見守り待つ~痛み分け~

人は心に傷を負うと、その傷がいつまでも疼くものです。

それは過去の逃げ場のなかった時の苦しみを思い出すからです。人間は一人で辛く苦しいときは、誰にも相談できないものです。なぜ自分ばかりや、どうして自分だけというように一人の狭い世界に閉じこもってしまうからです。

それを周囲は見ては被害妄想だとか、自意識過剰だとか言いますが本当はそうではなくその人は傷ついているから防御したいのです。これ以上、傷つきたくないから助けを求めるサインであるのです。人間が何かをするのは、きっとそれ相応の理由があるのです。そっちを観てあげることが人間としての優しさであり強さであろうと私は思います。

相手が深く傷ついていると気づいてあげれば、その傷を分かってあげて待ってあげることができます。しかし傷は身体ではなく感情ではなく、心にあるのだからその傷が一般的には目には見えないのです。心の眼で観るときに、はじめて観えますがそのためにはその人が深く傷ついたことを傾聴し共感し受容できなければなりません。

人は心で相手を観ないでその人の表面上の行動や言動ばかりを感情というフィルターで見ると画一的な刷り込みも入り眼が曇りますから単なる被害妄想や自意識過剰、自己中心的で身勝手な人物かのように錯覚して誤認してしまいます。

しかし本来は、そういう人は何かそれ以上踏み込まれたくない傷がある、過去に何かきっと大きなトラウマを持っていると思いやり信じてあげることでその人の痛みを緩和してあげることができるのです。

逃げ場がない時に向き合えといっても、追い込まれて乗り切ってもそれは力でねじ伏せただけになることもあります。本当は、逃げ場があるときに向き合ってそれを自らで乗り越えて誰かと一緒にそれを称えあい認め合うときにだけ人は傷を癒せるように思います。

心が折れたことを思い出すと、もう二度と傷つきたくないと自分から先に相手に求めては諦めてしまいます。しかし、本来はそれでも自分が先に諦めない、相手に求める前に自分に求めようと勇気を出して世界を信じることで様々なことを自然に受け容れる日が訪れるものです。

そしてその過去の傷の痛みは、これから同じような体験をした人たちとの痛みの分かち合いで共に痛みを乗り越えていくことで人は出会いの感動に世界を癒せるのです。

準備ができるまでじっくりと待てばいい、その日が来るのを楽しみに待てばいい、共に傷つき辛かったからこその痛み分けをすることができればそこに同志や仲間、親友たちがいるということですから。

傷は待つことで癒えるのだから、じっくりと見守り待つことを自ら実践していこうと思います。

心の本体~優しさ~

人は生きていれば心が深く傷つくことがあります。

自分の存在を認めてくれる社會の中では、一人ではないと思えますが自分の存在を認めない社會の中では一人ぼっちになったと実感するものです。

自然界では、一人ぼっちになることはありません。自然は、光、水、空気、様々な植物動物昆虫たち微生物といった生きものが循環し有機的につながっています。そういうご縁の中に御互いが活かし合って存在しています。

しかし人間界では、意図的に仲間にしたり排除したりと狭い世界の中でいつまでも争いは絶えません。人間が社會を創る動物だからこそ、その社會をどのようにするのかは人間の思想、生き方によるのです。

人は傷つくのは、優しい心を持っているからです。優しさというのは、共感のことで他人を自分のように思える心があるということです。もし自分がこの人だったらと考える力があるから、他人に優しくできるのです。

論語に「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」とあります。

これも「仁=思いやり」を基本にした考え方であり、人間は常に自分がしてほしくないことは他人にはしてはいけない。言い換えれば、自分がしてほしいことを他人に施してあげるといいということです。

そしてそのためには、自分の心を受けとめて、それを深く感じとり、同じような立場の人達や同じように苦しむ人たちの力になってあげたいと転換することが共感の価値であろうとも思うのです。

無償の愛というものも、親が子に換わってあげたいと願うように共感や受容というものは自分の心に深く相手と共通するものを持つということでしょう。言い換えれば相手が自分だと思える一体感のことです。

今の時代は、この心の共感力が低下してきているようにも思います。表面上ばかりを合わせ、無理に縦の関わりを強要される社會の中で心を閉ざして生きている人が増えているように思います。心を閉ざせば閉ざすほどに、耳は塞がり、心も通じず、受け止めることもできなくなります。

引き籠りというのは、本来、そういう状態を言うのであり、心を閉ざしている人は実際はいじめられる方ではなくいじめている方なのです。心を開いているからいじめを実感するのであって、心を閉じているからいじめるのです。

豊かさや貧しさというものがあるとき、心の豊かさというものは所有物という考え方のところにはありません。自分という物として考えるのではなく、自分という存在を尊重するときにだけ真の豊かさは得られるからです。貧しさの本質は、自分の存在を受け容れようとしない、自分らしさや個性を大切に尊敬しようとしないということでしょう。

優しい心というものは、人間が生きていく上で何よりも大切にしてきた生き残る智慧であろうと思います。思いやりや真心の基本も、この優しい心を如何に守り育てるかにかかっている気がしています。

子どもたちは優しい心を持っています。それを大人都合で大人にさせていく過程で、失わせていくというような環境は誰が造りだしているのでしょうか?身近な大人たちの生き方が、子どもたちに希望を失わせてはならないと感じます。

優しさとは、心の本体です。

自然が私達の存在を認めてくださるように、人間が存在を認めれば生命は輝きはじめます。
子ども達の魂を守るのは、先人を生きる私たちの使命と責任です。

真摯に社業に邁進していきたいと思います。

安心村社會

ムラ社会という言葉があります。

これを辞書で調べると「1 有力者を中心に、上下関係の厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な村落。村の決まりに背くと「村八分」などの制裁がある。」「2 同類が集まり、ピラミッド型の序列の中で、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会を1にたとえた語。談合組織・学界・政界・企業などに用いる」(goo辞書)とあります。

強烈なピラミッド型組織で、一方的に秩序を維持する集団ということでしょう。
絶対的秩序を守るのがムラの存在であり、秩序そのものの人がムラ人という定義です。

しかしこの村という考え方が悪いというわけではなく、この村社会が悪い方へと使われるのは思いやりで見守るのではなく、保身や利権を守るために強制的に管理するときにまるで「いじめ」のようなものが発生してくるから問題なのです。その人らしさを蔑にする組織では希望を持てません。

本来の村というのは、相互扶助で成り立ちます。お互いに力を合わせて生きていくために、御互いに譲り合い見守りあいながら生活をする共同体です。その中で個が引きたっても、それを寛容し村が活かしていけばいいのです。

しかし軍隊のように徹底して組織を管理すれば、それは義務や権利ばかりをそれぞれが主張しあう秩序だった共同体となります。その中での自分らしさを出すのは、組織の危険因子ですから村全体でそれを排除しようとするのです。

つまりは村がどうかではなく、個が尊重される集団か、それとも集団を優先し個は抹殺する集団かではその個の扱われ方も異なっていくのです。

ありのままの個を認めないという社会がムラ社会です。村の掟や制約に従うことは大前提で例外は認めないということでしょう。学校も病気や法事以外は休めないという強迫観念、逃げ場のない無言の圧力に個性を埋没させて集団の一員になるしかないと諦めてしまうのです。もしもそうではなく、「なぜ?どうして?本当は何?」などと考えてしまうとそのことに気づきますからいよいよ逃げ場がなくなっていくのです。表面上の逃げ場にあわせることは、ムラのルールに従うことです。本来の逃げ場の定義は、安心基地、つまりは自分らしくいてもいい、あるがままの方がいいと理解してくれる場所のことです。

有無を言わさず理由も伝えず、一方的にただ“これをやりなさい”と一斉画一に一律に全員でそれを実行する義務を押し付けられる。

こんなことを秩序といっているのは、まったくの人権無視であろうと思います。管理者というものは、自分が正しいと思い込めば従うのは当然だという発想を持つのかもしれません。この国は立場や肩書が優先され、物事の本質を考えないでいた方が楽だというような風潮をつくりだしています。

大人にとって都合がいい子になってもらって安心というのは、大人が不安だから管理したいだけでしょう。子どものとってどうかということから社會を観直す必要を感じます。

そうしてみると、あるがままでもありのままでも受け容れてくれる場所があるということが人が安心して働くことができる故郷でありそれが村であり、国であり、そして「家」であるはずです。かつて聖徳太子が実現したような大和の国家の理念が我が国にはまだ存在しています。

本来の安心村社會を創造するためにも、そのままでいい、あるがままでいい働き方と生き方の実践を創意工夫と勇気をもって今後も続けていきたいと思います。

子ども達の安心できる一家になれるよう、その人らしさを認め大切にする実践を積み上げていきたいと思います。

 

子どもの権利~社會とのつながり~

人は社會の一員として認められることで人権を獲得していくものです。

人権というものは社會の中に存在するものであり、無人島で一人で生きるなら別に人権などというものは必要ありません。

この人権が守られないとはどういうことかと言えば、社會から無視され否認されるということです。これら人権無視がなぜ起きるかといえば、一方的な価値観を押し付けてそれを守らせようとするときに個人の尊重を蔑にするということで発生するのです。

それが発展して、自分のことを自分で決めることを与えない、つまりは自己決定権すらない子どもたちが世界にはたくさん存在してしまっているのです。これは子どもだけではなく大人でもそうですが、自分で自分の人生を生きる権利をはく奪され誰かの言うことを強制的に従うようにと利権を優先されているのです。

学校などでも、無視が流行るのは本来はその人の個性や存在が尊重されるはずのものが認められず、何かその人が人権を発揮しようとするとき抑え込む作用が働くことでいじめの構造ができあがるのでしょう。

一つの価値観で無理やりに教育することは、子どもの権利条約に違反しているのです。

子どもは自らで生きる権利があるというのは、子どもは自らの生き方を尊重された存在だと認める事が大前提でしょう。その大前提を無視し、大人の都合で子どもを無理やり変えさせようとするのは何か強い圧力を感じます。

そしてそれは大人たち自らを苦しめている原因であることにも気づきます。
学校とは、そこで働く人たちそのものがもっともその苦しみを受けるはずです。

社會から隔離するのをよしとせず、社會とつながることが学校を改革する根源かもしれません。大人になって学校から実社會に出て観たら、あらゆるものが違っていました。それに海外に留学し海外で働けば、なおさら学校でのことはまったく役に立ちませんでした。

そう思う時、大人側の無理解こそが子どもの無理解であったことに気づきます。如何に子どもを理解するのかというのは、如何に自らを理解するかということなのです。世界に目を向けるということは、学校以外の世界が社會には広がっているという現実を受け止めるということでしょう。

このままでは社會というものを誤解した子どもたちがそのままおかしな社会を無理に創りあげてしまうかもしれません。教育に関わる者は、常に社會というものを直視し、その社會を担うものであることを決して忘れてはいけないと心から戒めました。

最後に子どもの権利条約の素になったヤヌシュコルチャックの言葉を紹介します。

「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもなのだから。」

今こそ、大人たちからまず自らに気づくモデルを示すときです。

機会を活かして学びを深めていきたいと思います。

仲間探しの旅

自分が人と違う道を行くとき、それを信じてくれる存在は心の安息になります。

集団の中で育つことで、集団に合わせる勉強をずっとしてきました。
みんなと同じになりなさい、それが幸せということを教わりました。

一斉画一化された枠組みのレールの上から如何に外れないかということを優先され、外れれば修正されるという繰り返しの中で自動的に思考もできあがってきました。若い時はそれが嫌で嫌で仕方がなく、アウトローな方向へと進み、逆らったようなことばかりをしていました。

それが社会人になり、より鮮明に社會に迷惑をかけないという名のもとに常識的な仕事をするように教えられましたがやはりそれもできず、自分の思い通りにやろうと苦労しては、何度も涙を流してきました。

そのうち、孤独になり、何度もやめようかともうここで諦めようかと思うたびに、信じさせてくれる存在に出会ってきました。その人たちの生き方やその人たちの言葉一つ一つに心から励まされているから今も此処に自分はいます。

きっとそれは自分の道を歩むから運が善いのだと思います。この時の運の善いの意味は、自分の人生を活きた素晴らしいご縁と出会いそのものにあるがままの感謝をしているのです。

自分を信じてくれる人がいること、自分と同じように信じている人がいること、そして身近で自分のことをどんなことがあっても信じてくれる人がいるから心が安心して信が強く育つのです。

今では仲間が増えました。最初は、ほとんど信じてくれなかった人たちで常識や世間の都合を優先し自分の言うことなどは夢物語や理想、もしくは外道だと相手にもしてくれませんでした。しかしそれでも少しずつ根気強く仲間探しをしていたら今では掛け替えのない仲間たちに囲まれて歩むことができているのです。

有難さというのは、この道すがらに出会う親友たち、同胞たち、仲間たちの存在そのものです。人生は、畢竟、自分の生き方に同調する人たちとのめぐり逢いで彩られるものです。

今いなければ探せばいい、信じていれば仲間は必ずいつかは見つかる。

信じて諦めず、自分の脚で一歩一歩すすめばいい、それが私からのエールです。
有難いご縁が人生道には沢山あるのだから、一緒に焦らずゆっくりと歩んでいこう。

真心

人が本心本音を聴けるというのは、御互いに本心本音が話せる状態でなければ聴けません。

聴くというのは、自分がまずその状態であるかというのを省みていなければ分からないように思います。自分が聴くということは、先入観や自分の思い込みで相手のことを思わないことからはじまります。

先に相手のことをきっとこうだろうと思ってしまうことで聴くことができなくなるのです。

本来は、きっと何かあるのだろうと相手を尊重して自分を入れずに傾聴するとき相手の本心や本音を察知できるものです。しかし実際は自分の中の考えを正当化し、自分が何かをしようとすることを優先するから相手のことを理解するよりも先に相手に自分がどうかしようとすることばかりに思いが執着してしまうのです。

聴くというのは、まず聴くことに徹するということで聴く前に自分がこうしてほしいとかああしてほしいとかの要求を持たないということなのです。

自分の要求を持つと、聴く耳が澄まされていきません。相手に要求し相手を動かそうとするばかりに自分の思い通りになってもらおうとするきき方になってしまいます。耳が澄まされていないということは、見ているものも澄まされていないということなのでしょう。

相手のことを受け止めるというのは、丸ごと受け止めるということです。

それはどんな事情があったにせよ、どんな複雑な事実が存在したにせよ、きっと何かがある方を信じるということなのです。自分の思い込みや刷り込みで一方的に遮断しないということなのです。

見守るということは、安心基地になることだと師は教えてくださいましたがその実践は本当に難しいものです。自信が本心のままでいるというのは、正直さ素直さというままでいるための根底に勇気の土台、その覚悟がずっしりと安着する必要があるように思います。

最も身近な存在への真心の実践、かんながらの道を肝に銘じて和していきたいと思います。

スロー

最近、旅行の仕方に特徴がある話を聴きました。

それは目的地に行くことが目的で、そのプロセスを大事にしていないという話です。旅行先を決めてそこに行った途端に、もう次の目的地について話し始めるという具合です。

目的そのものが目標になると、目標をすることが常に目的となるのです。

これを人生に置き換えてみても、目的や目標に達することが重要であってそのプロセスは早く過ぎてしまいたいという感じになるのは少しさみしい気がします。

人生の醍醐味とは何かといえば、その経過がどのように充実しているか、そのプロセスでどのようなことを学んだかということではないかと思います。人はめぐり逢いによって人生が彩りますから、出会いと別れ、そして発見と発展の面白さによってご縁に導かれ尊い思い出に見守られます。

本来、全てのものから学び、全ての出来事から問い続けることが道楽であってそれを味わい尽くしている中で人と共に豊かに暮らしていける思いやりや真心、正直や素直というものを実感することができるように思います。

最近では、他人の評価や如何に平均値の幸せや豊かさを掴んでその中にいることが価値であるかのように若い人を煽り、目的や目標ばかりを追っているときだけが安心するというような風潮もみられます。若さというのは、目標や目的が夢でありその夢の途中に活き活きわくわくするものであったものがそれをアイデンティティと勘違いして追い込まれている人が多くなっているのかもしれません。

派手なこと、他人とわざわざ違うことをみせようとするのは自信がないからそうなるのかもしれません。自信とは、自分が信じたものを学び続けるということであろうと思います。それは自然に他人とは異なるのであって、それが変に観えても信じるのであれば学問を楽しめば自ずから道が明らかになるように思います。

日本の文化を身に着けるということも、自信が持てますし、先人たちの智慧を温故知新していくのもまた自信になります。目標や目的を追かけることよりも、ゼロベースで自学自悟に学び続けて目標や目的に近づいていく日々を楽しむ心の余裕が真の豊かさを創りだすのかもしれません。

あまりに急いで焦って余裕がなくなるのは、スピード社会に心を着いていかないからかもしれません。そういう人は道を猛スピードで駆け抜ける高速道路が好きなスピード狂で、身近なゆったりと遊ぶ道草の本来の楽しみがわからなくなってしまうのかもしれません。

例えスピードが速くても、高速道路を長く走っても、それを仲間たちと行程を味わうほどの心の豊かさを持つことでよりそのスピードもまたスローに工夫して楽しめるのです。

スローとは、学ぶ、味わう、高める、重ねる、集める、譲る、育てるということです。

そして子どもは子ども心を遊びこむのに、このスローが何よりも大好きです。
それだけ子どもは活かされ活きる自然の時間、繫がり共に生きる意味に生きたいのでしょう。

「ZERO BASE EVERYDAY!」でどのような日々も道をスローに楽しみたいと思います。

慈悲の友

中国の故事、晏管列伝第二に「管鮑の交わり」があります。

ここでは省略しますが厚い友情のたとえのことを言い、御互いのことを深く理解し合い、心から認めている真の友情の話です。

人が人のことを知るということは、その人のことを深く認めているということであろうと思います。それがあれば表面上の動作や行動を見ても、きっと何か理由があるとその人のことを信じられるからです。

人は優しすぎたり、真心を盡していたりすれば一般的には考えられないようなことをしてしまうものです。それは他人がみれば恋慕感情のように勘違いされたり、もしくは周りが勝手に評論して嫉妬のようなものに換えられたりしても、その友への忠義は本物だから嘘がないのです。

御互いに深く理解するには嘘のない関係を築けるかということであろうと思います。

それは自分の中にある正直が相手の中にある正直と同質であるという確信かもしれません。
自分の真心を信頼しているからこそ、相手の真心が信頼できるのです。

自分と同質のものを共有できるというものは、義があって忠なのかもしれません。

私が尊敬する日本の交わりに、木曽義仲があります。木曽義仲の話には、感動するものが多く、今井兼平らとの深い友情に感動したことを憶えています。魂の中にある曾ての思い出が友愛の記憶を交わるのでしょう。

松尾芭蕉が墓を木曽殿の隣にと遺言し、義仲寺にあるのを拝謁したとき込み上げてくるものがありました。そこで出会った保田與重郎の墓にも同時に深い邂逅を憶えたのを思い出します。

友とは、共にする生き方同時のことかもしれません。

一緒に生きるということは、自分の与えられた運命に関わらず共に魂を昇華していこうとする天にして義、命にして忠のことかもしれません。そういうご縁を持てる人との出会いというのは、どこか御互いだけが心に持つ無常観に似た深い悲しみがあるように私には思います。

以前、鞍馬寺にて悲しみが慈しみになると教えていただいたことがあります。

慈悲の心とは、友情のことかもしれません。
そして友情を観る時、その悲しみを観ているのかもしれません。

一生の中で時として心を分かち合いそのような生涯の友を持てるということはとても幸いのことです。自らがそのような一緒の友であるのか、朋に自問自答し、人事を盡して伴に天命を全うしていきたいと思います。

不安定

よく健康的な人と言われる人と、不健康な人と言われる人がいます。

病気でも健康な人もいれば健康でも病的な人もいるようにここでの健康と不健康とは単に病気かどうかではないことが分かります。

本来、健康とは何かと言えば心体精神のバランスが安定していることを言うのです。

常にその3つはバランスを維持しています、感情が波立てば心を落ち着かせ、体が波立てば精神を穏やかにしたりと言葉で書くことは難しいのですが、常にバランスを維持するために自分の状態が安定するようにと努めるのです。

そしてそれを司るのが呼吸ですが、呼吸を調えていくことで心体精神の状態も落ち着いて調和していくものです。

よく不健康に見える人がいますが、これは不安定になっているということです。何か体の調子が崩れれば、心や精神を落ち着かせればいいのですがそれができないのです。また精神の状態が崩れれば、心や体を落ち着かしていけばいいのですがそれもできないのです。

心身の調和というものを維持していくには、遠くを見ないといけません。

なぜなら焦ると身近しか見なくなるからです。不安定のほとんどの原因は調子を崩すことで近視眼的になってしまうからです。以前、師から船酔いするのも車酔いするのも近くばかりを見過ぎるからだと言われたことがあります。

そういう時は、遠くを見ること、しっかりと頭を固定し遠くを見つめて運転をしていくことで酔わなくなっていくのです。

人は焦ると不安になります、不安になることを不安定になったとも言います。不安定とは不健康のことです。不健康になるのはすべては不安というものから発生してい来るのですが、この不安は疑心や不信から来るものです。

如何に信じるか、如何に安心するかは、勇気を出して真心を盡したり、相手を思いやり真摯に取り組んだりと自分の感情よりも優先するものを持てるかどうかにもよるのです。

人は自分を守ろうとするよりも、誰かを守ろうとするときや何か自分を超えた大切なものを守ろうとするときに私的な感情を乗り越えて使命を発揮していけるものです。そういうものを持つことでより信じる力を育てていくことができるように思います。

感情も自分、感情以外の心も自分ですから、如何にバランスよく付き合って育てていくのかが課題のように思います。不安定であるというのは、安定を求めて努力しているともいえます。だからこそ、安定を目指して精進していくことは自分の人格を形成している最中と思えばいいように思います。

不安定になった時こそ、そういうものだと受け容れてそのままでも最善を目指していくことで日々に自分と正対して自己を研鑽していけるように思います。すべての体験は自分と向き合う善い機会と捉え挑戦していきたいと思います。

基本と応用

何かの技術を習得するとき、基本と応用というものがあります。しかしこれを間違えている人が多いように思うのです。

例えば、スポーツの最初の練習に基礎体力というものがあります。これはいくら何かの技術を覚えても、それに相応しい体力がなければその時間に耐えうるベストなペースを維持することができません。バスケットでも長距離走でも、そのどのスポーツであってもまずは体力と集中力がなければ全試合の行程を乗り切ることができないからです。

だからこそ、まずその試合に対する基礎体力を育てます。具体的には、筋力トレーニングだったり、それに応じたメンタルトレーニングであったりと、地味な練習を長時間積み上げてそれに相応しい体力と集中力をまずは身に着けさせるのです。

そしてどのスポーツにも基本というものがあります。

如何に無駄な力を入れずに取り組めるか、自然体のことですが自然体をマスターするためにはまず基本としての型を徹底してその身に着けさせる必要があるのです。

全ての物事には基本と応用いうものがあります。

ただこの基本と応用いうものの刷り込みを持ってしまう人が多いように思います。
私の思う本来の応用とは基本のことです、そして基本が応用だということです。

つまりは、基本ができる人がはじめて応用ができ、応用ができる人は基本ができているということです。何でもすぐに応用をしたがる人は基本ができていない人がほとんどです、そして基本ばかりやっているという人もそれが応用だと思っていない人がほとんどだからです。

基本が育てば、そこから多様な対応をすることになるのだから応用なのです。応用が育つというのは、より基本が習熟して研ぎ澄まされるということなのです。

そしてそれは練習によって得られます。どれだけ基本を徹底したか、何を基本として身に着けるかということなのです。場数によって自分の心身に如何にムダムラムリのないスマートな行動ができるようになっているか、そこに辿りつくのです。素直さが何よりも大切というのは、自然体ということを身に着けるためのプロセスとして各界のコーチは言及しているのでしょう。

その自然体を身に着けるには徹底した自然の練習の量と質が必用です、現場で時間を惜しんで練習する徹底があって基本の本質が叩き込まれるからです。同じく仕事ができる人の特徴は、目には観えないところで日頃鍛錬しているその基礎練習に全くの手を抜かないからだと思います。

何を基礎にするのかが沁み付いているからブレナイということです。

日々の積み重ねを如何にバカにせずに、徹底して鍛えていくかが自分に打ち克つ最大の武器になっていくはずです。日々の生き方、取り組む方、時間の使い方、判断の仕方、行動のパターン、真心の実践、信念の醸成、その一つ一つが基本と応用であることを怠らないのでしょう。

常に基礎基本が応用であることを決して忘れずに、基本=応用を主軸に心体技、そして魂の開花を執念深くコーチングしていきたいと思います。