素直の手入れ~認めるということ~

人は人間関係で悩むとき、そこに互いの利害が発生していることに気づくものです。もしくは自分の好悪感情から、好き嫌いを分けては感情が波立ちそのことからトラブルが発生していくものです。

結局は、自分の中にある執着や固執が相手との中の軋轢になっているとも言えます。松下幸之助さんは「素直な心」を持てば、そういうものも談笑のうちに和やかに仲良くできると言いますが、この素直な心とは常に自分の方が変わるという心のことを言うように思います。

人間関係で問題が起きてくる最も大きな原因は「認めない」ことに由ります。自分が相手を認めていないからこそそこに認めさせようとする互いの軋轢が発生するように思うのです。そこにはプライドがあったり、自分の我の方を優先したいという我儘があったり、正しいと一方的に思い込んでいる傲慢があったりと、問題が起きては「身から出た錆び」だと自分に矢印を向けては反省していないと何度も繰り返し同じことが起きては素直になれなくなるものです。

この「身から出た錆び」とは、刀から出た用語であり刀身が錆びて腐ってしまえば刀も自分の身も失ってしまい取り返しのつかないことになるという意味です。これは人間関係も同じで、本来の心が素直ではなくなってしまえばそこに問題が生まれそのことから取り返しのつかないことをしてしまうということと同じです。

刀であれば日々に怠らず手入れをすることで錆びないようにしていきます。そして人間であれば日々に怠らず心に手入れをして素直のままであるようにしていくのがいいのでしょう。

日々に素直かどうかの内省は、日々に認めているかどうかのチェックでもあると私は思います。どんなことも認めていく、そのことから融通無碍で一視同仁、公平無私の柔軟で素直な心が育つなら自ずから人間関係は和合し倖せと豊かさを感じる謙虚な自分のままで愉しい社會を暮していけるように思います。

素直の心は奥深すぎて、その学びに一生涯の修行の醍醐味を感じます。

初心と同じく、座右に据えて実践を取り組んでいきたいと思います。

 

自然の王道~天信助心~

この時期は秋に収穫するための苗作りに余念がありません。昨年、育てた野菜の種を今年の土に蒔いていくことは昨年ともに無事に暮らしてきた有難さも実感しめぐりの倖せを感じます。

そもそも育てるというのは、御互いの心を天に通じ合わせるということです。何もしなければ育てているとはいわず、何かをするから育てるのですがその育てるということは、生きる道の上で御互いの信頼関係を結ぶのにとても似ています。

本来、野菜を育てるのは最初から「野」にあったものを採集しにいくのではなく種から見守って育てたものを「野」に戻すのです。「野」というのは、あらゆる生き物たちが暮らしています。そこには一つの自然の社會が存在します。自然の厳しい社會環境の中で、存分に自らの野生を発揮しては生き残りをかけて全身全霊で暮らしています。

それは植物たちや虫たち、動物たち、菌類にいたるまですべてのいのちは自分のいのちを燃やし切り他と共生し他を食べ、生死のめぐりを繰り返しつつも貢献し合っています。

弱いいのちではすぐに淘汰され、他のいのちに呑まれてしまいます。そんな厳しい環境の中で育つように適宜つかずはなれずそのものと対話して生きる力を信じて見守る必要が出てきます。

一生涯、ビニールハウスの安心安全な中で育てることもできますがそれでは環境の変化に順応できる力強い生命力は身についてはいきません。もしも永遠にビニールハウスで育てるのならいいのですが、自然の変化に適応して順応するにはそのものの生きる力を引き出していくしかありません。

また私たちは栄養だけではなく、いのちを食べていますからいのちを燃やし切りいのちを引き出して育ったもののいのちをいただくことは自分に元気を取り入れることです。

厳しい野の中で、御互いのいのちをめぐり合わせることで”自然の真心”を実感でき、そのことが私たちのいのちの感覚も育てるのです。

厳しい環境の中でも負けないように弱いところはカバーするということが具体的な見守る方法です。「あなたのことをいつも見守っているよ、あなたが生きようと真摯に生きるなら必ずあなたを助けてくれる存在があるよ」という心を持って「野」に戻すのです。これが天を信じ助ける心、つまりは王道に入ったという証です。

野に戻ったいのちは、その信を心に抱き自然の法理に従って生きる道を間違えず種になっていきます。私が自然からもっとも学ぶものは、自然には確かな真心があり、そこには確かな王道が存在するということです。この境地を知るために実践修行を積み重ねているといっても過言ではありません。

自然の王道から外れないように、自然の真心をもって育てつつ育てられる存在のままに学び直していきたいと思います。

感謝感情

人間には自我感情があります。感情の自分というのは、気分の良し悪し、調子の良し悪しがあります。

例えば、何かずっと楽しみにしていたことがあったとします。それが急に不注意から怪我をして何もできなくなると気分は最高だったところから最低に急落します。まるで感情は天気のように晴れたり曇ったりと、その時の状況で変化します。それだけ感情というものは自分にピッタリと寄り添いその時の状況にあわせて自分の気持ちを感じます。

人間はこの感じる力によってその時々を味わい、自分がどんなことをしたいのかを知るのです。ドイツの詩人、ゲーテの格言と反省にこういうものがあります。

「生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。」

これも感情の変化で語られる言葉であろうと思います。結局は、感情がしたいしたくないと決めているのです。どんなに自分のやるべきことがあったにせよ、自分がしたくないのではあまり効率も効果も上がっていきません。また逆に自分がしたいと思っていてもそれができなかったら感情がまた高ぶってきては効率も効果も下がってきます。

この感情というものをどのように向き合うか、それは実際の人生において大変重要なことであろうと私は思うのです。これをお座なりにしていては、自分自身を管理することができないようにも思います。自己管理とは、健康や体調だけではなく精神や心、そして今回の感情というものが大きく関わってくるように思います。

感情とどう付き合っていくかは、その感情の変換の仕方にあるように思います。例えば先ほどの天気なら晴れも善し、曇りもまた善しと融通無碍になれるかどうか、もしくは自分にとってのマイナスな感情が起きても、それを素直に有難い試練や成長の機会だとプラスに転じることができるかどうか、ここに自己修養の要諦があるように思います。

何をしていても感情は高ぶります、それをいくら避けようとしても人間はロボットや機械ではないのですからそこに本来の目的や使命を実感するものです。そもそも何のためにやっているのかの初心を忘れなければ、やりたいこともしたいこともできようができなくても実践していこうと思うものです。そうやって実践しているうちに、自分の感情が上下左右していることに気づいても変わらずに平常心でいることの大切にさに気づくようにも思います。

自我感情との向き合いは、それを転じて善いものに換えるときにはじめて「良し悪しなし」という境地に出会えます。カグヤには「円満祝い唄」というものがありますが、その中の歌詞に「いいもわるいもないんだよ」という部分があります。

これが私の思う素直さであり、順境も善し、逆境もまた善しの感情、つまりは感謝感情の境地です。自己修養と自己研鑽を怠らず、星のように急がずに休まずに取り組んでいきたいと思います。

 

自他一体のフィードバック~おもてなし~

人は相手の立場に立つことで相手のことを深く理解できます。

以前、ホスピタリティについてあるニューヨークで大変有名なレストラン経営者ダニーマイヤーさんの話を聴いたことがあります。

その際に「ホスピタリティを高めるには、相手の『ありがとう』に対して『それはなぜですか?』を集めていけばいいだけです」とありました。お客様へのおもてなしは、相手が嬉しいと思うこと、有難いと思うことを集めていけばいいとありました。

実際は簡単なことですがそれを継続して実践していくには仕組みが要ります。

人間は放っておけばいつも自分本位でばかり物事を考えます。自分の興味関心のみに追われ忙しくしては自己保守に終始してしまうものです。そうやっていつも自分の事ばかり考えて自分の感情でばかり事実を見ていたら、相手の気持ちに共感することを忘れてしまうのでしょう。

ホスピタリティとはいつもどんな時でも相手の心に寄り添っているものです。心を寄り添うことも怠り、自分のやりたいことばかりを周りに押し付け、心を合わせもしない、それを決してコミュニケーションとは呼ばないように思います。対話というのは自分の要求を押し付けるのではなく、どれだけ心を寄せることができたかということです。そして心を寄せるものだけが真の行動と真のアイデアをカタチにしていくことができるように思います。

思いやりや真の優しさというものは、一事でいえば”心を寄せ続けてそれをかたちにしていく”ことであり、それを毎日小さなことを積み重ねることで自他一体の場所に表裏なしの人格が磨かれるようにも思います。自分を心配しすぎて心を寄せないから心を亡くし頭で考えて何かを急にやろうとしても、付け焼刃では付け焼刃の結果しか訪れません。相手を自分そのものになるくらい、相手の心に寄り添うことが相手に安心され信頼される人になっていきます。コミュニケーションの本質は人は相手を通じて自分を見つめ、そして自分の心を見つめて大切にすることで相手の心を見つめ大切にするのです。

相手ばかりをみては矢印を相手に向けるだけになったり、自分だけを見ては自分にだけ矢印を向けるのではなく、相手は自分かもしれない、自分が相手だったかもしれないといつも思いやることではじめて仕事も本物になっていくのでしょう。そういう人がご縁を感じ、御蔭様が観得て、感謝のままでいられるのです。

すぐになんでも自分で一杯にする前に、もっと相手を喜ばせたいや有難うと言われたいと心楽しく身近でできる小さなおもてなしに取り組んでいくことでおもてなしのできる素直な心もまた育っていくのかもしれません。

お客様からのありがとうを自他一体のフィードバックを通して一つ一つカタチにしていきたいと思います。

自尊感情

先日、自尊感情について考える機会がありました。自尊感情とは何か、それは私の言葉では自己認識のことです。自己認識とは、自分がどうしたいのかを自分が素直に理解できるということです。自分自身の気持ちが感情を含めて分かっている、もしくは自分自身であることを肯定できているという状態のことです。

論語にこういう一文があります。

『子曰、人之生也直、罔之生也幸而免』(子曰く、人の生くるや直し。これをしいて生くるや、幸いにして免がるるなり)

意訳ですが人は自分の素直でなければ真に正しく生きることができない。これまで生きてこられたのは運が善かっただけだという意味です。他にも論語の中には、正しいことを理解できるには本当の意味で自分自身を素直に理解できなければ難しいという言葉や、克己心の中で自分を知ることの大切さを何度も語り掛けます。

これは自分自身との付き合いにおいてどれだけ自然体であるか、言い換えれば素直であるかが大切だということです。人は実際は外側で発生する失敗は、ほとんど全ては自分自身になれないことで発生します。つい他人の評価や、自分を何かと比べて評価することで自己認識していますが本当の自分の心に素直になれないから問題がいつまでも解決することがなく繰り返されてしまうのです。

人間には感情というものがあります。

よく感情を押し殺して我慢して感情と自分を分けている人がいます。しかしこれは本当の自分ではありません。自分の感情を含めて自分自身ですから、自分の中にある感情を肯定して自分自身と認識しなければいつまでも他の人との心を結び和合していくことができません。

自分自身との和合ができるということがあって人との和合もまたできるからです。その和合をするには、「心から笑う」ことができたり、「自分自身が納得している」ことであったり、「自分の心を開く」ことができていることだとも思います。

自分自身のことを自分自身がどのように認識しているかは、その人の人生観を決め、その他の人たちの価値観を決めてしまいます。丸ごとの自分を受け容れるとき、人は本当の意味で自分に自信を持つように思います。丸ごとの自分の中に感情があることを受け止めるということは自尊感情を大切にするということです。

自分を我慢して自分を粗末にしてきたら結局は同じように人を我慢させ人を粗末にしてしまう人になってしまいます。「自分はどうしたいのか」という気持ちの方と向き合うことで人は本当の自分自身に出会い自分を大切にすることができるように思います。

自分は天から与えられた存在だからこそ、その自分を大切にすることが天に報いるということかもしれません。自分自身を大切にする真心をもって周りの人たちのことを同じように思いやれるということが素直な自分自身になるということかもしれません。

自分が自分でいられなかった社會のツケは、子どもたちの心に深い影を残してしまいます。社會を変えるということは、これらの刷り込みを取り払い自分自身でいい、あなたのままでいいという環境を醸成していくことです。

自他に無理をしないその人になっていけるよう、自分自身が素直を体現し、その人の刷り込みを取り払えるよう祈りの実践を高めて直向きに真心を盡していきたいと思います。

集団の自立~教えずに助ける~

自立の中には個の自立と集団の自立というものがあるように思います。いくら個を強くしてもそれは個の自立ではなく、本来の個が本当の意味で強くなるには集団の自立が必要だと思うのです。

そもそも自立というものは、一人だけで立つことを言うのではなく集団の中で自分を立てることができるということです。言い換えれば、他の人がいる中で自分を役立てることができるということです。人は一人では生きてはいけません、簡単にいっても最低二人いなければ子孫もできません。社會をつくる動物ですから、人間社會の中で様々なことをカバーし合って生きているのが私たちとも言えます。

しかし子ども時代から振り返ってみると、なんでも一人でできる子どもになるように育てられたような気がします。自分のことは自分でするのが自立だと言われ、できないのは自分のせいだと教え込まれてきました。迷惑をかけるなと言われては、迷惑をかけないで生きるようにと教えられます。

実際の社會に出て観たら迷惑をかけないなどということはありません。人間が一人生きていくのには本当に多くの方々の有難い助けがあってはじめて生きていくことができます。それは活かされているという言い方でもいいのですが、私たちは周囲があってはじめて自分を存在させていくことができます。

自分の存在を肯定できるというのは、周りの存在も肯定できるということです。それは有って当たり前の存在であり、まるで家族のようなものです。存在そのものが何かのお役に立っているという実感です。しかし一たび自分が認められていないと感じてしまうなら、無理をしてでも認めてもらおうと頑張ってしまいまた個ばかりを強くしようとして集団の邪魔になってしまったりします。

集団を強くするというのは、周囲に感謝して周囲を活かすということです。そして同時に自分の得意や持ち味を存分に発揮して周りを援けるということです。教えてばかりで助けず、できない人に無理にさせようとして最後はツケ放すでは集団が強くなることはないと思います。個が強いとか弱いとかを言っているのではなく、個別に一斉に個ばかりを強くしようとして、その人が孤立無援になってしまっては人間社會の生きる力を思うとき、それは本末転倒ではないかと思います。

人はどんなに頑張っても一人でやるには限界があります、だからこそ多くの人たちと一緒に協力をして偉大なことを成し遂げます。人類の生き延びてきた能力をわざわざ捨てるようなことを選択することは遺伝子も望んでいないから苦しいのです。もっと楽しい方を選択し、協力和合してお互いの持ち味で周りをカバーする生き方に換えていくことでその人の個の自立は実現するように思います。

刷り込みが多く今までの習慣を変えるのは大変ですが、よくよく内省を深め新しいあり方のモデルを創造していきたいと思います。

友立ち~海の真心~

先日、館山でジャック・マイヨールの親友だった方のお話を拝聴することができました。貝のお話やダイビングのお話、また生き方や体験談など本当に愉しいお話をたくさんいただきました。

人は生き方が”からだ”からにじみ出ているものです。

何を大切にして生きているのかは、一目で雰囲気で語りますが話を聴けばその深いところに沈んでいる愛情すらも実感できます。友人というものは、友人の何を愛していたかでその人の目指す生き方が何を目指しているのかを教えてくれるように思います。

私も尊敬する方々がいますが、その尊敬する方々の生き方の中にこそ自分が憧れた夢があります。その夢を継いでいくのが友立ちなのかもしれません。

お話の中で特に印象に残ったものがあります。

生前、ジャック・マイヨールさんはこのままコンピューターが進んで人類が方向を誤れることをとても心配し警鐘を鳴らしていたそうです。そして人類がもしも間違わないのなら、便利さや快適さの半分を自ら手放す勇気が要ると仰っていたそうです。

親友の方がこの話を選んでくださったのも、私たちの志事が子ども第一義の理念で三つ子の魂百までに関係するからです。私たちの目指している今の生き方の本質を理解してくださったようで、とても嬉しい気持ちになりました。

本来、志事はどこまでの広さで世界とするか、またどこまでの深さで物事を決めるか、そしてどれだけ遠いところを見つめて日々を歩むか、つまりは生き方の実践にその人の志した全体像が出てくるものです。世間の評価ではたとえそれはちっぽけで変なことをしているように見えているとしても、その人が夢や愛をどれだけ深く沈めているかでその本当の偉大さが顕れるのでしょう。

人間に対する深い愛はまるで海そのもののようです。

深海に潜る真のダイバーの方だからこそ、その深く潜っているところにあるものの存在を伝えることができるのではないかと感動しました。不思議なご縁をつないでくださった存在のすべてに改めて感謝します。

今日からまたいつもの志事に精進させていただきますが、大切なメッセージを受け取りそれを磨き続けて醸成し、明日の現場実践に活かしていきたいと思います。

ありがとうございました。

ご縁結び~恵比寿の貝逅~

昨年から貝の御蔭様で館山で人と人とのつながりを感じる機会に恵まれています。人と人の出会いはいつも不思議で、出会いの中に物語があるのを感じるとその出会いが如何に必然であったかを思います。

人生というのは一瞬一瞬の邂逅の中で御縁が交わり結び合います。

人と人とのつながりをどのように大切に生きているか、御互いのご縁を如何に結い縫っていくのかが人生の醍醐味かもしれません。そこには意図もなく、無償の愛があるだけです。互いのご縁を結んでいくことが、互いの人生を結い合っていくことです。本来はつながるはずがなかったものが、ある時を境につながっていくことでお互いの世界が邂逅して混ざり合っていく。

その様子はまるで銀河が他の銀河と混ざり合い一つの渦を形成し、新しい星が誕生するかのように光がさらに眩さをまして宇宙に融和してくかのようです。

宇宙の星々はそれぞれに光を放ちますが、その光と光はご縁によってさらなる光になるように、人と人との御縁もまた人になります。人類の発展とは何か、それは出会うことです。どんな出会いを生きたかが人生ですから、面白い人たちとの思い出は人生の輝きを増していくかのようです。

そして人が出会いによって自分の全く知らない新たな価値観に触れることは本当に愉しいものです。今まで気づきもしなかったことに出会うことは新しい自分自身との出会いです。そういう一つ一つの出会いをどれだけ自分が出会っていくか、その面白さがあるから信じたいのかもしれません。信じる仕合せとはどこまでいっても人と人との御縁結びであることを実感します。

恵比寿は日本の神様であり、イザナギ、イザナミの神の間にできた第三子と言われます。有名なご縁結びの神様です、宝船に乗って海から豊かさを持ってくる七福神の一人でもあります。

何でも楽しんでいくことやなんでも面白がっていくこと、そして心を寛くもち、笑い合うこと。和らう門には福来るとはまさに日本人の生き方、海の民の歩み方の智慧なのではないかと直感しました。

「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」

神話の中にこそ最大のヒントがあり、福こそが暗闇を抜ける妙法であることを私たちに伝えてくるかのようです。子どもたちのためにも諦めず、魂を磨く実践を怠らず精進していきたいと思います。

真心の在り処

論語や君子というものを考えるとき、それは一般には政治やリーダーの学問であると言われます。しかし一度、そういう世間の評価を外して本当は何だろうとじっとそのものをそのままに見つめていると別の視点が顕れます。そもそも論語とは、そして君子とは一体何かということです。

それを少し深めてみたいと思います。

まず孟子の中に「君子三楽」という話が出てきます。そこにはこうあります。

孟子曰、「君子有三楽、而王天下、不与存焉。父母俱存、兄弟無故、一楽也。仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也。得天下英才、而教育之、三楽也。君子有三楽、而王天下、不與存焉。」

意訳ですが、「君子には三つの楽しみがある。それは別に天下の王になることではない。まず一つ目の楽しみは父母が健在で兄弟も健やかであること。そして二つ目の楽しみは、天に恥じることのない真心で生きることができること。最後の三つ目の楽しみは天下に役立つ人たちを見出しその持ち味を活かせるようにすることだ。これは別に天下の王になることと関係がない。」と言います。

父母兄弟が和合し共に慈しみ、正直に素直な日々を謙虚に送れ、周囲を見守り活かせる安心基地の存在になること。孟子の描く君子像とはこのようなものです。

そして孔子はどう考えるのか、私には孔子の「志」について語る同志との問答の中に君子本来の姿が顕れているように思います。そこにはこうあります。

「顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。」

意訳になりますが、「孔子は顔淵と子路と一緒に歩んでいる中であるとき彼らに質問をしました。”あなたたちの志を聴かせてくれないか”と。子路はそれに対してこう言いました。”馬でも馬車でも衣装でもなんでも朋たちと全て分かち合い、たとえそれをなくしたり壊されたりしても怒ることがない人になりたいです”これを私は志しますと。そして顔淵は言います。”他人には善いことをしそれを思うこともなく、他人の苦労をそっと取り払いまた思うこともない自分になりたいです”これが私の志ですと。そして孔子は最後に自分の志を言います。”年寄たちからは安心され、友人たちからは信頼され、若者からは慕われるような人になりたいものだ”と」

彼らが目指した君子とは一体どういったものか、それを感じるのです。

人は何かを成し遂げないから君子になれないのではなく、その日々の自己の心がけ次第で君子になれるようにも思います。人として当たり前のことができない苦しみを抱え、人は人生航路をそれぞれに歩んでいきますがその修行は日々のあちこちで訪れます。

その道の同行行脚の中で仲間と共に目指す仁人の実践、真心を盡すご縁をいただけることは何よりも有難い志のように思います。志の意味も、何か夢かなにかと勘違いすることがありますが彼らにとっての志とは思いやりのある人になりたいと願う自己の実践です。だからこそ道とはなんと深淵で奥深い美しい世界であるかと私には感じます。

学べば学ぶほどに本当に教えてくださっているのは、知識でもなく智慧でもなく、能力でもなく技術でもない、その真心の在り処だったのかもしれません。先生が居るということ、同志や仲間との御縁があるということはそれだけで何より有難いものです。

ご縁を大切に日々を学び直して急がずに休まずに心を廣く歩んでいきたいと思います。

教えるよりも助けること

競争原理の中の教育の刷り込みには、利己的なものがあるように思います。この利己的な教え方によって刷り込まれると、すぐに自他に厳しく当たってしまい甘やかすことを過度に嫌うようになるものです。

例えば、先生は子どもに何でも自分一人でできることを目的に教え込みます。自分一人でできなければすぐに叱られ、こんなこともできないのかと何度も何度も教え込まれます。先日もある子どもが、周りの子どもができないから手伝っていたら先生から自分のことをやりなさいと叱られたと言います。そしてできない子には自分でやりなさいと叱ったそうです。

自分でできないから助けていたらそれではこの子がダメになると言います。結局、大人になってみて組織を見て観ると同じような現場ばかりに出くわします。できないから助けている人と、できないのはその人のせいだと自分でやれとツケ放す人がいます。

もしもチームで仕事をする場合はツケ放しても効果はあまりありません。それよりも助けてあげた方がお互いの結束が強くなり、信じる力も高まり信頼関係が深まっていきます。できない人をみては教えてあとは厳しくツケ放している人は、結局は一人で仕事を持って誰にも渡せず孤独になっていたりしますがそれはそれまで受けてきた教育の刷り込みではないかと感じるのです。

本来、人は教えるよりも助けてあげた方ができるようになります。最初はみんな誰もができないからこそ助けてもらい、安心した中でいろんなことを試すようになります。最初から頭ごなしにこんなこともできないのかとツケ放し、何回も言っただろうと言葉で教え、さらにはもう自分でするからしなくていいと言ってしまえば元も子もありません。そうなれば全部一人でやらないといけないですがそんなことは所詮無理です。それは「教え込むことに問題がある」と自分の刷り込みに気付くしかないように思うのです。

人は競争原理の中で、なんでも一人でできるようになるように教え込まれるからそのように自他に厳しすぎて孤独になって完璧を目指すようになるのかもしれません。人はみんな不完全ですから、できないところはお互いに助け合いフォローする方が和合し協力し楽しく倖せに人間らしく生きていけるように思います。

自分が受けてきた教育をそれが世間の常識だと他人に押し付ける前に、自分はどうありたいか、本当はどうありたいかと自反慎独し周囲のために思いやりや真心でありたいと願えばその刷り込みも実践を積み重ねることで取り払われるようにも思います。

人はやられてきたことをその時は辛く嫌だと思っていても、それを我慢して仕方ないと肯定してしまえば知らず知らずに自分もまた他人にそのまま同じことをやってしまいますから、自分の中で一つ一つ内省をして振り返り改善に転じていくしかありません。

教える人は助けてもらっていないという人が多いですが、真実は今まで自分の得てきたもののすべては”他人様から助けていただいた御蔭様で得た力”ですから、それをどのように御恩返しをして活かすかはその人の決めた生き方次第です。

きっと教えようから助けように変われば、もっと可能性は広がり自他を活かせるように思います。

その人の性格や人格だと裁くよりも、刷り込みがありますよとアドバイスし、自分がモデルになる実践をみせていけるようにさらに感謝を土台にして精進していきたいと思います。