不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

和訳~本質を伝承する真心~

慈雲尊者は、神仏儒の中から共通するものを見出しそれを真心を用い「和」に翻訳した人物とも言えます。その上で何が大切であるのかを説き、垣根を超えてその本質を伝承された方のように思います。

雲伝神道には、その和から産み出された考え方が入っているように思います。どのように物事を解釈するかはその人自身ですが、かんながらの道に置いては自然に沿ってどれだけ謙虚に素直に物事を直感し、深く入るかで物事の観え方もまた異なってくるように思います。

先達が遺してくださった真心に触れると、どこを目指していけばよいのかが分かり心が安住するものです。その慈雲尊者は、神道の本質についてはこう言います。

「神道は一箇の赤心、君臣の大義のみなり。此の一箇の赤心、家に在りて孝なり。夫婦に在りて和なり。隣里朋友に交りて欺くなし。」(「神儒偶談」)

意訳ですが、(かんながらの道は自然一体の真心のことであり、人の道を盡すことです。このひとつの偉大な真心は、家にあっては孝行することです。そして夫婦なら仲睦まじく和み、友人においては誠実であることです。)とあります。

本来、親祖がどのような生き方を志してきたか、その道は隠れてはいても私たちの心身に伝承されているものです。その初心を何にするかが、道の姿であり、それは全ての人間においては同根であるものです。

そういうものに辿りつき、何を最も優先するかにおいて真心であるというのは何よりも天地自然の道理にかなっているように思います。どうしても自分の心を自分の我や価値観、もしくは考えもせず社會の考え方に迎合し本質を見失う中で心は次第に狭くなり迷い惑いも増大してくるものです。

しかしそういうものに縛られ、執らわれないようにと十善をなせというのでしょう。慈雲尊者はいいます、「天地をもつてわが心とせば、いたるところ安楽あり」と。天地のそのものを自分の心とするならば、あらゆることは安楽になるということです。真心のままにいることがもっとも自分を真心に近づけるということなのでしょう。自我妄執を捨て去るには、君臣の大義といった人格を磨いていくしかありません。

また「一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。」といいます。意訳ですが一度の無礼な言葉、一度の傲慢はすべて身から出る錆の兆しだと気を付けよといます。さらに「朝夕にわがなすわざをおもいしれやすきをもとの心とはして」と言います。自分の心を問い直して常に内省し、謙虚に素直になっていくことで道から外れないように真心の傍にお仕えすることのように思います。

最後に、「十善これ菩薩の道場といえり。慈悲一切衆生身にひとしく福をあたへまことをつくす」といいます。自らが十善こそが実践道場、つまり人の道から外れないようなってしてはじめてすべてのことは福になっていくことができるといいます。

まだまだ行き来するばかりで、覚束ない足取りですが先人の教えの本質を学び直し子どもたちに伝承できるよう精進していきたいと思います。

 

 

 

先達の書

先日、慈雲尊者の御縁から、岡山でかつて「今良寛」と慕われた松坂帰庵大僧正の書に出会いました。書の特徴としては、慈雲尊者を研鑽し、竹筆による作風で独特な風格があります。

書としての字も何か見ていると心が感じ入るものがありますが、同時にその選ぶ言葉や文章にも深い感化を受けることが出来ます。人が遺す言葉というものは、その人の生き方が顕現している気がしてその書の持つ美しさには魂が揺さぶられる思いがします。

この松坂帰庵にこういう書があります。

『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』

これはとても含蓄がある言葉で、今の時代にはもっとも相応しいものではないかと感じます。人は、不足を思えば不平不満をこぼし、今度は満たしてばかりいたら我儘になります。どちらにしてもいただいているものを味わおうとしない心の持ち方が、今のような時代背景をうけて広がっているのかもしれません。

自分は仕合わせというのは、一体何の御蔭様で今の自分があるのかを見つめる言葉です。そしてその順々に巡ってくる御縁を感じていれば、「仕合わせ」の本質に気づけるかもしれませんが自分の思い通りにしたい欲望や、正しいとか正しくないとか比較を思う刷り込みなどに惑わされ本来の姿を見失ってしまうのでしょう。

自分の運命がどのように巡ってくるのかは、天が与えてくださったものを謙虚にいただき味わい盡しそれを愉しみ、自然に沿いつつ満たし過ぎず足るを知り、自分が何を間違っているのかを教えていただきつつ反省し精進していけば素直に来たものを選ばないで受け容れることができるように思います。

そうやって巡ってきた運命に対して、謙虚に素直にいることが「仕合わせ」ではないかと思います。そしてそういう生き方をしている人は、先ほどの『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』の境地を持つ人になっていると思います。

ないものねだりをする前に、今、いただいている御蔭様や御縁にどれだけ感謝で恩に報いているかが「仕合わせ」に気づく感性を磨いていくことなのでしょう。

その人は世界でたった一人のその人ですから、そこには比較はありません。唯、御縁があるだけです。丸ごと信じて、巡り合わせを信じて澄んだ真心と朗らかに歩んでいきたいと思います。

自然体でいるということの意味を、先達の書から深めていきたいと思います。

民具の魂

昨日、無事に自然農の御米の脱穀を行いました。今の農業では、機械で刈り取るときに同時に脱穀しますから脱穀している様子を見ることもなくなりましたが昔はずっと手作業で脱穀をしていたように思います。脱穀とは、稲の穂からお米の実をとりのぞくことを言います。

江戸時代に入り、千歯扱きという脱穀の道具が発明されました。それから大正時代に入り足ふみ脱穀機がでるまではそれが活躍していました。今では動力を使っての脱穀ですからあっという間に終えてしまいます。しかし昔の民具を使うととても時間がかかってしまいます。

不思議なのは、これだけ時間がかかっていても昔はそれでも画期的な民具として使用されていたということです。昔の手紙が電話になりメールになっているように、次第に昔のものは使われなくなっていきます。新しい発明品がでると、昔の発明品は色あせてしまいます。

昔は動力は人間のチカラだけで民具も自然に近い道具ばかりでしたが、今では動力といって電気、ガソリン、ガスを使い動かします。原子力発電などもそうですが、特殊な動力を使うことで大きな作業もできるようになりました。

しかし同時に、馬や牛、その他の家畜、また鍛冶職人や木工職人、その他の民芸職人はいなくなり今では機械で全部つくられます。

民具には時代時代の価値観が反映されているように思います。どんな民がどんな道具を創るのか、民具や民芸の中には暮らしが入ってきます。今の時代の道具にはあまり暮らしにつながっているものがなく、使い捨ての文化の中で次々と新しいものが発明されていきますが本来、新しいものだけが価値があるわけではありません。古いもののなかには、とても大切な人と人、人と動物、人と森林、人と自然、といった絆やつながりが切られていないものが残存していることに気づきます。里山もそうですが、民具はそういう暮らしの中で暮らしを壊さないようにつくられてきたとも言えます。

我が家は足踏み脱穀ですが、一家総出で協力して脱穀していると里山の懐かしい原風景が瞬時に顕れます。先祖たちはどんな暮らしをしてきたか、そしてどの暮らしを遺そうとしてきたかは民具の魂に顕れます。

古民具の持つ様々な魂に触れつつ、時代時代の暮らしを見つめてみたいと思います。

 

閒と闇

稲刈り後、稲架をし天日干しして三週間が過ぎました。稲もいい感じで乾燥し、これから脱穀に入ります。種まきから稲刈り、そして天日干しまでを通して行っていると不思議に心が安心するものです。

これは太古の昔から、私たちが食べるものを確保できた安心だけではなくそこに暮らしを感じる「間」があったからのように思います。自分たちが今まで何と一緒に暮らしてきたか、そういうものを忘れるということが何よりも残念なことであろうと思います。

文明が発展し、都会の生活ではネオンは明々朝まで照らし、食べ物は余るほど豊富にあり様々な機械や仕組みによってお金を用いてはスピードが上がり経過も結果も都合よく便利に変わってきました。しかし、その一方で「暮らし」はどんどん消え失せ、本来、人間らしいものを感じる「間」が取り除かれ忙しすぎて間抜けな状況になっているように思います。これら「間」については様々な研究がされてきて、建築から芸能まで幅広く活用されていますがその間にも定義がありますから、その間をどう定義するかで考え方も少しズレてくるようにも思います。

本来、「間」という字の語源は門構えに「日」ではなく門構えに「月」という字でした。「閒」の字は、門を閉じてもその隙間から月明かりがもれてくるという様子が漢字になったものです。

夜に一家団欒で一日を振り返り、薄暗い部屋で囲炉裏を囲み静かに物思いにふけていく。そうしていると、闇の隙間から月明かりが差し込んできて心が清らかで澄んだ光によって周りが透き通っていく様子に私はこの「閒」を深く感じます。

この閒とは、私にとっては異種異別、陰陽動静のものが一体に合間することであり、それはバラバラだったものが光と闇によって解け合うことを定義しています。今の時代は直感や本能が惚けているからこの「閒」が抜けてしまったのかもしれません。

光に呑まれ目くらましにあい、心を失い忙しい時間に自分の欲求だけを満たして一時的な安心ばかりを追い求めたら、御互いに解け合う豊かな時間もまた見失ってしまうのかもしれません。・・・ゆったりと夜の闇の中で静かに古来からの炎を見つめる。そして虫たちや風の音に耳を傾け悠久の流れを感じ瞑想してみる。・・・そこには、流れている時間が緩やかに穏かになる悠久の刻の流れがあります。

自然を感じるというのはこれらの閒をどのように刻んでいるのかを実感する心を持ち、自然と一体になった暮らしに静寂を持つことです。

いのちが静寂を失うということ、それこそが間抜けな間違いになってしまうということです。

心の静寂はすべて自然の暮らしの中に具わっています。子ども達に譲っていきたい暮らしを見つめ直していきたいと思います。

至誠無息

四書の中に「中庸」があります。そして中庸の中に「至誠」という言葉があります。この至誠とは、日本では真心と訳されます。孔子は中庸の徳は何よりも尊いといい、その後、孟子は「至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり」といいました。そして吉田松陰はその「至誠」を座右にし、何よりも真心の実践を学問を通して貫き通しました。

この中庸の中にある至誠とは何かということを少し自分なりに整理してみたいと思います。

中庸の中には「至誠無息」という言葉があります。これは真心は已むことがない、私の意訳だと自然界のように天地の恩恵は悠久で広大に永久に与えられているということをいうように思います。

私たちは自分で勝手に生きているように感じても、実際は無償の愛で様々な恩恵をいただいています。当たり前に生きていますが、光も水も空気も土も温度も地球も月も太陽も宇宙もその存在がなければ生きていることすらできません。人は厳しい環境に置かれる方が我欲を減らせても、満たされ過ぎる環境でも我欲が増えることを知りません。当たり前のことを当たり前にしてしまうと、感謝を忘れ自分の価値観に染まり本心を偽れば次第にいただいている真心を感じなくなりますから、「至誠無息」とは程遠くなっていきます。

本来の至誠や真心は、心が澄み渡るとき、もしくは自然と一体になるときに顕現してくるものです。それはまるでいのちそのものの姿で生きる自然界の生き物たちの心境です。西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、字は異なりますが天が自分を無償に愛してくださるように自分も人を無償に愛するというのはまさに天地一体、真心の中にいることを忘れない生き方の座右とも言えます。

中庸にはこう記されています。

「故に至誠は息むなし。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠、悠遠なれば則ち博厚、博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載せる所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆り無し。かくの如き者は見さずして章し、動かざるして変じ、為す無くして成る。」

これは自然の姿そのものです。

自然というものは、晴れては降っては吹いては時折休み、そしてまた活動します。それはどんな小さな生き物や、どんな多様ないのちであれ、必死で生き続けています。この必死で生き続けるというのは、いのちを使い切るといってもいいかもしれません。このいのちを使い切る中に真心があり、全身全霊で生き切る中にこそ至誠が息づいています。

人間はややもすると主人公であることを忘れ、自分の本心を偽り自分のいのちを使おうともせず他人に依存し、自分自身を高めて自分自身になっていくことを無意識に諦めていくように思います。社會の中に迎合しているうちに、様々な刷り込みに出会い、頭で分かったような生き方をしていると至誠が観えなくなってしまうものです。

一期一会に順縁を味わい盡す生き方をするならば、自ずから至誠無息の境地に達するのではないかと思います。そのためには、どれだけ真心を盡したかを常に三省し、真心ではない自分と向き合って自分を自分で育てていくしかありません。

子どもたちに見せる大人の背中として、この「至誠」というのは何よりも偉大な勇気を与えるものです。自然の中に入れば入るほどに、穏かな心でいのちを感じるとき、至誠は永遠であることを悟ります。

至誠を感じつつ、真心の日々を歩んでいきたいと思います。

 

真心を見守る

人は、向き合って話をするのと同じ方向を向いて話をするのは異なります。向き合ってしまえば相手からどう見られているかという自分のことを気にしてしまうものですが、同じ方向を向いているのなら自分のことは気になりません。相手からどう見られているのかが気になってしまえば相手のことを分かろうともせずに、自分のことばかりを気にしてしまうものです。

同じ方向を向くというのは、同じ理念を持つということに似ています。何を目指しているのか、何のために一緒にいるのか、そういうものをしっかりと自分の心の中に握り離さずに持つならばもっとも大切なことはその本質に対して自分がどのようにするのかということとの正対が必要なだけになります。

しかし実際は、目的や本質から離れて保身や自分の見せ方や見え方ばかりに終始してしまい対話が対決のようになってしまっているのものです。

本来の対話は決して向き合ってはできないもののように思います。同じ方向を観て、その上で自分の意見を伝え互いに分かり合って通じ合っていくものです。そのために自分がなぜこれをやるのか、自分が何のためにここにいるのかといった初心を忘れずに互いを思いやり話し合いをしていくのが本当の対話でもあります。

自我や自意識に呑まれるのは初心や理念を忘れてしまい、自分の本心を優先するよりも目の前の目に見えるところだけに執らわれてしまっているからともいえます。そういうときは、自分を気にせず本質を優先し分かってもらおうとするよりも相手のことや全体のことを分かっていこうとしていくことが大切なことのように思います。

自分を気にしすぎれば思いやりが欠けていきます。そして自分が大変で余裕がなければないほどに視野は狭まっていきます。視野が狭まればまた余計に目に見えるのは自我の価値観のメガネで見たい世界しか映りませんから悪循環に入ってしまいます。

視野を広げるということは、自分の価値観の枠を手放してみるということです。この人と話せば視野が広がる人がいますがその人はいつも本質を見つめ、初心を忘れず、理念を実践する人です。覚悟を決めているから余計な悩みも惑いも少なく、あまり価値観に心を染められることもありません。

そういう理念や初心こそ本来見つめるものであり、見つめるものをあまり周りから見られる視点にしないことが心を澄ませていくことにもつながっていくのでしょう。本来の自分自身が憧れた生き方や、自分の魂が求める生き方を優先していくことが理念の実践です。

理念の実践を通して自分自身の我執に打ち克ち、感謝の心で恩返し恩送りしていくことで本当の自分自身に出会えます。子ども達のためにもその人の我儘を守らず、その人の真心や理想を見守れるように精進していきたいと思います。

自分自身の本心~本心の棲家~

人は自分自身との付き合い方が、他の人との付き合い方になるものです。どれだけ自分の本心に対して誠実であるか、そして正直であるかは周りとの信頼関係を結んでいくためにもっとも大切なことであろうと思います。

しかしこの自分自身というものをいつまでも分かろうとせず、自分を誤魔化してばかりいると自分の本心というものを見失ってしまうように思います。なぜ本心というか、それは心とは別に本物の心と書いて本心だからです。心と思っているものは実は思い違いで、本来の心は素直な自分のことです。

如何に素直になるかは、その人の自分自身との誠実な向き合い、そして感謝に根差した正直な対話によって顕れます。言い換えるなら素直でなければ本心とは出会えず、素直でなければ自分自身でもないということです。

かつて神道禅仏一体を究めた慈雲尊者が「もとよりも直ぐなる道をとやかくと思ふこころにまどわされ行く」と言いました。意訳ですが本来は素直であるものを、自分の価値観であれこれと惑うがゆえに道から逸れてしまうという意味だと私は思います。

そしてその和歌の中で私が好きなものに「心」についてこう詠まれます。

「心とも知らぬこころをいつのまに我が心とやおもひ染めけむ」

つまりは心は自らの本心を知らないうちに勝手に自分の心を別のものにしてしまうということです。それだけ人は素直でなければ己自身を知ることはなく、結局は我執や自分の頑なで狭い価値観の中で勝手気ままに良し悪しを決めつけては物事の道理や本質を見失ってしまうということでしょう。

誰しも自分の本心を見つめるならばあまり我を張らない、つまり頑張らずいつまでも頑固に自分の価値観を周りに押し付けないことです。その上で、我を立てずその我を倒して順縁変化を愉しむことで次第に自らの本来の姿、本心がどうなっているのかに気づけるようにも思います。しかしそれでもなかなか気づけないのが自分自身の本心ですから、我を張らず本質的で実践を続けているような道の信頼できる人の話を素直にちゃんと聴くことができるようになることが最初の素直の入口なのかもしれません。

そして自分の今いただいている御縁を、「自分にもっとも相応しい」と感謝できるのはその御蔭様に気づけるからです。自分が”なにものか”を己事究明するとき、自分がどれだけ見守られて御蔭様の中で生かされ今があるか、自分が偉大な恩恵によってできているかが自明してくるはずです。それを自覚とも言いますが、自分のカラダをはじめ環境や出会い、御縁すべてが有難い”なにものか”によって与えられていることに気づきます。その真心と感謝に出会うからこそ報恩といって、その御恩に報いたいと自然に願う心が本心の棲家であろうと私は思います。

慈雲尊者は、十善という自戒を立てて実践をなさっていましたがそれぞれに人は本心が観えなくならないようにそれぞれに恩送りや恩返しの日々を歩んで素直に磨きをかけて精進していく必要があるように思います。何をするにもまずはじめに理念や初心を忘れないのはまずその我執に気づけるかどうか、本来の姿に戻ってこれるかどうかのキッカケに過ぎません。そのあとは、やはり十善のような実践を積み重ねていくことで我が立ちすぎないように謙虚に学び直しを続けていくことが最善のように思います。

最後にその慈雲尊者の「十善」を紹介して終わりたいと思います。

第一 慈悲、不殺生戒

第二 高行、不偸盗戒

第三 浄潔、不邪婬戒

第四 正直、不妄語戒

第五 尊尚、不綺語戒

第六 柔順、不悪口戒

第七 交友、不両舌戒

第八 知足、不貪欲戒

第九 忍辱、不瞋恚戒

第十 正智、不邪見戒

子ども達に譲っていく生き方に照らしつつ、自分自身の心を静かに見つめて精進していきたいと思います。

恩送り

「恩」という字があります。この字の語源は、慈悲や恵みを顕します。「恩送り」という言葉があります。これは何ものかからいただいた慈悲や恵みを同じような心で他のものへと送るということです。

この「恩送り」というのは自然の在り方や生き方そのものであり、恩送りをする人はみんな自然の恩恵に感謝できている人とも言えます。

そして他にも、恩返しというものがあります。この恩返しは、何ものからかいただいた有難い慈悲や恵みを同じように感謝の心を忘れずに報いていきたいと願う心です。どちらにしても、恩返しも恩送りもそれは感謝を忘れない人が実践している心の境地とも言えます。

これらとは別に、恩知らずという言葉があります。これは恩を忘れたということではなく、感謝の心を亡くしてしまったという意味でもあるのでしょう。本来当たり前ではない、様々な慈悲や恵み、その恩恵というものに感謝しなくなっているとその人は恩知らずとも言えます。昔「恩樹」という言葉を知った時に、如何に樹の恵みが有難いか、そうやって周囲を活かすような存在になりたいと感じたことを思い出します。樹がなければ恩も知らず、感謝を忘れては樹も観えません。感謝の心とは全ての基本であり、いただいている慈悲や恵みを当然にし何でも自分のものにしては傲慢にふるまえば欲が増長し必ず恩知らずになり慈悲や恵みから遠ざかってしまうように思います。

感謝を忘れないといのは、常に恩返し恩送りを忘れていないということです。恩が観えるかどうかというのは、そこに自分に与えてくださっている恩恵に生きているという自分を自覚できているかとも言えます。

例えば今、生きているというのは恩の御蔭様で生きているということです。そこから死を思えば、必ず人間は誰でも一度は死を迎えます。死ぬことも恩ですから、死ぬと覚悟を決めて一日一日が一期一会だと心構えでいればいただいている時間もこのカラダも瞬間も環境も御縁もすべてが御恩の賜物であることに気づきます。その天から与えていただいた御恩を同じように他の誰かに送っていこうとするのは、その恩までも欲で私物化しないと決めているからです。人が御恩を私物化し感謝を忘れれば言い訳や文句、不平や不満が出てきてより我欲ばかりが優先されてしまいます。そうではなく私物化しないと、いただいた御恩を同じように天と同じ心で恩送りさせていただきたいと願うなら、自分のすべての行動は感謝で「させていただく」気持ちで行動できるように思います。

この「させていただく」ということが恩送りであり、そういう姿勢を忘れない人は感謝の心を亡くしていないということのように思います。してやっているとさせていただいているの間には、心構えや覚悟、そして何より生き方が出て来ます。

何でもさせていただけることを感じるのは、「恩」といった偉大な自然の恩恵に包まれて生きているということでしょう。「恩送り」の生き方を、子ども達に譲っていけるよう精進していきたいと思います。