対話と平和

人間には偏見というものがあります。たとえば、大人だからとか上司だからとか、男だからとか、先輩だからとかいろいろと一般論で決めつけられ思い込まれていることがあります。

他にも職業でデザイナーだからとか、経営者だからとか、職人だからとか、こういうものだろうと分類分けしてはその人の中で仕分けしてしまって本質まで確認されることがなかったりします。

人は先に教え込まれた知識や、こういうものだろうと経験もしていないのに脳で処理して理解してしまえば勝手に思い込んでいることがほとんどです。そしてその思い込みのほとんどが疑心暗鬼によるものです。

自分に都合の悪い現実を受け止められなかったり、自分が忙しいときに余裕がなかったりすると心が閉じていきます。心が閉じることで話を聴かなくなります。話を聴かないときは対話を避けるようになります。対話を避けるから決めつけてしまうのです。

人は「信じる」という心をオープンにすることができていれば自分から対話をして心を開いていきます。しかし心を閉じているうちは対話ができず、どうしても不信から疑い決めつけるのです。

人間にとって対話というのは何よりも重要で、お互いのことを理解するためには必要不可欠のものです。昔は、私も対話を避けて通ろうとしては数々の失敗を繰り返してきました。

相手に確認もせずにきっとこうだろうと思い込み、相手に自分の都合を強要しては相手の反応をみてはまた決めつけるということを繰り返していました。そのことから誰も信じられなくなり、より対話を避けて一層孤独になっていくという経験をしたこともあります。

本当は一緒に楽しくやっていきたいのに、実際はそれぞれが対話をせずに能力のみを使って個々でバラバラにやっていく方が楽だという方を選んだ時期です。楽なのは信じなくてもいいからです、最初から疑っているから能力だけで仕事をすれば何も言われないしそれで済むから目に見てわかりやすかったからです。そういう仕事は結局は作業のようになるから面白くなくなってきます。そうなる自他もみんな無機質な関係で一緒にいる意味も感じなくなっていくのです。

そういう体験から、対話の大切さを実感しました。

対話とは信じることであり、信じることは聴くことです。この聴くというのは、聞くというのとは違い、耳に徳の字が合わさっている字です。恥という字もありますがこれは耳に心が合わさっているのです。

つまりは聴くというのは、自分が許されて聴く、許して聴くということであり、一言でいえば「認める」ということです。畢竟、対話というのはお互いを認めることであり、お互いを認めることができてはじめて信じるとなるのです。

心を閉ざしている人は、なかなか自分以外の人を認めません。もしくは自分のことすらも認めていないのかもしれません。認めるというのは、あるがままを丸ごとを認めることですが耳を澄ましていかなければそれもできません。

私たちが一円対話を行うのは、心で聴く、心に聴くといった心を使い信じる実践を大切にしていこうとすることで世の中を真に平和にしていこうとする願いを籠めて行っているのです。

みんな心があるのだから、相手の心を感じることで相手と一体の世界に生きることができるのがいのちの証拠です。いのちは粗末にしないといったのは先祖ですが、それはお互いに心を通じ合わせることが大切だと教えてくれていたのです。

物が増えたって、忙しくなったって大切なことはいつまでも大切なことです。大切なことを忘れないような実践が、子どもの未来に仕合せを推譲することだと信じています。

またいつまでも人が争うのは対話をしなくなるからです。

世界は今、もっとも対話が必要な時期に入っています。世界はそれだけ悲しい紛争がなくならず、悲惨な戦争が続いているからです。子どもたちには対話の大切さを大人たちの後ろ姿をみせることでいつまでも忘れないでほしいと思っています。

私たちが対話にこだわるのは、「人類皆兄弟」である証としての対話こそ人が人を信じられる世界を創造する先祖代々から続けているもっとも調和する方法だと確信しているのです。誰も孤独にならない世界、一緒につながりの中で楽しく豊かに信じ合っている世界、日本の神話にあるような世界を今に取り戻したいと思います。

 

一点一転

かつては色々な知識を覚えては、何が正しいかという物差し(価値観)に縛られとても苦労しましたが見守るという言葉に出会ってからそれまでの考え方が転換されました。

人は正しいかどうかという判断でのみ行動すれば必ずその矛盾に耐えられずに追いつめられていくものです。また右か左かといった相対のどちらかという価値観にいたら必ず対極を生み出しては争いがつきないものです。

結局は、どう折り合いをつけるかということでありそれをバランス感覚ともいうように思います。そのバランス感覚というのは、正しいかどうかでは持てず楽しいかどうかで持つことができます。

そしてこの楽しいかどうかというのは、言い換えれば発達するかどうかということです。

人が発達するというのを簡単に言えば、やらされているときはものにならず、自分からやらせてくださいと主体性を発揮したときはじめて楽しいという境地に入るのです。

人間は誰しも主人公です。それは自分自身がこの世界を観ているからです。そして自分自身の観方によって世界をどうにでも変えていくことができるからです。外側の世界が変わらないと嘆くよりも、自分の観方を転換して世界を変えていくことができるのです。つまりは人は感じ方次第でどうにでも発展させていくことができるともいいます。

子どもたちにはその力が最初から備わっています、英字ではイマジネーションといい、漢字では想像力といい、私の言葉では「毘(び)」と呼びます。

発達するというのは、そのものが自分の内面の変化によって内省をし、物事の見え方を縦横無尽に転換する力、すべてのものを一円融合し善いことに換えていくということです。

楽しくしていくというのは、一つの生き方ですが楽しいと思えることを伸ばしていくことで人は必ず発達し目的に辿りつくように思います。こうでなければならないという正しいは不安と迷いを育ててしまいますが、こうなった方が楽しいというのであればそれは安心と信頼を育てます。

見守るという言葉の素晴らしさは、○○メソッドのように正しいことを要求してくるものではなく楽しいことを実現する言葉です。かつての他の日本語も同じく、もったいない、ありがたい、おかげさま、等々すべては「楽しい」ことを実感する言葉です。

その方向性の方が好きになれる、その方向性の方が間違っていない、そういうものを社會に広げていくことが子どもたちに仕合せな未来を譲っていくことのように私は思うのです。

私たちの行う志事は、その一点と一転に集約されています。それが職場を清明るくし、そこで暮らす人たちを正直にし、子どもたちの好奇心を助けることができます。

カグヤの目指す理想は、楽しいを広げていくことです。思ったことが言える社會、やりたことを見守ってくれる社會、信じ合う社會を新たなチャレンジにより醸成していきたいと思います。

子どもの発達事例~方向性~

人はよく見て観ると何がしたいのかというのを発信しているものです。

今は知識が増えて、無理に自分のやりたいことをその枠の中で考えてしまうものですが本来、子どもの頃は自然に自分のやりたいことを発信していたのです。それは遊びを通して遊びの中で学んだことを思い出すのです。

幼いころ、なんでも興味がありどんなことでも面白いと好奇心のままに夢中で遊びました。特に子どもの頃は、ありとあらゆる想像力がハタラキ、現実と夢の間がわからないほどに目の前の出来事や事物から想像することができました。

ひとたびやりたいことが何かに阻害されると、意地でもそれをやり抜きました。自分が何をしたいのかを知ることは無上の喜びだったからです。自分がやりたいことをやっていると安心しました、それは世界が面白かったからです。

たとえば、生きていくために必要な力を動植物は持っています。狩りの仕方から、求愛の仕方、集団形成の仕方、そういうものを子どもの頃から遊んでいる中で身につけていきます。

動植物は人間のように無理に勉強しなくても、本能の中で生きる知恵を学ぶことが面白いようにインプットされているのです。そのインプットされているものは好奇心によって引き出されます。

発達していくというのは、好奇心を見守ることです。その人が本当にやりたいと思っていることをさせてあげる、信じてあげるということです。時には大人には都合の悪いこともありますが、子どもにとってはそれはとても重要な場合が多いのです。

人はこれでいいと信じられるとき、それでいいと信じてもらえるとき、はじめて自分の中の想像力が開花していきます。教えられていない知識、教えようがない知識によってはじめて知恵というハタラキを実感できるのです。

信じるということの偉大さというのは、その人の生を全うさせてあげたいという慈愛と真心の発露です。教えなくてもその人は立派な存在ですから立派になります、しかし周囲に真似できるような立派な大人がいる場合に限りです。だからこそ子どもの周りには好奇心を忘れずに人格を高める大人たちの見守りが必要ということなのです。

子どもは正直でその生に一切の嘘がなくあるがままですから、そのままでいいと信じることで安心して発達していくのでしょう。文字がなかった時代から、私たちが受け継いできた言語は「発達」です。

自然に種を残すのも、自然に生き方を継承するのも、言葉や文字ではなく本能によって行われてきたから今を生きているのでしょう。

子どもの周囲に自然をつくることは、好奇心を信じてあげることです。自然のままでいいというのは心構え次第ですか実践を深めていきたいと思います。

環境の発見

社會人になりたての頃、自然環境の仕事がしたいと環境にやさしい仕事を探していたことがあります。エコという言葉が出てくる前から、どうやったら環境を汚さないですむかということを考えて石油系の合成洗剤を川に流さないで済む方法などをヨーロッパをはじめ世界の国々の先進的な取り組みを調べたりしました。

その後は、合成洗剤を使わない自然の洗剤や水をアルカリ化するものなどをつかい自然や人体に悪い影響が少ないものを会社に提案し取り扱ってもらったりしました。そこで学んだことや知識を使って出会う人たちに如何に環境を考えることが大切かを説いていました。

しかしそのうち、かたや環境を破壊していく商品が流通し、かたや環境にやさしいといった商品が流通している矛盾を感じたことと人間そのものがそれを創りだしていることを目の当たりにし受け止められず動けなくなってしまいました。

そんな時、なぜこの世の中はこうなっていくのか、誰がこうしているのかを見つめていたら幼いころの環境がとても大きな影響を与えているのを知ったのです。もし産まれた環境があまりにも自然から離れていたら、人間は自然がないことが当たり前になります。また逆に産まれた環境が自然であれば自然があって当たり前になります。

これは産まれた時の刷り込みであり、最初に与える環境がとても大きいことを知ったのです。ある保育園で、40年ぶりに訪ねてきた人がかつての園児で園長がその人の癖や嗜好などを全部言い当てていました。人は何十年経っても、幼児期に体験したことを忘れないということを肌で感じたのです。

それから環境に対する考え方が一変しました。

そもそも環境とは自然環境の方ではなく、人間環境の方であったということにです。環境を産み出しているのが人間ならば、人間の環境を変えな変えれば半永久的に環境を改善することができないと自覚したのです。

結局、自然は自然ですから環境はそのままに自然です。しかし不自然な環境を産み出しているのが人間ですから環境は人間が創造しているのです。その環境を創造する人間の環境を誰かがちゃんと向き合って受け止め、どのような環境が人間に必要なのかを正しくしていく必要があるのです。

それが教育の本質でもあり、幼児教育の場合はあらゆる自然社會科学を発達という真理に照らして周囲の人間たちが環境を示す必要があるのです。その環境とは生き方のことです。

人間は移動していく生き物だし、人間は道具を用い、知識を使いますから余計に自分たちの生き方を決めなければなりません。そういう生き方を決めることこそ環境を用意することであり、生き方を決めた人たちが示す道に見守られ子どもたちは自分たちの環境を選んでいくのです。

人間が変わらなければ環境は変わらないということは自明の理であり、天は正直であることをずっと尊びました。これは正直であるというのは、嘘がないということであり畢竟、人間が誰かのせいや何かのせいにするのをやめなければなにもはじまらないことに気付いたのです。

エコという名のエゴだったり、エゴを通してのエコも、どれもこれも自分を変えなくても済む方法で正直ではありません。正直に生きるというのは、自分の生き方を見直し、その生き方を実践していくことに尽きるのです。

求めてきたことと出会いの御蔭様で、本当の環境に気付くことができました。今では環境の羅針盤である発達という自然の手ほどきも受けることができています。愛し愛される仲間にも巡り合い、自然の生成力の素晴らしさに感動する日々です。

自分という一人の存在が環境の一部であるということが環境への影響力です。

引き続き、体験を整理してみたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

自分との挑戦

人は自分を変えるとき、今まで使っていなかった能力を開花させているともいえます。

それは新しいことに常に挑戦して新しい筋肉を使わなければならないののに似ています。新しいスポーツに挑戦すると、筋肉痛になるのはそのスポーツに必要な能力を引き出しているからです。そしてこれは筋肉に限ったことではありません。自分の意識変化に対して同じようにいえることです。

少し飛躍してしまうかもしれませんが、昆虫に変態するというものがあります。ヤゴからトンボになったり、青虫が蝶になったりと、蛹を経て別の形態になるということです。それは言い換えれば、今までと全く異なる能力を使っているということです。

そのために今まで持っていた能力を思い切って捨てては転換し、新しい能力を新たに水面下から引き出してくるのです。これは言い換えれば潜在意識下での変化です。

脳科学からわかってきたことですが人間は脳のほとんどの能力を使っていないといいます。つまりこれは人体すべてに言えることで今の私たちはわずか数パーセントの力しか発揮していないのです。これは全部使ったらいいという意味ではなく、潜在意識下で自分にこの能力が必要かどうかを常に自分が取捨選択しているということです。

ある職業につけばおのずからその職業に必要な能力が開花してくるように、人は環境に合わせて適合するようにできているのです。しかしこれを邪魔するものが今までの能力を捨てようとしないことです。それは自分というものを勘違いしているからです。

本来の自分というものは、環境の中で存在しているものであり無理に自分探しなどしなくても自ずから自分の存在は自然に顕現してくるのです。自分はなくならないのだから自分探しをするよりも周囲を思いやりながら活かされている自分に気づき、自分の今いるところを自ら気付き自らのその方向性を確かめ続けた方が本当の自分に出会えるように思います。

結局は人は無理に自分を持とうとすればするほどにその能力開花の邪魔をするのでいつまでも変わらなくなるのです。そして人間は今までせっかくつけてきた能力を挑戦なしにご破算することはなかなかしないものです。

だからこそ自分との挑戦というのは能力開花であり、今までやったことがないことをたくさんチャレンジすることで今までの能力が捨て去られ新しい能力がメキメキと引き出されるのでしょう。

今までやってきたことの延長線上にやっていくのは変態ではなく、まったく新しいことをやることで変態するのです。好奇心というものは常に未知の世界を求めます、それは未知の世界には未知の能力があることを潜在意識が知っているからでしょう。

その人が変わりたいと強く願うなら、今までの能力を使おうとしないことです。今まで使ったことがないことを引き出すには、今までやったことがないことに取り組むのが最善の方法です。

潜在意識を変えるような自分との挑戦を愉しんで、新しい自分に出会い続けていきたいと思います。

 

体験~人生二度なし~

人生には一切の無駄がないという言葉があります。これはなぜそうなるのか、その意味を深めてみます。

人は必ず自分の体験が誰かのお役に立つようにできています。それはその時は感じていなくても時間が経つとあの体験がなければ今はなかったというような感覚を持つようになるからです。

そしてこれはその人個人の体験に限らず、その体験を必要とする人に巡り合い、その人が自分の体験を糧にその人の人生に役立てるからです。

この体験が尊いというのは、もともと人間が分かれていない存在であることに立脚しています。人間はつながっている存在です、それは歴史を観れば必然ですが分かれているものは本来何もないのです。

だからこそ自分の体験は必ず何かとつながっているし、自分の人生体験は必要だから発生しているともいえます。だからこそ自分の体験は他の人たちの体験にもなっているのです。

自分の人生を一生懸命に生きる意味とは、それがお役に立てると信じているからです。自分一人だけの世界で物事を見てしまったら、お役に立つという観念もまた自分の都合で考えてしまうかもしれません。しかし八百万の神々といった全体から自分を省みれば、存在そのものが大いに役に立っていることに気付くのです。

それ故に人は役に立ちたいと強く願うのです。本来の役立ちというものは体験を大事に自分の使命を尽くしていくことのように思います。

言い換えれば、体験そのものをどれだけ充実させているか、体験させていただけることに感謝しその体験を如何なる高みにまで昇華させるかということでしょう。

何気ない日々も体験ですが、二度とない一期一会の日々もまた体験なのです。体験そのものが役立ちだと気付くことができたなら、人生に無駄がないことにも同時に気付けるのです。

無駄がない人生だからこそ、体験を大切にしなければなりません。

どんな体験もそれはかけがえのないご縁ですから、そのご縁が結ばれていく世界に存在しているのだから無駄にはしないという覚悟もまた必要なのでしょう。

結果を求めるのではなく、どれだけ真心を籠めて生きたか、どれだけ至誠を盡して生きたかというのが体験させていただいたことへの感謝の現れなのでしょう。

正に人生二度なし、二度とない出会い(体験)を大切にしていきたいと思います。

肩を寄せ合う~互助の真心~

庭の植物や自然の世界の生き物たちを観察していたら、そのものが単体で生きるよりも肩を寄せ合って生きている方が元気そうに感じます。それは一つの種だけを鉢に入れて他を引き離して育てているよりも、多くの種を一緒に近づけて身を寄せ合うように育てている方が活き活きと伸びていくからです。

当たり前のことですが、自然界のどの生き物たちも厳しい自然の中で身を寄せ合い生きています。大変だからこそ他を慈しみ、共感しながら明日は我が身と自分の与えられた場所で自分の与えられた天命に正直に生きています。

これは人間にも同じ事が言えることで、助け合い、思いやり、結束し、いたわり、協力してはじめて生き残っていくことができます。

そういう意味では、生き物たちは肩を寄せ合う距離がもっとも安心できるのかもしれません。本来人は一人でいる方が安心であるはずがありません、今は人間関係が嫌だと一人でいることを好むかのようなことをいうことが増えてきている時代ですが決してそんなはずはありません。

もしも一人で肩を寄せ合う仲間がいないならそれは本当に心細いものだからです。だからこそ人は仲間を求めては、一緒に肩を寄せ合う伴に出会おうと旅をするのでしょう。そして肩を寄せ合うということの同義語は、お互いがお互いのお役に立つときもっとも実感できるのかもしれません。

ダライラマ14世がこんな言葉を残しています。

「私たちは肩を寄せ合って生きています。 だから、この世における私たちの第一の目的は、他人の役に立つことです。 たとえ他人の役に立てない者でも他人を傷つけてはいけません。」

自分が役に立つことを求めては肩を寄せ合うのだから、役に立つかどうかを自分の価値観で裁くのではないという意味でしょう。お役に立ちたいと願うのは、信頼しあって相互扶助する仲間が必要だという心の声です。

どんな生き物もこの世には必要なのだから、争うことよりもお役に立つことで出会う仕合せ、旅をする歓びを実感できるのでしょう。自分から肩を寄せ合っていけるような素直で正直、オープンな互助の真心を育てていきたいと思います。

方向性~旅の道しるべ~

人はその人を理解しようとするとき、一体、この人はどの方向性を目指しているのかを観ればその人の本質がわかるように思います。それくらい人は方向性というものを大事にしているということです。

もしも人生が旅だとしたら、道を歩んでいくなかで日々に様々な紆余曲折と出会います。ある時は、草むらの中を通り抜け、ある時は山をくだり、またある時は漆黒の闇の中を通れば、またある時は涼やかな風が吹き抜ける草原を通るかもしれません。

その時、その場所やその道に捉われ、自分が今どこにいるのか分からなくなってしまうかもしれません。また過去通った道がいつまでも忘れられずいつまでもその道を探してしまうのかもしれません。

しかし旅は前に進みます、それは地球が宇宙の中を回転し自転するように、すべての生命が等しく年を経て生から死へと変化するように進むことは已みません。

そうすると、同じところに留まることはできず必ず日々は通り過ぎていくのです。立ち止まってみても通り過ぎるのだから時間というのは旅をしている証拠、つまり「時は人生の旅人」ということでしょう。

その旅で自分を見失い、今いるところがわからなくなり、これからどうしていいかと迷うことは大変不安なものです。それはまるで知らない場所で迷子になったかのようになります。

人生は畢竟、今回の旅で何処まで往きたいかということを決めて誕生してきたのかもしれません。ただ道草だけをするのも愉しいのですがやっぱりここまでは往きたいと目的地をもっているのでしょう。

だからこそその目的地を定め、その目的地に向かっているかを確認することで人は方向をブレナイように歩めるように思います。人生の目的地は、単なる旅の到達点ではなくその旅のプロセスに意味があるように思います。

また旅を伴にする仲間や伴侶に出会うことで旅のプロセスは麗しく善き掛け替えのない豊かで美しい記憶になります。

それ故に皆の目指す目的地に向かうプロセスそのものである理念を定め、道の方向性が間違っていないかを常に確認することが最終的に自分が辿りつきたい場所に往くための道しるべになるのです。人生の目的地とは終わりのない旅をするのだから永遠の道中そのものであるのです。みんなで旅の往き方を定めるというのは、どうやってみんなと生きていくかを定めるということかもしれません。

そう考えて顧みてよく観ていたら神社の眷属も、熊野の八咫烏も迷わないようにと導いてくれた存在です。

その存在の有難さを実感しながら心のお守りを持ち、心の眼を開いて信念を杖に歩んでいくのが道ということなのでしょう。太古の昔からつながっている道の上を今の私たちが歩んでいるというのは「方向性」を確認しているのかもしれません。

方向性が間違わないように、常に方向を正して実践を積み上げていきたいと思います。