本懐に向かう

面白いことをしている人の周りには面白い人が集まってきます。価値は価値を呼び、その価値がその人のスケールになっていくからです。類は友を呼ぶともいいますが、人脈を聴くと大体、近い人たちのコミュニティは繋がっています。

たとえば、私はジャンル分けしにくいタイプのようで周りが何の人かということを一言で語れるものがありません。変な人とか、ユニークな人とか、発明家とか、いう人もいますが実際には名前でしか呼ばれません。何屋さんかわからないといのは、会社の時から言われていましたが目的がはっきりとある人は手段は何でも使うので結果的にそうなってしまうのでしょう。

一般的には、職業によって分類わけされてこの人はこの職業の人と呼ばれます。しかし話をよく聴いてみればその職業はみんな手段です。その手段を見てその人のイメージを思い込んでも、実際には本質とは異なることがほとんどです。

なので大切なのは、話を聴いてみることです。それも深く目的や本質を確認することです。そうやって人を見直してみると、自分と同じ志の人が周りに集まっていることに気づきます。それぞれに手段は異なりますが、目指しているものが似ているのです。似ているから、一緒にやっていて楽しいし、協力し合うことで心が喜び合うのです。

もちろん人格的に魅力のある人と一緒にいることも素晴らしいことですが、意見が異なってもその人なりのやり方で同じような目的に達しようとしている人の話はとても参考になるものです。

維新の志士たちも、坂本龍馬のようにいろいろな意見を集めて船中八策を提言したように手段を集めれば目的に達する方法を発見することもできるのです。

私も今、手段を変えて創意工夫をしながら目的に達しようと目標を定めていますが大事なのはその表面には観えない同志との組み合わせの妙を活用していくことに注力しています。

御縁というのは一期一会です。

何がどれにつながるのかは、この後次第にわかってきますがこの時代のこの一コマのこの一瞬に面白い結びつきが発生していくのを実感するのは生きる喜びです。子どもたちのために本懐に向かっていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

真の教育者

宇宙の星々の中に優劣というものはありません。その光にもまた光り方があり、それぞれに特有の徳を備えた光があるものです。私たちが夜空をみるとき、夜空に特別に明るい星があったとしてもその星が一番ではありません。つまり星々に一番はないのです。

これは地球上の植物でも同様です。当たり前のことですが、いのちはそれぞれに花が咲きます。その花はどれもが徳性がありどれもが独自の魅力で輝いています。それを一つのかたちで決めて、それに他を合わせようとすることは本来の姿ではないのです。

私たち人類は人口が80億人を超えています。同じ顔が一つもないように、同じ指紋がないように私たちはそれぞれに別々のものをもっています。これを時代を遡れば、さらに大勢いの人々がそれぞれの徳性を輝かせていたことがわかります。

それぞれのいのちにはそれぞれの役割があります。その役割を一つしかないと思うところに問題があり、差別が発生します。生まれてきた以上、必ずなんらかの役割をもっていて役割がないものは一つとしても存在しないのです。

他と比べては、他と役割を奪い合うような環境になっていますが本来はもっと自分の徳性に集中し自らを光らせていくことに注力していく方がいいのです。

教育というものは、本来は可能性を引き出す行為であることは普遍的なことです。それぞれの徳性をもっと引き出させる。そうやってそのものの徳性が一番になってしまえば役割はその中に存在します。

みんなその徳性で誰かに喜んでもらいたい、みんなが仕合せになってほしいと光るのです。その理由は、自らの光そのものが喜びになり、その喜びがあふれ出てみんなの喜びになるからです。

この世の中というのは、そうやってみんなで仕合せを享受し合える天国もあります。それぞれが自分自身を知り、自分自身で生きられるように可能性をつぶさずに可能性を信じてあげる存在こそ真の教育者でしょう。

子どもたちの未来のためにも、自分自身が固定概念を毀し、新しい価値を創造していけるように精進していきたいと思います。

両輪

コロナウイルスが出てからほとんど田舎のようなところで暮らしていますが久しぶりに都会にいくと人の多さに驚きます。20年近く都心で生活して福岡と二拠点で往来していましたがこんなに長く東京に行かなかったことははじめてです。

思い返すと子どもの頃、人の多いところにいるのは疲れていました。大人になり都会に住めば気にならなくなっていましたが、久しぶりに都会の人混みの中にいるとどっと疲れます。

何が疲れるのかと思うと、もちろん視界に入ってくる情報が多すぎて気になることもありますが様々な音や匂いや物体に五感が反応し過ぎて疲れたのがわかります。

田舎の自然の中で過ごしていると、五感が鋭敏になっていきます。都会は便利ですから、五感を使うよりも便利なものに委ねていくことで適応していきます。脳がある程度まで対応できれば、脳の反応だけで事足ります。

バーチャルリアリティの技術が進化していくのも、都会での生活がベースになっていることがわかります。現実と理想の間で、人類はあらゆることを分類わけして切り取って住み分けていきます。

とはいえ、田舎でも私たちは便利な道具を用いて自然と分離させていきます。

例えば私がこの書いているブログの部屋も、外の自然と窓ガラスを隔てて分けています。窓を開ければ寒い空気が入ってきます。窓が閉まっているから自然を眺めながらも寒さはありません。頭では寒いのだろうとわかっていても、身体は寒さを感じていません。香りも音もあまり入ってきませんし、雨も風も入ってこないので五感のアンテナはその感覚を拾おうとはしていません。

自然というのは、全身全霊で感受するものです。

そうして自然の持つ様々な気配を動植物たちは分かち合い共に生きています。いのちは自然を受け容れる器があります。いのちのままであることは偉大なことです。そして人間は愛があります。思いやりや真心で人間のあらゆる行いを受け容れる偉大な愛を持っているともいえます。

このいのちと愛のことは、そろそろ付き合いを決めた方がよさそうな時機に入ってきました。

新しい価値と普遍的な価値の学び、その両輪をまわしてみたいと思います。

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

答えは初心

人生を歩んでいると、大事な局面で大切なことを教えてくださる人と出会います。もちろん人だけではないのですが、人づてで私たちはアドバイスをいただき人生を好転させていくことができます。それを人の運ともいいます。私の人生を振り返ると、本当に善い人に巡り会ってきました。その御蔭様で今の自分があります。

感謝の心というものは、この一期一会の出会いの美しさやすばらしさを感じるときにこそ磨かれるようにも思います。

私たちは生きている中で、傲慢になりやすくすぐに初心を忘れてしまいます。毎日、お手入れをしていても埃や塵が積もっていくように謙虚さから遠ざかります。そんな時、貴重な意見や真心で整える機会を得られることはとても有難いことです。

昨日も、ある方とのお話の中で「神さまを喜ばせる」ということを思い出しました。

日本人は元々、世界の宗教と同じように祈願をしますがそれよりもずっと前に「喜ばせる」という素直で明るい清らかな心を持っているように思います。例えば、神社でも舞を奉納し、みんなで直会をし、行事をし、そこには和があり、笑いがあり、結びがありました。

日本人はもともと調和を尊び、日々に穢れていくものを祓い清らかでいよう、そしてみんなで喜び合う明るい民族です。まさに清く明るく楽しく生きていこうと初心をもっている民族だと感じます。そこに伝統や歴史が重なり、自然から学び共生し合う美しさや本質を極める精神、そして善きことを実践して精進して徳を積んできたように思います。

私は一体、何を甦生させようとしているのかを思い返すとこの初心を思い出します。

人生の中ではたくさんの手段があり、その手段探しや実現するために日々に追われますが本来は初心を遂げるためにその手段があるだけです。

自分自身がどうあるか。

原点回帰すると、周りに答えはなく自分自身の生き方の中にこそ答えがありその答えをただ真剣に生き切ることで答えを生きることができます。答えは初心なのです。

子どもたちのためにも初心を忘れずに、丁寧に自分自身を生き切っていきたいと思います。

種

人の一生には自然と同様に四季があるといいます。これは吉田松陰の遺書「留魂録」の中であり大河ドラマでも現代語で分かりやすいようにして紹介されました。そこにはこうあります。

「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄える。ひとにも同じように四季があります。ひとの命とは歳月の長さではない。それぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。私は30歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。どうか一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」

これは人の寿命のことです。50歳で亡くなる人、10歳で亡くなる人、90歳で亡くなる人、20歳で亡くなる人がいます。そのどの人にも寿命があり、そこには春夏秋冬という人生のめぐりがあるというのです。

そして松陰は、人生で大切なの寿命の長さでないというのです。例えば、100歳まで生きている人がよくて10歳で亡くなる人はよくないではないというのです。通常は短い人生でと嘆きたくなります。吉田松陰も数え30歳で亡くなっています。しかしその中でも人生の循環があったといい、魂は春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄えることをやったというのです。そして収穫をして次の春の種となったというのです。

これはどういう意味か、それぞれに解釈はあると思います。

私は、もともと魂というものはこの世に身体を借りて顕現しているという見方を持っています。私たちは身体を借りて生活することで様々な体験を通して魂を磨いて光らせていきます。目的があるのではなく、まさにこの四時ノ循環をしている途上ということです。

その中で、一つの実をつけては次の種になっていく。繰り返し何千年も何万年も前から私たちはそのいのちのめぐりの繰り返しを続けて今に存在しています。これは普遍的な事実であり、農に関わる人なら種まきをして収穫をしまた種まきをすることを毎年繰り返しているのがわかります。

この世に生まれ出でてもっとも重要なのはそれを体験して全うすることだと私は思うのです。

しかしその周囲に生きる人は、その人ともっと長く過ごしたかったし別れがとても辛く寂しく感じます。その人が種として未来にまた次の場所で収穫をするのがわかっていても、目の前からいなくなる喪失感は大きいからです。

残されたものはその人の分まで、その人がやりたかったことを継いでいくことでその人と一緒にこの世にいる感覚を得られます。自分自身の与えられた天命や物語が続いているならまだ私たちも四時ノ循環の最中であり途上です。

その種を蒔くのは私たち残されたものです。

その人の分までよりよく生きて、自分も次の種になれますようにと祈りながら歩んでいきたいと思います。心からご冥福をお祈りしています。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。

 

人類のアップデート

先日、宗像国際環境会議で「暮らしフルネス」の話をしてきました。この暮らしは、決して現代の便利な生活をさらに便利にしようとするものではありません。むしろ多少の不便さを快適に味わいながら、本質的な発展をしていこうとするものでもあります。

例えば、資源がなくなっていくことがわかっていて資源を貪りつくせば遂には砂漠のような国土になって人も生き物も住めないようなところに変わり果ててしまいます。それが分かっていてもやめられないとするのは豊かなことではありません。むしろ貧しさの極致です。

豊かさというものは、そもそも持続可能なものであり消失せずに循環をし続けるものです。

先ほどの資源の話であれば、その資源はそもそも人間だけ、自分だけのものではありません。みんなで借りて使っているものです。それは自分の身体もまた同様です。そういう借りているものだから、前よりも善いものにして返していこうとするのが循環であり豊かなことです。

そう考えてみるとむかしの人が目を付けたのはいつまでも長持ちする素材、すぐに再生して繁茂する素材、自然に負荷をかけない素材だったのは安易に想像できます。それは竹であったり、蔓であったり、土や石などです。

本来の人類の進化というものは、単にテクノロジーだけを極めることではありません。真善美といった、人間が持つ神秘的なセンスを磨き上げてその感性で気づいた全人格的な徳を使いそのあとにテクノロジーと調和していくことにあると私は思います。

私が懐かしいものと新しいものを和合していこうとするのもその思想から取り組んでいるものです。

気候変動も待ったなしで環境が激変していくこの世界で真に必要なのは、徳であり、その徳を世界と共有することだと私は感じています。子どもたちのためにも、自分の役割を理解し、実践を全うしていきたいと思います。