彼方の海道 弐

昨日は島伝いに私たちの祖親たちは、海の彼方の根の国から来て種を持ってきて開闢してきたということを民俗学の視点から言いました。また人類学・考古学の観点からは種子島をはじめ琉球列島は3万2000年前に山下洞人、1万8000年前には港川人が住んでいたことも分かっています。種子島の遺跡からは、広田人といって縄文人よりも前に貝文人という人たちいて土器に貝を使って装飾をしていた人たちがいたことも分かっています。縄文時代は土器に縄で装飾をしていたことで縄文ですが、貝文というものは貝で装飾をするから貝文です。

これらの貝を用いた人たちは、貝を拾い貝を食べ、貝に装飾をしてそれを交易し、あらゆるところを移動して様々な文化を伝えたということが分かっています。その証拠に、日本中のあちこちの遺跡で種子島で加工された貝の装飾が見つかっているからです。

沖縄では、かつてグスク(城)と呼ばれる聖域を人々の集合体がありました。今でも今帰仁城や首里城など今でもいつか残っています。その後も按司と呼ばれる人々をとりまとめた人たちを中心にかつての交易文化を駆使して、あらゆる近隣の国々と交流して様々な文化を融和融合させてきた和の心を持っています。

和の心は、今でもそのまま受け継がれ私たち日本人の考え方の中にも色濃く継承されています。私たちのルーツを辿っていくと、私たちはどうやってできたのか、そして私たちはどのように歩んできたのか、さらに私たちのずっと昔の先祖は何を大切にしてきたのかを知るというのは「自分自身」になり、「自分自身」を知るためにとても大切なことであると私は思います。

古事記や日本書紀、日向神話などもありますが、その中に共通して息づいているものを紐解けば、随神の道を遡ることができます。その道の彼方には、私たちの民族性というものの根幹があり、その根とつながることは今を生きる私たちの本質を自覚することでもあります。

今日から久高島にいきますが、ここは琉球の創世神話アマミキヨ(アマミコ)の場所であると言います。ここはとても不思議な島で、かつて中国から使わされた冊封使の副使 夏子陽が書き残した「使琉球録」という古典が「異種の人」という呼び名でこの島の人のことが紹介されています。

「久高島 世に異種の人を生ず。往古の時より知念間切久高島に異種の民有り、賦性(生まれつきの性質・天性)誠樸(誠実でありのまま飾り気がない)、聡敏(感覚は鋭く、物事の理解が早く賢い)人に過ぎ、善く産業を為す。家道る富みて、今其の族七八有り。皆膝よりに至るまで甚だ痩せて踵なし。短く指長く、其の状 手掌の如くして地に按つ」(使琉球録の巻十四)

意訳すると、久高島には不思議な人たちがいる。生まれつき素直で誠実、感受性や直感が鋭く吞みこみも早くどんな智慧も吸収する。家や暮らしは豊かで今でも7~8人はそういう人たちがいる。特徴は、膝より下が痩せてかかとがなく足の甲は短く指が長い、その様子はまるで手のひらのようであると。

特徴が不思議なのも驚きますが、性格や個性が今の日本人の特徴と似ているのではないかと感じるのです。どんな人たちだったのかはわかりませんが、外国の人たちが私たちのことを素直で純粋、純朴で美しい民だと評されるような祖先がいたのではないかと直感します。

今一度、こういう時代だからこそ自分たちの本来の姿はどういうものかを観直してみたいものです。最後に、小泉八雲が世界に紹介した日本人の品格について紹介して魂の声を確認していきたいと思います。

「彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。・・・人々はみな、お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。『こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする』。たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない」

根(ニライ)と通じるのは、その真心です。真心の日々を味わいつつ、子どもたちに譲れる未来を見守りつつ直向きに伝道していきたいと思います。

彼方の海道 壱

昨日からカグヤ一家のみんなと沖縄に来ています。昔、民俗学を深めていたときにルーツを辿る旅をしたことがあります。海上の道といって、民俗学の柳田国男さんが稲は沖縄・奄美と南方の島伝いに来たとの仮説を説いたように、周囲を海に囲まれた日本列島は太古以来海上の道を通じて広い世界につながっていたということを調べています。

種と共に人がどのように移動してきたかということに着目をして、先祖たちの移動の経路を辿ったのです。以前、種子島に訪問したときある遺跡から赤米を育て赤飯を炊き、貝に装飾をし交易をする古来の民がいたことが分かってきています。またこの南国の島に遺る数々の神話には、ニライカナイという根の国に棲んでいた民が渡来してきたことが口伝されていまに遺っています。

自分たちの先祖がどのように暮らしてきたのか、そしてどのような生き方をして今にいたるのかを知る旅は今を生きる私たちにとってとても大切なことだと私は思います。祖親たちから受け継がれてきた「思い」や「祈り」を、譲られているから私たちの価値観が存在し、私たちの「真心」が生きているとも言えます。

何かを考えるモノサシに「悠久の魂」を感じることは、本来の私たちの暮らし方を見つめ直す大切な機会であると思います。この世のすべては御縁によって結ばれているともいいます。そういう御縁に結ばれていることが常にはっきりと観えているのは心の豊かさに生きていることであり、感謝や御蔭様、偉大な恩恵を授かった今の自分を大切に生きることに似ています。

地球は46億年、そして私たちの先祖たちも何億年も前からこの地球の中でいのちを譲り渡してここまでつないできてくださいました。その「思い」を子どもたちに「つなぐ」のもまた私たちの役割であり使命です。

どんな生き方をしてきたか、どんな魂の磨き方をしてきたか、それは今を生きる仲間たちによって思い出され甦ってきます。懐かしい島の音を聴きながら、「彼方の海道」に思いを寄せてみたいと思います。

 

思いの結晶~ひと・つなぐ・いのち~

私たちは日頃は意識していませんが、それぞれに役割というものを担いそれぞれに活動することで社會を維持しています。例えば、私たちがお金を出してレストランで食べる料理一つ一つまで、野菜は種から実をつけるまでお世話する農家がいて、それを集めて出荷する方がいて、またそれを輸送する方がいて、料理する人がいて私たちは美味しいものを食べることが出来ます。

この一つ一つ何かが欠けても成り立たず、私たちはそれぞれに自分の役割を果たすことで周りの社會を活かすことができます。

明日駅伝大会に参加しますが、この駅伝にも同じような意味を感じます。それぞれに自分の役割を果たすからこそ、みんなでつないだ「思い」を、誰かに届けることが出来るのだと。駅伝は、それぞれは一人ひとりでそれぞれの与えられた場所を走ります。走っている最中は、自分の分担したものを果たすだけですが実際はその自分の走るところに大切な役割が存在します。

みんなのために自分が走るのですが、自分が勝手に走っているのではなく自分自身が走ることが皆と走っていることになるのです。「思い」をつなぐというものは、自分の役割を認識しているということです。自分だけがよければいい、自分さえよければいい、自分のことさえやっていればいいという思いでは、その思いは周りの「思い」とつながることはできません。自分がどんな「思い」を籠めて自分の役割を果たすのかが本当の意味でも協力であり役割分担です。

先ほどのレストランの話で例えれば、本当に美味しいものは農家さんの安心安全で自然なものを育てたいという「思い」を、それをカラダに善いものを多くの人たちに食べてもらいたいという願いを籠めて集める「思い」と、大切に育てられ集められたものを崩さずに鮮度を維持し丁寧に素早く届けたいという「思い」と、届いたものをお客様に幸せに美味しく心身が健康になるように食べてもらいたいという「思い」が『つなぐ』からこそ、私たちはそのつながった思いを一緒に食べているのです。美味しいと感じるとき、それは単に舌先三寸で味わっているのではなく多くの方々がつながっていることを実感して深く味わっているのです。

駅伝での役割分担もこれに似ています、そして仕事での役割分担も同じです。

駅伝部が始動し、協力や助け合いといったことも深まりましたが実践というものはその「つながり」が観えているか、「つなぐ」気持ちで役割を担っているか、一人ひとりが目先の作業に意識を奪われるのではなく、その大切な「思い」を届けようとしているかということに関係するのです。多くの「思い」に支えられている人は「思い」によって助けられ、救われ、見守られ大きなお力添えをいただき事を成就していきます。もしも「思い」に支えられていない人ならば、その人は簡単にそこで力尽きるかもしれません。

人がお役に立つのは思いが観えるからです。

「思い」をつないでいるという感覚というものは自然循環の中で共生するいのちの姿を実感することに似ています。私たちは周りの方々の「思い」により大切に生かされてきました。そして生かされた自分、見守ってくださって育ててくださった方々の「思いの結晶」の自分。その偉大な恩恵を授かっている自分をどう盡していくかは、一生涯の命題とも言えます。

いただいた御縁、いただいた御恩、その中には「思い」がいっぱい詰まっています。その「思い」を大切に守り、そして仲間へと「つなぐ」ことが私たちの本当の「お役立ち」かもしれません。自立の本質は、周りの仕合わせが自分の仕合わせになることでしょうから子ども達のためにも常に自分の「思い」を大切に道を歩み続けていきたいと思います。

自然体

自然循環の中にある素直な世界の中で、私たち人間は自分たちの都合の良い世界をつくり上げています。本来の自然に沿った生き方をしていれば、人間の我欲や我執などに縛られにくいものでしょうが実際は個人主義が蔓延しそれぞれが自分の思い通りにしていこうと自分の価値観を優先しているものです。

本来は、すべての生き物たちは自分の都合を優先せずに自然に合わせて自然に沿って暮らしています。それは素直な世界であり謙虚な世界で生きている方が安心して信じた世界の中で見守ってくださっていることを実感できるからです。

そういうものを私たちは神様とも呼びましたが、実際の神様はお願いばかりする存在になってしまい本来の神様の姿とは程遠いものになっているように思います。実際の神様は自然ですから、自然の中にいて自然に沿っているときには絶対的な信の安心の中でその存在を実感できるように思います。

不自然な生き方とは何か、それは人間の都合ばかりを周りに押し付けていく生き方のことです。例えばこれは人間関係でも同じです。自分の価値観を押し付け合っていることをいがみ合い不仲、そして非協力、最終的には戦争に発展していきます。相手に都合がいいことは自分には都合が悪い、御互いに自分の価値観を認めさせようと躍起になっているだけでいつまでも折り合いがつくこともありません。

我儘さというものや自分勝手というもの、自己中心的な考え方があるからこそ価値観の押し付け合いからの人間関係の不仲は広がっていくだけです。だからこそ、そういう時は自分の価値観を見つめそれを手放しゼロベースで流れに従い応じて柔軟性を持って対応するチカラが必要だと思います。

そしてそれが素直さで謙虚さです。

素直さと謙虚さは、自分が何を間違っているかを確認するということです。それは天の声が聴け、自然の声が聴け、周りの声が聴ける状態です。聴けるというのは、自分の心に尋ねて心が感応しているということでもあります。

自分の価値観を手放し、大きな流れに身をゆだねていくことは信じているということです。信じていることがあれば、すべてを受け止めることができます。そして自分の方が変わっていくことを愉しんでいく境地に入ることが出来ます。

境地の体得をするまでどれだけ精進していくか、初心を忘れずに本来の活かされている自分を感じられているか、御縁のつながりが観え続けているか、日々に内省を続けて何が間違っているかを改善することが人格を磨いていくことだと思います。

出会いが人を変えていきます、一期一会の出会いを大切に常に自分に矢印を向けて自然に近づいていきたいと思います。

孤高の志~覚悟~

アメリカのオバマ大統領が尊敬する人にキング牧師が居ます。インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに啓蒙され、非暴力主義で黒人公民権運動を行った方です。

「私には夢がある・・」の一節は、オバマ大統領も演説の中で使っていました。私もこの演説をかつての映像で拝見したときは、魂が強く揺さぶられた記憶があります。

このキング牧師の遺した言葉にも、魂が揺さぶられるものばかりで如何に覚悟を持って生きることが大切か、自分自身を自分で決心し生きよという本気さが言葉の中に滲み出てくるような思いがします。そのいくつかはすべて、自分の人生の責任を他人に委ねるなという自戒が込められているようにも思います。不可能を可能にし、夢を実現するのはまず自分自身が覚悟を決めることであるということをキング牧師の生き方から学び直せます。

例えば、「もし世界が明日終わるのだとしても、私は今日りんごの木を植える。」があります。周りがどういう状況であろうとも、どんなに苦しみに打ちのめされても私は自分で決心したことは最期までやり遂げるという覚悟です。

そしてこうも言います。

「そのために死ねる何かを見つけていない男は、生きるのにふさわしくないのではないか」と。

生き方というのは死に方です。どんな死に方をするのかを何のために死ぬのかを決めていない人では、どのように生きるのかもまた決まらないだろうということなのでしょう。

「ほとんどいつも創造的でひたむきな少数派が世界をより良いものにしてきた。」とも言います。本気で遣りきってきた人たちが周りを変えていったのだという事実を語ります。そして「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく善人の沈黙である」と。善人は思っていても実践しないから単なる善い人で終わります。実践する人は歩んだ道が遺りますから必ずその道の跡に気づいた人たちが自らを変革していく変化になります。やらない不正とも言いますが、不正をしていなければいいではなく見て見ぬふりもまた不正であるということでしょう。だからこう言います。

「人は『発言する』ことにのみならず、『発言しない』ということにも責任を持たなければならない。」と。自分自身の覚悟はどうかを常に確認して発言するしないに関わらず、その責任を自覚しているかということを問われているのです。

その人生は、最期の暗殺される瞬間まで覚悟が光り続けた自分を生き切った方でした。暗殺の前日のスピーチには、夢を生きるとは何か、そして自分自身を生きるとは何かを感じます。それを紹介して終わりたいと思います。

「これから何が起きようとしているのか私にはわかりません。私たちの前途に困難な日々が待っています。でも、今となっては、私にはどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は山の頂上に達したからです。だから私は気にしない。皆さんと同じように、私も長生きがしたいものです。長寿とはよいことです。でも、今となれば私にはどうでもよいことなのです。

私はただ神のご意志を実現したいのです。神は、私が山に登るのを許されました。そして私は山の向こうに約束の地を見たのです。

私は皆さんと一緒にそこにたどり着けないかもしれない。しかし、今夜、皆さんにわかって欲しい。私たちは、ひとつの民として必ずや約束の地に到達するということを。

だから、今夜、私は幸せです。私は何も心配することはなく、誰をも恐れてはいないのです。私の眼は、神の再臨の栄光をみたのです。」

孤高の志は不滅です、真心で真摯に道を切り開く本気の姿勢を見習い、日々に自己の完成を精進していきたいと思います。

価値観を磨く~人格を高める~

人は今まで生きてきた中で自分の価値観というものを形成してきます。それは自分にとって好きなものは何か、自分にとって都合のいいのは何かということが身に付いてきた経過とも言えます。それは言い換えれば「生き方」とも呼ぶものです。どのような生き方をしてきたかが今であり、その生き方の集積が今の自分の価値観とも言うものです。

その生き方を換えることが自分を変えるということです。生き方を換えるような機会に出会えることは仕合せなことですが、みんな自分の生き方を換えてまで何かをやろうとはなかなか考えないものです。自分らしさをはき違えたり、相手らしさというものも勝手に勘違いします。価値観があるから自分の思い通りにしたい、相手を思い通りにしたいと思うものです。実際に自分がしないかどうかとは考えずに相手に求めては期待をするのは理念を実践するのとは異なります。

イエローハットの創業者である、鍵山秀三郎さんの掃除道があります。今では日本全国でその道を学び掃除に取り組む人たちが大勢増えていますが最初に自分の会社で掃除を始めたとき、社員は誰もしてくれなかったそうです。しかもその掃除をしている鍵山社長の手をまたいでいったといいます。 社員がみんな自主的に掃除をするまで10年はかかったといいます。それでも「掃除をしなさい」と強制はしなかったそうです。自主的にやらないと本物にはならないと気付いていたからです。

その鍵山さんの言葉にはなぜ理念を実践する必要があるのか、なぜ価値観を超えて人格を磨き心を成熟させていく必要があるのかの理由が示されているように私は思います。そのいくつかを紹介します。

「この国をよくするのは、財務大臣でもなければ、総理大臣でもありません。国民一人ひとりの、ほんのちょっとした生き方にかかっています。」

誰かをあてにし期待するのではなく、自分自身が実践することが生き方であり覚悟であるということです。

「人間は義務でやらなくてもいいことが、どれだけできるかということが、人格に比例していると思います。」

主体的に自ら気づき自らを変革できるものだけが人格を高めていけるということです。義務ではないということが磨いているという証です。

「いままで、誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けました。そのおかげで、平凡の中から生まれる、大きな非凡を知ることができました。」

自分の生き方を換えることで世の中そのものが変わるという体験のことかもしれません。マハトマ・ガンジーが「世界を変えたければまず自分が変わることだ」という遺訓があります。

これは価値観のことを言っています。相手に変わってもらおうと思っても他人をあてにして自分の世界を変えることはできません。なぜなら自分の価値観がこの世界の見え方を決め、自分の価値観が実際の素直な世界とズレて見えているからです。

自分の価値観に固執し頑固になり、相手に自分の世界通りにいてほしいという欲望がある限り、世界はいつまでもとどまったままで何も変わることはありません。だからこそ思い切って自分の方を変えていこうとすることで、今まで気づけなかった新たな価値観に出会い自分自身の価値観をゼロベースで修正していくことができるのです。

自分が間違っていると気付くには理念が必要ですが、その理念に対して間違ったと気付いたならば柔軟性をもってサラリと変わってしまうことが謙虚さであろうと思います。そのサラリと変わるには、地味な実践が必要で日々にコツコツと理念に対して反省し内省し自分の価値観が独善的にならないようにメンテナンスする必要があるのでしょう。

価値観が異なることは別に悪いことではありませんが、一つの価値観を押し付けるというのは世界を縛り付ける妄想を拡大させているだけかもしれません。世界は本来は自然のように変わらずに存在しています。その自然の手ほどきを受けられる素直で謙虚な心をいつまでも忘れないように精進していきたいと思います。

私たちの理念「子ども第一義」とは、単なるらしさではなく子どもにどんな生き方を遺して譲っていきたいかということです。価値観で理念までも私物化し歪めることがないように克己復礼しつつ日々新たに理念の実践を深めていきたいと思います。

 

名誉の傷~トラウマ~

人は誰しもトラウマというものを持っています。このトラウマ“trauma”という言葉は、古代ギリシャ語で「傷」を意味します。フロイトが心的・精神的外傷のことをトラウマと名付けたところからきています。

人はかつて心的・精神的な傷を負うことで後遺症がいつまでも残っているものです。これは肉体的な傷と同じで、昔の古傷がいつまでも痛むように強烈な痛みを伴う怪我はのちのちまで感覚が覚えているものです。これを心や精神でも起きているとも言えます。

人はあまりにも強いショックを受けた時、それを自分の中で認めることができずに自分自身が乖離してしまうのです。昨日、自分と自身についてブログで書きましたがこの自分自身との関係の中で如何に認め合うことが必要かを書きました。実際には認めがたいことがあり認められないと拒絶するといつまでもその影響は引きずってしまうようにも思います。

自分との関係を認め合えなければ、どうしてもまわりも認められていると感じることができません。自分がいくら認めていると思っていても、周りは認めていないことは伝わります。その認められない理由の中にもしもトラウマがあるのなら、それがあることを自分自身が認め、周りにもトラウマがあることを伝えることで肩の力が抜けていくのかもしれません。

「傷」というのは、傷跡が残ります。完治したように見えていても、傷ついた記憶はいつまでもなくなりません。私自身も人間関係でかつて傷つき傷つけあい、自分自身を責めて許せなかったことで認めなかったことがいつまでも心の傷になり、現実で似たことがあれば胸が締め付けられ思考が停止し感情に呑まれ苦しくなって解離してしまうことが多くありました。生きていれば傷はつきますから、何度も傷を負っては前に進むことが嫌になることもあります。

しかしその傷の御蔭で、その後の人生を気を付けることができたり、また今までの以上に人を大切にすることが出来るようになったりします。自分自身の不注意から思いやりに欠けていたり、自分勝手な自我欲から大切な人を粗末にしてしまい傷つけたりと、自分自身が無意識無自覚でやってしまうことで人は互いに傷つけあいます。その傷つけあったことを未熟であったと認めていけば、その未熟であった自分を生長させて残りの人生はそこで学んだことを周りのためにとお役立てしていこうとすればその傷は名誉の負傷になるように思います。傷つくことを恐れてトラウマだとし諦めるのではなく、敢えて傷ついてでも前に進もうというのはその傷を負ってでも遣りたいことがあるという真心があるからかもしれません。

ドイツのショーペン・ハウエルが『名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。』と言いました。名誉の負傷は、傷ついた過去を学び直して善いものへと転じていこうといった主体的で幸福な生き方を選択するということです。

自分のトラウマを無意識に避けるのではなく、このトラウマは誰かの御役に立てると信じてそれを活かそうする真心、その方々にいただいた御恩を何かしらの困っている人に返していきたいという思いやりがトラウマをも活かすということになるのかもしれません。

痛みが分かる人は共感力が高い人ですし、痛みを知る人は他人の痛みにも優しく包み込むことが出来る人です。自分にはないといくら思っていても、過去の痛みはいつまでも心の中に遺っているものです。その遺った痛みを福に転じて同じような痛みの人たちに乗り越え方を伝えられるのなら、その痛みの御蔭様に感謝する日もくるでしょう。

すぐにはとはいきませんが、心で寄り添って痛みを分かち合えるやさしさと強さを自分自身で磨いていきたいと思います。何か意味があるといった味わい深い御縁に感謝して、傷を癒して傷を名誉に換えていきたいと思います。

 

自分自身

人は自分を信じて厳しくするのと、自分を信じないで厳しくするのではその甘えの構図は異なります。自分に厳しくすることは、本来は自分に甘えないということですが自分に甘えれば甘えるほどに間違った厳しさを自分に課してしまうものです。

自分というものは、本質的に進みたい自分と、現実的に進みたい自分が同居しているようなものです。つまり例えて観れば自分の中には二人の自分が存在しているように捉えてみればいいように思います。言い方は別にしてここでは「自分」と「自身」にして例えてみます。

自分というのが本質的自分だとしたときに、自身というのを現実的自分だとします。これらの自分と自身が協力関係にあるときは、自分自身になり一体となって信じ合うことができています。この状態のときは、無理に環境で自分を追い込まなくても自分の意志にあわせて身体が動いてくれます。朝早く起きて何かをしようとするときに自然に無理なく起きることが出来、健康健全で手伝ってくれるのは御互いの信頼関係が築けているからです。自分を少し優先してくれて自身がそれを支えてくれれば、ほとんどのことが融通無碍に自由自在に愉しく取り組んでいくことができます。

しかしもう一方で、自分と自身が不信になり信頼関係が結べていないと自分と自身が敵対関係になります。すると、自分がやりたくても自身がついてきませんから常に自分と自身で御互いに追い込み合ったりいがみ合って仲が悪くなっていては何をするにも無理をしないといけなくなります。朝早く起きて何かをするのも言うことをきかず、無理やりに目覚ましや何か環境で追い込んではなんとかしてしまうのです。環境を追い込んで無理やり自身を抑え込んだにせよ、自身と自分は同居していますからいつまでも仲が悪いままでは済まされません。如何に御互いに信頼関係を結んで折り合いをつけるかが大切で、これが他人との信頼関係を築くうえでもとても重要な要素になってくるのです。

自分自身と仲良くしていくには、信頼関係を築いていく実績が必要です。言い換えれば自分自身が御互いに甘えずに信頼を優先して協力していくことの集積があって、御互いがチカラを合わせて乗り越えていくことができるように思います。それは決して自身が言うことをきかないからと無理やりに環境で追い込むのではなく、自分自身と対話をして断捨離をし覚悟決心を定めて実践していくことだと思います。

実践というものは、自分自身の協働作業とも言えます。互いに信頼し合っているからこそ実践は続けていくことができます。実践できたという一日一日の積み重ねこそ、信頼関係の構築であり、御互いに「よく頑張ったね、有難う、御蔭様、恩にきるよ」という自分自身との励ましや思いやりが、周りへの信頼にもつながっていくのでしょう。

まず何かを判断する前に、自分自身が逃げていないか、甘えていないかを確認したら、後は真摯に実践を遣りきって内省していけば本らの自分自身に出会えるように思います。この世に産まれてきて、一生涯ずっと寄り添ってくれるパートナーは自分自身です。子ども達が自分自身のことを好きになるためにも、正直に信頼し合える関係を築いていきたいと思います。

 

情熱意識~薪をくべ続けること~

昨日、GTサミットが東京で開催されました。全国から同じ理念で保育を実践し高め合う仲間たちが集まり、語り合い学び合いました。総勢90名もの各地域のリーダーが集まると、会場は強い熱気に包まれます。

この熱気というものは、その人の熱意によって発生します。この熱量とは一体何か、これは情熱の意識のことです。これをやろうと決めている人たちや、やり遂げようと精進している人たちが持つ熱意の集積が会場の熱量になっているのでしょう。

人は熱意がなければどんなことをやろうとしても実現できることはありません。いくら能力があるからと、才能があるからと、取り組んでいても、長い年月継続して最期まで遣り抜くには必ず其処にその本人の熱意があります。

京セラの創業者稲森和夫さんも人生の方程式として、「人生 仕事の結果=考え方×熱意×能力」であるといいます。この3つがかけ合わさってはじめて人生が顕現してくるからです。その中で一番大切なのは、やはり熱意ではないかと思います。熱意がなければ一所懸命に取り組むことができません。人はどんなに壁が立ちはだかろうとも熱意があれば禍も転じて福にしていくプラスのチカラを得ることができます。熱意が乏しければ運にも気づけず、その運を伸ばしていくこともできません。熱意というものは、初心を燃やし続ける燃料でありその燈火を絶やさないという覚悟です。

また松下幸之助さんはこうもいいます。

「熱意に関してはだれにも負けないものを持たなくてはならない。知識なり、才能なりにおいては人に劣ってもよいが、熱意については最高でなければならない。指導者に、ぜひともこれをやりたいという強い熱意があれば、それは必ず人を動かすだろう。そしてその熱意に感じて、知恵ある人は知恵を、才能ある人は才能をといったように、それぞれの人が自分の持てるものを提供してくれるだろう。指導者は才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことを恐れなくてはならない」

できるできないがモノサシの判断ではなく、熱意があるかないかがモノサシの判断であるということ。必ず初志貫徹するという熱意の質量が、今の自分の姿であるということかもしれません。

自分に如何に薪をくべ続けて火を燃やし続けるかは、その人の求めていく熱意と行動が決めていきます。一年に一度でも、熱意ある仲間が集まることでまた情熱に薪をくべてその火を燃やせばまたその燃えた火によってさらに前進していくことができるものです。

燻っている火がまた燃えていくのを見られることも仕合せなことだと思います。子ども達の情熱もまた、周りの大人たちの生き方が薪をくべていくように思います。自分たちの情熱が子ども達に譲られていくことを念じつつ、何よりも強い熱意をもってこの見守る保育を弘げていきたいと思います。

自然共生の本質

自然界には共生関係というものがあります。それは相互扶助の関係で御互いに助け合うことで御互いを守る関係です。これを共生とも言いますが、本来の姿をよく見つめてみると自然は競争ではなく全て共生で成り立っているとも言えます。

例えば、アカマツとマツタケの関係があります。アカマツとマツタケの共生関係は「菌」が関係するということが解明されてます。 外生菌根から土壌中に広がる菌糸を根外菌糸体と呼び、松茸は根外菌糸体が土壌中から吸収した養分の一部を外生菌根を介して松の根に与え、逆に松が光合成で得られた糖分を分けてもらいます。痩せた土地であればあるほどに力を補い合い、御互いが存在しなければ生きることもできないというのが共生の関係です。

そして共生は、単に御互いにメリットがあるからやっているのではなく、一心同体に一生懸命自らのいのちを与え続けて生き切ることにより献身的に助け続けて成り立ちます。このマツタケでいえば、アカマツが育つまでは菌は栄養を貰うことができないのです。それまではじっと信じて耐えて何年もアカマツが育つのを待つのです。

そしてこの共生と子育てはとても似ているように思います。

全ての自然界の生き物たちは子育てを通して共生関係、相互扶助を結びます。鳥であっても、育つまでは大人の雄雌で給餌をして必死で子どもを守り育てます。他にもサバンナの生き物たちも危険を省みず同じように自分のいのちを懸けて子どもを育てます。そうして何年もかかるものもあれば、人間のように十数年~数十年以上かけて子ども時代を見守ります。

その間は、自分の養分を分け与え続けるのです。そうして育ったものから、今度は自分が生きるためのいのちの糧を分けてもらうのです。本来の自然観とは、生死がかかっています。つまりは必死の中で、生きるか死ぬかの中に存在します。そういう中での助け合いとは共生であり、相互扶助の本質です。

人間のように今ではそんなに生き死にが身近になくなってきているから、共生のことが分かりづらくなってきているのかもしれません。頭で妄想している自然は不自然ですから、本来の自然に生きているいのちに私たちは学び直す必要があるように思います。そして自然界が競争ではなく共生である理由は「必死」であるから相互扶助(共生)が存在しているのです。

今の社會は助け合わなくても一人で何とかできるかのような風潮が出てきています。そんな不自然な環境下での助け合いは本来の助け合いの本質とほど遠くなっているようにも感じます。

共生の本質が理解できるのは、必死であることを自覚しているからかもしれません。自然の智慧を学ぶには教科書のように知ればいいのではなく、文字通り自然本来の姿に自分を近づけていくことのように思います。

共生から自分の刷り込みに気付けるように、学び直しを深めていきたいと思います。