生命の価値のまま

人間は他を認めるということで共生するということを本能で自覚している生きものです。

自然界では、他を排斥するのではなく他の存在を認めることからそのものが自分とどのように関連するのか、そして繋がっているのかを確認しています。

例えば、植物から虫、動物にいたるまで自分との関係がどうなっているのかを自然に悟り自明するのです。あるものは食べ、あるものは食べられと交互に役割を交代しながらもそれぞれのいのちを全うしていくのです。

自然の中に生きているときは、文字通り生き残ることに必死ですから自ずからそれぞれが活きることを行えるのです。生きるというのは、活かされるということですから自然はその循環の中に住んでいるのです。

しかし人間は、今のように生きることが保障された中にいると本来の循環を忘れてしまうものです。何をもって認められているのかなども、分からなくなってしまうのかもしれません。競争して一番になることが認められると思っていたり、頑張ってさえいれば認められると思い込んで無理をしている人が増えたようにも思います。

本来の認めるというのは、その人の存在価値のことを言うように思います。

何かをしなければ認められるという意味ではなく、その人の存在そのものに価値があるという考え方です。これは、人が活かし合っている、一人では生きてはいない、一緒に生きているということを直観するからこそそう感じることができるのではないかと私は思います。

今の世の中は、如何に利用価値があるか使用価値があるかで物事を判断していきます。それは物であっても、他人であっても、ビジネスであるからと割り切って付き合っています。しかし短期的に見ればそうかもしれませんが、長期的に観ればそれは複雑怪奇に繋がっているご縁の中で生き活かされた共生の中の仲間ということになるのです。

広く大きな目線で物事を見つめれば、存在そのものの価値の偉大さに気づけます。

自分が活きるのも、誰かを活かすのもどうしているのか、それは自然に活かされているのです。何かをしなくても活かされる、無為自然なのです。自然の中に生き活かされている私たちはいくら都市の中で人間社会を切り取っても、地球の中であり宇宙の一部であることに他ならないのです。

点が線になり面になって形になるように、また人生も同じくそういう連綿としたご縁の糸でつながっています。存在価値に気づけるように、刷り込みを取り除き、人を活かし自分を活かし、生命の価値のままにを全うしていきたいと思います。

寿命を伸ばす

私達の祖先たちは「いのち」というものをどう捉えていたのは、かつての生き方や暮らしに遺されています。

そもそも私達日本人の心にある「いのち」というのは、使い捨てるものではなく遣い切るものという発想が原点にあったからこそ「もったいない」という考え方があるのです。

例えば、宮大工が使う式年遷宮や神社仏閣で使われる木材一つ、それはあらゆるところで再利用されています。今の住宅のように全てを破壊して廃棄するのではなく、昔の人は解体をして再利用します。他にも土壁一つであっても、それが崩れてまた補修し、補修が済めばまた土に戻して粘土にしまた他の土壁として甦生するのです。古人は「いのち」が観えたのでその智慧をもっていのちそのものを最期まで大切に遣い切ろうと工夫したのです。

今の時代は、何でも使い捨てようとします。

そのものの価値よりもその道具を単なる利用価値のある「モノ」として理解しているから使えなくなればいらないという発想です。しかし本来は、その道具は「いのち」としての存在価値で理解しているのだから最期まで大切に活かそうという発想が私たちの本質だったのです。

今の時代のように何でも目に見えるものしか信じないようにと「モノ」の価値に置き換えられてしまうと、目には観得ないものはこの世にはないものだと盲信させられていますがそれでは自分たちは一体何でできているのかということになるのです。モノではないのはすぐに分かります、そこに心があるからです。

自分を粗末にする人が増えるのは、いのちを粗末にしている環境の中に住まうからのようにも思います。それが孤独や孤立、心を閉ざすような関係を拡げてしまっているようにも思います。社會の仕組みとして大量にモノを粗末にしだせば、そのうち自分たちのことも粗末にしだすものです。

本来の循環型社會とは何か、それはいのちを粗末にしない社會のことなのです。

昔は、どんなものでもいのちがあるからこそ捨てようとはしませんでした。

江戸の300年の暮らしは、寿命を伸ばす仕組みだったのです。無駄というものをなくしていこうとするのは、決してそれが単に合理的だったからではなく、いのちを少しでも伸ばしたい、平和を少しでも永続させていきたいという時代の人々の心の願いだったのです。

戦国時代に、沢山の人達が死に、そしてそのことから少しでも長く平和を維持していこう、いのちを大切に皆で寿命を伸ばそう、つまりは「いのちを粗末にしない実践」を行ったのです。

寿命とは、いのちのことです。

大切にされることで寿命は伸びます、粗末にすれば寿命は短くなります。都市であってもそれは単に都市ではなく、先祖たちはその都市ですらモノではなくいのちだとしその寿命を伸ばす工夫をしたのでしょう。日本人の素晴らしさというのは、八百万の神々の思想があるようにすべてのものをいのちある神様の化身としていのちを見出したところにあるように思います。

そしてそれは家という発想の中にも、家訓があるように家をいのちだと捉えているから老舗や家が永続するのでしょう。そこにはどんないのちも粗末にしないという共通の理念が存在しているように私には実感します。

だからこそ家といういのちを伸ばすのもまた、その家に住まうものたちの心掛けと心構えがあってのことなのです。少しでも永続させたいのならば、いのちを大切に寿命を伸ばすことに意識を重ねていかねければなりません。せっかくこの世の楽園に産まれてきたのだからこそ、少しでも長くこの世に止まりたいと思うのがいのちの開花のように思います。

子どもたちのことを思えば思うほどに、いのちを大切にすることを実践で示したいと感じます。
身近なところからの生活を一つずつ見直していきたいと思います。

活かし合う人間社會

先日から江戸時代の生活を色々と調べていく中で、共通するものを感じました。

江戸はその時代はじめて世界で100万人以上が住んでいた都市です。その50パーセントは武家などの大名の家臣たちで、残り30パーセントが神社仏閣、そして残り20パーセントが町人や商人というような構成で成り立っていたそうです。

一年で特に正月から3か月で一日平均3回の火事に遭い、大火で全部消失することもあったのですら、長屋などもあまり豪華につくらず家具も持たないということで狭いところに簡単な作りの住居で生活したようです。

また親は子どものみんなの親、子どももみんなの子どもとして見守りあい、お年寄りや病人の介護も長屋や周囲の町の人達で交代で見守り、近所も家族同然にほとんどガラス張りの協働生活の中で助け合い、認め合い、分かち合い、義理や人情を優先して暮らしていたそうです。

人が他人を信頼するという仕組みを都市そのものが持っていたように思います。都市の中での善い暮らしがどういうものか、そういうものを究めていくと江戸のような文化が発展するのかもしれません。

そもそも都市とは何かといえば、人間が人間同士で創ろうとする理想の社會のことであろうと思います。自然の中にいけば、自然の中の社會ですから人間と自然の共生である天道地理の里山であったりします。

しかし人間が意図的に創造した家という社会の中では、人間同士の理想、そこに人間の調和がありますから義理人情の都市があります。

今の東京のように個々人が個別にお金を持ち個を尊重という名目で他人に干渉せずにバラバラに生活するのではなく、江戸では常にみんなの都市であることを尊重し個が義理と人情というつながりを優先し生活したのが分かります。

これには、自然観の中にある無駄なものは一切ないのだという思想から練り上がった社會だったからのように思います。西洋では、なければ侵略すればいいという発想があります。狩猟民族というのは、場所を変えては資源を探し求めて移動していく遊牧の民です。しかし農耕民族というのは場所から移動できませんから、その場所で如何に無駄のない生活をするかの智慧と工夫で様々な困難を乗り越えてきました。

私達の先祖は、自然と一体になって今いるところをフル活用して一切の無駄を生じない暮らしを目指してきたのです。そこにはお互いに人間同士においても全てを活かし、つながりを切らないように工夫して何かの時には常に助け合ったのです。

このために必要でいらないなら捨てるというゴミを出すという発想ではなく、何時か必要かもしれないから大事にする、そして修繕してより使いこもうとする「勿体ない」という発想だったのです。

少しでも長く都市を活かそうとしたならば、300年以上続いた江戸の文化や文明はとても参考になるように思います。人間は傲慢になってきて豊かになるとすぐに無駄なことばかりをしたくなります。しかしこの無駄というものを避ける中にこそ真の豊かさ、そして平和が潜んでいるように思います。

今の価値観の中に蔓延る「使い捨て」という考え方をやめなければ無駄はなくならないのかもしれません。

利潤を高めるというのは、如何に無駄のない生活をするか、言い換えれば全てを活かすかということなのでしょう。活かされている自分だからこそ活かそうとすることが謙虚のはじまりなのかもしれません。いのちは多いだけがいいのではなく、そのいのちの質が同時に高いことこそに価値があるのです。

今一度、家という考え方において会社という組織を見直していきたいと思います。

現実

価値観を受け止めるというのは、現実を受け容れるということに似ています。

世界は知らずしらずに自分の観念で歪んで見えているもので、ありのままにあるがままに捉えるといことは大変難しいように思います。それは受け容れられない現実が沢山あるのと似ていて、それは人によってそれぞれに異なります。

突然考えもしなかったことが発生したりすれば、それを受け容れるのに時間がかかるものです。その時その時には如何に現実をありのままに受け容れることができるかで価値観は柔軟になっていきます。

自分の思い通りということを繰り返していると、現実逃避してしまうことがあります。希望が強ければ強いほどに、期待が強ければ強いほどに現実が受け容れられずそこを見ないようにと勉めてしまうのです。客観的に見ても受け容れなければそれもまた現実逃避になってしまいます。

好悪感情と向き合い、自分にとって見たくない現実をそのままに観るというのは現実というものを正しく認識するということになります。その時こそ、自己認識を変化させていくキッカケになります。

例えば、若い時は自分の実力を過大評価しますからこんなはずはない、自分はできるはずだと思いたいがゆえにどうしても背伸びして現実から避けてしまうことがあります。しかし実際の自分がどのくらいの力があるのかが分からなければ何の努力が必要なのかが分からなくなるのです。

これは不安や自信のなさからも現実が離れてしまいますが、現実を知るところができるなら自ずから実力を磨いていくことができるのです。どうしようもない現実に出会ったとき、人ははじめて強くなります。その現実をありのままに受け容れて、自分というものを知ることが自分を変化させていくということなのかもしれません。

自分の価値をどれだけ正直に理解するか、それが素直ということなのかもしれません。認めることも受け止めることも受け容れることも、謙虚でなければできないことです。現実はいつも助けてくださっている周りの見守りを実感できるものですから現実を知るのは自分の傲慢を知るということかもしれません。

現実の有難さ勿体なさに気づいて日々を感謝で歩ませていただきたいと思います。

価値観~新しい人生の発見~

人は自分の見たいように見て聞きたいように聞いていることがほとんどです。それは自分の価値観の中で世界を作っているからです。そしてそのほとんどは、自分にとって都合が良いようへと解釈しています。

この価値観というもののとらわれが少ない人ほど、物事があるがままに正直に観え、この価値観のとらわれが強ければ強いほど物事は歪んで見えてしまうものです。

よく自分を変えるということを考える時、まさか自分の価値観の方を正そうとはなかなかしないものです。見てる世界観の中で、何かを変えようとはしてもそもそもの見てる世界観の方を変えてしまわないととはならないからです。

それはなぜかといえば、自分にとって都合が悪いことばかりだからです。人は自分に都合が良いことばかりに引き寄せてしまいます、例えば自分を正当化しておかないと不安だったり辛かったり苦しいと感じるからです。物事が発生するとき、自分が正しくて周りが間違っているという解釈を続けるうちにより真実が捻じ曲げられていくからです。

いくら悟ったと智を語っても、すぐにブレルのも、いくら何も考えていないと愚を貫いてもすぐに巻き込まれるのもどれも自分の価値観に執着してしまうからであるように思います。

自分の変化を思う時、如何に自分の価値観を柔軟にしていくか、思い込みを取り除くかということが肝要ではないかと思います。つまりは自分の方の価値観を見つめ、周りの人たちの価値観を認めるということです。

真理を学べば、正しいと思うことは分かります。知識が増えれば統計である程度の正しいことは理解できます。しかしだからといってそれで誰かを批判したり否定したり、もしくは受け止めないとなってしまえば自分の価値観が頑なになっていくだけです。

だからこそ正しいというのは、正直で居ること、素直で在ることというようにあるがままのことをあるがままに受け止めて執らわれないことをいうのではないかと思います。

色々な人たちがいて色々な考え方がある、自分の価値観ばかりに固執せずにそれを受け容れてみる勇気が大切なものを優先して守りたいという真心になるように思います。人は皆、自分の気づかないところを教えてくださる存在だと思います。

自分も相手も正しいという心は、正直でいる執らわれない実践を行うことです。自分の中で勝手に解釈して歪んだことをしないように戒め、自分の価値観を柔軟に変化させていくことで心を広く体もゆったりとし、執着よりも正直であることを大切にしていきたいと思います。

価値観を変えるのは、新しい人生の発見ですから楽しんでいきたいと思います。

発想の転換

先日、発想の転換について思うことがありました。

組織人事のことに携っていると、発想がマジメであるということよりも真剣かどうかということを優先しているかというのはよく考えるものです。

この真面目という考え方については以前、ブログでも書きましたが今回は単に他人からの評価を気にしてやっているのをマジメとし、真剣に遣ることを真面目と書いてみます。

人は何かを行う時に、努力すれば物事は解決すると刷り込まれています。その努力の定義は世間と比較してこれくらいドリョクすればとか、何かと比べてこれくらいドリョクするのだからというように他を意識しながらドリョクする癖を刷り込まれてしまいます。

するとこれだけドリョクしているのにとか、ドリョクしているのだからと努力というものを勘違いしたままのドリョクでは物事が解決していかないのです。本来の努力は、他と比較するものではなく達成するための本気の努力であり、自分に打ち克つ努力のことです。

そういう努力の場合は、今までの自分の発想を転じて新たな努力の境地を見出すことが必要になります。例えば、今までのドリョクの場合は「頑張る」という発想でしたが、これからの努力の場合「楽しむ」というような転換という具合にです。

そしてこれは先述しているマジメというものでも同じです。マジメにやっているよりも、真剣に行うとなれば発想が同じく頑張ればいいではなく、楽しめばいいと変換するのです。楽しむというのは簡単ではありません、周りからみれば大変不真面目なことをしているようにも見えますし、あんな不真面目で遊んでいたら上手くいくはずがないと批判の対象になったりします。

そういうものにいちいち負けてしまっていたら自分との勝負に打ち克つ前に、勝負がついてしまっているからです。人の目を気にして一々取り組んでいたらマジメそうにみえても大変不真面目なことをやっている場合があるのです。

真実はどうかといえば、本人は真剣なのだから周りの評価など気にせずにせっかくやるのだから周りには可笑しなことをしているようでも不真面目に見られてもむしろ楽しみながら遊びながら構わずやろうという発想を転換すればいいのです。

発想の転換とは、本質を維持することに似ています。本質を変えて自分を守るか、本質を守るために自分を変えるかということです。

本来の本質や理念を大切にしようとすれば、周囲の目や自分の中の執着にとらわれなくなるのです。そういうものを気にするところに我が入り込み、本来の努力や本来の真面目であることを遠ざけて対面体裁のドリョクやマジメに陥るように思います。人間には、恐怖心がありますから他人の評価というものはどこまでいっても怖いのです。しかしその恐怖よりも大切なものがあると信じる時、勇気を出して変わっていけるように思います。

自分自身が変わるというのは、自分の発想の方をゴロンと転がし換えてしまうようなものです。今までの自分から新しい自分になるというのは、発想の転換です。

今の時代はマジメにやって正直者がバカを見るとか愚痴ばかりの世の中です。そうではなく、正直者は心もオープンで素直ですから言い換えれば周りから見られることを気にしない程バカになれるのですから決してバカを見ることはないのです。それはバカがないからです、執らわれていないからです。

せっかく世界でたった一人の自分らしいものを与えてくださっているのですから、自分の御役目を有難く感じ、もっと信じた方を優先する真の強さを子どもたちに見せられるように楽しんでいきたいと思います。

どんなことが起きていても丸ごと善いことにしていこうとするのが本来の自然の発想なのかもしれません。自分都合の発想を転じて自然の発想に転じることを楽しんでいきたいと思います。

 

ふるさと~自然父母の恩徳~

昨日は、古里について考える機会がありました。今年は里がテーマですが、里もまた自然そのものであることをご縁のたびに確信しています。

古里とは、辞書では「1  自分の生まれ育った土地。2  荒れ果てた古い土地。3 以前住んでいた土地。4 宮仕えや旅先に対しての自分の家、自宅。(goo辞書)とあります。

明治に入ってから、西洋からの新しい価値観を優先している中でかつての自然も次第に荒廃が進んでいます。開拓できるところはすべて開拓するという欧米的な発想が、かつての田舎までも都市化していきます。これらの都市化というのは、人間中心の社会のことであろうと思います。

私たちは古里を思う時、何かといえばかつてそこで生まれ育った場所ということです。言い換えれば、幼児期や幼少期に暮らした自然と両親の見守りです。そういう見守りの中で、私たちは将来を見据えて準備をしていきました。

動植物も同じく、幼少時は安全安心な中で大切に社會で自立していくための基礎を学びます。それは優しく温かい自然の恩恵を受けられる時機地場空間だったはずです。

そこで感じた慈愛を根っこにして、自分の存在を確かめ信を抱き巣立っていきます。そしていつの日にかまた帰ろうとするのです。これを帰巣本能ともいい、犬も鳥も魚も必ずどこで生まれ育ったのかをいつまでも忘れません。

私たちは古里というものを一体何で憶えているかということなのです。
古里と言えば、有名な日本の童謡作曲:岡野貞一作詞:髙野辰之の故郷があります。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

これは幼い頃に親しんだとても美しく澄んだ童謡の一つです。メロディーが流れれば、そこに懐かしい日本の原風景が顕われてきます。日本古来の原風景を如何に伝承するか、民俗学の本質もまたそこにあるのではないかとも思います。

この故郷とは何か、古里とは自然(かんながら)なのです。自分の生れ育った産まれたところの風土が赤ちゃんの初乳であり、お米で言うところの苗土なのです。いのちは自分が出てきた場所を忘れません。それはいのちが続いていることを本能が知覚するからです。

そのふるさとを守りたいという心は、人間社會で生きていくなかで信を忘れないようにと願う父母の恩徳を守りたいという真心と一体ということなのでしょう。私にとっての故郷は、神社の木々の中で澄んだ清らかな水の流れ、そして眩い透明な光と草の香りがするそよ風、小さな昆虫や動物の声の聴こえるところです。

古里を心に、自然恩徳を忘れず、日々を健やかに逞しくやわらかに生きていたいと思います。

子どもたちに一つでも多くのふるさとを遺してあげたいと不退転の決意を新たにしました。
有難うございます。

 

現場感覚

組織人事の問題の解消を幾度となく繰り返していくと共通するところに発見があります。

どの組織でも共通するものに、共通理解というものがあります。

何かの物事を自分一人で進めようとすることで次第に周りとの距離感が離れていくものです。誰かと共にや仲間と共にと歩んでいこうとすれば、理解している範囲も感情を伴って考えていくものです。つまり意思決定のみが価値ではなく、意思決定のプロセスが真の価値だと言えるのです。

例えば会議などでも、出た答えだけを回覧してもその答えが出たプロセスがどうであったかの方を理解しないとその意思決定に自分が入り込んだわけではないからです。すぐに答えだけを求めるのは学校で教わった勉強の刷り込みがあるからです。

答えあわせをしますが、その答えさえ合っていればテストでは評価されるのです。しかしそこにいたるまでのプロセスを一緒に出していく歓びや、答えがない問題に皆で真剣に取り組む楽しい体験をさせないのでは本来の人生での共生や貢献という人間の価値に気づけません。

そもそも答えなどはないのです、仕事でも答えがないと取り組めないという人がいますがそんなことの方が不可能で答えがない問題にみんなで一生懸命に一緒に取り組む中にこそ真価があるともいえます。

真価とは何かと問われれば、どう生きたかということでしょうがそれは答えを知ることが目的ではなくそれぞれが一緒に共通の目標を握り合い叱咤激励しつつ自らの道を歩み続けることが組織の醍醐味なのでしょう。

言い換えれば、ご縁を活かしたということです。

そう考える時、リーダーはビジョンを持ち願望がありますがその願望は一人で達成するわけではなく共に歩む仲間と共に達成するためのリーダーの意義です。そうであれば達成するためには今の仲間たちがどのような状態なのか、現実はどうなっているのかが自分の感覚とズレテしまったら共に歩むことができなくなります。

リーダーは的確に周りの仲間たちが今、どのような現状なのか、どのような課題で困っているのか、どのような気持ちなのかを理解していく必要があるように思います。違った価値観を共有しながら協力するというのは大きな目標に向けて互いの感覚を一つに近づいていくことに似ています。

感覚を近づけていけば共に意思疎通が取れるようになるからです。これらの感覚とは、近づけることも大切ですがもっと大切なのは「ズレナイ」ということなのです。

頭で分かるのと感覚が近づくのは使う場所も異なるように、常に感覚を優先しその後、頭を使うというように順番は気を付けないといけません。頭がよくなり賢くなればなるほどに、実際の人生の歩みは停滞していくように思います。

知識で分かることができることを目指すのは「する」という発想で無理が生じますが、真心で実践することや共に遣ってみようと試行錯誤チャレンジすることは「なる」という発想になるから自然体になるのでしょう。

知識よりももっと大切なものは、現場感覚なのです。現場感覚とは、それぞれの人達の現実に対する感覚を理解することでまるで生きものであるかのようにその組織にはいのちが吹きこまれていくのです。

あの動植物も、空の鳥たちも、集団で生きるものたちはみんな知識で共に飛び泳ぎ走るのではなくすべては感覚を近づけているから一体になっているのです。群れのリーダーは、勝手なことをしては感覚が鈍ってきますから如何に周囲との感覚をチューニングするのかが肝要なのでしょう。

集団や組織にとって何が自然か、頭でっかちに間違わないように私自身がいつも「現場感覚」を優先して取り組んでいきたいと思います。

 

 

価値の質量

大量生産大量消費ということについて考えることがあります。

そもそも何かを大量に生産し大量を消費するというのは、大量に消費しなければならないから大量に生産しなければならないのです。こうやって消費を常に優先すれば、消費が目的ですから消費するための量が必要になるのです。実はこういうところからもゴミという考え方が広がっていくともいえます。

そして、大量にしようと思ったら何をするかといえば例えば時間を短縮し、画一的にし、早くそのものをつくり、そして水増しするというような発想になります。その中身はどうであれ、見た目だけの量を増やしていくということに価値が置かれれば多くの無駄やムラがこれからも生まれてくるのです。

それとは別に質になってくれば、例えば時間をじっくりとかけたり、そのものの特性を大事にしたり、一つ一つを精査していくというような発想になっていきます。これはそのものの価値を上げていくということに力を入れていくことに似ています。

本来は、質と量があり、どちらかだけに偏るのではなくその両方を両輪として取り組むことが大事なのでしょうが今の時代はどうしても偏り過ぎているようにも思います。それは今の経済のあり方が沢山売れば売るほど儲かるという発想がモノサシになっている社会だからかもしれません。

昨日もお米の話をしながら思うことがありましたが、本来は少量で八十八の手間暇かけて育て作っていたお米が色々な工程を排除し機械や農薬で一気につくり出来高量を水増しできても、そのお米本来の美味しさというものは変わってくるということ、それにそうやって水増ししたことで結局はお米の価格が下落し結果的に苦しくなってしまうということです。

これらの水増し貧乏というのは、本来の価値を下げた自分がいたということになるのです。本来の価値とは何かと言えば、正しく時間をかけ正しい量を行い、質量ともに正直に取り組んでいくことではないかと私は思います。

いくら要領よく量を調整しても質が変わりますし、質を高めようと思ったらある程度の量の体験が必要なのです。これは仕事も同じですが、いくら頭で思っても量を実践しそこで身に着くまで徹底して行うことで質もそれに相応しい実力が備わってくるのと同じです。

量で質が下がったのを誤魔化すという発想が本来の価値の質量を歪ませたのです。

大事なのは、正直に取り組むことですが今の時代は大量生産大量消費の世の中ですからそれを維持するには周囲の誘惑に負けずに質を高める精進、工夫やアイデアといった努力が求められるのでしょう。

常に質を高めていくことで正しい価値を持てる人たちになってきます。そして量を適正にすることでその価値は認められる高さを維持していけます。世の中の見た目の裕福さに刷り込まれないように、正直な裕福さ、真の豊かさに気づいているままに自分を練り上げていきたいと思います。

オープンマインド

オープンマインドという言葉があります。

これは心を開くという意味や、広い心でありのままを見せるという意味もありますが四字熟語では虚心坦懐といって包み隠さず自分を見せる事で、相手に飛び込んでいく力であったり、開心見誠といって自分を偽らず、虚勢を張らず、素直な気持ちで教えを受けて仕事に活かす力であるといいます。

よくオープンマインドと言われる人は、自然体で自分らしい姿があるから人によく可愛がられるものです。自分を理解してもらうのに、ありのままの自分を見てもらうことで周囲がその人のことを理解し、そして自分から理解してもらいやすいようにするのです。

これを自己開示といって、自分から自分の価値観を開示することで周囲に色々な価値観があっていいという広い心を示すようにも思います。

よくチーム力の中に、チームワークを乱すのは心を閉じることだと言われます。クローズマインドです。言い換えれば、この人は、またこの人たちは自分とは違うと決めつけて分けてしまう差別心や固定概念のことです。

そもそも人は異なるのは当たり前ですが、それを丸ごと受け容れているのか差別するのかでは意味が違ってきます。違いを認め合えるというのは、自分を含めあるがままの価値観を広く受け容れるということができているということです。

誰かと何かを共にする場合、違っていてもいいと思えるのはそれぞれの人がそれぞれの個性と価値観があってもいいと認めることからはじまるのです。そこから共通している価値観を探したり、自分の価値観が相手に影響していることを自覚しつながりを共有する歓びを実感するのです。

そしてそれは、相手に求めず自らが自分というものを開示するということであろうと思います。

そうやって自己開示をする人は人に可愛がられます。それは、自分から心を開くことで周りが安心するからです。チームワークには「安心」は何よりも欠かせないキーワードですから、心を開く人がいることでチームの潤滑油になっていきますから周りもその人を重宝していくのでしょう。

これはどの仕事でも必須の能力であり、自分から相手に心を開くことではじめて相手も自分に心を開いてくれるのですから自分を頑なに保持していたらいつまでも相手は自分を認めてはくれないのです。

オープンマインドの本質は、「心は開くためにある」という意味です。

心がなければ別に開く必要もなく、自分の固定概念や価値観を優先して周りを気にせずに好き勝手していればいいのでしょう。それではいつまでも自分の殻の中で閉じこもってしまうことになります。

だからこそ心があるのです。

心とはそのもの自体が世界へと目を見開いている状態であり、現実的に世界に出ようが出まいが、心が開かなければ本当に世界に出たわけではないのです。私も若いころの経験に、自分に見えている世界だけがこの世界だと勘違いしたことがありましたが、世界は心を開いた時にだけ無限に広がっていくのです。裏腹に自分を良く見せようとすればするほどに、それだけ世界が退行し閉じていくのを覚えています。

心を遣うというのは、他人に心を開くということです。心を開いていないで他人に接してもそれでは心を遣っていることにはならないからです。そしてそれは言い換えれば温かい家族のような関わりを拡げていくことのようにも私は思います。心を開いていれば、自然に心が通じ合って共に思いやり分かち合うという素晴らしい関係が築けるように思います。

今は頭でっかちに理性ばかりを偏り発達させている社会ですが、人間として心を遣うことを発展させていくことが幸せの道しるべなのかもしれません。

いつも自分から心を開いて、周囲と接するのは傷つくこともあるかもしれませんが心を育てていけるように実践をしていきたいと思います。