多生の縁~志事と仕合せ~

自他一体の話をブログでも書いてきました。これは自分と人とを分けないということですが、もっと卑近なところでどのように訓練をするのかを書いてみようと思います。

そもそも自他一体である必要がある理由は、他人ごとにすることで様々な問題が起きるからです。

仕事でもなんでもそうですが自分の事とは思わず他人ごととして相談にのってもその人が助かるアドバイスができません。それはその問題の本質を自分のものとして捉えていないからです。つまりは自分のものではない仕事は、そのまま仕事ではないということです。

先日テレビ番組でカラオケで得点を競うものの中で、ある人の歌が他人の歌を自分のものにしていたという解説がありました。あれと同じく、誰かの歌をただ歌っているだけでは心に響くものはありません。誰かの歌を自分の歌にしてはじめて周りにその歌の本質を自分なりに伝え感動させることができるのです。

言葉も同じです。

他人の言葉をいくらなぞって象ってそのまま伝えてみてもそれは相手には響きません。他人の言葉で感動しても、その言葉を自分のものとしてはじめて相手はその言葉に感動するのです。

これは先ほど自他一体に近い話で、仕事は全てにおいて「自分のもの」にしていく必要があります。いくら頭で理解してもそれが「他人のもの」になったままでは仕事にはならないからです。

先ほどの歌の事例ならば納得するまで徹底して共感して歌いこんでその歌の本質をもとの歌者の心を掴み納得するなどの過程があるのです。仕事でも同じく、本来の仕事の意味や定義を納得するまでやり込んでいないと決して本来の仕事にはならないのです。

如何にどんな出来事も仕事も「自分のもの」として捉えるか、それが分けないということなのです。これは自分には関係ないからと分けると、その分けたところが他人のものになっていくところです。

どんな出来事も自分には必要な尊いご縁しか発生しないのが人生です。いくら関係ないとめんどくさがっても事実、そのことが自分の人生に多大な影響を与えているのはすぐに時間が経てば自明します。だからこそ、他人ごととは思わずすべてを自分事にし、目の前の人の問題はまるで自分の問題そのものだと親身に親切になりきってこそ自他一体になったと言えると思います。

心が成熟して技術も精神も練り上がっていくと、人は次第に自他一体になっていきます。つまりはご縁の活かし方に長けてくるということです。人はご縁によって教え教えられ成長しますから一期一会の御縁をどれだけ大切にしているかが何よりも重要なのです。

全ての御縁を「自分のもの」にしていくのが、すべての御縁を「他生(多生)の縁」にしていくことです。如何に日々の生活の中で絆を大切に生きていくかは、全てのことを志事だと真摯に訪れた機会を最大限活かすことです。

自分の都合で物事を捉えずに、常にゼロベースで意味を感じ取り他人の仕合せを自分に仕合せにして歩んでいきたいと思います。

助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

生き方のリハビリ

仕事にはリハビリの効果があると言われます。これは単にリハビリの仕事のことを言っているのではなく、生き方をリハビリできるという意味です。

今までどのように生きてきたか、その人の生き方は仕事だけではなく日常のすべてに表れてきます。これを個性だとか思い込んで変わることを避けている人もいますが、実際は個性ではなく生き方の問題なのです。

生き方とは、自分がどのように今まで生きてきたか、そしてこれからどのように生きて生きたいかです。私たちの会社では信念の種というものによってその自分の目指す目標をはっきりと定義して仕事に取り組むようにしています。

そしてその時の仕事とは何か、それは単に結果だけ合わせればいいわけではなく生き方に合わせていくものなのです。つまりは、仕事=生き方、生き方は働き方ということです。これを一致させていくとき、それは本当の志事になります。

そもそもリハビリというものは、本人が直したいと思ったときにはじめて行えるものです。これは先日、あるリハビリ師の方にお聴きしたのですがいくら優秀で有能なリハビリ師がいたにせよ本人が直そうと本気で思わないのならなかなか直らないといいました。

本人自ら主体性を発揮して直そうとしない限り、どんなに善い師匠が傍にいたにせよそれでは直らないという意味なのでしょう。本人が心底直したいと反省し改心し改善するとき、リハビリ(本来あるべき姿)に回帰することができるのです。

今まで歪んだきた人生をもとのあるべき姿に戻すには自堕落した部分を訓練により立て直す必要があります。その立て直すのに最も効果があるのが仕事ということです。

その仕事の仕方そのものを本来のあるべき姿に戻す時、本来の自分自身の姿、もっとも自然体で世の中の人たちに役に立つ自分が顕現します。つまり自分自身でいるままがもっとも全体に貢献できる姿になるということです。

それを実現するためにもコーチがいます。会社でいえば寄り添ってくれて真心で心配し見守ってくれる仲間であったり上司です。そういう人たちの話を素直に聴いて如何に仕事によって本来の姿に到達するか、私は理念によってそれは行われるものだという信念がありますがそういう機会を日々に得られていると思うだけで感謝になると思います。

感謝を御恩返しするのは仕事によって実現します。決して仕事はやらされるものではなく、させられるものではない、それは自分自身を常に直すためにある。だからこそもっと質を高めよう、もっと自分自身になれるように精進しようとするのが最初の心構えと心がけなのかもしれません。

心を入れてはじめて精進ですから、常に日々に改心改善を続けていきたいと思います。

謹厳実直

先日、映画俳優の高倉健さんがお亡くなりになりました。筑豊の中間出身で、以前取引があった保育園で園長から保育園に通っていた小さいころのことなどをお聴きしたことがあります。その園には高倉健さんからの色紙がありそれが玄関に大切に飾ってあったのが印象的でした。

座右の言葉が「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」というものだったそうです。この言葉は天台宗・比叡山延暦寺の大阿闍梨、酒井雄哉氏から贈られたもので一生大切にしたそうです。

この言葉は『大無量寿経』の中に記された阿弥陀仏の言葉の引用とあります。それは「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」という言葉です。(たとえどんな苦毒の中にあっても、すべての人を救い切る「南無阿弥陀仏」を実践しそれが成就するまではどんなことがあっても決して精進をやめない、そしてどんなに苦労しようと私は悔いはない」という意味になります。

とても素敵な言葉です。

そしてこの言葉を実践して生き切った余韻や香りが、故人の生き方から観えてきます。人はどのようなことをしたかではなく、どのように生きたかが亡くなってみてはじめて観えてくるように思います。

人が偉大だと実感するのは、どうしたかではなくどうあったかということです。

自分の信念を掲げ、一生精進して歩んだ人の道や背中には何を大切にしていくべきかという偉大なメッセージが入っているように思います。常に後を続く者たちの模範であること、常に後に続いてくる者たちのために生きること。

道を続いてくる後人のために自分の生を譲り生き切るという生き方は、今の時代のように自分の人生のことだけに囚われてあるものを使い尽くそうという中で、高倉健さんの生涯は不器用ですが実直で正直な生き方ではないかと改めて感じ入るものがありました。

まさに「謹厳実直」という生き方を教えていただいた気がします。

同じ時代に生きている方の御縁を大切にしていきたいと思います。

刷り込みを取り除く目~本質を味わう~

人は目を用いて物事を見ようとします、人は情報の80パーセントを目だけで得ているともいわれます。しかし実際の現実はとても目だけではすべてを見ることはできません。その目には観えないものは他の感覚で掴んでいきますが、今の時代は目だけを集中して酷使し目で何でもすべて理解しようとしているように思います。

科学的にも目と脳の神経の距離が近いため一番脳に影響を与えているともいいます。つまりは目は脳そのものとも言えます。たとえば、食べ物を食べる際にも好き嫌いとかもありますがだいたい思い込みで食べていることがあります。きっとこんな味だろうと思い込んでは、その味を脳で想像しながら食べるのです。

特に今の時代は、ファーストフードが流行っていますから見た目の味と同じ味であることを重んじます。毎回、新しい味を食べるのではなくきっとこんな味だろうと思っていることに安心するのです。もしも食べてまったく思い込んでいるものと違うのなら不安で食べないかもしれません。

以前、暗闇の中で食べるレストランの話を聴きましたが目が使えない状況になると何を食べているのかが最初はわからないのです。時間がたつと味覚が戻ってきて味が分かるようになります。他にも見た目はトマトのように赤く色を付けたスープを出しても、中身の味はキューリにしたりと変えると最初はトマトと思い込んでしまっているからキューリだとはすぐに気付けなくなります。

これなども一種の思い込みで食べているということです。言い換えれば見た目のところで判断してそのものの本質を味わおうとはしていないということです。

こういうことは日常的に行われていると思います。相手を思い込みで判断したり、他人の話をちゃんと聞かず自分の刷り込みで聴いていなかったり、見た目のところで理解しては本質を掘り下げず深めなかったりと、結局は目と脳しか使っていないのです。

本来、そのものの中にはすべてにおいて本質というものがあります。これは一体何なのか?本当は何か?といった、そのものの本質を聴きもらさず味わい盡そうといった求道精神のような学問の姿勢というものがあります。

何を学ぶのかの定義が、知識であれば本質までは必要ないのかもしれませんがもしも学びの定義が思いやりや真心を学ぶのであれば本質でなければ意味がありません。

如何にそのものの本質を見抜く力をつけるかは、見た目や思い込みといった刷り込みを自分自身が常に取り除く精進をしてこそできるように私は思います。刷り込みがあることも忘れ、思い込みで見ていることも思い出さず、自分の価値観にも捉われているようであれば、見ても観えず、聞いても聴こえず、食べても味わうことなく、触れても感じない、臭っても嗅ごうともしないことと同じなのです。

自分自身が本質である理由は、外界からの歪んだ洗脳に負けないように真実を知る覚悟と真実でいる勇気があってはじめてできるのかもしれません。そしてそれは世界の問題を自分の問題だと捉える大きな観点があってできるようにも思います。

日々に本質の中にある味を見極められるように、騙されてしまっている脳を騙しつつ体験を味わい盡していきたいと思います。

 

 

楽問~性格スキル~

昨日、保育環境セミナーにて藤森平司先生の講演を拝聴しました。

将来、大人になるにおいてもっとも幼児期に伸ばしたい力とは性格であるというお話がありました。確かに人生を振り返ってみても、いくら能力が高いからと幸せになるのではなくその人の性格が善いから皆に好かれ周りを仕合せにできます。

人は一人で何でもできるよりも、沢山の人たちとの御縁を活かして一緒にできる方が楽しいのですからどちらがより仕合せかはすぐにわかります。そのためには社會の中で助け合い笑い合う仲間づくりをするにも性格が大切な要素になります。

以前、成績よりも性格というアドバイスをいただきましたが改めて人間として周りを思いやれる力を伸ばしてあげることが何よりも幼児期に必要な力だと再認識することができました。

つい昨今の大人たちは、目先の能力ばかりを子どもに求めて身に着けさせようとしますが人を大切にしたり配慮したりやさしくできたりする方はあまり大事にされていません。しかし人間生きていたら、誰かを思いやれる人や真心の人、誠実な人、人の気持ちが分かる人の方が自らの生死の局面において何よりも大切な人であったと気付けます。

性格を磨き高めることは一生の学問ですから、孔子をはじめ古今東西の聖人たちすべてが目指したところです。

昨日の話の中で幼児期に身に着けるといい5つの性格スキル(ヘッグマン)について話がありました。それを紹介して今日のブログは終わります。

①粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
②好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
③明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的の力。
④思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性の力。
⑤感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定の力。

これらの力が高いならそこに人が「自立」していることはすぐに自明します。
人間として、助け合い共に生き残る力を育むことが保育の本質なのかもしれません。

引き続き日々、道の中にある新鮮な楽問を実践し続けていたいと思います。

自堕落と向上心

自分が向上しているのかを客観的に自覚するのに自堕落の三要素というものがあります。自分がやっている気になっていても、やらされているのでは自らを自らで積極的に高めていないかもしれません。常に自分の人生において自分を育てるのは自分自身ですから自分がどのように自分を育てているのかを自覚するのは大切なことのように思います。

その自堕落の三要素とは、下記です。

①形式的であること(心を籠めない)
②便宜的であること(この程度でいいじゃないか)
③小市民主義であること(自分だけのちっぽけな問題にとらわれる)

一つ目の形式的はそのままで、形だけ結果に近づけはしますが自分の真心を籠めようとはせずに頭だけで考えて取り組むことです。どんなに善いご縁や機会、環境に恵まれていても頭で形だけをなぞっていては自分が向上することはありません。心を籠めることではじめて自分を活かすことができます。

二つ目は、自分の中で間に合わせでその場しのぎで乗り切るということです。これはぎりぎりになったからや忙しかったからなど、今風でいうところのてきとーに面倒だからそれで済まそうとする考え方です。メンドクサイとなんでもいい加減に取り組んでいたら本質的に取り組むことができません。その場だけでいいというのは、後のことを考えていないからです。自分の目的や初心を忘れないことで自分を活かせます。

三つ目は、自分の価値観に縛られて周りを省み慮ることをしなくなることです。自分が大変ではなく周りもみんな大変なのです。自分の心配ばかりに捉われて周りを思いやることができなくなれば自分を周囲のために活かしていくことができなくなります。どうせなら自分の問題はきっと世界の誰かのお役に立つと転換したり、自分の問題そのものは社會と繋がっていると思った方がいいのです。自分の問題に捉われるのではなく、もっと視野を広めていくことで自分を活かすことができます。

このように自堕落というのは向上心が減退することで発生してきます。人は自分には甘く他人には厳しいものです。自分に厳しく自分を律することで自立することができますから、まず自律ができるようになってはじめて自立して誰かのために自分を活かし働くことができるように思います。

自堕落ができるというのはその陰で、誰か自立している人に依存している自分がいるかもしれません。すべての問題を自分の問題として矢印を自分に向け、主体的に積極的に自分を成長させるために日々に精進していくことのように思います。

それは誰かの目に見えるところばかり求めるのではなく、目には観えない本質を正しく捉え、理想に自分を近づけて高めていくことです。

日々の生き方を定め決心して本質的に歩んでいくことを引き続き大切に本物のままにしていきたいと思います。

正解よりも正直に

今の時代は正解を求める人が多いように思います、小さな頃から教育によって正解があると思い込んでしまうことで刷り込まれてしまうのかもしれません。

正解があると思うから完璧になることを求めたり、どうしても正解に対して減点法で物事を捉えてしまいます。つまり何が答えなのかを探ってしまい、答えがあっていると思えば安心し答えが分からないから焦るのです。

例えば、お医者さんが患者さんを手術はできても心を寄り添わずに手術して病気は治るのかという問いです。手術は問題なく正解通りにやったといったってそれでいいわけではありません。病気になっているのだからその病気に寄り添い、そのうえで手術するのですが患者さんは医者が正解通りであることは求めていません。それよりも心を通わす正直な関係であることを望むのです。

普段の仕事一つとってもそうです。仕事に正解があったとしてその段取り通りにきちんとできたから正解であるわけではありません。もちろんミスなくその仕事は段取りよくできたかもしれませんが、相手がいるのが仕事ですから相手に心を寄り添い思いやり誠実にやったかどうかは段取りとは関係ありませんから仕事は正解だったとしてもそれが正直であったかどうは別なのです。

正解よりも正直であるということは何よりも大切です。

それは頭で考えて仕事するのが先か、心を寄り添い仕事をするのが先かという優先順位の問題になります。人間は頭で考えて仕事をした後に心を入れることはできません。私たちも一円対話というのをする前に、心を整える内省をしますがいくら頭で内省したと思っていてもそれは内省ではありません。頭で正解だという刷り込みを持つ時点で心の優先順位が下がってしまうのです。

そんなことをするとせっかく真心や思いやり、正直になった自分をいちいち頭で正解にしてしまおうとすることで大事なことが失われてしまいます。合っているのだけれどなぜか上手くいかない、正解なはずなのになぜかおかしいという感覚に陥ります。これでは大切なご縁も機会も見失ってしまうことになります。

いちいち正解にしないと気が済まないのは、考え方の中に次回は間違えたくないという観念があるからかもしれません。しかし人生を生きて観る中で実感するのは正解にして間違わないことよりも、正直にやって誠実に取り組むことの方が本質的には間違っていないのではないかと私は思います。

なぜなら人は誰しも自分が体験したことが誰かのお役に立つようにできているからです。自分が体験したことを深く味わい、その体験したものを乗り越えたり同じ体験をしよう、もしくはしている人と一緒に乗り越えようと心を寄り添うのならばそれは必ず誰かのお役に立っています。

変に頭で考えてお役に立ったかどうかを正解を求めて思い込むよりも、心を寄り添い体験したことをそのままに伝えて一緒に助け合った方が本当の安心が得られるからです。人は安心したいから頭で考えるのでしょうが、頭で考えてばかりだから不安になるのです。正解を聞いて安心するという悪循環は、これはやはり「正直」で抜けるしかないと私は思います。もともと安心している人はみんな正直です、安心しているから頭で考えずに心が定まっています。そして安心すると信じることができます。

自分自身が安心したいから正解を求めるのか、それともそもそも安心しているから正直にいるのかではその生き方が違ってきます。みんな生きていたら正解が無数にあり、どの正解も間違いであることだってあります。

その人一人一人の人生の中に正解があるのではなく、そこには正直があるだけです。せっかく産まれてきたのだから何か必ず体験したいことがあるのが人間ですから、知識を先にいれて体験しなくてもいいという不自然な道理はないように思います。知識を先にいれて正解を求めるのをどこかでやめて正直に生きて誰かの役に立てる喜びに安心して生きる生き方を子どもたちに譲っていきたいと思います。

人生の御守

自分の心の状態次第で視野というものが変わってきます。自分が満たされていない時や自分が不安なときは知らず知らずに視野は狭くなってくるものです。本来満たされないから満たすのではなく、満たされているから満たせるのですが謙虚さや素直さがなくなってくるとすぐに求めはじめます。そうなると心が観ている世界よりも現実の世界だけしか見えなくなります。

例えば、問題ということの考え方があります。視野が狭く余裕がないときは、早く問題を解決したいことばかりに捉われるものです。そうなると問題そのものよりも解決したいとばかりに躍起になりますから問題を正しく見つめることができません。一時的に解決したと喜んでもすぐにまた同じ問題にひっかかります。対処療法ではないですが、その時だけの問題を解決しても根源治療にはなりません。

もしも心にゆとりがあり、視野が広いなら問題というものを見つめようとします。私の言葉ではよく問題を味わいましょうという言葉になりますがその問題そのものを観察しそれをじっくりと味わってみようという観点を持てます。そうすると問題の本質が次第に観えてきますからすぐに解決することよりも問題をどう学びに転じようかと味わい楽しんでいくことができます。そうなると問題そのものが解決になりますから問題がなくなってしまうのです。

このように問題は解決するのではなく味わうことで視野を広げるのです。つまりは視野が広いというのは問題をなくす方法ともいえます。日々の仕事や取り組みの中で如何に解決解決と考えるのではなく、一度しかない人生の中で出会う様々なご縁に対し、そのご縁を味わい学び活かしていきたいと生きることで丸ごと問題は全て善いことになるということです。

そのためには理念が必要です。

何のために自分が生きるのか、何のために働くのか、つまりは自分がどう生きるのかという「生き方」を定め、常にそこから考える習慣を持つ必要があります。生き方が定まっていないとすぐに自分の判断を目先の問題からなんとかしようと思ってしまいます。生き方が決まっているなら、どうするかではなくどうありたいかと自分の初心を取り戻したところで判断できるからです。

どうありたいかと思うとき、現実の問題よりも自分の問題が現れます。人生は常に自分自身の問題ですから自分との問答に於いて信念をもって生きていくしかないのでしょう。この信念を助けてくださるのが人生の御守ともいえる理念です。

心に理念を持つことは、人生に御守を持つことです。

一度しかない人生で後悔しないように、自分が何を優先しているのかを忘れないように日々理念を御守にし生き切っていきたいと思います。

真の親切~情けは自他のため~

「情けは人のためならず」という諺があります。

本来は「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」で親切は必ずお互いに善いことになっていくという意味ですが今ではそうは使われなくなっています。特に今では、情けをかけるとその人のためにならない、情けを仇で返されるなどというように誤解されています。これは情けというものを正しく理解していないからそう感じるのではないかと私は思います。

そもそも情けというものは、自我欲から出てくるものではなく真心から出てくる親切心のことです。これはまるで親心のようで、親は子どもに対して見返りを求めず無償の愛で真心を盡します。これは自然界も同じく、産まれた子どもを自身を削りながら大切に育てていきます。そしてこれは見守る心とも同じです。

それほど情けは見返りを求めるものではなく与え続けるものです。自分の中で知らず知らずのうちに与えるものが求めるものになっていくのは自我や欲が入り混じってくるからです。それでは善いことが悪いことに転じてしまいます。

本来は、善いことを福に転じていけば至誠になります。同じように親切を御蔭様に転じていけば真心になります。しかし自然にそれができるようになるには自他一体になるほどに自他に正直である心を磨いていくしかありません。そしてここには依存と自立の関係もまたあります。情けはもちろん大切なのですが、自他に素直に謙虚になれないならその情けがかえって欲を助長する依存関係になってしまうからです。

実際に困っている人を助けることは尊いことです。情けが面倒だということになれば助け合わなくなりますから本末転倒です。だからこそ御蔭様の心で、「お互いに天から頂いている福を分けただけ」というすっきりと明るい関係を築くことでお互い様にしていくことが大切なのでしょう。

自分が見守られているから同じように誰かを見守る、自分がいつも助けていただいているから同じように誰かを助ける。自分が体験したのだからその体験を誰かの役に立てていくことが「親切」の定義なのです。そう思えば謙虚に素直に自分のいただいている感謝の心を他人にも循環していくことが真の情けになるように思います。

そして人情の学びは、他人だけではなく自分も大切にする心です。畢竟、人はもっとも身近にいる自分自身の心に正直で素直でないと他の誰とも正直で素直な関係を築けないのです。

社會の中で生活するもの同士、お互い様の心で目の前の人は明日の私、周りの人たちはみんな未来の私と思って親切をさせていただける機会とご縁に感謝していきたいと思います。

いつも満たされないから満たすような傲慢な感覚ではなく、いつも満たされているからこそ周りも満たすような謙虚な感覚、利己ではなく利他、つまりは自我や欲を満たすための親切ではなく、本来の意味の誠と真心の親切を実践していきたいと思います。