故郷~初心の拠所~

人には故郷があるように、人の心にも故郷があるように思います。

先日、ある学校方々と面談をする中で「子どもたちがまたいつか帰ってこれるような学校にしたい」という言葉を何度も聴きました。そこには、我が子のように思い子どもを見つめる暖かい眼差しも同時に実感しました。

子どもにとっては未来への一つの通過点であったにせよ、そこを起点にして人生が強くなったり人生が豊かになること、生きていく上での大切な節目になることを祈り学校は存在するのかもしれません。

そもそも故郷というのはその人の風土や心の初心であり原点です。

その原点に帰ろうと思えるのは、そこで暮らした善き思い出を頼りに世の中へ羽ばたいていこうとする心境でもあろうと思います。田舎から都会に出て、社會の中で自分らしく自分の役割を全うする。その中においては様々な困難や試練、あるいは倖せや奇跡にめぐり会うのでしょう。

そんな時、ふと今の自分があるのは何があったからだろうと立ち止まるとき原風景が顕れるのです。それを心の原風景といってもいいかもしれません。愉しかった思い出、幸せだった仲間や先生たちとの邂逅、その人を支えるのはその人が信じ合っている家族や仲間と暮らした物語です。

心の強さというのは肉体とは異なり、単に厳しくすれば強くなるものではありません。人からの思いやりや真心、朋との信頼、志を歩む方々の姿、そういうものを一緒に歩んだ経験が心を強くしていきます。

その機会をどれだけ沢山の用意できるか、此処に居ていい、此処が居場所であるという体験をその子どもがどれだけ実感できるかに由るように思うのです。

人生は旅路です。

旅は元々居た場所に戻って来るからこそ楽しいものです。その元々の場所こそが故郷ということでしょう。その人が人間として如何なる初心を持つか、それは周りの大人たちの生き方に習って学ぶように私は思います。

卒業は一つの旅路に出るその人を初心の拠所として見送るということです。

素晴らしい学び合いを通して心の原風景を育てていく志事に改めて感動しました。

最後に子どもたちに希望を与える志事に魯迅の故郷の一節で締めくくります。

「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

その希望、その初心が忘れられないように真心でお手伝いさせていただきたいと思います。

優しさと強さ~心の在り様~

人は「優しい」というのは、人の気持ちが自分のことのように分かるということでもあります。相手のことを思いやるから優しくなれますし、優しいのはその人の倖せを深く願う真心から来ています。

しかし優しいというのは強さが要ります。ある格言に「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる価値がない」というものもあります。

一見矛盾しているようですが、優しさと強さがあってこそ真心を発揮することができるからです。優しいだけでも強いだけでもそれは本質的な優しさではないように思います。

思い返してみると、学校の思い出にいじめがあります。大なり小なりいじめはありますが、いじめられる子、いじめる子に分かれてはお互いを傷つけあっていきます。しかし、その中でも優しい子どもは自分がいじめる側につくくらいならと学校に行かなくなっていきます。

不登校になる子どもには優しい子どもが多いというのは、優しさゆえに自分を責めてしまうからです。子どもは最初からみんな優しい心を持っているように思います。いのちを慈しむ”かわいそう”と感じる慈心の事です。

学校では、強くなれ、やさしさだけでは社会では通用しないぞと色々な圧力を各方面からかけられましたが、実社會に出てみたら確かにそんな社会もありました。しかし現実に社會を創る側にまわってみると、実は真逆で真心でなければ本質的には通用しないことを自覚するのです。

表面上周りに合わせて社会に慣れるのと、社會を本気で変えていこうと生きるのではその生き方がまったく異なっていきます。子どもたちのためにと社會を善い方へと変えていこうと思ったら優しさというものは必要不可欠です。そして表面上ではなく本質的な優しさを発揮していくために真の強さを持たなければ子どもを守ることはできません。

つまりは、優しく強いというのは子どもの周りの大人たちに必要なモデルであり、優しいままでいいから強くあるようにと見守り育てていくことが大事なのではないかと思うのです。

弱いから強くしよう、優しいから厳しくしようとするのは真心からではないような気がします。弱く優しいからこそ守ってあげよう、そしてそういう人たちを守る社會を育てていこうとするのが思いやりだと私には思います。

社會はどこでできてくるか、それは子どもたちの創りあげたい社會が今の社會です。私たち今の大人が作った社會を無理やりに子どもに押し付けるのではなく、子どもが望んでいる社會をよく見つめ、どうやったらその社會が実現するかを考え直して見守り育てていくのが私たち大人の使命だと感じます。

人を傷つけるくらいなら自分が傷つけばいいなどという自責の念で潰れそうな子どもたちをひとり孤独にしていては世の中から希望が失われていきます。希望を与えるには、強く優しい真心の実践が必要です。

自分が自分に打ち克つからこそ人を深く思いやれ、そして自分が希望を捨てずに最期まで諦めなかったからこそ目の前の人の心を強くしていくことができるように思います。常に優しさと強さは心の持ち方、心の在り様からはじまりますから、同志の学校教育に一緒に向き合っていく以上さらに奥深い心の本質に入っていきたいと思います。

 

執らわれない心

人生は不思議で思い通りではない時の方が思った以上のことが起きているものです。

有名な故事に「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。これは中国の淮南子という古い書物に書かれている物語ですが私はこの言葉が大好きで、実際には世間には悪いように見えている禍の出来事であってもその実は、天の計らいによって福に転じていくこともあるという仕合せの原点回帰の話のように捉えています。

通常人は一般的に周りや世間からみると同情されるような出来事が発生すると落ち込んでしまうものです。自分の中で落ち込んでしまえば、それは不幸だとか禍だとか勝手に信じ込んでしまいます。しかしこの中国の塞翁は、「本当は善いことかもしれないよ」とその時々に周りに言っては、時間が経つとすべてそれが福に転じて戻って来るので周りは驚くのです。

これは悪いことの側面に善いことがあり、幸せの側面には不幸がある・・・しかしその両方が何かの御蔭様に由っていると思うとき、その仕合せは禍福が一円満になっていることに気づいているのです。

物事とは片方だけで見るのではなく、両方で見ることは大切です。そして同時にそれは一部分だけをみるのではなく全体で観ることが大事です。しかしつい人間は自分の感情に呑まれてしまうと、視野が狭まり目の前のことだけで見える世界がいっぱいになってしまいます。

そんな時、信じることができているならそれは実は天から与えてもらった贈り物かもしれませんし、願っていることが次第に叶っている最中なのかもしれないと思えるのです。

これは謙虚に虚心坦懐に日々に信を積み重ねていく精進があって仕合せのめぐりあわせに気づく感性を高めていくから実感できるようになるのかもしれません。不思議なことですが人は一般的に誰かと同じような出来事が起きていたにせよ、その仕合せに気付く感性次第では物事は全く異なった真実をみせてくれます。

信じるということの奥深さはこの人間万事塞翁が馬の故事の中に秘められています。

畢竟、どうにもならない運命に対して、どのようにそれを味わっていくかはその人の人生次第です。一度しかない人生をどのように味わったかを、後で振り返るとしたならばあの時、信じて本当に善かったと思えるような歩み方をしたいものです。

ご縁を大切に、御蔭様を感じながら、執らわれない心を磨いていきたいと思います。

 

 

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。

信頼の絆を結ぶ~ミマモリング~

人が人と仕事をするとき、何よりも大切にするのは信頼関係です。信頼し合っているからこそ、その絆の信を結んでお互いに目的をやり遂げることができるのです。

先日、ある人が私たちの新商品を導入する際に周りに質問された時に「カグヤさんに騙されたと思ってやっています」と説明しているという話を聴いて、如何に自分たちがその方に信頼されているのかを改めて実感しました。これは言い換えれば、頭ではわからないし、やってみたことがない、それに自分たちには見えていないかもしれない、しかしこの人たちは信頼できるからやってみようと思うという意味です。

騙されたと思っての言葉の背景には、裏切られてもいいほどに信じている人たちだからという意味でもあります。自分たちの実践を観てくれて、本質や真実、志を確かめてくれて、一緒に取り組む決心に至る。

これは本当に有難いことだと思います。

人は何をしているかどうかよりも、結果が出るかどうかよりも、何を最も優先しているかということが大切なことのように思います。

論語に「信なくば立たず」があります。

これはもともと論語の中で軍備と食料と信頼と捨てるとすればどれを捨てますかと弟子の子貢が孔子に尋ねるところで使われている言葉です。それに対して孔子は「食料がなければ人は死ぬが、昔から誰にも死はある。人民は信頼がなければ安定しない(民無信不立)」というような返答をします。

つまりはここで何よりも人間同士に必要なのは信頼なのだということを語ります。

信頼を重んじ、信頼を裏切らないというのは常に自分に嘘をつかず誤魔化さず、正直に真心の実践を積み重ねていくことです。それは結果云々次第ではなく、そのプロセスにどれだけその人物が誠実であったか、どれだけ真摯に一緒に考えたか、自分を忘れるほどに自他一体にその人のために自分を使い切り思いやりを行動に移したかということになります。

単に頭で考えただけでは信頼は持てず、人は心で行動して言葉が一致したときのみ信頼は持てます。そう考えれば、ミマモリングというものも同じくどれだけ行動したかを省みることによってはじめて実感できるものかもしれません。

お客様からの言葉に自分たちが今、取り組んでいることの価値を再確認できます。その激励に応えるためにも、信を強く持ち、信のままに絆を結ぶ実践を高めていきたいと思います。

 

終わらない夢

私たちはかつての人たちに様々な生き方を遺していただいていることに気づきます。

昨日書いたサミエル・ウルマンの「青春」の詩も、その詩に夢を遺した人物と、その人物の目指す理想を受け継ぐものたちによって夢が続いています。書き記した人物はもう死んでしまって生存していませんが、その人の夢は他の人に語り継がれることによってこの世に存在しています。

忘れ去られていくのが世の常ですが、それを忘れない人たちによってその夢は時代を超えて遺っていくのです。しかもそれはその人が出会ったこともない人たちですし、その人が生きていない時代の人たちなのです。

自分の遺志というものは、誰が受け取るのか、そして誰が後を綴り夢を観続けるのか、それは誰にも分りません。しかし確かに分かっていることは、夢は終わらないということです。

夢が終わらないからこそ、どんな夢を自分が観ているのか、どんな夢を観たのか、そういう物語が何らかのかたちによって出会う事を信じて諦めないで生き方を遺していくしかないのではないかと私は思います。

沢山の人たちの夢は、全て一つのところに集約されているように思います。

それは人類の夢とも呼んでもいいのかもしれません。人類の夢は時代と関係なく、世界と関係なく、生物無生物の分別を超えて今に生き続けています。

夢を明らかにすることは、その時代の夢の継承の発信でもあります。夢は代々集積し偉大に発達していきますからその初心を忘れないように夢をカタチにしていきたいと思います。

青春の真価

先日紹介したサミエル・ウルマンの詩「青春」ですが、もう一度深めているとオリジナル版というものがあることに気づきます。本来、サミエル・ウルマンが詠んだ詩がそれぞれの解釈で多くの人たちに語り継がれるうちに改編され今に至るようです。

サミエル・ウルマンのオリジナルには、「アンテナ」という言い方で表現されている一文があります。そこまでご紹介しなければ「青春」の本質がズレてしまうと思い、敢えて追加して紹介します。

「・・・さあ限をとじて想いうかべてみよう
あなたの心の中にある無線基地
青空高くそびえ立つ たくさん光輝くアンテナ

アンテナは受信するだろう 偉大な人々からのメッセージ
崇高な大自然からのメッセージ
世界がどんなに美しく驚きに満ちているか
生きることがどんなに素晴らしいか

勇気と希望 微笑みを忘れず いのちのメッセージを
受信しつづけるかぎり あなたはいつまでも青春

だが もしあなたの心のアンテナが倒れ
雪のように冷たい皮肉と氷のように頑固な失望におおわれるならば
たとえ二十歳であったとしても あなたは立派な老人

あなたの心のアンテナが 今日も青空高くそびえ立ち
いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり
たとえ八十歳であったとしても あなたはつねに青春

真の青春とは若き肉体のなかにあるのではなく
若き精神のなかにこそある」

心の在り様次第という言葉にはじまる子どものような好奇心を持ち続ける精神、それを無線基地という言い方をしそれを受信するアンテナ、つまりは感性を磨き続けよという意味に私は解釈しています。

青春とは、真実を知ろうとすることを諦めるときに消え失せるのかもしれません。

人生はどこまでいっても分からないことばかりです。わからないからこそ希望が頼りです。その希望を諦めさせられるような世間の常識に負けない真の強さと逞しさ、それが子ども心の中にある好奇心のように思います。

どうせ無理だと誰かに言われても自分が言わなければそこに青春があります。
やっても意味がないと誰かに言われても自分が信じればそこに青春があります。
言うことを聞けと誰かに脅されても自分が本質に生きればそこに青春があります。

青春とは心そのものの姿です。

どんなに周りの環境が自分に厳しく降りかかろうとも、心の持ち方次第で一生青春を謳歌できるのが真の学問の醍醐味ではないかと思います。何が教育の本義なのか、教育とはその人が一生青春できる力を育むいのちの磨き方を与えることではないかと思います。

もしも先を生きる大人たちが子ども達に心の持ち方を与えることができるなら、子子孫孫まで人間は誰しも自分らしい人生を謳歌できるようになるのかもしれません。

青春の真の価値を改めて学び直していきたいと思います。

 

効率の本質

経済を優先し効率を良くするということは、便利さを追求し効果的に行うということです。一見、便利さは効率を上げて経済を発展させているように見えますが実際は短時間で目先のことを解決するために膨大なエネルギーを使っているだけで効率がいいわけではありません。

本来の効率の良さとは、無駄が少ないという意味です。しかし実際は、膨大な無駄なエネルギーを消費しておいて効率がいいという変なことを言う人が増えているように思います。効率を観るときコストとエネルギーがどれくらいかかったかを考えます。

例えば、鶏の卵を販売するには大量の鶏を飼い、餌を大量に輸入し、病気予防のための薬を用意し、消毒や清掃などに沢山の電気やガソリンなどを使います。そのためにはコストがかかりますからそのコストを回収するために、さらに販売や宣伝、より効率を高めるためというように最新の機械や薬、その他の餌や鶏舎の増築などを行います。結果的にコストとエネルギーは増加し続け、無駄がどんどん大きくなっていきます。伝染病が流行れば致命的ですし、もしも停電やガソリンが高騰すると大変なことです。

しかし矛盾があるのですが、人はそれでも今の方が効率がいいと思ってしまいます。卵を増産するためには便利だからです。この目先の便利さというのは効率が本当に良いのかということです。

うちでは庭先で自然養鶏といって、烏骨鶏を平飼いしています。雑草を食べ、玄米や穀物を食べ、虫たちを食べます。発酵した土で泥浴びをし、雨水タンクの水を飲みます。そんなにたくさんの卵を産みませんが一家で食べる分は十分です。子どもを数年に一度羽化して、ちゃんと次世代も継承されます。たまに畑に連れていけば、楽しそうに遊び畑の虫たちをついばみます。薬もなにも投与しなくても免疫が高く病気にもならず、電機やガソリンがとまっても死んでしまうこともありません。毎朝、今日を知らせてくれて一緒に暮らしを楽しんでいます。

確かに目先をみるとたくさん卵を産まないから不便であり非効率と思うのかもしれません。しかし本来のエネルギーやコストの概念から見れば、効率が良いのはどちらの方かというのは一目瞭然です。

つまり経済優先の効率の良さとうのは、お金を作り出すのに効率が良いという意味であって、自然循環の中にある本来の効率という本質とは別物だということです。

本来の効率という概念をもっと見直した方がいいのではないかと私は感じます。

福祉の業界は介護などもそうですがもうコストもエネルギーも飽和状態です。この先はさらに介護や福祉にお金がかかり、次世代の子どもたちの負担が増え続けていきます。効率をあげるために施設を増やしたつもりが、逆の効果を発生させているように思います。

目先の国家経済を優先し続けていると、自然から離れるばかりです。もうすぐ世界は臨界点を超えてしまいその矛盾に向き合うことになると思います。古代人のように賢い人たちは、無駄がないことを効率の善さと自覚していました。自然から離れることもなく、自然の中で如何に効率が善くなるかを工夫していました。結果的にそれが一番長い時間人類をこの地球に存在させたように思います。

自分の代に全てのエネルギーを使い切るか、それとも次世代のために勿体なく譲っていくかはその人の生き方です。不自然を自然であるように誤魔化してみても、その麹り合わせは必ず明るみになります。自然のままに世の中が善くなるようにするには循環を見つめ本当の意味での効率の上げ方を見直すことだと思います。

常に本質に立ち返り一つの心に一つの手仕事手作業で好循環になるように実践を一つ一つ確かに取り組んでいきたいと思います。

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

姿勢

先日、姿勢について考える機会がありました。姿勢というものは、全ての基本であり、その基本姿勢を知っている人は変化が早く、体験を素直に吸収していくことができます。

そこで姿勢の善さとは何かということを書いてみます。

姿勢という言葉は、姿勢よく座る、姿勢が美しいという単に見た目の姿かたちだけでで使われるのではなく、心の姿として、姿勢が問われる、どのような姿勢で臨んだのだろうかというような使われ方をします。

からだでいえば、姿勢が善い人は健康であるし、こころでいえば、姿勢が善い人は素直で正直ということになります。これとは別に身体が歪むと不健康になり、心が斜に構えると不正直になります。

結局は、からだも心も自分の姿勢次第であるということがその人の姿勢の善さで自覚できるのです。姿勢を正すという言葉は、その元になっている基本の姿勢をまず直してからすべてははじまるということを示す言葉です。

何を学ぶにしても、姿勢が悪ければ何をやっても中心が身につかずフラフラしてしまうように思います。では姿勢が正しいという姿勢とは何かということになりますが、これはまず基本の姿勢が何かを知っているかということになります。

からだでいえば、姿勢が善いと言われるためには姿勢の善いモデルを知っていなければなりません。美しい姿勢で立つと言われても、そもそも美しい姿勢を知らない人では姿勢を正すことはできません。同じように心も、姿勢を直せと言われても心の姿勢として素直で正直というものが何かを知らなければ美しい心の姿勢にすることが分からないからです。

姿勢というものは、基本のことです。

何を基本にするか、その考え方や意識から変えることで姿勢ははじめて正すことができるように私は思います。何が自然であったかを知る人は不自然が分かりますが、何が自然かを知らない人では不自然も自然も分からないのです。

姿勢が善い人とは、自然体を知る者です。

自然体を知る者は、原理原則を自覚できる人です。刷り込みや強い自我欲によってつくりあげてきた自分の歪みはそう簡単には直りません。しかし、周囲にそれを指導し直してくださる人がいたり、もしくは自分が憧れ私淑する生き方のモデルになる人を見習いながら直していくことができる人は仕合せです。

素直や謙虚、そして健康を学ぶには周囲の仲間たちの実践から身に着けていくことが学問の歓びでもあります。道を共に歩み、その基本の姿勢を知る沢山の仲間に恵まれている機会に深く感謝し、常に自ら自立する基本を自然に学び直していきたいと思います。