空氣の本質~元氣な暮らし~

人間は空調に慣れてしまうと空気の流れや新鮮さなどを感じなくなりますが、むかしの古民家に住んでみると風が縦に流れているのを感じ澱みのない新鮮な空気の美味しさを味わえるものです。家の中では囲炉裏をはじめ、火鉢などを炭を熾してお茶を飲みますがその空気も床下から天井の屋根へと流れていく空気によって常に浄化されていきます。

以前、新潟のとある古民家宿泊施設に泊まったときそこは空調設備が整い現代のサッシの窓で厳重に閉め切られていたのですが、囲炉裏で火を熾したらすぐに一酸化炭素中毒の症状が出たことがありました。現代の住宅では危ないからと決して閉め切ることがないのですがつい古民家だから大丈夫だろうと安心していたのが原因でした。古い家でも、現代風になっているところは空気が循環していないのだなと改めてむかしの家の智慧を感じる善い体験になりました。

人間は空気を吸っていかなければ生きてはいけません。空気の中から水分を吸収したり、目には観えない様々ないのちのエネルギーを得ています。森林浴なども空気の中に入っている様々なものを吸収して心身ともに癒されていくのです。その空気が環境汚染によって汚れており、都市ではなお空気は汚れますから健康を害しているのは当然とも言えます。

以前、「医師が薦める本物の健康住宅」という記事を読んだことがあります。そこに小児科医の真弓定男院長の記事に「食事と空気を昔に戻せば、子どもはみんな元気になる」というものが書かれていました。

「特に、みなさんが普段何気なく吸っている空気の問題は重要です。何より気をつけないといけないのは、冷暖房で温度調節された空気です。人間は25日間、何も食べなくても水さえあれば生きていけます。その水も5日間程度なら飲まなくても大丈夫。でも、5分間呼吸をしなければあっという間に死んでしまいます。それほど空気は大切なものです。ところが、この空気をおざなりにしている人が非常に多いのです。
町中の空気より、自然な空気のほうが体にいいことは誰でも知っていること。それなのに、冷暖房や加湿器を効かせた室内で、一年中同じ温度、湿度の中にいるのは、あまりにも不自然だとは思いませんか?体には、もともと温度調整機能が備わっています。気温が高ければ自動的に毛穴を開いて汗を出し、逆に気温が低ければ毛穴を閉じて体を震わせ、熱を生み出す。そうやって体温を一定に保っているにもかかわらず、機械によって体の状態を保とうとすれば、体本来の機能が失われていくのは当たり前です。」

現在、東京では総合空調のビルの中で一日を過ごすことがあります。田舎で自然農や古民家で暮らしているなかで都会の生活に戻るとあっという間に皮膚や疲れが溜まっていくのを感じます。もちろん、病院の入院のように病気の時は回復に役立つのですが健康な時にはかえって不健康になるという具合に体温調節の機能などが働かなくなるのを自分の体験からも感じます。

田舎での体の活き活きした強さは、自然の中で五感が働き躍動することで得られる元氣です。都会は体はあまり使わず、頭ばかりを使うので五感よりも脳さえ動けばいいのかもしれません。しかしその脳も、便利すぎる都会の生活の中で空気や電磁波、食事によって働きが減退しているのも感じます。

さらに真弓先生は、「本来、外気と室内の温度差は、5℃以上あってはいけません。できるだけ外と近い空気を吸う。冬でも薄着の習慣をつける。それが子どもの健康を守る大事な秘訣です。」といいます。

自分の体をあまり甘やかさずに、少し厳しくすることで本来備わっている力を発揮させるようにする。健康を守るというのは、今の時代では環境に甘えずに自律して自立する生活習慣を身に着けるということかもしれません。

最後に、「本物の家」についてこう語られています。

「通気性のいい家とは、家の中の風が縦に吹く家のこと。昔はどの家にも必ず縁の下がありましたが、床下の空気が畳を通して1階に上がり、格子状の天井を通して2階へ行き、その空気が瓦屋根を通って外へ行く。昔ながらの木造旅館などがそのいいお手本です。すぐに新しい家を建てることができないという方は、窓を開ける習慣をつけましょう。外の空気となじませるだけでも違います。建物の空気を大事にすれば、健康面だけでなく、心ものびのび育つはずですよ。」

むかしの家にすれば、本物の家になるという言葉はまさに本質だと思います。

先人たちは、この土地の風土の中で私たちよりもずっと長い間、暮らしを営んできました。その中で得た住宅や家の智慧は、私たちが健やかに安心して健康に生きていくために創意工夫された努力の結晶とも言えます。

それを外来の異なる風土から入ってきた建物や家に住み、その翳った分を加工して乗り越えるのもそろそろ限界に来ているように思います。環境汚染が進み、気候変動やあらゆる資源が激減する中で、そんな遠くない未来に私たちは便利さや快適さを見直してでも健康で長生きし、安らかに豊かに暮らす方を選択することになると思います。

その時のためにも、先人の智慧を伝承することは今の時代を生きる世代の大切な使命です。引き続き、子ども第一義を実践し「本物」を譲り遺すために自立と自律を実践して継続継承していきたいと思います。

 

夏のしつらえ~清々しい涼しさ~

昨日、聴福庵の建具を「簾戸」(すど)しつらえました。本来は6月初旬から秋にかけてですが、ちょうどいい建具が見つからなかったためここの時期になりました。入れ替えてみると、ようやく夏を迎える準備ができた感じになり清々しい気持ちになります。

むかしの日本の先人たちは、夏の厳しい蒸し暑さをしのぐために様々な工夫をしてきました。例えば、身近であれば北から南に風が抜ける通り庭に打ち水をして調整したり、風鈴で音を鳴らし風を感じたり、桶に水を入れてスイカを冷やしたり、金魚を観照したり、団扇も夏の浴衣の色や模様も、その「心持の方も工夫」して涼をとってきました。

今のようにエアコンや扇風機のなかった時代、家も衣服のように衣替えし、障子戸や襖を、風通しをよくした「簾戸」に置き換えて工夫してきました。この「簾戸」(すど)は呼び名が多く夏戸、夏障子、御簾戸、葦戸でもよく、すだれ(萩、葦、竹ひご)をはめ込んだ建具のことを言います。

通気性のなくなった家の中は、モワっとするような蒸し暑さが増していくものです。学校の体育館なども同様に空気がこもって蒸し暑さにうな垂れますがこれは空気が通っていないために起きています。

襖や障子は紙でできているため水分を吸収しやすく保湿してしまい同時に風も遮断してしまいます。もしも襖や障子で閉め切った部屋になれば、自ずから部屋の空気が動かなくなり障子が吸った水分が溜まり蒸し暑くなるのです。しかし間仕切りしなければかえって外の窓からの熱が廊下伝いに部屋にこもってしまいます。葦の隙間から漏れる木漏れ日のような日陰に部屋の中が柔らかくなり空間がうっとりしてそれだけで涼が流れます。

自然の方を無理やり変えるのではなく、自分の心の持ち方や観方の方を転じていく。先人たちは心の工夫をしながら自然と共生し、自然の善いところを見て自分に都合が悪いところは自然を変えるのではなく「自分を変えて」さまざまなことに知恵を働かせて暮らしてきたのがわかります。

自分の思い通りの生活をすればするほどに我は強くなっていきます。自分の思い通りにならないことばかりに思い煩い不平不満を言って周りを変えようと文句を言う前に、先人たちの工夫のように知恵を働かせてかえってその季節を楽しむような素直で融通無碍な発想や転じ方をしていきたいものです。

自然と共生し、豊かに生きるということはそれぞれの持ち味や特性を生かし、それを適材適所に配置してその魅力を引き出していくことです。

夏の楽しみが増え、夏の模様替えが心の中に風を通してくれます。今年から聴福庵で清々しい夏をしつらえと共に過ごして古くて新しい暮らしを復古起信していきたいとおもおもいます。

 

基本とコツ

今朝から自然農の田んぼにいって草取りなどを行いました。今年は水管理に力をいれて、山からの冷たい水が前面に行き渡るように流れを変えました。いろいろと実験しているとどういう状態の時が、強く逞しく美味しく育つのかが分かってきます。

失敗の連続の中で、何を学んでいたか。

それは「基本」というものです。これは仕事でも生活習慣や暮らしでも同じですがコツを掴むまでが大変な苦労があります。しかし一度、コツを掴めば大方のことはそのコツで成果が出るものです。そしてこのコツは、何か特殊なテクニックだと思い込んでいる人はいますがそれは違います。

本来のコツは、基本がしっかりと身に着いた時に持てるようになるのです。

例えば、ピラミッド型組織の場合は報告連絡相談を通して責任が分化されたのを正確に上司と連携して結果を出します。この時の基本は、「分ける」ということです。どこまでどのように分けているかを知ることで自分の責任を知ります。またフラット型や一円観の組織は確認や共有、相談を通して一緒に全体善のために仲間と協力して結果を出すことが必要になります。この時の基本は、「分けない」ということです。分けないことで自分が全体に対する責任を知ります。

このように仕事や組織一つにもコツがあり、その進め方は本質が異なっているのです。だからこそ基本を学び直すことで、本来の仕事や組織を活かし成果に結びつけることができます。

先ほどの田んぼであれば、稲が育つ環境を知ることが基本です。言い換えれば、稲がどう育つかを知ることでその時の環境を学び直すことができます。つまりはここでも基本がコツを知る近道になるのです。

基本が身に着くまでは、苦労を惜しんではいけません。そして基本が分からないから他のことも分からないということを自覚しなければなりません。基本を掴んでこそ、基本に立ち返ることができます。

この日々のブログも基本です。

継続するという力がコツであり、そのコツを掴んでいるから初心を維持して自分自身を確かに一歩ずつ成長させていくことができます。基本ができないのにいくら応用のテクニックを覚えても付け焼刃では成長することができません。

基本を馬鹿にせず、基本に忠実に取り組む人が最期は笑います。誠実な努力や苦労は、その人の生き方を高め人生を豊かにしていくのです。

引き続き、自然農を通して自然から学び直し、日々に改善を楽しみたいと思います。

野性のチカラ

昨日、熊本で自然を愛する会と共にヒューマンネイチャースクールを主催する方とお会いするご縁がありました。会が立ち上がってから43年間、自然と共に育ち、自然と共に生きる、「共育」・「共生」を願いに、登山やキャンプといったアウトドアをベースに、会員相互の親睦や社会奉仕活動・国際交流事業をはじめ、様々な活動を行っておられました。

お話をお聴きしていると、私たちの観ている子ども観と同様で「子どもはできないのではなく、知らないだけだ」という言葉に改めて環境が変わって得たものと失ったものの存在を再確認することができました。

公式サイトには、「子どもたちの現状とこれから」というところでこう書かれています。

『「生きる力を育む」ということで、教育の現場では様々な取り組みが行なわれているようですが、昔の子どもと今の子どもは何処が違うのでしょうか?食生活が欧米化したことにより体型の変化はあるようですが、本質的な部分は少しも変わっていないように思います。大人が作り出した社会環境の影響をまともに受けているだけで、子ども達は今も昔も子どもらしい部分は何も変っていないように思います。確かに今の子は、昔の子に比べて我慢強くありません。辛抱出来ない子が多いと言われます。しかし、それは大人の都合ではないでしょうか。出来ないのではなく、したことがない、しなくていい、する必要がない、知らないという環境にいるからだと思います。昔の人が創意工夫してきた知恵を含め、私たちが子どもの頃に当たり前のようにやっていたような体験が不足しているだけのようです。体験させ伝えてあげることができれば大丈夫だと思います。』

今の時代は、物に溢れ、環境に恵まれ、自ら何もない中で強烈に「求める」ということも少なくなってきています。現状に満足してこのまま特に大きな辛抱や苦労をしなくても生きていくことができる時代でもあります。そんな状況の中で、最初からやる前にできないと思い込んでいたり、どうせ自分にはできないと決めつけたりして諦めている人も多いように思います。

本当はそれは単に「知らない」だけで、何でもやってみようとすれば人間はなんでもできます。私も幼少期から何もない中で、様々に創意工夫してやってきました。それは今も会社経営をはじめ、現在挑戦しようとしていることも前例に囚われず諦めず「辛抱」して忍耐しながらも子どもたちの未来のためにと日々に新たな挑戦を求め続けています。

最初からできないと思い込んだり、大変なことを避けて苦労を嫌がるのは今の恵まれすぎた環境に対して本来備わっている生きる力が減退しているからかもしれません。農業一つでも、農薬がないとできないとか肥料がないから育たないとか、自然に育つ環境という観点ではなく材料や道具がないからできないと思い込んで最初から諦めていたら共に育つものも育ちません。

人間というものは、なんでも環境を整えて安心安全になってしまうと生きる力がなくなってくる生き物なのです。だからこそ、過保護過干渉にせず信じて見守りその人が育つために敢えて自分から主体的に活動できるような「自然野性環境」が必要になるのです。

この自然野性環境とは、五感を総動員し、ないものねだりはせずにどんなものでもすべて活かそうとする野性のチカラの発揮できる環境のことです。そうすれば元来備わっていた持ち味や活力が引き出されその人にしかできないチカラや魅力が顕現してきます。言い換えるのなら汗と苦労のチカラです。

あまりにも恵まれすぎる環境を与えれば与えるほど、汗も苦労もせず人間はもともと備わっている野性のチカラを消失していきます。そしてそのうち環境がないからできないと何かのせいにしているうちに自分自身も消失していくのかもしれません。

子どもの頃の野性のチカラを発揮する体験は、大人になってもその人の人生に自信を与えるように思います。自然の中で、創意工夫して生きた力はそのままに自分自身の可能性を拡げていくからです。

私も自然や伝統文化を愛するのは、そこにむかしからの先人の智慧を身近に感じるからです。先人の智慧は今のように何でも環境が整っている中では一つとして生まれてはいません。その智慧はすべていのちを使い切るような自然の叡智の中で創意工夫して実現してきたものです。

子孫たちに、その智慧が伝承していくことが生きる力を伸ばしていくいのちのリレーでありかけがえのないバトンになります。

子どもたちが置かれている現代の風土や環境をもう一度、研究し直し何を得て何を失っているのかを真摯に学び直していきたいと思います。

 

自己肯定感のこと

人は自分自身に自信を持つことで安心することができます。他人からの評価を基準にしていたら不安はいつまでも続き、自分自身のことを自分で認めることではじめて自分というものの存在を信じることができるようになるものです。

人間は幼い頃からの育った環境が影響して、自分自身との関係が出てくるものです。本来は自分のままでいい、自分らしくていいものが差別や偏見によって歪められていくものです。

いつまでも自己否定したり自己肯定感が低いままなのは、自分自身に差別や偏見の眼差しがないかをまずチェックする必要があります。他人から馬鹿にされたり、他人から揶揄われたり、蔑まれたりしたことが同様に自分も他人に対して無意識にそういう復讐心から偏見が入っていたりするのです。

自分に自信がないと自分の自信を持とうとすることは大切ですが、そのためにまた評価を求めてしまうのは自分自身の偏見がそうさせているかもしれないということです。思い込みの強い人や、決めつけの強い人の方が仮初の自信を纏っていることが多く、本来の自分らしくや自分のままでいいとは思っていないことが多いように思うのです。

誰しも人間であり、その人はその人のままが価値があると自分の偏見や価値基準なしに思えているかどうか。その観る目が、鏡のように澄んでいるのなら丸ごとの自分自身のこともそのままに認められるはずです。

自分のここは認めるけれど、これは認めない、決して見ようともしないでは向き合うことができないのです。人は自分自身と正対して、自覚して、自認してそれも自分だと認めるとき、自分というものの存在を感じます。

そのうえで、自分自身と折り合いをつけながら対話をしながら協力して生きていくとき自然体になっていくのです。自然体の姿は、差別や偏見のない姿になっているといっても過言ではありません。

自己肯定感が低いと不平不満を言う前に、自分の偏見や差別をなくそうと自他のことをもっと認めて本質を深めて人間を知ろうとしていくことが大切なのかもしれません。

すべての生き物にはいのちがあり、そのいのちは常に平等で普遍です。違いを認め合い、異質なものを受容するとき自分のことも愛せるようになるのかもしれません。

子どもたちが安心してあるがままに楽しく豊かに生きる社會を築いていきたいと思います。

心を笑顔(オープン)に

人間関係というものは、心をどれだけオープンにして信頼関係を築いていくかに懸かっているように思います。心が通じ合うことは、安心につながりそのことで関係が善くなるだけでなく仕事も遊びもすべて楽しく豊かになっていきます。

よく心をオープンにというと、自分の感情をさらけ出すことだと思っている人がいますがそれも一つの手段ですが反ってそのことで関係が悪化している人が多いように思います。本当は自然体でその人の真心や本心が出ている姿は、とても善い人なのに周りを気にしたり自信がなかったり自分を過度に守ったりしていると、反って周りに緊張する状況を与えて「あー、またもったいないなぁ」と思うこともあります。なぜなら人間は、自然体になればなるほどその人の本性や本心が出て周りも安心して自分も安心してその人の素の魅力が引き出されていくからです。素から磨くことは、玉を光らせる法理が活かせるからです。評価ばかりを気にして無理に我慢している時よりも、その人のことが全部観えた方がもっとも「その人らしい」し、みんなも本人との信頼が築かれ安心するからです。

例えば、日ごろ何もしゃべらない人に「本心をさらけ出して何かしゃべったら」というと反って黙られるか、ネガティブな感情をぶつけられることがあります。そういう人に「本心を言って」というと、かなりきつい攻撃的な言葉が出てきたりします。それを聞いた周りも衝撃を受け、その人を理解するよりも不信感や疑心暗鬼、またショックから涙したり辛い思いをします。言った方も言わなきゃよかったと思うし、言われた方も聞かなければよかったなどとも思います。こうなるとまた悪循環の連続です。

しかし本来、本心をさらけ出すというのは決して無理をしてそういう時だけ感情をぶつければいいという意味ではありません。普段から自然体で周りの人たちと接することを言うのです。ただここでの自然体は誤解されるのですが、「決して自分勝手に好き放題する」という意味ではありません。いろいろな感情表現を自然に出していたり、自分の思っていることや感じたことをそのままに話せたりできるという自分らしい自然体のことです。決して自然体とは、日ごろ自分の表情を偽り無理をして我慢していることの逆の意味ではないのです。

つまり普段から周囲を信頼し自分の感情としての優しい自分、楽しんでいる自分、明るい自分、我儘な自分、そして時折、悲しい自分、つらい自分、情けない自分、思っていることなどをそのままに表現して周りを信頼できていることがさらけ出している状態だということです。くどいようですが無理をして隠しているものをさらけ出せというさらけ出すではなく、普段から自然体でもいい状態になるようにさらけ出していくということです。さらけ出せば「自然に笑顔」が増えていきます。そして周りも楽しい笑いが増えていきます。そのためには、自分自身がリラックスできるような環境を用意したり、もっと自分が自然体でいられるように周りとの関係を築くために少しずつでも訓練していくしかありません。

もちろん訓練は時間もかかるし、挑戦も必要です。今まで隠して誤魔化して偽ってきたものを出したり怖いことや辛いことを乗り越えるのは、少しずつの勇気です。その勇気は笑顔になっていくという笑顔をさらけ出す勇気です。

最初から上手くいかなくても下手くそでも、笑顔を育てみんなが安心して、そして楽しく笑い合い豊かな社會を創造して自他が仕合せになるために「笑って」なんでも「楽しむ」こと、前向きに「ちょうどいい」と全体善に生きていくこと、笑う門には福が来るといいますがまずは「笑う」訓練からはじめていくといいと思います。

固まってしまった表情を崩すのは、自分の「笑い」の姿です。心をオープンにの定義は、「心を笑顔に」ということなのです。もっと自分の心が笑ったままでいられるように、周りを信頼して周りの笑顔が増えていくような自分の生き方を見つめていきたいと思います。

赤ちゃんや子どもたちの純粋で素直な素敵な笑顔や笑いが世の中から消えていかないように、困難を乗り越えて皆で一緒に心を笑顔(オープン)にする豊かな社會を創造していきたいと思います。

中国のスケール

中国という国は、そのロシア、カナダに次いで世界第3位の大きな国土を持っています。歴史の長さも、人口の多さも、山河の雄大さもまたスケールの大きさを感じます。

さらに国土の広さは多様な気候や風土の存在も感じさせます。東側は海に面しており、西側は砂漠と高山地帯、南は亜熱帯性気候で北は極寒の地がありマイナス30度の世界です。この気候風土の変化から、様々な人種や文化、民族が存在しています。

中国というと、私たちの一般的なイメージは山水画だったりテレビで見かけるような海側の都市や北京などの首都の一部の写真が中国だと思い込んだりしますが実際にはあらゆる多様性に富んだ気候風土や人種が集まって存在しているのが中国の本体とも言えます。

日本でも、沖縄と北海道などでは気候風土も異なります。それに東北や九州などでも、地域の伝統文化なども差異があります。しかし中国は、方言を超えてまったく使っている言語も異なり、文化も異なり、肌の色や食べているものも異なっていたりしますからそのスケールが大きいことはすぐにわかります。それは国土が日本の25倍の大きさ人口が10倍であることからも理解できます。

最近は、中国人の観光客が爆買い、爆食、爆待ちなどと「爆」をつけられますがもともと、消費するエネルギーも私たちのスケールを超えているように思います。広大な土地で無数の他民族、多人口、多様な文化に支えられたそのスケールがその新しいものを取り込み取り入れる柔軟性やスピード感を磨いてきたのかもしれません。

現在は、経済の成長速度が著しくGDPは更新し続けておりまもなくアメリカを追い越し世界1位に近づいています。特に広大な土地を持つ中国では、地域での発展もまた極端に著しく最近注目されている深圳では、人類史上最速で成長している都市とも言われます。ここに住む若者は65%、老人は2%しか居らずたった30年で1400万人まで膨れ上がった都市です。

この深圳は経済特区に指定されており中国全土から稼ぎたい一攫千金を目指す夢を持って成功したい若者が押し寄せ、この10年で増えた人口は400万人以上、横浜やロサンゼルスまるごとに匹敵する規模で拡大しています。電気のバスや自動車も当たり前に走り、道ばたで果物を売る老人もスマホを手にしていて、決済はすべて電子決済で行われます。また自転車は大半がシェア自転車で、スマホでロックが解除できるほどになっているともいいます。

ITの分野でも過去の色々な経緯を辿らずに、突然に最先端のテクノロジーを使いこなすようになる。この速度においてもスケールの大きさを感じます。

中国のスケールの大きさとは、この人間の極端な柔軟性であり新しいものに対する受け容れる幅のスケールのことではないかと感じました。好奇心旺盛さは、そのエネルギーの源泉です。中国の成長の凄さを垣間見る気がします。引き続き、明日からの訪問でそのスケールを確かめてみたいと思います。

伝統の価値観

人は体験することではじめて全体で何が起きているのかを理解することができます。いくら頭で知識だけで分かった気になったとしても、それは妄想であり現実の実感は持てないものです。実体験の苦労があってはじめてそのものを直視することができ、そこから直観することができるのです。

例えば、幼い子どもたちにいくら知識でいろいろなことを教えても体験の価値には敵いません。先日の農作業やお米作りでも、自分で田んぼでお米を育ててみてはじめて日ごろから食卓にあがるお米の尊さを自覚するのです。体験には苦労はつきものですが、この若い時の苦労が自分が成長していく過程で先祖から連綿をつながっている伝統の価値観を学ぶことになります。

むかしから自らの実体験によって暮らしを実践し、その暮らしの中から私たちは伝統の智慧を継承してきました。この伝統の智慧は、伝統の価値観を持つことではじめて活かすことができます。伝統の智慧はそのままでは意味がなく、活かすことではじめて意味が出てきますが、その智慧を活かせるようになるには大前提として日本人としての価値観を伝承している必要があるのです。

本来、日本語も同じく伝統の体験を磨いて日本人の価値観を持った人がその言葉を用いればそこに智慧が働きます。自分の価値観は環境や生育によって育まれるものですが、その価値観に先祖から伝来している智慧を習得できるかどうかは世界の中で自分たちのアイデンティティを確立するためにもとても大切なことなのです。

苦労を避けて、楽に便利に汗をかくことをやめた日本人は日本人の価値観を忘れていきます。特に伝統や暮らしが失われ、実践する機会もなければほとんど日本人ではなくなっていくのです。

伝統の価値観は、私たちの「根」であり、根を学ぶことは先祖からの智慧を学び、生き方を伝承し、子孫へと精神を継承していくことです。これは先祖伝来のチカラであり、私たちの先祖が子孫のためにと見守ってきた愛の伝道でもあります。

今の私が此処にあるのは先祖がいのちのリレーをしてくださったからであり、そのバトンを受け継いで走っているのを忘れるのは本末転倒です。

引き続き、子どもたちのために何が遺し譲れるか、本質を見極めながら脚下の実践を積んでいきたいと思います。

本物の暮らし

昨日は、千葉県神崎にある藤崎農場のむかしの田んぼで草取りや伝統衣装の体験をしてきました。日本の民族衣装というものを改めて観てみると、田んぼの景観と相極まってとても色が鮮やかに感じます。今は、洋服で海外からのものばかりを着ていますがそれはその土地のものではありません。

やはり砂漠には砂漠で生まれた民族衣装、北極では北極で生まれた民族衣装、それぞれの地域や文化、生き方や智慧を纏っている衣装を観ると、学ばずして学び、心はその智慧をそのままのカタチで伝承できるようにできているのを知りました。

午後のふり返りの中では、むかしと現代の農業の違いなどについて語り合うことができました。むかしは、農家は生産物として大切に生き物たちの生態系を極力尊重しながら稲を育てていた方が安心し稲の暮らしを守れると信じていました。現代は、農家は工業品として稲を改良し、稲を加工することだけに集中していきます。

日本はむかしからの生産物としては稲だけではなくイ草、葦、萱なども、大切に暮らしの中に取り入れていました。里山に見られるように、すべての自然と一緒になりながら自分たちの分を分けてもらいながら謙虚に「生産」をしてきました。その「生産」をするなかで、活動することで私たちは生産活動としての生活を営みました。今の生活はむしろ加工するのみのものに変化していますからむかしと現代の違いは「暮らし」があるかどうかということになります。ここでの「暮らし」とは何かということです。

例えば、稲を種から育てて収穫しその八十八のプロセスをしっかり体験してみるとそこにはお米ができるまでの背景を知ることができます。今では簡単にコンビニでお金を出してレンジでチンしたり炊飯ジャーに入れれば勝手にできてしまいます。しかしそれで「いただきます」といっても、なにをいただくのかは分からないはずです。

実際に、農家になってお米を生産しているとその苦労や大変さが身に沁みます。そしてそのお米作りの大変さを知れば知るほどに、やってみればみるほどに自ずから「いただきます」の姿勢や心になっていきます。つまりはこのお米を食べるために、どれだけの方々が働いてくださっているのか、それがどれだけ自然の恩恵を受けたのか、そしてなぜ美味しいのかということを感覚で感じるのです。そんなものを教科書で教えたからわかるはずはなく、自分で汗をかいて苦労するからこそそのいただきますの言葉が本物になっていくのです。

私も自然農をはじめてから、自然が育てるものの凄さ、何もしなくてもびっしりと詰まった味や栄養をもっている自然からいただくものの偉大さを身近に感じるようになりました。

無理に肥料や農薬を与えなくても、野菜そのものの持っている力を引き出してあげれば本当に美味しいものができあがっていくことも知りました。愛情深く、見守り、そのものの育つ力に少しだけ手を貸してあげれば育つように育ちます。しかしそれには、熟すための時間と、熟すために必要な熱量や愛情が必要になります。

生きることの根を育てていくというのは、日々の暮らしを大切に生きていくということです。ここでの暮らしは、単に日常的な生活全般のことを言っているのではなく、自分が活かされていることに感謝しながら生きていく暮らしのことです。

自分中心に自分勝手に、自分がやりたいように人間の思い通りになっていく世の中。まるで偉大な人間様になったかようにふるまい、自然を我がもの顔でやりたい放題していますがここに本来の暮らしは一切存在しません。

子どもたちのためにも生き方を見つめ直して本物の暮らしを今一度、後世のためにも考え直す必要があるように思います。本物の生きる歓び、本当の楽しいや人生の仕合せは、むかしからずっと今まで自然や暮らしの中にあったものです。現代につくられた人間中心の妄想の価値観の延長線上の未来は今の都会そのものように仮想空虚の現実しかありません。

引き続き、子どもに遺していき譲っていきたいものを一つ一つ甦生させながら本志本業に専念していきたいと思います。

楽観の境地

先日、広島で人間幸学研究所の和田芳治さんと奥様にお会いするご縁がありました。逆手塾という塾も開催しており、かねてよりお会いしたいと思っていた方の一人です。お話をお聴きしていると、どのお話も本質的で時代が変わっても大事な本筋を見失ってはならないことを随所に語っておられたのが印象的でした。

和田さんは里山の守り人として、里山から本来の人間として生き方やあり方を発信されておられました。一周遅れのトップランナーを自称され、時代が時代ならまさに最先端の取り組みを行っておられます。

そう考えてみると、世の中の主流は大多数の人間が参加している価値観のことで傍流というのは時代の流行に左右されずに本筋や王道に取り組まれている方のことを言うように思います。言い換えるのなら、それが本流というものでしょうが不易と流行がある中で本来の普遍的なことに取り組んでいくというものこそが人間の原点の追求かもしれません。

人間は多様性がありますからそれぞれいろいろな人がいますが、自分の価値観で理解できないものを最初から批判したり非難することは度量が狭いように思います。確かに大勢の価値観の中に入っていくことは安心かもしれませんが、自分で考えて気づいたことや体験した学びを深めていく中で得られた新しい価値観を貫いていくということはなかなかできないものです。

他の人と異なることを信じていく生き方は、正解を求める生き方ではなく仕合せを求める生き方です。正解に安心する世の中か、仕合せに安心する世の中か。本来、人間が尊重されている世の中とはどういうものか、人間が物のようになっていないか、色々と思い当たる話ばかりをしていただきました。

特に印象に残ったものは、「面白がる」というお話です。

今の時代はマジメな人が多すぎて、楽しさを選ぶよりも単に合わせる人の方が増えているといいます。和田さんはなんでも遊び半分だといいます。遊んでいるだけではダメだという人がいますが、本気で遊んでいる人は楽しんでいる。楽しんでいるだけで学んでいないという人もいるけれど、楽しいだけで学んでいるとも言います。

やらされてやるのは楽しくないからこそ、なんでも自ら「面白がる」ことが主体性になっていくともいいます。

これは私の体験からも同様で、なんでも面白がっている人は仕事も生活もすべて楽しくなっていきます。その逆に面白くしない人は、なんでも義務になりなんでもしなければならないというように執着ばかりが増えていきます。

和田さんは、自分が楽しいからこそ周りを楽しくすることができる、自分が我慢して周りを楽しくさせてもそれでは楽しさをわけてあげることができないともいいます。自分がうんと楽しんでいるからこそ、その楽しんだ分を人に与えることができるからともいいます。

まさに、自他一体の楽観の境地です。

和田さんの逆手塾はそんな生き方を学ぶ場所であり私たちのこれからの変化にも欠かせない大切なご縁になりました。これからも引き続き、楽しく学び直していきたいと思います。