柔軟必要性

どの時代も、時流があり、いくら昔正しかったと言っても同じことが起きているわけではありません。なので何かの真理を掴んだとしても、今の時代に置き換えて咀嚼したものを提供していかなければ先覚者がいくら認めた言葉であろうともそれを活かすことはできません。

今の時代は、たくさんの本が流通し真理や法則は出回っています。

しかしそれをカタチにしようとするならば、今の時代なら何をすることがその真理や法則を行うことになるのかというのは自らが気づいて具現化していく必要があるように思うのです。

例えば、吉田松陰の松下村塾では常に先生が生徒に、現代ならばこれはどういうことかということを生徒に投げかけてそれを議論したとあります。これも、大切なのは真理に従うのではなく自らが真理を体現せよとの教えがあるように思うのです。

今のようにスピードが速い時代には、常に新しくしていくことが必要です。ちょっと前のことがもう古くなるという意識の変化の波の中で、かつてのようなことを同じようにやっても、かつての本質が維持できるものではないからです。

常に本質を維持するには、カタチを変えて現代に合わせていく必要があるように思うのです。その時代時代に、人が顕われてくるのはそうやって道は変化しその変化にあわせて新しい人が必要になるからです。

世代が変わっていくのも、新しい人たちが新しい時代の本質を維持していくからなのかもしれません。そうしてそれは、それぞれの役割や役目を全うせよとの天意のようにも思います。

循環していく社会の中で、ちゃんと役目があるからこそ自らがその役目を前の人から受け継ぎ改善して適応させていくという自立があります。気づきを正しく咀嚼するということは、その真理は今なら何をすることがそうなのかを考え切るということです。

常に本質的であるには、自分の方のズレを修正していく必要があります。それは中心をどこにするのかに似ているようにも思います。

初志貫徹することは、決心していますが時代を観て自分の方を柔軟に変化させていきたいと思います。

 

心の訓練

心の訓練というものを考えてみます。

心というのは形がありませんから、どこにあるのだろうかと思われるものです。自分の心、自分の感情、真底から丸ごとの自分とは何かということを知らない人の方が多いと思うのです。

日常で心が摩耗していくとき、その本心がどこにあるのかがふと自分でも分からなくなるということは往々にして起きる事のように思います。私自身もいちど心が迷い、ざわつき、執らわれてしまうと、自分のことが分からなくなってしまいます。

そしてそのように自分が分からなくなれば、真心も分からなくなるのです。そんな時、私は他人の御役に立てるように真摯に自分の誠を尽くして本来の自分を取り戻します。

かんながらの道を歩む中で気づいたことがあります。

この真心というものは、あるがままの心でいるときに顕現しているということ。
そしてそれは、本心のままに生きている自分のままでいるということでもあろうと思います。
生まれたての赤ちゃんの素直な姿でいつまでもいるようなものです。

時折、素直な姿に心が洗われるようなときも心は澄み渡っていきます。
人の本心や本音こそが禊になり穢れを払っていくのです。

また同様に真心は、感謝のときにこそ顕われます。

つまりは、至誠神の如しと言われるように「まこと」の姿そのものが自然なのです。

心とは何か、「心の本体は感謝」なのです。

自然でいるということは、常に心を澄ましていることが必要です。
自然体とは、感謝体になっているということです。

そしてそれは日々の感謝の実践によって得られるように今では確信しています。

人格を練磨することに時間をかけて日々に修養して良知を学び直してシンプルにしていくことが人生の大目標なのかもしれません。ここでの良知とは、本来の全ての関わりと出来事に感謝し、澄み渡った感謝の情愛を自分の真底から引き出していくようなものです。

それに気づく機会は、いつも人間関係の中で得られています。

これからも諦めず、直向に心の訓練を実践し、生まれてきた世の中を生まれる前より清々しくしていけるように様々な出来事に正対し受け容れ、感謝に転じていきたいと思います。昨日も大きな学びがありました。まずは実践ありきで、何事にも子どものように素直に取り組んでいきたいと思います。

今日は七夕です。

「笹舟の 流れる河に 満ちてくる 心の音色 澄みやかにきす」 藍杜静海

真心を有難うございます。

人間の道

昨日、致知出版社の方が来社してくださって一緒に社内木鶏会を行いました。この社内木鶏会とは、人間学の本、「致知」を使ってそこから気づいたことを一緒に学び合う勉強会です。

もうこの社内木鶏会もはじめて6年半ほどになりますが、もうそんなに経ったのかと懐かしくなりました。私たちが始めたころは20社くらいだったそうですが今では800社にもなったとのことで感慨も一入でした。

最初の出会いは6年半ほど前、致知出版社がまだ青山にあるときに社員皆で訪問し藤尾秀昭社長にお会いしたときからです。お時間がないと仰っていた中、若い私たちにホワイトボードを使って2時間以上も親切に人間学のことを情熱を傾けてお話をしてくださいました。

その時の情熱の燈火をそのままに継続してきた今までであったように思います。私達の身のまわりにも随分、致知を購読する人たちも増え、その出会いの素晴らしさ、その感動した学びの邂逅はいつになっても心に鮮明に思い出すことができます。

生き方を通して人は、人生を学び、そして互いに活かしあって伸ばしあっていく人間の道を人間学という言葉を通じて教えてくださったこと心から感謝しています。

またちょうどここ1か月ほど、深い悩みがあったのですが昨日の突然の致知の社員の方の来社で解消することができました。継続すること、実践することがテーマの記事で昨日は社内木鶏会を行ったことも意義があったように思われます。

思い返せばあの当時、致知がちょうど月刊発行部数が6万冊くらいだとお聞きしていました。そして、この致知の部数が10万冊にいったら日本が変わるというお話をしてくださったのです。

この10万冊で日本が変わるという話は、教育者、森信三先生が亡くなる少し前に藤尾社長にお伝えになったというお話です。それから6年半、今の部数を確認したら99600冊まで来たとのことをお聴きしました。

あと、400冊というお話をお聴きした時、本当に嬉しくそして励まされ勇気をいただきました。続けていく中で、いつも10万冊にいついくのだろうかと気になりながら拝読してきました。その中で、新春セミナーの様子や、周りの取り組み、致知から出版される本もいくつも購入する中で、いつの日に10万冊なのだろうかと思っていたからです。

それがあと少しだとお聴きし、心躍る気持ちと、勇気を奮い立たせてくださいました。諦めずに続けて実践していけば、必ずその時が来るという実感です。それまでのプロセスそのものが、成功なのだと改めて実感しました。

10万冊いくことが問題ではなく、10万冊に辿りつくまでの全てが世の中を変えることになるのだと思えるからです。実際は、目に見える成果は儚いものですが1000年単位で物事を捉えれば、大きな変化、普遍なカタチが顕現したことが観えてきます。

偉大な循環の中で、自らの真心の一燈を確かなものにしたというのはそれだけで大変尊いことだを思います。このタイミングでお聴きできたこと、来社いただいたことに有難いご縁を感じます。

ちょうど色々なことで自信を失いかけそうなとき、やはりいつも身近に励まして下さる方々いらっしゃるということ。何よりも感謝します。そして天がその機会をいつも私達に与えてくださっているように思います。応援し励まされそして前に進む、人は互いに元気を出せと肩を叩きながら背中を押しながら歩むのが人間の道なのかもしれません。

出会いが人を創る、そして道が出逢いを開くということです。

一期一会を実践できる今に心から感謝します。

 

夢とは何か

人は夢を持っています。

自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。

叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。

先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。

「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」

夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。

「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」

そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。

この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。

夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。

信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。

何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。

未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。

遣り甲斐と幸せ

自分の仕事の価値がどれだけのものかを知るということは大変な意義があります。

先日、もうコンサルに入り7年前になる園の職員取材の中で私たちと一緒に取り組んでいる実践をどう思うか尋ねるとその価値を大変高く実感していることをお聴きしました。

例えば、ブログの配信一つでもそれに自分の存在価値があるとし真摯に徹底して実践をしている姿に若いながらも将来の偉大な可能性を実感しました。何をやったかではなく、その意味やその価値を知る者こそが目標を大きく超えていくように思います。

仕事の価値を知らないということは、遣り甲斐を感じないということにもなるからです。遣り甲斐というものを辞書でひくと【やりがい(遣り甲斐)とは。意味や解説。そのことをするだけの価値と、それにともなう気持ちの張り。「―のある任務」】(goo辞書より) とあります。

つまりは自分の行っていることの本当の価値を自らが自覚しているかということに由るのです。

人は何をするにも、その価値を知って行うのと知らずに行うのは異なります。これは凄い仕事だと思って実践する人と、単なる業務の一環として取り組む人では仕事の価値が分からないのです。

この保育者も今まではそういう仕事ではなかった体験があったからこそ、新しく取り組む仕事の価値を知り、実感しているのです。いつも恵まれている人は、本当の仕事の価値を知るはずもありません。一つの実践を生み出すまでに、その裏に隠れた問題意識や危機感、哲学などがカタチにしていくのです。

遣り甲斐というものと等しく生き甲斐というものがあります。それを表現するのに、日本理化学工業の大山泰弘氏の紹介している言葉があります。

「人間の究極の幸せは、「人に愛されること」「人にほめられること」「人の役に立つこと」「人から必要とされること」の4つです。働くことによって愛以外の3つの幸せは得られるからです。」

生き甲斐とは幸せになることで、幸せとは愛されること、褒められること、必要とされること、そしてそれは誰かの役に立つと自分が実感して取り組むことだと思います。もっと自分を出し切っていきたいと、誰かのお役に立ちきっていきたいといった貢献意欲は自分の内面から開花させていくものでそれがヤル気、活き気になっていくように思います。

この程度の仕事と割り切っていく仕事ではなく、まさにその仕事の価値を自分で見出していくような仕事こそ、尊い仕事、楽しい仕事、遣り甲斐のある仕事になるように思います。仕事とは、何をするかではなく、どうあるかということに尽きるのです。

若い頃の自分の自他問を繰り返して鬱陶しがられていたことを思いました。

「この仕事は何の役にたちますか?何のためになりますか?」

当たり前に胡坐をかかないように真摯に実践を楽しみたいと思います。

 

共異共感

先日、ドイツでの視察に行った際にある保育施設でハンディを持つ人たちの立場に共感するために車いすの体験や、歩行具の体験、生活の中で自分たちと異なる人たちの気持ちに寄り添うような工夫をしているのを拝見しました。

私は、軽度発達障がいの子どもがいて当たり前という人の偏りを肯定するためのソフトを開発しましたがその際にも大前提は自分と異なる人のことを否定せずに、分からないのだから歩み寄って理解しあおうという考えに即して創りました。

人は何を持ってハンディかというと、人間がそれぞれ求める幸せを何かの柵や刷り込みで実現できないことです。本来は、どんなハンディがあっても人間は人間らしく誰しもが平等に生きる権利があるのです。それを最初から諦めてしまったら、それこそが歪んだ概念でその人のことを違うのだからと仕分けてしまうのです。

集団を優先し、経済を優先し、世間一般の数の論理で管理していく社会を優先していけば、そうではない人たちはとても大きな障壁ばかりを乗り越えながら歩まなければなりません。強いものが弱いものを思いやる、そして弱いものがあるから強いものが優しくなれるような社会にしていくことが本来の福祉の醍醐味ではないかとも思います。

人は共感して、自分と異なる存在であると理解するときはじめて違いを超えた存在に思いやりが持てるようになると思います。自分と同じだということを思い込んでしまえばいつまでも自分に合わせようとさせるばかりで共感することが難しいからです。

あのアインシュタインに、「誰もが天才なのに、魚を木登りで評価したら、魚はバカだと思い込んで一生を過ごすことになる。」という名言も残っていますがこれもそれぞれがそれぞれに持ち味がありそれを活かすことができれば天才だということです。

違いと異なるでは意味が変わります。

違いは自分との違いや何か基準を設けた違いだけを評価するのに対して、異なるというのはそのものを全肯定全受容しそのものの価値を丸ごと評価しているのです。

異なることは善いことで、異なりがあるというのはそれだけ多様な人たちの役割が必要になりみんなが幸せに活きられるチャンスを得られるとうことだからです。均一で画一な集団では、自分の役割まで競わなくてはなりませんし蹴落とさなくてはなりません。しかし互いに思いやれる優しい集団をめざせばハンディというのは周りを幸せにするように思います。

今のような時代、風穴をあけるのはこのハンディへの共異共感かもしれません。
常に人間として大切なものを見失わないように、新たな実践をはじめたいと思います。

器

器というものがあります。どれだけ何を容れるか、それは器にもよるものです。器と言えば、料理の御椀から植物の鉢、その他、人間の器などというところまで様々です。

特に人間の器というものは、いくらでも変化させることができその器の価値は何を容れて何を与えるかによるもののように思います。例えば、自分のことしか考えられない我儘なときほど器の小ささを実感してしまうものです。自分の執らわれている何かがいつまでも手放せず、頑なにそれを固持すると器が小さくなっていく感覚を得ます。

自分のことしか容れない器など、取るに足らないものでそんなものでは自分以外の世間のものを容れる余裕もありません。本来の余裕とは、自分の器をどのように使っているかというものかもしれません。

またその器の中のものから空っぽにしていかないと次のものは入りません。

自分の器を何かに役立てるなら器のものを誰かのためにいつも使ってもらわなくはなりません。それは自分の方から言えば誰かに与えていかなければなりません。与えるということは、自分のもっているものをどれだけ誰かのために役立てているか。

それは智慧でもよければ笑顔でもいい、心の配慮でもよければ、思いやりのある言葉でもいい、誰かのために「与える」ということをしていけば器が私器ではなく公器になっていくのです。

また逆に自分の器ではないと頑なに選び、そして偏れば器は自分の思いで一杯になり、何かをしてもらおうとばかり考えたり、なぜ自分だけこんな目にと思ったり、ここまでやっているのにといった与えるよりも「奪う」発想になってしまうのです。この与えるとは反対にある奪うというものは、自分の器に容れるものを自分で決めてしまっているときです。

何でも善い、自分にできることがあるのならば与えられるものがあるのならば使ってくださいと言う謙虚な心には偉大な器が存在します。しかし自分の器はこれしか入らないとか、自分にはこれが向いていないとか自分が活かせないのは何かのせいとか言い訳をするならば、そこに傲慢な心が発生し器が壊れてしまうように思います。

器というもの、寛容力というものは何とかしようという意固地になるのではなく与えようと思う真心からできあがるものが美しく清々しいものかもしれません。器は大きいとか小さいとかではなく、どれだけ器としてのお役目を果たそうとしているか。世の中や誰かのために自分の器を使ってくださいと言う謙虚な気持ちで自分を使えるかに懸かっているようにも思うのです。

器を常に清浄にしていくことは、与えるものを清らかにし、容れるものも清らかであることがいいように思います。それは言い換えれば様々な御恩に感謝し、自分の体験した全てのことを誰かの御役に立てて貢献するという実践のように思います。

どんなに自分の心、身体、精神が病んで苦しくても、体験を通していつの日かこの経験が誰かの御役に立つと信じる事で報われる日が来ると器に感謝していくことかもしれません。他人の気持ちが分かる優しい人というものは、深く相手に共感をして全てを丸ごと受け止めることができる人のように思います。

そういう人を、人は器の大きな人と呼ぶのでしょう。

一見、地味で目立たない器ですがその器があるから生きものたちが活動できるということを忘れないでいようと思います。

頭でっかちの落とし穴

何かを弘める際に、それが行われるかどうかは実践するかどうかによります。

そしてこの実践というものは、よく勘違いされていますが頭でっかちにやることが実践のように語られてマンネリ化していることも多いのです。そこには三つの落とし穴があるように思います。

一つ目は、何のためにやるのかということを考えなくなることです。実践には心が伴っていなければ実践とはいいません。何のためにと考えず、やらされたりやらなければと闇雲にやることばかりに囚われてしまうと業務のようになってしまうのです。常に本質的に取り組んでいるかどうかは、決心した場所から常に離れないで行うことができるかということが大事になります。

そして二つ目は、身体を動かさないことです。頭は、いつも楽をしようとばかり考えているものです。いつもやりながら他の方法論を探したり、便利で簡単にできるようにと思っています。すると、やってもいないのにやっているという感覚になり現実が麻痺してしまうのです。身体を動かすとは、具体的に手間暇をかけてでも面倒でも一つ一つのことに身体を使って行動することです。そうしないと、思っていますややっていますといくら感情的に訴えてもその実は何も変わっていないことになるからです。メンドクサイと言われるような時に行うことで身体は動きます。

三つ目は、言葉を大切にしないことです。言ったことを遣るということは、大変難しいことです。特に言った通りに行うというのは何よりも難しいことです。自分の言葉に責任を持つというのは、維持継続して遣り遂げるということを意味します。自分で言っておきながらそれを大事にしないから言葉で伝わらなくなるのです。伝わらない言葉というものは、全てを形骸化させ物事を便宜的にしてしまうからです。それに言葉にしていくということは、上記の二つをやっているから真の学問に通じ、それを伝えるための自分の言葉にしていくことができるのです。

このように実践というものは、実践と思っていても思い違いをしていて頭でっかちという名の罠があらゆるところに仕掛けられるのです。頭とのバランスというか、想像したものを行動に換えて習慣にしていくことで実践と呼べるものになるのです。

日々に実践をするというのは、心、身体、そして言葉というものをフル稼働すること。つまりは決めたことを決めたままに行うこと。言い換えれば自分が分かった気にならないように真摯に真心を籠めて飽きずに倦まずに丁寧に以上の三つを気にかけて知行合一に取り組んでいくことのように思います。

方法論ばかりや選択論ばかりが広がるのは、実践をしないからでしょう。保育業界も教育業界も、楽な方ばかりで語られ保育の質や子どもの人権などは御座なりになってしまっているようにも思います。これも先に教え込まれて勉強をしてきた過去の刷り込みが存分に残っているのかもしれません。

本来の使命感として、理念がどうなっているのか。その理念に対してそれぞれが実践していけば自ずから協働し世の中も思いやりのある温かい社会に換えていけるように思います。そういう生き方や働き方を示すことはそれだけ志が世を憂うからです。

自分ひとりの実践が、周りの実践を弘めることになると信じています。世間の頭でっかちに揺さぶられないように改めて実践を強めていきたいと思います。

自然の法理 ~生長の本質 じっと待つ~

植物や木々、身近な小さな虫たちから驚き、学ぶことが沢山あります。なぜだろうと観察を続けていると、いつまでも学ぶことがあります。子ども心はいつも不思議さと好奇な学びを自分に与えてくれます。

大人になると知識で分かった気になり頭でっかちになって何でも知っている人が増えていますが、本当は頭でっかちというのは日々を新しくしていくよりも過去のことを組み合わせてやりくりしやり過ごすことになるのかもしれません。昔どうであったかよりも、勇気を出して今、どうであるかの方が人生は豊かで楽しく感動で変化を味わい過ごしていけるように思います。

例えば、植物たちは時機というものに適応していつまでも準備しています。このいつまでも準備というものは、一見、あまり動きがなく、何もしていないように見えますがその実、如何なる時も着実に力を蓄えてそのタイミングを待つのです。

庭のベランダの植物や野菜たちも、誰が教えなくてもそのタイミングを知っていてじっと養分を蓄え今という時に合せて自然に伸びていきます。それは実をつけるときも、種になるときもじっと待ち続けていることは共通しています。

そしてこのじっと待つというのは何もしていないわけではありません。
一瞬一瞬の今を全身全霊で代謝しているのです。

人間は止まっているときは休んでいると思ってしまう刷り込みを持っていますが、植物には止まっていることなどはありません。常に止まっていると思っている冬枯れの時でも、根しか残っておらず土の中にいるときでも、そして種となって春を待つときでも、命懸けで生きて、捨て身の覚悟でいのちを放ち、そして全身全霊全て出し切って日々を新たに今を生き切るのです。

人間は強欲ですからじっとするということが分からなくなったのかもしれません。植物たちのようにあるがままでいれば何もしていないように外から見えたとしても、その実、どれだけ真剣に今を生き切るかということでそれは時機を待つという考えもあるように思います。

人生を自然で捉えるならば、種から芽が出て、花が咲き、実をつけ、そして他の養分になりまた次世代の種になる。その生きるプロセスそのものにいのちの循環を怠るという意味が分からないほどにどの瞬間もじっと行い尽くし精一杯遂げるのです。

どんな花をつけようとするかを想うことも大事なことですが、今がどれだけ全身全霊でいるのかということが自然なのでしょう。自分がどんな種で生まれてきたのか、それはいのちが知っているのだから天に委ねて真摯に生き切ることで自分がどのような花になり実をつけるかもどうせ次第に明らかになってきます。育てる楽しみもまたそこにあり、自分もどんな花が咲くのか、そして実になるのかをワクワクドキドキしながら今を遣り切っていくのが自分らしく生きることでしょう。

誰かの花を求めたって誰かの実のようになりたいと思っていたって、それはそうなるわけではないのです。松の木は梅の木にはなれないように、自分の持って生まれた天命はどのようなものであるのかは今を生き切る先に存在しているからです。論語の五十にして天命を知るとあるようなものも植物の一生と照らして考えれば自明の理が存在します。

つまりじっと根気を据えて今を全身全霊で遣り切るというのは、どの瞬間を切り取っても全身全霊であることを自分が自分で尽くしている状態です。言い換えれば、「日々を新たに自己を改善し、今までの刷り込みを取り払うために実践をし、誠実に真心を籠めて周囲に尽くし、感謝で自分を生き切る」ようなものがじっと待つです。

いつも感動するのは植物たちは、それを自然にできています。

一見、変わらないと思ってしまうのは何か焦ってしまう気持ちがあり種なのに種の時に種をせず、早く早くと花を求めてしまう刷り込みが自分の中に存在するからかもしれません。自分を含めた誰かの評価が気になるのは、こうなってほしいといった欲望に自分の志や芯が揺らいだからかもしれません。

じっと待つ植物たちの生きる姿勢に、自分自身が恥ずかしい思いがします。早くそのものをそうしようと思う自分の焦りは、無理を通すばかりで子どもたちに不安を与えて生長を抑制してしまうように思います。どんな時でも子どもを見守る真心に曇りを持ちたくないと改めて自分を厳しく戒めたいと思います。

生長していくことの本質は、時機に備えて素直に謙虚であることなのは自然が教えてくださいます。植物たちとともに、同じ太陽の下、素直に明るく清々しく今を大切に日々を新たに生きていきたいと思います。

 

清々しく弘める

先日、ある取引先の先生から貧者の一灯のお話を拝聴してきました。富者の万灯よりも貧者の一灯という仏陀の話ですが、真心を籠めた一灯は大変尊いというお話でした。

もともと数が問題ではなく、一つ一つの行為に誠の心を籠めたものであったかという例えです。この話は、よく富者か貧者かというところをフォーカスされて使われたりしますが、そもそもその考え方自体が刷り込みによるものです。

他にも、清貧といって物質的なものよりもそれ以上の価値で簡素に生きていくという言葉もありますがこれも富むか貧しいかというところが比較されて使われるのも同じです。

そもそも貧者の一灯の場合は、富むか貧しいかが問題ではなく「真心」かどうかを語っていますし、後者の清貧か富豪かではなく「清らか」であるかを語るのです。

何でもそうですが、今の時代は競争か共生かとか、画一か個々かとか、何でも比較して語られますが本来のそれは言葉を脳で仕分けただけでそこに確かな心の生き方がどうかが語られなければ本質的な話ではないのです。

本来、私は競争は悪いとも思っていませんし比較も悪いとも思っていません。他にも画一が悪いとか、大人目線が悪いとか、贅沢が悪いとか、その反対に玄米食しかダメとか、お酒も醸造アルコールはダメとか色々とダメなことばかりを言うのでもありません。

そこにこだわりがあるのは、あり方の方で、私はそこに清らかであるか、真心かといったものがないのはどうかと思っているのです。

例えば、競争も清らかに真心を籠めればその競争はとても美しいものになります。お互いを高め合い認め合い、尊敬しあい、思いやりに満ちた素晴らしい体験になるでしょう。他にも比較も、互いの長所を褒め、互いの美点を尊び、その比較が全て善転するようにするならばそれもまた存在に感謝しあうでしょう。大人目線といっても、真に思いやりのある大人として目線を確かめたなら真実に触れ人は自律し磨き合い高め合うでしょう。

このように本来の心の定めた在り方次第で、いくらでも物事は本質のままであるのです。

人が本質から外れるのは、そういう在り方よりも表面上の脳で裁いた右か左かという発想が本質を歪めてしまうように私は思います。

今の時代は、物が溢れたからこそ物を否定せず、物をもっと大切に感謝して豊かさを清々しくしていく必要があるように私には思えます。それはまるで清貧思想でも清富思想でもなく、清く豊かな思想です。

これは感謝の時代、それだけ感謝をたくさん豊かにしていく時代のように思えるのです。貧しい時代が善かったとか、今は物が溢れすぎて心が貧しいとか色々と言われますが、もっと有難うということを豊かに感じる感性を磨けばいいようにも思います。

どうしても恵まれすぎると、色々なことが目に入らなくなり与えられている幸せを直視できないで感謝を忘れてしまうことがあります。特に豊かである人ほど感謝を亡くすのです。しかしそんな時は、恵まれすぎたものをどれだけ自分が多くの人へと還元するか、精進してそれをもっと豊かで幸せな社会のために真心で全てを活かそうかといった感謝の発掘発展と心のおもてなしに使えばいいように思います。

思いやりや真心、そして清らかである方を選ぶ生き方そのものが貧富の差なども取り払ってしまいます。大切な生き方が観える生き方かどうかは、生き方を実践しているかどうかで決まります。自分の生き方がそうだから、他人の生き方が観えるということは、自分も同じ生き方をしようと決めた人にだけ与えられる世界があるのかもしれません。

環境がどうであれ、日々の「生き方の実践」を怠らないのであれば人の住む世界はいくらでもその人の生き方次第で観え方が変化してしまうのです。そしてそれが道そのものとしてひらかれていくのでしょう。

今のような時代を全て受け容れ、清豊主義で与えられたものを最大限伸ばして真心を籠めて感謝でき、それを分け与え清々しく弘めるような生き方をこのまま優先していきたいと思います。

道心を弘めるのも私の使命ですから、脚を止めずにこのまま歩んで往こうと思います。