自然のまま~本質かどうか~

今年は自然農の畑と両親の耕す畑で高菜を栽培してみて、色々な発見がありました。自然農の畑の高菜は、大きくなく小さいものばかりです。もう5年間、無肥料無施肥でやっているものといえば近場の雑草を刈って敷き詰めるくらいです。それに比べて両親の畑は、肥料が残っているので私の高菜の6倍くらいの大きさになっています。実際に農協や農産物直売所では両親の畑の高菜の方が評判がいいはずです。大きくて肉厚な野菜は高く売れます。

しかしよくよく観察してみると、どの辺が異なっているのかということにすぐに気付きます。まず自然農の野菜は、根がとても強く茎がしっかりと強くなかなか収穫するときに簡単に切れません。全体的に小ぶりですが、ほとんど虫がついてなく食べられている形跡もありません。色つやがとても野性的で、収穫してからもなかなか腐りはじめません。高菜などは天日干ししてもすぐには萎れず、元気なままです。売るには大きくて肉厚ではないので価値が低いのですが、食べるには最高です。両親の畑の方は大きさと肉厚さはすごいのですが虫が大量についています。その虫を洗い流すのが一苦労で、これだけの虫を防除しようとすれば農薬を使わないと成り立たないのがすぐにわかります。

実際に大きくしようとすればするほど、大量に肉厚なものを作ろうとすればするほどに肥料が増えていきます。そして肥料が増えていけば虫も増えていきます。虫が増えていくから農薬も増えていくのです。この「大きくする」ということが如何に別の手間を増やしているのかということなのです。しかし大きくする理由はお金になるからです。お金にするために育てるのだから大きくした方が消費は増えるということです。作るときから消費をするために作るのだからエネルギーも使う道具や中身も消費するものを沢山使うことで経済効果が上げているのです。

しかしここで大きくしないと決めるとどうなるか、すると売れなくなります。売れなくなるのを諦めてしまえば消費は落ちていきます。食べていくにもお金がなければ食べていけないのだから食べていくものを作っているのにそれを作ってもお金にならなければ生活していけないという矛盾が発生してしまうのです。私のように兼業農家で行う場合は、自然に食べるものを育ててもそれで収穫して食べて別のことでお金は稼げばいいのですが実際は専業になるとやはり食べるものではなく売れるものを中心につくりはじめるのです。

消費するものか食べるものか、今の時代は消費者が消費するものを求めていますから食べるよりも消費材の方が価値が高く売り買いされていくのです。道具ひとつでも今は修理するよりも買い換えた方が安い時代です。プラスチック製品などは、最初から使い捨てるために大量消費できるように作られています。そもそも道具も使うものではなく消費するもの、食べ物も食べるものではなく消費するものなのです。

自然農は食べるものを作ります。消費にはあまり役に立ちませんが、その分、自然循環する農の暮らしが行え、食べる営みや育てる営み、自然と寄り添い生きていく智慧を学び生き方の方を自然大道に沿っていくことができます。

食べ物をつくることが本来の農であり、消費することが農ではありませんから如何に農を実践するかが自然農の醍醐味になります。美味しい食べものを育て、美味しい食べ物を加工する、そして美味しく食べてもらうこと。

美味しいものを作ることは大きくすることでもなく肉厚にすることでもありません。かえって自然の大きさのままにそれが小さくても自然の姿のままで育てることが美味しいものを作ることです。

この自然のままがいいという価値観は、常に「一体何のためにやるのか」という本質を外すことがありません。本来、人が自然が分かるのはそもそも何のために作るのか、それと深く正対しているから自然のままの意味が自明するのです。

引き続き、本物の漬物作り通し本質的に育てる感性を磨きたいと思います。

 

漬かるということ

昨日、高菜の漬物を二樽分の塩漬けを行いました。この数日間、まず漬かるのを待ってから杉樽へ本漬けするという要領です。漬物の「漬かる」ということがどういうことか、改めて深めておこうと思います。

漬かるというのは、液体にひたるということでもあります。塩をまぶし、塩漬けすることで漬物の組織が浸透圧によって水が出て来ます。この時、塩によってカビや腐敗菌などは除菌されかわって塩に強い乳酸菌が発酵して漬物を円やかにしていくのです。

漬物は乳酸菌のお風呂に漬かることで、カビや腐敗の影響を受けなくなるのです。

言い換えれば漬物は、乳酸菌の餌であり住まいです。乳酸菌は私たちの腸内でも活発に活動しています、私たちの腸内も同じく餌があり住まいになっています。現在科学が進み、腸は第2の脳であるということまで言われています。それくらい腸内の状態は、感情を司り、免疫や生き方にまで影響を与えるという研究結果が出てきているからです。

その腸内のバランスを維持していくということが健康におおきな影響を与えます。漬物を実践してみてわかるのは、決して人間に有用なだけの微生物だけではなく同時に悪玉菌といった人間に都合が悪いのも同時に増えていきます。

漬物を漬ける人は、塩梅を確かめ発酵菌が優位になるように塩加減や漬かり加減を調整し続けなければなりません。ここに昔からの智慧があり、漬物を漬けるコツがあるのです。

おいしくて栄養価があり保存性がある漬物は、かつては縄文時代から海水に漬け込むことで発明されたのではないかとも言われます。その後は、ウリや青菜を塩漬けし大陸から味噌や酒が入り、室町には香の物と呼ばれあらゆる漬物が出て来ます。江戸時代には各家庭で様々な漬物をつくられました。

これらの漬物は、お米を主食に私たちにはとても重宝されお米で不足する栄養価はほとんど漬物で補ったほどです。保存が効き、栄養価があり、微生物を摂取でき、美味しくご飯が進む漬物は私たち日本人には切っても切れぬほどの関係です。

今のように食生活が西洋化していく中で、次第に漬物も遠ざかってきています。本来、先祖たちが何を食べてきたか、それを食歴といいますがそれが大きく変化して体調も変化してきていますが先祖代々自分たちのカラダを守ってきた漬物の智慧が失われていくのはとても残念に思います。

先祖たちの食歴、智慧を譲り遺していくためにもその風土にあった漬物を遺していきたいと思います。不思議ですが樽や甕に住み着いた微生物たちは先祖たちのカラダを潤した先祖たちそのものです。時代を超えても、漬かっているものは先祖の温かい見守りそのものかもしれません。

漬物から原点回帰し、もう一度先祖たちの真心に漬かってみたいと思います。

 

囲炉裏の場~火を守り続ける~

朝から炭を熾し、囲炉裏で鉄瓶の一杯の御茶を呑むのはとても仕合せな時間です。囲炉裏のある暮らしというのは、温もりのある生活です。この日本の囲炉裏にはとても不思議なチカラがあります。

縄文時代より家の中心には囲炉裏が設置され、暮らしの中心は火と共に行われました。囲炉裏が真ん中にあると、冬は暖かく夏はカラッとしたと言います。灰や炭が防虫効果や病気が入ってこないこともあり、火の神様は一家の守り神として大切に日々に接してきたと言います。

その後、日本家屋は「土間」、「居間」、「座敷」の3つの空間に分かれました。「土間」は出入り口とつながった空間で農作業をする場所、「座敷」は人を招きおもてなしをする場所、そして、寝起き、炊事、団欒などの生活の場所として「居間」と分かれます。

得に囲炉裏はは火の神の祭り場であり、火の神は家を守る神でしたから家の中では最も神聖な場所に設置されました。そしてそこに足を踏み入れたり、穢れたものをくべることは禁じられたほど神聖な場所でした。それだけ火は、私たちの先祖が大事に信仰してきた家の守り神であり、一年中、神棚に火を祭ることで暮らしが継続できたとも言えます。

以前、石川県で「火様」という風習が残っているのを聴いたことがあります。これは毎朝、小枝をくべ炎がおさまると灰をかぶせ手を合わせて祈る。これを300年も継承されていると言います。

これはまさに原始の心、火の神様を祀り奉るための神事であることが分かります。

今では当たり前になっていますが、この「火」が絶えないことが家が絶えないことであり、囲炉裏を中心に家族が団欒して集い暮らしが存続できたことの御蔭様が火の神様であったということでしょう。火の神様がいらっしゃる神聖な場所、そこが「囲炉裏」であったのです。

囲炉裏は家の魂とも言えます。

家の中に囲炉裏があるということは、そこに一家の魂が宿っているということです。その一家の魂が常に火がともし続けられ、その火を守り続けるということは家運を守り続けるという家主の実践の一つだったのです。

囲炉裏を大切にするということは、その家の暮らしを大切にするということですから温もりを絶やさずに神聖な場所を守り続けたことで囲炉裏と共に代々が続いていくのだという歴史の歩み方を伝承しています。

最後に「永遠の燈火」として800年間火を絶やしていない千葉家の家訓で締めくくります。「いろり火の焚火はな、先祖が焚きつけた火じゃで、消すことはならんぞよ。代々伝えてくりょ。なんとしてでも、山があるもんやで火を絶やさずやってくり」とあります。

そして火はこうやって残すのだという心得を続けて語ります。

「いろり火を絶やさないコツは、朝起きたら、夕べの火種を掘り起こして、火をおこし『おき火』をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて、その上から十能一杯分の籾殻をふりかえておきます。そうすると夕方まで火が残る。十三時間くらいは大丈夫。夕方は、朝と同じように火をおこして同じことを繰り返します。かつては薪も山の木を割ってくべていました。今は、若い者の仕事が忙しいので、買った薪を使うこともあります。火を守り続けて感じるのは、昔は、簡単に火をつけることができなかったので、大切にしたんやないかということです。今は、火を守る必要がないと思われるかもしれませんが、先祖からの火なので尊く感じられて…。先祖あっての自分ですから。この家には家族五人が暮らしています。家のものは、先祖からの言い伝えをただ大切に守っています」

・・・先祖からの火なので尊く感じられて・・・。

火が絶えないということは、先祖からずっと火を守り続けてきたということです。囲炉裏は火が絶えない場所なのです。囲炉裏が今もあることで、私たちの暮らしは復活していきます。

引き続き、子どもたちに伝承したい暮らしを味わっていきたいと思います。

 

 

 

自然循環の力

冬が終わりに近づいてくると、冬に水をはった田んぼでは新しいいのちが準備に入っています。オタマジャクシをはじめ、イトミミズや蜘蛛などの小さな小虫、その他、水の中には何らかの卵がたくさん泳いでいます。

秋の収穫が終わっても、水のめぐりを止めなければ生態系の循環は冬の間も行われます。生物多様性は、自然循環と共に行われますから自然循環の邪魔を如何に行わないかで多様性はより豊かになるとも言えます。

農薬も肥料も蒔かずに稲を育てている田んぼは、年々、そこで暮らしていく仲間たちの姿も変化してきます。4年目くらいからはよく見かける草草、5年目くらいには定着しているカニワナや沢蟹たち、上手に周りの生き物たちと共生をはじめています。

生物多様性をみていたら、一つ一つの生き物たちがそれぞれに関係を結び近くて生きていることに驚きます。あの生き物がいるということは、近くにこの生き物がいるはずと一つ一つを結んでいたらまるでどこかから集団移動してきたのではないかと思えるほどに無数の生き物たちのムラが出来ています。

土の中も一握りの土に地球の人口以上の微生物が棲んでいて、場所場所によってはその微生物の種類も分布も異なりますから数年でここまで変化してしまうのをみると如何に自然の循環の力が偉大かが分かります。

人間がその土地を改良するために様々な薬や肥料を散布してもここまでの変化は創りだすことができません。自然の持つ循環力は、あるがままそのままにしておくだけで発揮されています。むしろ邪魔をしないでいることがもっとも自然の循環力を引き出しているとも言えます。

この邪魔をしないというのは、余計なものを足したり耕したり、持ち込まなさい持ち出さないということですが言い換えれば自然のままにしておくということです。しかし何もしないで自然のままなら作物が育ちませんから、人の手を入れることも自然の一部として自然にしてしまうのです。それは自分の作物を育てるのに、周りを排除するのではなく「一緒に」育てていこうとするのに似ています。

自分だけがよければいいという考え方はとても利己的で自然ではありません。循環というのは利他的であれば、相手も自分も、また皆が善いのがいいと考える発想です。これは「三方よし」とも言いますが、みんなが倖せになるためにどうすればいいかを考え最善を盡していくのです。

自然循環はいつも全体を最適になる様に動いていますから、全体が最適になっていると思うことがまず循環の力を邪魔しなくなるための第一歩になると思います。そのままでいい、このままがいいと丸ごと認めてからその上で全体が最適化するのを見守っていくのが一つの方法論かもしれません。

今年の自然農園の田んぼも、いよいよ苗を植えるまでの準備と手入れの時機に入りました。小さな生き物たちが土を柔らかくしてくれて、冬の草草の根が土の中にたくさんの空洞をつくってくれています。ここに苗が移植されていきますが、循環のタイミングをみてはお引越しです。

また今年の循環を観察し、自然がどう変化しているのかを味わってみたいと思います。

 

 

八十八

春が訪れ、いよいよこれからお米の苗作りの季節に入ります。毎年この時期がとても待ち遠しく、今年も一緒にお米と季節の廻りが学び合えること、見守りを味わえることに仕合せを感じます。

お米というものは八十八の手間暇がかかると書いて「米」と書きます。この手間暇は意識していなくても自然に手間暇をかけています。こういう時間が何よりの味わいであり、自然農はさらにその手間暇を手作業で味わい盡すことができる豊かな農です。

以前、熊本県人吉にある国宝青井阿蘇神社に参拝したことがあります。そこの大神宮拝殿の入口付近に下記のように書かれてあったのを覚えています。

「わたし達の主食であるお米は、天照大御神からいただいたものといわれています。その「米」という文字は、「八十八」、つまり88の手間をかけ大切に育てるという意味です。太陽・星・月の光を受け、大自然の恵みとしては雨水をいただき、風で害虫を防ぐ、稲妻の光で稲の実が膨らみ、わたし達の命の根(イのちのネ)、命の根源となります。お米は撒けば1粒が万倍にもなります。これは自分1人だけでなく、他人の分までも賄えるという神道における調和と共存共栄の思想です。平らかに【平】、禾(イネ)をを口にする【和】。神様からの賜りものを平均して皆がいただける状態を「平和」というのです。」

とても素晴らしい文章で、古来よりお米が神道の行事、また儀式や祭礼として私たちの生活に密接につながっているのを感じます。昨年は島根で注連縄づくりも実践するご縁をいただきましたが、お米の持つ神聖神秘的なもの、その稲神様が寄り添って暮らしてくださっていると実感することは私たち民族が何を初心に生きていけばいいかを忘れさせないための工夫にもなっています。

八十八の神様宿るお米だからこそ、八十八のお世話をつとめさせていただけるという仕合せ。御米作りの有難さというのは、いのちのねが育つ歓びでもあります。

すでに自然農園の山の湧き水のたまりに10日前に設置してきた昨年のお米の種籾から新芽が出てきていました。これから苗床を用意していよいよ6年目の実践がはじまります。さらに今年は、一昨年前に川口さんにいただいた古代米にも挑戦し、また苗場も使い分けて取り組みます。

子ども達のためにとはじめたものですが、田畑から数多くの見守りをいただき確実に八十八がしみ込み浸透してきています。また青井阿蘇神社にはこう書かれていました。

「お米を炊き食事をつくる場所を台所と言います。これは母親が幼い子どもの食べ物の有難さや、大切さ、事の善悪を教えるなど、人間の生き方の基礎となるべき土台を形成する場所だったからだとも言われます。全国の神社で五穀豊穣を「祈願」するのが2月17日の祈年祭で、「感謝」するときが11月23日の新嘗祭です」

愉しみはいつも道の中にあります、道縁無窮です。

今年も御米に携われることに深く感謝して、丹精を籠めて丁寧に学び直してしていきたいと思います。

 

 

 

 

忍耐力

ベランダに実生のクスノキとイチョウが育っています。ちょうど3年目に入りますが、また春に合わせてそれぞれ蕾をつけて準備をしています。クスノキについては、沢山の葉をつけたままに冬の寒さを耐えて乗り越えました。イチョウについては葉を落とし、枝だけになった姿で春の来るのを待っています。

同じ冬を乗り越えるといっても、木々によって乗り越えて方が異なります。常葉広葉樹であるクスノキは、常に光合成を維持するために葉を広げ続けます。光合成ができなくなった葉は落とし、まだできるものは残しています。常に光合成をし続けることで生き続ける太陽の光を一年中浴びて成長し続ける戦略とも言えます。

またイチョウは分類は針葉樹になるのですが落葉します。冬に一斉に葉を落とした後は、枝ぶりのままに今まで蓄えた養分をしっかりと守り春が来るのを待つ戦略です。

どちらの木々も冬を乗り越えるために智慧を働かせるのですが、タイプの異なる木々を一冬観察してみたらそれぞれの持ち味があり、それぞれの乗り越え方が合っていいと安心する気持ちになります。

冬はどんな生き物にも到来するものです。その冬の乗り越え方は、決して一つではなく有る生き物は土中に潜り冬眠し、有る生き物は木の皮に隠れて身を寄せ合ってじっと固まり、またある生き物は人間の住む屋内に入り込み春を待ちます。鳥などは街に降りてきて南天の実や庭のあちこちで越冬したり、渡り鳥になって暖かいところへと移動しているものもあります。

冬は私たちに忍耐を教えてくださいます。これはどの生き物たちも自然に忍耐を学んでいるのを感じるからそう覚えます。この忍耐というものが如何に人生において重要なものか、冬がなければ私たちは忍耐の妙味を味わうこともないのかもしれません。

二宮尊徳に「小にして忍耐せざる者、長じて速やかに亡ぶ。 桃李これなり。小にして忍耐する者、長じて久しく存す。楠樫これなり。人あるいは幼にして学を勉め、長じて身を立て、死して名を存す。またあるいは幼にして遊惰、長じて家を失い、死して名無し。これ忍耐と不忍耐とに由るなり。人よろしく桃李を見てもって戒慎し、楠樫を見てもって発憤すべし。」があります。

桃李や楠樫のようにしっかりと忍耐するもののみ長じてのちの大樹となり杜を形成し生き物たちの父母となる。もしも忍耐を怠り、怠惰に流されれば大成することがないということです。

焦らずじっくりという言葉は、自然界の持つ忍耐力の側面です。

理念や初心から決して目を反らさず今に戒慎し、今を発憤して実践を強めていきたいと思います。

 

理屈よりも大河の一滴

3月も中旬を過ぎ、いよいよ自然農での今年の高菜の収穫と稲作の準備に入ります。自然に取り組むとき、そこに理屈は通用しません。単なる本や文字で書かれていることは何の役にも立ちません。実際に役に立つのは、誠実さと真心、後は実践と実行のみです。

そこから人の道も同じく、単なる本や文字で書かれていることも何の意味もありません。言葉遊びばかりしていても、人の世がよくなることはありません。理屈でああすればいいとかこうすればいいとか言いたいことをいう人は沢山いますがそれも何も変わりません。やはりここでも実際に役に立つのは、至誠と実行のみです。

いくら聖賢の学問を学んだとしても、それを実行する方法を持っていないのならそれはやらないとの同じです。いくら学術的な知識を貯め込んでいたとしても、使えないものならそれもないのと同じです。

しかし今の時代は、具体的なものよりも形式的なものや理屈的なものばかりが評価され実際に地味に実践している人たちのことはあまり評価されることはありません。すごいことを知っていて周りから評価されている有名人は沢山いますが、実際に実践を積み重ねて世の中を変えている人のことはあまり有名ではありません。それだけ理屈ではない方はあまりにも地味すぎてこれくらいでは何も変わらないように目に映るのでしょう。

頭というのは思い通りに事が進むと勘違いしているものです。しかし頭で考えたようにみえてその実は現実に無理やり頭を合わせているだけでその通りにいくことはないのです。実際は理屈では物事はうごいたためしなどなく、全て至誠と実行でのみ動くのです。それが自然だからです。

自然というものを相手にするとき、こちらが具体的に動いた分だけしかカタチになることはありません。例えば、自然農においてもいくら理屈であれこれと対策を立てたとしても、実際には田畑に出て見回り、声をかけ、時折草刈りをし、時折虫たちや土の様子を見て、あとはその時々の状況を真心を籠めて寄り添っていくことで作物は無事に収穫ができます。そしてまた翌年に向けて、蒔き時から収穫時期、それまでに気づいた改善をすぐに実行して直すだけです。

いくら農業知識があったとしても、至誠と実行なくしてはそれは役に立ちません。至誠と実行は、真心をカタチにする具体的な実践のことです。実践を已めるということは学者になるということです。二宮尊徳は言います「茄子が先に出来たか字が先か」と。また「豆という字を書いてみよ、お前の豆は馬もくわん。俺の豆は馬もくう」と。理屈で文字遊びをしているような学問に興味は一切なく、実際の世の中を変革しようとするのなら行動をしたのです。

分かった気になると人は学問をした気になります。分かった気にならないようにするには一つ気づけばすぐにそれを行動することです。行動によって気づいたことが実践となり、実践となったことで世の中が一つ変わります。

自分の日々の小さな実践は所詮、大海の大河の一滴にもならないものであったとしても世の中を憂うのなら諦めきれないのが真心のように思います。真心を優先した一日を状況に左右されずに過ごしていきたいと思います。

気力体力

人間には気力と体力というものがあります。この2つの力をもって活発的に活動しているのが人間だとも言えます。この気力と体力はどのような定義になっているのか、少し深めてみます。

まず気力とは辞書には「物事をなしとげようとする精神の力。また、元気。精力。困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り。気合。」とあります。そして体力とは「ある仕事が行えるか否か、または病気に耐えるか否かという、身体の強さ。労働や運動に耐える身体の力。また、病気に対する抵抗力。」とあります。

気は気持ちの部分が強いのに対し、体は行動する部分が強いように思います。この2つがバランスよく働くとき、気力体力が充実して物事は成就していくように思います。私の場合は気力が強い方でそれに体力が着いてくる感じですが、体力がなくなってくるとどうしても気力が回復しなくなってきます。体力が気力を支えますから体調を崩し病気になるとどうしても気力が減退します。

こういう時は、体力の回復を優先しまた気力が充実してくるのを待つしかありません。体力の維持のためには、規則正しい生活や、規則正しい食事、適度な運動があります。日頃から下支えしてくださっている体力に対してどれだけ感謝し配慮していくかが体力維持には大切なことです。

病気になってしまったなら、静かに体力の回復に努めることです。体力が回復することで病気も平癒します。子ども達の為にも、日常の生活を観直していきたいと思います。

天災と人災

天災と人災というものは異なるものです。天災は地球規模の災害であり、大地震から大津波、大竜巻に大台風、大寒波に火山の大噴火、熱波から隕石の落下まで毎回、私たちの想定を確実に上回る災害が天災でもあります。

それに対して人災というのは、想定内で起きる人的災害のことです。原発事故や工場火災、水道管の破裂に地下鉄事故、交通事故や停電、風評などこれらは人災でありすべてそれは事前に備えることができるものばかりです。

この天災と人災と混同している人が増えてきているように思います。一般的にビル管理などで行う災害訓練は人災対策です。これは日頃から訓練しておかなければ「人災」が起きてしまうということから行われる訓練です。本来、運よく最初の天災から逃れられたとしてせっかく助かったいのちを人災によって失うのを未然に防ぐための訓練のことです。

人災とは人道のことで、人の道は日々の平常時の訓練を怠るなということで人災が発生しなくなるようにするのが人の道です。二宮尊徳が、「人道は一日怠ればたちまち廃れる」という言葉があります。そもそも一日怠ることが平気な人がいくら人災の訓練をしたとてそれはもう廃れているのだからひょっとしたらしない方が他に影響を与えない分ましかもしれません。日々に防災のチェックをしたり、日々に備品の管理をしたり、大事なのは人の道は「一日も怠らない」ということで人災は防げるのです。かつて二宮尊徳が何度も天災に対して人道を盡して飢饉や飢餓を救ったり、水害を防いだり、沢山の人命を救助できたのもまた二宮尊徳が「一日も怠らない実践者」であったからであり、その徳恵によって仲間や家族が救われたのです。その遺徳は今でも人災対策の鑑です。

それに対して天災はどうかということです。

天災は時の運です。この天運というのものは、不思議なもので例えばちょうど地震の時に出張で遠くにいたり、津波の時にそこに近づいてしまったりします。自然界に生きている生き物たちは台風が来る前にはみんな避難していると言います。メダカなども流されないように石を呑みこんで深く潜っているといいます。鳥や野生の動物は、事前に天災を察知して避難していのちを守ります。

これは野生の勘とも言えるものです。自然から離れず、自然により沿っていきている生き物たちは自然の観察に長けています。それは固定概念に縛られず、危機意識を怠らず、自分のいのちを最優先に守り、自然への畏敬を忘れず、ピンチの時こそ野生の勘が働いているから助かるのです。

これを運が善いとも言います。この運とは、天運に対して自分の運を合わせていくということです。日頃から自然を畏敬し運が悪くならないような生き方をすることで、救われます。たとえば謙虚さや素直さを持っている人は、なぜか人のアドバイスや周りの見守り、環境の組み合わせによっていのちが長らえます。

これは日々の生き方が天道に逆らわない、昔の言い方をするのなら「お天道さまに恥じない」生き方、つまり正直に謙虚に素直に己に打ち克って初心理念を優先して生きているからです。お天道さまがいつも守ってくださるのはその人が「正直」だからです。そして正直が守られるのは天運に沿っているからです。これは会社経営も然り、生き方も然り、本来の日本人は環境の変化、天災が世界一多い国だからこそ先祖代々、「正直こそ無敵」であると、お天道様を信じて取り組んできたのです。そしてこれらの努力こそが、人道の極みとも言えます。

いくら体調を崩してこのブログを已めないのは、それが人道であるからです。一日怠ればたちまち廃れるからこそ、天理に沿って人道を重んじるのです。人道を怠らないことが己に打ち克ち天道に従うことになります。

引き続き、子ども達のお手本になるように日々の生き方の方を平常心・平常時の方を大事に実践を積み重ねていきたいと思います。

自然淘汰

世の中にはあらゆる伝染病があります。かつて人類は何度もその伝染病に感染し多くの人たちがいのちを失いました。感染症が他人にうつらない病気に対し、伝染病は人から人へ、動物から人へと感染します。

最近では、エボラ出血熱やSARS、ジカ熱など致死率の高い伝染病がでてきています。そもそも人間に有害なウイルスや微生物は、太古の時代から存在していました。人間には、人間に有用で効果のあるウイルスや微生物もあります。ワクチンやその他、幼い頃に感染する水疱瘡やおたふく風邪などもある意味で有用なのかもしれません。

実際に有害なウイルスは人間に有害なだけで自然界では必要なウイルスとも言えます。例えば、腐敗菌や悪玉菌、その他のウイルスも自然淘汰するのに必要なものとも言えます。この自然淘汰は、人間の都合でみれば悪いことのように感じますが自然が淘汰してくれるのだからもっとも長い将来に向けて効果的だとも言えます。

自然はつねに長いスパンで循環していますから、その中で強く逞しくするために淘汰するのです。この淘汰については、自然は篩にかけるということです。私たちの先祖たちも昔は篩という道具があり、身近な自然を感じていました。自然淘汰は、この篩に似ています。

何を遺しておけばいいか、何を淘汰しておけばいいか、自然はそれを自ら判別するのです。私たちは自然の篩にかけられて子々孫々を繋いできた生き物とも言えます。今の時代のように自然淘汰をコントロールすることで、果たしてどうなってしまうのか、心配でもあります。

半分は自然に寄り添い、半分は文明を発展させていくことが素直に謙虚に生きることかもしれません。人は病気で苦しいからこそ、自然の仕組みが観えてきます。自然の仕組みを深めてみようと思います。