試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。

時間をかける営み~善きこと~

自然の中で様々な作物を育てているとじっくりとゆっくりと物音が動くことの真価に気づくものです。先日も「ちょっとずつ」こそ智慧であると書きましたが、この時間をかけてじっくりと行われることについて物事が成就することの本質を感じます。

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに下記の名言があります。

「善きことはカタツムリの速さで進む」

この善きこととは、自然の悠久の流れのことをいうように私には思います。自然の浄化力というものは、とても偉大であり壮大な時間をかけて自然は元に回帰します。それはまるで宇宙の銀河が無に回帰するように、星々の存在が無限であるかのように私たちの想像をはるかに超える営みによって改善され続けます。

地球の悠久の営みの前では、私たち人間が何かの人工物をいくら創ったとしても、そのうちすべて土の中に戻っていき何事もなかったかのようにしていきます。どれだけ人間が眼前の変化に焦ってみても、長い時間をかければ必ず自然に戻るという安心感こそが自然の醍醐味であろうとも思います。

世間にはこのままでは地球は滅ぶと危惧する人もいますが、実際は人類が亡びそうなだけで地球の営みはまた悠久の時間をかけて回帰していきます。「時間をかける」ということは、その心に自然の営みに逆らわない本質のままの実践をするということです。周りから見れば変な実践に見えるようなつまらないことであっても、その決心が自然に照らしたものならばそれは時間をかける営みになります。

今の時代、あまりにもスピード重視、効率重視、結果重視で、不安をあおり焦りを与える競争原理が空気のように社会を包みますが、その心に理念や初心が根付いているのなら本質からブレずにじっくりと実践し歩むことを忘れないでいられるように思います。

ガンジーがいう人類に対してのもう一つの言葉です。

「人生は速度を上げるだけが能ではない。」

魂を生きたガンジーだからこそ、速度というものについて普遍の考えを持っていたのかもしれません。終わりもない始まりもないところにもしも自分を置くとしたら、速度というものは関係がないものであることに気づきます。

「重要なのは行為そのものであって結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分ではどうなるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。」

これもまた「善きこと」そのものの言葉です。

この重苦しい社会の雰囲気を、一つひとつの実践で取り払っていきたいと思います。

忘れてはいけない視点

人は物事をどれだけ長い目で観るかで物事の視方が変わっていきます。

自然はとても長いときを生きていて、自分だけの人生などを考えている暇がありません。何万年も何千万年も変化を已まずこの地球で生きることを許されているということを味わい楽しんでいるかのようです。

全ての「いのち」には自立というものがあります。

例えば、親子がいて幼い頃は守られますがある時期からは自分でやることを促され自立していきます。猿であろうが犬であろうが、鳥であろうが親が子に対してある時期を境にそれまで分けていた食べ物を一切分けない姿をみかけます。

ここに一つの気づきがあります。

長い目でみたら親は必ず先に死んでいきます。死んだら子どもは自分で生きていかなければなりません。見た目には親が子を突き放し大変厳しいように見えても実際は深い慈愛から行っているものです。その時に生きて往けず死んでしまう子どもがいて可哀想だと思いますが、長い目でみたらそれを乗り越えていかなければ先々にもっと辛いことが起きることを知っているのです。長い目でみるとそれは甘やかしているのかどうかは一目瞭然です。自然の親子は長い目で観て善くないことは絶対に善くないとして厳慈に透徹するのです。真の愛情というものは、狭い視野た短慮では理解できず長い目で深慮するときにこそ実感するものだと私は思います。彼ら自然の親子の愛情は少しも変わらず「いのち一切の愛」を丸ごと与え続けて悔いはありません。

自然というものは偉大な長い時間を長い目で考えて活動しています。

今の時代の私たちはとかく短い時間の短い目で物事を考えてしまいます。全ての中心に自分を置いてしまえば、視野も狭くなり余計に目先の問題だけに終始してしまうのでしょう。今は生き方の実践というものをあまり優先されなくなったのでしょうが、昔の生き方を守っているインディアンや少数民族たち、古老たちが語る言葉には何代も廻ることを優先させる文化があります。

自然は悠久の時をもっています。

その悠久の時に自分を合わせるとき、長い視野の実践が如何に自然の智慧そのものであることを自覚するのでしょう。情報化社会のスピード重視の変化の中で、長い目でなど死語になりつつありますが本来の視点は「いのち」や「生き方」にあることを子どもたちのためにも私たち大人が忘れてはいけない視点であると思います。

刷り込みに負けない胆力、刷り込みに流されない信念、そういうものを長い目を通して培っていきたいと思います。ここまで「いのち」をつないでくださった方々たちのご縁があって今の私が存在できているという真実は決して忘れてはならないと思います。

子ども達のためにも長い目で見守っていきたいと思います。

 

自分を変える~刷り込みを取り払うこと~

人間は動機の目的を常に初心や理念で腹に据え、自ら掃除をするかのように我欲や私心を取り払わずに何かに執らわれてしまうと本質を見失ってしまうものです。そもそも何のためにやっているのかを自分自身が忘れてしまい、自分がこうしたいやああしたいといった執着に囚われてしまえばありのままに視野を広げて素直に物事を観ることができなくなるものです。

以前、小林正観さんの「MUST」くんと、「としこ」さんという話を知ったことがあります。このMUSTくんというのは、「ねばならない」という状況になっている人で、もう一人のとしこさんは「とらわれない・しばられない・こだわらない」の頭文字の略で、「融通無碍」の状況になっていると言います。

このねばならないというものがあればあるほど刷り込みが深くなっているのではないかと私は思うのです。例えば「親子はこうあらねばならない」「会社はこうあらねばならない」「私はこうあらねばならない」「社長はこうあらねばならない」「部下はこうあらねばならない」「世の中はこうあらねばならない」など、これらも全て自分の刷り込みに縛られている元凶でありそれをどう断念し手放すかということが肝心なのです。これらの「ねば」ならない人を総称して冗談でしょうが「ねばねばした人」と呼ぶそうです。

またとしこさん「とらわれない・こだわらない・しばられない」の方は、「それもいいね」「そうなったら嬉しいね」「だったらこうできるね」「転じてみてら面白いかも」というように、視野も広く心も寛く、あっという間に「物の視方」を変えて自分の方を変化することができます。こういう状態を素直というもので、それは単にその人がポリシーがないからそうなっているのではなく、確かな理念や初心を忘れずに揺らぐことがない信念があるから変化を楽しんでいくことができるのです。

私もよく「なんでもいい人」と勘違いされることがありますが、実際は理念や初心、本質には徹底的にこだわります。なぜならそれが全ての動機の理由であり、それがやりたいから自分を変化させていきたいからです。相手を変えようと思えば思うほどに執らわれは深くなりますし面白くなくなってきます。しかし自分の方が変わればいいと、物事の観方を変えてしまえば嬉しい楽しい仕合せと感じることが増えるのです。

しかし人はいくらこれらの理論を頭で理解しても実際にはそれはできないものです。現実は頭で考えたようにはラクにはいかず、常に現実を変えるには「現」場+「実」践という現=実の方を変えなければ信が身につかないものだからです。物事を観方を変えるということであったにせよ、それは実際に自分の方を変える実践を日々に積み重ねて年数を経ていかないとできるようにはなりません。簡単に分かったからと現実が変わるわけではなく、それ相応の実践と体験を経て本質から外れにくくなってくるのです。

だからこそ何よりも「信じること」と「実践すること」が大切なのです。

相手と自分との執着で「こうあらねば、あああらねば」と投げつけ合ってはねばねば粘着して身動き取れない人間関係を続けていても御互いに苦しいだけです。せっかくのご縁なのだからと思い切って一緒に新しいことにチャレンジしようとか、新しい自分に出会えるかもとか、新しい発見があるかもとか心を気楽に笑って取り組むことでねばねばもまた解きほぐされていくように思います。

人間は誰しも剣豪宮本武蔵のように「無の境地へ」とはなかなかいきませんが、しかし本質や理念を少し自分よりも優先し自分の執らわれに気づくようには努力していきたいものです。自分がどうしても行き詰り生きづらいのは我執がこびりついているからでそれを理念の実践によって仲間たちと一緒に一つ一つ取り除いていけばそのうち心もまた楽になっていくように思います。

私たちの仕事は「子ども第一義」、子どもが憧れる生き方を譲ることを優先するのだから今の社会や今までの過去の柵から沁み付いた自分の刷り込みや執らわれを一つ一つ丁寧に向き合い実践により取り除いていきたいと思います。

自分が変わる機会というのは人生では何度でも出会えます。そのつど、感謝の心で変わらせていただける仕合せに出会った御縁を大切にして無二の一期一会を味わっていきたいと思います。

ありがとうございます。

競争原理の刷り込み

人は競争原理の社會の中で、できる人とできない人、勝つ人と負ける人というように二分化しているものです。社會の価値観というものは、まるで空気感のように、当たり前にその意識を存在させているものです。

例えば、魚が水があることをいちいち意識することがないように、鳥が風があることをいちいち意識することがないようにそれは当たり前になっています。競争原理というものも産まれたときから当たり前になっていたら、それを疑うことはありません。

しかしよくよく本質から省みてみると、確かにその価値基準は自分の人生観において多大な影響を与えていることに気づきます。

そもそもできる人にならなければならないという考え方は、できることが良い、できないことは悪いという価値基準に縛られているものです。できる人というのは、学校では100点の人、できない人は赤点と言われるような成績が悪い人です。学校でも二分化してどちらかといえばできる人、どちらかといえばできない人と分かれます。

そうやって一つの集団ができる人できな人に分かれて評価されることでモチベーションを上げようとしますが、それは競争原理が働き真の協力は生み出せません。できる人が人を育てられないとか、できる人はできない人の気持ちが分からないとか、できる人は周りの自信を奪っていくとか、そうなる理由の根本にはこの競争原理の刷り込みが関与するからのようにも思うのです。

できる人は同時にできない人をつくります、これは被害者が同時に加害者をつくるのと同じです。自分というものを中心に、そのどちらかと分けるという考え方そのものが競争原理であるという捉え方です。そうではなく、そのままゼロベースでフラットで物事のモノサシをもっているか、それが刷り込みのない状態での理解です。

もしもこの競争原理の刷り込みが取り払えるのなら、できる人やできない人という分け方ではなく「できないことができる人」という考え方が持てるようになります。それは言い換えれば、「自分にしかできなことができる=自分らしい人ほどできないことができる。」ということになります。

自分らしさというものは、この競争原理の刷り込みのないところで初めて持てるように思います。その人らしい、その持ち味を自分で発揮できているというのはその組織や集団の中から競争原理が消えていくということを意味します。

今の時代、一人で何でもできる人を目指し、なんでも一人で完璧に行うことが最善であるかのように錯覚して孤独に苦しんでいる人ばかりです。これを私のメンターは現代うつだと言います。ようやく苦労してできるようになっても、結局は孤独だったでは何のためにできるようになりたかったのかを忘れてしまっています。

自分らしく生きるということは、競争原理を手放すということです。これは競争か協力かという意味ではなく、そもそも自分は自分のままでいい、自分の得意や持ち味を活かしてできることをやっていけばいいという執着のない自然体の姿になることです。

様々な固執や執着が、自分の立場のことばかりを憂い、周りにレッテル貼りをしては他人の自信を奪っていきます。そうではなく、「自分らしくいる」ことを大事にしていけば周りのもその人らしくいることを認め尊重するつながり和合する関係になっていきます。

競争や協力を超えた、和合、つまりは八百万の神々と日本古来から大切にしてきた真の関係をこの時代に取り戻すことが刷り込みを取り払うことではないかと私には思えます。自らの実践を用いて、その刷り込みを解き明かしていきたいと思います。

力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

力を抜くことの意味

人は力の入れ具合で自分の状態を見つめることができるように思います。例えば、緊張すれば肩に力が入りますし、考えすぎれば目に力が入りますし、気合を入れ続ければ手に力が入ります。人のからだというものはとても正直で、無意識でも自分が何に力を入れるかでその力をコントロールして調整しているものです。

よくスポーツや競技、その他の運動技術を必要とするものにはすべて「力を抜く」技術というものを磨いていく必要があります。それは大きな矛盾の寛容であり、例えば”気は抜かなくても肩の力は抜く”とか、”心をリラックスしつつも、隙がない”とかよく名人や達人、トップアスリートたちは心身統一というものを大事に訓練しています。

最初に力が入りすぎる原因は何かと思うとき、そこには無理をしているということがあります。その無理とは何か、それは自分自身への執着のことです。力を抜くというのは、言い換えれば「自分らしくいる」ということです。どこかその人が自分らしくいることよりも、自分の周りからの目を気にしたり、上手くできないことにイライラしたり、自分自身であることよりも自分がやらなければならない自分像ばかりに固執するとその人自身がその人らしくなくなってくるものです。

そしてその人らしくないというとき、必ずどこかに力が入り過ぎているのです。

私の場合は、できないことを悩むよりもできることで貢献しようと諦めています。よく仕事は選ばず感謝で行うや、謙虚な気持ちで何でもできることはさせてもらおうと周りのために利他で生きる人はみんなその人らしくそして自然体です。我を押し通し、傲慢になり自分の力に固執して自分ばかり成長しようと考えてしまうと、そこに信は失われ余計な力が入るように思います。

自分の心を開いていくことや、自分から刷り込みを取り払うこと、自分から自分の我執を手放すことで人は余計な力が抜けていくのではないかと私は思います。

余計な力は時として、人を傷つけそして同時に自分をも傷つけてしまうものです。いっそのこと天才バカボンのパパではないですが「これでいいのだ」と全てを丸ごと受け容れてその中でも少しでも役に立てたことが有難いと謙虚になんでもさせてもらおうとするならばその人は必ず周りの人々の御蔭様をお借りして努力が実り理想に達することができるように思います。

焦りや慢心というものはすべて傲慢から発生してくるものです。私自身も上手くいくかどうかよりも御蔭様の有難さ、周囲の恩者たちへの感謝を忘れないよう、忘己利他の実践を大切にしていきたいと思います。

何度も何度も繰り返し教えてくれるのはきっと「あなたらしくなってほしい」という天祖の声を御縁が与えてくれているのかもしれませんし、「心をもっと周りに開いて自分らしくあってほしい」という真心の声をからだが伝えているのかもしれませんね。

どちらにしても自分を形成してきた完璧主義や評価の刷り込みがあるのだろうと自覚したら、周りをもっと信じて、できない自分をそのまま丸ごと認めて無理をしないことが一番です。時々の初心を省みる善い機会、ゆっくりと焦らずにじっくりと回復していくことを祈っています。

実践の価値

「習慣は第二の天性なり」という言葉があります。これは身についた習慣は、知らぬ間に深く浸み込みいつしか生まれつきの性質のようになるということを言う意味です。

この習慣というものは、その人の考え方の癖であり生き方の癖でもあります。その人がどのような癖を持っているかは、人に言われてみなければなかなか分からないものです。なくて七癖とも言いますが、自分には癖がないといくら思っていても他人からみれば沢山あるというのと同じようにその人だけが気づかない癖を持っているものです。

その癖は時として、その人の人生の癖になりますから同じような失敗を何度も繰り返したり、またはその癖の御蔭様で人生が好転し続けていくというものもあります。例えば、素顔の笑顔が多い人はその分、心と感情と行動のバランスが一致することが多いですから他人から信頼され可愛がられていきます。他にはつい自分勝手なことばかり優先してしまう人はまわりから疎まれてしまいます。自分自身では生まれつきだからと最初から決めつけてしまっていますが、実はその癖は自分の人生の習慣によって形成されているということです。

この習慣を見つめ、習慣を変えることができる人は自分を変えることができる人です。自分を変えたいのに変わらないと周りに矢印を向ける前に、自分の習慣は果たして変わっているのかと自分に矢印を向けることで習慣という癖に向き合っていることになると私は思います。

その習慣を変えるために必要なコツは「実践」することです。

実践とは、一言でいえば「執らわれない」ことです。頭で考えているうちは習慣は変わらず、癖も直すことはできません。自ら考えないで日々に前進するには、そこに考えないで済むような何かを持ち続けることで一つの事に執着しない自分をもつ必要があります。

人は何かを悟ればそれに固執しますし、もしくは何かを思えばそれに執着します。そんなことをしてしまえばまた習慣と癖がこびりついてしまいますから、新たな実践を日々に継続することでそういう執らわれをなくしていこうとするのです。

このブログもそうですが、実践していくことは今に集中することでもあり、また自分の中にある執らわれに気付き、それを改善していくことができるからです。上手くいくとか上手くいかないとかよりも決心したことを実践することが何よりも価値があるように私は思います。

自分自身を変革する心は、こうありたいという理想の自分から来ています。自らの理想に向かって視野を広げ、かけがえのない日々に感謝を置き据えて、させていただけることを深く味わって実践を楽しんでいきたいと思います。

自然の王道~天信助心~

この時期は秋に収穫するための苗作りに余念がありません。昨年、育てた野菜の種を今年の土に蒔いていくことは昨年ともに無事に暮らしてきた有難さも実感しめぐりの倖せを感じます。

そもそも育てるというのは、御互いの心を天に通じ合わせるということです。何もしなければ育てているとはいわず、何かをするから育てるのですがその育てるということは、生きる道の上で御互いの信頼関係を結ぶのにとても似ています。

本来、野菜を育てるのは最初から「野」にあったものを採集しにいくのではなく種から見守って育てたものを「野」に戻すのです。「野」というのは、あらゆる生き物たちが暮らしています。そこには一つの自然の社會が存在します。自然の厳しい社會環境の中で、存分に自らの野生を発揮しては生き残りをかけて全身全霊で暮らしています。

それは植物たちや虫たち、動物たち、菌類にいたるまですべてのいのちは自分のいのちを燃やし切り他と共生し他を食べ、生死のめぐりを繰り返しつつも貢献し合っています。

弱いいのちではすぐに淘汰され、他のいのちに呑まれてしまいます。そんな厳しい環境の中で育つように適宜つかずはなれずそのものと対話して生きる力を信じて見守る必要が出てきます。

一生涯、ビニールハウスの安心安全な中で育てることもできますがそれでは環境の変化に順応できる力強い生命力は身についてはいきません。もしも永遠にビニールハウスで育てるのならいいのですが、自然の変化に適応して順応するにはそのものの生きる力を引き出していくしかありません。

また私たちは栄養だけではなく、いのちを食べていますからいのちを燃やし切りいのちを引き出して育ったもののいのちをいただくことは自分に元気を取り入れることです。

厳しい野の中で、御互いのいのちをめぐり合わせることで”自然の真心”を実感でき、そのことが私たちのいのちの感覚も育てるのです。

厳しい環境の中でも負けないように弱いところはカバーするということが具体的な見守る方法です。「あなたのことをいつも見守っているよ、あなたが生きようと真摯に生きるなら必ずあなたを助けてくれる存在があるよ」という心を持って「野」に戻すのです。これが天を信じ助ける心、つまりは王道に入ったという証です。

野に戻ったいのちは、その信を心に抱き自然の法理に従って生きる道を間違えず種になっていきます。私が自然からもっとも学ぶものは、自然には確かな真心があり、そこには確かな王道が存在するということです。この境地を知るために実践修行を積み重ねているといっても過言ではありません。

自然の王道から外れないように、自然の真心をもって育てつつ育てられる存在のままに学び直していきたいと思います。

感謝感情

人間には自我感情があります。感情の自分というのは、気分の良し悪し、調子の良し悪しがあります。

例えば、何かずっと楽しみにしていたことがあったとします。それが急に不注意から怪我をして何もできなくなると気分は最高だったところから最低に急落します。まるで感情は天気のように晴れたり曇ったりと、その時の状況で変化します。それだけ感情というものは自分にピッタリと寄り添いその時の状況にあわせて自分の気持ちを感じます。

人間はこの感じる力によってその時々を味わい、自分がどんなことをしたいのかを知るのです。ドイツの詩人、ゲーテの格言と反省にこういうものがあります。

「生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。」

これも感情の変化で語られる言葉であろうと思います。結局は、感情がしたいしたくないと決めているのです。どんなに自分のやるべきことがあったにせよ、自分がしたくないのではあまり効率も効果も上がっていきません。また逆に自分がしたいと思っていてもそれができなかったら感情がまた高ぶってきては効率も効果も下がってきます。

この感情というものをどのように向き合うか、それは実際の人生において大変重要なことであろうと私は思うのです。これをお座なりにしていては、自分自身を管理することができないようにも思います。自己管理とは、健康や体調だけではなく精神や心、そして今回の感情というものが大きく関わってくるように思います。

感情とどう付き合っていくかは、その感情の変換の仕方にあるように思います。例えば先ほどの天気なら晴れも善し、曇りもまた善しと融通無碍になれるかどうか、もしくは自分にとってのマイナスな感情が起きても、それを素直に有難い試練や成長の機会だとプラスに転じることができるかどうか、ここに自己修養の要諦があるように思います。

何をしていても感情は高ぶります、それをいくら避けようとしても人間はロボットや機械ではないのですからそこに本来の目的や使命を実感するものです。そもそも何のためにやっているのかの初心を忘れなければ、やりたいこともしたいこともできようができなくても実践していこうと思うものです。そうやって実践しているうちに、自分の感情が上下左右していることに気づいても変わらずに平常心でいることの大切にさに気づくようにも思います。

自我感情との向き合いは、それを転じて善いものに換えるときにはじめて「良し悪しなし」という境地に出会えます。カグヤには「円満祝い唄」というものがありますが、その中の歌詞に「いいもわるいもないんだよ」という部分があります。

これが私の思う素直さであり、順境も善し、逆境もまた善しの感情、つまりは感謝感情の境地です。自己修養と自己研鑽を怠らず、星のように急がずに休まずに取り組んでいきたいと思います。