盡心

人は何かに打ち込む時に、盡力を尽くすという言い方をします。

この盡力というものは、盡心から出てくるものですがこれは力を出すという意味ではなく持てるだけのすべてのありったけの力を尽くしますという意味です。これも簡単には文字にはできますが、これを実行するというのは本当に難しいことなのです。

孟子にこういう言葉があります。

「その心を盡すものはその性を知る。その性を知れば則ち天を知る。その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。妖寿たがわず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」

孟子にとっての盡すというものは、その天命を盡すことであり、そのために存心のままに修養し、全身全霊のいのちを懸けて修身することであると述べているように私には思えます。

日々というのも時事というものも、どれも過ぎ去っていくものです。その中でどれだけ、自らを盡して生き切るかというのは、自然である姿としてのいのちそのもののように生き切っていかなければなりません。

あの鳥や虫たち、植物たちと同じように春夏秋冬様々な四季の中でそのものの天命を遣り切っていくのです。そこには、心だけが活きているのです。

私たちは心を遣うということよりも、頭を使うことを優先してから大切なことを忘れているのかもしれません。その大切な事とはあまりも当たり前すぎて見向きもされなくなった「心」のことです。

心というものは、その全ての根源であり、私たちは心を通じ合って存在し合っているものです。その心をおざなりにして心を高めていくことをやめたなら、本来の人生そのものの価値を見失ってしまうのかもしれません。

心があるからこそ、その心に応じて観える世界は顕現していきます。もしも心が亡くなれば、それに応じて無機質な世界が顕現するのです。

身を修めるというのは、理性で感情をコントロールすることを言うのではありません。身を修めるというのは、その心を高めるということです。心を高めていけば身は次第に修まっていくものです。

修身というのは、つまりはその真心を盡すことの大切さを実践と学問により高めていくということであろうと私は思います。そして真心盡すとかいて、「盡心」です。

大義に活きるのなら、日々の全てに手を抜かず丹誠を籠めて取り組んでいかなければなりません。あの自然界に倣って本来のあるべき姿を学び直していきたいと思います。

現場実践

先日、ミッションパートナーとのふり返りの中で心身についての話をしました。最近は、唯物的な社会思想の中で心というものがどれほど大事かということを忘れてしまっている若い人が多いといいます。

そもそも人間には、「考える」ということと「思う」ということがあります。考えるというのは、頭で考えるということであり、思うというのは心で思うということです。

これはまったく住んでいる世界観が異なるほどの違いがあります。

考えている世界というものは、形式知と言われるもので客観的に分析したり冷静に対応したりと起きている出来事や事物をそのままの形にして判断していくことができます。私も考えますが、それは説明するために理論化したり論理的に何かを表現するときなども用いいます。

しかし心の世界というものは、暗黙知とも言われ自他を思いやり、心を通じ合い、寄り添い共感したり、互いに感じ合ったりといったそのものの事物や出来事の背景までを感覚的に直観したりすることができます。私はいつもこれを何よりも優先にし、心が常に働いているかどうかと自分の状態に気を遣っています。

これらの考えると思うということは何よりも大切なことがらで、どちらを優先しているかで貢献していく形が異なっていくのです。まず考えるだけになったなら、どこか冷めていて何か事が起きても大変だと考えればすぐにやりたくないという考えが頭をもたげるはずです。そんな考えることを優先していたら、もし行動できても何かが起きたらすぐに避けたい楽になりたい方を選択してしまうように思います。

しかし、思うということを大事にしたなら、強い思いをもっているので情熱的に果敢に挑戦していき大変だと思っていても心が折れずに最期まで遣り遂げることができるように思います。そして日々に思い続けて思いをカタチにしていくのなら、避けたいや楽になりたいというよりも、向き合いたい、味わいたいという方を選択していけるように思うのです。

この「思い」というものの力は、誰かの役に立ちたいという願いであったり、何かの目標や志を持つことでより強くなります。

しかしこれらの目標や志であっても考えただけのものであれば、それは目標風、志風というような心で本物にしたわけではなく単に知識だけで象られたものになっている場合が多いのです。

だからこそ、常に「思う」、「思い続ける」という実践があってはじめて思いは醸成されるとも言えます。思いは、心で行うものですから辛く苦しいことばかりです。時には心が痛み、心が疼き、心が傷つき、心が張り裂けそうな思いを沢山します。

そういう思いを沢山して、その体験を通じて思いを固めて思いを決めて思いを本物にしていくことができるのです。そしてそのあと、はじめて考えてみればより思いをカタチにしていくために具体的な方法を活かしていくこともできるのでしょう。

狭い学校や知識の中で生きているのなら考えているだけでもいいのかもしれませんが、実際の社會では人々は沢山の苦しみを持ち、人々は多くの悲しみを背負って生きているのです。

そういう人たちの力になるというのは、心からの自分、「思い」を持った人になり、共に道を歩み手と手を取り合って助け合っていくことなのです。そして心から思うことに生き切る日々を積み立てて立志と言うのでしょう。

だからこそ考えてみてたとえ辛そうでも、そこで心を閉ざそうとせず我慢し、思いを引き出し思いを育てるために心を開き続けていくことを恐れてはいけません、心が傷つくことも避けてはいけません、人生は一度きりなのだからそういう苦労体験を若い時は買ってでもして、本物の努力をして成長していくことが大切なのでしょう。

知識偏重型というのは、物の世界です。ここでは共感中庸型ともいってみますが、心の世界も常に存在し同時にあることを気づいてほしいと願います。

現+実(現場実践)とはその両輪があってのものですから、「思いの醸成」になる実践をしっかりと積み重ねていきたいと思います。

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

役割交代という尊義

先日、クルーの内省から他人事について考える機会がありました。

人は一般的には自分のことと他人のことを分けていて、これは自分と関係するものか、それとも関係しないかで自ら一線を引いているようにも思います。危機感というものもまたここから薄れていくのかもしれません。

これらの心理には何が働いているのかというのを深めてみました。

そもそも他人事というものは、相手は相手で自分は自分というようにまさか相手が自分と同じなどとは思わないというところから考えることがはじまっているように思います。逆を言えば、もしかしたらこの人は自分だったのではないか、もしくは相手は自分の代わりにしてくださったのではないかなどは考えないように思います。

例えば、動物の世界では集団という群れで生きていますがあるものは食べられ、あるものは生き残ります。名前もない世界ですが、同じ仲間、家族として生きていけば自然の法理に従って生き死にを瞬間に分かち合っているのです。その世界では、ひょっとしたら明日は我が身かもしれないという危機感の中で共に自分の出来事として共感するのです。

しかし人間は自他を分けて個人主義になり、画一化された自我の中で線引きし自分のことしか考えなくなると次第に周囲への思いやりよりも自分を守ることを優先することになっていきます。ここに矛盾が発生するのも、周囲がなければ自分が立たず、自分が立つのは周囲の御蔭であるということ、自他とは御互いにつながりお世話し合う中で存在していることを忘れるということです。

またこのようになるには、幼少期からの教育もあり、本来は自分でそういうことを考えないといけないことを考えないという弊害から発生しているようにも思います。もしも自分のことだと思えば、世界への関心というものは開けていきます。他国の戦争は他人事ではなく、もしかしたら自国のことになるかもしれません。さらに極端かもしれませんが、相手は生まれ変わったら自分が同じ境遇になるかもしれません。

それくらい御互いに体験をシェアしつつ、御互いの人生を生き切ることで互いに生き残るために助け合っているのが人間社会であるようにも思います。

社會というものを考える時、本来は自他一体、もしも相手が自分だったら、もしもお客様が自分だったら、もしも会社が自分の会社だったら、もしも自分が・・だったらと共感していくことが共生しているということになるのです。

自分の立場の責任だけを果たせばいいとか、自分はここまでやればいいとか、自分というものを線引きして自分の都合で割り切ることは実は本来の全体の中での自分という考えではなく、自分が中心で周りは自分に合わせている付属的要素のような考えになってしまうのです。

自分があるのは、先祖代々より親が子を養い、そしてまたその子が親になり子を養うように、世話をしてくださった人があって自分が今度は世話をする番になるというように役割交代をしながら自他一体共に支え合って生きているのを忘れてはいけません。その生きざまには自他一体で御互いに大切な大義のためにいのちを支え合っていきている尊い絆があるのです。

例えば死にゆくものの気持ちが分かるのがそれは死ぬときでは、あまりにも生き残った自分の役割を考えなていないのではないかとも思うのです。共感力が落ちるということは、それだけ自分自身であることの意味が喪失しているということなのかもしれません。

だからこそ他人事というものは、もっとも御縁御恩を忘れる行為として戒めなければなりません。全部のことを身近なところから自分事にして「もしも自分だったら」とそこから考えるということが、人間社會に活かされ所属させていただいているという自覚になっていくのでしょう。

この自分くらいという考えが、多くの人達の足をひっぱっていくのを忘れてはいけないと思います。もしも自分がやったことが廻り巡っていつか自分の家族や子どもたちにツケが周るとしたらと思えば、、、きっと誰もがとても他人事には思えないと思います。

その前には必ず自分に返ってきますから、全てを自分事として役割交代なのだと真摯に相手のために自他一体で全身全霊を尽くすのが礼義になるように私は思います。

私達人類皆兄弟、一家であるということがもう一度これから思い出される必要を感じます。慈悲という気持ちも、またその苦しみや悲しみから産まれてくるように思いますから真心の実践を積み深めていきたいと思います。

回訓

先日から、家訓や遺訓というものを深めていますがその中にはその人そのものの人生で得た大切な戒めが回訓となって記されています。

人生の中で、何をしているときが最も危険な時か、またどういう状態の時が自分が偏るのかを自覚しそれを自らが忘れないように繰り返し見直し心を見つめているように思います。

人生の中で、得られる教訓とはほとんどが失敗を通じて得られます。大きな悔いを転じては、それを情熱に変えて次の実践を深めていくということ。思い返せば、私の今も苦い体験や辛かった体験があってその御蔭で強くしていただいたように思います。

定期的に驕りや慢心というものが自分の我によって現れそのことから失敗をし、その失敗から学びまた我を修めていくという中で道を歩んでいくようにも思います。素直でなればその我も観えないのでしょうが、失敗の御蔭でその我と向き合うことができ、それを戒める自分の言霊とも出会うように思います。

人生の中で、失敗のない人生などありませんし失敗がないということそのものが失敗であろうとも思います。失敗から学んだことが自他の人生の御役に立つのだから、思い切って勇気を出して挑戦し努力することの価値を自らで示していくのが子どものモデルになることなのでしょう。

現在は、園訓や家訓、遺訓などの仕事に携わることで新しいことを学び直しています。その中で共通するものが観えてきましたが、その全ては我と真我に関係することです。真我を目覚めさせるために、日頃の信念を醸成する回訓を持つことはとても大切なことのように感じました。

徳川家康の遺訓と言われるものを紹介します。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を 常と思えば 不足なし
心に望みおこらば 困窮し足る時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思え
勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る
己を責めて 人を責むるな
及ばざるは 過ぎたるに 勝れり」

意訳すれば、(人間の一生は重い荷を背負って遠い道を往くようなものである、だからこそ決して急いではならない。そもそも自分の思い通りにはいかないのだと思えば、不満もないだろう。心に欲が呑まれそうなときには、苦しく辛かったころのことを思せばいい。耐え忍ぶことは安らかに長くすごしていく基礎になる、怒りこそ本当の敵だと思いなさい。勝つことばかりを求めては負けを避けるようでは、必ずその弊害は自分自身に出てくる。自分に矢印を向けても人に矢印は向けるな。少し足りないと思える方が、遣り過ぎていることよりも勝っているのだから。)となります。

謙虚に生きていくことの大切さを述べていますが、矛盾を耐え忍び歩んできた背景を感じてその生き方から学べることは沢山あります。

その人その人の我というものは等しく同じですが、対処となると異なっていますからそれぞれに自らを修める言葉に出会うことが大切なのかもしれません。

私の場合はかんながらや真心、自然になるかもしれませんが有難いお仕事をさせていただいていることに感謝しつつ、日々に回訓を歩んでいきたいと思います。

知識を活かす力

物事には本質というものがあります。

これをそもそもとかゼロベースとかの言い方で論じ合うことがありますが、これも学校で教えられたままの知識で論じると本質からズレテしまうということがあるように思います。

本質とは、それが一体何かということを考える力が必用で誰かから言われたことを考えるのではなく、その元から自分で考えるということが優先されているのです。

社會で知識を役立てていこうとするならば、単に知っているだけでは使えません。その知識をつなげて如何に貢献するかということができなければ知識は活きないからです。

学校では暗記というものを中心に、誰かが教えたことを覚えればテストでの成績は上がっていきます。受験を目標にしていると、如何に教えられたことをちゃんとやるか、如何に教えられたことを忘れないかということが重要視されます。

しかし社会人になると、如何に教えられていないことを考えられるか、如何に教える前に学問をしているかということが大切になります。そもそもの目標や理念を優先していますから、自分で今、一瞬一瞬の本質を考え続けなければならないのです。

いちいち何のためかということを考えるというのは、楽ではありません。本来は、誰かが言ったことをルーティンでやるだって十分に大変ですからそれでいいと思いたくなるのかもしれません。しかし、本質から外れたならば頭でっかちに考えただけで効果が低いということが発生し、いつまでも受身になってしまうのです。

もし本質通りであれば、目標から外れずに本懐を達しますから主体的に仕事を創造していくことができるのです。これらの本質の力というものは、何が本当のことか、何が本物か、何が真実か、何が本質かということに徹底的に考えている内省が必要なのかもしれません。

右か左かではなく真ん中、良いか悪いかではなく最善、合っている合っていないではなく実践というように、本質が捉えられる人は全体の知識を融合し、理念や目標から外れずに日々を取り組み積み重ねられるように思います。

それは頭だけで考えるのではなく、心で考えた後に頭で考えるのがいいのかもしれません。まず行動し体験し、検証し、改善し、実践するという先に考えて失敗しないようにするのではなく、失敗してもいいから連帯で行う、言い換えれば失敗してもいいからみんなと協力するということを学ぶのが本質的なことを呼び込んでいくのかもしれません。

個々が教えられた知識では自分は活かせないということでしょう。知識を活かす力というものは、独りよがりの知識で勝負するのではなく、ありとあらゆる知識の中から本質を見つけ出し、その本質のままに行動することで本来の知識を活かすことができるということです。

そうやって自ら社會を通して日々に学問をし研鑽を積んでいくというのは、実行実践実証の場数を徹底的に増やしていくということなのでしょう。極端かもしれませんが頭で考えずに行動できるというのは、目標や目的が心で観えているということかもしれません。

「何のために」というのは自分と正対し向き合う言葉です。それを日々に積んで目的のままの自分でいることが貢献していくということなのでしょう。日々を学び直していこうと思います。

慈安一体の自然

先日、慈悲や慈愛について直観する機会がありました。

人は、身近にある当たり前に気づくことができるかどうかで色々な新しい教えを学びます。それができないのは、その私心や先入観が邪魔をして本来の自然であることが分からなくなるからです。

そういうひとつひとつの私心を転じて、全体の働きの中に入るという体験を通して様々な自然の有難さや勿体なさ、尊さ、偉大さに気づいていくのが教えというものに気づくということなのかもしれません。

教科書などには書いてはいない自然の経書を読み解くというのは、心が揺さぶられるような体験をどれくらいしているかによるのかもしれません。

人間は生まれながらに様々な苦しみを持っているともいえます。

その苦しみは、一人一人に異なり、その人なりの苦しみというものを持っています。それは単なる楽か苦かの苦しみではなく、心が唸るような感動、心が痛み割けるような感激を持つのです。

その一つ一つは、あまりにも自然で頭では理解できない程に自然なことなのでしょうがこの世に活きている以上は共にいのちのある存在として分かち合って存在しているのが現実なのです。

そのいのちに対して、受け容れ難いことを受け容れるのは時間があるという慈悲、それでも変わらぬ自然という慈愛、いつも私たちを真心で包んでくださる当たり前すぎて気づけないような水に帰するものなのかもしれません。

水の流れのように、時が流れ、汚れを洗い流していく様に、そこに映し出される悠久のいのちの流れを味わってみるといいのかもしれません。龍の如く生きる私たちが、その水に癒され、その水に揺さぶられ、そしてまたその唸りに一体に溶け込んでいく。

言葉にするにはここが限界ですが、慈しみ愛する心が自然と同じように私たちの中にあるということが何よりの安らぎになっているように思います。

時代は変われども、その苦しみに寄り添いそれを転じて愛する心は永遠の煌めきを放ちつづけます。その安堵に、自らの使命を果たすことに専念するという自然の活動に心から感謝の念も湧き出てきます。

子ども達のためにと生きる日々ですが、慈安一体の自然に活かされる日々を味わっていきたいと思います。

一生一省~ライフワーク~

先日、ある園長先生とのふり返りの中で生き方と働き方について話をしました。その中で、ライフかワークかではなく、ライフライフライフだということや、ライフワークそのものという話をして盛り上がりました。

私はこれらのライフもワークも分けない人、いつも遣り切っている人だとよく身近な人たちから評価されていますが、これが何かということを一度深めてみることにします。

よく世間では、仕事とプライベートという言い方で人生を分けています。働いているときと休日も分けていて、週末はぐっすり寝て休み、平日は一生懸命に仕事をするといような感じになっています。他にも、私的なものと公的なものという分け方や自分事と他人事という分け方などこれは自分の人生で、あれはみんなと合せた人生という分け方をしたりもします。

言い換えれば、自分の都合で何かを分けているという感覚で仕分けるのでしょう。

これを生き方の働き方の一致、つまりはライフワークになっているとどうなのかといえば平日も休日もまずありませんし、私的も公的もなく、自他も一体になっているし、全て丸ごと自分の人生という生きざまになっているということになります。

つまりは、ライフライフライフであり人生というものそのものに真剣になっているという状態なのでしょう。真摯に生きるということは、自分の中の分別知を持たないということによるのだろうと思います。

自分の人生の目的に対してどれだけ真摯に今を生き切るか、真理を探究するか、自らを修養するか、自学自習を研磨していくかということを実践していくのです。

実践と実験と実証を繰り返す人生においては、ライフもワークもないということでしょう。

自らが取り組んでいる人生の課題、言い換えれば目的に対してどれだけ真剣に生き切るか、全てのご縁を活かそうとする人生の姿勢がブレナイということがライフワークになっているということかもしれません。

時間というものは、あの川の瀬音に聴こえるように猛スピードで流れていくものです。二度と戻ってこない今だからこそ、少しも無駄にしたくないという心が全てを遣り切るという行動につながっているのかもしれません。

死を想い、生を活き、時を信じ、人を愛し、自然一体の道にいることが一生一省なのかもしれません。

この今もいのちの躍動を感じつつ、かんながらの道を楽しんで往きたいと思います。

正直評価~精活改善~

正直というものを考える時、自分に正直かどうかという基準があります。

今、使われている正直というのは外部からその人へ正直であるかといった他から自へと向けた正しいかどうかという基準で動いているように思います。しかし、そこには何らかの他から操作主義が入り込んでいます。そういう正直さというのは、他人から言われる素直さと同じようにそれは本質的には正直でもなければ素直でもないのです。

本来の正直さや素直さというのものは、自から自へが本来の姿であり、自分自身の心に嘘偽りがないか、自分自身が決めたことに対してどれだけ本気であるかどうかのときに使われるものです。そこには世間一般や大衆集団のモノサシの中の平均であることを求めるのではなく、本来の人生の目的に対してどれだけ正直に実践しているか、素直に学んでいるかということになるはずなのです。

他人の目を気にし、自分自身を偽るようになっている状態で正直というものはわかるはずもないように思います。自分を大切にするということの本意はそこにあるのです。

思い返せばこれは学校教育などでは分かりやすいのですが、学校では学校の基準でその人を推し量り、何らかの評価を存在させます。頭が良く優等生であることがいいという評価があれば、そうではない人たちはそこに向かって自分を確認していくということになるのです。そこでは学校の方針、ほとんどが受験による知識偏重型の評価が用いられています。

しかし実際はどうなっているかといえば、自分を生きていくには人生をより善く生きぬいていかなければならず、そこには自分の中で決めた自分らしい評価、つまりは自分の人生の目的をどうするかというものと正面から向き合わなければなりません。

それは言い換えれば、自分がどう生きたいのか、どう生きるのか、そういうものを自らが持ち、その大義を中心にして自らで判断していかなければならないのです。そう考えてみると、正直であるということは自分に正直であるということで誰かに対して正直であるという意味ではないのです。

この自分に正直であるというのは、その正直な自分のままに他に対しても正直でいるということになります。だからこそ正直な人は他に正直を伝えることができますし、他の正直に対して自分を正直にしていることもできるようになっています。

人生というものを共に分かち合い、自分の正義を貫く人たちが同じ土俵で語り合えるようになる幸せもまた得られるようになります。人が人として共に生きていくことの素晴らしさ、そしていのちといのちの邂逅、真心の通じ愛もまたこの自他に正直であることで実現するのです。

人生の目的というものに向き合い、自分が何のために生きるのか、どう生きるのか、そういうものと真摯に向き合い実践していく中で、日々の正義が積み重なりそこではじめて正直評価を維持していけるように思います。

子どもの正直な姿は、その子がやりたいことを実現しているときに顕現しています。そしてそれを実現するのを見守っているとき、こちらにも正直さがわかる自分があるのです。

自他に正直というのは、周りの目を気にして周りの評価に合わせようとして、本来の人生の目的を忘れずに自分を誤魔化さないということです。

そして正義には思いやりがつきものですから、正直さを大事にすることの難しさを理解することで自他をよく思いやり、真心をもって自他に尽力することが正直の定義であろうと思います。

今は周りをみたら正直者がバカを見るなどと諦めている若い人が多いそうですが、それは自分らしさが肯定できず周りからもそのように扱われてきて自他を誤魔化しているからそう見えるのでしょう。

そこを勇気をだして先人たちや実践者から、自分らしさを学び自分を変えていく努力をしてみることでたった一人、たった一度の自分の人生の価値に気づけるように思います。

私が日本人らしさに正直を書いたのは、日本人の祖神たちの足跡をには、その正直に生きた証がたくさん残っているからです

自他一体も正直も、すべてそこには一生懸命に真摯に自分を活かし、同時に他人を活かしたという互いに人生を活かし切ったその人らしさの証がのこっています。どれだけ今に精を出して全てを活かそう、自分を活かし切ろう、すべてを善いものへと転じていこうとする活動の心命魂を実感するのです。

祖先たちの求めたところを求めて精活改善を実践し、着実に歩みを進めていきたいと思います。

日本人らしさ

先日、日本人らしさについて考える機会がありました。

私たちは先祖代々からこの日本の風土に合った人格を形成してきました。瑞穂の国と言われるように、瑞々しい感性を持った人たちが切り開いてきた風土感が存在しています。

日本人らしさというのは、そういった風土の中で連綿と受け継がれた日本人であることを生きることをいうように思います。

例えばそれは、有難い、勿体ない、御蔭様、おてんとう様、見守りといった生き方を貫いてきて今があることを自覚します。

私たちはどう生きるかと考える前に、どう生きてきたか、何を理念にして生き残ってきたかを考える事のように思います。尊敬の念を抱き、何を自分が受け継いでいるかを感じ取ってみると自らの時代の責任が何かということに辿りつきます。

先祖代々が、それぞれの時代で日本人として生きてきたように、私たちも今の日本人の責任を果たしていくのは今の日本人として日本人らしく生きることに他なりません。

それはいくつかピックアップしてみると、謙虚さ、素直さ、清々しさ、純粋さ、楽観さ、勤勉さ、正義感の強さ、子どもっぽさ、そして道徳、その全ては日本人の徳性ではないかとも思います。

これは神話からも歴史からも顧みることができ、日本人が何を目指していきてきたか、どのような価値観で理想を求めたのかが分かります。

すべての項目に共通しているのは「正直」というものを本義にして生きる生き方です。
ここに元来の日本人の目指した姿、日本人らしいことの誇りがあるように私は思うのです。

道を歩み自然と調和し一体になって活きることの中に正直という美徳が顕現します。
この風土こそが私たち日本人らしさを産んだのでしょう。

かんながらの道を静かに深めつつ、祖霊たちの御恩に感謝し、日本人に相応しい生き方を求めて日々を実践していきたいと思います。