報恩謝徳

人間は、我が優先されてくると今までの御恩よりも今の自分にとって都合がいいかどうかを考えたりするものです。本来、今の自分があるのは自分の一人のチカラで成り立っているものなどは何もなく、全ては今までの御蔭様の御力添えによって今の自分が成り立っているともいえます。

これは少し考えてみればわかることですが、カラダを与えてくださったご先祖様方。そのご先祖様方を支えてくださった縁者の方々。また育ててくださった父母をはじめ、先生や友人、兄弟などあげていけばキリがありません。

自分の一人のチカラではないものを、わざわざ自分一人が苦労して手に入れたなどと錯覚しては全ての御恩まで私物化していくのです。目の前にあるものや、自分の身の周りにあるものはすべて過去の御縁と御恩の集積です。その偉大な見守りや御蔭様が観えている自分であるならば自我妄執に打ち克っていますが、もしもその御蔭が自分のおかげなどとなっていたり、もしも相手に見返りを求めているのならすでに自我妄執に囚われているともいえます。

このように自分の都合を優先するようになると、その御恩も御蔭も自分の解釈でさも真実のように自分に都合よく捻じ曲げてしまいます。だからこそ、自分が見守られていることに気づいているか、自分が多くの御蔭様のハタラキで存在できていることが観えているか、と自戒しては内省し振り返っていることで本来の御恩や感謝に気づけるように思います。人間には所有欲や支配欲をはじめ様々な欲があります、しかし欲そのものが悪いというわけではなく理念や初心を優先できないことに問題があります。欲があるのは自分を守るためだったり、生きていくためだったりもします、だからこそ理念を設定し理念を優先することで御恩を忘れず感謝も忘れず徳に報いるための実践になっていくように思うのです。

「報恩謝徳」という言葉があります。

これは恩に報い徳に謝すという意味で恩に感謝し報いていこうという真心のことです。自分が今までいただいたその有難い徳の御力添えに対して、いただいてきた全ての恩に対して自分のできる限りのことを返していこうとする心。

この報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいうそうです。そして謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいうそうです。どうしても感謝の気持ちから何かをお返ししたいという心の発露が自然に出てくる心境に入っているということです。

本物の謙虚さというものは、報恩謝徳にこそあるように思います。

日々の試練は、理念を優先し如何に自分の都合と折り合いをつけるかの一進一退の真剣勝負でもあります。しかし、日々の実践を通じて感謝という意識の境地に達していくならば自ずから報恩する生き方に転じてくるように思います。私が尊敬する二宮尊徳が実践した「報徳思想」は、この御恩を刻み徳に報いる生き方だったのでしょう。少しずつですが、その深い真心に触れては有難い尊い歩みに御縁を感じます。

今の私にはまだまだとてもその境地にはいけそうにありませんが、日々の実践が何のためにあるのか、理念の御蔭様で振り返りができることにお時間とお役目をいただけた仕合せも感じます。

この「報恩謝徳」を常に自戒にして、これからも精進を続けていきたいと思います。

 

言葉という技術

人はコミュニケーションをとることで理解し合っていくことができます。対話がなぜ必要なのか、それは御互いを理解し合っていくためです。以前、養老孟子さんが「他人は互いにわかり合えないものです。わかり合えないからこそ、言葉があるのです。」ということを仰っていました。今のように言葉が無数に広がり使われるのはその技術を駆使されているからです。

人間は分かり合えないということを前提にしているからこそ、言葉という道具を使い細かいことを伝え合うのです。道具はすべて使い道ですから、どのように使うかで薬にもなれば武器にもなります。今はそれだけ細かく伝えなければならない理由が発生している情報が氾濫する時代だと言えます。

だからといって最初から伝えることを諦めてしまったら、分かり合うことができません。人は自分の方ばかりを分かってもらおうとしたり、どうせ分かってもらえないと諦めたり、分かるはずがないと決めつけたりしていたら言葉で伝え合うこともやめてしまいます。

想いを伝えるというのは、自分がどういう想いなのかを伝える技術です。心を遣って言葉の技術を磨いていくことは、分かり合うための学力かもしれません。分かり合うために言葉を使う私たちは、その言葉を磨いていくことでより人と想いを共有していくことができるからです。

そしてコミュニケーションや対話において重要なのは信頼関係です。信じているか、それとも疑っているかでは同じ対話でも同じ結果にはなりません。まずどのような「場」があって、その場でどのような心で伝え合い、御互いの立場や状況をどのように理解し合っているかという心の余裕が話の進行に関係してきます。言葉というものは御互いが余裕があるときに聴けば心地よいものも、御互いに余裕がないときに聞けばかえって不具合になることもあるのです。つまりは余裕を持つために自分の状態を常に確認しているかということは言葉を発する上で重要な要素です。

「我々は、行いによって友人をつくるよりも、言葉によって敵をつくることの方が多い。」(チャートン・コリンズ」というものもあります。

だからこそ日頃から小さな言葉がけや関わりを自らが発し、繋がりが観えなくならないように手間暇を惜しまずにコミュニケーションを持つことで、相手がどんな状況であるのかを慮り思いやり小まめに相手の心に寄り添うことで互いの言葉を通して相手を理解していくことができるように思います。

人は発信することで受信しますから、受信するにも発信しなければ還ってくることはないように思います。信というものを頼りに関係を築くのが人間ですから、不信になれば信頼関係を築くことが難しくなります。

それに相手を理解する前に、人間は誰しも自分自身のことが一番分かっていないものです。自分と静かに向き合って内省し、素直な心で自分の本音本心を知ることで言葉は大切に磨かれていきます。自分が一生涯に生きて、どんな言葉をかけていきてきたか、それを想い返せば壮大な生き方が凝縮した一冊のノートのようです。そこに記した言葉を読めば、その人の人生の日記、そして一生の歴史そのものを記すものかもしれません。

このブログも、日々に書く日記も、どんな一日を過ごしたかが書かれていますからそれだけ言葉を大切に磨いていく中で言葉や道具の使い道を間違えず、言葉の砥石で自分も磨いていけるように思います。

人の言葉を素直に受け止めていく人は、御縁を信じて歩んでいける人のように思います。言葉によって傷つくからと、言葉を使うことを避けたら本当に善い言葉に出会えることもなくなってきます。これは人間の出会いと同じで、出会いと別れは常につきものだからこそその両方を福にしていくためにも正対し、丸ごと向き合っていくことが御縁を味わうことになっていくのでしょう。

コミュニケーションは人間関係の要諦ですから、引き続き学び直していきたいと思います。

君の志は何ですか?

人は純粋であればあるほどに志を持つものです。志というのは、純粋性でもあります。その人がどれだけ理想に対して真剣であるか、理想に対して素直であるかが問われます。以前、NHK大河ドラマの中で吉田松陰が「君の志はなんですか?」と何度も聴くシーンがありました。まず出会った人に志を尋ねるその純粋さに心打たれたものです。

この志は、混じりけのない純粋な思いでありそれは理念とも言い、原点とも言い、初心とも言うものです。人は私的な自我が強くなればなるほどにその純粋な思いを忘れてしまい気が付けば不純なものに入れ替わっていくものです。本来は純粋性こそ本物のその人らしさです。もしも本当にその人が純粋に思いを語れるのなら、それが志とも言えます。この志は生まれた時から持っているもので、それが曇らないように澄ませていくためにも穢れを祓い清める日々の実践があるように思います。

そしてその志を推し量るのに下記があるように私は思います

一つは、運の強さ。そして一つは、思いの強さ。もう一つは、絆の強さ。この3つがあるものは強い志に支えられているように思います。さらに同時に、真心の篤さ。次に感謝の篤さ。最後に学びの篤さ。この3つの篤さがあるものは篤い志に助けられているように思います。

その強さと篤さは「最期まで諦めずに絞り出したか」、そして「常に全身全霊を出し切ったか」の集積によって積み上げられていくようにも思えるのです。

志は誰にしろありますが、その志を開いてくれるのは全て御縁です。

出会った人に「あなたの志はなんですか?」、「あなたの目指す理念理想はなんですか?」と尋ねることは、つむいできたつながりの道の上にある一期一会のあなたとの御縁を信じていますという確かなメッセージです。

私はお会いする人たちに信念の種や志、理念を尋ねます。それはその人たちの志を叶えたい、そして同時に自分や周囲の方々への御縁を結びたいと願うからかもしれません。かんならの道は御蔭様の道でもありますから、出会う御縁に導かれるように歩んで往ける今がいつも仕合せなことです。

「出会いの哲学は初志にあり、御縁の哲学は貫徹にある。」藍杜静海

一期一会の生き方の中から学び直すことばかりです。道中の出会いを大切に、一日一生を実践していきたいと思います。

 

好循環~実践の強さ~

物事には好循環というものと悪循環というものがあります。これは循環の理の中で如何に循環を理解しているかということが深く関係するように思います。循環を邪魔しないというのは、自分が循環の中に入るということです。

しかし実際は、自我欲や己に負けては循環を邪魔をし謙虚さを忘れては間違いをするのも人間です。素直さや謙虚さというものは、実践を忘れない心があってこそ顕現してきます。いくら頭でわかっていても口先で語っても、一つの実践には敵いません。一つの実践を丹精を籠めて取り組んでいく中でこそ、はじめて循環の中にいる実感を持てるようにも思います。

二宮尊徳は常々、「道は書物にあるのではなく、行いにある」としています。知識で分かったからとそれ以上取り組むのをやめてしまったり、本を読んでは理解したからと深めていくことをやめてしまっているのは道ではないということです。この道もまた循環に関係しますから、大いなる廻りに同化していくためにも日々の小さな実践を積み重ねていくことで道と縁は展開していくように思います。

二宮尊徳はこう言います。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道を知るもの、必ず行はざるべからず」

道を知る者は必ず実践しているものだということです、そして道を知らないのは学ばないとの同じで学んでいないのは生まれていないのと同じであると言います。学ぶということは道を実践することであるとはっきり定義しています。

孔子が論語の中で、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」といいます。

最初から苦労なしに学んだ人たちは誰もおらず、みんな自らが苦労を積み重ねてその長いプロセスの中で道を実践し体得して周りの人々のお役に立ったのです。自らの実践を怠り、知識ばかりを増やしては満足していたら道は遠のいていきます。そして循環というものは、自然と同じですが本当に少しずつ動いていきます。頭で考えているようなスピードや頭で思っているような結果はすぐに出て来ません。しかし好循環は、発酵と同じく本当に小さく少しずつ動いては偉大な変化を創造していくものです。

日々のちょっとずつでも小さくても行う実践こそが何よりも偉大なことを実現します。それを二宮尊徳は「積小為大」といい、実現するのに「至誠」「分度」「勤労」「推譲」と言いました。これはまさに好循環の理を語っているということに他ならないと私には思えます。

迷いを断つのは日々の実践への強さが影響するように思います。子ども達のためにも、実践を強く発揮していきたいと思います。

場の研究

炭を深めていく中で、「場」について再考する機会になりました。ここでの「場」とは環境を定義します。この環境がどのようになるかで、その過ごしている生き物たちの変化があるということです。

よく「場」というものを考えるとき、空気があります。場の空気を読めではないですが、その場にはその場に相応しい空気があります。それはオープンな場であったり、癒しの場であったり、明るい場であったりと、その場を創りだすものはその場で生きている生き物たちの性質、その呼吸や雰囲気が創りあげていきます。殺伐とした場であったり、悍ましい場であったり、乱雑な場であったりは、同じくそこで生きている生き物たちの気性や性質が場を創ってしまうのです。場には空気感がありますから、その場を創る人たち一人ひとりの意識が場に影響をしてくるとも言えます。

密封状態の呼吸がしずらい薄暗い部屋で話をするのと、開放的で自然のそよ風と爽やかな木漏れ日の中で話をするのとではその対話の質も変化していくのと同じように場合が影響してくるのです。

その場づくりをどのようにするかというのは、その場に悪い意識やよからぬ考えが入ってこないようにと場を整えていくのがそこを司る人間の仕業でもあります。私たちの実践する聴福人(ファシリテーター)も自身がまず「場」づくりをできなければ人々の間に安心した環境はつくりだすことができないからです。

その「場」を学ぶとき、自然のチカラ添えを得るために清らかな場を用意することがイヤシロチでもあります。そしてイヤシロチというのは発酵する場でもあります。発酵は主に、腐敗と発酵があります。腐敗もまた発酵の一つではありますが、人間にとっては腐敗すると生活環境が整いませんから如何に発酵をし続けるような環境を用意するかが鍵になります。

その発酵環境は「場」によってできますが、その場をつくるのが人間ですから如何に場に対して発酵場という意識を持っているかが大切であるように思います。風通しの良さや、水の流れの良さ、地味に良い、光が明るい、など自然の言霊がハタラクような場に自分自身の心が投影されていきますからその発酵場にしていこうとする思いと実践が何よりも場には影響していくのです。

その一端を担うものに「炭」があるのは間違いないことです。今回の夏季実践休暇から炭の持つチカラをほんの少しだけ自覚できましたが「場」について深めていくためにもっと炭を身近に置いては観察してみたいと思います。

炭のチカラ③

今回の夏季実践休暇で炭を深めれば深めるほどに奥深く、炭が持つ多彩な効能には驚かされます。例えば、森や川を再生させるために用いられたり、生き物たちが回復するのを助けたり、循環が滞る場所に炭が入ることで循環の流れが活性化されていく姿には感動することばかりです。

特に炭と微生物がこんなにも深く関わっていることを知ると、発酵の持つ本質に近づいていく気がして本当に有難い気持ちになりました。本格的に発酵から学び直しをはじめて約4年、その道の中に炭との出会いがあったことでさらにこの発酵が愉しくなりました。

これは人生と同じで、一見、関係がないように見えてしまうことでも「道」であると実践を積み重ねれば、寄り道や道草の中で不思議な出会いに回り逢い、シンクロにてシティを感じることができるという御縁の仕合せと同じです。今では単に知識だけを幅広く持っていることばかりを楽しみ実践を怠っては道に気づかず、本来の実践の愉しみが分からない人が増えてきているように思います。

人間にとって何よりも大切なのは、道に入ることです。

その道に入るというのは、自らを磨きあげよう、そして自らを鍛えよう、自らを高めようといった、敢えて苦労を選んでも愉しみたいと実践することを決心することのように思います。生き方を観て尊敬する人に出会ったなら、そこには必ず何らかの道が存在します。その道を極めた人や達人に触れることで、実践人たちが道を愉しんでいる姿に憧れるのです。子ども心は憧れですから、憧れが続くというのは実践を怠らず取り組んでいることができるからなのでしょう。

私の場合はかんながらの道ですから自然を観るとなんでもすぐにワクワクしてしまいます。その道を辿る中で人生は彩られ、かつてない感動に出会い続けることができます。この発酵や炭もまさに自然の美が奏でる共生循環の世界そのものです。

話を戻せば、炭の微生物の発酵に江戸時代元禄年間に書かれた宮崎安貞による「農業全書」というものがあります。そこには炭の活用で「万の物を蒸し焼きにして、濃き肥と混ぜてねかせ、万の物に遣ると良い。とくに豆に良く効く。これを灰糞と言う」と書かれていました。

宮崎安貞は元和9年安芸の国(広島)に生まれ、父親は宮崎儀右ェ門という方で浅野藩主で山林奉公を勤めた方です。その安貞が25才のときに福岡藩主黒田忠之に200石で召し抱えられましたがやがて自ら官を辞し、九州を始め山陽道、近畿、伊勢、紀州の諸国を巡歴し各地の篤農家を訪ねその経験を聞いては種芸を学び農の集成と中国の農業書を読んで研究を積みあげました。その後、福岡の志摩郡女原に帰ってからは一農民となって自ら鋤鍬をとり、周りの人々と農事改良と、農民生活の向上に心魂を傾けた人物で人々からは「農聖」とも慕われていた方です。

この「農業全書」に記された灰糞はの効果は今では科学的に証明されており、炭や灰のチカラで田畑に自然の植物ホルモンや抗生物質をつくりだし土壌病害なども防いでくれることが分かってきています。ここからも先人たちの炭の活用はすべて発酵につながっているということが具体的な技術にも応用されているのがわかります。この農業全書もまた炭からいただいた御縁です。

今回も大変有意義な実践休暇になりました。実践できることが有難く、実践をさせていただける仕合せに感謝することばかりです。引き続き、この炭の持つ神秘を深めつつ、発酵の智慧を体験により学び直していきたいと思います。

炭のチカラ②

昨日、無事に合計700キロの備長炭を床下に敷き終えることができました。すでに2日目になると、床下の空気や雰囲気も澄んできているのを感じます。炭の効能は科学的にわかってきている部分もありますが、未だに解明されていないものもあります。

先人たちは炭と共に暮らしていく中で、その効果を長い年月をかけて自得していたのでしょう。昔は傷ついた動物が炭焼き小屋で傷を癒したという民間伝承も遺っています。実際に、牛や犬なども胃腸を整えるときに炭を食べているそうです。炭には水を浄化するだけではなく体内を浄化するチカラもあり、いのちに関わる様々なところで昔は活かされたようです。

私の中で現在、発酵を通して気づいたことは炭には微生物が棲んでいるということです。炭の表面を拡大して観察するとミクロ単位の孔が無数にあるそうです。その孔は縦横無尽につながっていて全てが外気に触れています。

この炭の内部にある「多孔チューブ」の表面に水や空気が通ると有害物質が吸着され、孔内にすむ無数の微生物によって分解するという仕組みです。この内部に住む微生物こそ土壌をアルカリ性にする作用があり、木炭を撒いた畑の作物が良く育つ理由とも言われています。私たちが生活しやすいように微生物たちに活躍してもらうという方法なのです。

私たちの住まいが家であるように、微生物の家は炭になります。そして炭を愛する微生物たちが私たちの人間の暮らしに共生し、自然の相乗効果を発揮するのではないかと私は推察しています。

自然農や自然養鶏の中で、水の中に炭を入れていますが生き物たちはその炭の周囲を暮らしの中心にしていきます。不思議なことですが、その炭を置いた処から発酵場になり発酵が進むのです。多様な生き物を活性化するということが発酵ですから、炭の効果は甚大なのです。

今回の夏季実践休暇で気づいたことは、「炭こそ暮らしの家」であることです。炭がある暮らしというのは、そこは豊かな生態系が発生してきた家であったということです。私たちの親祖たちもずっと火をおこし炭を焼き暮らしてきました。そしてその周りに人間たちが共生した生き物たちが集まって豊かな生態系の中で一緒にいのちをつむいできたということなのでしょう。

炭の持つ、不思議なチカラを体験できる善い御縁をいただきました。さらに炭道の達人との新たな出会いもありましたから引き続き学び直しつつ深めていきたいと思います。

 

 

炭のチカラ①

今年は夏季実践休暇を用いて、「炭」について深めています。キッカケは、自然養鶏の発酵床や、漬物の発酵場にづくりに炭を用いたり、田畑や植物の発酵土壌づくり、最近では昆虫飼育、飼料にいたるまで炭を使ってみて効果があったことを実感したからです。また昨年から風土について深めていく中で、その土地特有の風土がその人物を醸成することを学び、私の故郷のことを考えていく中で発見があったことも要因の一つです。

私の故郷は、筑豊といい炭鉱が有名な場所です。地面には大量の石炭が埋まりその石炭が土深いところに埋まっているからです。私の育った風土が石炭に関係するのなら、「炭」に関することを学び直そうと思ったからです。何年も前から実践しようとは決めていましたが、今回の機縁に感謝しつつ取り組んでみようと思います。

そもそも炭の効果は先人たちは知っていました。中国や日本の遺跡でも大量の炭が出土しています。世界を驚かせた発掘の一つに1972年に中国で発見された2100年前の「馬王堆古墳」でその棺を開けると出てきたのはまるで数日前に死んだような貴婦人の遺体がでてきたそうです。まるで内臓もしっかりしていて胃の中にあったウリの種を土にまいたら発芽したそうです。世界の謎としてなぜミイラにもならず保存することができたのか波紋を呼びましたが棺の周囲には5トンもの炭が埋めつくされていたのが分かったそうです。発掘の際にも堀った小さな穴から有機物が分解してできたメタンガスに火をつけると青白い炎が三日三晩ずっと続けたそうです。

私がここから推察するのは、そこには確実に「発酵場」があったと確信しています。2100年間保存ができるということは、必ず其処に発酵の智慧が入っていたはずです。

他にも日本では伊勢神宮をはじめ、法隆寺、京都にある神社仏閣などもその地下に大量の炭が使われています。他にも東北の古い蔵やかつての古民家などでも壁に炭を塗り込まれていたのが多数発見されています。炭には場を清める作用があり、これは「イヤシロチ」といって清浄で澄んだ場になるという意味で、この癒白地に炭を使って浄化作用を高めたということでしょう。逆に水や空気の抜けが悪く、ジメジメとした場は「ケガレチ」といいます。ここは発酵がないような穢レ地になり、人間の生活に合わない場になっているようです。

今回、夏季実践休暇を用いて床下に700キロの備長炭を敷き詰めることにしました。この備長炭とは樫や馬目樫の木を備長窯で焼いた非常に堅い炭のことです。備長窯で焼く製炭技術は弘法大師空海が中国からもたらしたといいます。備長炭を焼く窯の小さな排気口を今でも「コウボウ穴」「ダイシ穴」といい、中国伝来の技法を紀州や土佐に伝えたのは空海に間違いないと言われています。

昨日は半日をかけて約400キロほどの備長炭を敷き詰めました。この作業自体は床下に潜り大変苦労しましたが炭の敷き詰める際の炭の音や粉に癒されます。先人たちは、きっと悠久の時間をかけて炭と共に暮らし、自然の智慧と技術を磨いてきましたからこの炭の効用を知り尽くしていたのでしょう。

なぜ炭が人間の生活と相性がいいのか、そこには私たち人間の暮らしの性質に「土と木」が入っているからでしょう悠久の時間をかけて関わってきた暮らしの智慧の一端を実感します。

「稲」に続き、「炭」は私にとっては壮大ないのちのルーツを辿るミラクルジャーニーのひとつです。

引き続き、「炭」について深めて書いてみようと思います。

 

チカラの本質

以前、ある経営者と漫画について話すことがありました。その方は、京都大学を卒業後あらゆる本を読んできたけれど「NARUTO」ほど参考になるものはなかったと仰っていたことが印象的でした。この「NARUTO」というのは週刊少年ジャンプで連載していた岸本斉史原作の忍者漫画のことです。1999年43号から2014年50号迄掲載し全700話ある少年ジャンプの看板作品です。

私も幼い頃から、少年ジャンプや少年マガジンなど漫画を読んではキャラクターに共感し、夢を見ることの大切さや仲間を思いやることの素晴らしさ、また最後まで諦めないことの重要性など、様々なキャラクターに思いを寄せて共感しては人生の要所要所で勇気と励ましをいただいたように思います。

漫画は漫画家がそれぞれの人生観に従って描き記していくものです。これは詩や文と同じく、その人の生き方をはじめ思想や哲学が入っているものだと感じます。より具体的に読みやすく解りやすく多くの人たちに影響を与えるという意味では漫画というのは素晴らしい作品であるように思います。

この「NARUTO」ですが、25年連載していく中で作者もまた25年の歳月を様々な出来事を通して学んだことが漫画にも投影されています。毎週連載をしていくというのは、毎週人生を深め高めて実践していくことに似ていますからキャラクターの成長は漫画家自身の成長でもあるように思います。

あらすじとしては、木の葉の里の忍者アカデミーという若き忍者の育成機関の生徒「うずまきナルト」がいつか木の葉の首領「火影」になることを夢見る話です。実際は弱点ばかりの落ちこぼれ忍者が、数々の出会いを試練を乗り越えて見事立派な火影忍者になるまでが描かれています。そのライバルに「うちはサスケ」という忍者もいました。何でもできて完璧な忍者でしたが、同じように火影を目指します。その火影を目指すプロセスに哲学があり、それが作品を通してあらゆる場面でぶつかり葛藤します。

うちはサスケは、「人々に選ばれた者ではなく 躊躇いなく憎しみを受け入れる事が できる者こそ火影に相応しい人物だ。」と言います。それに対してうずまきナルトは「火影になった者が皆から認められるんじゃない、皆から認められた者が火影になるんだ仲間を忘れるな。」と学びます。

自分のチカラだけを頼りに強さを求めてきたサスケに対して、周りのチカラ添えを頼りに強さを見出したナルト。本来の自立とは何か、チームワークと根性というものがナルトの強さの秘訣だと言いますがそこには仲間に対する信頼と、自分自身に負けない強さがあったように思います。

人は己に克つことをやめて強さを求めたらサスケのように孤独になります。しかし己に克ちその上で仲間を信頼することができるのなら協力できるようになります。本来、チカラを持ちたい動機は大切なものを守りたいからではありますがそのプロセスの中に自我欲に負けてしまうのか、それとも周りの役に立ちたいのかで「生き方」が出てきます。生き方が決まれば、次にその「やり方」がはっきりしてきます。そのやり方をこの「NARUTO」は皆に解りやすく伝えているように感じて共感することが多いです。

己に打ち克ち、周りを信じるということは本当の強さと優しさを兼ね備えた人としての思いやりの道です。「NARUTO」の随所では「忍道」という言い方をされますが、「道」を歩むものとしての心構えた志について描かれたシーンはどこも感動する物語ばかりです。

自分の生き方と照らしつつ、道を愉しみ道を味わい、真心や思いやりを反省しつつ子ども達と一緒に歩んでいきたいと思います。

誇りと自信

先日、あるお客様の内省シートから「仕事に誇りをもって取り組まれているのが伝わってきた」と書かれていました。この仕事に誇りを持って取り組むとは何か、その「誇り」について少し深めてみようと思います。

「誇り」の対義語は「恥」だと言われます。自分に嘘をついたり、自分から逃げて自分に負けると誇りは失われていきます。この誇りとは、「自分は逃げなかった、己に克ってきた」というものが誇りの本質です。そして自分自身が自分のすべてを知っているのにその自分を裏切り妥協することが恥です。そして恥というものは、辞書には「世の人に対し面目・名誉を失うこと。恥ずべき事柄を恥ずかしいと思う人間らしい心。」と書かれています。この恥ずべきことがらがまずわかることが誇りの入口です。

自分自身が真っ直ぐに逃げずに向き合って己に打ち克つ人は、自然に誇りと自信を纏ってきます。逆に己に負けてしまう人は、プライドが高くなり不安を纏ってきます。他人の評価云々ばかりを追いかけるのも恥ということが分からないところが関係します。この恥という字は、耳と心でできています。自分の本心に耳を傾けているかどうか、自分の心が決めた自分に正直に生きれているか、そこに誇りはあります。

仕事に誇りを持つというのは、理念を優先して自分自身を変えてきたという実績です。先日もあるクルーが理念のために自分自身の都合を手放していきましたが、その瞬間からその人が纏う誇りや自信が目に見えるほどに光りはじめます。周りの刷り込みや今までの習慣よりも、自分の決めた生き方や働き方を優先したからこそその人はその恩恵として「誇りと自信」を持つことができます。

誇りを自信を持つ人がひとたび言葉を話せば、その人のように生き方と働き方を変えたいと感化されていくものです。いくら言葉巧みに上手いことをいっても、それぞれ人は己との向き合いの中でしか成長できませんから己に克っている人の言葉はとても勇気になるのです。

特に子どもは正直で、建前と理想をいくら使い分けてもその矛盾にすぐに気付きます。それだけ自分の心に正直に生きているからです。その正直に生きる子どもたちに生き方と働き方を遺すならば、誇りと自信は欠かせない徳目です。それが人間らしい心とも言えます。

人間らしい心は、常に自分の心と正直に向き合いその心に従っていきようとする生き方のことです。自分という最大の敵に先に負けてしまって心をその都度誤魔化して保身や保守ばかりを優先してしまえば、その分また誇りと自信が失われていきます。心を誤魔化さないというのは、ありたい自分、理念や初心を優先する自分でいられているということです。もっとも身近な自分がもっとも自分のことを四六時中観ていますから、その自分と対話して自分に打ち克っていくことで自分だけではなく周りも元気づけていけるのでしょう。

お客様からクルーのことが「誇りを持っている」といわれることほど有難いことはありません。陰ながら自分から逃げずに実践して己に打ち克って努力精進している姿を観てくださった気がして、本当に嬉しく見守られていることを実感しました。きっとこの方もまた、克己復礼に修養を怠らない実践家なのでしょう。御互いの誇りが観えるということは、何よりも強い心の絆になっていきます。そういう絆のある人のことを仲間と呼び、同志と呼ぶのでしょう。

自分自身が自分自身でいられるように、日々の実践を怠らず、理念を優先し、修養の勝負に勝ち越せるように子どものモデルになるような生き方と働き方を追求していきたいと思います。