国とは

国造りというものについて考えてみます。

そもそも国というのは、人間がどのように幸せに暮らしていけるか、共にどのような理念で生きていこうかというものの形や仕組みを顕しているものです。私たちが目指す理想の国家をどのように築き上げていくかという考え方です。

国家というのは、家の延長にあるもので家をどのように修めていくか、家族がみんな平穏無事に平和に暮らしていけばいいかを家長が願い定めそれを家造り、そしてその家を国造りにまで発展させていくように思います。

論語の大学に、「修身、斉家、治国、平天下」というのがあります。

よく身を修めたものが、家を調え、国を治め、そうして天下は安らかになるということです。等しく、どのような国にするかはその国の形を思い描いた人物によって決まってくるのです。しかしその人もまたいつかは死してあの世にいきますからその後のこともまた考えなければなりません。

そこで国の仕組みというものがあるのです。

昨日、奈良桜井市に居る自然農の恩師に導かれ学習しているとその国造りの仕組みを実感した気がしました。ここには三輪の大神神社もあり、その麓には卑弥呼の神殿や数々の国の姿が風土に今でも残存しています。

大国主の物語をふと思い出しました。因幡の白兎を助けた話、黄泉の国で蛇や虫たちと話ができた話、鼠の子どもたちを助けた話、兄弟の不正に義をもって挑んだ話、そして天つ神に国を譲る話、そこに大和の人柄を感じていましたが国造りの支柱もまたそこに起点があるように思えるのです。

そして古事記にも日本書紀にも、国造りで一人悩む大国主に海の彼方から光る啓示があり、ある詞を授けます。そこには「幸魂 奇魂 守給 幸給」を唱えれば、必ず国は為るというのです。

これは何かと私に問えば、農と医です。

自然農に漢方も同じく、国を造るということは人を造ることであるからその二つが必要なのです。人には、生き方を直すものが二つあり、そこには農と医がいるのです。この二つが壊れると国家が乱れてくるようになっているのです。

私には大国主の神話の中に、今の日本人が学び直すことが記されている気がするのです。

人心が乱れ国が乱れたことで大和というものを創業し直すのです。そこでどのようにすればいいかを遺しているのが纏向にあるように私には直観しました。

私以外にも、この国を憂う志士はいのちを天に誓ってそれぞれに立ってほしいと願います。
この大和の根本は私たちに魂の在り処を教えてくれるはずです。

本来の姿、国がどうあるか、その教えをもう一度、ここに学べばいいのです。

そうして個々の自覚を以って子どもたちに伝承するものを体現してほしいと祈るのです。

最後に、こう記したいと思います。

医には大医、中医、小医がある。小医は、病を治し、中医は人を直し、大医は国を治す。そのどれもは自分を修める指針、家を定める方針、そして国家の偉大な羅針であろうと思います。

遺していただいている偉大な大和魂に感謝します。

有難うございます。

真似とは何か

先日ある人との面談の中で、自分が形を真似してしまったのがよくなかったという話を聞きました。それは仕事の仕方を真似したものの、説明になってしまい自分の意見が入っていなかったということに気づいたという話でした。

常に自分の意見を持つというのは、自分の考えを話すということでそれは心を開いて相手と接するということにつながっています。人は誰かと話をして心を通わすにはオープンで在ることが必用でそれは自らが進んで「自分はこう考えます、そしてあなたはどう考えますか?」という関心を主体的に問いつづけ育んで常にご縁に対して素直にいることのように私は思います。

それはそれで大切なことを気づいた善い時間になりました。

ただここで真似というものの本質について私なりの意見を書いてみます。

そもそも真似というのは、表面上のものを真似することを真似とは言いません。真似とは生き方の真似のことを言うのです。

例えば、尊敬する先人や師、もしくは身近に仕事を習う人たちに着いたとします。すると、その人のコピーをして同じ言葉、同じことをしてみても決して同じことにならないことはやって観ればすぐに分かります。これはなぜかということです。

私には師がいて、勝手に師にしているだけで師も師とは思ってもいないかもしれませんが沢山の師がいます。その師はすべて人生の師であり、生き方の御師匠さんです。その人の姿形や仕草を真似しているのかといえばそうではなく、その人の考え方、その人の姿勢、その人の実践、その人の人間性そのものを尊敬し真似しているのです。

真似というものは、決して簡単にコピーできるようなものではないのです。その勘違いがあるから真似ができないということになるのです。

真似というものは、長い時間をかけてどのようにしたらその人のようになるのか、なぜあの人はこのような話ができるのか、どうして同じことをしてもこんなに差があるのかと、その人のことが真に分からなければ似るということもないのです。

つまりは孟子の「似て非なり」なのです。

似て非なりとは、ちょっと見た感じでは似ているけれど実際は全く違っているという意味で本物と偽物のことを説いています。これはそのものの本質を観るときに使う言葉です。

本物になるということが本来の真似をするということです。だからこそ仕事を学ぶということは、先輩の生き方を真似るということです。学ぶ順番を間違うと本末転倒になるかもしれません。

先輩がどのようにして今の実力を手にしたのか、それはコピーでは得られず自らの脚下の事物をもしあの人ならどうするかと大事にし、その自らの心に師を描きつつ真摯に真似てみてはじめて非が分かり、その非を恥じてまた心して生き方の手ほどきを聴くことができるのです。

昔は師弟といったのかもしれません。しかしこの師弟とは、何かを通して共に生き方や生きざまを友にした「非で似ているもの」かもしれません。

今の時代は、安易に何でも真似ができると勘違してしまう人が増えているように思います。これも刷り込みで答えや結果さえ似ていれば真似できたと勘違いしてしまうからかもしれません。

真似は簡単ではないのです。

本来の結果とは、そのプロセス、つまりは生きざまのことでありその生きざまが同質であるかどうかを問われているのです。尊敬する人と同じように生きるには、それなりに真剣に生き方や生きざまをその人と同事にしていかなければ得られません。

あの人と自分は違うからというような言い訳が自分自身の成長を阻害しているように思います。あの人と自分も同じ人間、あの人と自分も同じ学友と思えれば、見せかけのものよりも中身で近づきたいと思うようになるのでしょう。

真似とは難しいものなのです。

私にもたくさんの指導者がいますが、ちょっと形が似たくらいで分かった気にならず、似て非なる真実を常に内省し、真摯に真似し真心で精進していきたいと思います。

循環するという意味

知識社会というものがあります。

私たちは今、西洋的な考え方によって人間が創りあげた世界を社会と定義して生きています。例えば、知識が多い人を先生と言い、何でも物知りで教えることができる人のことを偉大だと思い込んでいます。

二宮尊徳にある伝承が残っています。弟子に富田高慶という人がいて、大変な知識者だったそうですが念願の二宮尊徳に会った際、尊徳が彼に「大豆という字を書いてみよ」とし、その人が大豆と書いたら「お前の大豆は馬は食うか?」と尋ねました。その後、「俺の大豆は馬も食う」と言いその人は感動して弟子入りしたといいます。

物知りだから偉大なのではなく、自然の循環の道理を覚り、その道理を人間に及ぼしていく導者だからこそ偉大であったのです。自然の中に生きた尊徳だからこそのこの逸話です。

人間は知識というものを得てから、一部の知識がある人こそが価値があるものだと勘違いをはじめました。特に日本の昔は、まだ文字もたいしてなかったころは自然に精通し自然そのものの循環でいのちと渾然一体になって生きていたようです。

それが外来からの理論によって、さも知識がある方が素晴らしいことだとし時の権力者が真理を使って人々を管理したのです。そうしたものが蔓延ってくると、人はそういうものを鵜呑みにして人間の持っている知識が最高であると思い込んでいくのです。

しかし動物から植物、いや、地球宇宙に生きる私たち本来は循環の道理の中でこそいのちを役立てていくことができ、いのちそのものを活かしていくことができるのです。

生きることや活きること、そして活かすことや生きているということは、須らく自然の循環の中にスパンと入ってこそのものなのです。

答えを持つことが素晴らしいのではなく、その人の中にも自然の答えがあることが真に素晴らしいのです。勉強の本来の意味を間違えて自然を征服しようとしても、そのことで苦しむの私達本来のいのちや魂なのです。

人々の魂やいのちを輝かせるのは、もう一度自然に戻してあげることのように思います。天地の間に在る私たちが本来の姿に戻り、そしてそこではじめて言葉を持ち、正しい方へと導いていくことが道師を目指すということだと思います。

むやみに人の師になるな・・・吉田松陰先生の遺訓が骨身に沁みます。

そして二宮尊徳の道歌にまた、感涙を得ます。

「天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも」

永続する循環の中から外れない生き方をしていきたいと念じます。常にいのちも魂も、自然と一体になってこそ輝いていきます。先生たちの生きざまから、今の姿勢を正していきたいと思います。

有難うございます。

真心の稽古

論語に三省という言葉があります。

これは師が大切に座右にする言葉で知ったのがはじめでしたが、これを言ったのは曾子という孔子の弟子の一人です。曾子は大学を記した人物で、孔子の仁という思想の意味を「忠恕のみ」と説き、思いやりや真心を何よりも優先された人です。

ここにはこうあります。

「曽子曰く、吾(われ)吾が身を三省(さんせい)す。人の為に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信(しん)ならざるか、習わざるを伝うるか。」

これは私の意訳ですが、(曾先生が仰った、私はいつも自らの真心にふり返るようにしています。今日も人に真心で尽くしていたか、共に歩む友たちに接して真心から外れていなかったか、そして本当の真心を伝えていたか。」と。

いろいろな人の解釈もあろうと思いますが、私にはこれは常に自分が真心を忘れた行動をしていなかったという内省の自戒であろうとも思うのです。

つい私は立場の違いや、役目の違いで、相手に合わせて自分の接し方を変えてしまっているようです。これは優先しているものが、単に結果や立場に対しての自分というものになっているのです。

仕事で言えば、上下関係や利害関係、作業内容などで接し方を変えてしまうのです。そうなってしまうと、自分が何よりも大切にしていたものよりも形式ばかりを追求することになり本来の自分の使命を忘れてしまうのです。

相手がだれであろうが、その時間がどうであろうが、どんなことを相談されていようとも、自分が真心だったかどうかは常に別のことなのです。

本来は自分の真心や思いやりを優先していけば、真実を語るよりもそこに真実そのものがあり、本質を語るよりもそこに本心そのものがあります。人は共に協力しあってこそ、人の間で為したいことが顕われ、為ることを支援されるように思います。

自然の循環の中で如何に真心を尽くしていくかが私たちの日々の座右にしておくことなのかもしれません。そういうものの中にこそ真善美の調和があるように思います。

私には、聖徳太子の和を以って尊しとせよという言葉も、この論語の三省も、仏陀の慈悲も、キリストの愛にいたるまで、すべては異なる言い方をしたのみで、それはかんながらの道での直毘霊と同じことを言っているように感じます。

昨日は最後の最後にまたそういう気持ちをなくしてしまいました。

余裕も豊かさもそして真実も、自らの真心の実践の最中で味わい感じるものです。今日も仕切り直しし、真心を座右に、今日も学び直しができることに感謝し、人生道場で研鑽を忘れず、日々の真心の稽古を積んでいきたいと思います。

以思伝思

人は自分の意見を持つということが大切です。自分の意見を持つというのは、自分で考えているということです。

例えば、何かの本を読んだとしてもそれを読んでいるだけでは身についているわけではなくそこに何かしらの自分の意見がありそれを誰かに伝えることではじめてものになっていくからです。

他にも人の話を聞いて教えてもらったからと、そのまま鵜呑みしているのではそれは本当の意味で自分の知識になるわけではありません。それを自分なりに調べてみて、探求して試してみて、そこから考えたことを伝えてはじめて自分の身についていくのです。

よく最近は、本心や本音を語らない人が多いと相談されていますがそうではなく伝えることができない人が増えたということではないかと私は思うのです。

この伝えるということはとても大切なことです。自分をもっていなければ伝えることができませんし、自分の思いが真摯でなければ伝えることはできません。

伝えるというのは、人が云うと書いています。これは単に話すことを言うのではなく、云う人になるという意味でもあろうと思います。自分の意見を持ち、それを已むに已まれず伝えたいという「思い」があるということです。

この「思い」があるから伝えたいとなる。

だから人が思いを伝えるというのは、自分の思いを醸成しているということです。つまりはその思いを育てていき、その思いを大切に練り上げ、その思いを自分と一体にしているということなのです。

人は思いがありそうで、思いを発信していくことを怠るものです。特に自分の大切な動機や起点、その他の背景のことなどは敢えて言わないで要求だけを話しているものです。しかしそれでは伝えているわけではないのだから御互いが本心から語り合うことはないのです。

本心から語るというのは、思いを伝え合うことです。それを隠して、それを言わずに話をしようとしても何も話すことはないのです。話し合いというものや合議するというのは、それぞれの思いを重ね合って一つのものを為していくことに似ています。

人が何かを為すには、様々な人たちの思いを受け取ってそれをやり遂げていく勇気と意志と感謝がいるからです。本来、根っこがつながっていなければいくら枝葉末節を形式上合せてみたって中身が折り重なるものではありません。

常に私たちは根をつなぎ、思いを醸成し、それを伝え合うことで社會を産み出しているからです。子ども達に思いを伝えていくことは、私たち大人がこの世で存在する大切な使命です。

人は伝えることができてはじめて学んだことになり、そして人に為るのです。

何よりも間人の中で人が育つことで大切なこと、それは伝える思いを持てるということです。

人生の体験を思う時、伝えようとする思いこそが何よりも尊いと私はいつも思います。だからこまず思いが先で、伝えることまで必ず遣り切ることが大切なのです。

どんなことでもいい、その人の本心というその自分の「思い」を世の中に伝えていけるような自分らしい生き方をこれからも精進していきたいと思います。

 

真の学び

今の時代は情報がすぐに手に入るからすぐに誰かに聞けば分かるからとあまり自分自身の力で学ぼうとしないように思います。すぐに教えてくれる人に尋ねては、その答えを知ることが教わったことと思い違いをしているかのようです。

それでは全てにおいて自分で行うことであり教えられたものは学んだのではなく形式的なものをなぞり分かった気になるだけなのです。

分かった気にならないというのは、分かった気にならないために聞いたことは全部自分の人生や実践に置き換えてその事実を知るまで徹底してものにしていくために自身自ら積極的にその答えを求めては試行錯誤し掴んでいくことのようなものです。

私にも師がいて、最初の頃は色々とお聴きしますが聴いてもやっていなければそれは現場で実践したわけでもなく身に着いたとはいわないのです。一理を聴けば一理を学び、ずっと試していくからはじめてどこかの瞬間に腹落ちしそれを試しているうちにコツを掴んでものにしていくのです。

そうやって身に着いた知識というものは、智慧のことでそこまで自分がものにするまで昇華したということで体験を尊び、体験から暗黙知を掴み、そのコツまでを体得し始めて言葉で語り合うことができるのです。

分かった気になった言葉で何度も何度も聞いたって、それでは知った気になった人と知っている人の人との対話になるのだから分かるけれど分からないということが起きているのです。つまりは分からないと思えるほどに、自分で身に着けていこう、自分の身にしていこうと真摯に取り組む人だけが真理伝道を可能とするように思うのです。

探求していくというのは、自分自身の中からこういうことですか、これでいいですかと常に自らが体験したもので相手に近づいていくようなものなのです。分からないのは体験の質量がまだまだ師に足りないからだと叱咤激励して取り組むのが弟子の態度でもあろうと思います。

自分に何が分かって自分に何が分からないのかが分かるということが、事実を知るということなのです。知った気にならないというのは、須らくその人の生き方を尊敬し、その人の生きざまを自分の中に内在させてこそその人の考え方やその人の価値を知るに至るのです。

最初の段階から分けて考えている人では自分の身につくということはないと思います。その人から学んだものが何か、その人から学びたいものが何かをはっきりさせているからこそ、探求を已めずいつの日かその学びを修得していくことができるように思います。

先日、致知出版社の社長にいただいた新著の中にこういう一文がありました。

「人に教えられたものは身につかない。自ら探して得られたものだけが自分の力になる。」(生きる力になる言葉 藤尾秀昭著) 致知出版社

あの言葉はなんだろう、どういう意味だろうと、自分の人生に置き換えて何度も何度も反芻しながら試していく中で、あるとき気が付いたら身についているというのが現実の学びではないかと思います。

すぐに誰かに聞けばいいというは、調べれはすぐに分かると勘違いすることがもっとも身に着けないことになるかもしれません。論語読みの論語知らずにならないよう、一つ一つの意味を善く玩味し、充実した人生の中からその言葉の真意を掴み取れるように真摯に行じていきたいと思います。

先人たちの歩んだ道を身を持って体験させていただけることに勇気と元気をいただけます。

今日も真摯に遣り切って真の学びを楽しみたいと思います。

 

仲間~結びの妙~

人に限らず、全ての生きものは関係性を保って生きています。

これは繋がりのことで、様々なものと関わることで自他を強く結び付けていくのです。

例えば、生き物を育てたり何かを飼ったりするとします。私で言えば、鳥や猫、犬から魚、または植物や虫たちまで日頃からの関わりの中で結びつきを強くしていくのです。以前は嫌いだったものも、共に暮らし関わり合う中で御互いに好きになっていくのです。

このお互いに好きになっていくというものの中に結びつきがあるのです。

そうやって好きになっていけば、気が付けば仲間であり、気が付けば家族のようになっていくのです。環境というものが与える価値もまたそこにあるのです。どのような環境があるかというのは、どのようなものたちと関わりそして結んでいくのかで自分を理解していくのです。

人間社会では肩書や立場などというものがあります。

それは社長であったり部下であったり、兄弟から親子、そして取引先とか友人とか、色々と関わりの対象をその立場からの見え方で捉えて理解しています。しかし、本来はそういうものではなくみんな「仲間」ということになるのです。

暮らしを通していのちは様々なものと結び合い、そして仲間になっていきます。

その仲間を大切に生きていけば、次第に仲間の存在に感謝できるのです。
自分が生きているのは、仲間があるからです。

その仲間という、繫がりや結び目のところに確かな自分の存在意義があるからです。

人はすぐに立場や肩書で関わろうとしますし、それにすぐに一人で何でもやろうとします。しかし仲間と関わっていくことで仲間を好きになっていくことができるなら、本来の絆や関係性に幸福感を味わっていくことができるのです。

その時その瞬間に出会ったものもあれば、いつまでも変わらない出会いもある。

その全てがご縁という有難い仲間の存在により実感できることに歓びを感じます。共に働くということの素晴らしさ、暮らし祭り、そして共生できる有難さ、そういうひとつひとつを噛み締めながら残りの人生も味わっていきたいと思います。

自発的邂逅

理念を自分のものにしていくことや、智慧を自分が活かせるようになるには、体験を通して全てのことを自分の答えでものにしていく必要があります。

勉強というものは、誰か答えを持っていたり正解があるからと教えてもらって教わったらできるわけではありません。教わったことを自ら行動して取り組み、そしてまた疑問が出たものを自問自答し、また習い学びまた教わるということを繰り返しながらもその答えは自分の奥からこれだと思うものを導き出していくしかありません。

引き出すという言葉も、引き出しということもどこから引いてくるかということのたとえです。

この引き出す元は、自分の根源から探し出してくることに似ているのです。

つい人は、常識的な概念の中で誰かに教えてもらわなければ分からないと思ってしまいます。知識偏重型社会にどっぷりつかると知識がないものは教わっていないと分からないという思考回路を持ってしまうものです。

しかし知識がなかった時代、太古の時代などは誰も何かを教えてくれるわけでもなく自然を観ては自分の中で思索し自分の中の答えを導き出すために試行錯誤をして一つ一つを知識にしていったとも言えるのです。

教える事で考えずにできるように便利になりましたが、それでは本来の自分の智慧にまで昇華したわけでもなく、会得してそれをものにしたわけではないのです。

本来の学びというものは、すべて自分の中から導き出してこなければなりません。そして心技体も教わってできるものではなく、すべて自分が自発的になって自分を発掘し錬磨して育てていくしかないのです。

体験がなぜ尊いかといえば、体験することで自分の言葉と自分の頭で哲学することができるからです。誰かに聴いたことを哲学してもそれは単に哲学科の勉強をしたにすぎないからです。

実際の人生は、すべて誰にも教わらずに自分の中の正解と向き合い、真摯に答えを求めようとする実体験で根源のままでいようとする取り組みだと思えるからです。自分の根源が何か、その根源が何を言うのか、その根源が何を学んでほしいのか、その根源の求めるお役目は何か、これは何につながり、何の意味があり、自分がどうしたいのかを常に四六時中自問自答して自明していくのが唯一無二の自分の人生、自発的邂逅だからです。

今一瞬のチャンスを逃さずに一日一生に全部丸ごと体験しようとする意気込みにこそ、自発的な人生があるように思います。計算するのではなく、あることを選ばずに全てのことに全身全霊で答えを自分で導いていくことがさらなる体験を呼び起こすようにも思います。

遣り切ってみるといつも心根の真心に感謝することばかりです。

自発的邂逅を広げていこうと思います。

目的と手段

遣る事と在る事ということで話をすることがあります。

人はつい何かを遣ることにばかりに捉われてしまうと、どう在るかということを忘れてしまうものです。これは目的と手段を間違えることと同じで、本来は何のために行っているのかという目的よりもどのようにやるのかという手段ばかりを考えてしまうということです。

本来、人は目的があるから遣ることがあるのです。

目的がなくてもさせられるのは何かをしようと思う前に誰かに教え込まれたり、答えはすでに用意されていてその答えのために問題を解くことに似ています。

それは手段の方が目的よりも勝っているということであり、その手段を考えているうちに本末転倒になってしまい本来の目的を見失ってしまうことで事は成就しなくなるのです。

私が取り組んでいる自然農や漬物、その他の実践は、理念という根元から養分を持ってきています。なので続きます。しかし日ごろ接しない人からは私が一過性で勢いで突然遣っていると勘違いするようで、よくまあ続きますねとか、バイタリティがありますねとか個性のように言われますが本来はその行おうとする手段は思いつきであったとしても目的がブレナイから続くし諦めないように思います。

何かを行う時は、必ずその目的は何かを思います。

そしてその目的を達することだけを念頭に置いて、そのついでに遣ることを真摯に取り組んでいくという順番です。言い換えれば、信じる事の方が何よりも大事でそのついでに遣ればいいという考え方なのです。

そうしていると、遣り切ることが信じることになり、信じることは目的を忘れないでいつまでも初心を維持しているということになるのです。

初心というものは、それを忘れてしまうから忙しくなり、元気がなくなり、楽しくなくなり、中途半端になり、迷いが出て、周りに矢印が向くようになり、一時の感情に流されて判断を過ち、後悔してしまうのです。

常に目的が何か、そしてそれを達する手段は何か、それを誰とするのか、それを語リ合おう、助け合おうという手順でいつもいることができれば、人は共生し事物全体と一体なって調和し心願成就していくことでしょう。

しかしこれは簡単に教えることも教わることでもありません。

いつも自問自答、心の声をつぶさに聴いて、その自分の中の本心や本音の声から向き合っていく必要があるものです。簡単にインターネットで検索できるものもでなければ、書籍で読むものでもなく、誰かに教えてもらうこともできません。

それを本当に遣りたいのか、その目的は何かと動機の時の心に問い続けないといけません。

大切なことを理念として初心を忘れないでいることが本懐を遂げることになるのでしょう。
一度しかない人生をやり遂げさせてあげたいのは、見守ろうとする偉大な真心です。

ひとつひとつお仕事とお役目を丁寧に進めていきたいと思います。

仕事の本質

人は誰かのために何かをさせていただけるという感謝の上に遣り甲斐と生き甲斐を感じるものです。この甲斐があるというのは、それだけの価値があるということを意味しているように思います。

そもそも人は関わりの中で生かし活きるものです。

人間というものは、その人と人との間を通して自分というものを認識し、そして自他の関係の中に人生の妙味を味わうものを得ていくのです。

喜怒哀楽も感動も感激も、そして愛も幸せもすべて人との間を通して実感していくものです。言い換えれば、つなかりや絆の中にその存在を実感して自分がそのものと一体になっているときにそれを体感できるようにも思います。

この世そのものが「楽園」であるのは、そういうものを生まれてきて実感できる場であるからです。

その楽園に来ていることを最も実感できる基本は、誰かのために相手のために常に自分を使い切っていくことのように思います。そしてそれをいつも歓びにしていくことのように思うのです。

人が幸せになるというのは、相手に歓んでもらおうとすることだからです。

相手に歓んでもらうことこそが生き甲斐になり、誰かに歓んでもらうことのために自分ができることを精一杯勤めていくことこそが遣り甲斐というのです。

人は自分のことをやっているだけでは、生き甲斐も遣り甲斐も感じることはありません。

どうやったら相手に歓んでもらえるか、どうやったら誰かに歓んでもらえるか、それをとても高い次元で実践していることが甲斐性があるということです。能力が高いからでもなく、余裕があるからでもなく、誰かの歓びのために生き切る人だからこその甲斐性なのだろうと思います。

仕事とは働くとは、その歓びの次元をいつも自分に内包しておくことだと思います。この一つ一つのことが、誰かのお役に立っている、そして相手に役に立てたことが甲斐になるのです。

だからこそ、もっと喜ばせたい、歓んでもらいたい、幸せにしたいと祈るように願うように一つ一つの仕事に歓びの心を籠めることこそが生き甲斐、遣り甲斐だといつも実感していることが仕事の本質なのです。

仕事とは、人に仕えるとありますが仕えるというのは神仏に仕えるという意味です。自分も相手も喜んで歓びあうことを善しとして日々の生活を遣い切っていくことが甲斐性を育てることかもしれません。

いつも歓びの次元を忘れないよう、自分をより多くの歓びに仕えるよう精進していきたいと思います。