勇気

人は何かをしたことを満足したくなるものです。

例えば、これをやったのだから凄いとか、これをしていないからダメだとか、結果だけをみて判断してしまうものです。しかし本来、物事というものはそこに世間からの評価や評判などの基準で良いか悪いかを判断しているのは、自分がそう思われたいから求めることが多いのです。

世間の評判を気にして何かをすることは自我が求めているだけで、本来の自分の魂が望むものではありません。

自分の魂が望むものとは、全てにおいて日々にどうありたいかということでありそれは自分の生き方を換えることによって得られるように思うからです。しかしこれも大変難しいことで、生き方を換えるには勇気が必要になります。その勇気は、今までの自分の思考のパターンを変換して同じ状況を転じて福にして善いことへとしていく実行力が必要だからです。

同じことが起きるのが人生で、マンネリ化してしまうのも人生ですが、同じパターンをやめたいと強く念じるならば今までとは異なる乗り越え方をしていく必要があるのです。それはまるで、自分の内面の扉を開けて道をひらいていくような感覚なのです。

これを言い換えれば「受け容れる勇気」というものかもしれません。そもそも勇気の本質とは、どれだけのことを逃げずに真っ直ぐに受け容れるか、つまりは自分が与えられたものを受け止め心から信じるかということですが、そこに疑いがあることは受け容れたことではありません。

どんな環境や境遇であっても、今与えられたものには何か大切なことが潜んでいるということ、それを真摯に学ぼうとすることができてはじめてそこに感謝も真の歓びも幸せも楽しみもあるように思います。

自分の思い通りにいかないことは楽しくないものです。それは脳が楽しくないと思っているからです。それを邪魔するのは自分の身がかわいいからです。しかし心は生き方ですから、それとは反して覚悟を決めて今を遣り切っていくと一瞬一瞬が幸せであるように感じられるものです。そしてここに転じるのも勇気の一歩が必要なのです。

楽よりも楽しい方を選ぼうとするとき、そこに勇気がいるのです。何が起きるから分からないけれどそれも全て天に委ねようとする勇気、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という捨て身の覚悟というものが求められるのです。

この捨て身の覚悟が私の思う覚悟力の本質で、その時こそ人は勇気をもって変われるのかもしれません。どれだけかわいい自分自身を捨てられるか、そうすることで身がから離れ本来の魂といった生き方や死に方が心に顕われるように思います。これは身近な人の闘病を見守りながら、何を捨てて何が捨てられなかったのかを見つめることができたことで気づくことができました。

本来の死生観とは、そういう身をどこか他のところに置いてでもという境地が必要なのかもしれません。ただ、それも極端な観念論ですから、日々の取り組みは真心をどれだけ籠めて遣い切ったかでもいいように思います。

自分のことを思い煩うよりも、人のために自分の真心を今日も遣い切るという方が私にはどうも合っているように思います。他人のためになる仕事、つまり自分を役立てるというのは、もっとも身近な家族を大切にしていくことからもすぐにできることだからです。理念を真心で遣り切ることも偉大な勇気の一端であろうと私には思えます。

最後にマザーテレサの言葉に励まされます。

「どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。」

どれほどの愛を注ぎ込むか、そこに生き方を教えてくださっているように思います。
今日も楽しく豊かになる一日を与えてくださって本当に有難うございます。

実体験の価値

人が生きていくのに実体験というものが生き甲斐や遣り甲斐を生み出していくものです。その実体験とは何かといえば、自分でやっているという実感のことです。

これは自分で決めたことを自分で遣り抜く時、もしくは自分の人生を信じて今、与えられている環境に感謝するときに実感できるように思います。不平不満を言っては、遣らない理由を探すのは言い訳で、言い訳をするとまた実体験から遠ざかってしまうのです。

実体験とは、酸いも甘いも全てを味わおうとする境地で、自分が心で定めた志を頼りに後は眼前の今に全身全霊で特化していくというものです。それは例えるなら、世界の問題を自分の中に容れながらも粛々と目の前のことから学んでいくのに似ています。

禍福一円ではないですが、今、学んでいることは将来どこかでその能力が必要になるのです。ないものねだりをする前に、自分に何の力を欠けているかを教えてくださっているのが今という見方が素直で謙虚な姿勢です。

また自分の欠点を知ることは、自分の美点を知る事でもあり、人は同時に両面を受け容れなければ本当の自分を世の中へ役立てていく方法へ辿りつきません。

そして欠点だからそのままでいいかというとそうではなく、欠点もまた美点になるように精進していく必要があると思うのです。それはバランスのことで、美点は欠点があるから引き立たされるものだし、欠点は美点をさらに引き出していくからです。

例えば、何かができなくて大変だからこそそれをできる人の美点を見つけることができる。そしてその美点を活かしつつ自分の美点で協力していくこともできる。欠点は補い合い、美点は尊ぶということが、自他を活かすことのようにも思うのです。

人はどこか自分に似ているところがあるから惹きあうともいえます。しかし同時に似ていないところがあるから求めあうこともできるのです。

だからこそ欠点もまた美点になるように、互いを尊重し認めていくのは視野を広げ、遠い先のことを慮り、いつの日か必ず力をつけてお役に立とうと今を遣り切っていくのが自分を活かすということかもしれません。

目標も夢も、本当に遣りたいことは実は日々の体験の中で得られるようにできているのが人生です。生きること、生きていることそのものが夢の中にいるからです。そして分かるように言い換えるならそれは大前提として、「現実の中にこそ真理がある」と信じている事です。

最後に森信三先生の言葉です。

「いったん決心したことは、必ずやりぬく人間になることです」

やりぬく人間になること、これがイコールで実体験する人生であるということかもしれません。
人間は頭で生きるのではなく、全身全霊で生きるもの。人間ですから弱る時もあるかもしれません、しかしだからなんだというのもあります。

志とは実はそういう時にこそ、盤石に発育していくからです。

実体験を尊び、試行錯誤しながらも前へ前へとその舵をきっていこうと思います。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。

自然の叡智

今年は自然農の畑を改善して、新しい工夫を凝らしています。

最初から大した知識もなく、直観をベースに取り組んでいると御蔭で色々なことが観えてきます。自然というものの偉大さというものは、誰かから教え込まれた知識ではなく、もともと最初から備わっていた知識で理解するときにこそ認識できるものだからです。

教えてもらわなければできないのではなく、自分からやってみようと信じてみなければできることもできないのです。

自然とは、誰が教えなくてもそこに生きる智慧を享受されています。

植物たちが自ら伸びる時機を知っているように、親鳥が雛を孵し育て始めるように、誰が教えていなくてもそのものはそのものの命に従って一番大切なことを忘れることはできません。

後の知識でいくら刷り込んだにせよ、そのものの本性や本命というものは無自覚無意識に誰にも拒むことはできないのです。

自然というものを観察するに、人の中の自然というものがどういうものであるかの認識が必要です。

春の種蒔きの重要性を実感し、そこで種蒔きが成功しなければ秋には物乞いをするようなことになりかねません。人生というものも、如何に種を蒔くサイクルにあわせて行動するかということが問われるのです。

自然には全てに時機というものがあります。

その時機時期を逃さずに怠惰や安逸を戒め、如何に自律するかというのはそのものがそのものの時機通りに働いたという生きた証に他なりません。

自然というものは、そこに怠け心はなく全ての愛情を注ぎこむ自然界に倣い、その愛情に真摯に応えていこうとする愛の循環があるのです。

見守るの見るというのを学ぶに、この自然農はとても大きな役割を果たせるように思います。何もしないのではなく見るという偉大な行為。そしてそのもののもともと備わっているものを信じるという守るという偉大な行為。

自然から学ぶことは教科書から学ぶことよりも偉大な生命の叡智を思い出させてくれるものです。

飽きたらず、観察し、そして怠らず、実践し、教えないものを覚りたいと思います。

生死の行方

人は生き方が選べるように死に方も選べるように思います。

例え人生が今までどのような習慣を持ち生きてきたといっても、最期の瞬間に自分の求めた真の生き方に気づけたなら死に方もまたその瞬間に変わるように思います。自分がどのように死ぬのか、それを正面から向き合えば今、自分がどのように生きるのかが問われます。

これは今の自分の生き方そのものが死に方そのものになるからです。

生き方とは、簡単に言えば今この瞬間にもどのような選択をしたかの集積です。人は日々に大小さまざまな選択をして生きています。

人によっては、思いやりや優しさ、善や真心で幸せの種を蒔いていくような生き方を選ぶ人もいますし、また逆に利己的で自分のことばかりを優先し、奪うことや独占することばかりで不幸の種を蒔いていく生き方を選ぶ人もいます。

人はそれも自分で自由に選択することができ、どんな境遇であっても誰かの御役に立ちたいと願ったり、幸せを噛み締めてその幸せを周りへと広げたいという人になりたいと思うのです。

しかし世の中を直視してみれば如何に思い込むことで生きてしまっている人があまりにも多いのではないかと思うのです。人生が寂しいものになり、孤独になるのもその思い込みから抜け出せずに自分の自我に引き籠ってしまうからのように思うのです。これは自分で思う以前の問題で、そうならざるを得ないような生き方を選択した過去が存在しているのです。

人の思い込みというものは、過去に何かの出来事がありそのことの不幸を転じることができずに引き籠ったことで発生したままその記憶から抜け出せなくなることに似ています。そうして抜け出せないだけではなく、いつまでも同じことの繰り返しをしそれが次第に生き方に反映されてしまうのです。

過去の出来事がいつまでも尾を引くことで、その思い込みから抜け出すことができないのです。

思い込みはいつまでも自分の外側の世界に心を開かず本来の人間の美しい姿や愛情、自然の真心などが歪んで観えません。

本来、この世界はとても豊かで美しく、感謝と愛と真心、偉大な思いやりの中で私たちを活かしてくれていてそこに気づくことで心を幸せにし、その心の余裕こそが人々の中の平和を生み出していくように思うのです。

それを奪うのは全てにおいて過去の思い込みといった刷り込みによるものです。

これを取り除くには、覚悟が必要でその覚悟とは今の心が決めたということがいります。つまりは過去の自分と決別し、新たに今に約束した新たな自分の生き方を徹底して習慣にまで昇華させて未来を変えるのです。

人は小さなことでも、心で決めたことを遣り抜けばそのうち世界が自分が引き籠ったものから解放されていくのです。それもまたご縁と道との出会いが必用でまるで「啐啄同時」のように生死の境目にある絶妙なタイミングがあるのです。

この「啐啄同時」は禅語ですが、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、いのちを分ける大事で危険な一瞬だからこそ啐啄は同時でなくてはならないのです。

この人が変わるという瞬間、その生死の行方の境目というものは、運命の大きな掌の中にあるように思います。

コンサルティングをしていると、いつもこの機縁は透徹された絆を結び、仁義の通じ合った絶妙たる絶体絶命の時にこそ訪れることが多いからです。人の生き方や死に方というものを左右する、刷り込みの消去はひょっとすると生死の間にこそあるのかもしれません。

変わりたいという心の叫びが助けを求めているのかもしれません。

刷り込みを取ろうなどと、また世界を変えたいと真摯に願うのはひょっとすると狂人のような世界かもしれません。先日の死から再び学んだものは、生き方を変えたいと願う人たちの救いを求める心の叫びと許しの中にある愛の囁きでした。

生きていれば色々と向き合いたくない過去の自分も、今も変われない自分とも出会うものです。しかし未来を変えたいと願うなら、勇気を出して挑戦し、最期まで希望を失わないで遣り切ることができれば後は全てを天に委ねる。

それが生死の行方を決めるのです。

これからどうするか、、もう一段、自分は変化成長しなければなりません。
今は何を学ぶべきか、その道筋が少しだけ観えてきた気がするのです。

生死の行方は、私にも訪れています。

自然治癒の本質

自然治癒について深めてみる機会がありました。

もともと自然治癒というものは、自分の中から治っていくという感覚で病気が平癒していくことを言います。これは、薬が身体を治すのではなく身体が自分を治すことを薬が支援するというようにもともとは自分の身体の方からの免疫によって自助し回復するということです。

一般的には、身体が苦しい時や辛い時は、頭で考えると治っているようには感じないものです。なので苦しい時や辛い時は、外発的に治療しようと薬や対処療法を試したくなるものです。

しかし本来の自然治癒が働くときは、実際は苦しい時や辛い時、痛い時、シンドイ時にこそ働いていると実感するのです。これは、内発的に自分の内部から外部へと排出しようとしたり自分の力を使って怪我や病に打ち克とうとしている証でもあるからです。

つまりは感情というものは起きている出来事に対して働くのに対し、心身は自然に合わせて働いているということです。これは、心臓や脈、呼吸、体温など自然に身体を順応していくのに対して、感情はその出来事からその身体を順応させているのです。

言い換えれば、身体をコントロールする機関に情と心がありそれが交互に交代しながらバランスを取り一つの生身の身体を操作しているともいうのです。不思議な事実ですが、この調和と不調和とはこの情と心との協働により左右されているのです。

そして自然治癒とは、本来、心身の大調和によって成り立っているものです。

この心身の大調和とは、情と心が互いに協力して自然の場所を観出しその場所に止まることで平癒安心の境地に辿りつくことのように思います。これは例えれば、身体が求める治癒に対して感情もそこに合わせてあげること。そして感情が求める治癒に対して身体もそこに合わせてあげることに似ています。

統合医療の本質とは、きっと以上のようなもので情と心の協働をどのように融和していくかにその技術の鍵があるように思います。

苦しいから楽を選ぶのではなく、苦しいからこそ楽しい方を選んでいく生き方。辛く悲しいからこそ無難を選ぶのではなく、辛く悲しいからこそ有難を選んで感謝すること。こういうひとつひとつの出来事に対して内外の学びがあり、その学びを自分の体験に昇華することで人は成長という掛け替えのないものを得ているのです。

転じるということは、この大調和に換えたということに他なりません。
そしてこれが自然治癒の本質です。

外側と内側のバランスを保つために、常に人間は大調和のために努力精進していかなければなりません。それが生きる死ぬを知る者、つまりは大往生する人間の業だからです。

出来事に感謝、病気に感謝、偏りに感謝できるよう、バランスが崩れているところの声を聴き、受け容れ治癒に換えて学問がある歓びに大感謝していきたいと思います。

真理と刷り込み

人間というものは、真理を知っているからと人生が変われるわけではありません。人生を変えようとするならば、自分の中にある刷り込みを取り除くことが何よりも先であるのです。

その刷り込みとは、知らずしらずにうちに自分の中では正しいと思い込んでいるもののことです。

例えば、過去に誰かから教えられたことを鵜呑みにして何かを怖いと思っていたらいくらそれが安全な事であってもその人にとっては危険なものであり、何かを判断する際、自動でその選択肢から危険を避けようとして判断が歪んでしまうのです。

判断の歪みというものは自分では気づくことができず、歪みはいつまでも変わることはありません。その歪みは自分では間違っていないと思い込んでいるのですから、いくらそれを指摘しても気づかないという仕組みになっているからです。

ただどうしても前に進もうとするときや、それを避けては通れないときがあるのです。

それはどのような時かといえば、人生を変えたいと強く願う時のように思うのです。

自分ではこれだけやっているのになぜか前に進まないときや、壁を乗り越えられないとき、もしくはどうしてもうまくいかないと思う時、それは実は人生を変える時だということです。

人生を変えるには、自分と向き合わなければならず、その時は、自分の持っている大前提の刷り込みと正面から正対しなければなりません。それは鏡で自分のありのままを直視するように、もしくは誰かから指摘されたことを素直に聴き入れるように、あるがままの姿が何かを受け容れる必要があるのです。

つまりまず刷り込みに気づくということが最初の難関なのです。

この最初の難関は、素直でなければ超えられません。今までの常識や先入観を疑うのですから、真実に気づくためには自分の都合が入ってはならないのです。真実がいくら身近にあっても人が変わらないのは刷り込みが取り除けないからです。

これだけ先覚者たちが言霊や遺志を遺してくださっていても人間が変われないのは私は刷り込みによるものだと確信しているのです。そして人生が変わるのは、刷り込みに気づいてそれに打ち克つことが全てであると信じているのです。

悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、すべては素直へと通じる一本道です。
身近な人の死が改めて教えてくれたのは、刷り込みに向き合う尊さでした。

最後に、御礼参りに伺った祐徳神社のご縁にて素敵な文章をいただきました。

「素直になれば、態度が変わる 
 態度が変われば、行動が変わる 
  行動が変われば、習慣が変わる
   習慣が変われば、運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる 」

もうずっと前から本当のことは分かっているのです。
みんな本当はずっと前から変わりたいということは分かっているのです。

それを変えてあげるお手伝いをしたいと願っていても、変われないことばかりです。

そんな時は、いつも魂が疼き、この刷り込みに打ち克つ真の強さが欲しいと願ってなりません。人間の未来のためにも、真の伝道のためにも、正面から刷り込みを取り除く仕事にいのちを懸けていきたいと思います。子どもたちには子どもの姿を保障する私たちの刷り込みのない存在が、先祖伝来の宝をそのままに引き継ぐことになるのです。

そして学ぶべき至善の真理は、生身の実生活にしてこそ本来の真理です。

現実の真っ只中にあるこの今こそが真理です。
ご縁と教えに感謝いたします。

 

先入観の知識

人間の脳は、すぐに目に映るものを仕分けていくものです。

例えば、携帯でもパソコンでも、食べ物や洋服でも、目に入ったものを自分の中で認識したものに仕分けていくものです。もっと簡単に言えば、こういうものだろうという自分の中の知識を加工し自らの世界にしているともいえます。

もしも加工をするのをやめてみれば、どんなことにも好奇な関心を持ってそのものの本質を知りたいとドキドキワクワクしながら学んでいる人には世界は不思議で満ちたものになるはずです。

あの朝の太陽の眩しさ、夜の月の霊妙さ、地球の活動の尊大さなども日々の中で観過ごすことなく味わい尽くしていくようにも思うのです。

確かに私達の知識の加工はパターン化するのに便利ですぐに役立つとも思いますがその反面、知識があるからそのままを丸ごと受け取る感性が鈍り、最大から最小までの全てを丸ごと味わうことが難しくなってくるように思うのです。知識一辺倒で体験をあまり重視されない優等生がうける教育ばかりを受けてくると、元来生まれる前から備わっている感受性というものやそこからの冒険心などが育ちにくくなるのです。

本来は、まずやりたいことから取り組んでいる時や、もしくはその後に味わっていると余計な知識がそぎ落とされていくのです。私たちの今は、体験しなくても知識で先に体験したかのような錯覚を持ってしまうものです。

それが不安や恐怖になったりして、先に結果を知るからこそ動けなくなるものです。

本来は、結果など分からないのだから思い切って飛び込んでみてそのあとにあれは一体何だったのかと深めながら得ていくものが知識です。それは、その意味をより深く感じ、そこから何につながっているのか、この体験はどれだけ貴重なものだったかと奥から引き出してくるときに必要なのが知識であったのです。

知識を優先して無二の体験をしないとなると、せっかく生まれてきたのに大変勿体ないことだろうと思います。無難を選ぶのではなく、有難の中に本物の自分の人生があると信じることが日々を楽しみ味わい尽くして自分のいのちを遣い切っていくようにも思います。

体験したものは、全て血となり肉となり、いつまでも自分の中に生き続けます。
先入観の知識にとらわれず、新しい境地へと挑戦していきたいと思います。

縁愛8

ドイツ研修も最終日を迎え、日本へと帰国しています。

世界に視察に行けばいくほどに、自分は日本人として今を生きているかを向き合う機会に恵まれます。かんながらの道を歩もうと決めていますが、日本人としての奥深さはまだまだ計り知れないものがあります。

勿体ないも有難いも、結びも御蔭様も、またまたお天道様の見守りも、先祖代々から脈々と流れて受け継いできた日本人としての心がいつも自分の中に連綿と生きています。それをどう今の時代に置き換えて日本人の自分らしくを貫いて子どもたちに継承するかは私の生きざまによるもののように思います。

日本人らしく生きることは、自分らしく歩んだ先人たちと道を共にすることかもしれません。自分らしさというのは、自分の中に連綿と存在しているものを引き出していくことだと思います。

有難いことに世界に出ればでるほどに、私の日本人としての自分に襟を正し内省します。先人たちに恥ずかしくないよう、これからも精進していきたいという決意を新たにした旅になりました。

今回は人間愛をテーマに様々に深めてきましたが、今回のもので一区切りとします。

シンプルに言えば、これは一期一会を生きるということです。またそれを言い換えればそれは縁を愛するということに他なりません。一つひとつ、出愛の全てを大切にしていくことが人間愛を顕現させることだからです。

私は今のような時代だからこそ、人との縁を愛することを選んでいきたいと思うのです。それは誰に対しても、どのような境遇の人にとっても、人種が異なっても、価値観が偏っていても、それでもそういうものを乗り越えて「ご縁」であると信念を持って生き切ること。

こういうご縁という思想が、私には人間愛に思えてならないのです。

そして平和を愛する心とは、ご縁を大切にする心です。

「世界の輪 結ぶご縁は 愛の糸 光り輝く 星々となる」 藍杜静海

一期一会に生きる中に愛は永遠にひかり続けています。

縁愛7

ドイツ研修も6日目を迎え、今年も無事に学びが実る体験を新しい方々と一緒にできたことに幸せを感じています。

今まで見ず知らずの人達が、同じ目的のために一同に集まり共に学び共に遊ぶ、まさに保育というものは自分の使命を遣り切っているときにこそ最も身近に感じられるものなのかもしれません。

人間は動機がいつも誰かへ向けられた思いやりや優しさ、そして貢献によるものから発せられるものであるならば、その遣りたいと思ったことはきっと使命によるものです。自分が誰かのために生きていると実感することは、そこに愛があることを確信しているからかもしれません。愛は愛されるよりも愛することというように、自我に呑まれて愛される側を望むよりも、自我と調和し愛する側で愛を弛まず実践し尽くすとき、其処に必ず誰もが求めた愛の姿が顕現します。

いつも先人の道の足跡を辿ってみれば、そこには全てがなくなっているはずのその人が遺したものがいつまでも私たちの心の中に残っています。会ったこともない、話したこともないその人の存在がなぜか自分の中にあるというのは愛があることの証明なのです。

人は人のカタチがなくなるとき、愛が出てきます。つまり、生きている生身の人間の要素が消えたとき、自分のかけている色眼鏡が物体を捉えることができなくなり、なくなったはずのその人の残り香から真心や愛が永遠に香ってくるのを実感するのです。そしてその香りに引き寄せられ、その人の愛を確かめることでいつまでも人間の中に愛が存在していることを思い出すのです。

そういう愛の香りを持つ人々は、いのちを与えられた以上に尊くいのちを遣い切り、人間を誰よりも愛した実践を生き方で示した人たちばかりです。

今まで隠れたものが出てくるというのが出愛です。

それは私たちが表面の自我で接してその人たちのことを認識しているばかりを見るのではなく、本来のその人の中にある純粋な心に触れることで愛を観出すことができるからです。その純粋な心の中に、出会ったこともない人たちとの出愛があるのです。

この出愛とは、どこか愛を結ばれた感覚を持っているのです。生まれた瞬間から私たちは、偉大な愛に活かされているのを自分の心は知っています。その愛があるから、人は自分も他人をも愛することができるように思うのです。

つながりや絆、そういう結び目に出愛がありそのご縁で人はさらなる愛のカタチをこの世の中に顕していきたいのです。それが生きるということ、死ぬということであろうと思います。

私が子どもを愛しているのは、親心が好きなのかもしれません。その親心の傍にいる子どもたちを観ていたらいつも愛は私たちが生存する限り存在するのだと確信するからです。

また今日も子どもたちのように、今を生き切り、新たな人間に出会っていきたいと思います。

一期一会