種に学ぶ

自然農を実践し、畑の種を観察していると色々と発見があります。

一昨年の冬に元気に育った大根をそのままに花を咲かせましたが、そこから自然に新しい今年の大根が生えてきました。それを観ていると、梅雨時期のたくさんの雨や夏の鬱蒼とした草たちや虫たち、多数の種たちの中でよくぞ此処で生えてきたものだと感慨深くなりました。

種というのは、不思議なもので自分が出てくるタイミングを自覚しているように思えます。それは季節だけではなく、今が自分の出るときだと知っているような感覚ではないかと私には思えるのです。

沢山の種がそれだけ長い時間、待っていることができるということに感動するのです。

土の中では、その他、何年も何年も掘り起こされるまで眠っている種もあります。自分が生育できる環境が顕われるまでタイミングをじっと待っているのです。時には、季節外れに生えてしまったり、時には、環境が悪化しているときに出てしまったり、他の種が先に芽吹けばそのまま種のままで居続けたり、そしてそれもまた自分の出番であり、自らの御役目を謙虚に受け容れ、種の維持、子孫として自らが道を切り開いているのです。

植物や虫たちは、種の保存、種(シュ)というひとまとまりで生きています。だからこそ、そのひとまとまりが自分そのものでありその種(シュ)を遺すために皆で協力して自分を生き切るのです。

この自分とは役割であるということが、ここから悟れるのです。

一見、評価の世界で生きていたら無駄死にではないかとか、犠牲になったとか、いろいろと論じますが本来は、そのひとまとまりでいのちであり、ひとまとまりで生き残っているのが私達です。

つまり違いもなく、自他もなく、みんなで役割を持ち生き切ることで一つのいのちであるということです。これは菌類も同じで、みんなで種を遺そうと協力し合い深い絆の中で共に活かし合い助け合い未来そのものになるのです。

種ということから自然の全容が顕現してきます。

もっと大きく、もっと全体で、もっと役割というところから自分を見つめていきたいと思います。
種に見習い、生き方から見直していきたいと思います。

今甦生

大晦日になり、改めてこの一年を振り返るとあっという間だったように思う中でも貴重な出会いやご縁をいただいた充実した一年になったように思います。

節目というものは、その時々の心境で何度でも感じるものですがその機会が一年ごとに繰り返されるということはとても豊かなことであろうと思います。

人生の中で、節目というのは私にとってはいつもはじまりとおわりを示します。一つの生が終え、一つの死を迎え、そして甦生する。この甦生こそ節目であろうと思います。そうやって何度でも節目に甦生しながらも変化と生長を已まないというのが循環の中にいる今というものに生き切る覚悟なのかもしれません。

以前、私は「メメント・モリ」という言葉に出会いました。「死を想へ」というようなラテン語の意味だったように思います。具体的には、人はいつか死ぬのだから死を忘れてはならないという意味だったように思いますがその言葉をより詩的に田坂広志氏が書いたものを、手帳に書きだし20代の駆け出しの頃は何度も省みて観直していたのを思い出しました。

そこにはこう書いています。

「この地上に束の間の生を受け、駆け抜けるように去っていく無数の人々のなかで、
我々が、その短い生涯において「縁」を得るのは、わずか一握りの人々に過ぎない。」

死を忘れるなということを毎日のように思い返し、自分の今の一瞬一瞬が掛け替えのないご縁の日々を送っていることを当たり前とは思わないようにと自戒をしていました。今になってみると、その御蔭で素晴らしい日々に出会い、素晴らしいご縁をいただき、有難い邂逅と勿体ない御蔭様に恵まれ学び続ける日々を歩ませていただいています。

この生を遣り切った先に、充実した死ががあり、その先にまた新しい生死がある。

この生死の縁とも呼べる今というものの連続の中にある、生死がいのちの甦生を続けていくのかもしれません。万物一切は永遠の今を持ち、この宇宙と共に生き続けるということが今というものの中に存在しているのかもしれません。

私たちは思い出というものを忘れてしまいますが、思い出があるということは永遠の今があったということを思い出したということかもしれません。

今を生き切るというのは、何度でも生まれ変わるということです。

何度も何度も気づいて発見したならばもうそれは昔のことです。それにご縁を大切に、新しい自分と出会ったならばもう昔の自分はいないのです。新しいことを学ぶということは、それだけ古い自分との邂逅になります。つまりは生も死も同等に今の中にあるということでしょう。

姿かたちは同じであろうが亡くなろうが、信じたものは永遠です。

来年も信じて行じていく日々を積み重ねて、自らの実践により子どもたちのいのちの今を切り開いていきたいと思います。御縁に感謝しつつ、今甦生している日々を味わって豊かに生き切って参りたいと思います。

有難うございました。

 

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

縁とは心~自他に正直~

心の力というものがあります。

これは信じる力というものかもしれませんが、不安を転じて安心に換えたり、ピンチをチャンスに換えたり、有難を幸福に換えたりする力であろうと思います。

心というのは、感情に左右されずにいつも善いことであると信じているものであろうと思います。心が強い人というのは、困難があっても何か不安があってもきっと善いことであると信じることができるということです。

感情というものは、生存本能から自分の生存にとってマイナスなことを探し当ててくるものです。なのでネガティブなものを見つけては危機を察知し、そこから危険を回避するという力に転換していきます。

しかしその分、感情で考えるということはネガティブを呼び込むことになりつい良いか悪いか、正しいか間違っているかなど、両極に偏りバランスを崩してしまいます。本来は、心の強さが必用で心は丸ごと信じるということを行うことで全てを包みバランスを維持することができるのです。心が丸ごと信じられるというのは、自分が活かされているという全体の働きを自覚することであり、つながりで観る、ご縁を大切にするということで顕現するのです。

つまり感情と心でバランスを維持するというのが本質であろうと思います。

これらのバランスの維持とは、頭で考えてできるものではありません。なので常に心を優先してその後に考えるということ、言い換えれば実践を先にしてそのあと内省するという順序を大切にすることで維持できるのではないかと私は気づきました。

心は全体を見通し、感情は状況を見通します。ですから、バランスというものは自然のままに自分を活かす、正直でいるということを示しているというのが定義であろうと思います。

バランスが悪いというのは、正直ではなくなっているということ、またそれを忘れてしまっているということです。今の世の中は、頭で考えれば、否、目で見える世界を追いやすいように思います。目で見えない心の世界を学び、つながりやご縁を観る力を養っていく必要があるようにも思います。

内省を続けることは、自分の中にある直毘を養い、その真心を研鑽していく実践方法です。常に日々に流されないというのは、心を遣ってということであり、それはつながりを心を観続けているという意味、つまりはご縁が観えていますか?ということであろうと私は思います。

ご縁を大切に、心を強く、自他に正直に生きていきたいと思います。

自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

自生のサイクル

昨日、シイタケやヒラタケ、キクラゲなどの種菌を榾木に仕込む作業を行いました。昔は、山の中に自生するのを待ってうまくシイタケがつけばいいと何度も繰り返し菌が降ってくるのを待っていたそうです。空気中には色々な菌がいて、シイタケがついてくれる可能性というのはどれくらいあったのでしょうね。

今は何でも簡単便利に購入して、種菌も移植できますが昔の人達の長い長いゆったりとした自然時間をかけて繰り返し大事にされてきたいのちをその気持ちになってみつめてみたいと思います。

榾木は森の中に休ませ、菌たちの生活するための住居を用意し、それを見守り約2年後には沢山のきのこが出てくることと思います。自然が共生するというのは、それぞれの生きもの生活を用意してその恩恵によって少し分けていただく中にこそ有難みがあるように思います。

約2年後というのは、私の見解ではきのこの菌が榾木の中で繁殖し確立したらまた別の棲家を求めて旅立つ際に協力してきのこになるというものです。ここできのこになるというのは、増えすぎた棲家を若い種たちが離れて新しい棲家へと子孫を残していくための自立になるということなのでしょう。

菌という生きものは、そのものが種であり種であるから繁栄発展していくように思います。そこから推察してみると、私達一人ひとりも大切な種でありその種が次世代へと希望を繋いでいくようにも思います。

種が散らばって土に落ち、地上で花を咲かせて実をつける。
こんな当たり前なことも、菌や植物や生きものから学び直しているところです。

さて発酵を学ぶ中で次第に発展して、菌というものを身近に感じるようになりました。発酵というものも、菌が活性化することで行われるものです。ある一定の菌の食べものさえあれば特定の菌たちがそれを食べ尽くす際にエネルギーを放出していきます。

私達のご飯と同じように、食べるから元気がでてその元気さが発酵の証とも言えます。どの食べ物を食べるかでお腹の中の菌の種類も、また菌の構成も変化するのですから如何にそのものの環境に相応しいものを用意していくのかというのは大事なことなのでしょう。

そう考えてみると、きのこではないですが私たちの身体は榾木のようなものなのかもしれません。菌が私たちの身体に棲みついてその体で繁殖し移動していくのですから。植物や木々も、根っこには菌があって菌がそこに棲みついてきます。

あながち、生命の本体が菌であり私たちはそれを助けるために身体を構成したのかもしれません。人間の細胞も60兆にもなるといわれますから、そこには何か菌の不思議な力が働いているのかもしれません。

マクロもミクロも宇宙ですから、これはこれでまだまだ見極め研究も実践も楽しんでいこうと思います。これから数年の自生のサイクルできのこの見守りがはじまりますがゆったりとした時間の流れを寄り添いながら味わっていこうと思います。

体験の尊さ

私達すべての生きものは、人間を含め体験しないと分からないようにできています。

それは一度しかない自分の人生の中で、何を自分がしたいのか、何をしたがったのか、そういうものはすべて体験を積み重ねてみてはじめて自明していくものだからです。

この積み重ねていくというのは、言い換えれば時間を遡っていくもののように思います。つまりは体験を内省することで、その内省の意味を辿っていくかのようなものです。

過去から未来へも、未来から過去へも、今の積み重ねの中に存在するものです。これらの時間軸は自分で勝手につくりだしているもので、自然には今しかありません。そう考えれば体験の中にこそ私たちは生死を超越したところに棲んでいることを実感するということなのではないかと思います。

すべての生きものというものは、そのものの体験を通して学んでいきます。それは自然界では当然のことで、自然の循環に従って自分たちが体験したことを子々孫々へと引き継いでいくのです。今が積み重なっているだけという見方をしてみれば、その時代時代に内省をしてきた分の歴史が在るだけということです。

これを思う時、体験しないということがどのようなことかを考えてみるのです。

体験というものの尊さというものは、内省することによってはじめて得られるように思います。なぜなら、内省することが正しく体験をすることだからです。

毎回毎回の出来事はその瞬間瞬間に確かに意味が存在しています。それはマクロからミクロを観るように、ミクロからマクロが観えてくるように、一部と全体というものは首尾一貫してつながっているからです。その「つながっている体験」というものをどのように捉えているか、どのように味わっているかで人生全体というものが顕現しているように思います。

少しこんなことを書くと哲学のようになるのかもしれませんが、そうではなくそもそも体験こそが人生であるということを改めて実感するということだと思います。体験というものを大事にしていくには、体験しないことよりも体験していく尊さを実感する方を優先していなければなりません。そのためにも内省を続けて積み重ねていくことで、そのつながりを切れないようにと努力することが必用ではないかと思います。

長くなりましたが、体験も内省も今も、「つながり」の中で用いる言霊ということです。

だからこそつながりが観える人は、生死を超えた今を見つめます。しかしつながりが観えない人ではいつも未来や過去を憂慮するばかりで自分の今が分からなくなってしまいます。怒涛の如く過ぎ去る日々にも流されない平常心を持てるかどうかがより善く歩んだ道の姿なのでしょう。

ですから体験の尊さを忘れはいけません。なぜなら体験してみようと試みること、チャレンジすることが人生を切り開くことなのですから。

体験を勇気づけるゲーテの名文をいくつか紹介します。

「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない。」
「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。」
「 とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」
「 自分を信頼しはじめたその瞬間に、どう生きたらいいのかがわかる。」

体験することで得るものが真の智慧であり、そこに道を歩んだ軌跡が永遠に遺ります。最後にゲーテはこう問いかけます。

「君は本気で生きてるかい?」

取り組みを恐れずに取り組まないことを真に畏れ、前進していきたいと思います。

好好~好奇心の妙~

「好きこそものの上手なれ」という諺があります。

これはどんなことであれ、その人が好きであればすぐに上達していくという意味で使われます。好きなことは、やらされるのではなく自らがやっているのだから発達が善くなり上達するということでしょう。

しかし一般的に人は元来は怠惰にできていますから、好きなことは何もやらないことだといって好きなことが次第になくなっていくようにも思います。

ここで好きになるということがどのようなことかを深めてみます。

好きになるというのは、自分で好きで居続けるための努力がつきものであろうと思います。好きになるコツを掴んでいる人は、努力していることに気づかないだけで必ず努力は行われています。つまりは好きというのは好きでいることをやっているから好きになるのです。

この好きというのは、何もしないから好きなのではないということです。毎日毎日、四六時中、好きなことを維持するにはその陰で大変な努力が動いています。上達というのは、欠かさない練習によって得るものですからやったらやらなかったりではなく常にやっているから好きでいられるのです。

それはまるで養分を吸い上げていく植物のように、もしくは生きものたちの呼吸のように已めることはない努力なのです。これらの努力をしていくことが苦にならない、つまりは自分が達したい目標に向かって取り組んでいることが楽しくなっていてはじめて好きだと言えるのです。

しかし好きでいるにも好きになるにも、その前に好きになることを知らないのではいつまでも好きではない、否、「嫌い」だと決めつけて努力を避けてしまうから辛くなるとも言えるのです。

確かにどんなことでも自分には嫌なことがほとんどなのが人生なのかもしれません。寒いと外にでたくないとか、朝早いと辛いとか、評価されるのが嫌だとか、考えるとキリがありません。

そんな理由があったにせよ、それを転じて好きにすることが上達するコツであろうと思います。このコツとは、自分の好きなことにしてしまうことを掴んでいるということです。嫌いなことも好きにできるということかもしれません。

例えば、自分にとって興味がないことがあったとします。しかしそれをしなければ目標に達しないことが先人や先達者の声を聴くと必然であることを自明するとします。その場合は、嫌いなことを好きにならなければなりません。ずっと嫌いなままでは上達することがなく、より一層辛く苦しいだけで伸びていかないからです。

それをどのように工夫するか、方法論から入ればそこには自分の好きな分野に置き換えるというやり方もあります。原則論から入れば、習慣になるまで身に着けたかというのもあります。沢山の場数を増やしていくことでその場数にそって心身に沁み渡っていくのです。

好きになるということは、好きになるまで探求するということかもしれません。私の場合は、これも何かの意味があると感じ取ったり、これは何につながっているだろうと掘り下げていくことで次第に楽しくなっていきます。

好奇心という基本技術があるのかもしれません。好奇心を発揮していくためには、自分の好きなことをやって呼び水にするのも方法のひとつかもしれません。今の遣らないといけないものの中に、別のテーマを持つというやり方もあります。

どちらにしても、努力するということなくして好きになることは絶対にありません。しかしその努力を主体的にするのか受身でやるのかでは努力の本質が変わってしまうのかもしれません。努力の本質とは、生活習慣を変えることだと思います。言い換えれば、自らの意識を変えて心身を新しく入れ替えていくことだと思います。

好きになってはじめて、仕事も向こうから近づいてきますし、真実も、目標も、道理も歩み寄ってきてくださいます。それは人でも物でも、出来事もでもすべて同じく、好きだからこそ相手は自分を好きになって下さるし、物も出来事も好きでいてくださるのです。

相思相愛になるには、それだけ自分から素直に好きだと言えることだろうと思います。これだけ好かれている自分が素直に好きといえないのは、もったいないことだと思います。自分が一番愛する心をもって好きでいることに純真無垢でいることや純粋清浄でいることが好きになるコツでしょう。

そしてその好好を楽しめているとき、理念、志、そして使命を味わっているように思います。すべての今を全てのことを好きでいる自分でありたいと思います。

発信の本質

情報リテラシーの一つに発信があります。

このリテラシーとは、一般的には情報技術のことをいいますが私にはもっと奥深い生き残りの智慧のようなものがあるように思います。

そもそも動物をはじめ、この自然界に居る全ての生きものは情報を発信することで生きているともいえます。例えば、鳥でも虫でも何かの情報を発信することで敵がどの辺にいるのか、また仲間がどの辺にいるのか、周りに何があるのかを自らのアンテナで感知していくのです。

自然界で発信するというのは、自分の居場所を教えることになるので同時に危険も伴うものですがそのことではじめて得たい情報が集まってくることを自ずから知っているのです。

人間はテレビをはじめ、インターネット、雑誌など、じっとしていてもそのうち情報が集まってくるように今は見えています。多すぎる情報の中で受信していると勘違いしてしまうのも仕方がないようにも思います。しかしそれは本来の意味での情報リテラシーとは呼べないものではないかと私は思うのです。

情報は自分から求めて取りにいかなければ真の情報は得ることはありません。特に上質なものであればあるほどに求めなければなりません。そしてもっとも価値があり充実し上質な情報とは、自らが「発信する」ことに他ならないのです。この発信というものは、自らが受信するアンテナを立ててそしてそこに感受しようといった丸ごと主体的でなければならないものだからです。

発信し続けるということは、今の人工的な社會であれば不可解に思われるかもしれません。しかし日々に自らの念じることや信じること、祈りのようなものを欠かさずに発信していけば必ずその情報アンテナの感度は研ぎ澄まされ、日々に磨かれ、自分が最も望んでいる情報を受信できるようになるのです。そうして本質的に自ら受信したものだけが、相手に真の情報を提供していくことができるようになるのです。

情報が集まってこないと嘆くよりも、それだけ自分は真剣に情報を発信しているかを省みることがリテラシーの本質ではないかと私は思います。

情報はそもそも地球上の全生命が生き残るために工夫して磨いてきた智慧であろうと思います。

情報とはまるで川のようなものだからこそ、どんなに流れが早くても遅くても、気候の変化で氾濫しても、いつもそこに自然の感度を持つあの水中生物のように聴き洩らさないほどの自らの発信を已まずに常に行っていなければなりません。

生き残るということは大変厳しいものだからこそ、情報とはその次元で発信していく必要があるように思います。だからこそ自然の感度は常に受信側ではなく、発信側を優先していることを見習わなければなりません。

生きる力とは、自然の本能が持つ力そのものです。

常に自ら発信するということの重要性を、子どもたちのためにも実践していきたいと思います。

 

活気

自然の中に身を置く中で、生きる力というものを実感します。

自然の中で生きているものは、人工的なものと異なり厳しい環境の中で逞しく生きています。雑草もそうですが、種が落ちた場所を選ばずにその中でも生き抜いていきます。

たんぽぽなども善い例ですが、簡単には根付けないようなアスファルトや壁の隙間に立派に咲いている様子に心を打たれるものです。

これを不撓不屈というのかもしれません。

雑草を観ていると、自ら生きようとする心が観えてきます。

そしてその心とは何かと言えば、活かされているということへの実感。活かされたのだからという真摯な生き方の実践。つまりはどの今も真剣に活きているということを体現しているのです。

人間はいつからか生き易い方を選び、活き辛くなってきたように思えてなりません。

何でも恵まれた環境、与えられるのが当然となった環境、そういう中で人は大切な何かを見失っているのかもしれません。それは自然の本能と呼べるものかもしれません。本能が出てこないような生き方そのものが活き辛い社会を創っているのかもしれません。

本来の生命には自分にとって当然の環境などはなく、全てに於いて今を活きているかどうか、常に瞬間瞬間を受け容れて善い時を転じきれているのかどうか、それを毎日の活き方にしているように思うのです。

私達の国は瑞々しい瑞穂に満ちた国であると昔から伝わっています。
これは生命力に溢れ、活気があり生気が漲っている様子を言います。

一昔前によく出ていたハングリー精神も、それは元気があったからということなのでしょう。

元気とは、どのようなことを心に望のか、何を期待して信じていくのかといった個性の発掘とつながっているようにも思います。

自然は諦めないのは、元気だからであろうと思います。
別の言い方をすれば、「活気」があるのです。

元々の気をどのように引き出すか、指導者の哲学がそこには必要であるように思います。
自然を観ながら、何が自然であるのか、もう一段、高みへと学びを深めていこうと思います。