真の最強~じゃんけんの法理~

自然界は、ありとあらゆるものがそれぞれの持ち味を活かして他と共生し生きています。人間はよくスーパー○○というように、完璧を求めては最強であることを目指したりします。何でも自分でできるようになろうとしては完璧と求めて最強になった時には一人ぼっちになったでは、その目的が倖せから遠ざかってしまうかもしれません。

例えば自然界には、必ず勝者と敗者という関係が存在します。必ず天敵が発生し、その天敵に負けることでバランスを維持していきます。それはまるで拳遊びの「じゃんけん」のようなものです。

この「じゃんけん」は、近代になってから発明されたそうですが、拳を石と鋏と紙の三種類を見立てて行う遊びです。グー・チョキ・パーでその時出したもので勝った負けたを楽しむものですが、当然ですがグーとチョキのみならば常にチョキは負けてしまいグーは勝ちます。相対のものだけでは常に勝者、常に敗者になります。もしも全てに勝つような絶対的勝者を作ってみたとしたらどうでしょうか、それは結局は勝者と全ての敗者のみの関係になるでしょう。絶対的勝者は今の人間(自我)が目指している究極の姿のようにもみえ、協力(助け合い)とはまるで反対の方に進んでいるようにも感じます。

本来、自然は「協力」(助け合い)をするように多様化していくものです。一つのものだけになれば、生き物たちは助け合えなくなるから多様化します。そこにはこの「じゃんけん」の理のような法理がハタラキ、御互いの持ち味を活かしあうことである時はグーが頑張り、ある時はチョキで対応し、またある時はパーで乗り越えるように、様々な者たちがお互いの徳性を活かしあってこの地球上を共に生き抜いてきたとも言えます。

自分か相手かになれば、敵味方になりますが本来の自然はみんなが味方だという考え方に根差しているように私には思うのです。それは昆虫だけではなく、樹木、または動物たちにいたっても御互いが「じゃんけん」しながら遊び、この時は何でいこうかと互いの持ち味を認め合って伸ばしあっていくのです。

人間が最強であると錯覚すれば、もしも天変地異で自然界が破綻するとき私たちは本当に最強だとその時でも思えるのでしょうか?宇宙にいけば、結局は星々に今の地球の生物たちを選択して持っていくしかなく、しかしそれでも適応の変化に耐えられず必死に種類や数を増やそうとするはずです。それは自明するはずなのに、なぜ今のように絶滅していくものをそのままにするのかは人類の滅亡を早める気がしてなりません。

本来の多様性は、自他を丸ごと認め持ち味を活かし、その持ち味によって助け合う時に最大限に効果を発揮します。こんな時は誰、こんな時は何と、まるでじゃんけんのようにみんなが役割を出し合っていけば、本来の「最強」の真実が確信できるように思います。

組織の本来の「強み」とは一体何か、その強みを活かすとは一体何か、そして「弱み」とは本当は何か、自然界から照らしてみて本来の姿を確認していきたいと思います。自然は全てを物語りますが、じゃんけんを産み出した発明者のような技術を開発し、子どもたちにその智慧と工夫を譲っていきたいと思います。

自然の姿~自分らしさ~

人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。

自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。

自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。

本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。

自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。

自分らしさというものは、自然の姿です。

その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。

教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。

自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。

動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。

しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。

それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。

これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。

あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。

成長の本質~自然に伸びる素直な心~

松下幸之助さんの遺した言葉の中に、『成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になろうとしなさい』があります。価値のある人間になるというのは、その人らしい人になるということです。そしてその人の価値を高めるために「仕事」はあります。仕事は人生のリハビリであるということを言っていた人もいましたが、確かに仕事がその人の役割を育ててくれますから自分の生き方を素直にしていくリハビリになるように思います。

その「仕事」に対して松下幸之助さんはこう言います。

『仕事をするに当たって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。』

これは自分の考え方を、その心のスタンスを決めるということであろうと思います。仕事に対してどのような意識を持っているか、自分の持つ仕事に対しての信念といってもいいのかもしれません。つまりものの考え方を決めなさいと言います。その著書「道をひらく」(PHP)の中でこう解釈されています。

『どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているものでなければ、その仕事は成り立つものではない。人々が手軽に街で靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないだろう。だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。』

そしてこう締めくくります。

『大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。お互いに自分の仕事の意義を忘れたくないものである。』

この「仕事」のスタンスが、心を磨き、ものを成長させた考え方ということなのでしょう。つまり世の中(周りの方々)からやらせてもらっているという意識に変わっているというのです。

自分の仕事の意義というものは、意識していようがしていまいがその仕事に出てくるものです。その人がどのような仕事をするのかを観ては周りの人はその人を判断していきます、その仕事に懸けるその人の意識は確実に仕事ににじみ出て顕れます。だからこそ、謙虚に誠実に常に周りの求めに自分らしく精いっぱいこたえることがお互いに一緒に仕事をしていく価値であり意義になると私は思います。

人は考え方が成長することが自分が変わることであり、そうやって自分の生き方のスタンスの質が高まるからこそ自ずから結果もまたついてくるように思います。

自分でやりたいことを決める前に、与えられた仕事を真摯に真剣に取り組ませていただき、周りから信頼されるような価値のある人間になることが自然に自分を伸ばしていくことになるように思います。

自然に伸ばすとは素直な心です。素直ではない心の時、人は必ず行き詰ります。できないことを求めてはできることをやらないのでは、結局はその人の価値観を周りに強要するだけで周りにとって価値のある自分には近づかないように思います。

こうでなければならないという成功者のイメージを持つよりももっと価値のある人間になろうとする素直な心を持つ方が仕事も自分も「自然に伸ばしていく」ということなのでしょう。素直な心を持ったなら、誰のせいにもせずに言い訳もせずに自分に矢印を向けて自分の価値を自分で決めず周りにとっての価値に変えていけるように思います。自分自身にそういう素直な心が土台に入っているか、常に確認していくことが成長(伸びる)を確かめることにもなると思います。

子どもたちがだれもが自分らしい自分で、周りの役に立つ価値のある人間であると実感できるように常に求められたことにこたえられる自然に伸びる素直な心で変化し続け、精進していきたいと思います。

 

相乗効果(シナジー)の価値

相乗効果(シナジー)というものがあります。これは二つ以上の要因が同時に働いて、個々の要因がもたらす以上の結果を生じることを言います。

全ての出来事を振り返ると、効果というのは常に一つ以上の要因が重なり合って発揮されているように思います。人々がもしも大きな目的に挑戦するとき、誰にも頼らずに自分だけできるものなど存在しないと諦めることができるなら、同時に自分が相乗効果のためにベストを盡せばいいと覚悟を決められますが刷り込みが深く個別の成果は意識していても、相乗効果に対しては意識がいかないものです。

「7つの習慣」の著書、スティーブン・R・コヴィー氏は、相乗効果についてこう語ります。

「相乗効果は人生において最も崇高な活動である。残りの習慣すべてが身についているかどうかのテストであり、またその目的である」

つまり自分の習慣は、自分自身の実践がどれだけ全体の効果を発揮させたかをみることだと言います。自分だけは自分らしい実践を怠っても問題ないだろうという意識というのは、相乗効果の真価に気づいていないのかもしれません。

例えば、何かの仕事は一人でやった方が早いと思っている人がいます。もちろんそういう仕事もありますが、実際は自分の思い通りに進められない、他人と進めるのは面倒だといっては協力したくないから自分だけで全部処理していこうとします。しかしその時、肝心な視点が外れていることに気づきます。

それが相乗効果(シナジー)の価値です。

一人では相乗効果(シナジー)は生まれず、二人以上でそれぞれの個性を発揮して目的に対して助け合い協力し一緒に何かを行う時、自分の想像を超えるような効果を目のあたりにするものです。

自分だけではできなかったことが、誰かの協力によってできるという実感。それは例えば、離れていても心を寄せてくれる信頼できる人の見守りを感じているときや、仲間が勇気を出して諦めずに挑戦する背中を感じた時、そういう無形のものでさえ自分のモチベーションを高めてくれたり、信じる力を集めてくれたりと様々な相乗効果(シナジー)を発揮してくれるのです。協力の楽しみや協力の有難さ、協力の真価を知れば如何に相乗効果が素晴らしいかに気づけます。

そしてそれは常に「一緒」であること、助け合おうとする心、それぞれが自分の決めた実践(習慣)をそれぞれが確実に守ることで役割を果たす時に相乗効果(シナジー)は高潮するように思うのです。

仲間がいるということや、チームで取り組むということは、一見、みんなで同じことをしていることのように勘違いしている人がいます。しかし本来は、一人ひとりみんながそれぞれの個性を存分に発揮してそれぞれが全体のためにできることを全身全霊で実践するのを怠らない時にこそ期待以上の成果を全体に及ぼしているのです。

常に視点は自分だけのことを考えるのではなく、自分の実践がどれだけみんなの力になっているか、自分の習慣がどれだけみんなの効果につながっているのかの自覚を大切にして、皆の守りたい理念や優先したい目的に協力していこうとすることが自分の全体の中での役割を知る近道なのかもしれません。

同じことをするのは一緒ではなく、バラバラでも一緒であることはあるのです。それぞれが自分らしく協力する実践を一緒にしていればそれはバラバラでも一心同体です。一心同体になったとき、相乗効果(シナジー)は奇跡を呼び込み、一人ひとりの役割を明確にし、人と人の絆、そして人間であることの幸せを感じられます。

子ども達の未来のためにも、一人の力云々よりも、相乗効果(シナジー)の一員であることに誇りが持てるような社會を実践人になって創造していきたいと思います。

実践人~背中で語る~

人はその人の生き方の覚悟が人生の密度を決めているように思います。どんな一日であったにせよ、一日は全ての人々にとって平等な一日です。朝陽を拝み、夕陽を拝めば一日が暮れたことを覚えるものです。その一日をどのように過ごしたか、何を感じて何に気づいたかはその人の学び方、つまりは生き方によって影響をされていきます。大事なことは、その心に何を持っているか、どんな志があるかということになってくるように思います。

生き方を学び、人々にその背中を見せた人物に教育者の森信三先生がいます。教育者というものは、実践人のモデルであるということですが単に生きるのではなく、本気で生きたという姿から私たちは学び直すことばかりです。

「一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です。 」

一日一生、言葉は知っていてもどのように真に充実したかはその人にしかわかりません。どのような人生を送ろうかと憧れたなら、気づき学ぶ力を発揮して体験を深めて味わい盡すように攻勢をかけ続ける実践が必要です。

そしてそうやって歩んでいると、出会いがあることを発見します。常に「何かある」と感じる感性は、その物語や出来事に対して主体的に意味を紡ぎ出していきます。それはご縁の奇妙さ、ご縁の有難さ、ご縁の御蔭様に気づくからです。

「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。 」

ご縁とは不思議なもので、何も感じる気がなければ目の前に自分の人生に偉大な影響を与えるかもしれなかった人とも出会う事はありません。ご縁は自分の感性次第、自分の心次第で、いくらでも変化します。

自分自身が、何からも学ぼうと選ばずに来たものを感謝で受け取っているかということは人生全体においてとても大きな影響を与えるように思います。チャンスが来ても気づかない人、チャンスがあっても掴まない人、チャンスかどうかわからなくても自分から掴む人。人は、その人の積極的な姿勢が日々の充実さを決めるのかもしれません。人間は脳で消極的でネガティブなことを考えてしまうものです、危険予測のために体験のイメージを危険を予測するために持とうとします。確かに、それらは自分のいのちを守るために働きますから必要です。しかし、実際の人生ではだからとって消極的でいたらチャンスや気づきにも鈍くなってしまいます。自分の気づきたいものしか気づかない、自分がチャンスと思うことしか掴まないではそのご縁の尊さに気づけなくなるかもしれません。

「人生二度なしという真理ほど、われわれ人間をして人生の深刻さに目覚めさせる真理は、ほかに絶無と申してよいでしょう。 」

人生は一度きり、日々は一期一会、出会いは一日一生、今此処にどれだけ精魂を篭めているかはその人の積極的な学問と学力に懸っています。何のせいにもせずに、唯却下の実践をするということの大切さを感じます。安心する言葉をたくさん残してくださった森信三先生には感謝しかありません。

「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。 」

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ。 」

先生とは常に実践する存在であることです、いつまでも応援してくださるその愛情深い背中で語る思いやりの言葉を心に抱き、子ども達に背中で感じてもらえるような一人の実践人を志していきたいと思います。

 

徳を尊ぶ

人間に限らず、全ての生き物には何かしらの長所があります。生命というものはそれぞれに自分の得意を伸ばして生き延びてきたとも言えます。自分の得意分野を伸ばしていけばそれが自分が生きていく上での最良の戦略となるのです。

しかし同時に良いだけかといえば、そこには不得意も発生します。その不得意が出ることを気にしていたら何かをするたびに気になって得意を伸ばすことができなくなります。それに自分は得意のそれしかないと覚悟を決めている人であれば諦めもつくのでしょうが他にも得意がいくつもあると思っているから色々と不得意が気になるのでしょう。

老子に「その長ずる所を尊び、その短なる所を忘る。」があります。

この不得意であることを忘れてしまうという言葉はとても意味があるように思います。また、その得意であることを尊ぶということにも重要な観点があるように思います。

自分が天から与えていただいた徳はこれであったとそれをどれだけ自分が尊重しているか、そしてそれが何よりも尊いからこそ他のことを忘れることができるか。そこに本来の強みを活かし自分を役立てる工夫があるように思います。

何でも得意になっているうちに得意がなくなったり、不得意をなくそうと努力しているうちに得意がなくなったでは本末転倒です。得意を見極めるためには、周りの得意を観続ける実践が必要です。そして同時に周りの長所を尊ぶ実力も必要のように思います。

老子の「足るを知る」も同じく、ないものねだりはやめてあるものを如何に活かすかが徳を伸ばし自分を役立てる真髄なのかもしれません。自分の都合が入れば入るほどに短所を視たり、悪いところに見えたりしていきますが本来のあるがままのそれぞれの徳性を重んじていけるような自然体な内観力を磨いていきたいと思います。

 

語る

人は人に「語る」ことで自分の伝えたいことを伝えることができます。この語るというのは、単に説明ができるというものではありません。この語るというのは、自分の「思い」を自分らしく語れるということです。誰かの借り物の言葉で話をするのではなく、それを自分の言葉で自分らしく語るときはじめて語れるように思います。

例えば、自分というものを語るとき、自分がどういう人間で何をしたいのかということを他人に伝えます。自分が今、なぜこれをやっているのか、なぜ今の会社にいるのか、そしてどうしてこれをやり遂げたいのかというのを相手に語ります。その際に、自分の生い立ちや人生体験、気付いたことを自分なりに自分の言葉にできれば「語る」ことになります。

ここでの語るは、「体験し気づいた思いを自分らしく伝える」ということです。

本来、語ることができるというのはその人にしかできなかった体験を誰かに伝えることではじめてその体験が自分以外の誰かと共有できるものになったとなります。人が人に伝える意味というものは、自分がした無二の体験をどれだけ周りと一緒に共有しようとするか、大切な気づきや大事な学びを分かち合おうとすることです。

そしてそこで語られることがもし夢があるものであれば、人々はその夢を信じるようにも思います。その人の夢が語られるとき、そしてその夢を信じるとき、御互いがはじめて本心で語り合うことができるようにも思います。

その人が語れるのはそれだけ人生の体験を意味づけし、その体験に感激し味わって自分の言葉で語れるからです。すごいなぁと感動したことや、これは本物だ!と心が揺さぶられたり、解決はこれだ!と魂が揺さぶられたりした、心の衝動や感動、感情も全て含めて納得した自分の答えがあるからこそそれを語れるのです。

自分の人生体験を体験するのは自分が体験しようと強く体験を求めていかなければ体験できません。誰かの体験を教えてもらってなんとなく疑似体験を空想でコピーしてみても、それはその人らしい体験をしたわけではありません。その人の体験に憧れるからこそ、自分も同じような体験がしてみたくなるのです。またその人にしかできない体験だと感じるからこそ、その人の有難い体験を分かち合える仕合せを感じることができるのです。

相手の気づきの深さが分かるようになり、それを語れるようになるには長い時間がかかります。相手と同じ実践を味わい、相手が気づき悟った内容と同じ次元で物事を理解するというのはご縁がなすことのようにも私は思います。

多くの人に夢を語りながら、その体験を自分もやってみたいと思われるような夢を育てて伝えていきたいと思います。

自分に正直~自他信頼の境地~

先日、自分との信頼関係の築き方が他人との信頼関係の築き方であるという話をお聴きする機会がありました。つまりは自己信頼=他己信頼といことなのでしょう。これを少し深めてみたいと思います。

たとえば、「他人のせいにする」という生き方があります。これは何かの事物があったとき、すぐに環境のせいとか、誰かのせいとか、忙しさのせいにします。これは幼少期から沁み付いてしまうもので、叱られて嘘をついたり上手くいかないときに言い訳をしたりしているうちに次第に甘えが入り自己形成に沁み付いてしまうのかもしれません。そしてこの「他人のせいにする」に落とし穴があるのは、他人のせいにはしないと自分で思っている人でも「自分のせいにする」ということも「自他のせい」は変わりませんから結局は同じ甘えに陥ってしまうことです。

自分への甘えが入ってくると斜めに物事をみてしまい、何を直せばいいかが分からなくなります。素直になれないと物事の実相は正しく顕れず、そのことから迷い惑い自分を見失ってしまいます。そういう時は一度立ち止まって、自分は今、正直かどうか、誰のせいにもしていないかと自分を見つめ直す必要があるように思います。

この「自分に正直」というのは、誰のせいにもしないということでありそれはお互い様なのだからお互いに素直に実践を積み重ねましょうという境地です。そして自分に正直であるというのは自己信頼にとって何よりも影響を与えます。自分というものをどれだけ丸ごと認め、自分を信じて実践を続けるか、そこには心が決めた覚悟に対してその自分の努力を肯定しています。誰のせいにもしないというのは、自分が甘えなければいいということであり、直すのは自分自身であると常に自己発奮し自助努力する心の態度を優先するということです。

人は誰もが目標に挑む際には、みんなそれぞれに足りない中でも必死に努力しているものです。そういう仲間や師友にめぐり会えることは稀ですがもしも得ているのならみんな自他一体の克己の勝負をそれぞれに続けているものです。誰かのどうこうではなく、自分はどうありたいかということを何よりも重んじ、自分がそうなっていくことに余念なく精進します。これが道であり、道は自分の足で歩むからこそ前進している実感があるのです。

自分の思い通りにいかないことを他人のせいにしたくはなりますが、しかし思い通りにいかないからこそ思った以上のご縁に出会える。そしてそこにはやはり自分を甘やかさない自己信頼があって同じように他人に対しても甘やかさない他己信頼があるように思います。ご縁に気づく感性というものも、この自分に正直である人でなければなかなか磨かれないように私は思います。

つまりは「自分に正直」であることこそが、何よりも「自他信頼の境地」でありそれは天に対しても誠であるという真心の実践者のことです。まさに孟子にある「仰いで天に愧じず、俯して人にはじざるは二の楽しみなり。」の嘘のない楽しい人生道場です。

自分の決めた自分の在り方に対して嘘をついたり誤魔化したり言い訳したりしないでいいように、初心で決めた実践を感謝で愉しみつつ、日々を精進していきたいと思います。

独りと仲間の合一

人間は一人ではできないことを仲間と協力してできるようになります。自分一人でできることなどは実際にはほとんどなく、多くの人たちの力をお借りしてはじめて事は為されていきます。人は傲慢や慢心になるとき、焦りが生まれそして役に立つということの本質を忘れてしまいます。感謝の心があるからこそ人は自分が何の役に立っているかを自覚し、御蔭様の心を知るからこそ素直に自分が役に立てていることの倖せを実感できるようにも思います。

人は自分と向き合い自分に打ち克つ孤独な精進を積み重ねていかなければ、結局は矛盾を受け容れられず刷り込みに負けてしまいます。本来の焦りや慢心とは、自己との対話や自己への内省といった本質からブレナイ実践を猛特訓して本来の自己や自信を確立していくしかありません。本当は何かと自ら深めているからこそ、ものの本質を見抜き見通し心が強くなり自分を強くしていくことができるのです。そこには自己への甘えを断つ必要があり、自分を自分で甘やかさないとった自律と自立の精神が必要です。根性もここが必要で根気をもって日々に実践をしていき、不満なら実践を高めて厚くし増やしていけばそのうちその人格が磨かれていくように思います。

しかし今度は仲間との信頼関係は、敢えて甘え合える関係を築けなければなりません。自分からどれだけ胸襟を開き、心をオープンにして、共感し、気遣い、他人ごとにせずに、絆やつながりを切らさないように助け合い、信じて、預けて、任されて、頼まれて、認められ、愛されて、感謝されるような関係を創造し築き続けなければなりません。それは仲間を心から信頼し、心から仲間に信頼されるといった絆を結ぶ心が必要になります。本来の思いやりもここで必要で、思いをもった人たちと一緒だからこそ、仲間の「思い」を大切に思いやり続けて真心で自分のもっとも得意なところや持ち味を最大限活用して貢献していくことに集中することでその人格が周りに認められていきます。

そもそも感謝の心というのは、猛特訓できる仕合せ、仲間がいる仕合せを感じているものです。自分が道に入り、道を歩けるのは果たしてだれの御蔭なのか、そして道を独立自尊して歩み続けつつも、そこに学問を朋にする同志が一緒に歩んでくださることも、それは本当に有難いことであると思います。

何を見失うから当たり前のことが観得なくなるのか、それは足るを知らず、ないものねだりをしては完璧を目指し評価ばかりを気にするから自信がなくなるのです。本来は足るを知り、自分に与えられた天分をどれだけ周囲に役立てているかは自分が自他をどれだけ自ら尊敬しているかに由るのです。

子どもに譲ろうとしている生き方と働き方があるからこそここに一切の妥協があってはならないと思います。譲っていく真心は、己を忘れ周りのために真心を盡すことで子々孫々へとその「思い」が継承されていくように思います。

日々に何を優先しているかはその人の生き方や働き方に出てきます。自分の生き方や働き方を日々に内省してチェックし、改善を続けてもっとも至善な生き方、もっとも自然な働き方にチャレンジしていきたいと思います。

負けない強さの本質~信託感謝~

先日、ブログのコメントで「負けない強さ」を教えていただきました。

『「負けずに生きていく強さ」が必要です。この「負けない強さ」というものも重要な強さではないかと思います。「打たれ強い」「辛抱強い」「我慢強い」「粘り強い」「根気強い」という言葉もありますが、何があっても「志を貫く強さ」が欲しいものです。仲間と励まし合って「倒れても倒れてもまた立ち上がる」そんな「何度でも戦える強さ」を持ちたいと思います。』

とありました。まさにこれらはチーム戦で使われる「仲間と励まし合う」言葉で、一人は皆のために、皆は一人のためにと協力しているときにこそ人は真の強さを持つのではないかと私は思います。

自分に自信があるとかないとか、自分は強いとか弱いとか、それぞれ個人のそれは比較対象の中で自分で認識しているものです。誰と比べて自信があるのか、誰と比べて勝負するのか、それはその人の我と評価から出ていることがほとんどです。

先日、ある仕事をする中で仲間の有難さと尊敬を感じた一面があります。

その人は、お客様のためにはどうやればもっとも善いかだけの判断で行動するのです。私のこともなんの躊躇いもなく活用し、お客様の倖せを信じて最善を盡すのです。自分の力があるとかないとかは別に関係がなく、常にゼロベースで仲間を信頼して新しいことに挑戦するのです。

そのエネルギーは、新しいアイデアや創造性、そして応援や勇気を仲間にもたらします。私自身もその行動する背中を見守りながら、自分が何をなすべきかが自明するのです。自分の強さなどは関係がなく、理想や理念のために仲間を信頼して大切な”みんなの思い”を守るのです。その唯一無二の仲間と一緒に取り組む倖せ、その最幸のチームとの一期一会、まさにこれが「負けない強さ」の本質ではないかと思うのです。

自分だけでやっていると思うのではなく、仲間がそこまでつないでくれたネガイがあることや、仲間が自分を信じて助けてくれたオモイがあること、仲間がいるというアンシンや、仲間とともに歩んでいるんだというココロがあるからこそ真の強さが持てるのです。

この真の強さがないものは、何かがあるとすぐに勝負の前に力尽きてしまいます。本来の勝ちたいというものも、何があっても勝ちたいという貪欲さからくるものです。しかしこれも仲間と守りたいものがあるから託されて負けるわけにはいかないから勝ちたいのです。もちろん自分一人、己に打ち克つ孤独も必要ですが、理念や目標を同じくする仲間があるからこそ信頼ができます。仲間との絆は甘えや弱さと勘違いされますが、信じて任されたという責任、その信託は厳しいものなのです。

背景に持っているものや背中に背負っているものが大きければ大きいほどにその人は負けるわけにはいきません。そして対するものが大きければ大きいほど自分だけでは乗り越えられないものです、つまりなにがなんでもと必死です。だからこそ人類はみんなで手をつなぎ、心を一つにして「仲間の信頼」という絆によって力を繋ぎ合せて一緒に負けない強さを持ったのではないかと思います。

仲間を信頼するものは逆境をバネにさらに強くなり成長して負けくなってきます。疑いこそが自分だけの力に固執し、信じることで我執を手放せます。信を中心にするチームは、いつも愛に溢れます。任せた、託した、命じた、これらの運命共同体の信託はチームの絆の証でもあり結束です。

人間はいつも極限の中で新しい自分に出会い今の自分を刷新していきます。その時に仲間の信託と仲間への感謝が基盤にあることは自分を一回りも二回りも偉大に成長させるうえで何よりも重要なことではないかと思うのです。結束なく戦うものはとても弱いように思います、なぜなら「結束」こそが人類が手にした自然の叡智であり力の源だからです。

この「信託感謝の強さ」を御縁を活かし丸ごと磨いていきたいと思います。