自尊感情

先日、自尊感情について考える機会がありました。自尊感情とは何か、それは私の言葉では自己認識のことです。自己認識とは、自分がどうしたいのかを自分が素直に理解できるということです。自分自身の気持ちが感情を含めて分かっている、もしくは自分自身であることを肯定できているという状態のことです。

論語にこういう一文があります。

『子曰、人之生也直、罔之生也幸而免』(子曰く、人の生くるや直し。これをしいて生くるや、幸いにして免がるるなり)

意訳ですが人は自分の素直でなければ真に正しく生きることができない。これまで生きてこられたのは運が善かっただけだという意味です。他にも論語の中には、正しいことを理解できるには本当の意味で自分自身を素直に理解できなければ難しいという言葉や、克己心の中で自分を知ることの大切さを何度も語り掛けます。

これは自分自身との付き合いにおいてどれだけ自然体であるか、言い換えれば素直であるかが大切だということです。人は実際は外側で発生する失敗は、ほとんど全ては自分自身になれないことで発生します。つい他人の評価や、自分を何かと比べて評価することで自己認識していますが本当の自分の心に素直になれないから問題がいつまでも解決することがなく繰り返されてしまうのです。

人間には感情というものがあります。

よく感情を押し殺して我慢して感情と自分を分けている人がいます。しかしこれは本当の自分ではありません。自分の感情を含めて自分自身ですから、自分の中にある感情を肯定して自分自身と認識しなければいつまでも他の人との心を結び和合していくことができません。

自分自身との和合ができるということがあって人との和合もまたできるからです。その和合をするには、「心から笑う」ことができたり、「自分自身が納得している」ことであったり、「自分の心を開く」ことができていることだとも思います。

自分自身のことを自分自身がどのように認識しているかは、その人の人生観を決め、その他の人たちの価値観を決めてしまいます。丸ごとの自分を受け容れるとき、人は本当の意味で自分に自信を持つように思います。丸ごとの自分の中に感情があることを受け止めるということは自尊感情を大切にするということです。

自分を我慢して自分を粗末にしてきたら結局は同じように人を我慢させ人を粗末にしてしまう人になってしまいます。「自分はどうしたいのか」という気持ちの方と向き合うことで人は本当の自分自身に出会い自分を大切にすることができるように思います。

自分は天から与えられた存在だからこそ、その自分を大切にすることが天に報いるということかもしれません。自分自身を大切にする真心をもって周りの人たちのことを同じように思いやれるということが素直な自分自身になるということかもしれません。

自分が自分でいられなかった社會のツケは、子どもたちの心に深い影を残してしまいます。社會を変えるということは、これらの刷り込みを取り払い自分自身でいい、あなたのままでいいという環境を醸成していくことです。

自他に無理をしないその人になっていけるよう、自分自身が素直を体現し、その人の刷り込みを取り払えるよう祈りの実践を高めて直向きに真心を盡していきたいと思います。

集団の自立~教えずに助ける~

自立の中には個の自立と集団の自立というものがあるように思います。いくら個を強くしてもそれは個の自立ではなく、本来の個が本当の意味で強くなるには集団の自立が必要だと思うのです。

そもそも自立というものは、一人だけで立つことを言うのではなく集団の中で自分を立てることができるということです。言い換えれば、他の人がいる中で自分を役立てることができるということです。人は一人では生きてはいけません、簡単にいっても最低二人いなければ子孫もできません。社會をつくる動物ですから、人間社會の中で様々なことをカバーし合って生きているのが私たちとも言えます。

しかし子ども時代から振り返ってみると、なんでも一人でできる子どもになるように育てられたような気がします。自分のことは自分でするのが自立だと言われ、できないのは自分のせいだと教え込まれてきました。迷惑をかけるなと言われては、迷惑をかけないで生きるようにと教えられます。

実際の社會に出て観たら迷惑をかけないなどということはありません。人間が一人生きていくのには本当に多くの方々の有難い助けがあってはじめて生きていくことができます。それは活かされているという言い方でもいいのですが、私たちは周囲があってはじめて自分を存在させていくことができます。

自分の存在を肯定できるというのは、周りの存在も肯定できるということです。それは有って当たり前の存在であり、まるで家族のようなものです。存在そのものが何かのお役に立っているという実感です。しかし一たび自分が認められていないと感じてしまうなら、無理をしてでも認めてもらおうと頑張ってしまいまた個ばかりを強くしようとして集団の邪魔になってしまったりします。

集団を強くするというのは、周囲に感謝して周囲を活かすということです。そして同時に自分の得意や持ち味を存分に発揮して周りを援けるということです。教えてばかりで助けず、できない人に無理にさせようとして最後はツケ放すでは集団が強くなることはないと思います。個が強いとか弱いとかを言っているのではなく、個別に一斉に個ばかりを強くしようとして、その人が孤立無援になってしまっては人間社會の生きる力を思うとき、それは本末転倒ではないかと思います。

人はどんなに頑張っても一人でやるには限界があります、だからこそ多くの人たちと一緒に協力をして偉大なことを成し遂げます。人類の生き延びてきた能力をわざわざ捨てるようなことを選択することは遺伝子も望んでいないから苦しいのです。もっと楽しい方を選択し、協力和合してお互いの持ち味で周りをカバーする生き方に換えていくことでその人の個の自立は実現するように思います。

刷り込みが多く今までの習慣を変えるのは大変ですが、よくよく内省を深め新しいあり方のモデルを創造していきたいと思います。

友立ち~海の真心~

先日、館山でジャック・マイヨールの親友だった方のお話を拝聴することができました。貝のお話やダイビングのお話、また生き方や体験談など本当に愉しいお話をたくさんいただきました。

人は生き方が”からだ”からにじみ出ているものです。

何を大切にして生きているのかは、一目で雰囲気で語りますが話を聴けばその深いところに沈んでいる愛情すらも実感できます。友人というものは、友人の何を愛していたかでその人の目指す生き方が何を目指しているのかを教えてくれるように思います。

私も尊敬する方々がいますが、その尊敬する方々の生き方の中にこそ自分が憧れた夢があります。その夢を継いでいくのが友立ちなのかもしれません。

お話の中で特に印象に残ったものがあります。

生前、ジャック・マイヨールさんはこのままコンピューターが進んで人類が方向を誤れることをとても心配し警鐘を鳴らしていたそうです。そして人類がもしも間違わないのなら、便利さや快適さの半分を自ら手放す勇気が要ると仰っていたそうです。

親友の方がこの話を選んでくださったのも、私たちの志事が子ども第一義の理念で三つ子の魂百までに関係するからです。私たちの目指している今の生き方の本質を理解してくださったようで、とても嬉しい気持ちになりました。

本来、志事はどこまでの広さで世界とするか、またどこまでの深さで物事を決めるか、そしてどれだけ遠いところを見つめて日々を歩むか、つまりは生き方の実践にその人の志した全体像が出てくるものです。世間の評価ではたとえそれはちっぽけで変なことをしているように見えているとしても、その人が夢や愛をどれだけ深く沈めているかでその本当の偉大さが顕れるのでしょう。

人間に対する深い愛はまるで海そのもののようです。

深海に潜る真のダイバーの方だからこそ、その深く潜っているところにあるものの存在を伝えることができるのではないかと感動しました。不思議なご縁をつないでくださった存在のすべてに改めて感謝します。

今日からまたいつもの志事に精進させていただきますが、大切なメッセージを受け取りそれを磨き続けて醸成し、明日の現場実践に活かしていきたいと思います。

ありがとうございました。

真心の在り処

論語や君子というものを考えるとき、それは一般には政治やリーダーの学問であると言われます。しかし一度、そういう世間の評価を外して本当は何だろうとじっとそのものをそのままに見つめていると別の視点が顕れます。そもそも論語とは、そして君子とは一体何かということです。

それを少し深めてみたいと思います。

まず孟子の中に「君子三楽」という話が出てきます。そこにはこうあります。

孟子曰、「君子有三楽、而王天下、不与存焉。父母俱存、兄弟無故、一楽也。仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也。得天下英才、而教育之、三楽也。君子有三楽、而王天下、不與存焉。」

意訳ですが、「君子には三つの楽しみがある。それは別に天下の王になることではない。まず一つ目の楽しみは父母が健在で兄弟も健やかであること。そして二つ目の楽しみは、天に恥じることのない真心で生きることができること。最後の三つ目の楽しみは天下に役立つ人たちを見出しその持ち味を活かせるようにすることだ。これは別に天下の王になることと関係がない。」と言います。

父母兄弟が和合し共に慈しみ、正直に素直な日々を謙虚に送れ、周囲を見守り活かせる安心基地の存在になること。孟子の描く君子像とはこのようなものです。

そして孔子はどう考えるのか、私には孔子の「志」について語る同志との問答の中に君子本来の姿が顕れているように思います。そこにはこうあります。

「顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。」

意訳になりますが、「孔子は顔淵と子路と一緒に歩んでいる中であるとき彼らに質問をしました。”あなたたちの志を聴かせてくれないか”と。子路はそれに対してこう言いました。”馬でも馬車でも衣装でもなんでも朋たちと全て分かち合い、たとえそれをなくしたり壊されたりしても怒ることがない人になりたいです”これを私は志しますと。そして顔淵は言います。”他人には善いことをしそれを思うこともなく、他人の苦労をそっと取り払いまた思うこともない自分になりたいです”これが私の志ですと。そして孔子は最後に自分の志を言います。”年寄たちからは安心され、友人たちからは信頼され、若者からは慕われるような人になりたいものだ”と」

彼らが目指した君子とは一体どういったものか、それを感じるのです。

人は何かを成し遂げないから君子になれないのではなく、その日々の自己の心がけ次第で君子になれるようにも思います。人として当たり前のことができない苦しみを抱え、人は人生航路をそれぞれに歩んでいきますがその修行は日々のあちこちで訪れます。

その道の同行行脚の中で仲間と共に目指す仁人の実践、真心を盡すご縁をいただけることは何よりも有難い志のように思います。志の意味も、何か夢かなにかと勘違いすることがありますが彼らにとっての志とは思いやりのある人になりたいと願う自己の実践です。だからこそ道とはなんと深淵で奥深い美しい世界であるかと私には感じます。

学べば学ぶほどに本当に教えてくださっているのは、知識でもなく智慧でもなく、能力でもなく技術でもない、その真心の在り処だったのかもしれません。先生が居るということ、同志や仲間との御縁があるということはそれだけで何より有難いものです。

ご縁を大切に日々を学び直して急がずに休まずに心を廣く歩んでいきたいと思います。

教えるよりも助けること

競争原理の中の教育の刷り込みには、利己的なものがあるように思います。この利己的な教え方によって刷り込まれると、すぐに自他に厳しく当たってしまい甘やかすことを過度に嫌うようになるものです。

例えば、先生は子どもに何でも自分一人でできることを目的に教え込みます。自分一人でできなければすぐに叱られ、こんなこともできないのかと何度も何度も教え込まれます。先日もある子どもが、周りの子どもができないから手伝っていたら先生から自分のことをやりなさいと叱られたと言います。そしてできない子には自分でやりなさいと叱ったそうです。

自分でできないから助けていたらそれではこの子がダメになると言います。結局、大人になってみて組織を見て観ると同じような現場ばかりに出くわします。できないから助けている人と、できないのはその人のせいだと自分でやれとツケ放す人がいます。

もしもチームで仕事をする場合はツケ放しても効果はあまりありません。それよりも助けてあげた方がお互いの結束が強くなり、信じる力も高まり信頼関係が深まっていきます。できない人をみては教えてあとは厳しくツケ放している人は、結局は一人で仕事を持って誰にも渡せず孤独になっていたりしますがそれはそれまで受けてきた教育の刷り込みではないかと感じるのです。

本来、人は教えるよりも助けてあげた方ができるようになります。最初はみんな誰もができないからこそ助けてもらい、安心した中でいろんなことを試すようになります。最初から頭ごなしにこんなこともできないのかとツケ放し、何回も言っただろうと言葉で教え、さらにはもう自分でするからしなくていいと言ってしまえば元も子もありません。そうなれば全部一人でやらないといけないですがそんなことは所詮無理です。それは「教え込むことに問題がある」と自分の刷り込みに気付くしかないように思うのです。

人は競争原理の中で、なんでも一人でできるようになるように教え込まれるからそのように自他に厳しすぎて孤独になって完璧を目指すようになるのかもしれません。人はみんな不完全ですから、できないところはお互いに助け合いフォローする方が和合し協力し楽しく倖せに人間らしく生きていけるように思います。

自分が受けてきた教育をそれが世間の常識だと他人に押し付ける前に、自分はどうありたいか、本当はどうありたいかと自反慎独し周囲のために思いやりや真心でありたいと願えばその刷り込みも実践を積み重ねることで取り払われるようにも思います。

人はやられてきたことをその時は辛く嫌だと思っていても、それを我慢して仕方ないと肯定してしまえば知らず知らずに自分もまた他人にそのまま同じことをやってしまいますから、自分の中で一つ一つ内省をして振り返り改善に転じていくしかありません。

教える人は助けてもらっていないという人が多いですが、真実は今まで自分の得てきたもののすべては”他人様から助けていただいた御蔭様で得た力”ですから、それをどのように御恩返しをして活かすかはその人の決めた生き方次第です。

きっと教えようから助けように変われば、もっと可能性は広がり自他を活かせるように思います。

その人の性格や人格だと裁くよりも、刷り込みがありますよとアドバイスし、自分がモデルになる実践をみせていけるようにさらに感謝を土台にして精進していきたいと思います。

急がず休まずじっくりと~発酵の智慧~

人が病を得て治癒をしていくとき、その治し方に生き方も出てくるように思います。

例えば、からだが不調になるとき早く治そうとする人とじっくりと治そうとする人がいます。それはまるで急いでは休もうとする人と、急がずに休まない人との違いのようです。

何でも速く、なんでも急いでとなっているから物事の判断はすべて自分が優先されていきます。もしも逆にじっくりとゆったりととなれば物事の判断に周りを思いやる余裕が生まれるのです。

以前、ダライラマ法王の何かの法話の中で現代人の不思議について話がありました。具体的には、必死で儲けることだけに夢中になり会社を大きくし売り上げもあがり利益もだし自分も大きな貯金を持つようになりますが、今度はそのことで病んだ自分の身体や心を治すためにまた大きな貯金を使っていくという生活が不思議だという話です。

お金を稼ぐために必死に働き大金もちになって、その大金もちにしかできない大金を使った治療をする。経済はそこで発展すると思いますが、その人はどうなっているのだろうかと思うのです。

そうやってなんでも急いで目先の目標ばかりに囚われて突っ走っていたら、無理ばかりしてからだを崩します。しかし焦っているのだからすぐにサプリや薬に頼ります。もしくは手術などの即効性のあるもので解決したくなるのでしょう。しかしその実、速効を求めるほどに物事は停滞して腐敗するように今では感じます。本来の停滞とは焦りや慢心のことなのでしょう。

だからただ寝ているだけや、何もすることがないから何もしないということをやろうとすると人はきっと不安になるのかもしれません。人は本来、心を定めて決心すれば日々に怠らず実践することは沢山あります。焦らず謙虚に無心になって実践を一つ一つ積み重ねていくことは、日々に心を天に通じ合わせることもでき安心の中でいのちが活かされる実感を味わえるものです。

そのために自分の欲望や願望、もしくは周囲の抑圧や押し付けなどに執らわれない自分を創っていくしかないようにも思います。そこにもまた自然の智慧や逞しさ、自分を信じるしなやかさが求められるように思います。

そのためにはまず自分の決めた生き方に専念すると決心することかもしれません。

当たり前と思ってしまう自分の生活習慣は自分の決めた生き方の実践そのものです。

その実践を倦まずに弛まずに積み重ねていけば、自ずから急がず慌てずゆっくりとじっくりと時間をかけようと思うものです。同じ時間をかけるなら、やっぱりじっくりと時間をかけた方が楽しいときも増えていきますし充実して思いやりや感謝に導かれる倖せにも出会えます。

急がず休まずにじっくりとは、発酵から学んだ智慧であり真髄です。

実践を積み重ねていきたいと思います。

 

苦楽の学び

日々に新しいことを挑戦していると難題ばかりに向き合います。そこから逃げないと決めたなら新たな学びが自分のものになっていきます。自分の中にモノサシが入っていく瞬間は学びの歓びです。

世間では学校で教えられた学びを学びにしていると、本当の学びというものが分からなくなるものです。外側から目標とモノサシを与えられ、ここまでやったらできると教え込まれる中ではどのように要領よくやろうかや、どのように楽をしようかなど全うに真摯に努力して何かをやろうとは考えにくくなるように思います。

実社會の中で、一つ一つの物事を獲得して自分の中で消化吸収していくには心身一如に体得体感していく必要があります。簡単に頭で教え込まれた今までの刷り込みの学び方をいくら強引に無理してもそれでは学べず、どれだけ全身全霊で実践し本質を深耕していくかという自然の学び方を習得しなければなりません。

臨床心理の河合隼雄さんに下記の言葉があり、共感できます。

「学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもありますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。」

この『ニセモノ』だと思うのですと言うフレーズが好きです。偽物とは何か、それは仮物であるということ。本当の自分自身の苦労と努力、そして成長の歓びや感謝を感じられない学びなど本来の学びではないということ。学校の教科書をなぞるような勉強ではなく、実体験をさらに積み重ねて本物へとたどり着きたいという情熱と熱意、諦めない闘志、そしてその機会にめぐり会えたことへの感動や感謝といったものなしに学んだはずはないのです。

学んで楽しいのはなぜか、それは新しい自分に出会い新しい自分を創る喜びです。そして苦しさは何か、それは旧い自分を毀し、殻が毀れていく苦労です。この両輪は、常に自己を刷新することこそ学びの本質であることを伝えています。

また河合隼雄さんはこうもいいます。

「思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです。」

外側の評価でばかり生きていたらほんとうの面白いことに出会えません。思い通りにならないというのは未知との出会いです。そして思っていた以上のことに出会う奇跡との出会いです。

毎日をどれだけ新鮮に味わっているかは、その人の挑戦の数に比例します。

日々に自分が毀れていく仕合せに感謝しつつ、苦楽を味わって歩んでいきたいと思います。

 

青春~心の若さ~

サミュエル・ウルマンの「青春」をヒントに松下幸之助さんのが自ら作成した座右の銘があります。

「“青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動を続けるかぎり 青春は永遠にその人のものである”」

という言葉です。一生青春を掲げその生涯を亡くなるときまで日々新たと青春し続け心を高めた松下幸之助さんの生き様が言葉に凝縮されているように思います。

そもそも青春とは何か、ウィキペディアにはこうあります。

「青春とは、元は春を表す言葉である。 古代中国の五行思想では、「春」には「青(緑)」が当てられる。 同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄(黒)」に当て、それぞれ「青春(せいしゅん)」、「朱夏(しゅか)」、「白秋(はくしゅう)」、「玄冬(げんとう)」という。 これらは季節を表す言葉であり、これが転じて、日本では特に「青春」について人生における若く未熟で、しかしながら元気で力に溢れた時代を指すようになった。」

人生の春、もっとも若く好奇心あふれてこれから伸びていこうとする素直な心。そういうものを持ち続けようとする中に自然の道があるように思うのです。天地自然には鬱蒼と生い茂る新緑のエネルギー、つまりは逞しさを見守る何かがあるように思えてなりません。

いのちがその希望に燃えるとき、何かの偉大な御蔭様や見守りが働くように思えます。自然界では常に厳しい環境の中でいのちが自然の摂理に晒されます。その時、誰かが救けてくれるのを待つのでもなく、何かに依存して甘えるのではなく、自ずからの心の在り方を変えて善いことに転じようとするのです。

この禍を転じる力こそが若さであり、福にしていくことこそ青春だと私は思うのです。

もしも私が青春をヒントに座右をつくるとしたらこうなります。

「青春とは禍転じて福となすことである、日々のご縁を丸ごと善いことにしていくことである、万物不変の本質、永遠の若さとは好奇心を忘れないことである。旅と思い出のための冒険を味わうのが人生の醍醐味である。」

と。

実践するのは大変なことですが、実践させていただける仕合せもまたあります。出会いを大切に学び直しを続けていきたいと思います。

自律とは何か

先日、ある学校の入学式で自律ということについて校長から挨拶がありました。その際には、自立と自律の話があり、自律という字をよく見て如何に自分を律することが大切かということについて話がありました。

この自律については色々という人がありますが、私には別に思うことがあります。それを少し深めてみようと思います。

この自律を思うとき、まず心に浮かぶのが己に克つという言葉です。そして次にもっともそれを言い表すのは論語にある「己に克ちて礼に復るを仁と為す」ということです。

これは現代に意訳すれば、小我に打ち克ち大我を生きて自分を自分で甘やかさずに律することができるなら思いやりになりますよということです。これを逆さに読めば、思いやりがなくなれば律することがなくなり、ついには怠惰傲慢になっていきますよという訓戒でもあります。

人は思いやりや真心があるからこそ、自分を周りのために我慢し利他をし役立てようと努力します。その際に自分の中から出てくる様々な言い訳を吹き飛ばし、自分が何をすることがもっとも周りの役に立つのかと実践を励み周囲の勇気になっていきます。

人間は安定して満たされ過ぎると、それが当たり前になり感謝を忘れていく生き物です。如何に自分との正対に人知れずに向き合うかはその人次第ですから、人生は誰にも等しく精進していく機会が与えられているということになります。

西郷隆盛に「自己愛」のことが書かれている一文があります。以前、ブログでも紹介しましたが自分を愛しすぎるなということが書かれている後半の文章があります。そこにはこうあります。

「能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己を愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るるなり。功立ち名顯るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、其成したる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陷いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、賭ず聞かざる所に戒愼するもの也。」

要約すると、最初は慎んで己を律していたものが次第に自分の思い通りになっていくと自己を愛しすぎるようになり怠惰が蔓延り結局は駄目になってしまう。それは自らが招くものだから常に己に克ってひとりの時によく慎みて戒め続けなさいとあります。

自律というものは、つまりこういうことです。

しかし自律の本意はどこにあるか、それは初心を忘れてしまうことかもしれません。日常に満足し、自己を鍛錬することを怠ると次第に何のためにやるのかを思い出すことがなくなってきます。何のために何をするのかが人生ですから、それを忘れるということは日常の安逸に精神が弛んでくるということなのでしょう。

自分が自分でぬるま湯から出る勇気があるかどうかが其処を抜け出す鍵かもしれません。「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」と千日回峰行の塩沼阿闍梨が言いましたがその通りだと私も思います。

ぬるい自堕落な日々に長く入っていたくなる自分にどう「喝」を自ら与えるか、自然界の厳しい寒暖差の中で生きる野生のいのちのように如何にワイルドに生き抜くか、そこに生きている実感という日常があります。自分で自分を律するというのは自らが決心してはじめの一歩を踏み出し、新たな境地に自分自身の主体性で挑戦するかということです。

子ども達のためにも、自ら主人公になり思いやりに生きる大人のままでいたいと思います。他人から与えられる他律ではなく、まさに自律こそが人生の面白さであり醍醐味です。

実践の意味を深め、実践を高めていきたいと思います。

 

海との再会~愛を体現~

先日、イルカが沢山の浜辺に打ち上げられ亡くなったニュースが報道されました。他にもクジラが浜辺に打ち上げられたニュースもよく聞きます。イルカやクジラと話せるわけではない人間は、磁場が乱れたとか地震が来るとか、シャチから逃げたからだとか様々な推測ばかりをします。

こんな時、私は故ジャックマイヨールを思い出します。

もしジャックマイヨールならこれをどう読み取るだろうかと。昨年の貝との出会いから私の中のジャックマイヨールはとても大きな存在になりました。海と人とのつながりにおいて忘れていたものを思い出したからです。海という感覚を自らの内なる世界観から捉える感性には心に響くものがあります。

ジャックマイヨールは、こういう話をしていました。

「たしかに人間は何万年にわたって、進化を遂げてきました。しかし、決して変わってはいないものがあります。水の記憶です。生命の源です。私達の体や遺伝子の中には、母の子宮の中や海の中で生きていた時代の記憶がはっきりと残っているのです。」

もともと私たちが本来「水棲生物」であった証は、赤ちゃんであったことを思えば自明します。赤ちゃんのとき、私たちは羊水の中でずっと泳いでいるからです。本来は水の中で暮らしてきたことを証明しています。

「私のささやかな経験から言えば、生と死は同じことの、裏と表のようなものです。 例えば赤ちゃんは生まれるとき、同時に死を通過しているのです。子宮の中にいる赤ちゃんは、ちょうどグランブルーの世界にいるときと同じように、完全な平和の世界に生きています。そして、ひとたび誕生の時が来ると、へその緒を切られ、一度死を通過して新しい次元に生まれ出るのです。これは人生も同じです。呼吸というへその緒が切れたとき、死を迎え、新しい次元に生まれ出るのです。魂の世界で、大宇宙の母の子宮に戻るのです。」

この次元で物事を捉えることができるのは自然を体感していたからなのでしょう。深い内省が深淵に近づくとき、人はこのような宇宙観に気づくのかもしれません。そしてイルカやクジラとの対話についてはこう言います。

「鯨達との交感に言葉はいらない。コミュニケーションではなく、ハーモニーするのだ。」

このハーモニーとは、いのちの響き合いのことを言います。お互いに自然に心を寄せるものはまるで一心同体になるということでしょう。佐賀県唐津でのイルカとの出会い、家族との思い出が響き合い初心になってその神秘なまでの海との記憶を美しい心のままに追い求めていたのかもしれません。

イルカやクジラの痛ましい自死のニュースは、これ以上、母なる海を汚さないでほしいという決死の真心の訴えかもしれません。絶対平和を選んだ彼らができることは相手を責めることもなく、自分を責めることもなく、”愛を体現”することであったのでしょう。

彼らにとっては今も未来の私たちも”みんな丸ごと自分の子ども達”です。子ども達に訴えかけてくるその真心や愛を心で感じ取り、本来の自然に学ぶ心を取り戻してほしいと私も一緒に深く祈ります。これはきっと”自然からこれ以上、心を離さないで”という海とイルカからの遺言です。

最後にジャックマイヨールの志の言霊からまだまだ子ども心を諦めないぞという勇気が湧いてきます。

『自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる』

3つ子の魂は100までを信じ、御蔭様の使命を信じ人類初心の実践あるのみです。
再会に心から感謝します、ありがとうございます。