主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

自然循環~感謝の絆~

全世界の人間環境問題のことがニュースで流れるといつも心が痛みます。

今の環境がこうなっている責任は今を生きている私たちの責任です。子どもたちのことを思えば思うほどに、何を遺しているのが自分の生き方なのかと向き合うことばかりです。

昔の先祖たちは智慧があり、自分たちがどう生きることが子孫の繁栄と発展につながるのか、そして種を遺すためにどんな今を遺せばいいのかを真摯に取り組んできたように思います。

自然の中から、どうすれば何千年も生きていけるのか、生き残れるかと何よりも悠久の時間を観ては長く広い視野で物事を見つめていたように思います。その自然の叡智を自分たちの生活にまで還元し転換することで代々の生活を見守ってきたように思うのです。

それらの文化は何よりも優しさと思いやりに満ちており、共生と貢献の自然の仕組みにピタリと合っているのです。それを民族の歴史ともいい、そういった祖神たちの徳恵によって私たちの今は存在するのです。

それを御蔭様といい、先祖たちの御蔭で今の私たちが存在しておりますという意味です。

その恩恵に感謝するほどに、お返ししようにも直接はできないのだから子どもたちにそれを遺そうとするのが感謝の絆なのです。言い換えればこの「感謝の絆」こそが「自然循環」のことです。

昔は成人したならば、残りの人生は子どもたちのために生きなさいという言い伝えがありました。これも成人までできたのならば、子孫のために自分のいのちを使いなさいという意味でしょう。自分が生きられ活かされ感謝できるようになるのなら、子どもたちに何が遺せるのか自分のいのちの使い道をよく考えるようにという伝導があったのでしょう。

今を生きる私たちは自分のことばかりを考えがちです。しかし自分が今まで育ててくださった偉大な存在に対してどう思っているのでしょうか。その存在があるからこそ今があるのなら、自分にしかできないことでお役に立とう、そしてそれは子どもたちのためにより善い世界を譲っていこうと考えることでしょう。

子どもは絶対的に人間や環境や社會を信じてこの世界に産まれてきます。その子たちにどのようなモデルを示せるか、どのような生き方を真似してほしいか、それは今の大人たちが自覚しているはずです。そういうものを道徳というのかもしれませんが、より善いものを譲る中にこそ、祖神の徳が満ちているのです。

全部自分一人で世の中を変えることは難しいかもしれません、しかしその方法や仕組み、生き方は多くの人たちに遺せます。

それを私は子ども第一主義と定義しています。

自然循環の源になっている自覚を忘れないように、ご縁を弘げ実践を高めていきたいと思います。

自由と自立

人間は、常に安心を求めて生きているものです。当然、不安なままでいたいと思う人はいないと思います。しかしその不安は何から来る不安であるかを見つめることは少ないように思います。

たとえば自由というものがあります。一般的には、規律やルールがあってある程度、その雰囲気に合わせれば安心していられるというのは自由に伴う錯覚の一つであろうと思います。

主体性というものは、相手に期待したり組織や会社が与えてくれると勘違いし続けることではなく自らの決断と覚悟と自発的な行動によって切り開いていくことを言います。

いくら自由を与えられても、自分が楽しんで切り開こうとしなければその自由の環境もただの宝の持ち腐れになってしまうからです。人から認められている環境下では、やるのも自分、やらないのも自分ということに気づかなければなりません。

自分から進んで色々なことを挑戦していいというメッセージが自由と自立の中には存在します。誰かによって与えられ、誰かによって評価されるためにやろうというのは受動的に言われたことをやろうという意識です。

この意識は確かに失敗もないのだから無難ですし、何も起きませんから現状維持ができるのです。しかしこの現状維持の中に「道を切り開く」という楽しみがあるのかということなのです。

指示命令を与えてくれるのを待つくらいなら、どこか理想の指示命令を出してくれる組織に転職した方が人生が活かせるのかもしれません。もったいないと思います、自由を持つ組織が与えるものは指示命令ではなく「チャンス」です。チャンスを与えてもらっているのを活かせるかどうかは自分自身であり「自分次第」です。

人間はたった一人のたった一回の人生をどのように自らが主人公になって責任を持つかということが教育の真価のように思います。この誰のせいにも環境のせいにもしない、「自分の責任を自分で持つ」ということができてはじめて自由と自立が適ってきたともいえるように思います。

自分が責任者(=リーダー)なのだから、自分で責任を取るという覚悟があるかということです。いつまでも誰か任せ、いつまでも何にも試そうともせずに縛られたままで果たして真の自立ができるのかということでしょう。

自律ということは、外圧で用意されたルールや規則に従うから自律ではないと私は思います。単に自由が自分の思い通りと思っているのなら、それはまだまだ縛られている証拠でしょう。

自分自らが責任を持ち、自らを律することで周りの環境に左右されず自分らしく自分を信じて道を生きていくことができることを自律というと思っているのです。

その情熱は、常に道を切り開くのは自分という足取りを已めないことで燃え続けます。

畢竟、自由も自立も自分の天命や使命、役割や役目を果たそうと自分にしかできないことを遣り切る力を持っているかということに他なりません。何のための自由と自立かといえば、自分らしく生きることがもっとも世界に貢献するからそこを目指すのです。

怖がっているだけでは何も変わりませんし、これでいいと周りに合わせているだけでは何も動きません。思い切って自分から主体的に道を切り開こうとする人にだけ、確かな今と輝かしい未来が顕れはじめて「自由自在」の自分を顕現させることができるのです。

何をやってもいい環境、責任をリーダーが取ってくれる環境、その有難さというのは「思う存分に生き切っていい」と励まし応援してくれる環境があるということでしょう。自然界と同じように、地球に棲まう私たちが、どれだけポジティブに「チャンス」を与えてくれていると実感するかが自由でもあり自立につながる道筋でもあるのでしょう。

自由ということは生きていく上で、「主体性」を示唆する重要なテーマです。子どもたちの行動からたくさんのことを学び取り、世の中がチャンスに満ちていることを伝道していきたいと思います。

いつも励まし支援し、そして見守り、背中を押してあげるような存在になりたいと思います。

本業の本質

昨日、自然農の田んぼの田植えを無事に終えることができました。お思い返せば3年前の震災を機に、様々な出来事を体験し、これを必ず善いことに転換するのだと覚悟を決めてから開始した実践の一つでした。

如何に人間が自分たちの都合で社會をつくっているか、本来の自然からかけ離れた発想の中で暮らしているか、その先にあの原発や歪んだ欺瞞が存在するのか、そういうものが子どもたちにどう残っていくのかを向き合ったのです。

先日もある方から、私が楽しそうで自然農の実践も続くので「本業ではなくて遊びだから続くんでしょ」と言われましたがその時はそうなのかなと思いましたが初心を思い返せば「生き方と働き方が本業だからこそ遊んでいる」のかもしれません。

私は少し変わっているタイプのようで、自分でも自分のことがよく分かっていないことがあります。自然のことは大好きですし、田植えだけではなくその周囲の虫たちや生き物たちに囲まれて自由に遊んでいるのをご一緒するのは心が幸福を感じます。

しかし何のためこれらをするのかというのは、遊びではない「本気」の志もまたあるのです。

他人からどんなふうに思われていても、私の中には「子ども第一主義」が息づいており、そこがあるから挑戦も改善も已まないのです。人はそれぞれに自分の物差しがあるのでしょうが、理念に合わせていけば周りから見れば変だと思えることでも合点がいくのです。

理念や信念がある人が変人に見えるのは、それは一般的な社会通念に合わせて生きているのではなく、その人には譲れないものがあるということです。そして生活は普段通りに暮らして周りに気を使って快活でもある一線には不退転の決意が存在しているのでしょう。

人間は守りたいものがあるとき、傷つくことをも恐れなくなるのかもしれません。

挑戦は常にその初心によって助けられながら前進していくものです。何かをしたから本業なのではなく、どうありたいかが本業の本質なのです。

初心を忘れたなれ合いでは何かをした気になってしまうのかもしれません、畏れ慎みたいと思います。常に色々な人たちの言葉は自分の初心を思い出すための助言だとして素直に正直に謙虚な心で自戒していける自分でありたいと思います。

誰かを思いやりはじめたことは常に感謝の中にいるのですから怠らず勤めていきたいと思います。

強く逞しく~情熱人~

何かの物事を観照するとき、そこにどれだけの強い思いを持っているかというのは何よりも大切であろうと思います。

これはどの体験でもそうですが、事が為るのと為らないのにその結果を見つめるといつもそこに「思いの差」というものがあるのに気づきます。同じことをしても、いつもその結果が異なるのはその人の思いの強さに影響されているのです。

今、学んでいる流鏑馬にしても的を射た板に射手の思いが宿るといわれて縁起物とされています。つまり昔から私たちは「思い」というものを何よりも大事にしてきたのであり、その思いがどうであるかということにこだわってきたのです。

目には観えませんがその「思いの醸成」というものをどれだけ怠らずに行うかで自ずから成果が異なっていくように思います。そしてその思いの醸成とは、情熱によって行うものであろうと私は思います。

現在、誰もが知っている有名な経営者に稲盛和夫さんがいます。今では著書の写真などで拝見すると穏やかな顔つきで泰然自若のようですが情熱という意味ではモデルになる方ではないかと思います。昔、若い時に自らを鼓舞し啓蒙するときによくその言葉に励まされたのを覚えています。

いくつか紹介すると

「強い思い、情熱とは、寝ても覚めても、24時間、そのことを考えている状態。自分自身の成功への情熱と呼べるほどの強い思いが、成功への鍵。」

寝ても覚めても遣るんだという強い思い、その時こそが情熱の炎は燃え盛っているということでしょう。濡れた炭にならないように水をなんど浴びせられても何度でも何度でも自分から燃えて火が消えないように起き上がることでその火を燃やし続けるのは「強い思い」です。

「成功する人と、そうでない人の差は紙一重だ。成功しない人に熱意がないわけではない。違いは、粘り強さと忍耐力だ。失敗する人は、壁に行き当たったときに、体裁のいい口実を見つけて努力をやめてしまう。」

そして続けて、粘り強さと忍耐力とありますがこれはピンチをチャンスととらえるか。情熱はあってもそこで止まっていないか、努力を燃やしたか。この時の努力というものは、最善を尽くすために最期まで諦めずに実践を続けているかということでしょう。忍耐力というものは、逆境こそが自らを磨くチャンスだと創意工夫と改善のチャレンジを続けたかどうかということです。

そしてこの言葉が何よりも印象的です。

「どんな仕事でも喜んで引き受けてください。やりたくない仕事も、意に沿わない仕事も、
あなたを磨き強くする力を秘めているからです。」

まさにこの言葉の中に「情熱の本質」が入っているように思います。

来たものを選ばない、そしてすべてを受け止めて受け入れて引き受ける。稲盛和夫さんは西郷隆盛の「敬天愛人」が座右なのでしょうが、見事にその生き方を貫かれていらっしゃるように思います。

情熱というものは、丸ごと引き受ける強さがあるように思います。それが思いがそうさせてくださるのだから、喜んで取り組ませていただきますという素直な姿勢を産むのでしょう。

情熱とは、燃焼のことですが完全燃焼していきたいと願うのが人生を面白く楽しみたいという願いでしょう。本当にそのように生きているか、本当に情熱をもって日々を過ごしているか、この自問自答は常に一緒に継続することで得られるように思います。

遣りきるということは、遣りきらせていただいた感謝の中です。
情熱こそが生命力ですから、その学びを味わって歩みを強く逞しくしていきたいと思います。

 

自分の体験~人生の意味付け~

人は自ら学んだものでなければ本当の自分のものにはなりません。誰かから先に教えられた知識というものではそれは分かった気にはなりますが自分の知識にはならないからです。

たとえば、礼儀などについても先にこうしなさいと礼儀を教え込まれて形式上はできるようにはなりますが本当にそれが必要で大事なものかどうかが分からずに教え込まれればすぐに忘れてしまうのと同じです。

本来、人間にはやる気というものがあります。それは自分に必要なことだと認識し、自分がやってみたいと思う心が具わっているということです。これを好奇心とも言います。この好奇心が失われているからやる気が出てこず、そのためにマニュアルのように教え込む必要が出てくるのです。これを人材育成と勘違いしている人がいるのも今の時代の教育の刷り込みだろうと思っています。

もしもこのまま教え込むことを続けていけば、いつまでも自ら学ぼうとはしませんから教え込んだ知識の中でそれを覚えてもらうという方法をとることになります。これは学校の勉強と同じく、知識というものの訓練によって身に着けさせる方法の一つですが、それは本当に学びたいかどうかという本人の主体が出ていなければ本来の学問をしていることにはならないのです。

この相手がまだ求めてもいないのに教え込むというのは、先に知ることによって分かった気になってしまいます。分かった気になればそれ以上は知ろうとはすることはなく、物事の道理が深まっていくことがありません。単なる物知りになったとしても、自分自身が一体どうしたいのかが分からないままでは社會にどのように自分が役に立つのかを自覚することも難しくなっていきます。

常に自分が求める心があり、それが知識と結びつき、そして実体験を通して学ぶときにだけそれは自分のものになるのです。この自分のものにするというのは、「自分が自らで体験したことが何であったかと学ぶ」ということです。

これは教えられるものではなく、気づくものです。

教えられることで気づくのは、教えられているのだから自分のものにはなりません。その人の気づきに対して知識が驚いているのです。しかし自分から気づくことを教えられるのであれば、それは自分自身の気づきによって発見するのですから心が納得しているのです。

人間というものは、畢竟、たった一つの自分の人生というものを歩もうとするように実感します。

その人がこの世に産まれてきた意味を自分自身は何よりも自覚したいのです。

誰かによってそれを押し付けられることよりも、自分自身で気づきたいのです。それが人生の意味だろうと思います。どんな意味深い人生を送れるのか、好奇心はそれをいつもわくわくドキドキと楽しみにしています。

その好奇心にゆらゆらと遊びながら学問をすることで人は真に自分からの教えに出会います。

教えに出会うことで、人はこの世の道理や真心が息づいていることに感動します。
人が学ぶというのは、人生の意味を確かめるということなのでしょう。

人生の意味付けは自分次第なのですから、変に誰かを教え込もうとしたり、変に誰かに自分が教え込まれないように常識を遠ざけ、自学自悟を徹していこうと思います。

王道経済

先日、偶然にアルビントフラーの「第三の波」の一説に出会うことがありました。

この第三の波とは何かといえば、トフラーは、経済的パラダイムシフトを「波」と仮定して社会の趨勢を予知し第一の波、【農業革命】では狩猟採集社会であった社会が農耕技術の伝播によって農耕社会へ変わる。そして第二の波、【産業革命】では18~19世紀に興った産業革命による社会システムの大幅な転換をする。そして次に第三の波、【脱産業社会化】では産業社会化からの脱却、情報革命の社会へと突入すると定義しています。

そして情報革命の中で大量生産・大量消費を前提に組立てられた諸システムはもはや限界であると看破しています。言い換えれば、もう今のような社会は限界で大きく変えなければならないと言及しています。

今の時代は短期的に見て良い方ばかりを優先する価値観が蔓延しています。長期的に見てとか伝統的にとかいう時代ではありません。農耕一つに観える育成の智慧をとってみても、食という文化そのものの保存法にしてみても先祖、祖神たちは先々のずっと先の社會を見据えて私たちに生き方や働き方を指導してくださいました。

言い換えれば、人間を正しく導くことで永続し共生する世界を遺そうと尽力してくださっていました。その徳や恵みのお蔭で私たちはこの地球上で仲良く幸福に暮らしていくことができるのです。

しかし今の社會は、自利や欲望が際限なく追及され世界はまるで暗がりの中に入っていくような感覚があります。国家間の問題も、利害関係からでしか語られず、善悪や本質で話し合われることが少なくなってきています。

これは人間自体を如何にお互いが高め合おうかというような議論ではないことは一目瞭然です。人間は仲良くなるのに、堕落していく仲間と、高め合っていく仲間というものがあるように思います。真の信頼関係とはお互いを尊重し、明日の敵は今日の友のように切磋琢磨しお互いを許しあって助け合ってご縁を大切に生きていくことのように思います。

そういう精神性を磨き高めてきたのが、私たち日本人の崇高な理念の中にはあるのです。武士道にせよ大義にせよ、歴史の中で残っている上杉謙信や源義経、楠正成という武徳高い人物から学び、二宮尊徳や聖徳太子、中江藤樹など聖人と呼ばれるような方々からも教えを施されてきた民族なのです・

それが第二の波の中で失われつつあるのは、時代がいつまでも急なスピードや緊急性の中で我を見失っているからであろうと思います。もう一度、思いだし、どうあるべきかということについて語り合えるような場や仲間、つながりがこれから必要であろうと思います。

最後にトフラーはこう語ります。

『勝ち負けの経営の限界が見えてきた。企業経営は、覇道ではなく、王道でなければならない。経営の王道とは、人を育て、導くことである。自社に関わる一人ひとりの幸せを目指すことである。このことを忘れ、勝ち負けにこだわる覇道の経営に走り、合理的な経済至上主義の考え方で事業をしている会社は、遅かれ早かれ衰退の道をたどっていくだろう。あなたの会社も変わらなければ、発展の道は閉ざされてしまう。』

子どもにどのような社會を遺してあげたいか、そこで判断するのが当たり前の道理です。そして何を譲っていくかは、その人たちの生き方にかかっているように思います。発展というものは永続的なものであってはじめて発達といえるように思います。

日々学びを深めながら、温故知新した経済を求道していきたいと思います。

養育の道

現在、中尾佐助氏の「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)を読み進めています。

そもそも人間は食べることによって今まで生き延びてきた生き物の一つです。その食べるという当たり前のことを文化と呼ばずに何を文化とするのか、そして食べるために農耕を如何に発達させてきたかを辿るというのは、人類が如何に発達してきたかを知る道筋でもあります。

人類のルーツが何か、そして人類はこれからどこに向かうのか、その発達を確かめる中に「農耕」という文化そのものの意味を自覚しているかどうかは大変重要なことであろうと思います。

今のように遺伝子組み換えや原子力、また最先端科学と呼ばれる技術によって様々な文明が生み出されたとしても、かつて何千年もかけて創意工夫してきた文化には及ぶものはありません。いくらそれらの最先端科学をもってしても、そもそもの農耕という名の食べるものすべてを賄うことはできないからです。

この著書は栽培されている作物の側から物事を洞察しているところに、発達で観るということの真価があります。育ち育てるということがどういうことか、そしてそれを如何に発展させてきたかというのに人類史のかつての智慧を学びなおすことができるように思います。

以前、種麹屋のことがテレビで放映されていた中に興味深いシーンがありました。種麹屋というのは、その年の種麹の中から特に栽培が可能な種麹を取り出し保存する、そしてかつてもっとも栽培に向いている種麹の種菌を残しておいてそれを培養して種麹として販売するという話です。

これは作物でも同じく、毒抜きをしたり育成の過程で栽培に不向きなところを取り除いたり、種を大切に守りいつまでも育てることで農耕の文化を築いてきたのです。自然農の実践をしていても、毎年作物がその土地にあわせて、そして栽培する私に合わせて変化してくださるように常にかかわりと絆によってお互いの文化を築き上げていくのに似ています。

奥の深い農耕の歴史を鑑みながら、今の人類がどこに向かっているのかを考えると心苦しく思えてなりません。種を守ろうとすることを人類がやめたとき、人類は滅びの道を選択しているのかもしれません。

種を大切にするというのは、如何に育てていくかを守るということでしょう。
見守ることの大切さから、より深い養育の道を学びなおしていきたいと思います。

父母の恩徳はいのちなり

自然界に入り、ふと感じたことがありました。すべての生き物たちには父母があります。父母なしで生きているものはありません。父母は空気のように当たり前に存在しているものですから今更考えないのかもしれませんが、そこにはとても重要なことが隠れています。

私たちの今を思うとき、そこまで連綿とつなげてくださった父母から辿っていくとずっと先の祖までたどり着きます。しかしその祖とは何かといえば、その祖はあまりにも遠大であり観えません。なぜならその祖にもまた父母があるからです。

同じように私たち自然界の生き物の父母をずっと辿っていくと、地球や宇宙の先に祖があります。しかしその祖にもまた父母があるのです。

どこまでたどれば父母の元に逢えるのか、その元が分からないから父母の存在は偉大なのです。中江藤樹が父母の恩徳は天よりも高く海よりも深しといいましたが、私なら「父母の恩徳はいのちなり」です。

父母の元とは何か、それは此処に活かされている自分。この自分の中に存在するいのちです。そのいのちの中で、私たちは父母に出会うのです。

もっとも遠大なものは、もっとも卑近にこそあるものです。私たちが気づきもしないところにこそ、真の存在は永遠に生き続けているからです。

いのちの大切さなど教えられるものではありません、いのちは父母そのものですから常に自分の中に存在するということに気づくだけということでしょう。

人間は何かあるとき、父母を辿っていくといいように思います。そこにあるいのちの息吹に触れて目覚めていくように思います。人類史はいよいよ過渡期に入りますから、しっかりと父母の恩徳を意識しながら歩みを強めていきたいと思います。

 

循環の見性

自然に身をおき、自然と共生して農を行う実践をしていると如何に自分から自然に近づき、そして自然と一体になることの有難さを実感します。それと同時に都市に身を置き、人間社会に身をおき人間と協調しながら行う実践もまた有難さを実感します。

しかし都市の方では実感できないものがこの野生の自然の中に存在するものです。

人間は思い通りになることや思い通りにすることが最善のように感じるものです。特に都市の中では人間がルールを定め、そのルールに従って社會を存在させています。目に見えるところがうまく機能していれば、また大多数の人たちが快適であるならばうまくいっていると思わせています。その反面、目には見えないところで様々な不自然を発生させています。

たとえば、先日都内の下水道を見学する機会がありました。その際に、如何に私たちが日々に下水に流すゴミがどのように処理されて海に流されるのかを確認すると、いくら科学が発展したからといっても許容量を超えるものを力技で乗り切ろうとしてもそこにはどうしても不自然があるのだということを実感したのです。ほかにも産業廃棄物の問題も、ゴミ問題もそうですが見たくないものは見せないという都市の中で問題は起きていないようにしてしまうのが都市化ということでしょう。

人間は都合が悪くなると、見なかったことにしたり、見えなくすることで意識にもあがってこないようにするものです。もし下水がなかったなら、川がむき出しですから流している汚物が悪臭を放ったり、川の生き物が死滅して浮いていたならば、怖くて簡単には洗剤や油などを流せるはずはありません。

そもそも生き物はいないということが大前提ですからそうなるのでしょうが、結局は海に出たときにはその処理されたものが流れ出て、ゴミは加工したものを最終的にはどこかに廃棄集積されているのです。

それに比べ、自然界の中には一切の無駄もゴミも発生することはありません。自然の許容量の中で循環し、目に見えるところでその作業がすべて行われます。生き物たちも自分たちの精いっぱいの生活が他の生活を支援することを知っています。

一つ一つのいのちは、自然の循環の中に生きていて等身大でかつ清浄です。たとえ思い通りにいかなくても、それぞれが自然に合わせて野生しているのです。そこにはありのままにあるがままにいても全部丸ごと完全に善いことにしてくれる環境があるのです。

自然界には天敵がいますが、その天敵とは自分さえよければいいという欲のことです。この欲が出てくれば循環から外れますから自らで自らを滅ぼしてしまいます。なので、自然淘汰といって自然の循環に帰るように自らで数を減らしていくものです。そのために、天敵に頼り、身を任せたりもするのです。

人間の天敵も同じく人間ですがその欲を助長するのは、見えなくすることなのでしょう。自然の循環を見えなくすることで、どこかを隠してしまうことで人間は騙されてしまうのです。全部を見通せば自然に帰ることができるのでしょうが、どこかを隠すから不自然になるのです。

言い換えれば「なかったことにする」ということで不自然は広がっていくのです。歴史も然り、環境も然り、生き方も然り、決して誤魔化したり隠したりできないものですから、真実を直視して如何に自らを大いなる自然の循環に合わせていくかでこれからの人類の存続がかかっているように思います。

真理とは誰かに操作されるものではなく、自然体になることを学ぶ中で出てくる単なる形です。

せっかくこれだけのことを遣らせていただいているのだから、人類も成長して方向が大転換する学び直しができないものかと考えています。本当に豊かな社會を人間が調和するならば自然はより明るく緩やかに楽しめるように思います。

教えられることばかりでまだまだ形にできませんが、有難く実践から学び直していきたいと思います。