本気=徹底

先日あるクルーが断酒をしました。子どもが憧れる大人になるために、自分の憧れる方の自分を優先しようと決心したそうです。決心をした後の、その人の言葉には本気さが滲み出ていました。

人は「本気」になると変わるものです。

その本気というのは何かということはそれぞれの理解ではなんとなく漠然としているものです。昔から本気になったとか、本気になれとか言いますが実際の本気になるとは一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

最近人気の松岡修造さんの語録の言葉に「本気になればすべてが変わる」があります。日めくりカレンダーなども、本気を引き出すための様々な語録が集約されて紹介されとても売れているそうです。皆、人は変化に対して自分を変えたいけれど変われないで煩悶としていますからどうやったら変われるかということを悩むものです。

本来、人は人生を丸ごと変えようとするとき、表面ではなく根本から直さなければ本質的に変わりません。その根本とは”心から決める”ということです。心から決めるというのはなんとなくではなく、必ず「徹底」するということがセットになっています。

人がなんとなく徹底できないのは本気ではないからです。やったりやらなかったりすることは本気ではなく、やると決めたら徹底することが本気であるということです。なぜなら本気というのは、「決心」したものだからです。決めたという言葉は、決断した、決心した、決定した、決意したという「思い(信)が立った」状態のことです。

人が「思い(信)を立てた」時、必ずその次の行動として「徹底」があります。

心とは常に一つで、二心などというものはありません。もしも人が一つのことを徹底できないとしたら、それは心が決まっていないからです。あちらがいいかこちらがいいかと迷うとき、それは心が入っていないとも言えます。

心が入った、言い換えれば思い(信)が立ったとき人は実践を徹底することができるように思います。昔から凡事徹底という言葉がありますが、あの凡事は心の姿であり、それを徹底するという意味でしょう。

掃除道で有名な鍵山秀三郎氏が、「凡事徹底」を座右の銘にしています。凡事徹底平凡を非凡に努めるという言葉もあります。これはつまり「心を磨く」ということを本懐にしているからではないかと私は思います。

本気になったかどうかは、その人の徹底ぶりによります。やったりやらなかったりではなくまさに「決めて断った」ことが、その人の本気なのです。その本気は時間をかけてじっくりとゆっくりとまるで悠久の大樹の樹の根のように土中に張り巡らされていきます。そして心を磨き続ける日々の修行や実践によって高まってくるように思います。そして高まり極まる時、その人は本心のままの本当の自分に出会う事が出来るように思うのです。

仲間が本気になっていく姿を見守れるのは有難く、本当に沢山の勇気をいただけます。こういう一人の変化が波打って周りに影響を与えていくような好循環こそが世の中を変えていくチカラになっていくのでしょう。一緒に理念に向かって取り組む仲間があるというご縁が仕合わせそのものです。

最後に応援と励ましを籠めて詩人坂村真民さんの言葉で締めくくります。

『本気になると
世界が変わってくる。
自分が変わってくる。

変わってこなかったら、
まだ本気になっていない
証拠だ。

本気な恋、
本気な仕事。

ああ、人間一度はこいつを
つかまないことには。』

自分自身の決心と決断を支えるのは自分の初心ですから、その時々の初心を常に省みて心を磨いていきたいと思います。

 

 

自然の世界

私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。

例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。

色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。

私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。

私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。

今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。

自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。

自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。

本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。

 

自然の直観力~観察の智慧~

自然を深め、自然と向き合っていると、自分たちの気づいていないことがまだ沢山あることに気づけるものです。例えば、身近な虫たちのことを観察してみても驚くことが多く、そこから不思議な能力を駆使して自然界を生き残ってきた智慧を学べるものです。

私は幼い頃から虫が大好きでしたから、虫を発見しては観察を愉しんでいました。諺の「一寸の虫にも五分の魂」の意味も、虫たちと直に接していたら自明します。その智慧のすごさと創意工夫と多様性の創造力には感動することばかりです。

虫のことを考えるとき有名な人物に「ファーブル昆虫記」を書いた「ジャン・アンリ・ファーブル」がいます。虫と直に接するということが、如何に人智を超えた智慧を学べるかということに於いて観察の重要性を生き方の実践で示された方でした。

その言葉には「観ることは知ることである」というものであったり、「現実は常に公式からはみ出すものだ」ということであったり、実際に「観察」することが如何に大切であるかということを仰っています。

人はすぐに自分自身の目や手、耳や鼻、五感を使おうとせずに物事を知識を使って分かった気になってしまうものです。しかし真実を知るということは、自分自身を使って観るということです。自分自身で観ることもせずに簡単に分かろうとすること自体が本来の姿を見失わせます。自然本来の学問の在り方にも警鐘を鳴らしているように私は思います。膨大な時間をかけることや、大変で面倒なことや、労苦を惜しまないでからだを動かして観察することこそが何よりも大切であるということを教えてくださいます。

ファーブルはまたこうも言います。

「学者というのは文句を言いたがるものなんだよ。私はこの目で昆虫を観ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られるだろう。」

これは昆虫に限られたものではなく、実践して道を深めてきた人の発言であることはすぐに分かります。文句を言う前に一緒に実践してみれば、同じ結果が観えるということなのでしょう。

虫の世界を知るということは、直接虫に触れて観察することで得られます。そしてそれは虫だけではなく、自然というものはすべて触れて観察し直感するものです。それが本来の自然の道、かんながらの道だからです。

自然を観察し直感する力こそが、虫や草花、動物たちの意識と視野であり自然のちからです。道を知るための自然の学び直しは続いていますが、観察力を磨き、自分の刷り込みを取り払い、自分の意識を変えて子どもたちの未来のためにも、確かなものを伝承していきたいと思います。

 

持ち味を活かす~一心同体感~

人はチームを考える際に、信不信というものがあるように思います。

そもそも信じている人の組み合わせと、そもそも疑っている人の組み合わせはそのでき上がった関係もまた異なっているのです。これは縁起でもそうですが、常に善因を結んでいく人は善果が得られ、悪因を結んでいくものは悪因を得ます。好循環も悪循環も、その根本にあるのは自らの心ということです。

この自らの心が信であるならば、一つのご縁でもその人の善いところを発見しその人のもっともすばらしいところを尊敬してご縁を結べます。しかし心が不信であるのなら、その人を疑い、その人のマイナスな一面を見て警戒したりしては縁を結べません。如何に自分が先に信じているかは、その後の関係に影響するのです。

先ほどのチームでいえば、不信というものを大前提に心に抱いていると能力だけを補う組織を目指すものです。つまり能力を使い合うためにいるわけだから、能力が足りないところだけを補い合うことでチームをつくるのです。しかし、信を大前提に心に抱いているチームになると、助け合うために一緒にいるのだから御互いの持ち味を活かしあう関係で仲間をつくるのです。

仕合わせな組み合わせというものは、相乗効果があるものです。それは能力の足し算ではなく、一緒にいる掛け算のようなものです。仕事だからと、それぞれが能力だけ合わせて済まそうとするのではなく、家族や仲間が大変だからとその時々で持ち味を活かし合おうとするのです。

この「持ち味が活かせる」という環境というのは、御互いに信が結べ大きな見守りの安心の中で助け合うことを優先するから居心地がよくなっていきます。心が安心した中で何かができるというのは、それだけ自分のもっているちからをすべて出し切ることができお役に立つことができます。逆に心が不安の中でいると、それだけ自分を出し切ることもできずまたお役に立ちにくくなってしまいます。

自分の心の置き所をどうするか、チームの一員として自分が何を優先するかが問われるのです。善いチームになるには、まず信じることが必要です。その信じるというのは、自分の持ち味を活かしてもらえるという安心感、そして自分も周りの持ち味を活かそうとする一体感が要ります。

一体感が持てるのなら、もうそれは役に立つ関係が築けているということです。自分の中にある心はどれだけ一緒一体感を持っているか、その内省と実践による学び、つまり素直と謙虚こそが自分を全体のために役に立て、働く仕合せを実感するための最大のコツだと私は思います。

人は誰かと一緒にやっているとき、その心は一つになります。

その一心同体感であることが本来の和の精神であり、祖親から譲り受けた唯一無二の徳宝です。この徳宝をどう引き出していくか、そして持ち味を活かすか、子ども達の未来のためにもまだまだ実践を積み深めていきたいと思います。

本来の自分を知る道

人間は自分のことが分からなくなるのは、自分のことを気にしているからです。いくら気にしていないと思い込んでいても、自他を分けている時点で自分のことが気になってしまっているものです。

それはまるで空気のように当たり前のものであるし、お腹がすくように当たり前に自分たちの意識に入り込んでいます。この自分というものを間違えることで、人は自分のことが分からなくなるのです。

もっとも身近な自分を気にせずに思いやりの実践ができることが真心です。しかし自分を気にするから真心が発信できずまた自分を気にしてしまったと保身に悩むことがあるものです。

相手を気にするというのは、鏡にして自分が気になっているという事でもあります。自分を気にせずに相手を思いやるのは、自分が相手の立場になって心を寄せて共感している状態になっているものです。

これらの境地に入るには、場数を踏んで自分の真心からの行動を積み重ねていくことで自分を気にしなくてもよくなるようにも思います。このことを思う時、私は宮沢賢治の自戒の文章「雨ニモマケズ」を思い出します。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
・・・
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

目指している自分の姿が、自分を超越しているところにあることは行間から感じます。私がなりたいものも、真心の自分です。しかし簡単にはいかず、優しさと強さを発揮できる至誠を盡したかどうかはいつも天に尋ねて内省する日々です。

真心の生き方というのは、自分を気にしなくてもよくなるということなのでしょう。世間では自分を知るために自分探しとか、自己実現とか言葉だけが先行して流行っているようですが人間ですから実際に誰かの役に立つ幸せや働き成長できる仕合せが生きる歓びであり自分という意味を自覚できる道なのでしょう。

もしも誰もが常に真心を盡すことができるのならば自ずから自分のことを自明し、世界では自分の御役目を自覚できてきて世界の中に一人自分が在る倖せに感謝することができるように思います。自分を磨くということは、自分を忘れてしまうということです。無我ともいうし没頭ともいいますが、その境地までいってはじめて真心や見守り合いもまた顕現してくるように私は思います。どう身近な自然の持ち味を活かしていくか、私たちの挑戦はそこに集約されています。

道は無窮、縁ある限り自分磨きは一生涯続いていきます。

雨も風をも丸ごと福にして自然の通り道を愉快痛快に歩んでいきたいと思います。

純粋無垢な真心~素直さ~

この仕事をしながらいつも思うことが素直さの持つ伸びる力です。

伸びている人に共通するのは素直さとはいいますが、その姿を目の当たりにすると本当にこの力の持つ神秘を感じます。誰かが自らの体験で掴んだ智慧を、丸ごと吸収してはそれを活かすことができる力です。

同じように接しても、その人のことを信頼して素直に聴ける関係がある人は言われたことを信じています。頭で疑ったり、知識で推察したりすることなどなく、先に信じているのだから素のままに改善していくことができます。この素のままでいるという関係は信じているということと同じになっているのです。

人はもっとも分からないのが自分のことだとも言えます。

もっとも身近にいるくせに、その自分のことはほとんど自分では分かっていません。むしろ他人に指摘された方が、自分のことはよく分かります。自分で自分のことを勘違いしているから直すことができず、自分のことを理解してくださる信頼できる人に自分のどこを直せばいいかを聴いた方が素のままで直すことができるのです。

なぜ自分のことがもっとも分からないのか、それは自分が錯覚してしまうからです。こうありたいと思ったり、こうあってほしいと考えたり、こうあるべきだと押し付けたりしているうちに自分自身が歪んでいき、素であることよりも無理に自分をつくってしまうのが人間というものです。

しかしそうしてしまうと、自分のことを自分が間違って認識しはじめ、様々なことが無理やり調整していかなければならなくなります。例えば、本来は亀なのに鳥のように空を飛べると勘違いしたり、魚なのに陸を駆け巡るチーターだと勘違いしたり、笑えない話ですが実際にはそんな変なことを繰り返すのが人間です。

それを見た周りは、気持ちはわかるのですがその人ができないことはすぐに察します。しかしそれをその人がなかなか受け止めようとしないから、改善もまた進まないとも言えるのです。

そういう時に、信頼できる人があなたはこうだからと本来の自分の姿を観てくださって、こうしたらいいとその人の徳性に合わせて指導してくれたなら本来の自分に気づくことができるように思います。しかしその徳を聴こうとしていなければどんなに親切に教えてくださっていても聴いてはいませんから気づくこともありません。

人の話を聴く時に「ああ、そうだったのか」と常に聴ける姿勢がある人こそが素直な人です。心の対話を素直な自分と交わすことができ、さらに人とも心の対話を素直にかわすことができる人。そういう人が本質的に素直な人ということなのでしょう。

素直さを持つには、まず心の対話ができること、そして人の話を聴けることができなければ維持することもできません。自分を気にしすぎて周りの評価が気になって、聴く気がない頑固な姿では心の対話からもっとも遠い存在になってしまいます。

常に人との御縁を大切に、他人を尊重しながら自分のことを知っている人に自分を教えて貰い、純粋無垢な真心との対話を続けながら天に向かって自分を直しぐんぐん伸びる生長の仕合せを楽しんでいきたいと思います。

 

気分転換~福楽~

人はストレスというものを抱え込むといいます。このストレスは悪いものだと決めつけている人もいますが、ストレスは良いこともあります。実際のストレスには良し悪しはなく、そのストレスの御蔭で私たちは自己変革に向き合っていくこともできるとも言えます。

過度にストレスをかけてしまうのは、かえって柔軟性を失わせて変化を止めてしまいます。問題はストレスがあるかないかではなく、変化しているかどうかということになるのです。

変化というのは、柔らかな感性が必要です。老子の言う、「柔弱の徳」のように柔らかく嫋やか、しなやかであるものがもっとも変化できるということなのでしょう。それだけ柳に風のように変化を楽しめる境地に入ればストレスもまた感謝になっていくように思います。

そのストレスに対する感覚は、現代ではリジリエンスといって立ち直る力としても注目されています。一流のビジネスマンやリーダーは、ストレスに対するメンタルの持ち様が磨かれているから失敗を恐れず挑戦し、仕事もまたできるようになるというような感じに世間では語られ研修なども増えています。

ストレスの発見者ハンス・セリエ博士は、ストレスとの付き合いのために「気分転換」を大事にしたといいます。

如何に気分転換するか、気持ちを入替えるかで視野が広がり心の余裕をつくることを言いました。よく考えてみると、脳ばかりを働かせ、意識ばかりを一つのことに囚われ、目ばかりで物事を見ていたら次第に息をしなくなってきます。つまり空気を吸わず呼吸をしなくなってきます。

そういう時は、外に出て新鮮な空気を吸うことが大事だということなのでしょう。

正解ばかりを探しては真面目に正しいことをやろうとして常識に囚われ脳みそばかりを使うと、人は呼吸を忘れてしまうかもしれません。呼吸が止まるというのは、脳と心のバランスが取れなくなっているという状態なのでしょう。

ストレスがあるということは、そのストレスをどう転じて福にしていくかということです。様々なストレスは変化の兆しですから、その変化を見逃さずストレスを味わいそれをどう転じて面白くしていくかで呼吸法もまた身に着けていけるように思います。

楽を選ばず、真楽は苦しみの中にありますからストレスの中にこそ本当の楽しみがあると言えます。それは変化の歓びであり、変化の仕合せです。気分転換は、嫌なことを我慢して嫌なことを嫌々やるのではなく、気分転換に初心や本心を優先してあげる心の福筋を如何に鍛錬するかによるのでしょう。

遊び心も笑いも気分転換もまた福筋を鍛錬するための方法論です。

日々を味わい次々にやってくる楽問を選ばず遊び、福を楽しんでいきたいと思います。

見守り合い~人間愛の社會~

昨日、39回目GTの保育環境セミナーが開催しました。

ふり返ってみると、もう13年ほど前からスタートし毎年続けてこれたことに有難い思いとその間ご縁があった先生方が今の現場でご活躍しているのを思うと感慨深い気がします。

見守る保育を通して、子どもたちを見守り、子ども同士で見守り、大人同士で見守り、社會を見守り、未来を見守り、世界を見守る。

この見守ることの実践は、人と人との思いやりを通して何が人間として優先されることで幸せになるかを新たにする「道」のように思います。人間を深く愛するということが具体的にどのようなことを大切に生きることか、生き方そのものが保育そのものになっていますから奥が深いのでしょう。

昨日の藤森平司代表の講演の中で、「見守る保育の特徴は、子ども自身に解決させること。例えば子ども同士のケンカは子ども同士で解決させる。それはゼロ歳からできる。」とありました。これも、子どもを信じ、周りの大人も信じているから可能になりますがそこには深い見守り愛があります。また「その子ができないのなら他の子に頼めるようにする、先生が解決するのではなく将来の為にも子ども同士で解決できるようにする」ともありました。自立もチーム保育というものも、如何に自分が全て解決すればいいわけではなく、周りに頼み合い見守り合う関係をどう築くかということになります。常に「見守り合い」を優先しているのです。

講演を拝聴しながら、保育を通して人々を愛することでどのような社會を目指しているか、そしてどのように社會が平和になるか、同じように見守り合う社會(仁の世界)を築こうとした孔子のことを思い出しました。

孔子は論語でこういいます。

「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉 「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕か。」〈衛霊公篇〉。

思いやりとは何か、それは人を愛すること、そして一生行うことは思いやりを実践することだと相手の身になって、相手の立場になって、思いやることだと。

これは「見守り合い」のことだと私には感じます。

最初は省みることもなく、礼も分からず律することもできませんから自分勝手に自分自身の思いしか出てこないかもしれませんが、しかし日々の見守り合いを通して自他の境目がなくなってきて御互いの思いが現れてきます。その思いを互いに大切に尊重していれば次第に思いやりになってきます。思いやりは、常に相手の心に寄り添って相手の立場を慮り御互いに助け合うことで愛が通い合うように思います。子ども達を信じて見守れば、子どもはみんな自然に見守り合いの中にいますから子どもから学んで子どもから自分を観直していけば子どもが創りたい本当の社會を邪魔しないでいられるようにも思います。

人類と人間の可能性を信じるからこそ、見守り合う社會も信じることができるのでしょう。この十数年で周りが変わってきた成長を省みながら、次第に子どもたちが将来築いていく社會が変わっていくのを感じて有難く思いました。

引き続き、志業に邁進していきたいと思います。

 

 

思いやりの根~自分自身の在り処~

人は自分を大切にできる人が周りの人をも大切にすることができます。

もっとも身近な自分自身との付き合い方のことなどは、あまり考えないのでしょうが実際は自分への接し方が他の人への接し方にもなっています。自分に厳しすぎる人は他人にも厳しくなっていきますし、自分を認めない人は周りの人も認めません。自他というものは鏡のように互いに映り込みますから自分の心がどうなっているかを観てはじめて相手の姿が現れます。

自分自身がどうなっているのかを自覚することは、相手をあるがままに受け容れるためにも必要なことのように思います。

しかし人は相手のことを自分勝手な見方で推測しては間違えているものです。相手を思いやるよりも自我自尊心を無理に守ろうとしては自分からみてどう見えるかや自分がどう見られるかばかりを気にしていて相手の気持ちになって相手の立場で物事を感じるという手間を省いてしまうものです。

思いやりというのは、相手がもしも自分だったらと考えて理解していくことに似ています。だからこそ、自分が思う相手がどうこうではなくもしも相手が自分自身ならと立場を置き換えて考えて慮れば次第に思いやりが通じ合っていくように思います。

その際、自分の心が鏡のように澄んでいるのなら相手の心に通じ合えますがもしも自分の心が感情や先入観で濁っていたら自他が見えなくなるのかもしれません。

自分自身が相手の立場になるのは、相手に共感することができるからです。この共感する力があるというのは、思いやることができるとも言えます。すぐに共感して泣いてしまったり、すぐに共感して感動するのは、その心に「思いやりの根」があるからです。

その根をどう伸ばしていくかは、自分の心を澄まし相手の立場に立って行動し、思いやりの実践を高めていくことのように思います。自分自身との正対の仕方を、その真心の実践と、誠の姿勢を精進していきたいと思います。

世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。