楽園

京都農園では、稲が活着して元気よく生育しているのを観ることできた。

ここの農園は、虫が大量にいて私が歩けば一緒に大量の虫が移動するというように虫たちの楽園になっています。野鳥が大量に飛んでくると言っていましたがそれも頷けるような鳥たちの楽園でもあるのです。

そう考えてみると、楽園とは生物が多様化し沢山の生きものたちが生活する場所こそ、たくさんの生態系が存在しそこに私たちは楽園のような生き物の活気を見出してしまうのでしょう。

生まれてきてから生き物がたくさんいるところが豊かに観えるのは、そこに多くの営みがあることを実感し、そこで発生する代謝物こそが私たちのいのちを育んでくれていることを知っているかのように感じます。

ここの農園の素晴らしいのは、まさにこの生物多様性のように実感しました。

稲は他の水草に負けじと必死に成長しています。
その水草が生えすぎないようにと手作業で愛を籠めて取り組む姿勢には感じるものがあります。まさに人道というものは、こういうもので自然そのままにしておけば手がつけられなくなるものを私たちの真心で育てたいと思うものを見守り、小まめに手入れをしていくこと。

この実践こそが、共に育ち合うことではないでしょうか。

その期待に応えて、様々な環境を活かして生きようとしていくのもまたいのちです。信じるということは、世間一般で良かれと思われているように簡単便利に一気にやることのようにはいきませんが、信じて待つことで善かった善かったと安堵し喜べる機会に多く恵まれます。 そうして感謝というものを天と人との間で一体に感じるときに、私たちは生きていることの真の楽しみに出会うのでしょう。

この真の楽しみに出会うことこそ、人界のみに許された楽園なのだと私は思います。
まだまだ学びを深さに換えて味わっていきたいと思います。

価値観の違い

人にはそれぞれに生まれてきてから身に着いた価値観というものがあります。

人が違うというのは、見た目のことだけではなくその価値観が異なるから違いが出るのです。
そしてその価値観があるからその人のやりたいことがはっきりするのです。

一般的に社会や組織には、価値観を画一化していくというものがあります。
みんな同じような考えでないといけないような何か無言の圧力のようなものがかかるのです。

組織でも一般的には歯車という言い方もしますが、そうやって違いをなくしていくのです。
本来は違いを認め合える関係や、価値観が異なるもの同士の協力こそが役割分担です。

誰かの価値観に合わせて誰かの価値観の通りでいれば楽と勘違いしているのも育成環境の中で刷り込まれてきたものともいうのです。自分の価値観を否定し、自我が強い人や、立場が強烈な人の方が正しいと思いこまされたり力ずくで抑え込まれたりされたことがあればあるほどにその刷り込みは深くなります。

本来、組織では理念というものがあってその次に価値観という順序が必要だと思っています。

なぜなら価値観を優先させれば、その人の価値観と自分の価値観の違いばかりが目についてしまい御互いが同じではないことに違和感を感じて争いや諦め感ばかりがでてきます。しかし、理念を優先して何のためにやっているのかと御互いに感じていれば同じものを観ながら語り合うのだからそれぞれの価値観の違いは相乗効果を生み出していくのです。

つまり常に何のためにそれをやるのかというのをしっかり持つことは、相手に無理に合わせようとしなくても済むことになるのです。もともと人は自分の価値観で伝えようとすると、人がみんな違うのだから不安になるものです。

価値観が一つではないのだからいろいろとあっていいのでしょうが何のためにやっているのかが伝わっていないのであれば周りはその人自身の価値観ばかりが気になってしまいます。そしてそれに対して、正しいとか間違っているとかばかりを感じてしまうのです。

まず何のためにがはっきりすること、それをいつも心に留めておくことのように思います。
己を知るということは何よりも難しいのです、なぜなら最も身近過ぎているからです。

しかしタイプが違うということは、協力でき役割分担ができるということを意味します。

それを自覚すれば何のために出会ったのか、何のために協力するのか、自分自身がはっきりすることで価値観の違いは不安ではなく安心に変わるのです。

子ども達は、生まれながらにそれぞれの独自の価値観を持っているものです。その子どもたちが自由に自分らしくいられるっように、大人の社会を創る責任を持つ一人として自分のスタンスやものの観方というものを常に注意して意識しておきたいと思います。

自立の刷り込み

自立の刷り込みというものがある。

学校で教えられ、一般的に世間で使われる自立に、「一人でできるようになること」というものがある。しかしこの一人でできるようになることは、やってみると分かるけれど本当の自立ではないことにすぐに気づけます。

自分自身の体験ですが、自分で何でもできるようになると人に頼むことができなくなります。できないことをなくせばできるようになるという発想は、もともと一人でできるようになることを目標にしているのです。

学校の勉強でもそうでしたが、できないところをなくそうと努力しますがそうしているうちに完璧であることが最も自立していることだと勘違いすることもあるのです。自分の得意なところよりも、苦手なところにフォーカスして教え込まれていくと、出来る人になることや自立している人になるというのはそういった何でも自分一人で解決することができる人を目指してしまうのです。

しかし実社会に出てみてすぐに気づくのですが、何でも自分ひとりでできるようになってみて分かったのは孤立と孤独です。それに自分ひとりでできることをみんながやっているのは決してチームにならないし、どのように協力すればいいのかも分からなくなるのです。

例えば、平均的に実力がある人たちが増えていけば何かを頼もうとすると皆だいたいそれができるのだから頼む人は自分がサボっているのではないかという強迫観念にかられたりもします。もしくは、自分が一番できることを他のできない人に頼もうとは思いません、もしも全部が平均的に高度にできるようになったなら頼む人がいなくなっていくとも言えるのです。

本来の自立とは、自分の本来できること、自分しかできないこと、言い換えれば自分の得意や好きなことで他人のお役に立てるようになることが本質的な自立だと私は思うのです。

もっとシンプルに言えば、自分らしくいてそれでみんなが喜んでくれることが自立です。
自然体にしているのにそれが皆の役に立てることは自他を活き活きさせていく共生の理です。

自立というものの考えを何でもできる人や、完全に自分だけでできる人と思い違えないようにしないといけません。その刷り込みこそが、多くの周囲を迷わせ、苦しませ、人間社会が画一的になってしまう原因であるからです。

常に自立の本質を捉えるためにも、自分が最も得意なことや好きなことに素直に取り組める実践、つまりは共生していけるような生き方を選んでいくことが子どもの未来環境を見守ることにつながるのです。

もともと刷り込まれているまま努力するのではなく、一度その刷り込みに気づいてそこから自分を刷新していけるような日々の気づきを大切にしていきたいと思います。

 

 

真の深さ

植物を観察していると不思議なことに気づきます。

植物には感情がないといえば私から観ればそうではありません。

長い日照りの後の雨には喜び、長い曇りの後の陽射しにも喜びます。
また周囲の蝶や蜂に花を咲かせているときも楽しそうに思います。
これは植物に限りません、関係性を持つとき、そものものは相手との心と響き合うのです。

いのちというものがあるこの世界の存在はすべて響き合う心の音を持っているからです。

他にも植物を観察していると色々と共通するものを感じることがあります。

例えば、新芽の時は大地から大きく養分を吸って 伸びているように思います。
そして枯れてしまえば養分は吸っていないように思えますがそうではないのです。

枯れるとき、植物は子孫を残すためにもっと多くの養分を種に蓄えていくために枯れるのです。
その時の方がより多くの養分を凝縮させて一点に集中しているのです。
広く生きていくことから、深く生きていくことへと生の転換があるのです。

全てのいのちは、その一生の四季に応じて生を転換していくものなのです。

非科学的かもしれませんが、自然を観ていると不思議なことばかりに気づくのです。
教科書には書いていないことを知ることは、自らよく観て深く学ぶことのように思います。

大切なことを自分の頭で考えず、他人の答えに依存していたら真実は観えません。

同じものを何度も観て深めていくうちに、気づきという奇跡に出会います。
決してそれに飽きてはいけないのは、それが考えるということだからです。

考える事をやめるのは、学ぶのをやめるときだと思います。
学び直しは、日常ですが常に深さからの真の深さとは何かを実践しようと思います。

ものの観方

人は今の社会構造や仕組みなどを盲目に信じる傾向があります。

なぜこのような制度なのか、なぜこのような法律なのか、なぜ社会はこうなのか、なぜ時代はこうなのか、なぜ自分がこうしているのか、そういうことには特に疑問を感じていないのです。

生まれてきてから誰も疑問に感じていないものは疑問と思わないのです。
しかしよく考えてみるとおかしいことに気づくのです。

もし自分が子どもだったらと思ったら、この世はおかしくて不思議に満ちています。

なぜ電気をつくるのに原発でないといけないのか、なぜ人口がこんなに増えているのか、なぜ都会に住むのか、なぜ学校にいかないといけないのか、なぜ働かなくてはならないのか、なぜ常識が必要なのか、素朴な疑問から複雑なものまで本当はたくさんのなぜがあるのです。

そういうことを誰も教えないままに暗黙の了解というものを持ってしまうことがあるのです。

本質を自らで深めていないのに、日々を過ごしていたら何の疑問も感じないロボットのようになるのかもしれません。

この世の中には、ものの観方というものがあるように思います。そのものの観方こそが、一度自分で深めてみるとガラッと変わるように思うのです。

例えばリスクというものを観てもいいでしょう。

人口は多いことは果たして安心なのか、資本が大きいことは果たして安全なのか、人気があることは善いことなのか、国家や会社の運営にしても経営でも、それはその人のそのものの観方の問題だと思います。

観方を変えれば、人が少ない方がメリットがあり、資本はちゃんと身の丈が善かったり、本質的であるほうが永続するかもしれません。人口などもここまで増えてしまったら、急な気候変動に対応できるはずもなく食糧は賄えません。人口を減らして食糧を備蓄することが、急な気候変動に対応できる対策のように思いますが少子化を止めることに各国は躍起です。

そう考えれば、その人の思想次第でいくらでもこの世界の観え方は変わってしまうのです。

同じ場所に居ても、同じことが善いわけではありません。

本質的な人には、この世界は周囲の人とまったく異なって観えるのです。
変人と呼ばれようが、そうにしか観えないのだから仕方がないのです。

目には見えないものを観るには、心の眼を養う必要があります。
そしてそれを私の言い方では、本質を正しく捉えるということと同義語なのです。

自分の眼で真実を観ることは子どもの素直の眼を持つことです。
この世界の新しい広がりは、子どもの感性である好奇心と勇気であろうと思います。

面白くしていきたいと思います。

幸が運

運というものがある。

生まれてきてから死ぬまでにどのようになっているのか、そういう絶対的なものを運と呼ぶ。
もともと変えられないものがあるとして、それをどのように考えるか、そこに運が善いがある。

運が善いと思う人は、いつも大事な局面で何らかの幸せが入るようになっている。
それは人であったり事物であったりするけれど、自分がそう思うほどに幸運は強くなるのです。

運というそのものは、如何に運に対して自分がポジティブであるかを思うときにそう感じるのであろうと私は思います。逆にネガティブな人だといつも運が悪いと思ってしまいますから運は観えないのです。

つまりは運とは、これがいい、今が一番いい、自分がいい、最幸の人生、ちょうどいい、などと、いつも自分の人生の運びに対して生き方の姿勢が前向きである時に感じるものなのです。運が観える人というのは、泰然自若として心の感じるままを大事に生きられる人なのです。

よく考えてみると、悩みが多くても今身のまわりにある幸せはかけがえのないものです。時折、寂しいと感じたり、悲しいと思ったり、辛いと観えても、その実は全て幸せの隣にいるのではないかと思えるのです。

人生は自分で決めて生きる部分と、流されていく中で決まっていく部分があるように思います。

そしてそれは、自分自身の生き方そのものを問う中で感じることができるのです。

相手がどうであれ、世間がどうであれ、自分の境遇がどうであれ、自分がどうしたいのか、自分がどう生きたいのか、そこが大事なのではないかと思うのです。

他人の目を気にしていたら、内観もできませんし、内在する自我の直観を信じることもできません。やはり自分の心に正直にオープンに、そして自分らしくいることに迷わないように任せていけば自然に辿りつくところにいけるのであろうとも思うのです。

頭で考えていたら不安はつきものですが、心で感じれば晴れ晴れとしています。
空を見上げて生きていくような姿にこそ、運が好転して幸が顕われるのではないでしょうか。

幸運とは、幸せを実感する生き方のことです。
つまりは幸がそのまま運になるのです。

どんな小さなことからも運に気づき、運を深めて運と楽しんでいきたいと思います。

平均と完璧

社会に出て経済を観ていれば、平均というものに如何に偏っているかがよく分かります。

スーパーマーケットにいっても規格品といった平均の枠内の商品が陳列され用意されています。そこには大きすぎる野菜や、小さすぎる野菜は店頭には並びませんし、魚介でも同じく蟹であっても足が1、2本足りないないだけで置いてもいません。

見た目も同じでなければみんな安心して買わないのです。
世間でいう良い商品というのは、平均的であり完璧であるものを選ぼうとするのです。

現在では、もっとも流通するものに合わせるという暗黙の了解があります。

それはその方が安くできるからですが、そうしていると大量生産大量消費する方が価値があるようになってしまうのです。大手企業が独占するのも、その標準化されたものがもっともたくさん売れるからでありその方が安心だという認識が消費者にもあるからなのです。

本来の社会の多様化というものは、本来はそれぞれが得意なもので作りそれをそれぞれの分限で販売していくというもので成り立っていたのでしょう。

世界を眺めれば、たとえ小さくても自分の持ち分で取り組む会社もたくさんあります。先日もある雑誌に自家製の化粧品をこだわり、原材料も自家製で制限して年間限定で販売しているのですが世界中のファンが購入する店舗があるのを知りましたし、お酒などでもこだわって自家米、蔵でできる数に限定した昔ながらのどぶろくを玄米で作っているところも同じように全国からファンが購入しています。

このように標準化された規格品にはない善さというものが平均を超えて、完璧ではない手作りのところに存在します。

そういうものは高いと言われますが、もともとの社会がそういうものしかないのなら高くはないのです。安いものをたくさん製造し、大量に消費し続けていれば当然安くて良いものが欲しくなるものです。日頃からどのようにお金を使い、自らの価値判断をするかで人は刷り込まれているとも言えるのです。

しかし実際の価格や価値というものが機械化・工業化により誤魔化されただけで実際の価値と価格というものが不釣り合いになってもいるのです。だから何かを購入しようとすると、すぐに人は値段から入るようになりそういう規格品の安いものを求めてはそうではないものを否定するようになったりもするのです。

多様化すればするほどに、本来は様々な得意分野を活かせるような商売がはじまります。競争といっても、協奏というように本来はそういうものが集まっているから御互いの創意工夫も発見も生まれたのではないかと思うのです。

私は今さら昔の商店街に戻るということを言っているわけではありません、本来の価値というものをよく見定めてから行動するということが大事なのだと思うのです。

自然と同じく、必用なものが必要なところに必然と在れば、活き活きしていくものです。

知らずしらずに受ける刷り込みにも気づいて、自らの本質を確立していきたいと思います。

 

お手伝いから

人類は今までさまざまなルールの中で社会を構成して集団を維持してきました。

現在の人の悩みのほとんどは人間関係にあるともいうように、それだけ集団でいるというものは御互いのストレスがかかります。違いを認め合っていくというのは、違いがもともと合っていいと思う社会があるからできるわけで今のように違ってはいけないと誰かによって抑えこまれているから余計に苦しくなるのだと感じます。

もともとこの集団に、独自の縄張りというものが生まれ自然を誰かが独占しようとしたところからの課題なのかもしれません。もともと自然界では誰かが何かを独占しようとすることはできず、あくまで自然にあるものは分け与える事で成り立つような仕組みになっています。

今のように、富を独占しようとしたり、何か自分の都合を優先しようとすれば、共生できなくなりその歪を戻すためにまた歪むという悪循環に陥るのも自明の理だと感じます。

自然界で集団を形成する理由を考えてみると、「手伝う」というものがあります。

最初は今のようにお金のためにや、ルールがあるからと働いたりはしていませんでした。

生きていくために、共に支え合い助け合うためにも自分から手伝うという選択をしたのです。
困っている人たちのために自分から手伝うとき、はじめてコミュニケーションは通じます。

自分から手伝おうとしないで、人と共に生きていくことはできません。
また今の時代は手伝ってもらおうと依頼することも苦手になってきています。

それだけ今の社会のシステムが、そういう当たり前のことをおかしくしているのだと思います。
もともと手伝いたい、助けたいそう思う心が私たちが対話をする理由です。
そして助けてほしい、手伝ってとお願いするのも共に生きようと対話をしようとしているのです。

少し離れただけで協力できなくなったり、日頃から対話ができなくなるのは、手伝うことの本質を忘れてしまっているからだと私は思います。

自分を活かすには、自分が得意なことで誰かのお役に立たなくてはなりません。シンプルに考えれば御互いの違いを認め合っているからこそ得意を活かそうとしたのだと私は思うのです。

そうして人は人間関係を思いやりのある豊かなものへと換えていったのでしょうしそうしていくことでいのちを紡いで繁栄してきたのだと思います。

権力やシステムで画一的に個性を埋没させ人を抑えて用いるのではなく、もっと自由に活かしていこうとする方が御互いを尊重し助け合うことができるようになるのです。

手伝うというのは自分の得意なことでその人の役に立とうと思うことからやればいいのです。

フラットでオープンな関わりは「お手伝いから」であると実感しつつ、対話を楽しみ、子ども達のためにもその見本になるように努めていきたいと思います。

 

気づき見守る

保育の入り口に発達を見守るというものがあります。
その子の今というものがどのようになっているのかを知るのです。

その子の今とは、今までのその子の育ち、そしてこれからのその子の育ち、それがどのようなものであるかを見守るともいえます。

人は成長しますが、その成長はどのような環境の中で育ったかで育ち方が分かるものです。
そして育ちというものを見守るには、気づきを深めていくような実践が必要です。

なぜなら、そのものを主体としてどうしたがっているのか、何を求めているのかなども自分の中の気づきに照らし合わせていくことで感じることができるようになるからです。

いくら知識できっとこうなのだろうと思ったとしても、本当にその主体がそれをしがたっているのかなどは分かりません。よく観察していくことで、そのものがどのようになっているのか、どのようにしたがっているのかに気づけるのです。

日々の小さな変化はとても微細で、気が付いたときには成長してしまっているものです。

先日蒔いた種も、気が付けばあっという間に大きくなって形度っています。
子どもも同じく、気が付いたらあっという間に成長しているものです。

どちらにしても、注意深く観察していかなければ変化の兆しに気づくこともできません。
私が観ていると、じっくり地味に浸透し爆発的に変化するというのが成長です。

どこが醸成している時機なのか、どこが伸び始めた時機なのか、何となくですが素直に観察していると御互いに感じるものがあるのです。

そしてそのどちらにも、見守り見守られているという信頼の絆、その見守っている姿勢と実践があってこそ発達は安心して行わるともいえます。不思議なことですが、生きているものはすべて何かを信じなければ生きることもできないからです。

それは繋がりの中ではじめて「生きる」ということになるからだと私は思います。
このいのちは、すべて共生の中でしか存在しないからです。

そして人も等しく無意識ですが、自分のことを見守ってくれる存在があるからこそ自分を信頼できますし、自分が自らで信頼できれば、より多くの人達を進んで信頼していくことができるようになります。

以上のように大事なことは目には見えませんが、大事なことだからこそ心の眼で観るのです。そうやって心の眼を育み育てていくことが、発達を理解し、子どもが成長するという保育の本質にも通じていくのでしょう。

気づけない所へ心の眼を運び、よりセンスを高め、気づきを深めて見守りたいと思います。

 

生きる道

人生は一度きりであり、自分というのは一人だけです。
これは当たり前のことですが、この当たり前に気づかない人も多いのではないでしょうか。

どうにもならないものだからこそ、自分がどうにもできるのです。

運命というものは客観的に感じると決められているようにも思います。
しかし決められているからと何もしないのは人生とは呼ばないのではないかと思うのです。

人生は決められたものの中で如何にそれを善いものへと転じていくかだと思います。
どうせどうにもならない現実であるならば、その考え方を変えるということなのです。

流されているけれど、流されていないともいうのでしょうか。

この「いのち」というものは、水や風、光や土というようなものの中にいてそれでいて自由。
感じるのは自分の心そのものではないかと思います。

一期一会というものは、その感じ方であるのです。
ご縁の中にある奇跡を、人生の生きる道を味わっていきたいと思います。