個性の尊重~人生を信じるということ~

自分の人生を疑わない姿勢というものは何よりも大切なものであろうと思います。

自分のやりたいことがわからないということで悩むのは、自分のやりたいことを無理やりにつくってきたからともいえます。あらゆることの制限の中で、自分のやりたいことはこれだと無理に教え込めばそれは刷り込みになるのです。

以前、子どもの学校の話で夢を持たせるというものがありました。時間内に夢を決めてきなさいと言って授業参観で報告させるという内容です。夢がないので周りの子どもが書いているものに合わせて書いたという子ども、親が言うとおりにしたという子ども、だいたい身の回りにある職業から決めたという子どもがありました。

本来は自分のやりたいことの先に自分の夢があるのですから、やりたいことは自然に出てくるというのを待つということを信じるということです。しかし、今の世の中では先に何かがあってからでないと頑張れない、結果が先という概念が横行しているようです。結果ありきであれば、努力の真価やその有難い機会に対する感謝なども感じられなくなるでしょう。私にはどんな成功者も結果意外のものを追っている人という定義がありますから、成功の定義を教える人が成功したことがないので分からないままに教えているのかもしれません。

本来の自分の天性というものは、天が与えるものです。たとえば、産まれてから分かれるものに男性女性からその先の個性に至るまで自分の性格というものは天地一体の役割の中で確かなものが存在しています。

その役割がどのようなものかとわくわくドキドキと楽しもうとすることが夢につながっているのではないかと私には思えます。他と比較したり、単に客観的に評価されている世の中の成功者のようになろうとしても、その通りの役割が自分にピタリと当たるのはほんの偶然の産物です。ほとんどの人は自分自身の人生とは異なるものを探し求めては、自分の足元を深く掘り下げようとはしないのです。

あるがままの真の自分自身になるということは、自分の役割を正しく果たしているということです。それは丸ごとの人生を疑わないということであり、自分の個性を尊重して性格を育てていくということです。

それを自分が先にこんなはずではなかったとか、あの人と比べて自分はまだこの程度などと人生に文句を言えば、自ずから個性を否定していることになり、自分自身ではない他人の人生を自分の人生だと勘違いして生きてしまうことになるのです。

自分の人生というものは、今、与えられているすべての機会を自分のものだと信じることです。言い換えれば、そのお役目そのものが尊いということです。どんなお役目であれ、自分に役割があるということを思えばそのもの自体がかけがえのない大切なものをいただいていることに自明します。

人生には無駄がないというのは役割があるという意味です。どんな体験であれ、自分の今いる此処で全身全霊、精いっぱい生き切ったならばそれは天寿を全うしたのだという有難い恩恵の中にいたということでしょう。

誰かと比較し早死にとか病気だとか、他にも色々と不満があるかもしれません。しかしご縁という世界から物事を観れば、一期一会に与えられているつながりに心から感謝できるものです。あなたがいるから私がいる、私があるからあなたもいる。どちらも一生懸命に真摯に人生を生き切っているというのが絶対安心の境地、人生を信じるということでしょう。

疑わないというのは、ありのままの自分自身になるということです。

信じたものが子どもたち一人一人の個性を育む環境につながっていることを忘れずに、見守る環境や子ども第一主義の伝道に自信をもって命を懸けていきたいと思います。

主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

偉大な存在の一部

自然を相手にしていると、如何に自分が小さな存在であるのかを実感します。

土を耕し、作物の種を蒔き、育てていても自分が何かをしたからそうなるというよりも自然がそのものを育て活かしていくのに感謝していくことしかできません。自分がいくら何かをして動かした気になったとしても、それは周りの環境がまずあってできるということです。

人間には自分の価値観がありますから、自分が思っているような世界を自分が生きているのは誰にせよ同じことです。しかし、その価値観がどうなっているか、自分の思い通りにしようとしていないかということはメンテナンスがいるように思います。

思い通りにしようとすればするほどに、如何に天に見守られ自然に活かされているかを忘れてしまうからです。

自分だけが大きな存在だと勘違いしたり、自分が分を弁えずに傲慢になったなら、何でも中心は自分の判断基準を最上だと思い違いをします。自分が見ている世界など、ほんの目先の小さなものであることに気づけないということが可能性を狭めていくのかもしれません。

世界を広く観るというのは、自分から見た世界を最上とするのではなく、何か偉大なものによって自分が存在させてもらっているつながりの中にいて観るということなのでしょう。

つながりというものは、片時も自分から離れません。そしてその偉大な羅網のような網目の中に自分が存在していて無限の宇宙のように広い世界を体験するのです。

そして何もしていなくても与えてくださっている存在に気づくことで、自分がやっているのではなく、自分にさせていただけるのだということにも同時に気づきます。つい遣っている気になりますが、本当の有難さというものはこのような体験をさせていただけている不思議をいつも与えてくださる大きな存在のことでしょう。

自分が小さな存在というものは、だからといって卑屈になるという意味ではありません。大きな存在の中にある小さな存在の自分が、何より偉大な存在の一部であるということです。

だからこそ自分を大切に、自分の一つ一つの生き方をつながりを中に置いていきたいと思います。

ご縁に活かされる

人生というものを振り返ってみると、様々なご縁に導かれて今の自分がいることがわかります。

そのご縁は、人間だけではなく様々な事物や時間、場所に留まらずありとあらゆるいのちとの邂逅によって得られています。これは自分で選んだようで自分で選んだようでもなく、自然の流れの中で自らがそれに気づき、それによって発達しているようでもあります。

世界では産まれた時代や生まれた場所で、様々な人生を送ります。それがどのようなものであるのかはその人にしかわからず、ある時はその悲惨な人生を知り悲しく涙を流し、ある時はその栄光に満ちた人生を羨み祝福をしたりもします。

しかし実際の自分の人生を思うとき、自分に与えられた道が一体なんであるのか、なぜこれらのことが自分の身の上に起きるのかと考えると、意味というものはつながっていて、その意味をたった一人の自分がひも解くことが何よりも大切であることを自覚するのです。

何も考えなくても生きられるようにできていますし、どれだけ考えても生きられないこともあります。人生とはまるで、大河の中に浮いている葉っぱのようでもありますがその道中がどのようになるのか人事は尽くしても天にお任せしていくしかないのでしょう。

先日、「遠野馬物語」(高草操著)里文出版の冒頭に作家の曽根綾子さんの言葉に出会いました。とてもシンプルな文章ですが、そこに人生というものの大切な意味が込められていいるように思いますので紹介します。

「人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせ場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのである。それ以上、小さな一人の人間に何ができるだろう」(失敗という人生はないより抜粋)

この小さな人間に何ができるのだろうか、、、ご縁という不思議で霊妙な世界に生きる私たち。

どれだけ大切に過ごしているのか、もう一度、今いるこの場所、周囲の人たち、そして自分を見つめ直すことができる言葉です。

一期一会の人生を真心のままに活かされていきたいと思います。

自他中心の世界

人間は利己的な生き物です。

まずは自分のことを考えてしまいますから、気づくといつも自分が一番大変なのではないかと考えるようになってしまいます。特に忙しく、自分のことしか考えられなくなると周りへの思いやりに欠け自分から孤立してしまいます。

人は自分のことは自分ですからよくわかります。自分がどれだけの思いをしているかとか、周りは分かってもらえないとか、自分だけなぜこんな目にとか思いやすいのです。しかし実際は自分だけが大変ではなく周りの人たちも大変なのです。

たとえば、自分が忙しい時は周りは暇そうに見えるものです。それは自分が忙しいからそう見えるのです。逆に自分が暇なら周りはなぜあんなに忙しいのだろうと思ってしまいます。これは自分を中心に考えるからそこを基準に周りを見るからそう見えるようになるのが道理です。ほかにも、自分が楽しくないときは周りは楽しそうに見えたり、自分がつらい時には周りは楽をしているように見えたり、自分が貧しいときは周りが裕福そうに見えるのも同じく自己中心的に物事は見えてしまうのです。

しかし実際はどうかといえば、みんな大なり小なり人間はみんな等しく同じように喜怒哀楽様々な感情がありますし、それぞれの価値観にそって苦しいことも辛いことも嬉しいことも楽しいことも日々に浮いては沈んでいるのです。

大事なことは、自分だけがという考えに陥らないことのように思います。

論語に人生において仁を実践するのにとても大事な一説があります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

これは私の意訳ですが、「孔子は言う、人が自分のことを分かってくれないと嘆き悲しみ憂うよりも、自分が周りの人たちのことを思いやり共感していないことをもっと憂いなさい。」と。

なぜ自分だけがとか、なぜ自分がこんな目にとか、そう思うときは、周りとのつながりを自らが断ち切って自分の殻の中に閉じこもってしまっているのです。そういうときこそ、誰かのためにや他人のことを自分のことのように思いやれる優しさや強さが人間として必要だということでしょう。

他人を思いやれるというのは、自分が満たされているからできるのではありません。人を思いやるというのは、自分も大変だからこそみんな人は大変なのだと共感し受容して自他の人生が幸福になるように祈り行動することのように思います。

それはまるで家族が平和で幸福に暮らしていけるように自らのお役目や役割を果たそうと真心を優先する生き方のことでしょう。

今の時代は、つながりが弱くなり、しかも受信する力も麻痺してきています。如何に自らが積極的につながり、そして自らが発信していくかということが思いやりの絆を深めていくのには重要です。

それらのことはまずは周りを分かってあげたいといった思いやり、きっとみんなも大変なのだろうと共感していこうとする姿勢、その人の感謝の実践によりその自他中心の世界が観えてくるものなのかもしれません。

自分の心配をするよりも大切な人たちの心配をしている自分の方が人間は自分のことが好きになれるように思います。忘れてはならないのは、そういう自分も周りが支えてくださり活かしてくださっているからあるのですから周りに還元していくのはそのことを思い出させることになるのでしょう。

常に初心は真心や思いやりで感謝を忘れない自分でいたいと思います。

律動の原理

人間は日々に心臓が鼓動を打ち、血液が脈動するように一定のリズムを保っています。それは体温も同じく、36度5分といった一定の温度を中心に上がり下がりもしますが同じところを保っています。

私たち動物は、呼吸をしますがその生活環境によっていのちの奏でる音楽があるように私は思います。

その一定の音楽を奏でるのは自分の主体性であることは当然のことですが、それが受け身になったり流されたりすれば生活も同じようになっていきます。生活を改善するということがなかなかできないという話があります。

これは自分の生活の軸が定まっていないことが関係するのではないかと思います。人間は畢竟、自分自身との正しい付き合いで自分一体の一人になるように思います。心と体が離れてしまっていたら、それではなかなか一人になることもできません。

たとえば、毎日追われるように生活してしまうのもリズムがどうなっているのかということでしょう。主軸が真心や感謝の側にいるのなら、地球のリズムのように自らも自らのリズムを持つのでしょうがそのリズムが狂ってしまうとなかなか元に戻らずに大変になります。

リズムを取るのに、音楽では拍子をつかいます。特に民族音楽や古来の民謡などは「口承」といって口伝によってその民族特有のいのちのリズムを子孫たちへ譲り渡していたという話が残っています。

これもリズムの奥深さで、何千年、何万年と民族が生き残ることができるように智慧を唄にして伝承してくたのでしょう。今の時代は、どこかその拍子が抜けた拍子抜けのリズムが蔓延しているような気がしています。

手拍子一つにしてもなかなか合わず、拍子も民族の一定のリズムが心体に降りていないままに派手なところばかりで盛り上がろうとしてしまいます。神道の祝詞や音楽のように、荘厳なリズムがあることを自覚することで落ち着くのもそこに口伝があるからかもしれません。奥深さを感じてありがたく思います。

私はこのリズムこそが、人間の生活を改善する妙法になるのではないかと直感します。これを律動の原理と名付けてみようと思います。如何に修養をし、日々の律動を自明するかはその人の生き方にかかっているように思います。

そこには生き方を決める、決めた生き方どうりに貫くといったリズムをまず基本として身に着けることからはじまるように思います。惑いや迷いに移ろわないように実践を積み上げて正しい習慣にしていくことが着実な方法のように思います。

どんな生活をするかはどんな音楽を奏でるかと似ています、たくさんの方々のことを思いやりハーモニーを創りだすことが自然にできるような律動を学びこんでいきたいと思います。

運菌の世界

昨日、社内の発酵研修と自然に学ぶ体験の一環で千葉の藤崎農園にて田植えを行いました。ここの玄米は、本当に美味しくて今までどこを探してもここほどの美味しい玄米は食べたことはありません。

もともと藤崎さんの理念が、「安心、安全で食べることで元気になるお米をつくる」ということを大切になさっています。その理念を実現するため、不耕起で農薬を使わずに生き物たちがたくさんいる田んぼを実現しています。

訪問して3度目ですが、明らかに水田の中に目に見えるもの以外の観えないものの存在を実感させられます。それは菌類の働きですが、土の中で様々な菌たちが交代で一年の四季の中で役割を果たし活動し、そのいのちのめぐりが豊かであることを実感するのです。

昨日は発酵を学んでいたこともあり、圧倒的に菌の存在を実感できうれしくもありまだまだ奥深い世界の一端しか観えていないことに有難い気持ちになりました。

また同時に、私たちが玄米を取りいれ社業に実践しているように藤崎農園の玄米を用いてタコライスを作って提供されている方とご縁もいただき、意気投合し、また秋の収穫の際にもご一緒することになりました。

善い場には善い人が集まる、そして善い発酵にはさらによい発酵を引き寄せてくる。

これは「運気」のことをいうようにも思うのです。人はどのような生き方をするか、自然が喜ぶ生き方か、それとも自然に反して自我欲を優先し自然が悲しむ生き方をするか、それは人生の選択のようにも思います。

一般的には自然がどうとか直接的生活に関係のない生き方をする人たちがほとんどですが、私はなぜか福の神がいつも着いてきて助けていただいている人には、そこに自然と一体に生きているその人が福と一緒にいるからのように思えるのです。

たとえば、他人の幸福を願い、他人様の御蔭に感謝し報恩で生きる人の周りにはそれを必要とする人たちが集まってきます。そうするとお互いに幸福を分け合い豊かになりますから自ずから幸運もまた訪れるようにです。

謙虚さや正直さというものは、自然の恵みに感謝できているという御姿の顕れだと思います。

人はたくさんの恩恵をいただいているのですが、それを身近に実感できない社會や生き方というのはどこか貧しく思えるものです。何もないようなものの中にこそ、無尽蔵の宝が存在する。

そこには菌の世界が息づくような偉大な世界があるように思います。そこはまさに運菌の世界です。

昨日も大切なことをたくさん学ばせていただきました、やはり学びとは一人で行うものでもなく机上で行うものでもなく、理念を共に現場で学ぶ中にこそ真の学問が存在します。仲間と一緒に学び合える機会があるからこそ人はそこで真の成長と変化を体験することになるのでしょう。

苗から穂になり種となるまでしっかりと見守っていきたいと思います。これからのご縁がさらに深まり発展していくのを楽しみにしています。

ありがとうございました。

王道経済

先日、偶然にアルビントフラーの「第三の波」の一説に出会うことがありました。

この第三の波とは何かといえば、トフラーは、経済的パラダイムシフトを「波」と仮定して社会の趨勢を予知し第一の波、【農業革命】では狩猟採集社会であった社会が農耕技術の伝播によって農耕社会へ変わる。そして第二の波、【産業革命】では18~19世紀に興った産業革命による社会システムの大幅な転換をする。そして次に第三の波、【脱産業社会化】では産業社会化からの脱却、情報革命の社会へと突入すると定義しています。

そして情報革命の中で大量生産・大量消費を前提に組立てられた諸システムはもはや限界であると看破しています。言い換えれば、もう今のような社会は限界で大きく変えなければならないと言及しています。

今の時代は短期的に見て良い方ばかりを優先する価値観が蔓延しています。長期的に見てとか伝統的にとかいう時代ではありません。農耕一つに観える育成の智慧をとってみても、食という文化そのものの保存法にしてみても先祖、祖神たちは先々のずっと先の社會を見据えて私たちに生き方や働き方を指導してくださいました。

言い換えれば、人間を正しく導くことで永続し共生する世界を遺そうと尽力してくださっていました。その徳や恵みのお蔭で私たちはこの地球上で仲良く幸福に暮らしていくことができるのです。

しかし今の社會は、自利や欲望が際限なく追及され世界はまるで暗がりの中に入っていくような感覚があります。国家間の問題も、利害関係からでしか語られず、善悪や本質で話し合われることが少なくなってきています。

これは人間自体を如何にお互いが高め合おうかというような議論ではないことは一目瞭然です。人間は仲良くなるのに、堕落していく仲間と、高め合っていく仲間というものがあるように思います。真の信頼関係とはお互いを尊重し、明日の敵は今日の友のように切磋琢磨しお互いを許しあって助け合ってご縁を大切に生きていくことのように思います。

そういう精神性を磨き高めてきたのが、私たち日本人の崇高な理念の中にはあるのです。武士道にせよ大義にせよ、歴史の中で残っている上杉謙信や源義経、楠正成という武徳高い人物から学び、二宮尊徳や聖徳太子、中江藤樹など聖人と呼ばれるような方々からも教えを施されてきた民族なのです・

それが第二の波の中で失われつつあるのは、時代がいつまでも急なスピードや緊急性の中で我を見失っているからであろうと思います。もう一度、思いだし、どうあるべきかということについて語り合えるような場や仲間、つながりがこれから必要であろうと思います。

最後にトフラーはこう語ります。

『勝ち負けの経営の限界が見えてきた。企業経営は、覇道ではなく、王道でなければならない。経営の王道とは、人を育て、導くことである。自社に関わる一人ひとりの幸せを目指すことである。このことを忘れ、勝ち負けにこだわる覇道の経営に走り、合理的な経済至上主義の考え方で事業をしている会社は、遅かれ早かれ衰退の道をたどっていくだろう。あなたの会社も変わらなければ、発展の道は閉ざされてしまう。』

子どもにどのような社會を遺してあげたいか、そこで判断するのが当たり前の道理です。そして何を譲っていくかは、その人たちの生き方にかかっているように思います。発展というものは永続的なものであってはじめて発達といえるように思います。

日々学びを深めながら、温故知新した経済を求道していきたいと思います。

まるまる訓練

人間が技術を身に着けるためには、訓練というものが必要になります。

いくら頭で考えてそうなりたいと思っていても、訓練がまったく足りてなければ思うような結果が出ることはありません。訓練とは繰り返し何度も練習をすることであり、それは言い換えれば自然にその技術が身につくまでは猛練習することをいいます。

一度も猛練習をしないで、ちょっとやっただけでできたと勘違いしていたら本番では必ず何らかのミスにつながり自信がなくなってしまうものです。また訓練には、自分のことが好きになるという要素もあります。

毎日毎日、飽きもせずに自分で決めたことだからと猛練習を続けていけばその猛練習する自分のことが信頼できるようになります。自分への信頼というものは、ちょっとやっただけではなく本当にやっている状態のときにできるものです。

そしてこの自分への信頼が持てる人こそが、他人から信頼される人になるように思います。

たとえば、自分が何か困った時に自分がどう助けてくれているか。自分が大事な時にどれだけ自分が力を貸してくれているか。この自分との関係が如何に信頼できるかによって、その人の現実の世界もまた顕現していくように思うのです。

いつも自分が妥協し、訓練を怠り、決めたことを先延ばししていたら自分との信頼関係が築けなくなってしまいます。そうなれば人からも信頼されないのだからどうしても人間関係をはじめうまくいかなくなるものです。

つまり訓練とは何かといえば、「自分の心を自覚する」ということであろうと私は思います。

日ごろから丹誠を籠めて何百回も訓練することで、心の作用で自らの中に自覚が芽生えてきます。その自覚とは、自分がそれを遣るということその決心の強さに現実が目覚めるのです。つまり自分がどうしたいのかをもう一人の自分に気づかせてあげるのです。

そうやって自分がひとつ、一人の自分が錬成できるならば必ず事物は一体に実現していくように思います。ろくな練習もせずに訓練もせずに愚痴や文句ばかりいったとしても何も変わっていくことはありません。

自分で決めたのだから、言い訳をするのではなく「そこまでしてでも遣りたいか」という自問自答に真っ向から挑むくらいの気概で挑戦していくことで訓練の弾みになるように思います。コーチの仕事も仲間の役割も本来はこの訓練に寄り添ってあげることかもしれません。

他人ごとではなく、本気でその人の成功を信じるならば行動に移していくことだと思います。
自立支援というのは、信じることですが訓練を見守る愛が具体的な手立てかもしれません。

学ぶを深めていきたいと思います。

養育の道

現在、中尾佐助氏の「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)を読み進めています。

そもそも人間は食べることによって今まで生き延びてきた生き物の一つです。その食べるという当たり前のことを文化と呼ばずに何を文化とするのか、そして食べるために農耕を如何に発達させてきたかを辿るというのは、人類が如何に発達してきたかを知る道筋でもあります。

人類のルーツが何か、そして人類はこれからどこに向かうのか、その発達を確かめる中に「農耕」という文化そのものの意味を自覚しているかどうかは大変重要なことであろうと思います。

今のように遺伝子組み換えや原子力、また最先端科学と呼ばれる技術によって様々な文明が生み出されたとしても、かつて何千年もかけて創意工夫してきた文化には及ぶものはありません。いくらそれらの最先端科学をもってしても、そもそもの農耕という名の食べるものすべてを賄うことはできないからです。

この著書は栽培されている作物の側から物事を洞察しているところに、発達で観るということの真価があります。育ち育てるということがどういうことか、そしてそれを如何に発展させてきたかというのに人類史のかつての智慧を学びなおすことができるように思います。

以前、種麹屋のことがテレビで放映されていた中に興味深いシーンがありました。種麹屋というのは、その年の種麹の中から特に栽培が可能な種麹を取り出し保存する、そしてかつてもっとも栽培に向いている種麹の種菌を残しておいてそれを培養して種麹として販売するという話です。

これは作物でも同じく、毒抜きをしたり育成の過程で栽培に不向きなところを取り除いたり、種を大切に守りいつまでも育てることで農耕の文化を築いてきたのです。自然農の実践をしていても、毎年作物がその土地にあわせて、そして栽培する私に合わせて変化してくださるように常にかかわりと絆によってお互いの文化を築き上げていくのに似ています。

奥の深い農耕の歴史を鑑みながら、今の人類がどこに向かっているのかを考えると心苦しく思えてなりません。種を守ろうとすることを人類がやめたとき、人類は滅びの道を選択しているのかもしれません。

種を大切にするというのは、如何に育てていくかを守るということでしょう。
見守ることの大切さから、より深い養育の道を学びなおしていきたいと思います。