急がず休まずじっくりと~発酵の智慧~

人が病を得て治癒をしていくとき、その治し方に生き方も出てくるように思います。

例えば、からだが不調になるとき早く治そうとする人とじっくりと治そうとする人がいます。それはまるで急いでは休もうとする人と、急がずに休まない人との違いのようです。

何でも速く、なんでも急いでとなっているから物事の判断はすべて自分が優先されていきます。もしも逆にじっくりとゆったりととなれば物事の判断に周りを思いやる余裕が生まれるのです。

以前、ダライラマ法王の何かの法話の中で現代人の不思議について話がありました。具体的には、必死で儲けることだけに夢中になり会社を大きくし売り上げもあがり利益もだし自分も大きな貯金を持つようになりますが、今度はそのことで病んだ自分の身体や心を治すためにまた大きな貯金を使っていくという生活が不思議だという話です。

お金を稼ぐために必死に働き大金もちになって、その大金もちにしかできない大金を使った治療をする。経済はそこで発展すると思いますが、その人はどうなっているのだろうかと思うのです。

そうやってなんでも急いで目先の目標ばかりに囚われて突っ走っていたら、無理ばかりしてからだを崩します。しかし焦っているのだからすぐにサプリや薬に頼ります。もしくは手術などの即効性のあるもので解決したくなるのでしょう。しかしその実、速効を求めるほどに物事は停滞して腐敗するように今では感じます。本来の停滞とは焦りや慢心のことなのでしょう。

だからただ寝ているだけや、何もすることがないから何もしないということをやろうとすると人はきっと不安になるのかもしれません。人は本来、心を定めて決心すれば日々に怠らず実践することは沢山あります。焦らず謙虚に無心になって実践を一つ一つ積み重ねていくことは、日々に心を天に通じ合わせることもでき安心の中でいのちが活かされる実感を味わえるものです。

そのために自分の欲望や願望、もしくは周囲の抑圧や押し付けなどに執らわれない自分を創っていくしかないようにも思います。そこにもまた自然の智慧や逞しさ、自分を信じるしなやかさが求められるように思います。

そのためにはまず自分の決めた生き方に専念すると決心することかもしれません。

当たり前と思ってしまう自分の生活習慣は自分の決めた生き方の実践そのものです。

その実践を倦まずに弛まずに積み重ねていけば、自ずから急がず慌てずゆっくりとじっくりと時間をかけようと思うものです。同じ時間をかけるなら、やっぱりじっくりと時間をかけた方が楽しいときも増えていきますし充実して思いやりや感謝に導かれる倖せにも出会えます。

急がず休まずにじっくりとは、発酵から学んだ智慧であり真髄です。

実践を積み重ねていきたいと思います。

 

人間理解~根源治癒~

人は真心から目の前の人の苦しみを抜き取り少しでも楽にしてあげたいと願うとき、相手の心の深い部分に共感しそれを一緒に理解していこうとします。しかしこの一連のプロセスの中で、自分の中に心を容れてもそれを解決するわけでもなく逃げるわけでもなく、ただひたすらに心に向き合い受け止めようとするとき言葉に表現できないほどの大変な苦労が訪れます。

それはまるで今までの自分のモノの考え方や生き方が掻き混ぜられるような感覚です。どうしようもない怒りや苦しみ、もしくは自責や他責の念、そうでしか生きられれないその人の無念さのようなものが心に流入してきます。

不思議なことですが心を寄り添うとき、信じることは心の支えになりますが不信は逆に心を痛めることになります。心を痛めている人を信じるときは、その人の心が自然に治癒するのを待つしかありません。急いでも焦ってもそれはできず、心を少しでも開いてくれるならその人が転じるための方向性を示すくらいしかできません。

臨床心理の河合隼雄さんは、数多くの人間理解を実践してきた方です。その人の心の苦しみにじっと寄り添い、その苦しみを理解されていた方だと言います。その方の実践から出てくる言葉の重さには、「ああ、そうか」といつも救われる思いがします。

『うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり、「命懸け」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。』

他人を知るなどということは、実際は命懸けのことだと言います。これは私の中では真心がいるということです。真心なしに相手を分かった気になるなど甘すぎると意味です。相手を知ろうとすればするほどに自分の中の悪感情に苛まれます、これはまさに一緒に深い海に沈んでいくかのような感覚です。しかしそこに「きっと私にもわからない大変なことがあったのだろう」と共感し、その人の試練がきっとその人の魂の臨んでいるものだと信じ、それが善いことであったと祈るのです。

人はご縁があることで自分を変えていくことができます。ある人は、”人生が行き詰まるのは進んでいる証拠だ”とも言います。まさに人は自分を変えようと一歩足を出す時、壁が擡げます。その壁を乗り越えていけますようにと真心で祈るときご縁が導く新しい自分に出会うように思うのです。

人間理解ということ、つまりは共感、受容というものはまさに命懸け、真心があってはじめてできるのでしょう。力及ばずにと嘆く気持ちもありますが、謙虚に素直に人事を盡して天にお任せしその人の一生涯を祈ることこそ、真心の道であり、かんながらに通じます。

ふり返ってみると、真摯に全身全霊でご縁を大切にその人のことを祈ったことが結果として偶然に運善く開けるのはまさに何かしらの不思議な御蔭様の力をかりて奇跡の境界線を超えるかのようです。その人の生き方がチェンジするのを見守るとき、”ああ、何者かまた救けてくださって有難うございました”という御蔭様の感謝と真心に出会うだけです。

根源治癒していくというのは、その根をぐらつかせるからこそ根から直します。常に先人の素直な実践を尊び、自らも最期まで丸ごと信じ諦めずにご縁と奇跡に感謝してお任せしていきたいと思います。

苦楽の学び

日々に新しいことを挑戦していると難題ばかりに向き合います。そこから逃げないと決めたなら新たな学びが自分のものになっていきます。自分の中にモノサシが入っていく瞬間は学びの歓びです。

世間では学校で教えられた学びを学びにしていると、本当の学びというものが分からなくなるものです。外側から目標とモノサシを与えられ、ここまでやったらできると教え込まれる中ではどのように要領よくやろうかや、どのように楽をしようかなど全うに真摯に努力して何かをやろうとは考えにくくなるように思います。

実社會の中で、一つ一つの物事を獲得して自分の中で消化吸収していくには心身一如に体得体感していく必要があります。簡単に頭で教え込まれた今までの刷り込みの学び方をいくら強引に無理してもそれでは学べず、どれだけ全身全霊で実践し本質を深耕していくかという自然の学び方を習得しなければなりません。

臨床心理の河合隼雄さんに下記の言葉があり、共感できます。

「学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもありますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。」

この『ニセモノ』だと思うのですと言うフレーズが好きです。偽物とは何か、それは仮物であるということ。本当の自分自身の苦労と努力、そして成長の歓びや感謝を感じられない学びなど本来の学びではないということ。学校の教科書をなぞるような勉強ではなく、実体験をさらに積み重ねて本物へとたどり着きたいという情熱と熱意、諦めない闘志、そしてその機会にめぐり会えたことへの感動や感謝といったものなしに学んだはずはないのです。

学んで楽しいのはなぜか、それは新しい自分に出会い新しい自分を創る喜びです。そして苦しさは何か、それは旧い自分を毀し、殻が毀れていく苦労です。この両輪は、常に自己を刷新することこそ学びの本質であることを伝えています。

また河合隼雄さんはこうもいいます。

「思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです。」

外側の評価でばかり生きていたらほんとうの面白いことに出会えません。思い通りにならないというのは未知との出会いです。そして思っていた以上のことに出会う奇跡との出会いです。

毎日をどれだけ新鮮に味わっているかは、その人の挑戦の数に比例します。

日々に自分が毀れていく仕合せに感謝しつつ、苦楽を味わって歩んでいきたいと思います。

 

青春~心の若さ~

サミュエル・ウルマンの「青春」をヒントに松下幸之助さんのが自ら作成した座右の銘があります。

「“青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動を続けるかぎり 青春は永遠にその人のものである”」

という言葉です。一生青春を掲げその生涯を亡くなるときまで日々新たと青春し続け心を高めた松下幸之助さんの生き様が言葉に凝縮されているように思います。

そもそも青春とは何か、ウィキペディアにはこうあります。

「青春とは、元は春を表す言葉である。 古代中国の五行思想では、「春」には「青(緑)」が当てられる。 同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄(黒)」に当て、それぞれ「青春(せいしゅん)」、「朱夏(しゅか)」、「白秋(はくしゅう)」、「玄冬(げんとう)」という。 これらは季節を表す言葉であり、これが転じて、日本では特に「青春」について人生における若く未熟で、しかしながら元気で力に溢れた時代を指すようになった。」

人生の春、もっとも若く好奇心あふれてこれから伸びていこうとする素直な心。そういうものを持ち続けようとする中に自然の道があるように思うのです。天地自然には鬱蒼と生い茂る新緑のエネルギー、つまりは逞しさを見守る何かがあるように思えてなりません。

いのちがその希望に燃えるとき、何かの偉大な御蔭様や見守りが働くように思えます。自然界では常に厳しい環境の中でいのちが自然の摂理に晒されます。その時、誰かが救けてくれるのを待つのでもなく、何かに依存して甘えるのではなく、自ずからの心の在り方を変えて善いことに転じようとするのです。

この禍を転じる力こそが若さであり、福にしていくことこそ青春だと私は思うのです。

もしも私が青春をヒントに座右をつくるとしたらこうなります。

「青春とは禍転じて福となすことである、日々のご縁を丸ごと善いことにしていくことである、万物不変の本質、永遠の若さとは好奇心を忘れないことである。旅と思い出のための冒険を味わうのが人生の醍醐味である。」

と。

実践するのは大変なことですが、実践させていただける仕合せもまたあります。出会いを大切に学び直しを続けていきたいと思います。

自律とは何か

先日、ある学校の入学式で自律ということについて校長から挨拶がありました。その際には、自立と自律の話があり、自律という字をよく見て如何に自分を律することが大切かということについて話がありました。

この自律については色々という人がありますが、私には別に思うことがあります。それを少し深めてみようと思います。

この自律を思うとき、まず心に浮かぶのが己に克つという言葉です。そして次にもっともそれを言い表すのは論語にある「己に克ちて礼に復るを仁と為す」ということです。

これは現代に意訳すれば、小我に打ち克ち大我を生きて自分を自分で甘やかさずに律することができるなら思いやりになりますよということです。これを逆さに読めば、思いやりがなくなれば律することがなくなり、ついには怠惰傲慢になっていきますよという訓戒でもあります。

人は思いやりや真心があるからこそ、自分を周りのために我慢し利他をし役立てようと努力します。その際に自分の中から出てくる様々な言い訳を吹き飛ばし、自分が何をすることがもっとも周りの役に立つのかと実践を励み周囲の勇気になっていきます。

人間は安定して満たされ過ぎると、それが当たり前になり感謝を忘れていく生き物です。如何に自分との正対に人知れずに向き合うかはその人次第ですから、人生は誰にも等しく精進していく機会が与えられているということになります。

西郷隆盛に「自己愛」のことが書かれている一文があります。以前、ブログでも紹介しましたが自分を愛しすぎるなということが書かれている後半の文章があります。そこにはこうあります。

「能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己を愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るるなり。功立ち名顯るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、其成したる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陷いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、賭ず聞かざる所に戒愼するもの也。」

要約すると、最初は慎んで己を律していたものが次第に自分の思い通りになっていくと自己を愛しすぎるようになり怠惰が蔓延り結局は駄目になってしまう。それは自らが招くものだから常に己に克ってひとりの時によく慎みて戒め続けなさいとあります。

自律というものは、つまりこういうことです。

しかし自律の本意はどこにあるか、それは初心を忘れてしまうことかもしれません。日常に満足し、自己を鍛錬することを怠ると次第に何のためにやるのかを思い出すことがなくなってきます。何のために何をするのかが人生ですから、それを忘れるということは日常の安逸に精神が弛んでくるということなのでしょう。

自分が自分でぬるま湯から出る勇気があるかどうかが其処を抜け出す鍵かもしれません。「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」と千日回峰行の塩沼阿闍梨が言いましたがその通りだと私も思います。

ぬるい自堕落な日々に長く入っていたくなる自分にどう「喝」を自ら与えるか、自然界の厳しい寒暖差の中で生きる野生のいのちのように如何にワイルドに生き抜くか、そこに生きている実感という日常があります。自分で自分を律するというのは自らが決心してはじめの一歩を踏み出し、新たな境地に自分自身の主体性で挑戦するかということです。

子ども達のためにも、自ら主人公になり思いやりに生きる大人のままでいたいと思います。他人から与えられる他律ではなく、まさに自律こそが人生の面白さであり醍醐味です。

実践の意味を深め、実践を高めていきたいと思います。

 

海との再会~愛を体現~

先日、イルカが沢山の浜辺に打ち上げられ亡くなったニュースが報道されました。他にもクジラが浜辺に打ち上げられたニュースもよく聞きます。イルカやクジラと話せるわけではない人間は、磁場が乱れたとか地震が来るとか、シャチから逃げたからだとか様々な推測ばかりをします。

こんな時、私は故ジャックマイヨールを思い出します。

もしジャックマイヨールならこれをどう読み取るだろうかと。昨年の貝との出会いから私の中のジャックマイヨールはとても大きな存在になりました。海と人とのつながりにおいて忘れていたものを思い出したからです。海という感覚を自らの内なる世界観から捉える感性には心に響くものがあります。

ジャックマイヨールは、こういう話をしていました。

「たしかに人間は何万年にわたって、進化を遂げてきました。しかし、決して変わってはいないものがあります。水の記憶です。生命の源です。私達の体や遺伝子の中には、母の子宮の中や海の中で生きていた時代の記憶がはっきりと残っているのです。」

もともと私たちが本来「水棲生物」であった証は、赤ちゃんであったことを思えば自明します。赤ちゃんのとき、私たちは羊水の中でずっと泳いでいるからです。本来は水の中で暮らしてきたことを証明しています。

「私のささやかな経験から言えば、生と死は同じことの、裏と表のようなものです。 例えば赤ちゃんは生まれるとき、同時に死を通過しているのです。子宮の中にいる赤ちゃんは、ちょうどグランブルーの世界にいるときと同じように、完全な平和の世界に生きています。そして、ひとたび誕生の時が来ると、へその緒を切られ、一度死を通過して新しい次元に生まれ出るのです。これは人生も同じです。呼吸というへその緒が切れたとき、死を迎え、新しい次元に生まれ出るのです。魂の世界で、大宇宙の母の子宮に戻るのです。」

この次元で物事を捉えることができるのは自然を体感していたからなのでしょう。深い内省が深淵に近づくとき、人はこのような宇宙観に気づくのかもしれません。そしてイルカやクジラとの対話についてはこう言います。

「鯨達との交感に言葉はいらない。コミュニケーションではなく、ハーモニーするのだ。」

このハーモニーとは、いのちの響き合いのことを言います。お互いに自然に心を寄せるものはまるで一心同体になるということでしょう。佐賀県唐津でのイルカとの出会い、家族との思い出が響き合い初心になってその神秘なまでの海との記憶を美しい心のままに追い求めていたのかもしれません。

イルカやクジラの痛ましい自死のニュースは、これ以上、母なる海を汚さないでほしいという決死の真心の訴えかもしれません。絶対平和を選んだ彼らができることは相手を責めることもなく、自分を責めることもなく、”愛を体現”することであったのでしょう。

彼らにとっては今も未来の私たちも”みんな丸ごと自分の子ども達”です。子ども達に訴えかけてくるその真心や愛を心で感じ取り、本来の自然に学ぶ心を取り戻してほしいと私も一緒に深く祈ります。これはきっと”自然からこれ以上、心を離さないで”という海とイルカからの遺言です。

最後にジャックマイヨールの志の言霊からまだまだ子ども心を諦めないぞという勇気が湧いてきます。

『自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる』

3つ子の魂は100までを信じ、御蔭様の使命を信じ人類初心の実践あるのみです。
再会に心から感謝します、ありがとうございます。

新しい生き方と働き方

先日、ある子どもに小学校でのこんな話を聞きました。

小学校ではなんでも一人でできることを重んじ、周りの心配をしていたら「他人のことはいいから自分のことをやりなさい」と先生に叱られるそうです。その子は周りをいつも心配して「大丈夫?」と声がけをしているのですがその際にいつも自分のことを先にやるようにと指導されるそうです。

ふと、疑問を感じることがあります。

確かに、自分のことを自分でできることを自立であると定義しているならば他人の心配をするよりも自分のことをやればいいということになります。同じ目標ならそれぞれが自分のことをやっていれば全体では引き上がるのでできると考えますが、それはみんなが同じことを目指し同じことを周りと同じようにするようなことがある場合に限りです。

しかしそんなことは実社会に出てどれくらい頻度があるでしょうか。実社會に出て人と働いてみたら、多様化した今の環境では誰かと同じことをしている仕事などというものはほとんどなくなっています。ひょっとすると昔は大量生産大量消費で工場のような仕事が多かったのかもしれませんが、今では仕事も時間と共に変化し、昔のままでやって温故知新しないものは時間と共に消失していきます。仕事が消失するのは必然ですからその同じ仕事に固執していたら自分もまた失業してしまいます。

人が学ぶということはこの温故知新を繰り返すということです。言い換えれば自分を毀すということです。新しいことに挑戦し、今までの自分を刷新していくこと。新しい価値観に触れては新しい自分に出会い続けて自分を変え続けていくことです。

深めていかなければならない理由もそこに在りますし、楽しくしていく理由もまたそこにあります。変化は創造であり、変化こそ学問の本質です。

もしも人は同じことを皆がするが最良とするなら今なら精密なロボットで構いません。人間にはそれぞれ無二の個性があり一人ひとりに与えられた天分といった得意、特性があるのだからそれを活かしあうことで複雑なことも成し遂げ偉大なこともできるようになるものです。そしてそのプロセスの中に人間社會の幸福もあるのです。

そのためには単に同じことを行う個をつくり上げるのではなく、異なることを協力する中で自分を発揮して周囲のために活躍できる人の方が本来の集団では役に立つように思います。必死に周りができることと同じことができるようになったとしても、それよりももっとできる人が現れたなら自分は役に立てなくなるというのでは、不安はなくなりませんし倖せもまた感じにくくなります。

人が安心するのは自分にしかできないことが、周囲の人たちのお役に立っていることの実感です。それは単に能力だけではなく、その人の”持ち味が活きている”ということです。そしてその持ち味は、周りのために働く倖せを知っている人たち、そしてその人の持ち味を温かく見守り協力を惜しまない仲間たちによって得られるように思えるのです。それは先述した自分のことをやりなさいということではなく、周りのために自分のできることをやりなさいと言う方がいいように思います。それは不安を解消するために頑張りなさいではなく、安心して思い切りやってみなさいという励ましに似ています。

情報化社会が成熟してきて働き方も生き方も、ものすごいスピードで変わり続ける現代において「変化を教える」というのは何よりも重要なことのように私には思います。それは一斉画一に同じことを教えてできる環境で人を創るのではなく、柔軟性を持ち、いつも周りの変化に対して協力し合える個性溢れる豊かな環境で人を創る方が今はいいように思います。

新しい生き方や新しい働き方を子どもたちが創造していくのを今の大人たちが邪魔しないようにしていくことが将来の日本を世界の中で役立てていく方法ではないかと私は思います。子どもたちのモデルになるような新しい生き甲斐と遣り甲斐を自分たちを温故知新していくことで創りあげていきたいと思います。

 

逞しさ~ワイルドハート~

今の時代は自然の環境の中いるよりも、人工的な環境の中にいることの方が圧倒的に増えていることが多い時代です。都会に住めばあらゆるところにまで人工物が張り巡らされています。言い換えれば人間が頭で考えたものに囲まれた中で生きているということです。

いのちには本来、「逞しさ」というものがあります。自然界では逞しくないと生きていくことができません。それを生きる力と私は定義しています。しかし都市化人工飼育の中でその逞しさは次第に失われていくように思います。隅々まで人工的に操作したお金や物に頼る安心と安全こそがそういう人間本来の生きる力を奪うのかもしれません。

自然界というものは、数々の困難が待ち受けます。身近な植物をみていても、天候の急変にさらされ、動物や虫に食べられ、鳥についばまれ、あらゆる災難の中で自らの一生をいのちを燃焼させることで生き切ります。そこには野生があり、温室栽培のものとは明らかに逞しさが異なります。

本来、見守るということを感じる力や御蔭様と感謝する心は苦労する中で育まれていく感性のように思います。自分の思い通りや都合よくいかないと思って不平不満ばかりを並べては解決ばかりに固執しマジメになっていても嫌な思いをするだけで苦労をしているわけではありません。

人生は一度きり、一日一生と、今日ある当たり前ではない日々に感謝し、その日を精一杯生き切る中に真の苦労はあるように思います。如何に自分が活かされているか、如何に自分が生きていることが有難いか、平和ボケせずに生きる幸せを深く味わい盡すのです。

それは自然から離れないという意味と同じ意味になるかもしれません。

生きる力が発揮されるということは、野生を生きるということです。それは自然をエコなどと呼ぶのではなく、自然はワイルドであるという本来の意味を間違えないということです。自然の厳しさと慈しみ、それを存分に感じながら自分らしく生きていくことは、この自分のいのちを自ら主体として磨き光り輝かせていこうとする生きる力です。

物の視方を転じて観れば、自然の生き物たちはみんな一緒に逞しく生きています。自分だけで生きているなどという傲慢な気持ちこそがその人を孤独にしているのかもしれません。様々な生き物を育てたり一緒に暮らしたりする中で自然を取り戻していくことが孤独を取り払うことかもしれません。

子ども達には、この先の未来で何が起きても逞しく生きていってほしいと思います。私たちが大人として何を譲れるか、真摯に正対していきたいと思います。

心を磨く

人間は誰しも自分を特別な存在だと勘違いするものです。昔の言い方だと己を愛しています。他の言い方だと自我自利を優先するということです。自分のことばかりを心配してはそこから物事を考えます。

人間は自分がいれば当然相手が発生します。相手がいれば自分があります、これは相対観と言います。人間は我を強く持てば、彼我が強く表れます。自分の我「▢」の中に「人」が入り込むと「囚」(囚われる)と書きます。こうなると自分か相手かと分かれてしまい、相手を自分だとも思えず、自分は相手だとも思えません。人は囚われていると思いやることができなくなり、利己的で自己中心的で打ち解けない人になってしまいます。結局は自分中心という価値観こそが敵味方をつくりだし孤独にするのです。

例えば、御日様と御蔭様があります。私たちは、太陽がなければ生きていくことはできません。太陽が有難いことはこの地球上のすべてのいのちは体感しています、そして畏敬の念をもって御日様といいます。昔はお天道様という言い方もしました。見返りを求めず、いつも同じように朝日が昇り夕日に沈む、そしてまた翌日に出てきてくださる。そこに御日様の有難さを感じて日々にお祈りするのです。世界では太陽信仰がほとんどを占めているのもその有難さを常に感じているからです。

また同時に御蔭様という言葉があります。これは御日様に対して受け手の自分たちの心がどうなっているか、それは太陽があるから影がある。つまりはその陰の向こうに太陽があることを忘れてはならないという感謝の心です。人間は人間同士ばかりで自分のことばかりを相手をぶつけ合えば争いをうみ孤独になり自分も周囲も破滅に導いていきます。今のテロも戦争も、同根はこの御蔭様の心を忘れるところからはじまります。足るを知らず不平不満を並べては自分を被害者にし、相手を加害者にするという相対的な観念に縛られて囚われ続けて負の連鎖はいつまでも断ち切られません。ある意味、当たり前に満たされすぎて心が満たされないことが増えているのかもしれません。

しかしその連鎖を正の連鎖にするには、御蔭様であることを自覚し、自他はお互い様であると思うところに囚われの▢を取り払った人になります。この「▢」は自分の中にある大前提、つまりは価値基準です。そして「人」は、同じ方向をむいて手を合わせて祈る、「一緒、助け合い」の意味です。自分か相手かという相対観は、不信や疑い、孤独や独善の価値観に縛られます。しかし御蔭様という絶対観では、お互い様や絆、素直や一緒になどの自他一体の境地に入れます。

人生は良いこともあれば悪いこともあります。しかしそれを自分を磨く試練だと受け止めて、良いことはもっと善いことにし、悪いことは善いことに転じて福にしていくことが醍醐味のように思います。実際には、悪いことがあったからその体験が誰かの役に立ち、また善いことがあったからそれもまた誰かの役に立つ。悪いことから抜け出すことばかりを感じるよりも悪いことを転じたことで人の役に立とうと切り替えたり、良いことばかりを追いかけるよりも良いことがもっと善くなるように転じてそれをまた人の役に立てていこうと思う事にも人生の無駄のなさに感謝ができます。

利他行や下座行は、まさに御蔭様の実践であり御日様の有難さを学べる人間修養の要のような気がしています。

最後に坂村真民さんの詩を紹介します。

「手のひらと足の裏」(坂村真民)

利他行に
あけくれるひとの
手のひらの
うつくしさよ
きよさよ
あたたかさよ

下座行に
あけくれるひとの
足の裏の
こうごうしさよ
ひかりよ
ありがたさよ

手のひらと足のうらはどちらもぱっとは見えないところですが、その真心はもっとも顕れるところなのかもしれません。心を自ら開き手と足を伸ばすことを日本の神話では手伸ばし「たのしい」と詠むそうです。自分の今の生き方は「たのしい」かどうか、本当にそれでたのしいかと自問自答し、変化の方、たのしい方を選んでいくことで自他の境界にあるこの「▢」組を「人」にし、一緒になって「大」の真心の実践にしていけるよう心の精進を重ねていきたいと思います。

裸の心

人間はみんな我があります。特に我が強いということは、理想が高いということでもあります。しかし同時に我が強いということは、それだけ自分に執らわれやすいということでもあります。自分に執らわれれば執らわれるほどに自利に走ってしまいます。

以前、ある住職の言葉に出会いました。

「俺が俺がの我を捨てて、御蔭おかげの下に生きる」という言葉です。

この言葉を紹介する住職の方は、池田智鏡さんという女性の方ですがご自身の壮絶な人生体験を経て尼になり、この言葉に出会いそれまでの生き方を見直し、全て一からやり直して住職になって人々へ心の支えとなるべく全国各地へ講演をなさっているそうです。

私自身はとても我の強い人間です。

我が強く、どうしても感謝がまだまだ土台になりきりません。やさしさだけでは自分に甘くなり、強いだけだと厳しくなるだけ、マジメになっては思いやりの実践が途切れ途切れと猛省の日々です。どうやったら心が寛く大きな人になれるのか、今でもよくわかっていません。

自分の力でやったと思う驕りや慢心の心を澄ませて有難いと感謝する慎み深く謙虚な真心は出たり消えたり、人生道場はいつも真剣勝負の連続です。自分がすごいのではなく御蔭様がすごいのだと思える日もあれば、我が強く出ればやはり逆の自分になってしまいます。一生懸命にやってみては、できた日もあればできない日もある、一進一退の中で呼吸するかのようにただ直向きに前に進んでいるだけです。

人は孤独を感じるのは二つあると言います。その一つは無視、無関心に自分を扱われたことへの怒り。もう一つはわがままが人を孤独にするといいます。謙虚に周りの御蔭様と思えるようになるには、この我の強さを心を磨きどう芯の強さに換えるかという心の修業が誰にしろ必要のなのかもしれません。

池田智鏡さんはこう言います、「助け合うこと。自分さえよければいいという考えは、自分も滅ぼし社会も滅ぼします」と。この自分の認識次第では周りへの回路を断ってしまい小さな自分に囚われてしまいます。「忘己利他」に生きるというのは、その強すぎる我を少し下げて己に克ち己を少しでも捧げることができるということでしょう。人道の極みはこの自然体、裸の心でいることのように私には思えます。

私自身、同じような体験をしているものの同じように乗り越えようとする人たちの苦しみを分かち合い許し合えても、それを具体的に乗り越える方法も工夫も今はまだ発明できていません。しかし、祈るような心で自他を一体に大切な人だからこそ真摯に一緒に乗り越えさせてほしいと心から思うのです。

機会とご縁は、必要なことであり人生には一切の無駄はないのだから裸の心で生きて子どもたちの模範になるような大人を目指していきたいと思います。面白い人生を愉快な仲間づくりを味わいながら思い出深く刻んでいきたいと思います。