好奇志心~時の旅人~

人は生き様の中にその人の思想や哲学が籠っています。それは時間の中に顕れてくるように思います。どのような生き方をするのかは、その時間の過ごし方にあるようにも思うのです。

時機というものは、待つものであり単に待てばいいのではなく丹精丹念に日々の努力精進をしながら待たなければならないことばかりです。それは自分の心との正対であり、自分の精神との正対でもあるように思います。

忙しいくらいで自分を見失っているのでは、本来の生き方がまだまだ自分の都合が入っているからかもしれません。どれだけ壮大な夢のために自分を使うかはその人の志如何に由るものだからです。

運命があったとしても、その運命のせいにせず半分は自分の意志で覚悟をもって歩むのが志士のように思います。

吉田松陰の言葉の中に「聖人の胸中は常に多事(多忙)にして楽しむ。愚人の胸中は常に無事(暇)にして楽しまず。」があります。

意訳ですが、(生きとし生けるものの心の幸福のために生きる人の精神はどんなに忙しくても心から楽しむことができる。しかし一般的な人の精神は時間があったとしても楽しむことができないものだ)ということです。これは多難にして謙虚に感謝し、無難にして傲慢に怠慢と言ってもいいかもしれません。

自分の時間ではない人は、常にそれが意味があって意義がある時間だと自分を使い切ることができます。しかしそれをいつも自分のためだけに使っている人はその時間の意味も意義も知ろうともしないのだから面白くないのです。

時間というものはその人の志が入ってきます。いつも世の中のために自分を使う人は、自分が使われていることに仕合せを感じるものです。しかし自分の欲望ばかりを優先している人には、使われる喜びに出会えません。学問は、勉強することではなく人生を生き切ることですからそれを楽しんでいるかどうかはどれだけ自分の真心に能動的実践をするかということです。

「学 ゆるむべからず、一日をゆるめば、まさに大機を失せん。」(学問は決して弛み怠ってはいけない、やったりやらなかったりをもしも一日でもやれば偉大なチャンスも全て失ってしまいます)と吉田松陰も言います。

天命を待つからこそ学問を怠らず真剣に打ち込むことができます。その天命とは、その人の願いに対して応じるもののようにも思います。

人は自分の考えではどうにもならない現実の中でもどれだけ魂を輝かせるかはその人の生き方次第、生き様次第です。同じ人でも観え方が変わるのは、人間はみんなその魂の生き様に憧れるからです。

それは羨ましいのではなく、自分から憧れるということです。憧れて入った道ならば、その道が楽しくないはずがありません。その憧れこそ童心であり、その人の本質、そして初心でもあります。

「志をもっている人間は、何かを目にしたら、必ず心中に感じるものがある。」

好奇志心のままに内省を片時も怠らない楽問をしていきたいと思います。

 

志の意義~親孝行~

今年は大河ドラマで吉田松陰に関することに触れる機会が多いため、今まで見聞きし調べてきたことを何回かに分けて深めてみたいと思います。

吉田松陰は脱藩をしたり、ペリーの黒船に乗ったり、討幕を訴えたりと危険なことばかりを繰り返した我儘な人物ということをよく誤解されます。当然、人間は封建的なものを持っていますから秩序を乱すようなことをすれば排斥されてしまうものです。特に明治維新前の時代は思想をはじめ言論から行動まで非常に強く抑え込まれていた時代ですから危険人物の中では突出していたとも思われていたのでしょう。

先日も吉田松陰のことについて他人に聞かれましたが、親に迷惑をかけて周囲に迷惑をかけてなんて勝手な人だという人がいましたが決してそうではないのです。

吉田松陰はいつも自分が行ったことで親に申し訳ない、周りの家族に、親族に、お世話になった方々にと涙しながら前進した人物でした。脱藩の時は、毎晩のように涙を流して親の安否を心配し続け、ペリーの時は有志の師の佐久間象山先生の安否を気遣い続け、牢獄に入れられ私塾を開き討幕を訴えて兄は失職し両親も仕事がなくなり、養父の責任も巻き込み、申し訳なさに涙涙しながらも志を貫き至誠を通し真心を盡した生き方の人でした。

それは手紙や詩の中にたくさん残っています。

「知るや否や親を思う連夜の涙、天衷自ら万人同じきあり」(分かっているのだろうか、両親のことを心配し流している連夜の涙を、人間には必ず天から与えられている情があるのだから私もまた同じなのです)

「吾が家の父母兄弟いずれもつつがなきに候や」(我が家の父母兄弟はいずれもご無事であろうか)

「これからは、拙者は兄弟の代わりに此の世の禍を受け合うから、兄弟中は拙者の代わりに父母へ孝行してくれるがよい。左様あれば、つづまるところ兄弟中皆よくなりて、果ては父母様のおしあわせ、また子供が見習い候えば子供のため、これほど目出度き事はないではないか」(これから私は兄弟の代わりにこの世の災難を請け合うから皆はどうか両親に孝行してください、そうであればみんな家族は仲良く両親も仕合せで子どもがそれを見習えばきっとめでたいことだから)

最期の別れでは、母親に元気な姿で帰ってくると約束し母親を安心させ旅だち、処刑前に遺した詩が「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」(私が両親を思いやる心以上に私を思ってくれる両親の真心、今日の私の死の知らせをどう思うだろうか)とするのです。

このような人物が我儘で自分勝手に生きたわけはありません。吉田松陰は何よりも孝行を大切にし、忠義を盡して、至誠に生きた人物なのはすぐにわかります。激しい一面だけを見ては危険な人物というところだけを見ては、世の中の批評はあったけれど、内面や内心、本心はとても思いやりのある優しく純粋で正直な子どものような人だったのです。

自らを「情人」であるといつも言っていた松陰は常に立つときその情に於いて煩悶するがそれでも往く、「慈母の愛、父淑の責めは人情の堪え難きところ、唯だ非常の人のみ能く非常のことを為す。孔孟の国を去り、釈迦の山に入る、皆常情にあらざるなり」という。孔子も孟子も自ら家族を遺して国を去り、釈迦もまた同じように山に入っていったように決して比べられない大事なもののために覚悟するのだと自戒し言うのです。

自分の真心を信じてくださる両親に甘えつつも、同時にそのことで多大な迷惑をかけてしまう苦悩に煩悶し涙する日々の中「已むにやまれぬ大和魂」(それでもやめることはできない私の善心)という言葉は、それでも已めるわけにはいかないという透徹した純粋で正直なその人の心魂から吐出す信念の血言霊だったのではないかと私は思います。

本当に未来を憂い、世界の将来を心配し、人々の行く末を案じるのなら魂の先輩から志の本意を学ばなければなりません。私たちは単に義理か人情かではなく、志ということがどれだけ苦労の実践実行と関与しているのかを自覚しなければなりません。親孝行の中に大切な教えは全て入っているように思います。

親孝行をするというのは、志を練り上げる第一の徳です。

子ども心に憧れた松陰はいつも心の中に居ます。時機を心待ちにしているのなら、いつの日か同じ境地に近づけるのでしょうか。これからも何をもって親とし、何をもって孝行とするか、その志の意義をよくよく考えて生き切っていきたいと思います。

伝心

人は知識があるないにかかわらず、信じているか信じていないかは言葉に表れて出てくるものです。何のために知識を持つのか、それがかえって不安材料になってしまうのではせっかくの知識がうまく活かせないことになるかもしれません。

先日ある人が、若いときは「できないことが増えるから挑戦したくない」ということを言っていたという話を聞きました。優等生で優秀であったために、何かをすればできないことが増えるから何もしたくないという心理があったとのことです。それを聞いた周りの人は「できないことが増えるのはできることがそれだけ増えることだからもったいない」と言っていましたが、その人はできないことが増えることは可能性が広がるという考え方でした。

同じ事柄であっても、できるできないをどう捉えるかというのはその人のセルフイメージが決めています。セルフイメージとは自分の心と思いのことです。自分の中で何を信じているか、自分の中でどのような思いがあるかということに気づけば自分の努力の方向性が分かるようにも思うのです。

人は対話をします。その対話はただ言葉を行き来させているのではなく、その人の心や感情を伝えるものです。いくら上辺を繕って表面上は誤魔化してみても、心はそのまま相手に伝わります。心や思いがどうなっているのかは、語らずとしても伝わるものです。

これを以心伝心といいます。信じるということもこれに似ています。その人が言っているから鵜呑みにして信じるではなく、自分から能動的にどれだけ信じようとするかということが大事なのです。

言葉にはその人の信が入ります、そして眼差しにも信が入ります。信じ合っている絆は強く簡単には崩れません。しかし信が弱くなれば、絆は脆くなります。お互いが信じ合っているという関係を維持するのは、お互いにその信を送り続ける努力が必要なのです。

信じるというのは、自分が信じる実践を積み重ねていくことで溜まっていきます。自分との約束を果たし続けていたり、自分に打ち克ってきた場数によって信はより篤く盤石になっていきます。もしくは自分の信じる人が信じているものを一緒に信じることでその信を結び信頼の手綱を握り合うこともできます。

目には見えませんが、その信があるからお互いに頼り合うことができるのです。自立というのは、信頼関係を築けるということです。つまり自ら信じることができるようになるということです。

信じさせてもらおうという態度では、いつまでも他人のせいにできるような姿勢では信じることは難しいものです。自分を如何にだまし続けるかは、自分が如何に信じ続けられるかです。本来の知識とは、自分を信じ騙すためにあるもののように私には思えます。そしてそれは信じる方も同じです、信じているかどうかが相手の信の礎になるのです。

どんな情報も知識も受け取る側の考え方次第ですから、それを善いものへと転じるのは具体的な実践による智慧に換えた時に変わるように思います。知識をどのように活かすかは、その人の生き方ですから長い目で観て世の中を仕合せにするために遣っていきたいと思います。

子どもたちのためにも、できるできない、分かる分からない、知識か智慧かではなく、信じるということ。何よりも主体的に心を育てて思いを揺るがないものに成長していきたいと思います。

師弟とは~一心同体~

よく師弟関係という言葉を用いることがあります。何の道でもそうですが、何かを習い始めては師がいますが師がいれば自分は弟子となります。しかし本来の師弟というのは一体だと私は信じているのでむやにやたらに誰かを師にすることはありません。

吉田松陰にこのような言葉があります。

「師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべきし。」

これはかなり厳しい言葉にして、師とするな、師となるなといいます。真にこれは教えなければならない学ばなければならないことの時にだけ師となれというのです。

吉田松陰や孟子の著書を沢山出版している川口雅昭氏がこれを解釈しています。「この言葉はよく一般論として、教師、上司はこうあらねばならないという引き合いにだされるが、実はそうではない。知識があるとか、品行方正、学術優秀な教師はたくさんいると。しかし松陰のいう師弟関係とは、国家のために死ねと命令したら死ね。死ねない人間は弟子になるな。これに対して弟子も、先生の言うことなら死んでもいいという。両者の思いがそのレベルで一致して初めて師弟関係となる。」

つまりは、お互いの「本気」「覚悟」があってのものということです。言い換えれば、師を弟子に置き換えた文章でも同じということです。「弟子道を興さんとならば、妄りに人の弟子となるべからず、又妄りに人を弟子とすべからず。」なのです。

思いを同じくするというのは、知識が多いから師匠と呼ぶのではなく、経験が豊富だから師匠というのではなく。師弟一体になりたいと願う、魂の求道なのです。それだけ一心同体になって物事に真剣になりたいということなのです。

私は孟子の私淑という言葉が大好きです。私淑とは「孟子巻第八離婁章句」に書かれている言葉です。

「予未だ孔子の徒たるを得ざりしも、予、私かに、諸を人に淑くするなり」

意訳ですが、私は時代が異なり孔子の弟子になれなかったけれど、孔子の遺した徳風から様々な薫陶をうけそれを学び周囲の人々に伝えていたのです。つまりは「ひそかにその人を師にして尊敬し模範として学びます」という言葉です。

孟子の姿勢は孔子にとって一心同体のように私には思うのです。それだけ本気だったということ、それだけ同じ夢を目指したという事、ここに真の師弟を観るのです。単に自分が学ぶために師とするのではなく、師と同じ夢を持つという事、同師というのかもしれません。

師道を興すというのは、後に続く者たちへの夢を遺すということです。

本気度で師に刺激をいただく日々に感謝しつつも自戒ばかりが頭をよぎります。子どもの前に立っているのだからこそ、子どもが背中を追いかけてくるからこそ、決して自分のために行うのではなく、やったりやらなかったりするのではなく、真摯に至誠の実践を積み重ねていきたいと思います。

探究心~真剣な実践~

人間は物事のことをどれだけ深く掘り下げていくかで本質に近づいていくように思います。世の中の話をいつも鵜呑みにばかりしていたら、本当のことは分かりません。物事の意味を実践により咀嚼してはじめて自分のものになるのが本質ですから本質が理解できるということはどれだけ探求しているということです。

探求というのは、字の如く「求めて深める」ということです。つまりはそのものの本質を見極めようとする力であり、真理を知りたいと思う好奇心のようなものです。

私もどうも好奇心旺盛で、本当のことが知りたいとばかり思うようです。いくら本に書いてあっても、いくらそれが科学で証明されていると言われても、自分自身が自分の感覚で「探していたのはこれか」と納得するまでは諦めきれない性分のようです。

先日も、保田與重郎の著書に飛鳥の神奈備のことが書かれていて本当にそうかと自分で現地にまで調べていきます。その過程で、様々なご縁に導かれ新たな発見をし、なぜそれを調べたかったのかを竟には自覚自明するのです。

探求するというのは言い換えれば道を歩んでいくということです。自分の舌で咀嚼し、自分の胃で消化し、自分のモノにしていくということです。それには真理探究に対する強い熱意が必用のように思います。

偉い先生が言うのだからとか、誰もが知っている事実だからとか、未知なるものだからだと考えるのをやめてしまって無関心に流していたらいつまでも本質に近づくことができません。だからこそ、自分から分からないことをもっと本当のことが知りたいと知識欲を転じて智慧欲に換えていく必要があるように思います。

知識は簡単に便利にすぐに入ってきますが、智慧は入ってきません。智慧は具体的な行動と探求によって自分のものになっていくからです。以前、メンターに「距離に負けるな好奇心」という言葉をいただいたことがあります。

面倒だなや、大変そうだな、しんどそうだなと、いちいち何かをやる前にそんな気持ちに探究心が負けてしまっていたら何一つ自分のものにはならないということでしょう。

最後に論語にあります。

「子曰わく、憤せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり」と。

如何に真剣に物事に取り組むか、真剣であればあるほどに探究心は高まるのです。真面目そうになるのではなく、真面目であることは志事に如何に真剣に取り組むかということです。本当の真面目とは何か、本当の真剣とは何か、味わえる仕合せを周囲に自らの実践で伝えていきたいと思います。

 

 

自戒の意味~慎む~

人間はいつもの自分をどの高みで内省するかで気づきの度合いが異なるものです。気づいているようで気づいていないのも、気づきというものは素直さと比例するからのように思います。素直でないと反省もまた反省風になり、気づいても気づかず、直そうにも直せないということにもなるからです。

自分のことを正しく理解できるというのは、思い込みや刷り込みを取り払ってあるがままに物事が視えるということです。言い換えればそれが素直さなのですが、受け止めたくない事実がある場合や受け容れられない現実がある時はそれを湾曲してしまうものです。

気が付けば、やっているつもりになっている実践が多いのもまた事実です。如何に深く内省し、如何に深く気づき、如何に謙虚に行動するかはその人の人格の成熟や精神の研鑽によるもののように思います。

そしてそれを直すのに自戒があります。自戒とは、自らの癖を見抜き気を付けるための心掛けのようなものです。人間は欲や自我がありますから気が付けば怠惰に流されてしまう自分に対して主体的に自ら気づき自我欲よりも優先できるものを持とうとするものです。

しかし一人慎んでいないと気づかないうちに優先するものが入れ替わるのが人間ですから、その入れ替わった瞬間に気づけて改善できるかどうかが実力をつけるポイントのように思います。

先日、あるお寺を参拝しているときに慎むということの実践で興味深い文章に出会いました。この文章の作者は元善光寺の住職が作ったものと言われていますが自分が気が付けば慎んでいないときの事例が書かれているのではないかと実感したので紹介します。

「 高いつもりで低いのが教養  低いつもりで高いのが気位

  深いつもりで浅いのが知識  浅いつもりで深いのが欲望

 厚いつもりで薄いのが人情  薄いつもりで厚いのが面の皮

  強いつもりで弱いのが根性  弱いつもりで強いのが自我

 多いつもりで少ないのが分別  少ないつもりで多いのが無駄」

(元善光寺「つもり違い十ヶ条」より)

この十か条は人間として気を付けないといけない生き方を並べると、今の自分がどちらに傾いているかを内省するときの基準になります。これはこのまま並べてみればその意味が分かります、つまり「低い教養、高い気位、浅い知識、深い欲望、薄い人情、厚い面の皮、弱い根性、強い自我、少ない分別、多い無駄」ということです。

高慢・傲慢・不遜になってはならぬ、自分のみの価値観の世界に浸って陥ってはならぬと言い聞かせるのです。人は他人の話が聴けなくなると以上のような状態に陥るものです。素直に他人の意見を聴けるというのはそこに謙虚な生き方があります。

上記のことを逆さに書いてみると、「高い教養、低い気位、深い知識、浅い欲望、厚い人情、薄い面の皮、強い根性、弱い自我、多い分別、少ない無駄」です。つまりは人間として慎む姿が観えてきます。

人間は知れば知るほどに、知識が多ければ多くなっていくほどに慎まなくなっていくものです。教える立場の人たちは何よりも自戒する必要がある智慧が「慎む」という実践なのでしょう。

真の実力とは、精進により磨かれた人格の上に慎み抜かれて錬成された実践です。他人のことをとやかく言う前に知識ばかりを詰め込む前に、自分の生き方をよくよく見つめて内省していきたいと思います。

 

 

十全円満~光と闇~

世の中には光と闇があります、もしくは陰と陽という言葉を使います。光には光の特性(動)、闇には闇の特性(静)があります。これは表裏という関係ではなく、表裏のない同質のものです。

例えば、光があれば陰が発生します。光と陰があることでそのものは顕現します。宇宙に星がなければ宇宙を感じることはありませんし、宇宙がなければ星も見えません。お互いが存在し合うことではじめてそのものの存在が確認できるのです。つまりは光と闇や陰と陽ではなく光も闇も陰も陽も同質であるということです。

全てを十全に捉えるという観点があります。

それは光も水も空も風も土も同じものであるという考え方で全ては欠けているものは一つもないということです。私たちは物事を観察するときに、あるやないという見方をします。しかしあるとかないとか言っていると、十全であることがわからなくなってきます。

自分というものを中心にばかり物事を考えて観てはあるとかないとかを見分けていても、本来すべてを存在している宇宙自然の廻りのことなどは実感できなくなってしまうものです。欠けていないのであれば失っていないわけですから、なくなることがないという世界。

そういうやったことがゴミで消えるのではなく、それが巡っているだけであるという意識。あるかないかではなく、巡りゆくのだということを自覚するとき、人は初めて循環の理に触れ、自分がどう生きるべきかについて自問自答するように私には思えるのです。

自分が生きているうちのことだけを考えては欲を貪り、自分が死んでしまえば後は知らないというように無責任になってしまえば、巡っているいのちのことなどは考えなくなるのかもしれません。

人間はいのちある存在ですから、そのいのちは形を換えては様々なところを廻り巡ってまた戻ってきます。仏教の輪廻転生のように、いのちを殺しては食べてそれを排泄していく私たちのいのちもまた他の生きものを通じて地球の中を廻りつづけていきます。

いのちを粗末にするというのは、巡りを大切に考えないということです。そしてそれは分けて考えるからです。分けない実践というものは、自分を中心にばかり物事を考えずそもそも一つの存在なのだから自分の影響を自覚して生きるということです。

他人事にしない人生と言ってもいいし、自他一体にする人生と言ってもいいかもしれません。明日は我が身、あの人は未来の私であり過去の私だと思えるか、全てを自分事とできる思いやりの実践です。

光と闇があるように、人間もまた光と闇でできています。

十全円満そのものを分けさえしなければ人間ははじめて本物の人間となりうるということです。人間の持つ業の深さを沈み内省しつつ、いのちを輝かせて魂を磨いていきたいと思います。

 

時間の使い方~未来の自分~

人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。

志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。

自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。

そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。

論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。

これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。

そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。

このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。

私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。

人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。

その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。

自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。

人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。

自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。

全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。

命維れ新なり~維新の本質~

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰の妹の文を主役にしたものが放映されます。吉田松陰は優しく暖かく見守る家族に恵まれていることは松陰の過去の手紙から察していましたが、妹についてはあまり関心を持っていませんでした。今回の大河で妹がどのように松陰の影響を受けて生きたのか、私なりにも深めてみたいと思います。

吉田松陰は、孟子を使った講義を野山獄で囚人仲間に対して行いました。野山獄ではお互いの得意なところを学び合おうと学問を続け、その中で自らは孟子の解釈を語りました。その講義録を「講孟剳記」といい、完成したものを「講孟余話」といいます。

孟子は、江戸時代では禁書とされ社会秩序を乱すものとして読むことも禁じられていました。儒教は別名で「孔孟の教え」と呼ばれるのに、孔子は読むが孟子は読んではならぬというのはおかしな話です。孟子は、性善説を唱え人間の本性は善であると言いました。それに対して荀子は性悪説を唱えその反対を言いました。

しかし、本来は善も悪も一体であり真善と真悪は極め尽くせば最善であるのだから言っていることは同一のことなのでしょう。ただ解釈の仕方としては、孟子は惻隠の情という言い方をし、どんな人間も幼い子どもが死にそうならかわいそうだと思う真心が誰にもあるように人は思いやりを持って産まれてくるものだと言ったと私は解釈しています。

赤ちゃんが笑顔になるように、周りのことを思いやるようにできるのは人間は地球の中で見守られ多くのつながりの中ではじめてこの世に産まれてきます。生き物を殺して食べては存在しているのが私たちですから自然の慈愛は偉大なものです。

そう捉えてみれば、「人間の本性は善である」というのは言い換えれば「自然の本性は善ですよ」という意味になると思いますからこれは孟子の言う通りです。人間を含めて自然に生き活かされるものは全て善なのでしょう。

孟子は、孔子と同じく王道政治について語りました。今の時代の言葉にすれば、王道社會とはどういうものかを広め続けました。王道とは、人道の極みであり何よりも人間として正直である道とは何かを説いたのです。人間として正直であるというのは、お互いに思いやりを忘れずに助け合って見守り合う協力調和した世界の実践を行うことです。

それを君子とはどうあるべきかと、国を治める人たち(政治家やリーダー)に対して誠の政道とは何かを全国各地を行脚しながら民衆をはじめ国王へ教えを広めました。今も昔も人類は安心して暮らせる平和な社會を夢見てきました。その夢の実現をしようと語り掛けた教えは2500年を経ても燦然と光っているのはそれが本物本質であるからなのでしょう。

その大河ドラマの中で、妹の文が詠んだ孟子の一文がありました。

「庠序学校を設け為し以て之れを教ふ。 庠なるは養ふなり、校なるは教ふるなり、序なるは射なり。 夏に曰ふ校、殷に曰ふ序、周に曰ふ庠しょう、学は則ち三代に之を共にす、皆な人倫を明らかにする所以なり。 人倫の上に明にして、小民の下に親しむ。
王者の起る有り、必ず来たりて法を取る、是れ王者の師と為すなり。 」

私の勝手な現代意訳で申し訳ありませんが、(名君の居た世は常に学問をするところ全てにおいて正直正道を何よりも重んじ人としてどうあるべきかを明らかにしました。そうやって正直正道をみなで実践しているものであってはじめて民は王道を知り、それを広める王をお手本として正しい法に則っていきました。)と。

さらにここから「維新」という言葉が続くのです。

『詩に云う、 周は舊邦と雖も、其の命維れ新たなり、と。 文王の謂ひなり。
子、力めて之を行はば、亦た以て子の国を新たにせん、と。』

また現代意訳ですが、(詩経にこうあります、周は旧い国ではあるけれど、その命は維新されていると。これは文王が言うように徳を大事にして自らが実践すれば同じように国のいのちは新しく生まれ変わり続けるのです。)と。

「命維れ新なり」

正月を迎え、一年の新たな始まりに於いてこの「維新」という言葉。神道の式年遷宮のように「いのちが新らしく甦生する」ということを行うのは、それを実践するものたちの生き方や生き様、いわば道に由ってということなのでしょう。

孔子と孟子の行間からもう一度、仁義の本質を学び直してみたいと思います。

 

磨く③~にこにこ顔で命懸け~

磨くということをテーマに昨年から深めていますが、何をもって磨いているというのかを分からない人も増えてきているように思います。例えば、気付くことが磨くことといってもすぐに分からないのは磨き続けてみていないからです。

しかしシンプルに磨くというものを考えた時に、苦労というものが磨いているという実感がある人は多いと思います。自分を磨くというのは、自ら進んで苦労を求めていく生き方をするということです。

有名な故事に「若い時の苦労は買ってでもせよ」があります。これは若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味です。(故事ことわざ辞典より)

他にも類似している諺に、「艱難汝を玉にす」はじめ「若いときの力こぶ」や「苦労屈託身の薬」、「楽は苦の種、苦は楽の種」や「楽あれば苦あり」があります。どれも苦労にはとても価値があるという智慧の教えです。

苦労したことがない人は努力の味を知りません。なぜなら努力の味というのは苦労をした人にしかわからないからです。言い換えれば苦労のない努力では努力にはならないというのが本質だからです。

心身ともに耐え忍び、日々に心身揺さぶられながらも大義の実践を行うことが修行のようなものです。思いの力を使っては祈りの力を使っては、必死になって苦労をしていくところにはじめて努力があるように思います。

そしてその努力とは苦楽といった味わい深いものがあります。この苦楽は、たとえば忙しい中でも心を失わない時に得られた自分への褒美であったり、自分の不利益であろうとも誰かのためにと譲った後に残る余韻のように、または祈り思いやる相手が病気から平癒していくときの仕合せのようにその苦楽はとても深い味わいがあるのです。

人は頭で考えれば誰しも苦労は避けて通りたいと思うものです。脳みそはもともと苦労したくないから知識を得ているとも言えます。知性というのは裏腹で自分を磨きたくない理由にもなってしまうのです。

体験したものを気づき、それを学ぶときに得る知識は、自らが体験を本物にし自分の貴重な体験として自分のものにしていくために必要ですが体験しなくてもいいように便利さを求めては知識で補おうでは磨く機会をも損失してしまいます。

若いときの苦労の価値を自覚している人たちが、如何に若い人に苦労を与えることができるかが真価なのでしょう。自分が苦労したから若い人には苦労を与えたくないという人が増えているように思います。しかし、その苦労は振り返ってみると何よりもかけがえのない思い出になり、そしてその苦労があったからこそ努力の価値を身に染みて自信を持てるようになり、努力ができる有難さに感謝できるように思います。

誰だって苦労は嫌なものですが、苦労をしなければ本当の意味での楽しさが分からないのならば敢えて苦労を選んでいく、楽しい方を選んでいくという生き方がたった一度の人生を磨く上では大切なのではないかと思います。

単に苦か楽かという頭で裁く二者択一の判断ではなく、苦労の中にある真楽、楽しいの中にある苦楽を味わうことが若いときの貴重な体験ということなのでしょう。光陰矢の如くあっという間に時は過ぎていきます。

若かった時代も気が付けば過ぎ去り、その体験を遣って今の真剣勝負をしなければなりません。自他一体になれば相手に苦労を与えることは相手の仕合せを与えることになります、そこに遠慮もありません。気づいた時が勝負ですから、子どもたちに素晴らしい苦労の真価をたくさん与えられ伝えられる真心の人間に自分が近づけるように、にこにこ顔で命懸けの精進をしていきたいと思います。