体験の尊さ

私達すべての生きものは、人間を含め体験しないと分からないようにできています。

それは一度しかない自分の人生の中で、何を自分がしたいのか、何をしたがったのか、そういうものはすべて体験を積み重ねてみてはじめて自明していくものだからです。

この積み重ねていくというのは、言い換えれば時間を遡っていくもののように思います。つまりは体験を内省することで、その内省の意味を辿っていくかのようなものです。

過去から未来へも、未来から過去へも、今の積み重ねの中に存在するものです。これらの時間軸は自分で勝手につくりだしているもので、自然には今しかありません。そう考えれば体験の中にこそ私たちは生死を超越したところに棲んでいることを実感するということなのではないかと思います。

すべての生きものというものは、そのものの体験を通して学んでいきます。それは自然界では当然のことで、自然の循環に従って自分たちが体験したことを子々孫々へと引き継いでいくのです。今が積み重なっているだけという見方をしてみれば、その時代時代に内省をしてきた分の歴史が在るだけということです。

これを思う時、体験しないということがどのようなことかを考えてみるのです。

体験というものの尊さというものは、内省することによってはじめて得られるように思います。なぜなら、内省することが正しく体験をすることだからです。

毎回毎回の出来事はその瞬間瞬間に確かに意味が存在しています。それはマクロからミクロを観るように、ミクロからマクロが観えてくるように、一部と全体というものは首尾一貫してつながっているからです。その「つながっている体験」というものをどのように捉えているか、どのように味わっているかで人生全体というものが顕現しているように思います。

少しこんなことを書くと哲学のようになるのかもしれませんが、そうではなくそもそも体験こそが人生であるということを改めて実感するということだと思います。体験というものを大事にしていくには、体験しないことよりも体験していく尊さを実感する方を優先していなければなりません。そのためにも内省を続けて積み重ねていくことで、そのつながりを切れないようにと努力することが必用ではないかと思います。

長くなりましたが、体験も内省も今も、「つながり」の中で用いる言霊ということです。

だからこそつながりが観える人は、生死を超えた今を見つめます。しかしつながりが観えない人ではいつも未来や過去を憂慮するばかりで自分の今が分からなくなってしまいます。怒涛の如く過ぎ去る日々にも流されない平常心を持てるかどうかがより善く歩んだ道の姿なのでしょう。

ですから体験の尊さを忘れはいけません。なぜなら体験してみようと試みること、チャレンジすることが人生を切り開くことなのですから。

体験を勇気づけるゲーテの名文をいくつか紹介します。

「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない。」
「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。」
「 とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」
「 自分を信頼しはじめたその瞬間に、どう生きたらいいのかがわかる。」

体験することで得るものが真の智慧であり、そこに道を歩んだ軌跡が永遠に遺ります。最後にゲーテはこう問いかけます。

「君は本気で生きてるかい?」

取り組みを恐れずに取り組まないことを真に畏れ、前進していきたいと思います。

情熱感謝

何かの物事を成し遂げる際に、他力が入るという言葉があります。

これは遣っていく中で何度も実感し、そのうち他力の方が重要ではないかと感じていくものです。この他力とは、自力を尽くした後の他力のようなもので目には観えない何かの力が働いたことでその物事が為されるということです。

人は全身全霊の情熱を傾けて物事に取り組む時、自分の力を超えた何かによって支えられているのではないかと気づくものです。天が助けたくなってしまうような純真で直向な努力を怠らないことで竟には思ってもいなかったような奇跡に出会い、いつもそこに何か力を貸してくださった存在があったこと、まるで天と一体となったような不思議な感覚を覚えるものです。

自分の力の全力を惜しまず情熱を持って事に当たれば苦しい時ほど助けが入り最期まで遣り切らせていただくのです。その後に、いつも自分の思い通りではなかったけれど思った以上のことが起きていることに気づいては感謝するのです。そういうひとつひとつの感謝が今というものの中に存在していることを知ると、出し惜しみしないという考え方が身に着いてくるように思います。遣り切るというのは同時に遣り切らせていただいたということなのでしょう。

一般的には人間は誰もが失敗したくないものです。特に知性ばかりを評価されてきた生き方だと、他人の目ばかりが気になってしまうのです。何かを努力して乗り越えたことを評価されてきたならば、その人は尽力を出し切ることの方が素晴らしいことを自覚しているのです。

尽力を出す機会をどれだけ得られたかというのが本来の運かもしれません。運を伸ばし運を善くするには、自分の底力を出していく機会をたくさん求めていくようなご縁に出会うことかもしれません。

ご縁を大事にしていく生き方というものは、今を尽力するという生き方です。

二度とない時間、二度とない場所、二度とないこの今にどれだけ本気に向き合っているかという生き方です。情熱もこの今から湧いてくるものですし、自力というものもこの今に正対する心から派生してきます。そう考えてみると、情熱と感謝は常に表裏一体なのかもしれません。

最後に私がとても好きな西行の詩を紹介します。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

遣り切る生き方というものは、いつもその御蔭様に気づける生き方なのかもしれません。日々を大切に自他に活かされていることの御恩返しをしていきたいと思います。

好好~好奇心の妙~

「好きこそものの上手なれ」という諺があります。

これはどんなことであれ、その人が好きであればすぐに上達していくという意味で使われます。好きなことは、やらされるのではなく自らがやっているのだから発達が善くなり上達するということでしょう。

しかし一般的に人は元来は怠惰にできていますから、好きなことは何もやらないことだといって好きなことが次第になくなっていくようにも思います。

ここで好きになるということがどのようなことかを深めてみます。

好きになるというのは、自分で好きで居続けるための努力がつきものであろうと思います。好きになるコツを掴んでいる人は、努力していることに気づかないだけで必ず努力は行われています。つまりは好きというのは好きでいることをやっているから好きになるのです。

この好きというのは、何もしないから好きなのではないということです。毎日毎日、四六時中、好きなことを維持するにはその陰で大変な努力が動いています。上達というのは、欠かさない練習によって得るものですからやったらやらなかったりではなく常にやっているから好きでいられるのです。

それはまるで養分を吸い上げていく植物のように、もしくは生きものたちの呼吸のように已めることはない努力なのです。これらの努力をしていくことが苦にならない、つまりは自分が達したい目標に向かって取り組んでいることが楽しくなっていてはじめて好きだと言えるのです。

しかし好きでいるにも好きになるにも、その前に好きになることを知らないのではいつまでも好きではない、否、「嫌い」だと決めつけて努力を避けてしまうから辛くなるとも言えるのです。

確かにどんなことでも自分には嫌なことがほとんどなのが人生なのかもしれません。寒いと外にでたくないとか、朝早いと辛いとか、評価されるのが嫌だとか、考えるとキリがありません。

そんな理由があったにせよ、それを転じて好きにすることが上達するコツであろうと思います。このコツとは、自分の好きなことにしてしまうことを掴んでいるということです。嫌いなことも好きにできるということかもしれません。

例えば、自分にとって興味がないことがあったとします。しかしそれをしなければ目標に達しないことが先人や先達者の声を聴くと必然であることを自明するとします。その場合は、嫌いなことを好きにならなければなりません。ずっと嫌いなままでは上達することがなく、より一層辛く苦しいだけで伸びていかないからです。

それをどのように工夫するか、方法論から入ればそこには自分の好きな分野に置き換えるというやり方もあります。原則論から入れば、習慣になるまで身に着けたかというのもあります。沢山の場数を増やしていくことでその場数にそって心身に沁み渡っていくのです。

好きになるということは、好きになるまで探求するということかもしれません。私の場合は、これも何かの意味があると感じ取ったり、これは何につながっているだろうと掘り下げていくことで次第に楽しくなっていきます。

好奇心という基本技術があるのかもしれません。好奇心を発揮していくためには、自分の好きなことをやって呼び水にするのも方法のひとつかもしれません。今の遣らないといけないものの中に、別のテーマを持つというやり方もあります。

どちらにしても、努力するということなくして好きになることは絶対にありません。しかしその努力を主体的にするのか受身でやるのかでは努力の本質が変わってしまうのかもしれません。努力の本質とは、生活習慣を変えることだと思います。言い換えれば、自らの意識を変えて心身を新しく入れ替えていくことだと思います。

好きになってはじめて、仕事も向こうから近づいてきますし、真実も、目標も、道理も歩み寄ってきてくださいます。それは人でも物でも、出来事もでもすべて同じく、好きだからこそ相手は自分を好きになって下さるし、物も出来事も好きでいてくださるのです。

相思相愛になるには、それだけ自分から素直に好きだと言えることだろうと思います。これだけ好かれている自分が素直に好きといえないのは、もったいないことだと思います。自分が一番愛する心をもって好きでいることに純真無垢でいることや純粋清浄でいることが好きになるコツでしょう。

そしてその好好を楽しめているとき、理念、志、そして使命を味わっているように思います。すべての今を全てのことを好きでいる自分でありたいと思います。

発達を邪魔しない

発達というものを考える時、それは自ら発する、そして達するということはすぐに自明します。発達とは他人からさせられるものではなく、自ら発することであるからです。

昨日、保育環境セミナーで藤森平司先生の講演で情緒の安定の話がありました。
ここで少しご紹介します。

『「保育指針には情緒の安定のことが書かれています。そこには一つ目は「欲求を満たしてあげること」人は意欲がないと発達していかないからです。つまりいくら指摘しようがどうが本人が自ら「やりたい、したい」と思わなければ発達しないからです。二つ目は「共感」してあげること。その子のしたいことに共感してあげること。相手に何かを言う前に、まず共感してあげないといけません。三つ目は自分に「自信」を持たせること。よくできたことに褒めること、自信を持たせること。四つ目は「リズム」を持たせること。一日のリズムを身に着けさせてあげることです。」』

とありました。

これも発達というものの側面を捉えてお話してくださっていることがわかります。

発達というものは誰かによってさせられることでもなければ、自分以外のものができるものではありません。そういうものを如何に邪魔しないかということが、周囲の見守りには重要だということではないか私は思います。

『子どもの発達するのを邪魔しない』というのはカグヤのミマモリングポリシーコピーですがこれはここから考案されているものです。

人は相手を自分の思い通りにしたいと思うものです。そういうことがその人が自然に育つことを邪魔してその人らしくすることができなくなるのです。自然界でいっても、そのものがそのもののように育つのであってこちらが育てたわけではありません。

言い換えれば、そのものが育つのを邪魔しないように手入れしたということではないかと思います。この手の入れ方は着かず離れずに、そのものを観ては、その発達するのを見守るのですがこれがとても難しいことなのです。それは自然の中で生きる叡智を人が体得していることに似ています。

この邪魔しないというのは、そのものを尊重するということですがつい自分の我が入ることでそれを邪魔してしまいます。真心を入れるのではなく我を入れればすぐに邪魔になるのです。

御互いに大事にし合うことで御互いを見守りあうことができるのですがどうしても偏り一方的になってしまうものです。まず相手を大事にすることは過保護過干渉をすることではなく、相手の全人格を肯定し相手のいのちを大事にすることなのだと思います。その中で如何に自分も大事にしていくかということです。常に自然共生の法理がそこに働きます。

しかしそれがすぐにできないのはそこには私たちが今まで育ってきた環境の中での思い込みや先入観、今では様々なことが刷り込まれています。この一つ一つを取り除くために、発達を信じるという意識を新たに身体に沁みこませていくことが発達を邪魔しないための自戒になるのかもしれません。

どのような手を尽くしていけばいいか、悩みは深まるばかりですが初心に帰り見守る保育の道を学び続けていきたいと思います。

古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。

円満両全~ご縁の真理~

人間は教えているようで教えられていて、助けているようで助けられているものです。

これはとても不思議な真理です。

一見、自分が相手のためにと動いているのですが、その実、深く内省してみたら自分のために動いていることになっているのは過ぎた後にじっくりとふり返ってみたら次第に理解できるものだと思います。例えば、ある人に大切なことを伝えていたら同時にそれは自分に伝えられたものではないかと鏡のように自分に返ってくるような体験をした人は多いのではないかと思います。

つまりは、自他というものはお互いに結び関係しあっているものだからこそその結ばれている関係において相手の存在を自分だとし、自分が相手だと深く洞察していさえいれば何かの教科書がなくても自ずから真理が明らかになっていくのです。

昨日の一日をふり返ってみても、自らが動き相手の立場を思いやり動いてみるとその時は自分が相手に何かを教え導くことをしていたとしても、実際はそうさせていただいたのは自分の方ではないかと感謝に帰るのです。

これらの気づきというものは、御蔭様といった日本の言霊にあるように自分がやってあげたのではなく、させていただけたという考え方のことです。また相手の御蔭、何か偉大な見守りの恩影を投影しているという意味になってもいるのです。

つまり人は相手がいることではじめて自分が活かされるということです。もしも自分にとって都合の善い世界に住まえたとしても、もしそれがたった一人であったなら大変な苦しみを味わうものです。

人は相手がいるから一生涯を学べ、人は相手の御蔭で本当の自分、その人生を知覚し味わっていくことができるのです。

これらを一方的に、教える側と教えられる側で分かれてしまうことほど虚しいものはありません。人間というものは、常にこの今、この瞬間にも何かの教えが入っているはずと繰り返し内省し、その内省して気づいたものに感謝し、御恩返しをしていくことではじめて尊い縁を活かしていけるように思います。

やってあげているようでやってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分、どちらかだけではなくて、常に円満両全であるのがこの世の人と人との間のつながりの真理であろうと思います。

それを気づかせなくなるのも、教えから遠ざかるのも自分だけの自分といった自我欲を優先してしまうからでしょう。相手を信じる真心に自分を信じる思いやりで接していくことや、もしもこの人が自分だったならと親愛の心で接するならばそこにだけ本物の教えがあることを知り、丸ごと感激感謝できるように思います。

人は一人では学べず、必ず相手があるから学べるのです。それが学問の道理、学び合いということの意味でしょう。だからこそ人との出会いがあることが何よりも有難いのです。

一日一日は色々な人たちと関わり、沢山のお話をしていくものですがその一つ一つが自分に教えられたものを見落としてはいないかとしっかりふり返っていきたいと思います。

問題直視力

今のような情報化社会の中で、最も重要な生きる力に問題を解く力があるように思います。これは学校でやっているような、問題を解く力のことを言うのではありません。言い換えれば、問題が何かを発掘して意味づけしていく力のことです。

本当の問題とは何かと考えてみると、それは答案の中にあるものではありません。それに問題があったから問題を単に解けばいいというものでもないのです。それは問題というものの奥にこそ真の問題があり、その真の問題を解き明かすなかでそこから見出したもの、そのメッセージともいえるものを自分なりの意味と答えをつけていくことが大事なことのように思います。

例えば、歴史というものを考えてみます。歴史といっても、自分の人生の歴史をはじめその人がどのような過去から今までを過ごしてきたかは年号で表現できるものです。しかしそれがどんな意味があり、何のメッセージをいただいたかというのはその人が答えを出していくものです。

また他にもご縁というものがあります。これも、なぜこの人と出会ったのか、このご縁は一体何とつながっているのか、何を意味するのか、それはその人がずっと点を線にし、面にしていく中でつながりの中にあるものを深く見つめて答えを出していくものです。

このように出来事が起きることに意味があるのではなく、その出来事に意味があるとどのように感じるか。そこには理念があれば、出来事は理念に添って起きるのだから流されずにこれは一体何なのかと常に答えを導きだすのは自分の主体性であるのです。

流されるというのは、一体何なのかを感じなくなり点は点にしか見えず、線にもできず、日々に一喜一憂しているようなものです。それでは、せっかくの貴重な体験をもったいないことにしているようにも思います。

日々というのは、一期一会であるのはそこに確かな意味が存在しているからです。その確かな意味を紡ぎながら一反のかけがえのない貴重な織物を仕上げていくのが人生だとしたとしたらそこで何よりも重要なのは問題を直視しそれを解く力なのです。

問題を発掘する力、問題を発見する力、問題というものを解明していく力、つまりはこの力は真の問題を直視しそこに毎回テーマを抱き、今、ここを意味付けすることを忘れるなということでしょう。初心を大切にしていくには日々の意味づけを丁寧に実践していくことが何よりのように思います。

自分にしかない問題を、理念を主軸に仲間と一緒に解き明かしていく有難い日々にはその問題を直視する歓びにも恵まれた日々のことです。

そこに人生の面白さ、醍醐味もまたあるように思います。ひとつひとつのことを感情に流されず、これは一体何なのかと自問自答を楽しんでいきたいと思います。

郷入郷楽

人が変化するときは、様々な新しいことを受け容れながら変わっていくものです。

柔軟性がある人は、変化を楽しめますが頑固であればあるほどになかなか変われないものです。本来の柔軟性というものは、柔軟か頑固かではなく、大切なものは変わらないのだからそうではないものは遠慮なく変えてしまおうといった思い切りがあるものです。

そうではない柔軟性というものは妥協したり、自分の考えを押し殺そうとしたりするものです。自分の思いと違うということは、新しい文化に触れているということに他なりません。

私は以前、何度か外国暮らしをしていましたが旅行でいくのと実際に生活するのは同じではありません。旅行であれば、観光ですから感動したり評価したり味わったりしても自分の価値観まで影響を受けるようなことはほとんどありません。

しかし実際にその国に住もうとするならば、だいぶ自分の価値観の影響を受けるのです。数か月から数年とそこに生活すると決めると様々に受け容れ難いような出来事に遭遇します。人間関係であったり、食生活であったり、ルールであったり、そこでは風土に従って様々な環境が今までの自分と生きてきた価値観と全く異なるからです。

そういう時は、それをどのように受け容れていくのかという自分の葛藤と正面から向き合っていかなければなりません、

古語に「郷に入っては郷に従え」という言葉が童子教にあります。これは読んで字の如く、里に入るならば里の生活に従えばいいという考え方です。

しかしこれはなかなか難しいことなのです。

生活とは習慣のことでもあります。そこには思考の習慣であったり、それまでの生き方で染みついてきた自分都合の生き方があるとも言えます。例えば、西洋化された簡単便利な社会の中でどっぷりつかってきた人が、今さら古民家の里山のようなところに棲むのなら最初は大変なものです。

囲炉裏や炭での料理などもしたことがないでしょうし、生活時間帯からその中での人々の暮らしのルールなども全部異なるからです。

生き方を変えるというのは、ちょっとやそっと観光のような入り方でできるはずはなく、その中に入ったなら覚悟を決めてその新しい生活を楽しみ馴染むことが大事なことだからです。

食べもの一つそうですが、無理に食べようとするよりも、興味関心を持って工夫し楽しんでいくことがコツのようにも思います。「どうせやるならば楽しもう、せっかくやるならば面白がろう」という意味が、この郷に入れば郷に従えには隠れているようにも思います。

新しい環境や風土は、新しい自分との出会いと発見の可能性に満ちています。

郷入郷楽、「郷に入れば郷を楽しめ!」、価値観も魂も揺さぶられるような体験を沢山積んでいく歓びは発見と発明、自分への旅を歩んでいる証拠ですからまずは自らの背中でその姿勢を見せていきたいと思います。

発信の本質

情報リテラシーの一つに発信があります。

このリテラシーとは、一般的には情報技術のことをいいますが私にはもっと奥深い生き残りの智慧のようなものがあるように思います。

そもそも動物をはじめ、この自然界に居る全ての生きものは情報を発信することで生きているともいえます。例えば、鳥でも虫でも何かの情報を発信することで敵がどの辺にいるのか、また仲間がどの辺にいるのか、周りに何があるのかを自らのアンテナで感知していくのです。

自然界で発信するというのは、自分の居場所を教えることになるので同時に危険も伴うものですがそのことではじめて得たい情報が集まってくることを自ずから知っているのです。

人間はテレビをはじめ、インターネット、雑誌など、じっとしていてもそのうち情報が集まってくるように今は見えています。多すぎる情報の中で受信していると勘違いしてしまうのも仕方がないようにも思います。しかしそれは本来の意味での情報リテラシーとは呼べないものではないかと私は思うのです。

情報は自分から求めて取りにいかなければ真の情報は得ることはありません。特に上質なものであればあるほどに求めなければなりません。そしてもっとも価値があり充実し上質な情報とは、自らが「発信する」ことに他ならないのです。この発信というものは、自らが受信するアンテナを立ててそしてそこに感受しようといった丸ごと主体的でなければならないものだからです。

発信し続けるということは、今の人工的な社會であれば不可解に思われるかもしれません。しかし日々に自らの念じることや信じること、祈りのようなものを欠かさずに発信していけば必ずその情報アンテナの感度は研ぎ澄まされ、日々に磨かれ、自分が最も望んでいる情報を受信できるようになるのです。そうして本質的に自ら受信したものだけが、相手に真の情報を提供していくことができるようになるのです。

情報が集まってこないと嘆くよりも、それだけ自分は真剣に情報を発信しているかを省みることがリテラシーの本質ではないかと私は思います。

情報はそもそも地球上の全生命が生き残るために工夫して磨いてきた智慧であろうと思います。

情報とはまるで川のようなものだからこそ、どんなに流れが早くても遅くても、気候の変化で氾濫しても、いつもそこに自然の感度を持つあの水中生物のように聴き洩らさないほどの自らの発信を已まずに常に行っていなければなりません。

生き残るということは大変厳しいものだからこそ、情報とはその次元で発信していく必要があるように思います。だからこそ自然の感度は常に受信側ではなく、発信側を優先していることを見習わなければなりません。

生きる力とは、自然の本能が持つ力そのものです。

常に自ら発信するということの重要性を、子どもたちのためにも実践していきたいと思います。

 

神話の意味

日本という国が昔、どのようであったのかそれを神話から紐解いていくことができます。

神話というものは、その神話の是非を問わずその神話に託された風土の持つ意味を感得することに重要性があるように私は思います。古事記とは日本書紀とか、はたまた伝承に多少の違いがあったにせよ、その物語の本質、つまりは何を伝承しているのかを実感するのはそれを受け賜っている自分の中の心で味わうものであろうと思うのです。

神話には沢山の智慧があり、回訓があり、そして心があります。

その一つ一つが、今を生きている自分たちに何を語りかけているのかを味わってはじめて自分たちの由来を知覚できるのでしょう。

その一つにヤマトタケルがあります。

物語そのものは、その大和武尊命の一生をそれを見守った方々と出来事の織笠ねによって伝承されているものですがその中にも多くのことが籠められています。

例えば、愛とは何か、義とは何か、勇気とは何か、智慧とは何か、思いやりとは何か、和とは何か、故郷とは何か、家とは何か、抜き出しただけでもこれだけあるのですから、その奥に秘められた語り継ぎたいことは言葉に書ききれないほどあるのです。

こういうものを私たちは自らの和魂の中に見出していくことが神話の本質であろうとも思います。

意味が分からなくても伝承されていくのが私たちの中の神話なのです。そもそも伝承というものは、頭で理解するものではないというものです。それを実感し、それを伝えようとする心と承ろうとする心が通い合い連綿と古代から今にまで引き継がれてきているのです。

一つ一つの話には、一つ一つの心が入っているのです。子ども心に神話を聴けば、その神話の素晴らしさが沁み渡ってくるから不思議です。

またその中に美しい詩があります。心を奏でて言霊になり今の時代にまで響き合ってくるものがあります。その二つの織りあいを合わせてみます。一つは、ヤマトタケルノミコト、もう一つはオトタチバナヒメの詩です。

「大和は国のまほろばたたなづく 青垣山こもれる大和しうるわし」
「さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも」

どのような理想を二人が描いていたか、そしてどのように生きたか、それを実感できるのです。もう一度、理想の国とは何か、その民の目指した美しい生き方を神話に学び見直していきたいと思います。

子どもたちに正しく語り継げるようになりたいと願います。