お手入れの思想

現実というものを直視できるというのは素直であることでより磨かれていくように思います。きっとこうだろうと決めつけるのではなく、きっと自分に何かわからないことがあったのだろうと聴く心を持っている方が素直になっていくからです。

この素直の力というものは、思い込みを外す力であるように私は思います。

人は何かの考えに縛られ執着をすると、その考えに固執してしまいます。すると、この固執した考えが邪魔をして現実を隠したい歪めたりしていくものです。これを価値観という言い方もしますが、その価値観を転換する方法は私は「聴く」ことであると信じています。

少し詳しく説明すると、人間は素直に聴くことができるのなら物事はすべて福に転じていくことができます。古い諺にある「禍転じて福になる」のです。

つまり聴くことで福になる、そして本来、人とはそういう存在である。

これを私は「聴福人」(ききふくじん)と名付けています。これは七福神(しちふくじん)に因んでそう呼んでいます。私は人生でこの聴福人の誓いを立てて、その人物を育てるために一円対話(いちえんたいわ)という方法を編み出しました。これは、二宮尊徳の一円観(いちえんかん)から命名したものです。

一円観は、善や悪など世の中のありとあらゆる対立するものをひとつの円の中に入れて観るというものの見方です。シンプルに言えば、もともとこの世は表裏一体。自分の思い込みが相手をそうさせ、自分の決めつけがその反対を生み出すということです。そもそもが混然一体になった丸ごと一つの団子のようなものだと思えば対比することもなく、素直に物事を観ることができるということです。

つまり許すとか許さないとか、正しいとか間違っているとか、いちいち対比して比較して物事を観るのではなくあるがままで丸ごと観るということ。素直に現実を観るということです。

人は何かを考えるとき、自分にとってどうか、相手にとってどうかと縛られます。これが価値観を持っているということです。その価値観を転換するというのは、その自他を最初から一体にしてしまうこと。しかしこれを文字で書いても、やっぱりまた我が入り対比してしまうでしょう。だからみんなわからないで苦しむのです。

なので実践してみて私が気づいた境地は「聴く」ことが解決するうえで王道であり智慧だと私は思うのです。この聴くは、頭で聞くのとは違います。耳に徳の字が合わさった文字です。つまり心の耳、心のすべてで傾聴するということです。

例えば実践となると、「きっと何か自分にもわからないような重要な理由があるのだろうやきっと何か大事な意味があるのだろう」と自分から決めつけないための努力をしているのに似ています。刷り込まれないように眼鏡を吹き続けたり、心を清めつづけていくのです。

日々の塵や埃のように、何もしなければそれは溜まっていきます。掃除をして綺麗にして磨いていないとすぐに汚れていきます。汚れたままでは、元の状態もわかりません。なので、暮らしをととのえて磨く必要があると私は思うのです。

私が暮らしだというのは、これは日々の実践でしか解決するしかないと確信しているからです。いくらいい人や聖人、周囲から偉人と呼ばれている人であってもそんな称号があっても何の解決もしません。どんな人でも、それば仏陀でも孔子でもキリストでも地球に住んで肉体を持っている以上、お手入れし続けているのです。

それが修行ということでしょう。

この世に生まれてきて最期の日を迎えるその日まで、私たちは自分で穢れを祓い清めて洗い流してお手入れしていくのが生きる醍醐味です。私が取り組むお手入れの思想、暮らしフルネスの実践を皆さんにお話しする機会に恵まれたことに感謝しています。

好奇心の爆発

今朝、ニュースで今年のノーベル物理学賞の受賞者に日本人の真鍋叔郎さんが選ばれたとありました。日本人がノーベル賞を受賞するのはアメリカ国籍を取得した人を含めて28人目になり物理学賞では12人目になるといいます。

この真鍋さんは愛媛県四国中央市の出身で、東京大学で博士課程を修了後、アメリカの海洋大気局で研究を行ったあと大気と海洋を結合した物質の循環モデルを提唱し、二酸化炭素が気候に与える影響を世界に先駆けて明らかされたといいます。

気候温暖化は、決して単なる偶然ではなく、二酸化炭素濃度の上昇が関係しておりこれは人為でそうなったと科学的に証明されたということが大きな成果であるとも感じます。

現在、気候変動が日増しに激しくなり地球全体で大きな自然災害が増えてきています。南極の氷もとけ、海洋の流れも変わり、地上も干ばつが続き、新たな感染症も増えてきています。

その原因となるものを科学的に証明することは重要で、今の時代のように可視化されたものを信じる時代においては人々の関心や取り組みを変える大きな一端になると思います。

ちょうど真鍋氏のインタビューがあってそこに大切なメッセージがありましたので紹介します。

「やはりこの研究がもとは好奇心からスタートした。だから、今の日本でも世界でも、はやりの研究テーマでコンピューターを使って結果を出すという形でやっているが、本当におもしろい研究は好奇心から出た研究が大事だ。日本の若い人たちも好奇心ばかりで研究をしていたのでは研究費が出てこないかもしれないが、そこのバランスを上手に考えてやらないと、時代の流行に流されておもしろい研究は絶対にできない。そういうところに焦点を置いてやることが重要だ」

研究費がどうかではなく、やはり好奇心が先であること。おもしろいん研究は時代の流行とかに流されてはいけないと。自分が面白いと思うこと、まずはその好奇心を優先することではないかと私も感じました。

確かに現代は、この世界の仕組みの構造上、理屈や正論、世の中の流行や時代にとってのメリットや安定などをそれなりに並べて何かをしようとすることが増えているように思います。

しかし本当にやり遂げられるような大事なことは、自分を信じて自分の好奇心を大切にしていくことのように思います。好奇心を持ち続けていけば、それは損得抜きで面白いことに没頭でき、その成果として前人未到の境地を得られ個性を発揮することができます。バランスが大事ともありますが、まずは好奇心をもって取り組み、そこから後を調整するくらいの方が矛盾を内包でき両義性を保てていいのかもしれません。

なんとなく日本の閉塞感のある受験勉強ばかりの様相の中で、子どもたちや若い好奇心を持つ人たちを元気になるためのお手本になるようなノーベル賞になったようにも私は感じました。私も子どもたちが憧れるような世界に向けて、その一つのモデルになれるよう好奇心を爆発させていきたいと思います。

 

保育の豊かさ

人が一生のなかで巡りあう出会いやご縁というものは自分が蒔いているものです。この自分というものは、意識、無意識に関わらず自分が由あって結ばれているものです。

私たちは不思議ですが、そのように結ばれている「場」を創造しながら今を歩んでいく存在ということです。この今というものは、この今の選択にすべて帰命しています。

今何を感じているか、今何を選択したか、この小さくて偉大な今の全てが種になってそれを自分が蒔いているのです。自分自身が何を思ったか。その思ったことでさえ、それが種になりそれを蒔いています。

その種から芽が出てやがて実をつけます。その元の種が初心が澄んでいるものならばどんな環境下においても蓮の花のように美しく清らかです。人はみんな目的や初心を大切にして今を生き切れば、それなりの種になっていきます。

そしてその種もまた、今まで他の人たちが蒔いた種。もっと突き詰めれば、先人たちが蒔いた種が自分に宿っているともいえます。自分自身の中には、その初心というものをもった自分。そして時間を経て様々な体験を通して適応してきた自分があります。その自分が今此処で見事に調和して種になっているともいえます。

私は毎年、固定種の伝統高菜の種を蒔いて育てていますが毎年その生育は紆余曲折あります。一喜一憂は常に絶えず、悲喜こもごもに様々な体験をその季節ごとに味わっています。

そんな中でもまた種になり季節を巡り続けます。苦しい時には苦しみを乗り越えた花が咲き涙し、うれしい時には喜びを味わった花が咲きます。畢竟、私たちの本体は「種」であるのは間違いありません。

この種を一生をかけてどう育てていくか。そこに人間の一生の醍醐味があるように私は思います。

子どもたちはその種が繋がり結ばれた存在です。前の世代、そのずっと前の世代から連綿と種を蒔き続けて今があります。どんな種もまた見事な一生を送ります。その一生を見守る存在が環境ということになります。

どのような環境を見守っていくか。自分が見守られてきたように見守っていくことが種を育てていくことです。子どもたちのためにも、みんなでその保育の豊かさを味わっていきたいと思います。

衣食住の問題

私たち人間が生きていくのに欠かせないものは衣食住だといわれています。確かに、むかしに思いを馳せてみると衣服がないというのは人間にとって大変なことです。寒い冬を乗り越えられず、暑い日差しを遮るものがありません。何とか衣服を産み出していくことで私たちは生活を維持していくことができたのではないかとも思います。

そして食は歴史を見れば明らかで飢饉が来れば食べるものもなく、飢餓で苦しい時代ばかりであったことがわかります。そして家がなければ風雨を凌げず、安心して家族を養っていくこともできません。かつての衣食住とはまさに死と隣り合わせにあったものです。

しかし現代の衣食住はどうなっているかと洞察すると人間にとってその衣食住の意味が変わってきているのがすぐにわかります。日本の衣服の廃棄量は100万トンを超えていて、個々の箪笥の中は着なくなった衣服だらけなのにそれでもつくり続けています。そして食は日本だけで毎年600万トン以上食べきれずに廃棄しています。そして家は850万戸以上の空き家が出ているにも関わらず新築を建て続けています。

衣食住が余りすぎて廃棄する状態になっている中で、生きていく上で必要な衣食住などという問題はなくなっているように思います。ある意味、人間は今まで時代的に困難であったものを大量生産の仕組みと科学技術によってそれを一時的に解決したように思えます。

しかし少し考えてみたらわかりますが、永遠にその材料が取れるわけでもなく一気にある分を取り切ってしまうのですからこの後は材料がなくなります。すると、今までのような自然由来の素材を使ったものを産み出すことはできなくなります。

人工的なものを使って産み出す場合の問題は、自然界に循環しなくなるということです。すると衣食住は、科学技術によって不自然なものが大量に開発されていきます。それによって衣食住の新たな問題は解決するように見えますが、それは今まで豊かであった自然の優しさや柔らかさ、美しさや尊さのようなものが失われたものになっていくように思います。

衣服は、まるで宇宙人の着ているようなものになり、食はゼリー状やカプセル、そして家は無機質で見た目だけカラフルな空間。これが近未来ということでしょう。それは本当に豊かで憧れるのだろうかということです。

実際に人類は、滅びの方へと向かうたびに科学技術が発展していくようにも感じています。これは逆説的な考え方ですが、本来の平和な状態とは限りなく自然に近いところにあります。美しく自然豊かなところで、みんなで分け合いこの地球での生活を楽しむ、そこには厳しい自然もありますがそれよりもこの世で生きている豊かさが優先されていました。

それがまるで病院のベッドの植物人間のようになりながら単に生きながらえるとなれば誰も望んでいません。科学技術は本来、どうあるべきか。私は伝統と最先端のテクノロジーを和合する生き方を目指していますからこの衣食住の問題も避けて通るわけにはいきません。

先人たちはどうやって衣食住をテクノロジーで調和させたか。それは藍染や発酵食品、藁ぶきの民家などありとあらゆるところに参考になるものがまだ残っています。一つ一つを意味付けしながら、子どもたちに確かなものを伝承していきたいと思います。

味噌汁~時の味わい~

昨日は、久しぶりに味噌づくりの体験のお手伝いをする機会がありました。思い返せば、最初に味噌を自作したのはもう15年以上前だったようにも思います。子どもたちと一緒に熱々の大豆を手ですり潰していく作業が思い出に残っています。

大豆を育てるのも一苦労で、簡単そうで大量となるとなかなか育ちません。育たない理由は大豆になる前の枝豆が美味しすぎてそこで収穫したり人に配ったりしてしまうこともありますが。

昔の人たちは味噌をつくるために、大豆もたくさん育てていたのだろうと思うと懐かしいものを感じます。そのすり潰した大豆に麹菌を混ぜて塩を足し発酵させていくと味噌になりますがこの変化を楽しむこともまた味噌の醍醐味です。

私は発酵は木樽にこだわっています。その理由は、木樽は呼吸をしていて水分量を調整してくれます。プラスチックだと水分の調整が難しく、水がうまく抜けません。適正水分を保つというのは、どの生き物においても重要なことです。私たちのいのちは水でできていますから、この水との調和がいのちを適切に育むからです。

水と塩、まさに海ですが地球を保つ仕組みと私たちの身体や食物のいのちもまた同じ仕組みで構成されているのです。

そしてこの発酵というものは、まさに代々を継いで円熟していく「時の美味しさ」というものが入っています。味付けというのは単にその時の組み合わせだけではなく、それまでかけてきた時間や歴史も味になっているのです。

特にこの「味噌汁」は、日本人は1200年くらい前から私たちのいのちの健康を支えてきた食べ物です。私たちが味噌汁を食べるとき、それは単に組み合わせの美味しさだけではなくこの時の美味しさも感じています。懐かし味の代表はこの味噌汁でもあるのです。

保存に適し、麹菌をベースにあらゆる腸内細菌との調和をはかり食べ物をうまく包み込み美味しく仕上げていく。少し大げさかもしれませんが味噌汁の御蔭で私たち日本人は、この高温多湿の風土の中でも健やかに暮らしを営んでいくことができてきたように思います。

昨日は手作りの真心籠った味噌汁に竈と備長炭で炊いた自家製の無肥料無農薬の玄米ご飯に野菜の味噌漬物の一汁一菜を、子どもたちも一緒に懐かしい藁ぶきの百姓古民家で深く味わいました。本当に日本人に生まれてきてよかったと思う瞬間の一つです。

時を感じるというのは、自分たちが「ここで生まれてきて善かったと感じる瞬間を味わっている」ということでしょう。できれば、未来までずっとこの瞬間が子どもたちに伝承していけるように私のやるべきことをやり遂げてこの世を去りたいと思います。

貴重な一期一会の時間をありがとうございました。

場を守る意味と価値

その土地にはその土地特有の歴史があります。それは言い換えれば、その土地で発生してきたご縁と物語があるということです。私たちは、今いるところが前なんだったのかは想像でしかわかりません。もしも遺跡などが遺っていたら、なんとか想像できますが痕跡もないような状態の場所になれば想像することもありません。

例えば、ある場所では祭壇があってずっと祈りの場であったところがあったり、また或いは戦争でたくさんの人がそこで亡くなっていたり、それは何百年も経てば更地になっていたり土に埋もっていたりしますから今、そこにいても目には見えませんからわからないのです。

しかし、その土地には必ず何らかのご縁や物語があり消えているようで消えずにそのままその土地に紐づいて記憶として遺っているように私は思うのです。

それをふとした時に実感することがあります。

それは懐かしいと感じる場所であったり、なぜか身震いするような嫌な気配があったり、そこに来ると祈りや癒しの空気に包まれ眠くなってきたり、それはその土地、その場所特有の何かが働きかけているからだと私は思います。

まもなく量子力学など、他にも場を科学的に分析して可視化できる技術も整ってくれば、これらの土地や場所には何かが存在したままにあることが解明されるように思います。

むかしの人たちは、そこに存在しているご縁や物語を感受し感知することができたからこそそこにお社を建て、お祀りすることをしてきました。また権現といって、神様が顕現されているということを人々に可視化できるようにしていました。

私たちは知らず知らずのうちに、その場所の歴史と紐づき、その影響を受けているのです。だからこそ、私たちは「場」を整え、大切に甦生し続けていく使命があります。

私は甦生に取り組みますが、場所との出会いは歴史との出会いでもあります。どう古代、いやもっと前、何千年、何億年も前から続いてきた偉大な何かとアクセスし、その力やご縁を結んでいく。すると、そこに引き寄せられるように人々もまたふれあい、物語をつないでいくのです。

宗教的だとか哲学的だとか、もしくは変人だといわれるような架空仮想な話のようではありますが、確かにその場所には私たちが目には見えない物語が連綿と生き続けているということです。

子どもたちにも、場を守ることの意味とその価値を伝承していきたいと思います。

真に尊重し合う世の中へ

昨日、結果平等や結果公平の話が会議の中でありました。もともとこの平等や公平性などは誰かによって押し付けるものではあってはいけません。なぜならこの平等や公平性は、あくまで「受け手」がそれを感じるかどうかが重要だからです。

例えば、食料で平等といって同じものを与えることや、公平といって分配するということをやったにします。しかし個々人には好き嫌いもあるし、それに体の大きさ、病気の有無、アレルギーなどもあります。与え手がいくら同じものを同じ量与えたとしても受け手がそれを必要としない、もしくは何らかの理由で欲していない場合はその平等や公平は成立していないからです。

お互いの尊重し合う社会というのは、相手の意見をよく聴いて尊重してお互いに配慮し合う中で実現していきます。それはどんなに小さな意見でも一理あると傾聴し、またどんなに弱い立場の人の話でもそれも一理あると大切にしていくところに存在していくのです。

先ほどの平等や公平性を考えて一方的に押し付けるというのは、まさにやっていることの本質としては不平等や不公平を一方的に押し付けたということになっています。多様な意見や状況を尊重しようとしていないところにすでに不平等も不公平もあるのです。人間は正論だけでは解決できないことはあるのは当然です。なぜならこの世の中に正しいということはないからです。同時に間違っているということもありません。それが自然界であり、宇宙の道理です。

だから私たちはどんなことにも配慮し、尊重し合うことで調和しこの世で持続可能ないのちの循環をみんなで分け合い助け合いながら暮らしていけるようになったのです。それを人間の一方的な押し付けで、正論を掲げ、人類の中でしか通じないルールを押し付け、一方的に不平等や不公平を広げていくのは単に誰かだけによって独裁する世の中に仕上げていくだけのように私は思います。

独裁の中では本当の意味で自立や協力し合うような自立分散の平等や公平の世の中になることはありません。私たちは、平和を持続させていくためにも各々が尊重し合う世の中を目指していく必要があります。

私がブロックチェーンのテクノロジーにこだわりそれを昇華させて徳を積むというような実証実験に取り組むのもその原点はこのいのちのありのままの姿を可視化して気づきを与えるキッカケを創ろうとする実験でもあるのです。

子どもたちには、見守る保育のようにお互いに尊重し合いながら助け合う環境の中で本来の人間社会の在り方、自然との共生や貢献を学び合ってほしいと願います。引き続き、自分のやるべき使命に没頭していきたいと思います。

生き方の伝承~名前の変化~

現在の日本では名前を変えるということはありません。親が名付けた名前をそのまま一生名乗ります。しかしこれは明治以降になってからで日本の文化では一生のうちに何度も名前を変えたことがわかっています。

例えば、有名なものに戦国武将や貴族などがあります。豊臣秀吉などは、日吉丸⇒木下藤吉郎⇒羽柴秀吉⇒藤原秀吉⇒豊臣秀吉な具合に名前を変えています。厳密にはもっと細かく改名したそうですが出世魚のように自分の成長に合わせて変化しています。

伊達政宗などは中興の祖の名を名乗ったりしていますし、武田信玄などは法名(戒名)です。上杉謙信なども、苗字も変われば下の名前も生き方を定めたときに変化させています。

落語や歌舞伎などは襲名といって、名前を変えます。うちの先祖も、お寺に遺っている過去帳をみたら長男は代々、みんな大人になってから同じ名前を名乗っていました。本来は、親がつけた名前でしたが家督を継いだときに名前を同じ名にして家を守ってきたのでしょう。

この名前を変えるというのは実は大きな意味があるように思います。

そもそも、言葉は形を変えていくものにその時々に名前を変えていくというものがあります。例えば、水などはわかりやすく、形態が変われば雨となり霧となり川となり海となります。

それだけ呼び名が変わります。神道でも、瀬織津姫、タギリヒメ、祓戸大神、水神、竜神、おかみのかみなどと変化しているともいわれます。この辺は同一神かどうかの真実はわかりませんが、名前を変えているというのは真実です。

その日本の文化を前提として私たちは名前は変わり続けてきたのだから変化しない名前はないという事実があるのです。言葉というものは普遍ではありません。なので文字に頼らずに口伝にした山伏たちもいました。

このブログもまた同様に文字は普遍ではなく変化していくものとしていけば、真実かどうかは別として変化していくということは真実なのです。

代わり続けていく世の中で、名前を変えるというのはとてもいい文化のように感じます。私も親が名付けてくれた有難い名前がありますが、いつの日か自分自身に真に納得の往く人生を歩みはじめたその時は名前を変えてみたいと思います。

先人たちの智慧にならい、子どもたちに生き方を伝承していきたいと思います。

種蒔きの実践~暮らしフルネス~

昨日、自然農の畑の種まきをすべて終わらせました。最近は古民家甦生で運用する畑も増えていますから同時期に4か所の畑の種まきをするから少し大変です。春から育てた野菜は夏を通して実をつけこの秋のはじめにほぼ収穫します。種まきには旬がありますからこのタイミングを外さずに蒔いていく必要があります。

いつ蒔き時なのかと聞かれることがありますが、これは野菜や植物、自然を観察すれば道理がわかるものです。

もともと野菜や植物の一生を例えればシンプルで、種から芽が出てぐんぐんと育ち、花を咲かせ実をつけそして最後は種になります。これが一般的な一生の流れですが、これを季節ごとに繰り返しています。

大きくわけで気候は冬から夏にかけての巡り。そして秋から春にかけての巡りがあります。つまり①「寒い時から暖かい時を経てまた寒い時」への巡り。そして②「暖かい時から寒い時を経て暖かい時」への巡りです。

自然界の植物や野菜のシステムは、大きくはこの①②の二種類に分かれ一生を巡ります。基本的なサイクルは種から種へと同じですが、この二種類の季節を隔てて一生を送るのです。

そしてこの①②の始まりと終わりの頃が種まきの旬になります。つまり①が実から種になり始めるころにそれまで眠っていた②の種を蒔いていくという具合です。季節の入れ替わりの頃というのは、車のハンドルの遊びのような時間があります。この間に種まきをするのです。実際にはお店で購入した種には何月ころというようにスケジュールが入っていますが、土地の性質や気温も異なりますから場所場所で蒔き時の旬は異なります。

自然をじっくりと観察すると今、ほとんどの①の草たちは季節の入れ替わりの時期で種をつけ始めています。この種は来年の春先までには時には風で飛び、或いはほかの生き物たちに運んでもらいじっとそのまま自分の季節の来る時機を待ちます。そして今まで眠って待っていた②の種がその辺の土の表面の枯草を取り除けば新芽が出てきています。

自然界は季節をよく感知し、変わり目が分かっています。その合図は、根から養分を吸い上げるのをやめ太陽や水から得たエネルギーを次の野菜たちに託して自ら枯れていきます。これを繰り返すことで、土はいつまでも元氣を醸成され、土中環境にいる微生物をはじめあらゆる生き物たちの循環を促して永遠のサイクルを創り出しているのです。

環境というのは一言でいえばこの「永続する循環サイクルシステム」のことをいいます。

これを邪魔しないようにするには、私たちの人間都合のみで農業をするのではなく自然の巡りに沿って、素直に環境の道理に従って他のいのちと一緒に永続する循環サイクルシステムを活性化するように時機を間違えずにちゃんと種蒔きを実践していくことであろうと私は思います。これは人間が子孫繁栄のために徳を積んでいくことと似ています。

時代が変わっても、今までどうやって生きてきたかの真理や道理は普遍です。子どもたちにも何が普遍で何が道理かを実践を通して伝承していきたいと思います。

新しい時代の生き方

生態系というものを守るというのは、その場所を穏やかに保つための手入れが必要になります。そのままにしておけば荒れていくのが野生ですから人工的に手入れをすることで人間にとって相応しい環境や場が誕生していくからです。

これは自然界だけに限らず、人間界においても同様です。お互いに最適な距離感で見守りあうというのが人間での場所を穏やかに保つための条件なのでしょう。それぞれに自律して協力をしながら生きているのが人間社会ですからこれもまた手入れが必要です。

この手入れで今、もっとも必要だと私が感じるものが鎮守の杜の手入れです。神社というところは、お社がありその周囲を森が包み込んでいます。神社の構造はシンプルで、まずご神木がありそれが社を守ります。そしてその社を包むように森がありその森が手入れされることによって神の社として荒れないように鎮め守るのです。これが鎮守の杜になっている具合です。

そしてこの鎮守の杜がなぜ重要なのか。

この神様とお社と森が混然一体になりそこに人間の手入れが保たれることで荒れない場所になり穏やかな環境が整います。この穏やかな環境が整うというのは、言い換えれば周囲の自然環境や生態系が豊かになり人間にとって非常に有益な状態を保ち続けることができるということです。

私は場の道場を運営し、場について考えて実践をする場道家を勝手に名乗っています。その基本はこの鎮守の杜の先人の智慧を参考にしていることがほとんどです。なぜ神社ではお掃除を大切にするのか、常に枯れ葉を集めては森に還しその森の土を育て続けていくのか。そこには、水を清らかに保つ工夫と智慧があり、涼やかな風が通ることで人々の心に澱む穢れをも祓うのです。

場が清浄であるというのは、手入れがあってこそです。

それは清浄さが人間の本来の徳であり、その清浄さを保つところに和もまたあるからです。子どもたちのためにも、環境を通して価値観を転換し新しい時代の生き方を示していきたいと思います。