徳の次元を生きる人たち

「天の蔵に徳を積む」という言葉があります。今の時代は、あまりこの言葉は使われなくなって知らない人も増えてきているように思います。蔵という言葉も、蔵自体がなくなっていますし、天の蔵といえばまたイメージがしにくいのかもしれません。

蔵とは大事なものをしまこんでおくところをいいます、そして天の蔵というのは自分の大切にしているものをこの世ではないところにしまいこんでおく場所のことです。

ここでのこの世というのは、現実の自分がいる世界のことです。あの世というのは、自分の先祖や今までのご縁やつながりで存在している別の次元の世界のことです。シンプルにいえば、生まれる前からあり死んだ後もある世界のことです。

科学が進めば進むほど、私たちはこの世とあの世の境界線に近づいていきます。その時、人類にははっきりとあの世の存在の偉大さに気づきなおします。気づいたときに、何を最初に悟るか。それはこの「天の蔵に徳を積む」ことの重要さに出会うことだと思います。

私たちは、目に見える世界と、目には観えない世界が存在します。目には観えないところであらゆるものがつながっていき、目に見える世界で形になっていきます。その逆に、目に見えるところを形にしていくことで目には観えない世界が結実していきます。

この両方の間にあるものを可視化したものが一つの「徳」というものです。この徳を直観し、その徳を積んでいく。言い換えるのなら、磨いていくことで天の蔵にその大切なものをしまいこんでいくことができるのです。

このしまい込んでいくというのは、記憶していく、記録していくということです。それが残ってあらゆるものと和合してご縁が結ばれまた新しい物語を産み続けます。因果応報という言葉もありますが、功徳や善行を積めば、それが長い時間をかけて結実し子孫だけでなく、自分の魂をも磨いて純粋に美しくしていくことができるのです。

幸田露伴が、かつて幸福三説の「惜福」でこう述べます。

『「惜福」とは、自らに与えられた福を、取り尽くし、使い尽くしてしまわずに、天に預けておく、ということ。その心掛けが、再度運にめぐり合う確率を高くする。露伴は「幸福に遇う人を観ると、多くは「惜福」の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。福を取り尽くしてしまわぬが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬが惜福である。惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、面白い世間の現象である』

これが「天の蔵に徳を積む」ことです。

どうやったら陰徳を積めるか、どうやったら天の蔵にしまい込んでいけるのか。これを知っている人こそ、この惜福の工夫をする人であり、この世で幸福を実践している人ということになります。

私たちは目に見える世界で、競争し対立し、その中で迷い自分を見失うことも増えています。しかし、天の蔵に徳を積む人たちは迷いも少なくこの世での自分の使命を知り、魂を磨き続けていくことに余念がありません。

日々の暮らしの中で、私たちはこの「徳」に触れる機会が何度もあります。大切なのはその「徳」に気づくことであり、その「徳」を磨いていくことです。そうしていけば、天の蔵からその徳を引き出しその徳がこの世に真の豊かさや仕合せを結んでいくように思います。

私たちの意識は、いろいろな次元をもっています。この「徳の次元を生きる人たち」は、これからの新しい時代の先導者たちになるはずです。子どもたちの未来のためにも、私は私の道を迷いながらも徳を意識して道を歩んでいきたいと思います。