野生の直観~柔軟性と調和~

私たちは本来、自然界の中で野生に栄えた生物です。

自然農をはじめ田畑に出ても、植物や虫たち、それぞれが自由自在にあるがままに生きています。そのものがそのものらしく生きているのを邪魔しないでいるのと同時に、そのものの特性を活かしつつ共生するために調和をはかっています。

自然界というものは、常に相手を変えるのではなく自分を変えることで調和するのです。

長い時間をかけて、御互いの持ち味を如何に活かせるかをそれぞれに活かそうとします。

それは自然界が活かし活かし合う関係で成り立つからなのでしょう。

自然界から離れるというのは、自分の思い通りにしようとすることかもしれません。進化が停滞し退化するというのは、自分の方を変えようとしないことをいうのでしょう。

自分を変えるには、相手の持ち味を善いと感じる観察眼や心から周囲によって自らが活かされるという真理に気づくことなのかもしれません。

今の人間社会の中で生きれば、それぞれが自分の思い通り生きることを自分らしくあるかのように錯覚して報道します。しかし実際の自分らしさというのは、あるがまま、言い換えれば難に対しても柔軟性を以て対応できるということなのでしょう。

つまりは、自分が周囲を尊重しているからこそあるがままということです。

昨日から小笠原流流鏑馬という古武道を習いはじめましたが、馬との阿吽の呼吸からですが自分の中の筋力や体幹がまだまだ合わせられずあちこちが痛みます。一つのことをするにも痛みを伴うのは、それだけ自分が成長しているあかしであり鍛錬しているからこそ進化できるのです。

新しいことに対する筋力は常に痛みを伴いますが次第にその痛みは新しい自分、新しいステージに向けての準備段階なのです。

仲間が新しいことに挑戦するのを一番身近で見守る自分が、何よりも挑戦することを触発されたようにも思います。子ども達のモデルになるために、自らが変化の源になりたいと日々に願うばかりです。

プロセスを楽しみ、自らの変化から自然との共生、野生の直観を磨いていきたいと思います。

危機意識

昔のように里山のような社會があったころと違って、人為的に人間が加工し創造した社会の中では安心安全という定義も変わってきているものです。

今の時代は、安心安全を人為的に造りだしています。自然を征服できるという考え方のもと、防波堤を設け、ダムを造り、道路を舗装し、避雷針用意しと、できる限りのことをして防災をしています。

しかし実際は、ことごとくその人為的に造ったものを自然は破壊していきます。あの釜石でもギネスブックに登録されるような巨大な防波堤がまったく太刀打ちできずに破壊されました。原発の安心安全神話もあっという間に打ち砕かれましたから人間が言っている安心とか安全とかは如何に当てにならないかと感じたものです。

人災というのは、想定外だったという言い訳とともに語られます。

言い換えれば、自然よりも人間の方が優れていると感じていることが人災の原因かもしれません。人災というのは、人間の傲慢さから発生するように思います。人間が一番と勘違いしたり、人間がもっとも賢いのだと思い違いをするから、そのしっぺ返しに遭うように思います。

人間が謙虚で感謝をしていれば、自然の法則に沿いますから思い違いをしたり勘違いをするようなことは起きません。常に畏怖と畏敬を忘れずに、危機に備え万が一のことを考えて考動することを忘れません。

しかし平和ボケしてしまい、人間が平和だと思い込み刷り込まれた中に染まってしまうと目の前まできている危険にまで疎くなってしまうのです。世界情勢も然り、自然現象も然り、今、どのようなことを起きているのかという微細な予兆も感じ取る力が喪失してしまいます。

自然にいると思い通りにはならないものですが、人間社会の中だとあるていどは人間の思い通りにいくものです。天変地異なども、自分たちが体験していないことは想定しないのでしょう。本来の想定外とは想定しないことが起きるということですが、想定しないことを想定しないというのがもっとも危機意識がないということになるのです。

自然を感じながら生きるということは、自分の不自然に気づく力です。

それは何かきっと大きな教えが入っていると感じる力や、何かこれは啓示であったり自分を直せという警告なのだと、常に素直に謙虚にいつも内省を続けていれば自ずから自然に照らして自分の姿勢を戒めていくことができるように思います。

自分の姿勢が人間都合になることがもっとも危機意識が欠如することなのかもしれません。

活かされることを忘れてしまえば、生きていることすら忘れてしまいます。

空気ひとつ水ひとつ造りだせず、私たちはそういうものの恩恵の中で生かされているという真実を思い出せないというのは当たり前のいのちにも気づかないということなのでしょう。

自然という当たり前ではない何か偉大な有難さの中にいることに気づくのが地球上でいのちを共有する私たちの本来の姿勢なのでしょう。

子ども達のためにも未来をつないでいけるように災害というものの本質を見極めて、自然から学び続けそのモデルを実践していきたいと思います。

気性と天性~天気との調和~

人間は、自分の成長を邪魔するのに気性に振り回されるというのがあります。この気性というのは、意地のことで自らの感情塊のことです。

成長を邪魔してしまう代表に他人のせいにするというのがあります。自分にとって都合の悪いことをつい誰か他人の性にしてしまうことで、本来の自分の性に気づけなくなります。もしくは自分のせいだと自分を過度に責めすぎるのもそれは単に自分の性だからと仕方がないと努力して改善することもせずに諦めてしまったりします。

本来は、気性というものは気象と同じく変化融合を繰り返すものであり、天気と同じように晴れたり曇ったりとバランスを維持しているものです。そういう天候の変化の中でも、どのように自分側が変わっていくか、自分側を内省していくかでその気性とのバランスを維持していくことになるのです。

例えば、他人のせいにせず、自分のせいにもしない、自分を常に高め続けるというものがあります。これを私は内省と呼び、自分に省みて心を磨けば自ずから人格が高まっていきます。人格が高まれば、穏やかな判断がどのような状況下においても心静かにできるようになるからです。

実際はとても難しく、できるときとできないときがあります。特に体調の変化や精神的な辛さ、心の痛みなどに反応してとても心静かにということにはなりにくいものです。人は自分のことを一杯なればなるほどに頑なになりちっぽけになってしまいます。

そういう時こそ、自分以外の周りに支えられていることへ感謝し行動できたり、誰か自分と同じような痛みや苦しみを持つ人たちの役に立ったりとできるチャンスも来ていると考えるのです。

すると、自分の気性が環境と合間って自分がブレナイで理念や信念を実践できるようになってくるのかもしれません。実際は、目ばかり発達してしまっている今の社会ですから心が出にくいですが心はいつも思いやることで目を開いていくように思います。

そしていつも心の眼が開いていく状態でいるには、内省し続ける努力によって心を高めていくしかないように思います。内省するというのは、基盤に感謝が根付き、尊敬が育ち、信頼が実になり、努力が花開き、真心の種を蒔くというように人間を高めていけます。

内省の価値というものは、自分自身の本来の天性を活かそうとする働きなのかもしれません。

気性も天性ですから、その天性を活かすにはその心が高め続ける努力があってこそなのでしょう。天気の調和も自然ですから常に自他を一体に思いやり、日々の実践を積み上げていくことで心身調和していけるように精進していきたいと思います。

 

大切なことを忘れないDAY

昨日は、理念から3年前の震災の教訓をふり返るために「大切なことを忘れないDAY」として防災や教訓などを研修しました。

研修では「想定外」についての話し合いを中心に、釜石での事例や、釜石の子どもたちの実績などをDVDを使って学び合いました。

その中で気づいたことがあったのですが、人は想定外というものを考えるのに、想定内とか想定外とか言っていること自体が「想定」しているということだということです。

想定というのは、考えられる範疇での出来事ということで実際の災害は自分の考えが全く及ばないほどの巨大な存在というのが本当の意味で想定できない=想定外ということだということです。

それぞれに想定外の出来事について語り合いましたが、想定内のことばかりを話している姿に如何に自分たちが平和ボケしているのかを痛感します。

本来は、自分のいのちを自分で守ろうなどということは自然界の中では当たり前すぎて本能でいつもそれを発揮して生き残っているのです。しかし実際の今の世の中は、そういうシンプルな自然の姿すら分からなくなるくらい人間が自然から隔離した文明社会の中でどっぷりと安全や安心に浸かってしまっているのです。

そういう文明社会が壊れるような災害があった場合は、いのちを守ること以外できないはずですがそういう目にあったことがない今の世代ではぬるま湯の中でギリギリの感覚というものを喪失してしまうのでしょう。

人は本当の危機を肌で感じながら生きるのは自然への畏怖や畏敬を忘れないということです。神道では神様という偉大な存在に畏み畏み敬い常に謙虚にと私たちは日常から生きてきましたが今では自然を征服するという発想のもと、人為的に操作された人間中心の傲慢な暮らし方の中でそういう畏怖畏敬の心もなくなってきているのでしょう。

自然から離れるということが一体どれだけ恐ろしいことか、地球に住まう私たちが地球と住まうことを忘れてしまうところに文明の崩壊、否、人間中心の限界を感じてしまいます。

以前、「直視」ということをブログで書きましたが直視しないからいつまでも傲慢に胡坐をかいてしまうのでしょう。直視というのは、素直でなければできず謙虚でなければ視れません。自分の今の生き方が自然からどれくらい離れているのか、自然というものを常に意識して生きているか、あの教訓から学んだ本質は自然からの警告であったはずです。

人間が傲慢になって人為的に造りだしたものが、自然に破壊されるのを目の当たりにして自然の中で生きて活かされているのだから自然と共生していく方を優先しよう、あらゆる生きものたちとともに地球に活かされていることに感謝していこうと、初心を忘れずにいることが何よりも後人へつないでいくことではないかと私は思います。

最後に社内では、災害の教訓から新たに5つの鉄則をつくり今後実践することにしましたので紹介します。

【防災鉄則の5箇条】

第1条 危機意識の欠如、備えを怠るな

第2条 自然への畏敬を忘れるな

第3条 固定概念に縛られるな、最善を盡せ

第4条 自分のいのちを守ってから他人を助けよ

第5条 ピンチの時には野生の勘を取り戻せ

子どもたちに豊かな自然風土と幸福な暮らしを譲っていけるように実践を積み上げていきたいと思います。

理念継承の価値

理念が受け継がれ、いまだに色褪せずに実践している場所にディズニーランドがあります。

沢山の本も出版され、その人気の秘密について紹介されていますが多くのファンが世界中から集まり、また日々新たなファンを創造しています。

遊園地という名で存在する施設は同じでも、その目的が異なればその理念や定義も内容もまったく異なるのです。

そもそもこのディズニーランドの発祥の由来にはこう書かれています。

「ウォルト・ディズニーは、よく幼い2人の娘を連れてカーニバルや動物園、遊園地に遊びに行っていました。ところがあるとき、娘たちは回転木馬に乗って楽しんでいるのに、自分はベンチに座ってポップコーンを食べるだけという状況に気づき、なぜ両親と子どもたちが一緒に楽しめる場所が存在しないのかと、それを造るべきではないかと考えたのです。それがディズニーランド計画の始まり。ウォルトは彼自身のポケットマネーでデザイナーを数名雇い、コンセプトを考え始めました。その開発には15年という長い年月がかかったといいます。そして、カリフォルニア州アナハイムに、1955年ディズニーランドを完成させたのです」

15年かけて、「一緒に」という考え方のもと、皆で一緒に楽しもうという思想を現場で活かして様々な環境を創りこんでいき今のカタチになっているともいえます。子どもだけが遊んでいるところではないのは一目瞭然です。

そこからこのような理念を明確に打ち出します。

「世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界。「私はディズニーランドが、幸福を感じてもらえる場所、大人も子供も、ともに生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえるような場所であってほしいと願っています。」というウォルト・ディズニーの言葉があります。あらゆる世代の人々が一緒になって楽しむことができる“ファミリー・エンターテイメント”を実現したいというウォルト・ディズニーの思いがディズニーランドを生み出し、この考えがディズニーテーマパークの基本コンセプトとなっています。」(東京ディズニーランドHPより抜粋)

そしてそこから「ハピネス」、幸せという言葉を導きだしキャッチコピーになっています。その上で、具体的な行動指針も打ち出されそれが先輩たちの努力によって伝承継承されて今が在るのです。

私から見れば、9割がアルバイトでも理念が明確に浸透するのは目には見えない今までの先輩たちの理念の実践の継承が正しく行われているからであろうと思います。その中間の人達がどれだけの偉業を為したのかを考えると頭が下がります。

東京では30周年ということでイベントを多く行っていますが、1割の正社員が30年丁寧に後輩たちのお世話をし続けているとすればそれは1割という数字では表れてこない歴史があるのです。

ウォルト・ディズニーが目指した理念や信念が、語り継がれそれを正直に継承するものたちがいてはじめて今の本質や存在感を醸し出すのでしょう。理念に関わる仕事をするからこそ、自分のおこないが後人たちの未来になることを決して忘れてはいけないという気持ちになりました。

最後にウォルトディズニーがこういう言葉を遺しています。

「ディズニーランドは、決して永遠に完成することはありません。世界に想像力がある限り、永遠に成長し続けます。」

永遠の未完成が持つ好奇心、その時間の可能性を成長という言葉で表現しています。

学びは無限ですが、この意味からまた新たなインスピレーションをいただきました。子どもたちのためにも今後の発展に役立てていきたいと思います。

 

 

素直の本質

人間は、世界を広くもできるし狭くもできるものです。

どれくらいの大きさ、どれくらいの視野であるかは、その人の考え方によっても変わってきます。それは単に、経験が豊富だから広く未経験だから狭いというわけではありませんし、知識が豊富だから広くないから狭いというわけではないように思います。

なぜなら、広さというものは単に広い狭いという意味ではなく「寛容」であるということだからです。

人はどのような時に寛容で、どのような時がそうでないかと考えてみればすぐに理解できます。例えば、自分善がりになっているときは他人の話を斜に構えて聞いていますから受け容れる気がありません。そうなると自然に狭い心になり、自分の殻に閉じこもってしまうものです。逆に、自分善がりではなく至善に止まるときは他人の話を受容していますから自然に寛い心になっているのです。

本来の心というものは、とても広大無辺であり宇宙万物の全てを寛容する存在です。

この世にあるものはすべて受け容れるのは、この世のすべてとつながっているからです。

つながっているというのは、自他一体、言い換えれば心一体に調和しているということです。全てのものが一つにまとまっているというのが自然であり、その自然のままの心と体があるがままになったことを素直や正直というのでしょう。

人間は如何に受け止めるか、受け容れるかで自分の器を寛げていくことができるのです。だからこそ素直になる必要があり、正直になる価値があるのです。

自分の器は、一緒に実践してくださる人や、自分のことを真底心配し思いやり導いてくれる伴たちによって開かれていくのかもしれません。そう思えば出会いこそが、その人を真に成長させてくれるのかもしれません。

頑なに自分を守り、無理をして我慢をするよりも、現実を受けとめてそれをどのようにチャンスにして転換していくのかが人生の醍醐味なのでしょう。

広さということの本質を学べば、人間が発達するという意味が理解できます。心を常に寛く広げ、心を常に明るく元気に日々を精進していきたいと思います。

見守り待つ~痛み分け~

人は心に傷を負うと、その傷がいつまでも疼くものです。

それは過去の逃げ場のなかった時の苦しみを思い出すからです。人間は一人で辛く苦しいときは、誰にも相談できないものです。なぜ自分ばかりや、どうして自分だけというように一人の狭い世界に閉じこもってしまうからです。

それを周囲は見ては被害妄想だとか、自意識過剰だとか言いますが本当はそうではなくその人は傷ついているから防御したいのです。これ以上、傷つきたくないから助けを求めるサインであるのです。人間が何かをするのは、きっとそれ相応の理由があるのです。そっちを観てあげることが人間としての優しさであり強さであろうと私は思います。

相手が深く傷ついていると気づいてあげれば、その傷を分かってあげて待ってあげることができます。しかし傷は身体ではなく感情ではなく、心にあるのだからその傷が一般的には目には見えないのです。心の眼で観るときに、はじめて観えますがそのためにはその人が深く傷ついたことを傾聴し共感し受容できなければなりません。

人は心で相手を観ないでその人の表面上の行動や言動ばかりを感情というフィルターで見ると画一的な刷り込みも入り眼が曇りますから単なる被害妄想や自意識過剰、自己中心的で身勝手な人物かのように錯覚して誤認してしまいます。

しかし本来は、そういう人は何かそれ以上踏み込まれたくない傷がある、過去に何かきっと大きなトラウマを持っていると思いやり信じてあげることでその人の痛みを緩和してあげることができるのです。

逃げ場がない時に向き合えといっても、追い込まれて乗り切ってもそれは力でねじ伏せただけになることもあります。本当は、逃げ場があるときに向き合ってそれを自らで乗り越えて誰かと一緒にそれを称えあい認め合うときにだけ人は傷を癒せるように思います。

心が折れたことを思い出すと、もう二度と傷つきたくないと自分から先に相手に求めては諦めてしまいます。しかし、本来はそれでも自分が先に諦めない、相手に求める前に自分に求めようと勇気を出して世界を信じることで様々なことを自然に受け容れる日が訪れるものです。

そしてその過去の傷の痛みは、これから同じような体験をした人たちとの痛みの分かち合いで共に痛みを乗り越えていくことで人は出会いの感動に世界を癒せるのです。

準備ができるまでじっくりと待てばいい、その日が来るのを楽しみに待てばいい、共に傷つき辛かったからこその痛み分けをすることができればそこに同志や仲間、親友たちがいるということですから。

傷は待つことで癒えるのだから、じっくりと見守り待つことを自ら実践していこうと思います。

安心村社會

ムラ社会という言葉があります。

これを辞書で調べると「1 有力者を中心に、上下関係の厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な村落。村の決まりに背くと「村八分」などの制裁がある。」「2 同類が集まり、ピラミッド型の序列の中で、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会を1にたとえた語。談合組織・学界・政界・企業などに用いる」(goo辞書)とあります。

強烈なピラミッド型組織で、一方的に秩序を維持する集団ということでしょう。
絶対的秩序を守るのがムラの存在であり、秩序そのものの人がムラ人という定義です。

しかしこの村という考え方が悪いというわけではなく、この村社会が悪い方へと使われるのは思いやりで見守るのではなく、保身や利権を守るために強制的に管理するときにまるで「いじめ」のようなものが発生してくるから問題なのです。その人らしさを蔑にする組織では希望を持てません。

本来の村というのは、相互扶助で成り立ちます。お互いに力を合わせて生きていくために、御互いに譲り合い見守りあいながら生活をする共同体です。その中で個が引きたっても、それを寛容し村が活かしていけばいいのです。

しかし軍隊のように徹底して組織を管理すれば、それは義務や権利ばかりをそれぞれが主張しあう秩序だった共同体となります。その中での自分らしさを出すのは、組織の危険因子ですから村全体でそれを排除しようとするのです。

つまりは村がどうかではなく、個が尊重される集団か、それとも集団を優先し個は抹殺する集団かではその個の扱われ方も異なっていくのです。

ありのままの個を認めないという社会がムラ社会です。村の掟や制約に従うことは大前提で例外は認めないということでしょう。学校も病気や法事以外は休めないという強迫観念、逃げ場のない無言の圧力に個性を埋没させて集団の一員になるしかないと諦めてしまうのです。もしもそうではなく、「なぜ?どうして?本当は何?」などと考えてしまうとそのことに気づきますからいよいよ逃げ場がなくなっていくのです。表面上の逃げ場にあわせることは、ムラのルールに従うことです。本来の逃げ場の定義は、安心基地、つまりは自分らしくいてもいい、あるがままの方がいいと理解してくれる場所のことです。

有無を言わさず理由も伝えず、一方的にただ“これをやりなさい”と一斉画一に一律に全員でそれを実行する義務を押し付けられる。

こんなことを秩序といっているのは、まったくの人権無視であろうと思います。管理者というものは、自分が正しいと思い込めば従うのは当然だという発想を持つのかもしれません。この国は立場や肩書が優先され、物事の本質を考えないでいた方が楽だというような風潮をつくりだしています。

大人にとって都合がいい子になってもらって安心というのは、大人が不安だから管理したいだけでしょう。子どものとってどうかということから社會を観直す必要を感じます。

そうしてみると、あるがままでもありのままでも受け容れてくれる場所があるということが人が安心して働くことができる故郷でありそれが村であり、国であり、そして「家」であるはずです。かつて聖徳太子が実現したような大和の国家の理念が我が国にはまだ存在しています。

本来の安心村社會を創造するためにも、そのままでいい、あるがままでいい働き方と生き方の実践を創意工夫と勇気をもって今後も続けていきたいと思います。

子ども達の安心できる一家になれるよう、その人らしさを認め大切にする実践を積み上げていきたいと思います。

 

子どもの権利~社會とのつながり~

人は社會の一員として認められることで人権を獲得していくものです。

人権というものは社會の中に存在するものであり、無人島で一人で生きるなら別に人権などというものは必要ありません。

この人権が守られないとはどういうことかと言えば、社會から無視され否認されるということです。これら人権無視がなぜ起きるかといえば、一方的な価値観を押し付けてそれを守らせようとするときに個人の尊重を蔑にするということで発生するのです。

それが発展して、自分のことを自分で決めることを与えない、つまりは自己決定権すらない子どもたちが世界にはたくさん存在してしまっているのです。これは子どもだけではなく大人でもそうですが、自分で自分の人生を生きる権利をはく奪され誰かの言うことを強制的に従うようにと利権を優先されているのです。

学校などでも、無視が流行るのは本来はその人の個性や存在が尊重されるはずのものが認められず、何かその人が人権を発揮しようとするとき抑え込む作用が働くことでいじめの構造ができあがるのでしょう。

一つの価値観で無理やりに教育することは、子どもの権利条約に違反しているのです。

子どもは自らで生きる権利があるというのは、子どもは自らの生き方を尊重された存在だと認める事が大前提でしょう。その大前提を無視し、大人の都合で子どもを無理やり変えさせようとするのは何か強い圧力を感じます。

そしてそれは大人たち自らを苦しめている原因であることにも気づきます。
学校とは、そこで働く人たちそのものがもっともその苦しみを受けるはずです。

社會から隔離するのをよしとせず、社會とつながることが学校を改革する根源かもしれません。大人になって学校から実社會に出て観たら、あらゆるものが違っていました。それに海外に留学し海外で働けば、なおさら学校でのことはまったく役に立ちませんでした。

そう思う時、大人側の無理解こそが子どもの無理解であったことに気づきます。如何に子どもを理解するのかというのは、如何に自らを理解するかということなのです。世界に目を向けるということは、学校以外の世界が社會には広がっているという現実を受け止めるということでしょう。

このままでは社會というものを誤解した子どもたちがそのままおかしな社会を無理に創りあげてしまうかもしれません。教育に関わる者は、常に社會というものを直視し、その社會を担うものであることを決して忘れてはいけないと心から戒めました。

最後に子どもの権利条約の素になったヤヌシュコルチャックの言葉を紹介します。

「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもなのだから。」

今こそ、大人たちからまず自らに気づくモデルを示すときです。

機会を活かして学びを深めていきたいと思います。

スロー

最近、旅行の仕方に特徴がある話を聴きました。

それは目的地に行くことが目的で、そのプロセスを大事にしていないという話です。旅行先を決めてそこに行った途端に、もう次の目的地について話し始めるという具合です。

目的そのものが目標になると、目標をすることが常に目的となるのです。

これを人生に置き換えてみても、目的や目標に達することが重要であってそのプロセスは早く過ぎてしまいたいという感じになるのは少しさみしい気がします。

人生の醍醐味とは何かといえば、その経過がどのように充実しているか、そのプロセスでどのようなことを学んだかということではないかと思います。人はめぐり逢いによって人生が彩りますから、出会いと別れ、そして発見と発展の面白さによってご縁に導かれ尊い思い出に見守られます。

本来、全てのものから学び、全ての出来事から問い続けることが道楽であってそれを味わい尽くしている中で人と共に豊かに暮らしていける思いやりや真心、正直や素直というものを実感することができるように思います。

最近では、他人の評価や如何に平均値の幸せや豊かさを掴んでその中にいることが価値であるかのように若い人を煽り、目的や目標ばかりを追っているときだけが安心するというような風潮もみられます。若さというのは、目標や目的が夢でありその夢の途中に活き活きわくわくするものであったものがそれをアイデンティティと勘違いして追い込まれている人が多くなっているのかもしれません。

派手なこと、他人とわざわざ違うことをみせようとするのは自信がないからそうなるのかもしれません。自信とは、自分が信じたものを学び続けるということであろうと思います。それは自然に他人とは異なるのであって、それが変に観えても信じるのであれば学問を楽しめば自ずから道が明らかになるように思います。

日本の文化を身に着けるということも、自信が持てますし、先人たちの智慧を温故知新していくのもまた自信になります。目標や目的を追かけることよりも、ゼロベースで自学自悟に学び続けて目標や目的に近づいていく日々を楽しむ心の余裕が真の豊かさを創りだすのかもしれません。

あまりに急いで焦って余裕がなくなるのは、スピード社会に心を着いていかないからかもしれません。そういう人は道を猛スピードで駆け抜ける高速道路が好きなスピード狂で、身近なゆったりと遊ぶ道草の本来の楽しみがわからなくなってしまうのかもしれません。

例えスピードが速くても、高速道路を長く走っても、それを仲間たちと行程を味わうほどの心の豊かさを持つことでよりそのスピードもまたスローに工夫して楽しめるのです。

スローとは、学ぶ、味わう、高める、重ねる、集める、譲る、育てるということです。

そして子どもは子ども心を遊びこむのに、このスローが何よりも大好きです。
それだけ子どもは活かされ活きる自然の時間、繫がり共に生きる意味に生きたいのでしょう。

「ZERO BASE EVERYDAY!」でどのような日々も道をスローに楽しみたいと思います。