自然か不自然か~変化の本質~

昨日は、自然農の畑を手入れし夏野菜の苗を移植していきました。固定種の種で育てていると、種どりもまた一つの楽しみになります。畑で年々巡り、順応したものはその土地の種になるからです。

種の保存というのは面白く、四季を巡りなら自然と一緒に変化順応していきます。もしも100年に一度の種であれば、急激な気候の変化に種は耐えられません。しかし毎年少しずつ変化していくのには順応でき、気候変動と共に変化していきますから種も自然の一部として気候と共に存在するのです。

そもそも自然のように偉大な存在が変化するには、かなりの時間がかかるものです。巨大なものほど私たちにとっては変化が遅く感じられるからです。大体、こちらが急に変化したと驚くのは自分自身の変化に対する意識が低くなっているだけで、自然の生き物たちは小さな変化にいつも敏感に反応しているものです。そうしなければ自然で生きていくことができないからです。

例えば、私たちは家で空調をはじめ快適な状況で生活ができていますが、常に庭にいる犬や猫、鳥などは寒暖差がある季節はじっとしてやり過ごしたり、なるべく日陰や日に当たったりしながら体温調節などをうまく行っています。自分の内面の体の体温を保持しながら季節に合わせて自分の体温を気候に調和調整していくのです。

常に自然は微動な揺れや微細な振動のようなもので波うち、緩やかに変化を続けます。海の浜辺で潮の満ち引きがあるように、少しずつ干潮と満潮を繰り返しながら活動を已みません。そして自然の生き物たちもまた、その自然の持っている生活リズムに合わせて活動したり休息をとったり、感覚を自然に合わせながら自分を変化させ続けていくのです。

人間は気が付くと気候が変わり突如変化を迫られるように勘違いしてしまいますが、実際は自然や全体に合わせるのではなく、自分の決めた時間や設定した自分のルーティンにばかりに意識を合わせるうちに変化に迫られるような気がしてしまうのです。特に、幼少期から制服のようにいつも同じ服、同じ場所、同じことを何度も繰り返していればそのうちに変化することが分からなくなるのかもしれません。

私は最近「全体快適」という言葉も最近は使っていますが、これもまた自分がマンネリ化しないようにいつも全体に対して少しずつの変化を楽しむコツでもあります。無理に同じことを続けるために変化しないでいることの方が大変なことです。それよりも変化を楽しみながら、その時々の四季折々に耳を傾け、自分から調和していこうと心地よさを追求していけば自ずから自然と一体になっていくように思います。

自然の風を感じながら、自然の気候を味わいながら、自然に耳を澄まし、自然とと共に歩んでいく。この安心感こそ変化の源泉であり、変化は生きている実感を味わえる証明でもあります。

生きたまま変化を避けて死人のようになったり、生きているのに五感を使わずに頭だけのイメージで一日を過ごす人形のようにならないように、常に全体快適、全体善になるように自然に合わせて自分も一緒に変わっていけると不自然さがなくなってくるように私は思います。

自然か不自然かは、変化を楽しんでいるか変化が苦しいかです。

子どもたちにも変化の味わい深さを伝承できるように、自分自身が変化を楽しんでいきたいと思います。

無用の用

荘子に「無用の用」という言葉があります。これは一見、何の役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともあるという意味でこの世に無用なものは存在しないという言葉です。

もともと荘子は、老子に学び老子を語るのですが老子が「埴をうちて以て器を為る。その無に当たりて器の用有り」といってこれは粘土をこねてつくる器も一見無用だがこの空間があるから器が作れるとも言いました。それに荘子は、続けて「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり」と語るときにこの「無用の用」が出てきます。

古民家甦生のなかで、柳宗悦の「用の美」について少し深めたことがありますがあの実用的な日常的な暮らしの機能美のことだけではなく、荘子の無用の用はすべての自然には何かしらの意味(美味)があり存在価値があるということを言っているように思います。

空間というものを深めていけば自ずから感じるものですが、私たちは常に空間の中に存在しているのはすぐにわかります。その空間の中に置いてあるもの、もしくは空間の中に存在しているものが引き合ってその場は生まれます。

何かを飾ってみたり、配置を移動してみるとさらにわかるのですがそれがあるだけで安心したり、不安になったり、調和したり、不自然だったりと感覚で察知していくことができるものです。

日本家屋は特に空間を大切にしていて、床の間にはじまり和の空間はどれも整然として凛とした佇まいを醸し出しているものです。これらは空間の中に一見、意味のないようなものがあったとしてもそれが全体と確実に繋がっていることを感じます。

そもそも役に立つ立たないとは、それを用いる人の主観と能力、判断があって用いているだけで他の人であれば別の用に用いる人もいます。誰かの一方的な主観(自分を含めた)もので、用を差別することが不自然であるということです。

路傍の石ころでさえ、その石がそこにあるだけで意味があると思えている人にはこの荘子の無用の用の自然の理が観えているように思います。

自分らしく生きていくことは、自分の天命を自ら全うするために自分を遣り尽していくことのように思います。言い換えるのなら、そこにそれが存在する理由は天のみぞ知るという具合でしょうか。

無理に用立てようとすればするほどに、無用なことをして周囲をかえって惑わすこともあるのです。自分はこのままでいいと焦らず、自分の志や初心、そして心が感じるままに自然に委ねて生きていけば自ずから無用であることの中に、偉大な用があることに気づきます。

「どんな風に用いられても、そこには確かな使命がある。」

子どもたちがそう信じて一人ひとりが自立して安心して生きられる世の中になるように、自立のモデルを示していきたいと思います。

聴福人の境地

人は自分が大前提として認めようとしない時、他人や自分を何とかして変えようとするものです。そうすると、苦しみが発生し、相手がなぜ変わらないのか、なぜ自分は変われないのかと煩悶するのです。

多様性というものは、本来は「あれもあり、これもあり、みんなあり」だと全てのことを認めてしまうところに存在するものです。それをこうでなければならない、これはやってはいけないなど、何かを悪とし、それは罪だとし、罰を与えなければと裁くときに人は認めることを否定してしまうのです。

この「裁く」ことこそが、認めることの反対であり裁く心の中には罪の意識や善悪理非を自分が勝手に決めるところにあるように思います。本来は何を根拠に正しいとか間違っているとかいい出したのかは分かりませんが、どこかで得た知識によって理想を自他に押し付けるとき人は裁くことをしてしまうように思います。

相手のことや本当のことや真実を確かめる前に裁く心は、先入観や偏見で裁く心であり差別し差別される感情が発生するから受け入れ難く自他を無理にでも変えなければならないと反応するのかもしれません。

イエスキリストは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という言葉を遺していますが、この裁く裁かれるという行為そのものがお互いを苦しめてしまうからだと思います。

お互いの苦しみを開放するには、一つは「聴くこと」、もう一つは、「認める」ことが要ります。言い換えれば、「きっと何か理由があるのだろう」と決めつける前に相手に心を寄り添い傾聴すること、そして「それも一理ある」と自分にも相手にも理があるということを認めることです。

この「裁かない」という実践が、お互いの人間関係の感情を緩和して多様性豊かな場を醸成していくのです。私の提案する、「聴福人」の境地はこの聴くと認めるを実践して誰も変えようとはしない、自分も変えようとしない、そのままでいいと丸ごと認めるということを言います。

それを一円融合、一円観ともいい、すべては丸ごと観てみると欠かすことのない丸味を帯びた完全体であるという発想です。しかし実際は、裁く人を前にすると罪悪感や差別感で感情が呑まれそうになります。先ほどのイエスのように、裁くのを止めよう、差別はやめよう、自他を責めずあるがままでなんでもありにしよう、何度も何度も行動を訓練することで次第に感情は落ち着いてくるように思います。

私もまだまだ修行中ですが、余計な知識や先入観、刷り込みを取り払いあるがままの自然体をお互いに気楽に喜べるような仕合せな関係を広げていきたいと思います。

初心を立てる

人間は自分の初心をしっかり自分で立てずに周りに合わせてしまえばブレてしまうものです。家で例えれば自分の家の大黒柱がどうなっているかということでもしもそれが傾いてしまうと家全体はどうなるかということです。

組織も同様に、中心になっている人物の大黒柱(初心)がしっかりと立っていてその周りに中黒柱、小黒柱がしっかりと支えているから家が傾かず基礎がズシリとブレずに建つことができるのです。

時代という早く大きな川の流れやうねりの中で、今の時代に初心を立てるということは濁流の中で流されずにしっかりとその場に留まる支柱を埋めて立てるようなものです。

少しのせせらぎの中であれば倒れたり流されることもないかもしれませんが、これだけスピードが速くなり怒涛の変化が渦巻くなかでは簡単に濁流に呑まれてしまい消えてしまうものです。その変化は情報化という外側の変化だけではなく、欲望といった自我の変化もあります。

しかしどんな状態であろうが、どんな条件下であろうが、支柱は守り続けるというその人の信念が貫かれれば初心を守ることはできます。

最初は、大黒柱の陰に寄り添って何とか流されないように誰かに守ってもらっていることからはじまるかもしれません。しかしそのうち大黒柱を支えられるように自分が支柱になるように努力していく必要があります。みんなで立てば、それだけ流れに対して強く逞しくなり、確かな支柱が増えれば増えるほど頼もしくなっていくのです。

人間は自分の柱を誰かのものでいつまでも支えてもらおうとし続けてもそれは土台無理なことです。だからこそ自分の足で立つというように、自分の柱は自分自身で立てなければなりません。それを「初心を立てる」といいます。その初心を立てたなら、それを忘れないようにすることと、その初心を振り返り流されたり傾いたりしないように修繕や修理をし続けることが日々の実践ということになります。傾いても誰も起こしてくれませんから、そこは自分で起きるしかありません。ただ周りに真っ直ぐの基準があるのなら姿勢を立て直しやすいものです。

そうやって自分の初心がしっかりしていけばいくほどに、他人に依存せず、世間に流されず、自己の確立に向かって素直に成長していくことができます。人類がみんなそんな生き方ができるのなら、世界は確かな平和を築いていくこともできます。

子どもたちには、しっかりと頼もしい自分を確立して時代が変わっても大切な自分を立てられるように初心を見守れる環境を創造し続けていきたいと思います。

記憶と思い出

人間には古来より今まで生きている中の記憶があります。幼少期の頃までには、それを覚えていても次第に自我が芽生えそういったものを忘れてしまうものです。何度も生まれ変わっても、先祖から連綿とつながった記憶は忘れられずに私たちの心の奥深くに眠っているものです。

時折、そのむかしの記憶を覚えている人に会うとまるで見てきたかのように鮮明にその映像を語られることがあります。そしてそれをなぜか懐かしいと思うのは、同じ記憶を共有しているからかもしれません。

そしてご縁が結ばれ記憶を辿りながら、ふと何かと繋がったりするとき何かを思い出すときがあります。不思議ですが私たちは誰しも記憶を持っているということをその時感じるのです。

人間は生まれた時が、ゼロで残りを足して人生を歩んでいくと思い込んでいることが多いものです。ですから記憶も同様に、後から増えていくことで過去を忘れていくようにできていると思っています。しかし本来は、足していく記憶と、引いていく記憶があるように記憶はその両面を同時進行で行っているとも言えます。

つまりは新しく体験して創り増やす記憶と、体験したものを元に思い出す記憶があるということです。記憶というものは、今の自分の背景を伝えてくるものです。だからこそ記憶を大切にして忘れたくない大切な思いは忘れないままに、新しい記憶を辿りながら自分が観たことがある懐かしい記憶を思い出すために心は動いていくように思います。

人間はあの世に持っていけるものは思い出だけという言葉があります。そしてアップルのスティーブジョブズもまた「私が勝ち取った多額の富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけないが、愛は持っていける私が今、死と共に持っていけるのは、愛に溢れた思い出だけなのだ」と言って亡くなりました。

この「思い出」の大切さに気付いている人は、懐かしい記憶を思い出している人です。一度きりの人生で、どんな「思いを出すのか」、それが人間の一生が決まる大切な要素です。

記憶という思い出を大切にしながら、いつまでもその記憶を忘れないように思い出を守り続けていきたいと思います。

 

感謝の心~貢献とは何か~

感謝というものは、無理に感謝しようとしているか、自然に感謝しかないとなっているかでその意味が異なります。大前提として、感謝の中に周りの御蔭様で今の自分が存在できると思っている人は感謝しかないと思っていますがそう思っていない人は感謝の捉え方が違ってくるように思います。

人は恵まれすぎる環境にあると次第に感謝の心を忘れていくものです、今のように何でも便利に自分の都合よく手に入る環境があれば次第に感謝の心が薄まっていき傲慢な自我が強くなっていくものです。思い通りになっていけばいくほどに、それに比例して感謝も感謝しかなかったものが感謝しなければならないというように変化してくるように思います。

人は感謝に敏感で、感謝の気持ちを忘れれば人間関係に綻びが生まれてきます。お互いに相手に不平不満を言っては、相手が変わらないことでお互いに軋轢が生まれストレスがかかります。それを感謝の心を忘れ無理に解決しようとすればするほどに、相手や周囲への思いやりが欠如してかえって関係が悪化していくことがあるのです。感謝がないから我が出てくるとも言えます。

本来、相手の存在や周囲の存在があって今の自分がこの世で自立していくことができるとも言えます。自分は相手であり、周囲は自分でもあるのです。つまりは自分を存在させてくださっているものは何かということを忘れてはならないのです。

自然界は、周りの自然と一緒に生きていることに感謝しています。その証拠に分を超えて取り過ぎることはありませんし、常に自分が周りによって活かされる状況を保ち続けています。人間はお金を払えば、分を超え必要以上に摂取し、そして自分たちの都合で好きに自分にとって都合の良い環境を創り上げていくこともできます。そのうち謙虚であることがなくなれば、感謝の気持ちがなくなっていくのでしょう。

当たり前だと思っている目の前の存在や所属している組織や仲間、そしていただいている身体や御先祖様、そして日本のこと世界のこと地球のこと、そういうものを常に忘れないようにしている人は、いつも誰かへの感謝の心を言葉に顕しています。

先日もあるお客様のところで口癖のように社員たちが、「いつもみんなの御蔭様で」とか「仲間の存在に助けられ有難いです」とか、「みんなに迷惑をかけてしまって感謝しかない」と話している様子をみてその人たちが、感謝を忘れないことで「仕合せ」で楽しく、豊かに仲よく働いていることを実感する機会がありました。

組織が上手くいく方法などいろいろとありますが、やはり普遍の真理として「感謝を忘れない」人たちがいる組織は必ずと言っていいほど平和と調和があってみんなの幸福を創造しています。「全体快適」とは、みんなのことを思いやり「感謝を忘れない実践」を続けるという意味です。そしてこれが人間力を高めるということに他ならないのです。

引き続き、自分の感謝の心は果たして感謝しようとするものか、それとも感謝しかないと思っているものか、自分のことは自分が一番よく知っていますから自己を確認して世の中の幸福のために貢献していきたいと思います。

初心の実践

人は頭で考えても行動しなければそれは変わらないものです。行動しても変わらないのは頭で考えた通りにしようと思っているからでもあります。心が感じたことや心で思ったものをそのままに行動することこそ本来の行動とも言えます。

二宮尊徳に下記のような話が遺っています。

「朝夕に善を思ふといへども、善事を為さゞれば、善人と云ふべからざるは、昼夜に悪を思ふといへども、悪を為さゞれば、悪人と云ふべからざるが如し、故に人は、悟道治心の修行などに暇(いとま)を費さんよりは、小(せう)善事なりとも身に行ふを尊しとす、善心発(おこ)らば速かに是を事業に表(あらは)すべし、、、、故に我が道は実地実行を尊ぶ、夫れ世の中の事は実行にあらざれば、事はならざる物なればなり」

これは訳すと、いくら一日中、善いことをしようと思っても実際に善事をなさなければ善人といえないのは、一日中に悪を思っても悪をなさなければ、悪人ということができないようなものだ。 だから人は悟道や治心の修行などにいちいち時間を費やすよりは、小さな善事であっても身に行うことを尊いのだ。 善心をおこすときは速やかにこれを事業にあらわすがよい・・・ だから私の道は実地実行を尊ぶのだ。世の中の事は実行するのでなければ、事はならないものだからであるとあります。

そしてこれは信じて行動するというを言っているのがわかります。善いと思ったことは実行する、それができるのは信じるからです。実際に信じることができないから行動をすることができず、いつまでも思うばかりで何も変わっていきません。

その信じる行動を促すのは勇気です。善心があっても、勇気を出せない自分が情けなく、こんな生き方は嫌だと思い、思い切って行動してみればその行動の前と後では自分自身が変わっていることに気づきます。

人間は自分自身を創るのは、自分自身の一つ一つの行動です。その行動を変えていくためには、こうありたいという自分像に対して思い切って勇気を出して行動していくこと。心で感じたことを素直に行動していくことの繰り返しで、心と感情のバランスが調和していくように思います。

頭で無理に納得させようとしても、人間は心が納得しなければ行動を変えていくことはできません。心の納得は、頭で聞くのではなく心に聴かなければわかりません。自分を偽って自分を誤魔化していたらいつまでも心は開いていきません。初心を忘れてしまうと人はすぐに頭ばかり考えて行動ができなくなります。そういう時こそ、初心を思い出し自分の心が納得することへと勇気を出して舵を切っていくことで自分を創り上げることを味わえ楽しめるようにも思います。

自分のことを頭で決めつける前に、自分の初心が何かをよく思い出して自分自身の憧れる方、目指した方を信じることを応援していきたいものです。同じように信じて勇気を出している人たちのチカラになれるように自分自身、実践をしながら初心を積み重ねていきたいと思います。

 

全体快適

人間には我があり、我の強い人であればあるほど自己を中心にして物事を進めようとしてしまうものです。今の時代は競争社会の刷り込みもあり、能力を磨くことばかりに躍起になったり、他人よりも抜きんでることばかりに必死になったりして仲が悪くなっている人たちもたくさん見かけます。

能力があれば価値があり貢献でき、能力がなければ無価値であり意味がないという人もいます。しかしだからといって、能力ばかりで貢献しようと自分の能力を磨くことだけをやっていると、今度は能力がないことが役に立たないことだと思い込んでしまいます。そうすると、自分の能力が活かせるような環境に無理やり周りを変えようとしたり、自分の能力が証明されるような仕事ばかりを増やしてしまったりもします。そうやって能力だけを基準に自他を変えようとすればするほどに息苦しくなって関係が冷えていくものです。

本来は、能力がどうかではなく「みんなが喜ぶか」という基準にしてみるといいのです。それは有能ではなく、有用であることを優先するということです。みんなの役に立ちたいと願っている人は、能力があるないに関わらず役に立つことなら何でもやろうとします。それは言い換えるのなら、みんながどうしたら喜ぶかとみんなを活かそうとします。

この人はこうすればもっと活かされる、この人のいいところはどこかと、周りの長所を観るようになります。そしてどうすればこの人が喜ぶか、どうすればみんなが喜ぶかと全体快適を優先するのです。

私はこの全体快適こそが、本来の有用の価値のように思います。全体最適は能力のことで、全体快適が喜ぶかということです。

「みんなが喜ぶか」といつもみんなで取り組んでいる組織は、明るくなっていきます。人間は能力ばかりを磨いてもそれを使う人がいなければ意味がありません。確かに能力があれば発展しますがそれが仕合せにつながるとは限りません。しかしみんなが喜んでいるのであれば、みんなも仕合せ、そしてその中にある私もまた仕合せなのです。

我が強いというのは、どこかで競争刷り込みや能力刷り込みが深く根付いている可能性があります。もっと我が緩和されみんなとの仕合せが優先されるように、みんなが喜ぶかと生き方を転換してみてはどうでしょうか。

生き方の転換は、自分のことよりもみんなの仕合せ。みんなの仕合せは私の仕合せと、全体快適に生きていくことです。快適な環境や空間、場はそれだけで仕合せの循環を発生させていきます。自分が笑顔になるのもまたみんなが喜ぶからであり、皆が喜べばまた私も笑顔になるのです。

全体快適によって、大人たちの刷り込みを取り払えるように理念を定めて取り組んでいきたいと思います。

創意工夫の智慧

先日、人吉にある伝統の鋸鍛冶師とお話する機会がありました。今回は会社のクルーも一緒に連れていっていたので、いろいろと見学や説明をお願いしてお話いただきました。

お話が終わってあるクルーに感想を聴くと、「本当に好きなのが伝わってきた、この仕事が楽しく誇りがあるとわかりました」とありました。私はここに善い仕事の秘訣があるのではないかと感じます。

仕事の質というものを考えるとき、いろいろと言う人がいますが「好きであること、楽しいこと、誇りがあること」は何よりも重要な基準であると私は思います。もちろん客観的にその正確さや完成度なども評価の基準になるかもしれませんが、それは大量生産の機械やロボットでも実現できるものです。

心を籠めた仕事は、その心を籠めた人の熱量が入っています。その熱量は有形無形に関わらず心がその質を持っています。古語に好きこそものの上手なれがありますが、好きな人はなんでも楽しんでそのものを深めていきます。そして楽しんで深めてきたものには次第に誇りが着いてきます。この時の誇りとは、尊敬であり、感動であり、感謝であり、心の機微が入ってくるのです。

先日、ある保育園の研修でも私は「保育の質とは何か、それは楽しんで保育をすることです」を話をしました。このなんでも楽しむという能力こそ、本来の能力の本質であり、決してできるかできないかという能力刷り込みのものではありません。

人は自利に走れば、競争ばかりし自分のことばかりを何とかしようと頑張ります。しかし利他にいけば、もっと楽しくできるか、もっと面白くできないかと、協働しながらみんなことを考えて自然体になっていきます。つまりはみんなが喜び自分が喜び、みんなが仕合せになることを目指している生き方をしている人はなんでも楽しくなってしまうのです。

自分が喜ぶかというのは、「好きなことにしているか、楽しいことにしているか、誇りをもって取り組んでいるか」というチェックをすれば観えてきます。いい仕事ができて仕合せだと感じている人は、いつも好循環の輪によって相乗効果を発揮して周囲の人たちの発展に貢献していくことができるように思います。

好きで居続ける力というのは、楽しくし続ける力、そして誇りを持ち続ける力になるのです。

子どもたちが憧れる保育や働き方は、やっぱり自分自身が好きで楽しく明るく清らかに、そして素直に謙虚に感謝感動、誇りと共に歩んでいくときに発揮されていきます。どんな困難も試練も苦難も、「創意工夫の智慧」に転換して遣り切っていけば悔いのないご縁に結ばれるようにも思います。

生き方の転換はご縁との出会いが切っ掛けになりますから、自分自身が楽しく豊かに誇りをもって歩み続けていきたいと思います。

行動を変える、自分を変える、場を醸成する

昨日のニュースの記事で、本田圭佑さんが「一日の質に革命が起こる10の行動規範」というバチューカという組織のグループ理念を紹介されていました。何を意識して一日を過ごすのか、自分自身をどのように活かすのか、人間は協働する生き物ですからこのように理念があるからこそ、一人ひとり方向性やベクトルを合わせて協力できるように思います。

ここの理念には参考になるものが多いのでご紹介すると、

1 他の誰からも支配を受けないこと
2 オープンで素直であること
3 自分の言葉と行動に責任を持つこと
4 悪いルールは壊し、より良いルールを創ること
5 自分に厳しく、人に必要とされる長所を磨き続けること
6 与え続けるためには勝ち続けること
7 人が本当に困っているときは、損得を考えずに助けること
8 何事においても理想を追求することを諦めないこと
9 常に謙虚に常に挑戦者であること
10 人を喜ばせるでは足りない。感動させること

とあります。自分の持ち味や個性を発揮するための項目が並んでいることがすぐに読み取れます。この逆をすれば、持ち味や個性が活かせずにチームやグループに貢献できないということを言及しているとも言えます。

例えば、いつも誰かの評価を気にしては心を閉じて話を聴かず、他人に合わせるばかりで無責任で悪いルールのままで変わらず、自分に甘く短所ばかりを直そうとして自分も仕事にも負け続ける。そして誰かが大変でも保身に走り、理想を諦めて挑戦をしない。人を喜ばせるために何も与えず無関心であるという具合でしょうか。

ここのグループ理念で大変興味深いのは、「利他」であること、「謙虚」であることが並べられているということです。もっとも発展繁栄する法則は世界共通であり、そこには法理や真理があります。これを妨げるのは自利であり傲慢であることです。人間は自分のことだけを考えると保身から我が強くなり、利他になるとき全体の仕合せの一部になります。

このようにどのような人が自滅破滅し、どのような人が貢献共生するかは古今東西の違いを超えて確かに存在しているのです。一日の質を考えるとき、どのようなチェックリストをもって自分を省みるか、それによって一日が変わり人生が変わり、自分が変わるのです。

自分を変えるというのは、自分の行動を変えるということです。

どんな一日の行動をしたかの連続で人生は創造されていきますから、利他であること謙虚であることは自分を活かすために欠かせない努力になります。

引き続き、理念の大切さ行動規範の重要性を伝道しながら子どもたちが安心して暮らしていける場を醸成していきたいと思います。