自然の時機

昨日、念願の水田づくりを無事に行うことができました。

光と水と風、そして土の調和の中で私を含めた生き物たちが共生する地球の喜ぶ田んぼから自然を学べることに感謝しています。

振り返ってみると、時間が経てば過去に起きた出来事はすべて意味がありつながっていることを実感します。なぜあの時はできなかったことが今はできるのか、なぜあの時はならなかったのかを内省すると、タイミングが合わなかったということがわかります。

その時は焦りのあまり、思い通りにいかないことに挫折をしたり一喜一憂したりと大変でしたが時間をかけて継続していけばあの時の苦労が今に活かされていることを実感するのです。

人生には必要な時期に必要な体験というものがあるように思います。いくら早く早くと焦ってみても、無理やり力技でその時は乗り切ったにせよ、タイミングが合わないのであればことは為りません。

そう思うとき、如何にことが為るには長い月日が必要なのかということを実感するのです。

言い換えれば必要な月日があって事は為るということです。

自然体というものも同じく、長い月日をかけてタイミングを合わせていく中でもっとも相応しい時処位に応じた行動ができるかどうかということなのでしょう。心で浮かんだことが形に為って行くまでには自然と一体になってその時機が訪れるのを信じて待ち続けなければなりません。

それは頭で思うとおりにすることではなく、心が感じるものを感じたままに味わい、感謝のままに周囲に支えてくださっていること、周囲が助けてくださっている実感を覚えるときに時機は実感できるように思います。その時機を実感するためにも、信を入れて過ごした長い月日が必要なのです。

自然というものは信じれば信じるほどに裏切りません。それは必ず善いことにしてくださるからです、それを天や神様、もしくは地球や宇宙と呼んでもいいのかもしれません。そういうものに包まれる中で私たちは呼吸をし脈動を打ち、めぐり会いを通じて活かされているのでしょう。

如何に自分が自然と一体の中に活かされているかを思うとき産まれてきた幸福に出会えるのです。心は常に自然とつながっていることを忘れてはいけません、だからこそ自然に待つ力を伸ばしていくのが修養の本質なのでしょう。

心の実践を積み上げて、味わい深い学びを楽しんでいきたいと思います。

社會活動

日本の社會では、あまり自分の意見を出さない方が善いという考え方を持っている人がいます。しかしよく聞いてみると、流されてしまっているだけや周囲に合わせているだけといった自分を持っていないことで我慢したり悩んだりしている人も多いのです。

先日、ある園の相談で自分の意見を言える子どもになってほしいという願いについて話し合いました。なぜなら、自分の意見が言えないというのは社會の中で自立していけないからだとありました。

この自分の意見を言わないということを少し深めてみたいと思います。

そもそも自分の意見が言えるというのは、自発的で主体的であるということです。何かの物事に参加するとき、それが妥協ではなく協力であるならば自分はこうしたいという意見がありそれを周囲に発信して自分から進んで取り組んでいきます。

しかし、これを周りに合わせてから自分をだそうや、周りの評価や自分を我慢して従っていこうとなると一見トラブルも発生せずに無難で安全ですがそうすると他発性で受け身になってしまうのです。

自分から意見を持つというのは、自分をもっていないとできません。そして自分を持つというのは自分で考えていないと自分は持てません。つまりは何かの問題に対して手綱を自らが持ち全体を御しているか、それともただ馬に乗せられているだけかの違いになるのです。

ただ乗っているだけならだれでもある程度はできるものです。しかしそこに確かな自分の意思や主張を出すのだから積極的に物事にかかわり、自分の意見をその社會に対して発信して最終目的まで主体的にかかわり続ける必要があります。

つまりは社會参加のように、見守られているのだから自分の社會人として社會の一端を担おうと自ら見守る側として考え意見を発信するということになります。社會活動も同じく、自分も社會の中で存在する大切な一員なのだから自分が社會をつくる責任を持つのです。

自分の意見がないというのは、その自覚がないということです。だからこそ会社でいえば、自分が会社を創っているのだから自分の意見はとても大切なのだと自覚することや、一人一人が自分が大切な存在なのだから他の意見を認め、自分の意見も認められる社會にしようとすることが共生する場を創出していくことになるのでしょう。

自分の人生を自分で生き切るというのは、自分の意見を持つということです。それは単に反対するとか、わざわざ反抗するというような幼稚なものではありません。自分なりに考え抜いた問いを自分の発言に責任を持ち周囲に発信するということです。

これができてはじめて自分もチームの一員だという自覚が芽生えるのでしょう。自分の意見が誰かのお役に立つことがあるのですから、どんな意見も大切にしていこうとすることがよりよい多様性の社會を産み出していけるように思います。社會活動というものの本質は、自分自身の自立をもって行動するということでしょう。

人の話を聴くということ、そして自分の話をするということ。

たった一人の自分の人生を歩む覚悟として、常に自らの姿勢を正していきたいと思います。
堂々と言いたいことがはっきり言えるような大人のモデルを実践していきたいと思います。

現実の中

中庸ということを理解するのには必ず実践が必要になると思います。いくら頭で中庸を理解しても、それは偏ってしまっていて本当にモノになるわけではありません。人間は楽をしたくなるものですから頭でわかった気になることを欲で求めてしまうものです。

頭でわかった気になると一時的な不安はなくなりますが、心の不安は膨大していきます。これは中庸であるということから離れてしまうからです。

たとえば、忙しいから人の世話や全体の仕事をしている暇がないという個人がいるとします。しかし本来は、忙しいのは誰もが同じで自分が忙しいからこそ他人が暇に見えているだけで本来は自分が忙しくても他を思いやる実力があるかというのが強さであり優しさであり自立しているということでしょう。

これは相手を思いやるという実践ができているからこそ、中庸であることがわかる事例です。他にも、頭でいくら真理を知ったとしても真理は頭で考えるところ以外に存在するのですから現実的に体心精神などを一体に実践していないのならばそれは真理を分かった気になっているだけということです。

人間は楽をして簡単便利な方を選択するから、自分の身体や心が疲弊し疲労するようなことを避けようとするものです。具体的な行動にまでいかないのは、いつも頭で計算して取り組むことを思いやりだと勘違いしてしまうからです。

相手のことを心配し、思いやることではじめて実践していくことが観得てきます。するとそれは自分の労苦を厭わないで謙虚にさせていただきたい、力になってあげたいという心が湧いてくるはずです。

そのあとに頭を使ってアイデアを絞り出して行動してみることで、はじめて中庸に近づいていくように思います。つまりは中庸というのは、思いやりを優先するということでしょう。

どうしても自分の考えた世界だけが世界だと思うのも人間ですが、世界の問題を自分のものとしているか、周りの問題は自分に必要な問題だと感じているかは、その人の生き方の実践に由るものですから自分の周りの出来事は他人ごとではなくすべて自分に関係があると実感することが中庸に近づくコツなのかもしれません。

「すべての出来事は自分にとって必然である」と思え、その問題をすべて解決するのは自分自身だと実感することが視野を広げ、自分を高めるということにつながるのでしょう。刷り込みを捨て去ることが何よりも先であり、中庸とは「現実の中」にあるということです。

自分が観えている世界をすべて肯定する勇気があってこそ現実に生きることができるのでしょう。真理は現実の真っただ中にあり、頭で考えた妄想の中にないということを戒めていきたいと思います。今日も感謝とともに実践の中の覚悟で生きていきます。

境界の妙1

先日、白洲次郎と正子の武相荘を見学する機会がありました。

本質的で真理に沿った生き方を実践してきた二人の生きざまが、住まいのあちこちに観て取れ、自分の生き方にも通じるところがあり大きなインスピレーションをいただきました。

養蚕農家の住まいを買い取って、それを改修しながら使ったとのことですが考え方の基本に、「無駄のある家」の方がいいと定義しています。そこには「いくら細かく効率よくと. 計画しても住んでいくうちに必ず、不自由さは出るものです。 『造りこみ過ぎても人が建築に左右されてしまう。 だから田の字型の農家は都合がいい。」という考え方です。

これも生き方がでてきて共感できました。道を歩んでいく中で出会うものを大切にしていくということ、住まいも道具も、使い切ってこそ活かされてこそ意味があり真価があるという姿勢が観れます。

実はここ武相荘からは本当に多くのインスピレーションがあったので書ききれないのですが、面白い「書」が額に飾ってあったので今回はそれを紹介します。

福沢諭吉の晩年の「造化と境を争う」からの一文、「束縛化翁是開明」と書かれたものです。

これは「造化の神(自然)を縛り上げ、是を人間の生活の幸せの為に使いこなすこと、是が文明開化というものだ。」という意味で紹介されています。

これは分かりやすくいえば、ダムや川をセメントで固めて山や川を固定し続けて都市を維持するのに似ています。本来は、自然は天候の変化、地球の躍動に合わせて変わりつづけるもので先人たちは自分たちの方が自然に合わせて自然と一体になり共生に努めてきました。しかし、そういうものを力で押さえつけ縛り上げて使おうとする中に限界が来ると災害に見舞われどこまでが境界がということを学んでいたのでしょう。

その武相荘のトイレには、白洲正子の言葉で「日本人ほど文化文化とわめきながら、文化を大事にしない国民はいない。 それは、自分自身を大事にしない事に通じる」 と書かれていました。

武相荘には、その道具、そこでの暮らし、そこでの生活に思想や哲学が醸成されていて清々しい雰囲気が全体から醸し出されていました。私の目指す将来の家のビジョンもシンクロし、本当に有難い体験をさせていただきました。

最後に自称兼業農家と言っていた白洲次郎の人間味のある言葉がありました。

「世の中でいちばん好きで、いちばん尊敬しているのは母だ」

まだまだこの夫婦の生き方の結晶、その武相荘から学ぶことがたくさんです。
引き続き深めていきたいと思います。

社育

なぜ教育が必要なのか、その問いについて私なりの明確な定義があります。色々と賛否もあると思いますが、ここで書き記してみたいと思います。

そもそも教育とは何かというと世間では学力だの躾だの評価だの色々と語れます。それは何か知識を得て指導されることにより、優れた人間になるというように思われています。その優れたというものも何をもって優れているかと言えば、社會に善い影響を与える人だということは自明の理です。

世界でも学力ということが注目され、日本の教師も海外視察をし様々な学校の仕組みに注目しそれを国内へと取り入れるよう苦心しています。そういう私もオランダやドイツに訪問し、その国の学校の仕組みを観察したりもしました。

しかしそれは具体的な教育技術であって、そもそも教育とは何かという答えではありません。

私の思う教育者というのは、社會者というものです。

畢竟、社會がないのであれば教育は要りませんし、教育しなければ社會は成り立ちません。人が人と一緒に集団で社會を育てるために教育が必要になるのですから真の教育とは「社育」のことです。

つまり私は社會を育てることが、教育の真価であると定義しているのです。

以前、イエナプランのコンサルティング会社の経営者と会食する中で私が日本の社会が貧しいと嘆いていたら「教育に携わるものが社會の文句を言うべきではない、そうしてしまったのは教育がしたのだから」という話に感銘を受けたことがありました。

あの頃から、私にはオランダに行こうがドイツに行こうがどの国に行こうが、もしくは国内でも教育というものは常に一人一人が内省により実践し、自らの人格を高めることにあるということを自覚自明しました。

世界に影響を与える自分という社會を如何に自らが育てるか、つまりは社會人としての自分を如何に高めて学び徳を積んでいくのか、そういうことを自立し実践することが真の社會者=教育者であると私は思っています。

そしてこの人は真の教育者だというのは学校にだけいるわけではありません。

ある社會では会社であったり、宗教であったり、病院であったり、あらゆる1人以外の組織、コミュニティ(集団)の中にだって顕現しています。

善きリーダーが育ち、善き社會が顕われることこそが、真の教育に他なりません。

いくらテクニックばかりで教育を遠くに求めても、まずその自分自身の内省による社會が変わらないのならばそれはとても教育と呼べるものではないと私は思っています。

かつての神話にあるような世の中を、大国主が社育した世界、また聖徳太子が目指した社育、思いやりや正直に溢れた世に拡げていくことこそが日本人の伝統教育であると私は直観しています。

真の社會人になれるよう、矢印は自分に向けて自らの社育を実践し拡げていきたいと思います。

 

山野辺の道草

人は新しいことを学ぶときには、新しい山を登るものです。歩み続けるほどに新しい山は顕われ、その山をまた一つずつ登り学んでいくように思います。

山を登る時、人は登ってきた大変さを思うから降りたくないと思うものです。せっかく登ってきたのだから他の山に登ろうとは思わないのかもしれません。しかし、山は新しいステージに合わせて顕われますから今までの山の上にまた登ろうとするのではなく、心機一転新しい山だと思って最初から登る気概が必用ではないかと思うのです。

仕事でも、営業で学ぶ山、上司として学ぶ山、経営者として学ぶ山があるように思います。その山は一つの山の上にあるものではなく、それぞれ別の山を登っているのです。言い換えれば新しい風を感じながら、その山一つ一つの意味を確かめながら登るのに似ています。

みんな山と言えば階段のように、その上にまた山があっていつかはエベレストのようにてっぺんがあると思うのが山の概念です。しかし私の思う山はそうではなく、山の辺の道を歩んでいく中での道草の一つとして登る山々です。

登ることが目的ではなく、山々を歩いていく中にこそ道があるように感じています。

ヤマトタケルの辞世の歌に下記が残っています。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるはし」

(大和は日本の中でもっとも素晴らしい場所。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた倭は、本当に美しい。)

「命の またけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」

(いのちの無事な者は、幾重にも連なる平群山の大きな樫の木の葉を かんざしとして挿すがよい こどもたちよ)

私の思う山々というのは、このヤマトタケルの定義している山と同じです。

その天に恵まれ見守られる山々の中で私たちは活かされ道を歩むことできています。その山々に感謝しつつ、新しい山を観てはそこを登らせていただきまた降りさせていただき次の山に学ぶのが、道場としてのお山なのかもしれません。

山はまるで神様のようなものだからこそ私たちはその中で生きているのですからその山の入り口で静かに佇む樫の樹の葉を御守りにして、活かされているままに澄んだ真心で学びとっていくことがいのちが自然一体に成長するということなのかもしれません。

倭人の子どもとして今も歩んでいくのだから青垣の美しい山々は続いていきます。
新たなステージを楽しみながら山野辺の道草を行脚していきたいと思います。

 

型を遺す

佚斎樗山の天狗芸術論は、読み進めていると実践をベースに記されているのがよく分かります。もともと佚斎樗山が青年期に師事した熊沢蕃山は、陽明学から神道、さらには芸術にも精通しており、常に実践を優先し私心に囚われることのない真心を目指したのがその生き方から感じられます。

生き方を学んだ人が、その生き方を文字を遺すということは、後世のためにその「型を遺す」ということなのかもしれません。生きものではないものを使って後を託すのは、その心(生き方)は自ら修練し読み取るようにと先人を歩んだ実践者の強い祈りが入っているのかもしれません。

古の著作や、古の言霊に出会うことは実践を励まされているようで有難く感じています。

その天狗芸術論に「当世の修行者気質を嘆く」があります。

「古へは情篤く志し親切にして、事(わざ)を務ること健やかにして、屈することなく怠ることなし。師の伝ふる所を信じて昼夜心に工夫し、事にこころみ、うたがわしきことをば友に訊ね、修行熟して吾と其理を悟る。ゆへに内に徹すること深し。師は始め事を伝へて其の含むところを語らず。自ら開くるを待つのみ。是を引而不発(ひきてはつせず)といふ。」

(昔、武芸の道に志したものは、情熱ゆたかで志固く、技術の修練によく務め、挫けず、怠らず励んだものである。師匠が教えたことを信じて日夜心に研究を重ね、実技を試み、疑問があれば友に尋ねて、修業を積むことによって自らその道理を身に付けた。したがってその理解はとことんまで徹底したものである。師匠は、最初は技法は伝えても、それに含まれている道理を語ろうとはせず、自ら理解するのを待った。これを「近づけはするが明らかにはしない」という。これは惜しんで語らないのではない。)

「吝(やぶさか)にて語らずにはあらず。此間に心を用いて修行熟せんことを欲するのみ(中略)。是古人の教法なり。故に学術芸術とも慥(たしか)にして篤し。」

(この段階で心を働かせ、修行の実を挙げることを願うからこそのことである。これが古人の教育方法であった。これによって学問も技術も、ともにしっかりしていて内容豊であったのだ。)

「今人情薄く志切ならず。少壮より労を厭い簡を好み、小利を見て速やかならんことを欲するの所へ、古法の如く教ば、修行するものあるべからず。今は師の方より途(みち)を啓き(ひらき)て、初学の者にも其の極則を説き聞かせ、其の帰着する所をしめし、猶(なお)手を執りて是をひらくのみ。」

(今日では、武芸を学ぶ者も情熱が薄く、真剣な志を抱いていない。若いときから骨の折れることをいやがり、手軽なことを喜び、小手先のことで手早く上達するのを望んでいる。このような者に対して昔のようなやり方で教えたのでは、修行をしようという者がいなくなってしまう。そこで今日は、師匠の方から手ほどきをして、初心者にも極意をを説明し、その実際を見せ、さらには手をとってこれを教えこむほかはない。)

「かくのごとくしてすら猶退屈して止まる者多し。次第に理は高上に成て古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。これもまた時の勢いなり。」

(このようにしてさえ、厭気がさして止めてしまう者が多いのである。こして理屈だけではだんだん達者になるばかりで古人の説では満足できなくなり、ろくな修行もしていないくせに、天にも登るほどのわざを得ようとするのだ。これもまた時の勢いとうほかはない。)(武道秘伝書 吉田豊編 徳間書店)

学び方一つとっても、今の学校の教え方と古の学問への姿勢は異なるものです。本質を学ぶということや、実践をするということが本来の学び方であったはずですが今のような情報や物が溢れかえった時代にはこの時代と同じような問題が発生するのかもしれません。

如何に貪欲に学ぶのかは、その人の真摯な生き方との向き合いなのでしょう。何のために学ぶのか、その初心を忘れないでいることが修行なのでしょう。先人の型をを参考にして取り組んでいきたいと思います。

体験即感謝

毎日、色々なことが起きる中で自分の思い通りいかないことは沢山起きます。最初は、感情的になりますが内省をし意味づけしていく中で新しい発見に出会います。発見というのは、自分の思ってもいない出来事に出会うことを言うように思います。

自分の思ってもいない出来事というのは、その出来事に良し悪しがあるわけではなくそのままにそれが起きたということです。そういう時は、その出来事に真っ直ぐに向き合えるかどうかでその出来事を正しく学ぶことができるようにも思うのです。

そして真っ直ぐとは何かといえば、直視することですがこれは心と体と精神が正面から受け止めるということであろうと思うのです。世の中には受け止められないことがたくさんあります、その理由は自分が捻じ曲げてしまっているからです。

本来の自分はこうであるはずということや、自分の思い通りではないというところに執着を持つと分かってはいてもその執着が手放せずにいつまでも苦悶は続いてしまうのです。この自分の思い通りというのは、世界は自分のものであるということ、自分の一部が世界であるという感覚のことであろうと思います。自分が全体の一部であり、世界の中に自分が存在していて循環の担い手であるということがこれを手放す鍵かもしれません。

自分の身におきる全ては何かの意味が隠れていてそれが世界に多大な影響を与えているという責任を持っているかという自覚なのです。出来事を善きことにしていこうとするとき、一見悪いと思えることを善いことだと信じようとするとき、世界の本来の姿が顕現するのです。

この世は、自分が生きているだけ、活かされているだけで幸福な場所なのです。その幸福な世界に棲んでいるだけで善きことなのですが、私や我が入ることでそう見えなくなっているのです。

そこから体験を省みれば体験そのものが感謝であると実感できるようにも思います。

体験即感謝というのは、この世界があるがままの世界のままにいる自覚をするためのコツかもしれません。知識という別の世界を産みだし、そこで人間だけの世界を創造してしまいましたがそのことから真実から離れてしまったように思います。

本来の世界そのままにいるということで、正直、素直であることを体現するのですから全体宇宙の感覚を忘れないように感謝のままでいる実践が確かな意味や記憶というものを純真にしていくように思います。

ズレテいるのは誰か、ズレテいるのは何か、そういうことを出来事との正対、自分自身との向き合いにより学び直すことが新しい発見を創造するのでしょう。有難い機会に一つ一つ深く感謝して歩みを清々しくしていきたいと思います。

 

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。

常在正直~御役目~

人は役割を自覚するのに、主体的であったか受身であったかは後で大きな差になっていきます。

自分の役割が何なのかということを自覚できるということは、全体に対して自分が何ができて何ができないのかを理解することができているということです。言い換えれば、自分そのものを過大評価も過小評価もせずにあるがままにありのままに自分にしかできないことを遣っているということでしょう。

これは刷り込みがあると大変難しいことです。

誰かから役割を与えられたり、自分はきっとこういう役目であろうと勝手に思い込むとそれ以外のことをしないようになるものです。実際には何のために自分があるのか、何のためにそれを遣るのかと原点から考えていれば自ずから自分の役割が顕現してくるものですが頭で考えてきっとこうだろうと相手に合わせていると本来の役割や役目を実感できなくなるものです。

言われたことが役割だと勘違いしたり、言われていないことは役割ではないのだということの考え方の中に、役割というものは外から与えられるものだという思い込みを持つのです。

本来の役割とは自発的で主体的なものです。自分ができることは何かと突き詰めれば、自分の得意や長所が役に立つのは自明の理です。また目的に対して全身全霊の真心だからこそ自分にしかできないことを確認することができます。

自分が何で御役に立てるのかは、御役に立とうというような気持ちよりも何でもさせていただきたいと願う謙虚な心の時に観えてくるのかもしれません。

自分が求めた御役目よりも、来たものを選ばずに何でもやらせていただけるという仕合せに生きていけば御役目も役割も感謝のままに勤めさせていただけるように思います。

自分勝手に他人の役割や役目を決めるのは、どこかで自分の思い込みや固定概念によって他人を操作したいという願望や自分の計算を入れてしまうのでしょう。

世間でいう大人になっていくというのは、ある意味で計算してしまうことかもしれません。その計算という「計る」という思想の中に、まっすぐであること、正直であることを邪魔する何かが潜んでいるような気がしてなりません。自他に対して計算をしないと決めることが自分を直していくための王道なのかもしれません。

人がバカ正直だと馬鹿にするところにこそ、本来の正直の真価があるのかもしれません。素直な子どもたちはみんな正直ですから、馬鹿になるのはそうではなくなった方かもしれません。

そう考えれば自分の御役目や役割を自覚するには正直であるということが大前提に座っている必要があるのでしょう。自分に正直に、他人にも素直にという生き方はとても謙虚なものです。謙虚にいきていれば役割や御役目もまた自然に融和し共生の理に従って楽しく仕合せになっていくようにも思います。

何をさせていただけるのかはその時その時の楽しさですが、常在正直であることを大切に実践していきたいと思います。