い方が天と地との差があります。野菜は人間が食べるものだから大切に育てますが、それ以外は雑草という呼び名でいつも嫌われています。

うちの畑でも最初に最も嫌悪されたのが雑草で、雑草の種が飛んでくるから草をすぐに刈ってほしいと遠巻きに言われたりもしました。草を敵にしない農法といくら説明しても、それが理解されるわけでもなく色々な農業事情のこともあり見た目のところが悪くならない程度に草を刈るようにはしています。

しかし、春から夏になれば雑草を中心に群がった虫たちの大合唱が楽しくて野菜も雑草も分け隔てなく食べている虫たちが元気な姿に畑の楽しさを実感して草もなかなか刈れなくなります。

都会で生活していると、虫がいません。ごくたまにベランダの花壇に飛来してくる蜂や蜘蛛、トンボなどを見ると本当に嬉しい気持ちになります。身近に虫がいないということがない田舎育ちのせいか、植物もない虫もない鳥の声もしないという中にいることは本当に淋しく感じます。

昨晩も帰路につく最中、道端の雑草をみながら都会にも逞しくいのちをつなぐ姿に都会暮らしの中で自然を追及する自分の姿を映していました。なぜわざわざ自分は新宿のど真ん中で自然を観直に自然を学ぶのかと考えると、雑草のように生きようとしている自分が此処に居ることに自明するのです。

この雑草とは何かといえば、かつてエマーソンがこう定義しています。

「雑草とは何か?それはその美点がまだ発見されていない植物である。」と。

それをファン・デグォン氏は雑草ではなく、私は野草と呼ぶと定義しました。私もまったく同感で、野菜と雑草ではなく、野草であり野菜なのだというように考えています。道端の小さな虫たちも鳥たちも植物たちもみんな自然の一部。

その一部としての自然をどのように価値を見出すかはその人次第です。

だからこそ、自分の生き方を改め、本来価値があるものをもう一度再発見しなければならないように思うのです。今の世の中は、すぐに人間都合の歪んだ価値観でそのものの価値を定めようとします。しかし本当にそれが価値なのかと言えば、それは誰かによって意図的に生み出された人工的な価値であることには間違いありません。

この世でもっとも価値があるのは、すべて自然や天や神様が生み出したと私たちが謙虚であるときに観ているものではないかと思います。御蔭様然り、勿体ない然り、有難い然り、すべては私たちの想像を超えた美しさを永遠に放ちつづける自然の中にこそあるのです。

もう一度、野に下っていくところから人間は学び直した方がいいのかもしれません。今のような文明の過渡期に、価値の大転換をどのようにやってのけるのか、それは自然が味方になってくださるのだから自然の観方から転じていくことなのではないかと私は思います。

子どもたちには自然の価値は自然のままに観えています。だからこそ、子どもたちと共に自然から学び、自然に学び直す実践を続けていきたいと思います。その実践がいつの日か必ず人工的な価値観よりも優先されるようになり、最期には地上のバランスを人間が保てるように調和することにつながると信じます。

この世にはもっとも当たり前だと思っているものが何よりも当たり前ではない尊さと輝きを持っていることを決して忘れてはいけません。自然の価値に抱かれて活かされる幸せを謳歌していきたいと思います。

越冬

朝の霜が降りるような大変寒い季節に入り、虫をめっきり見かけなくなったと思っていたら昨日、畑の草刈りをしていてバッタやてんとう虫を見かけました。

虫は変温動物のため、冬の間はあまり動けません。それに餌もなく、それぞれに寒さを凌ぐ智慧を持って越冬します。

例えば、成虫のままの虫では落ち葉の下に隠れたり、腐った木の中にもぐったり、土の中に入り空洞をつくり篭ったり、ありとあらゆるところに隠れては寒さを凌ぎます。

その他には、卵になって殻に守られた中で隠れたり、マイナス20度の中でも、凍らない体液で蛹のままに越冬する虫もいますから冬で死んでしまったわけではなく隠れているのです。

そして春になり、草花や虫たちが活動しだす頃に越冬した虫たちが外界で活躍を再開しだすのです。

その他、冬の草を食べている虫たちもいますし動物たちもいます。畑では、葉っぱには虫食いの痕がたくさん残っていますし、大根などは野ウサギに食べられ、土の中の幼虫はイノシシが食べています。

思い込みで虫や動物を見かけなくなりますが、いなくなったのではなく寒さを凌ぐために隠れて越冬しているのです。

そう考えてみると、冬の間じっとこらえて耐えて忍び春を待つ姿に自然の中にある当たり前の姿を体験します。私達人間は、冬でも春でも夏でも空調設備が整い、食べ物も豊富にある中で暮らしていますからあの虫たちのように必死に越冬する姿はありません。

しかし本来は、冬というものは寒さを凌ぎ耐え忍び春を待つことが自然なのです。厳しい寒い冬があり、暖かな春がある、厳しい暑さの夏があり、穏やかな秋がある。こういう四季の廻りを虫たちや動植物たちがどのように過ごしているかでその智慧を見直せるのです。

敢えて自然に逆らわずに、仮死状態になったりして冬を超える自然順応の姿には学び直せるものがたくさんあります。まだまだ冬の動植物から学べることがたくさんありそうです。

昨日は、てんとう虫やバッタが一生懸命に越冬している姿に頑張って乗り越えてほしいと心から応援したい気持ちが湧いてきました。すべての生きものが一緒に冬を越していきたいと感じたのは、冬の寒さと美しさが引きたててくれるのかもしれません。

木々や土、光も水も、生き物を遺すためにみんな協力しているようにも感じます。いないと思っていたものがいること、ないと思っていたものがあることほど豊かなことはありません。有難うございます。