自助精進

昨日、昔から私たちと一緒に理念を取り組んでいる園を、これから一緒に理念に取り組む園が見学に伺いました。もう6年も前から一緒に実践を高めて取り組んでいますから気心も知れているのですが、改めて学び直すと本当に多くのことに気づかされる素晴らしい一日になりました。

人生には無駄がないというのは、決して無駄になっているものはない。その一つ一つに気づけるかどうかは自分次第であり、その事物から教えていただくことの方が確実なのです。

過去に共に歩んできた軌跡が如何に有難いことだったか、誠実に正直に取り組んでお互いに信じてきたことが如何に価値があったのかは、振り返った時にこそ味わい深くなるものです。

信頼というものは、信じて認めるということですが一緒に真剣に取り組んだからこそそれが強い絆になって今を照らすのでしょう。同じような悩みや苦しみがあり、そしてそれを乗り越えたものもこれから乗り越えるものも共にその大切さに気づけるということは道を一緒に歩んでいきましょうという無言の励ましになるのです。

他人が実践し踏み固めてきた道を観れば、それを観て元気を出るのは諦めなかったという心の姿勢に触れるからかもしれません。理想に向かって信じて歩んできた仲間たちの存在は心強く自他を愛し励ますものだと改めてご縁に感謝する日になりました。

特に感謝したのは、一緒に取り組んできた理事長の一言です。

如何に人が定着するかという話の中で理事長が大人も子どもも同じことですという話です。他人が居心地がよくなるのは子どもならどうか、

まず一つ目が「ここは僕の部屋だよ。」と子どもが感じていること。そして二つ目が「大好きな先生がいる」こと。そして三つ目が「大好きなお友達がいる」ということと教えてくださいました。

これが大人であっても同じことで、その職場は自分の家だと思えること。そして大好きな上司や大好きな仲間たちがいればそれがもっとも居心地が善いと仰っていました。

そのうえで、美味しい給食、色々なイベントとか、その他の処遇とかのオプションがあればいいとありました。

そして「この保育園の一人だと思えることが大事。」だと語られました。これは言い換えればこの組織の一員だと思えることが何よりも大事だということです。

自分がこの一員であることに誇りを持てるような関係になることがもっとも有難いことかもしれません。本気で理想を求めて已まず実践を励まし合い助け合い、どんなことがあっても前に進む、いや、進んでこれたという大好きな自分を持てる人が一人でも増えることが遣り甲斐であり働き甲斐だからでしょう。

実際は大変だったし今も大変ですと同時に仰られる姿に、ご縁と出会いがあったことに深い感動がこみ上げました。一つのことが結実するのは数年から十数年、もしくは数十年、数百年とかかるかもしれません。

しかしこの道は一度しか通らぬ道、もう二度とは通らぬ道なのです。

恥じないように誠実に取り組んできたことが、形になることは本当に有難いご縁に見守られ支えられた日々があったという証明です。饅頭を増やすよりも餡を増やせという言葉の意味も改めて深く腹に落ちてきます。

まさに「天は自ら助けるものを助く」です。自助精進こそ進化成長の要諦ということなのでしょう。

引き続き、人が仕合せになる仕組みを人が徳に報いる自らの実践を怠らず日々を真摯に高めていきたいと思います。

 

実践の励まし

実践をしていると、いつも蔭ながら多くの人たちに支えられ応援されていることに気づきます。

先日も、クルーブログというものを愛読してくださっている方から色々な質問をいただいたり、また新聞を読んでくださっている方からも記事を褒めてくださったりしました。

他にも日ごろの実践がお客様のところで、参考にしてくださったり真似してくださったりと発信したことを丸ごと信じて一緒に取り組んでくださっていたと知ると、有難い気持ちになり頭が下がる思いがします。

本質から外れないようにと、理念を忘れないようにと、日々に実践を増やしては来ましたがそれが誰かの勇気になったり、それが誰かの貢献につながっていくのを実感すると、正直に取り組んでいてよかった、誠実であって善かったと自分を褒めたくなるし自分を好きになるものです。

人間は正直に行うことや誠実に取り組むことが最も尊いと気づくのは、見た目で誤魔化さなくても自分自身が観ている、自分が取り組んでいることは天が知っていると自分に正直誠実であるときかもしれません。

実践をさせていただける有難さというのは、実は多くの人たちの見守りがあってこそだと直観するのです。

実践はひとりで黙々と坦々と行うものですが、それが知らず知らずにお役に立てていると知るとより心が強くなっていきます。そして一緒に実践してくださる仲間たちが増えていくのは何とも心強い気持ちになります。

道はどのように歩くのかはその人が決めるものです。二度と同じ道は通らず、もう一度通ることはない道なのがこの人生です。その人生をどのように歩んでいくのかはその人が決めています。

その信じた実践をみんなで持ち合って、お互いに道中を励まし合いながら助け合いながら歩める道は、豊かで愉しいものであるのです。

たった一度の道をどのように歩めばいいのかを発信していくということは、自分の生き方を、そして働き方を示すことです。何のために生き、何のために働くのかを発信するということは、同じように生き、同じように働きたいと願っている人たちの励ましになるのです。

励ますというのは、背中を見せることかもしれません。そしてその背中をそっと押してあげることかもしれません。人は信じれないようなことが多いとだんだん不安になり分かっていてもできないというように歩みが弱弱しくなってしまいます。

そんな時こそ、実践がお役に立ち、励ませるように思えるのです。

どの人生も、いや、すべてのいのちもその生き物が生きる以上、自然界では何かの御役に立っているのですから正直に誠実であればそれだけで周りの力になっているというのは真理なのでしょう。

多くの励ましをいただいているからこそその有難さを決して忘れず、感謝の顕れでもある日々の実践を怠らず、正直に誠実な自分を高めていきたいと思います。

信を握り合う~絆~

人間は誰かと一緒にいるだけで支えられるものです。

特に価値観を共にする人と一緒にいるというのは、お互いの存在を認め合い、お互いの努力を信じ合えますから居心地が善くなるものです。

昨日もお客様のところで同じ実践を積み上げていく中で共に振り返り、共に反省し、共に励まし合う中でお互いが信じ合うものを確かめ合う中で仕合せを実感しました。

また相手から求められ、一緒にできる仕合せの御蔭で安心できますと言われると何とも有難い気持ちに心が満たされていきます。

御縁というのは不思議で、自分が信じて一生懸命に行い愉しみ喜ぶことがほかの誰かのためにお役に立っていると思えることは有難いことです。そういうご縁をいただけるのもまた喜びと幸せであり、そういうご縁に導かれて自分か活かされていることに感謝の心に満ちてきます。

相手を思いやっていながらも相手からも同時に思いやっていただいているという感覚は思いやりに満ちていると思います。

つい人間は一人でやろうとすると、うまくいかないことを他人のせいや自分のせいにしてしまいます。しかし一緒に取り組めば、相手のせいにも自分のせいにもせず、お互いに感謝しながら必用としあって助け合えるものです。

同じ目的のために同じ理念のためにと力を合わせていけば、そこはまるで家族です。

一緒に実践していられるのは、同じ理念があるからです。理念とは本質のことであり、理念とは自分がもっとも大切にしたい理由です。そういうところをお互いに理解し合い分かち合ったならその時こそお互いが信を握り合うことができるように思います。

信を握り合うというのが絆のことであり、お互いが自分と決めた約束に誠実になっているということです。この強い絆は、お互いが相手をみて自分を変えるようなこともせず、お互いが自分で決めた約束を自分で守るという決心と覚悟に忠実であるということです。

信頼というのは、自分自身に負けずに他人のせいにもしないときに結ばれていきます。その信頼があるからこそ、相手のことを自分のように思いやり、励まし、応援し、労い、そして褒め、愛を与え合うことができます。

自分が遣ってきて善かった、諦めなくて善かったと思うのは、自分が挑戦し自分が打ち克って道を切り拓いてきたことを信じる人たちが幸せになっていく姿を観るときです。

それもこれもまたご縁の不思議な世界に導かれます。

ひとりひとりの出会いを大切に、丁寧に丹誠を籠めて実践を積み上げていきたいと思います。

 

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。

全体観~トータルビジョン~

物事には大きく二つの見方があるように思います。

これは自分を中心に見ている世界と、全体から観えている自分という視点です。

これは例えれば、人間でいえば自然から離れている自分か、自然の一部としての自分かという見方と同じです。もしも人間が自然の一部として考えていれば自分勝手な身勝手なことは繰り返しません。しかしもしも自然と人間が離れて、人間の一部に自然があると思えば自然は自分の思い通りにしてしまおうとするのです。

この利己的な考え方というのは、何でも自分の思い通りにしたいという欲望のことです。思い通りにしたいと思うばかり、自分の我執が固定概念に束縛されそのことから苦しみが起きてきます。その苦しみは、思い通りになっているときは満足し、思い通りにいかないときは周りに不満を向けていくのです。それを我慢しても、思い通りにしたいという欲望に呑まれているのですから結局は他人のせいにしたり言い訳ばかりになってしまうのです。他人の言うことをいつまでも素直に聴けない頑固な人もこの自分中心の考えに呑まれている人に多いように思います。

人間は我儘になってくると利己的になり、謙虚になってくると利他的になるように思います。

そしてこの利他的な考え方というのは、「全体からみたときの自分の視野が持てる」ということです。言い換えれば、物事や自分を全体の一部としてトータルで客観視することができるということです。

自分が所属している会社、その会社の業界、業界が集まった大きな経済、時代の潮流、国家の方針、アジアの眺望、世界の趨勢にいたるまで全体から観ることができれば如何に自分がその一部であり、自分が何をすることがもっとも世の中の御役に立つのかを自覚するのです。

しかしこれが自分からの視点だけになれば、自分の所属する会社や身近な人たちだけに囚われて自分の思い通りにならないことばかりをなんとかしようとして動かそうとするのです。よく考えなくてもすぐにわかるはずですが、自分が動かそうとしたって自分の身体ですらそんなにうまく動かせないのに全体を動かすなどはできるはずがありません。それにそもそも会社がある御蔭様で自分が働くことができるのですからその会社の一部である自分が何でも自分勝手にして善いわけがありません。自分勝手の自由というのは自由の本質ではないのです。

ただし、もしも全体の一部としての自分を自覚していれば全体にあわせて何が最適か、何が最善かを省みて正しい行動はとっていくことはできるのです。自然農も然り、循環も然り、真理も然り、本質も然り、理念も然り、これらはすべて全体観から和合したものです。その全体を慮り自分を周りのためにと自分から活かしていくならそれは自由自在の境地に近づいていきます。

私も日々の理念を省みて、如何に自然と一体になっているか、如何に自他一体になっているか、如何に実践しているかというように、自分中心ではなく全体中心の思考によって自らの判断基準を設けています。社會は共生と貢献で自分を役立てるのが自立だからです。

全体観がある人は、自分の実践が如何に世界に影響を与えるのかを自明しています。しかし頭でばかり考えて実践せずに、行動もしない人というのは自分中心の欲望に囚われています。頭で考えるということ自体が自然から離れている行為ですし、脳みそはいつも自分のことしか考えないようにできているのです。

その点、心はいつも全体に開いているものです。心が開いている人は、頭で考えませんから常に行動と実践を優先し、心がつながっている世界の影響力を自覚していきます。他人に迷惑をかけるということも心はすぐに知覚しますが脳みそは他人の迷惑など顧みることはありません。なぜなら脳みそは計算はできても、実践はできないからです。ある意味で心を澄ますというのは脳みそばかりを使わないという意味でしょう。

常に全体の一部である自分自身を自覚してこそはじめて所属する価値を理解するのです。人間は色々な人たちにや自然に支えられて生きていられ、その自分が全体の一部であるからこそ自分がいい加減な行動はしてはいけない、自分の生き方や働き方が所属するところから世界に向かって開いていてその波紋や波動を放っていることを忘れてはいけないと思うのです。

今の時代、自分中心の利己的な考え方が増えているのは自然から離れて暮らしているからでしょう。自然の一部として暮らしていたころはいつもみんなを家族のように親しみ、常に相手のことや周りのことを思いやり生活していくことができていたように思います。

だからといって時代のせいにするのはおかしく反って今はそれを自らで実践し取り組む時代だと念じ、自然の一部、全体の一部としての自分自身を役立てて貢献していこうと思います。本来の客観視とは冷めた見方ではなく、全体の観方のことを言うのです。

人生はトータルですから、常にトータルで観る目を養っていきたいと思います。

真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

利己心の魔

先日、見学した日本理化学工業で大山会長は「利他心」の大切さを教えてくださいました。この反対に利己心というものがあります。

これはどういうものかということを考えてみることにします。

利他心が人の為に自分を尽くしていくことに対して、利己心というのは自分の利害のために動き他人のことを考えない心のことを言います。利他で生きる人は、常に自分の心も感情も澄まされていますが利己で生きる人は嫉妬、不満、不足、不安、怒り、恨み、悪感情に苛まれています。

そもそも人間というのは、波があるものです。心が澄まされ清らかであればあるほどに相手のことを思いやり他人のために自分を尽くせることに幸せを感じられるものですが、ひとたび自分の感情に呑まれれば正しくないようなことを平気で行っていたりするものです。

自分が大変だと余裕がなくなれば余計に心は乱れ感情も波立ち、まるで嵐のような世界の中で暴走する車のようになってしまうものです。利己心が働くときはそういう時で、そうなってしまえば他人の迷惑なども顧みず好き勝手に我儘をして周りを困らせてしまうものです。

直接的に困らせてはいないと本人は自覚していても、実際はその波長は必ず周囲に影響を与えます。私自身も、その波長をもつとすぐに周りに似たような人たちの波長を感知して伝染してしまいます。これをメンターは波長同通の法則と仰っていましたが、言い換えれば自分の波長次第でいくらでも貢献することができるということです。

もしも自分の波長が、正しいことをさせてください、他人に親切にさせてください、誰かの御役に立たせてください、子どもたちのために力を使わせてくださいと祈るように実践していれば、自ずからその波長が周囲を巻き込み、周りも同じような波長の人たちが集まりご縁はさらに善い方へと広がっていくように思います。

しかし逆に利己心に呑まれてしまえば、自分自身の身中の虫、己心の魔、己そのものに負けてしまいバランスを崩して外界を破壊するような暴挙に出てしまうかもしれません。そうなっているときにいくら感情を抑えようとしてもすでに利己心に呑まれているのでそれは取り払うことができません。

先祖たちはそれを自覚していたからこそ、神社に参拝し心を澄ませる精進を怠らなかったのではないかと私は得心しています。つまり清めたまえ祓いたまえのことです。心を澄ませるというのは、いつも神様と同じ道を歩んでいるというかんながらの真心で生きることだからです。

それは自分が真心であったか、思いやりで実践できているか、その学びが他人の御役に立てているか、誰かの幸せのために自分を尽くしているかと、常に自分を正しい方へ、誠の方へ、感謝の方へと自己実現させているかということに由るように思います。

克己の工夫というのは、如何に自分の心を澄ませていくのかということに尽きるように思います。利己心の魔を退治するのは、利他心の澄んだ真心です。

これは人間生きている以上、「生き方=活かせ方」ですし「働き方=働かせ方」ですから日々に修養を怠らず、常に自己との対話と内省によって高めていくものだと私は思います。

言うのは簡単ですが遣るのは一生であるのがこの自分を修めるということです。日々、正しいかどうか、誠かどうか、心が澄み渡る利他心で歩めるように先に自らが魔が入る隙を与えないくらい心と正対し、善なるご縁を大切に有難い一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

今の時代、人々が神社に穢れを祓いに行くことも少なくなりました。子どもたちの魂も今は色々な大人の波長で影響を受けています。だからこそ逞しく健康を心がけ、かんながらの道を弘め、自らが動く存在として市井の中で正しい自己実践に努めようと思います。

自警自戒の志

人は志を育てていくことではじめて志士たるゆえんです。

志というものは自らで叱咤激励しながら、自分の本体本心と正対しそれを信念にまで昇華していく必要があるように思います。心を落ち着かせていくだけが学問ではなく、どんな状況下においてでもその志がなんら影響がないという木鶏のような姿が本来の姿のように思います。

吉田松陰は、若くして人格を修養し多くの人たちに多大な影響を与えました。自らの天命を遣り切り、自らを自らで育てあげた日本第一級の人物です。その松陰先生も、常に自らを発奮しながら歩んできた足跡があらゆるところに残っています。

私も何度も若い時はその言葉に支えられ、また天命を生き切ること、自分を遣りきることの大切さを何度も味わうことができました。

例えば、このような言葉も記されています。

「自(みずか)ら淬厲(さいれい)して、敢へて暇逸(かいつ)することなかれ。」(安政二年四月二十四日「清狂に与ふる書」)

これは自分から進んで人格修養に努め、決してのんびりと遊び、無駄な時間を過ごしてはならないという意味です。淬厲とは鉄を焼き磨き続けよというように常に自らを高め続けて怠らない、暇をもてあそぶなという戒めです。

他にも「自警詩」というものの中で「士苟いやしくも正を得て斃たおる、何ぞ必ずしも明哲身を保たん。 幾を見て作なす能はずんば、猶ほ当に身を殺して仁を成すべし。 道は並び行はれて悖らず、百世以て聖人を俟つ。」とあります。

意訳ですが、志士たる者、誠に正しいことのため、人々の為に命を懸けて尽くして斃れるものです。どうして自分の保身や自分のためだけに賢くなり学問をするのか。 もしチャンスを得られずそれができないというのならば、その一身をもっと捨てて人々のために思いやりを尽くすべきではないか。 道は常に並行して決して尽きること無いのです、いつの日かもしくは百世後には、わが志を知る聖人も現れることもあるのだから。

他人の評価を気にして志は為せません。誰が分かってくれなくても淡々滔々と真心を尽くすこと、思いやりを実践することではじめて志は育つのです。誰が分かってくれないとかうまくいかないとか、チャンスが来ないとか環境が悪いとか、色々と言い訳をしては自分の真心を尽くさないのではそれでは修養する価値もないのかもしれません。

王陽明は、事上練磨という言葉を用い日々の修養を説いています。しかしこの学問も、ただ穏やかになりたいくらいでやるのなら価値がないと喝破します。学問は須らく、困っている人たちや悩み苦しむ人たち、そのことにより世の中がより善くなるために行うものだからでしょう。

日々というのは、仕事があるにせよないにせよ、学ぶことばかりです。

その理由は、自分の体験が誰かの御役に立てるからです。だからこそ自分を生き切るということは何よりも学問をするうえで大切な道理であり人生の大道であるようにも思います。未来の子どもたちや聖人たちに恥じないような生き方かといえばまだまだ私は情けない日々を送っています。

あの吉田松陰ですら怠惰な自分の心に喝を入れ、甘えに打ち克つ努力を貫徹し忘れなかったと思えば、私もこれではいけない、このままではいけないと自警自戒しつつ自らの志を磨いていきたいと思います。事上練磨によって自らを発奮奮起していのちのままに学びを高めていきたいと思います。

 

人のために動く~働く幸せ~

先日、日本理化学工業を見学するご縁に恵まれ、大山会長から「皆働社會」についてお話をお聴きすることができました。

そもそも「働く」という字は、人の為に動くと書かれています。この字は日本語であると仰られ、他人の御役に立つという意味で用いられるのが本来の意味であると教えていただきました。

昔の日本人というのは、暮らしそのものが働くことだったと言われます。西洋のようにバカンスもあるわけではなく、休みも週休2日かだったわけではありません。日々に御日様が昇りご挨拶をしたら社會のために自分のできることでお役に立ち、日が沈めはみんなでまたその日一日の仕合せと御蔭様に感謝し御休みするという繰り返しの中で助け合っていました。

今では個人主義が蔓延し、朝から仕事をして夜寝る前まで黙々と行うことが増えているように思います。時には徹夜で休みもとれず仕事に追われるような日々を送っている人も多い時代です。

そのうち何のために行うのか、これは何のお役に立つのかを思うのではなく終わらせることが目的になって疲れはてている人も増えてきました。人間というものは、自分のできることが誰かの御役に立つ実感がでるときその疲れもまた清々しいものになるものです。しかしそれを思わずに、ただ遣ることがメインになれば疲れもとれず楽しくなくなってしまうものです。

仕事を楽しもうと無理に楽しんでも、それは一時的な娯楽のような楽しみは感じられても長続きする愉しみにはなりません。よく仕事で疲れたからと旅行にいってみても、帰ってきたらどっと疲れるということがあります。本来、仕事の疲れというのは、仕事でしかとることができないのに、仕事以外のことで疲れをとろうとするから楽しくなくなってしまうともいえます。

長続きする真の愉しさというのは、働くことで得られるものです。それはただ業務を遂行することではなく、誰かのためにお役に立ち、そのことでお役に立てる実感を自らが味わっているとき働く幸せを感じて愉しくなるのです。

仕事が楽しくないというのは、業務そのものが目的になってしまい本来何のために行うのか、誰かのために自分が親切であったかというのが関係しているのです。

私も日々に忙しくしていますが、どんなに忙しくても自分の存在や自分が一生懸命に取り組んだ仕事が誰かの御役に立っていると実感するとその疲れも吹き飛んでいきます。自分が他人のために動くとき、働ける有難さ、働くことの幸せを実感できるのです。

心の豊かさと心の貧しさというのは、働くと仕事の違いに似ています。西洋でもwork とlaborという言い方で単語が分かれているそうです。言われたことをちゃんとできるのが仕事に対し、言われていなくても他人のために動くのが働くということです。

毎日、自分を存在させて有用に活用してくださる組織や社會に対して、どれだけ自分が御恩返しをしているか、どれだけ自分から困っている人たちの力になれているか、そういうことを探して自分を用立てていくことがみんなで働くということなのでしょう。

社會とは本来、みんなで働けるという意味が本質のように思います。

他人の御役に立てる有難さがあるから、自分が幸せになるというのは人間は本来周りと一緒に豊かになっていくための存在であるということなのでしょう。一人で仕事ができるようになることにあまり意味を感じません、それよりも多くの人たちと働くことができるような人になることを自立といいその中で自分が役に立った実感が得られることが自己実現というのでしょう。

仕事から考える自己実現は自分勝手で我儘なものですし、それを得ても本当に周囲が幸せかどうかは微妙なものです、それよりも働くことから考えた自己実現は思いやりにあふれ自他もみんな一緒に豊かで幸せになるのが分かります。

どちらに生きるかも、その人の生き方、そして働き方次第です。子どものモデルになるような生き方働き方を見つめていきたいと思います。

親切~人道の極み~

人間をはじめ、すべての生き物にはできることとできないことがあります。

たとえば、ライオンが鯉にはなれないように太陽が海にはならないようにそれぞれにはそれぞれの役割というものがあります。ひとつで全部の機能を持つというのは、石が空を飛び、樹木が走るようなものです。そんなものをその特性は必要としていません、それはそのいのちが余計なことをしない方が自分が役に立つことを知っているからです。

生きものというのは不思議で、無理に役立てようとするよりも自分のままでいることが誰かの何かの役に立つということを信じている方が役に立てるように思います。無理にクワガタが蛇にならなくてもいいし、お米がトマトを目指す必要もありません。

しかし人間は、誰かと比較され一斉に社会に求められた能力を獲得していく過程である一定の能力がある人を高評価するようになってきました。学校でいえば優等生であり、会社でいえば経営者などもそうです。能力が高い人がもっとも価値があるかのように評価されれば、能力の低い人たちは無能というレッテルを貼られるのです。

そういえば昔、成績が悪い時、クラスの平均点を下げるからと補習を受けていました。その際、無能の集団だと言われみんなにバカにされたことも覚えています。私には他に自分には数々の特殊能力があって自信があったので気にしていませんでしたが、真面目な友達は深く傷つきこのままでは役に立てない親不孝だと嘆いていました。

植物や動物、昆虫にいたるまで成績が高いから生きている生き物は皆無です。実際は、時分らしく生きている生き物たちが周囲の中でお互いを有益につながりあい、無益な争いは避けようとします。

しかし人間だけは、いつまでも無益な争いはやめず、有能かどうかで人を裁きます。有能ではない人間は社會の邪魔者扱いされ、有能な人間だけはスターのように周囲の憧れになっています。

他人の役に立ちたいと能力ばかりを磨いてきても、役に立っている実感がないという人が世の中にはたくさんいます。先日も、自分が役に立ててないと泣いている先生たちと話す機会がありました。

そのどの方々も能力はずば抜けて高いベテランの先生方です。能力だけで役に立つのではなく、自分の存在で役に立つことは人に親切にすることだと私は思います。どんな人でも、親切にしたいと願い行動するなら必ず誰かの御役に立つことができるからです。

私は、困っていることがたくさんありますし何回も困っている場面に出くわします。そんな時、困っていたら周りの方々がいつも助けてくださいます。周囲はとても親切なのです。その親切を受けているからもっと自分も周りに親切にしたいと願うようになりました。

人は有能かどうかよりも有用だと昨日のコメントに書いてくださったのは本当にその通りだと思いましたが、そのうえで親切にすることは何よりも大切だと改めて私は確信するのです。

毎日、一つでもいいから他人に親切にしていれば必ず自分が誰かの御役に立つことを自覚できるように思います。困っている人を探したら、自分が力になってあげる、その力がなかったとしても一緒に考えてあげる、それだけでいいのです。

生きるということは時折つらく苦しいものだと思えます。そんな時、仲間がいたり、友人がいたり、自分のことのように共感し援助し励ましてくださる方と出会うことで生きることが楽しくなり、周囲の御蔭様を知り有難い気持ちに心が幸せになるものです。

人は誰かを信頼し、誰かの役に立つために親切にしていけば、自ずから自分の価値を正しく学べるように思います。本来の社會とは、もっとも身近な人たちのために親切にしていくことだと私は思います。

子どもたちにも、能力が高いから優秀なのではなく、人に親切に生きているからこそ価値があるのだということを背中を通して伝えていきたいと思います。自分ができるかできないかはわかりませんがいつもたくさんの方々の支援の中で自分の道が歩めています、その御蔭様に感謝しつつその御恩返しを今日会う方々、明日会う方々へと譲り渡していきたいと思います。