実践か

先日から実践と考えるということを深めていると、その意味がまったく異なっていることが整理できてきました。それを少し書いてみます。

実践といえば、森信三先生に下記の言葉が残っています。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたら、もうだめなんだ。」

ここの「考えたらもうだめなんだ」という言葉に共感するものがあります。

人は考えてしまっているときは、実践しようとしていない時です。なぜなら、考えるというのは頭で考えていることであり、心まで到達する前にそれを止めてしまうことだからです。

属にマニュアルを用いて人を管理するような手法もありますが、このマニュアルというものは考える人たちには有効です。しかし本来の物事は、心で感じるところで動かすものです。それを決心ともいい、それを初心を忘れていないとも言います。

そして組織には理念というものがありますが、これは何のために集まって長期的に何を目指して何処に到達するのかといった方向性を示すものです。自分が今、何処にいるのかがわからなくならないように、また迷子になって一緒にいる皆に迷惑をかけないように常に初心を確認して方向性を感じながらはじめて通る道を歩んでいくのです。

人間は感じたままに実践しているときと、いちいち考えてからやっているのとでは実践と考えるという違いがあります。前者は心で決めた覚悟のままに実践を積み上げているのであり、後者は頭で考えて実践風に形式だけをなぞっているということになります。

考えるというのは、信が不足しているともいうように思います。信じさせてもらえるからやるというのは自分の信を自らが使おうとはせずに誰かによって指示命令されて動かされるから信じるという行為で責任も発生せずに楽なのです。

しかしもしも自分が信じるのならば、考える必要はなく信じたままに行動すればいいのです。この時、はじめて責任を実感することができ自分の役割に誇りが持てるようになります。

畢竟、人はやらされるときは無責任で自分でやっているときだけ責任を果たしているということです。自分から信じる人になるには、考えさせてもあまり効果がなく、それよりも感じてもらった方が効果があります。

自ら気付くことができる人になるということです。

自ら気付くには、自分から考えるのをやめてもらわなければなりません。考えるばかりで実践しないのは、自分から信じて動いていこうという行動が少ないからです。行動が少ないと実践もまた積み上がりませんから信も積んでいくことができません。

初心を感じたままに行動するということは、理念を確認しながら実践するということと同義です。何のためにの初心の確認は、自らが羅針盤で方向性確認することと同義です。

考える前にやってみろ、まずやってみろという言葉の中には、信じなさいという応援が入っているのです。信じているから人は信によって信用されはじめてご縁は有難く結ばれていきます。信じるということはとても偉大な行為ですから、考えてもそこには達しないのです。

私がマニュアルを嫌い、文化にこだわるのも、考えるのを嫌い、実践にこだわるのも、真実や本質がいつも現実にあるからです。現実の中に生きている自分たちだからこそ現実逃避しないようにしていきたいと思います。それが人生二度ないという意味につながるのでしょう。

心気を引き締めて、粛々と実践をしていこうと思います。

正しい評価~実践する意味~

人は自分が人を評価する目がどうなっているのかということをメンテナンスすることがありません。自分自身の生き方から人の生き方が観得ますから、自分自身がどのような生き方をしているかが自他の評価になるのです。

人間には個々に価値観がありますからその人には観えていても他の人には観えないということが往々にしてあるということです。だから本当のことといくら言葉で語っても、その本当のことが分かるようになるにはその人と同じ実践を積み重ねてある一定の境地を体得することではじめて感得できるように思います。

「幸福の原点回帰」(文屋)というイエローハットの鍵山社長と伊那食品の塚越社長の著書の中で興味深い文章が書かれています。

『自分の体や手足を使って実践を重ねることが、いちばんだと思います。自分の体を使って実践によって、私たちは人の労働を正しく評価できるようになります。実践していない人には、他人の労働は自然現象のように見えるらしく、正しい評価ができません。たとえば、社員たちが職場をゴミだらけにして退社した後、深夜に清掃会社の人が来て掃除をします。翌朝、社員たちが出社したときには塵ひとつ落ちていないきれいな職場に戻っています。社員たちには、それがあたりまえの天然現象のように見えてしまうのです。そうした環境のもとで、人間はいとも簡単に傲慢になります。』

これは掃除で例えていますが、掃除だけの実践のことを言っているだけではありません。いくら頭でわかった気になっていくら誰もが説明しても理解しないのは、脳や人間の欲が自我に引き寄せる傲慢の方へ傾いてしまうからです。

正しい評価とは、同じ実践を積んでこそできうるもので実践なくして評価はないと私は思うのです。価値観というのは、その人の生き方といった価値観があるのですから同じ実践を通してはじめて人は評価を謙虚にできるように思います。何の実践をせずに自分の価値観を乗り越えて認めたり信じたり謙虚になることはないでしょう。

色々と会社で新しい実践を始めるときに、実践に対して色々と注文をつけてくることがあります。しかしそれは実践を通して本来学ぶもので先に文句を言うことではありません。実践を通して、もっとこうした方がいいのではないかという提案はこれは正しく評価できているということであり、実践をせずにこうした方がいいという提案はどこか評価が正しさからズレていることが多いのです。つまり正しさというのは、素直であるかということです。やってみなければわからないことを、その深さを体得しなければ理解しえないものをそのまま素直に実践してみるということができるということです。

本来の正しい評価というものは、実践による真実が的を得ているときにお互いが暗黙知の場所で理解し合うものです。それは師弟が察する中で掴み合うように、同志が苦難を伴にする中で握り合うように、確かな絆の中に存在しているように思います。

実践できるというのは、自分を大切なもののために変革しようとする素直さ、そして自分から大切な目的のために学び直そうとする謙虚さが合わさっているのです。

つまりどんなことも実践なくして評価なしということでしょう。シンプルに言えば、物事はやってみなければわからないということです。

実践の影響を与えるには、まず自分から真っ新な心でチャレンジし取り組んでみなければ誰にも何にも説得力もありません。誰かのために自分が実践することは、進んで大義のために自分を捧げる真心に似ています。その人のことを思いやるなら、自分から実践を積んでその人のためになるくらいの真心を持ちたいといつも思います。

個人の能力が高いというのもまた不足のないという意味なのでしょう。不足のない有り余る豊かさと引き換えに大切なものを見失わないでいたいものです。

実践できる有難さを感じつつ、今日も一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

 

現実とは何か

物事は頭で考えているようなことはほとんど起きていないということを思うことがあります。それは実践をするときいつも思い出すのです。

人間は頭で考えている中では自分の価値観や思い込みによって勝手に空想した世界を思い浮かべているものです。自分の都合のよいことばかりを考えていては、どこか現実とずれている感覚にはならないものです。

実際に現実を直視したら、どうしたらいいではなく何を実践するかに変わります。なぜなら現実を変えるには妄想ではなく具体的な行動を変えなければならないからです。具体的な行動を変えるというのは実践をするということです。

なぜ人は実践するものが必要かといえば、現実の真っただ中にいなければ実際の現実を自分自身がありのままに受け止めることができなくなるからです。そして現実の中にいるということが前進するということです。人は成長をするというのは現実の中ではじめてできます。

そして現実とは何かといえば自然のことです。

ここでの自然とは自我(妄想)と自然(現実)というように定義してみます。人は自我が強いほどに妄想に捉われ、自然であるほどに現実の中にいます。簡単にたとえると、自然の中ではいくら頭で野菜や作物を育てようと思っていても育ちません。実際に手をかけ丹精を籠めて育ててみなければ野菜も作物も育つことがないのと似ています。

つまりは自然(現実)の中での出来事とは、すべて実践することではじめてなるのです。考えているだけで実践しないのが一番よくないといわれる理由は、それだけ自我に捉われ妄想をぐるぐるとまわすだけになるからです。

実際の自然というものは、その字のごとく自ずから然るがままです。そこに対してどのように対処していくかに、現実を変えていく仕組みがあるのでしょう。

ヨハンゲーテにこのような言葉が残っています。

「いつも、自然は正しく、自我が誤まる。もし、自然に従がうことが出来るならば、
すべてのものは、自然に、成し遂げられる。 」

自然に従うというのは、気付いたら実践に移していくという意味でしょう。内省をして過ちに気づいたら新たな実践を形にしていけばいいということです。

そしてこう続きます。

「時を短くするものは、実践であり、時を長くするものとは、怠惰である。」

怠惰は自我に捉われ、実践は本質を捉えるということでしょう。だから為すべきことが為るのです。「生きているうちは何事も延期するな、なんじの一生は、実行また実行であれ」とも言っています。

時は早く過ぎ去りますが、実行して積み重ねた量だけが未来を創造するのでしょう。怠らず努めなければ何事も成就しないということです。

最後に現実とは何か、ゲーテはこう言います。

「現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。」

現実を直視しようとすれば、人はありのままであるがままの世界を受け止めなければなりません。自分に都合が悪いことや、世界の矛盾のあらゆるものを呑みこみ消化していかなければなりません。しかしそこにはじめてそのうえで自分がどうあるべきかという理想に出会えます。

そしてひとたび理想(理念)が現実の直視から練り上がったならばあとは「現場実践」を行うのみです。現場と実践を足して現実の真っただ中です。妄想で人生を終えるのも理想で終えるのもその人の生き方次第。

今は教科によって頭でっかちになってしまった世の中ですが、周りに流されず淡々と粛々と地道を歩んでいきたいと思います。現実の中にある楽しみや歓び、そして豊かさを味わい尽くしていきたいと思います。

 

 

 

実践の重み

今の時代は児童養護や教育や保育など、言葉で仕事が分業し分類されています。省庁も厚労省や文科省で分かれ、そのことから色々な弊害が出ています。ヨーロッパの視察でも、今は省庁が融合し子ども省というように、分かれているものを一つにしていこうとする動きがある中で私たちの国はなかなか変わることができません。

それぞれの利権や今までの絡み合った関係を紐解くのが難しいからかもしれません。しかし現場では、そのことで大変面倒なことになっています。

そもそも物事は分けて考えられないくらい密接につながっています。福祉や教育というものもわかれておらず、教育が改善されなければ福祉も改善されません。その関係は前足と後足のように前後しているもので、歩めばお互いに一歩一歩バランスよく足を出していかなければならないものです。

それを片足だけで進もうとすればすぐにコケてしまうのは自明の理です。しかし実際は、お互いに前足のせいだとか後足のせいだとか文句を言っては前に進まずに停滞するというのが現状のように思います。

もっと全体へ視野を広げ、何のための行うのかということを共有し語り合い全体システムを変更するようなことが必要な時代ではないかと痛感しています。部分ばかりを変えようと固執するのは分類分けられた場所でのみ考えようとするからです。縦割りか横割りかではなく、そのものの本質からそれぞれの分野分類の人たちが集まり全体システムを考えることなのでしょう。

そのためには対話が必要です。ただの対話ではなく、お互いを尊重し認めるといった対話です。しかし今は、お互いがいがみ合いお互いの業界の批判ばかりが目につき本来の大きな目的のためにと協力することがなかなかできないものです。人間はいつの時代も相手と協力する前に自我に負けてしまうのでしょう。自分に打ち克ってでも全体を優先しようとする人たちがいなければ時の流れに準じて変化することができないのです。

かつて坂本竜馬やその周囲のリーダーたちがやったようにもっと大きなもののためにと絵を描ける人物がなかなか出てこなくなったのかもしれません。自分の人生や世代よりも大事なことのためにのみ人は自我を超えられるのかもしれません。しかし時代がそういうものを顕現させるとしたら、今は焦らずにじっくりと時を待ちつつも休まずに自分のできる実践を積み上げていくしかないのではないかと感じています。

世界各地の諺や故事にはどこも「子どもは宝」だといわれ、子どもを大切にする国は永続的に発展繁栄するといわれます。子どもが大切にされるというのは、子どものことを大人たちがしっかりと考えて子どもたちに善き世界を譲っていこうとする思いやりのある社會が実現されているということです。

それは本来は国民国家みんなで真摯に真心で行うことのように思います。仕事でやることでもありません。なぜなら子どもは親からされたことを自分が親になり子どもにするようになるものです。そうやって真似も連鎖していき子どもは育っていきます。だとしたら、どのようなことを親(大人)が子どもにしていくかというのは将来の子どもたちがまた子どもたちへしていくことになるのです。

だからこそどのような生き方をしたか、そして何を譲り遺したかということは未来そのものに直結しているように思います。自分たちが実践する理由は、別に無理にやったりやらされたりとか感情論で語るものではなく、本質的に何のために行うのかを深めているから実践を積み上げていくのです。

一つ一つの実践が如何にどれだけの重みをもつのか、それは真の目的を忘れずに取り組んだものだけが知る志を実現する世界です。今日の実践も、明日の実践も、大河の一滴かもしれませんがそれが集まって大海になることを忘れずに本気の目的のために人生を遣い切っていきたいと心新たにする体験を得ました。

やらない人はすぐに人の批判ばかりをしては実践をしようとはしませんが、そんなことも言っていられないほどに現実は厳しさを増しています。現実を直視し、本当の理想の実現のために今日も大事に実践で世界を改善していきたいと思います。

対話と平和

人間には偏見というものがあります。たとえば、大人だからとか上司だからとか、男だからとか、先輩だからとかいろいろと一般論で決めつけられ思い込まれていることがあります。

他にも職業でデザイナーだからとか、経営者だからとか、職人だからとか、こういうものだろうと分類分けしてはその人の中で仕分けしてしまって本質まで確認されることがなかったりします。

人は先に教え込まれた知識や、こういうものだろうと経験もしていないのに脳で処理して理解してしまえば勝手に思い込んでいることがほとんどです。そしてその思い込みのほとんどが疑心暗鬼によるものです。

自分に都合の悪い現実を受け止められなかったり、自分が忙しいときに余裕がなかったりすると心が閉じていきます。心が閉じることで話を聴かなくなります。話を聴かないときは対話を避けるようになります。対話を避けるから決めつけてしまうのです。

人は「信じる」という心をオープンにすることができていれば自分から対話をして心を開いていきます。しかし心を閉じているうちは対話ができず、どうしても不信から疑い決めつけるのです。

人間にとって対話というのは何よりも重要で、お互いのことを理解するためには必要不可欠のものです。昔は、私も対話を避けて通ろうとしては数々の失敗を繰り返してきました。

相手に確認もせずにきっとこうだろうと思い込み、相手に自分の都合を強要しては相手の反応をみてはまた決めつけるということを繰り返していました。そのことから誰も信じられなくなり、より対話を避けて一層孤独になっていくという経験をしたこともあります。

本当は一緒に楽しくやっていきたいのに、実際はそれぞれが対話をせずに能力のみを使って個々でバラバラにやっていく方が楽だという方を選んだ時期です。楽なのは信じなくてもいいからです、最初から疑っているから能力だけで仕事をすれば何も言われないしそれで済むから目に見てわかりやすかったからです。そういう仕事は結局は作業のようになるから面白くなくなってきます。そうなる自他もみんな無機質な関係で一緒にいる意味も感じなくなっていくのです。

そういう体験から、対話の大切さを実感しました。

対話とは信じることであり、信じることは聴くことです。この聴くというのは、聞くというのとは違い、耳に徳の字が合わさっている字です。恥という字もありますがこれは耳に心が合わさっているのです。

つまりは聴くというのは、自分が許されて聴く、許して聴くということであり、一言でいえば「認める」ということです。畢竟、対話というのはお互いを認めることであり、お互いを認めることができてはじめて信じるとなるのです。

心を閉ざしている人は、なかなか自分以外の人を認めません。もしくは自分のことすらも認めていないのかもしれません。認めるというのは、あるがままを丸ごとを認めることですが耳を澄ましていかなければそれもできません。

私たちが一円対話を行うのは、心で聴く、心に聴くといった心を使い信じる実践を大切にしていこうとすることで世の中を真に平和にしていこうとする願いを籠めて行っているのです。

みんな心があるのだから、相手の心を感じることで相手と一体の世界に生きることができるのがいのちの証拠です。いのちは粗末にしないといったのは先祖ですが、それはお互いに心を通じ合わせることが大切だと教えてくれていたのです。

物が増えたって、忙しくなったって大切なことはいつまでも大切なことです。大切なことを忘れないような実践が、子どもの未来に仕合せを推譲することだと信じています。

またいつまでも人が争うのは対話をしなくなるからです。

世界は今、もっとも対話が必要な時期に入っています。世界はそれだけ悲しい紛争がなくならず、悲惨な戦争が続いているからです。子どもたちには対話の大切さを大人たちの後ろ姿をみせることでいつまでも忘れないでほしいと思っています。

私たちが対話にこだわるのは、「人類皆兄弟」である証としての対話こそ人が人を信じられる世界を創造する先祖代々から続けているもっとも調和する方法だと確信しているのです。誰も孤独にならない世界、一緒につながりの中で楽しく豊かに信じ合っている世界、日本の神話にあるような世界を今に取り戻したいと思います。

 

一点一転

かつては色々な知識を覚えては、何が正しいかという物差し(価値観)に縛られとても苦労しましたが見守るという言葉に出会ってからそれまでの考え方が転換されました。

人は正しいかどうかという判断でのみ行動すれば必ずその矛盾に耐えられずに追いつめられていくものです。また右か左かといった相対のどちらかという価値観にいたら必ず対極を生み出しては争いがつきないものです。

結局は、どう折り合いをつけるかということでありそれをバランス感覚ともいうように思います。そのバランス感覚というのは、正しいかどうかでは持てず楽しいかどうかで持つことができます。

そしてこの楽しいかどうかというのは、言い換えれば発達するかどうかということです。

人が発達するというのを簡単に言えば、やらされているときはものにならず、自分からやらせてくださいと主体性を発揮したときはじめて楽しいという境地に入るのです。

人間は誰しも主人公です。それは自分自身がこの世界を観ているからです。そして自分自身の観方によって世界をどうにでも変えていくことができるからです。外側の世界が変わらないと嘆くよりも、自分の観方を転換して世界を変えていくことができるのです。つまりは人は感じ方次第でどうにでも発展させていくことができるともいいます。

子どもたちにはその力が最初から備わっています、英字ではイマジネーションといい、漢字では想像力といい、私の言葉では「毘(び)」と呼びます。

発達するというのは、そのものが自分の内面の変化によって内省をし、物事の見え方を縦横無尽に転換する力、すべてのものを一円融合し善いことに換えていくということです。

楽しくしていくというのは、一つの生き方ですが楽しいと思えることを伸ばしていくことで人は必ず発達し目的に辿りつくように思います。こうでなければならないという正しいは不安と迷いを育ててしまいますが、こうなった方が楽しいというのであればそれは安心と信頼を育てます。

見守るという言葉の素晴らしさは、○○メソッドのように正しいことを要求してくるものではなく楽しいことを実現する言葉です。かつての他の日本語も同じく、もったいない、ありがたい、おかげさま、等々すべては「楽しい」ことを実感する言葉です。

その方向性の方が好きになれる、その方向性の方が間違っていない、そういうものを社會に広げていくことが子どもたちに仕合せな未来を譲っていくことのように私は思うのです。

私たちの行う志事は、その一点と一転に集約されています。それが職場を清明るくし、そこで暮らす人たちを正直にし、子どもたちの好奇心を助けることができます。

カグヤの目指す理想は、楽しいを広げていくことです。思ったことが言える社會、やりたことを見守ってくれる社會、信じ合う社會を新たなチャレンジにより醸成していきたいと思います。

子どもの発達事例~方向性~

人はよく見て観ると何がしたいのかというのを発信しているものです。

今は知識が増えて、無理に自分のやりたいことをその枠の中で考えてしまうものですが本来、子どもの頃は自然に自分のやりたいことを発信していたのです。それは遊びを通して遊びの中で学んだことを思い出すのです。

幼いころ、なんでも興味がありどんなことでも面白いと好奇心のままに夢中で遊びました。特に子どもの頃は、ありとあらゆる想像力がハタラキ、現実と夢の間がわからないほどに目の前の出来事や事物から想像することができました。

ひとたびやりたいことが何かに阻害されると、意地でもそれをやり抜きました。自分が何をしたいのかを知ることは無上の喜びだったからです。自分がやりたいことをやっていると安心しました、それは世界が面白かったからです。

たとえば、生きていくために必要な力を動植物は持っています。狩りの仕方から、求愛の仕方、集団形成の仕方、そういうものを子どもの頃から遊んでいる中で身につけていきます。

動植物は人間のように無理に勉強しなくても、本能の中で生きる知恵を学ぶことが面白いようにインプットされているのです。そのインプットされているものは好奇心によって引き出されます。

発達していくというのは、好奇心を見守ることです。その人が本当にやりたいと思っていることをさせてあげる、信じてあげるということです。時には大人には都合の悪いこともありますが、子どもにとってはそれはとても重要な場合が多いのです。

人はこれでいいと信じられるとき、それでいいと信じてもらえるとき、はじめて自分の中の想像力が開花していきます。教えられていない知識、教えようがない知識によってはじめて知恵というハタラキを実感できるのです。

信じるということの偉大さというのは、その人の生を全うさせてあげたいという慈愛と真心の発露です。教えなくてもその人は立派な存在ですから立派になります、しかし周囲に真似できるような立派な大人がいる場合に限りです。だからこそ子どもの周りには好奇心を忘れずに人格を高める大人たちの見守りが必要ということなのです。

子どもは正直でその生に一切の嘘がなくあるがままですから、そのままでいいと信じることで安心して発達していくのでしょう。文字がなかった時代から、私たちが受け継いできた言語は「発達」です。

自然に種を残すのも、自然に生き方を継承するのも、言葉や文字ではなく本能によって行われてきたから今を生きているのでしょう。

子どもの周囲に自然をつくることは、好奇心を信じてあげることです。自然のままでいいというのは心構え次第ですか実践を深めていきたいと思います。

環境の発見

社會人になりたての頃、自然環境の仕事がしたいと環境にやさしい仕事を探していたことがあります。エコという言葉が出てくる前から、どうやったら環境を汚さないですむかということを考えて石油系の合成洗剤を川に流さないで済む方法などをヨーロッパをはじめ世界の国々の先進的な取り組みを調べたりしました。

その後は、合成洗剤を使わない自然の洗剤や水をアルカリ化するものなどをつかい自然や人体に悪い影響が少ないものを会社に提案し取り扱ってもらったりしました。そこで学んだことや知識を使って出会う人たちに如何に環境を考えることが大切かを説いていました。

しかしそのうち、かたや環境を破壊していく商品が流通し、かたや環境にやさしいといった商品が流通している矛盾を感じたことと人間そのものがそれを創りだしていることを目の当たりにし受け止められず動けなくなってしまいました。

そんな時、なぜこの世の中はこうなっていくのか、誰がこうしているのかを見つめていたら幼いころの環境がとても大きな影響を与えているのを知ったのです。もし産まれた環境があまりにも自然から離れていたら、人間は自然がないことが当たり前になります。また逆に産まれた環境が自然であれば自然があって当たり前になります。

これは産まれた時の刷り込みであり、最初に与える環境がとても大きいことを知ったのです。ある保育園で、40年ぶりに訪ねてきた人がかつての園児で園長がその人の癖や嗜好などを全部言い当てていました。人は何十年経っても、幼児期に体験したことを忘れないということを肌で感じたのです。

それから環境に対する考え方が一変しました。

そもそも環境とは自然環境の方ではなく、人間環境の方であったということにです。環境を産み出しているのが人間ならば、人間の環境を変えな変えれば半永久的に環境を改善することができないと自覚したのです。

結局、自然は自然ですから環境はそのままに自然です。しかし不自然な環境を産み出しているのが人間ですから環境は人間が創造しているのです。その環境を創造する人間の環境を誰かがちゃんと向き合って受け止め、どのような環境が人間に必要なのかを正しくしていく必要があるのです。

それが教育の本質でもあり、幼児教育の場合はあらゆる自然社會科学を発達という真理に照らして周囲の人間たちが環境を示す必要があるのです。その環境とは生き方のことです。

人間は移動していく生き物だし、人間は道具を用い、知識を使いますから余計に自分たちの生き方を決めなければなりません。そういう生き方を決めることこそ環境を用意することであり、生き方を決めた人たちが示す道に見守られ子どもたちは自分たちの環境を選んでいくのです。

人間が変わらなければ環境は変わらないということは自明の理であり、天は正直であることをずっと尊びました。これは正直であるというのは、嘘がないということであり畢竟、人間が誰かのせいや何かのせいにするのをやめなければなにもはじまらないことに気付いたのです。

エコという名のエゴだったり、エゴを通してのエコも、どれもこれも自分を変えなくても済む方法で正直ではありません。正直に生きるというのは、自分の生き方を見直し、その生き方を実践していくことに尽きるのです。

求めてきたことと出会いの御蔭様で、本当の環境に気付くことができました。今では環境の羅針盤である発達という自然の手ほどきも受けることができています。愛し愛される仲間にも巡り合い、自然の生成力の素晴らしさに感動する日々です。

自分という一人の存在が環境の一部であるということが環境への影響力です。

引き続き、体験を整理してみたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。