地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

本心本来の自分自身

人は自分の心のことがなかなか分からないものです。頭では分かっていても、自分の心となるとどこにあるのかそしてどうしたいのかが観えなくなってしまうものです。なぜなら人には感情があり理性もあり、そういうものが自分のやりたいことと、本当に本心からやりたいことを入替えてしまったりするからです。

そもそも自分の本心とは何かということを知るというのは人生の一大事であろうと思います。自分の本心が分かり覚悟が決まるなら、迷いも消えて目の前のことに没頭し打ち込んでいくこともできるのでしょう。いや、目の前のことに没頭し打ち込んでいるからこそ自分の本心に出会えるとも言えます。『無になりたいなら頭で考えるな。 目の前のことに没頭さえすれば、 おのずと無になることができる。』と禅の世界では語られます。本心本来の自分自身に出会うというのは無になっていくということなのでしょう。

そして以前、その無の顕現でもある「天命」ということについて神渡良平さんが書いた文章に出会いました。そこにはこうあります。

「天命とは」

現在の仕事を離れて

天から降ってくるものではない

現在の仕事に没頭していれば

自ずから導かれていくのだ

天はそれぞれに

最高の人生を約束している

誰もが持ち味を発揮

できるようになっている

腐ることなく

めげることなく

倦むことなく

努力していこうではないか

自分の仕事に打ち込んでいる人は輝いている(神渡良平)

今の目の前のことに無我夢中に没頭できるというのは”信じている”からに他なりません。この信じているという気持ちは、謙虚で素直な心の在り様です。そして真心を籠めて与えてくださったものを選ばずに全身全霊を懸けて取り組んでいくことで自ずからご縁は導かれて”なるようになっていく”ということのように思います。

そしていつの日か、自分の持ち味が存分に発揮できる日が来るかもしれません。そうやって信じて念じて、信仰のような心持で真摯に没頭している人は周りからみても輝いて観えるのでしょう。独りが輝けば周りもまた輝いてきます、それは天の星々のように満天の宇宙でそれぞれの光を放つ星空のようにです。持ち味のすごさというのは、八百万の神々のようにそれぞれが唯一無二の役割を果たしあういのちになれることです。

つまり天命を知るには、どれだけ真摯に目の前の志事に没頭するかに懸っています。

頭で考えることも大切ですが同時に頭で考えることなどは全体の一部も分かりません、こころのままに、本心のままあるがままに御蔭様御蔭様でと与えてくださったことをさせていただける仕合せと感謝でどんな仕事も取り組むことができるなら人は天を敬いつつ命を天に預けていけるのかもしれません。気づきというものもまた、天に預けているからこそより研ぎ澄まされていくのでしょう。

素直や正直さというのは本心でいることであり天の真心と同じ姿であるということです。

子ども達に天を敬う生き方が譲れるようにあの植物たちや動物たち、虫たちなどの自然な姿から自分の心を静かに見つめ、天と一体になれるように日々を真摯に精進していきたいと思います。

 

地球人財3~一円融合、結和の人~

今回のシンガポール視察で改めて実感するのは、人々の往来のスピードが加速し国と国の国境がいよいよボーダレス化し、多様な人種の接点が急増するとき、世界の一人ひとりが今後どう和して地球全体のために貢献していくかということが問われている気がすることです。

それはアジアのリーダーとしての人財をアジアからどう排出するか、あるいは世界のリーダーをどう自国で育てていくか、そこには人類の未来がかかっているということです。混沌とした夜明け前の人類は今、一つの地球の中で人類の理想の地球人財という徳才を兼ね備えた本物のリーダーたちの出現を待ち望んでいるようにも思います。

先日のIB(国際バカロレア)の教育理念は「多文化に対する理解と尊敬を通じて、平和でより良い世界の実現のために貢献する、探究心、知識、そして思いやりのある若者の育成を目的としています。」 「世界中の児童・生徒に対し、他の人たちをその違いと共に理解し、自分と異なる人々にもそれぞれ理があり得ることが分かる、行動的で、共感する心を持つ生涯学習者となるよう働きかけています。」と書かれます。

その上でグローバルに活躍するリーダー像、つまり世界人財として必要な徳才は「探究する人」「心を開く人」「知識のある人」「思いやりのある人」「考える人」「挑戦する人」「コミュニケーションができる人」「バランスのとれた人」「信念のある人」「振り返りができる人」の10項目を挙げています。

世界に出てみれば多様性や柔軟性はすぐに求められます。しかしこれは世界に出ていなくても常に自己を変化させ順応する力というのはリーダーには必須の徳目だと私は思います。つまりリーダーは、道を切り開き徳を広げていく人物であるということが自明してきます。

正解のない問題に如何に立ち向かっていくか。

21世紀はそれぞれに正解が存在していく時代であるように私は思います。だからこそリーダーは人々をファシリテートできる人物であり、全てのことを善いことへと転じ一円融合することができる”結和”の人であることが大切ではないかと私は思います。

つまり地球に棲むすべてのいのちの心の声に深く耳を傾け、あらゆるものを尊重し共感しつつ思いやり、その存在の価値を認め、その全てを福にしていけるようなリーダーが結和の人ではないかと私は思います。

今、世界が必要としているのは正義を対決させていく力よりも対話により一つの正義に結和できる力ではないかと私は思います。畢竟、グローバル人材というものは人として一人一人が如何に地球人としてのモデルを示すかということに他なりません。

対話を日々に行うことも、実践を常に怠らず高めることもすべてはこの地球人財である自分を自覚するところからはじまります。子ども達はこの先、正解がない世界で白紙から自分で未来を創造していかなければなりません。その手本としての私たち大人の生き方や働き方は必ず子どもに大きな影響を与えていると思います。

自分自身がグローバル人財ではなしに、グローバル人財を育てることなどできません。自分自身が地球人財であるからこそ、はじめて周りを地球人財にしていくことができるのです。

常に自身が世界人財のリーダーの責任者であることを自覚し、そのお手本になれるよう様々な実践に真摯にチャレンジし続け自己変革(イノベーション)を続けていきたいと思います。

 

発酵途上

昨日からタイを経由してカンボジアのプノンペンに来ています。空港に到着し外に出ればすぐに高湿度の蒸し暑さと、外には東南アジアの人々の暮らしの熱気に包まれます。言葉で表現できませんが、会話の雰囲気やバイクのクラクション、路上で集まり交流する姿、ゴミが散乱しその上を高級車が走りと、混沌とした都市部の風土そのものが舞い降りたようなこの雑多に蒸している東南アジアの雰囲気を味わっています。

昔、20年前中国に留学し仕事をしていた頃に似た急発展途上の国家の様相に似ていて懐かしくもあり、この先この国がどのようになるのかも想像し楽しむことができます。今のここの人たちは未来がどうなるか予想できるのでしょうか、もしもこちら側だったらどう見えるのだろうかとまた空想を広げて観るとワクワクするものです。人は常にその心境によって常に自らの新鮮さを保てるのかもしれません。

まだまだ一部を感じるだけですが、国の姿にはその発達と発展が今、どのくらいのところにいるのかを観察することができます。これはライフサイクルとも言いますが、起業期から導入期、成長期、そして成熟期、衰退期、そしてまた起業期というようにまるで種から花が咲き実をつけて枯れるように生物はそのサイクルを免れません。

その生物のサイクルは国家も同じく、そしてそこに暮らす人たちにもまた同じようにその道理に従い自然の一部として生きているのです。そう考えてみると、私たちは生物ですから人間の一生というものや国家、世界の一生というものは如何に発酵するかということにかかっているように思うのです。

この発酵とは何か、辞書には「微生物が自己の酵素で種々の有機物を分解あるいは変化させ,それぞれ特有の最終産物をつくりだす現象をいう。」とあります。

つまり私たちは微生物と何ら変わりがないのですから、如何に発酵していくかで周りの発酵を促す存在になっているのです。そして発酵途上だと今の状態を定義してみればどのような最終産物を発酵サイクルで作り出すかが洞察できるようにも思います。

微生物ならその中でどのような発酵をしているか、乳酸発酵なのか、アルコール発酵なのか、もしくは腐敗なのか、その発酵をどのように司るかで人間もまた国家も変化を已みません。

発展途上の雰囲気は発酵途上に似ています。

発展も発酵も同じく、その風土の中で生きる生物たちの生き方や初心が決めますからどんな風に人々が常に微生物のように栄養を分解しイノベーションしているのか、改めて風土と一緒に観察してみたいと思います。

そして教育はその栄養分、酵母そのものです。

学びというのはご縁であり、どんな化学反応を起こすかはその人の一瞬一瞬の味わう発酵度合いに由るのかもしれません。今回の不思議なご縁もまた、どんな組み合わせで何が起きるのか、偉大な見守りと御蔭様の中です。意味を繋ぎ意味を綴れることに、改めて人のご縁の有難さと不思議さに感謝が湧きます。

今回の視察でもまた、自分の価値観を揺さぶり刷り込みを取り払い、新たな視点でこれからの教育の在り方そのものから見直してみたいと思います。

 

 

未来型とは何か

子ども達の将来に必要な力とは何か、学力についてこれから少し深めてみようと思います。

以前、米デューク大学の研究者であるキャシー・デビッドソン氏が2011年8月、ニューヨークタイムズ紙のインタビューで「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」と言いました。

つまり約15年か16年後には、65%の仕事が新しいものに入れ替わっているというのです。それくらい変化は著しく、常に今までやったことがない仕事が日々に発生し、そして淘汰されていくということです。

そこにはまったく今では想像できもしないような仕事があるはずです。

よく考えてみると、自分が小学生1年生の頃、将来の仕事でどんなことがあるかを思い出すとインターネットもまだ普及していなかったし、携帯電話もありませんでした。他にも今の社会で存在しているような職業もほとんどありませんでした。あの頃、将来どんな仕事につきたいかという夢を画用紙に書かされた記憶がありましたがあれなどは愚問だったと今なら思います。

子どもたちの可能性は、新しい未来に向かって開いています。

だからこそ、未来の教育とはそういう新しいものを認めてあげること、子どもたちがやりたいことを信じてあげること、つまりは子どもを信じ、丸ごと認め、そして子どもがやろうとしていることを見守るといったかかわりが必要なのではないかと私は思うのです。

今、幼児教育では藤森平司先生が「見守る保育」を実践しています。

まさにこの見守る保育そのものが、未来型教育の原型であろうと私は感じるのは子どもを見守るということにおいて何よりも子どもを尊重する教育方法であるからです。

子どもの未来を信じるということは、子どもを見守っていくということです。その見守り方の中には、周りにいる大人たちの生き方が問われます。そして子ども一人ひとりの主体性を如何に発揮させていくかといった、子どもを丸ごと信じて環境を設定するといった智慧が必要です。

年齢は関係なく、これは企業教育でも同じことが言えると私は思います。

未来は、創造と破壊を常に続け変化を已みません。自己改革や自己変革、つまりイノベーションという発達と発展をどう自分との対話、そして周囲との対話によってブラッシュアップしていくか、気づきの連鎖が未来の扉を開く鍵であろうと私は思います。

どう気づき、どう伸ばすか、子ども達には自由に未来を信じられるように見守りを深めていきたいと思います。

生きる力~多様性と柔軟性~

生き物がこの地球で生きるには多様性と柔軟性は欠かせない要素です。自然界を見て観ると、それぞれが異なる特性を活かしながら共に生きています。その上で、環境の変化に応じて自分の方を変化させながら周りの生き物たちと一緒に助け合っています。この当たり前の自然であることをできなくするのが、画一性と真面目ではないかと私は思います。

この2つの要素について今回は少し深めてみたいと思います。

画一性については、そもそも自分は周りと同じであるという勘違いをしてしまうことから発生してくるように思います。例えば、鳥であったとしても地上を走りまわる鳥と、遠くから渡ってくる渡り鳥は同じではありません。そんなことは誰でも知っています。地上を走りまわる鳥に、渡り鳥と同じことをさせても同じことはできません。逆もまた然りです。しかし実際に人間は、画一性で同じものを目指し同じだと信じ込まされているとタイプが異なるにも関わらず同じことをできなければいけないと思い込んでしまいます。これはとても不幸なことで、そもそも飛べない鳥が、遠くまで飛べる鳥だと勘違いしたら自分自身に絶望してしまうかもしれません。

これは鳥で例えていますが、魚に地上をチーターのように走り回れということがおかしいとも思わなくなっているのが画一性の落とし穴です。自分というものを必死に画一にしてきたことで、自分自身の特性が迷走すれば本来の多様性に気づけないかもしれません。チームで何かを取り組むには、自分の得意や持ち味を活かし合わなければなりません。そのためにはまず自分の中にある画一性の刷り込みを取り払うことが第一になるように私は思います。もっとも多様性を知るものこそが、もっとも多様な能力を互いに発見し合い、見出し、それを活かしあうことができるからです。自分らしく生きていてそれが最大限みんなの役に立つことほど仕合せなことはありません。これが自然体です。

もう一つ、真面目についてです。これは本来の真面目の意味である真剣さという意味とは違います。教育や刷り込みによって、頑固に強硬になり、視野が狭くなり融通がきかなくなっているということです。例えば、生き物たちは遊び心があります。こうでなければならないという姿よりも、あるものを活かそうとします。例えば、鳥でいえば托卵といって自分の卵を他の鳥に温めてもらって育てたりします。本来、自分で子育てするものを他の鳥に託して育ててもらうのです。自分の特性が子育てに向いていないと気付いて、それでは得意な鳥に任せようとする発想です。これを人間ならズルいとして間違っていると否定する人もいるでしょうが、これはもともとその種が生き残るために選んだ本能と智慧から来ているものです。

そもそも柔軟性というものは、自分のこうでなければならないといった融通のきかない姿から発生することはありません。自然界では、意固地に自分を持ち続けて変化をしなければ滅びてしまいます。実際の自然界では生き残るために必死で真剣ですから、頑固なプライドなど持っていても仕方ありませんから周りの変化に対して自分をしなやかに変化させていく力があるのです。つまり「自分が自分我」というものをあまり先にしない、それが柔軟性です。

自分が真面目にやっていれば正しいと思い込み、自分さえ真面目であれば問題ないと勘違いして結局は滅んでしまったでは意味がありません。生き残るために真剣であればふざけてもいい、生き残るために真剣であれば遊んでもいいくらいであることが本来の柔軟性を呼び込んでいくように思います。そこは大切なものを守るためなら手段を選ばずに”柳に風”のように”しなやか”でいようとするのが自然の中で生きる智慧のように私は思います。

つまり柔軟性というものは、真剣さの中にある自然のしなやかさといったものです。大切なものが守れるのなら、自分の方法には固執しないということです。結果は天にお任せして最善を盡せとも言ってもいいかもしれません。

これらの2つ、多様性と柔軟性はなぜ必要かといえば厳しい自然社會の中で「生き残る」ためです。生き残る力というのが、私の思う生きる力です。人間自身も国際社会やこれからの未来に向かって生き残り生き延びる「生きる力」をどう育てるか、教育の本義はそこに尽きるように思います。

本来の学力をどう育てていくか、明日から1週間かけてカンボジアとシンガポールへ訪問しますが今一度、未来型教育の原型と見守る保育の本質を自分で整理してみたいと思います。

まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。

死生観~心の赴くままに~

人は本当は誰もが心の赴くままに生きていきたいと願うものです。しかし実際は、数々の刷り込みの中で自分の心を見失い自分の心が一体何かが分からずに迷い惑い悩み、そしてまた心から離れてしまい苦みます。その心が何か、その正体を理解するには深く自分の心を静かに見つめてみないと分かりません。

しかし実際の人生では日々の喧騒に追われ、静かに自分と向き合う時間をなかなか持てないものです。それが病を得たり、死を迎えたりするとき、はじめて自分の心と向き合うことができるようにも思います。

死生観というものがあります。

これはどう生きるのか、どう死ぬのかという心の在り方を見つめる観点です。これは自分の人生をどう死のうかと考え抜けば貫くほどにどう生きようかになってくる、つまりはどのように生きてどのように死ぬかという問いの中に自分の心を見つめられるのです。

この死生観というものは、時間を何に遣うか、その志を何にするかという自分の心との自問自答です。これを持つ人は、その後の人生の遣い方、時間の遣い方が変わってくるように思うのです。時間とは自分の与えられた人生ですから、それをどれだけ真剣に真摯に生きるかはその死生観が基本になっているかが左右するように思います。

吉田松陰が弟子に与えた有名な詩があります。

「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ」

私はこの詩を讀むとき、どうしても心に繋る言葉があります。それが「君たちはどうかいたずらに時を過ごさないように」という言葉です。

これはきっと吉田松陰が自分自身に常に言い聞かせた言葉だったのではないかと感じます。人生は短い、忙しさを理由にして自分の人生を無駄にはしないでほしいという願いでもあったのでしょう。

吉田松陰の遺書には、「人生には誰にも四季が備わっている」と書かれました。ここにも死生観が観てとれますし、また「生死は度外視してやりたいことをやりなさい」とも言いました。

純粋さというものは、如何に自らの心を静かに向き合い、その心を透明にし心の赴くままに透徹に生きることではないかとも思います。素直さや謙虚さというものは、自分の心に近づくための大切な人生修行実践目録の要諦のようです。

忙しさを理由にせず、言い訳を当然にせず、自分の決心した「志」に生きることが人生の仕合せ、出会いやご縁、そして「思い」に死ぬことかもしれません。志を持ちなさいといった吉田松陰の言葉を胸に、真心のままにかんながらの道を精進していきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい